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【よろく】福島泰蔵碑を思うーその二 建碑にかかわる立見師団長の思い [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー建碑に込めた思い]

二つ、立見師団長の思い、を思う

始めに

建碑除幕当日の写真(写真下)、満開の桜の下、賑々しい光景に沢山の人の熱意が伝わる。当日は平塚村うちの小学校は休みとなったと聞く。

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平成23年7月5日 福島国治氏宅を倉永氏と共に訪れた際、親族揃っての遺品確認等のすべてが終わり一息ついたところで国治氏が福島家宝と上書きのある箱(写真下)を蔵から出してこられた。私は早速拝見した。中には「福島泰蔵建碑の動起及び経過の大略(以下動起)」と「福島泰蔵 建碑経過録 高木(以下経過録)」の二つがあった。

修親投稿の『予想外を訪ねてシリーズ』以降、建碑の経緯や建碑の思いをつないだ中心人物は誰か?が私の中心テーマであった。平成22年2月20日福島家訪問時、お集まりの方々に私の記事が載った雑誌「修親」をお贈りした。それを見て何か役立ててと栗原貞夫(福島大尉の妹五女とくが嫁した歌三郎の長男愛太郎の長男、つまりとくの孫)氏から倉永氏経由で資料を送って頂いた。その中に動起(コピー)があった。動起は昭和7年4月10日の除幕式での遺族・親族代表高木 昌の挨拶草稿であった。それには弟甚八から高木昌(福島大尉の妹六女むつの婿)へと思いを繋いだ経過の大略が記してあった。それを元に、修親(平成22年9月月号の『続福島大尉の強さを訪ねて 『福島泰蔵建碑ノ動起及経過の大略』を思う・・』で中心人物はを立見師団長、弟甚八そして高木昌であったと書いた。この記事が国治氏の目に留まり呈示につながった、と思っている。それにしても経過録は全くの初見であった。経過録は建碑に関わる関係者の発意、中断、再興そして建碑当日に至る詳細な動きや書簡等の記録であった。

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その経過録(写真下)を見て、碑が出来たのは昭和7年4月10日、立見大将がなくなったのは明治40年3月6日。撰文は本当に生前書き上げてあったのであろうか?についての疑問が氷解し、関係者の関わりがはっきりした。

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①間違いなく立見師団長が生前書き上げた撰文であった。
②建碑にかかわる関係者の役割ー福島大尉に対する思いの強さがわかった。

一つ目、立見師団長撰文について

私は碑文は陸軍、軍人の実態がわかり、本人を良く知る人でないとかけない。その表現方法を含め、立見師団長以外にはあり得ない、と思っていた。動起には三回忌の明治40年撰文が出来ておりましてこの時その意志がありましたが其の儘となりました、とありほぼ間違いないと確信した。しかし福島大尉戦死(明治38年1月28日)後、ズットと戦地にあって明治39年3月弘前凱旋、その後体調を崩した立見師団長の関与の程度は如何なものか、という疑問が私の心の片隅で、ほんの隅っこだが、湧いてくるのを消せない、迷いみたいなものがあった。以下の二点がそんな迷いを吹き払ってくれたのだ。

明治45年中秋ごろ、(渡邉克太郎)からの手紙を)甚八から見せられ、撰文の所在を承知していた高木昌は、甚八没後、息子勉の稲垣中将訪問(昭和6年9月12日)後、建碑準備を加速する中で、それが本当に誰の筆になるのかを調査した。成田寅之助の返信(10月27日付)及び渡邉克太郎(11月13日付)の書簡から立見師団長であると確認。同時に渡邉の碑文を金井之恭(金井先生)名義とする約束(11月20日付成田から高木への書信)であった事も分った。

昭和6年12月13日、高木昌が鈴木大将宅を訪問した時、以下のやり取りがあった。
「閣下は立見将軍の撰文を否定なされ色々実証を挙げられ立見将軍の伝記中の一節を対照、文の骨格気概の異差を述べらる」。

これに対し「午前(この日午前(註葉山の渡辺宅訪問)渡邉先生より拝聴せる立見将軍の御添削の箇所を申上げ更に渡邉、成田氏よりの書簡を順次に御目にかけ漸く了解」とある。

以上から撰文は立見が概案を示し渡邉が作ったか渡邉の書に立見が手を入れたか或いはその両方で作られた、と思われる。

二つ目、立見師団長の思い

立見師団長は福島大尉を弘前中隊長着任から山形中隊長での戦死までの6年3ヶ月、手の届くところに置き続け、手放さなかった。二人は大陸での対露冬季戦に備えた冬季行動標準作りが第八師団の義務であり、急務との使命意識を共有した。福島は一連の厳しい実験行軍や演習を自ら発意・挑戦して、前人未到の成果を上げるとともに一名の犠牲者も出さない働きをした。その先駆け活動は八師団全部に波及してレベルを上げ、師団長の狙いに沿っていた。実施報告や論文でも真に知的レベルの高い作業で全軍のレベル引き上げに貢献した。露軍10万奇襲でたちまち窮地に陥った黒溝台会戦。せめぎあい(根競べ)の中、臨時立見軍の”全滅を期しての”総攻撃転移に際し、最後まで温存された総予備中隊長として、戦線投入直後1時間で棄命を率先躬行、全軍に勢いをつけた。

戦死の地に立ち、その忠義心は讃えるべし、将才惜しむべし、詩才並びに風流の心愛すべし。碑に刻み、永久に顕彰すべし と強く思った、に違いない。

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註 轁(とう)略驚鬼の最後の節の「多」は「名」の誤り。

この撰文の中で特に目を引くところが五ヶ所ある。棄命、忠勇義烈、進栄退辱、雪中行軍両次、未会傷一人である。
立見師団長にとって一番強く印象つけられている福島大尉の生き様は『棄命、忠勇義烈』である。従って碑文冒頭。黒溝台会戦での総予備中隊長福島大尉は棄命を率先躬行した。その覚悟を表す訓示が『進栄退辱』、前夜の自分の檄(全滅を賭して黒溝台を取り返せ)に真っ先に応えんとした言葉でもある。岩木山で概成し、八甲田山で仕上げた雪中行軍を意味する『両次』。その両次行軍で厳しい状況への挑戦と事故無しを讃え、その一方で第五連隊210名全員遭難を心底悔やむ『未会傷一人』。福島大尉を悼む思いは強い。

終わりに

(甚八の依頼というか相談に対し)甚八に建碑すべしを伝え、後押しすると共に、撰文を約した。福島大尉の轁(とう)略余音(新田祠畔吾名を記せ、前稿参照)に対し、轁(とう)略驚鬼で応え撰文の後を締めくくった。こういうのを”風流”と言うのであろうか・・・。

轁(とう)略驚鬼

新田之郷古出忠臣【新田之郷、古(いにしえ)より忠臣出(い)ず】流風尚在又見斯人【流風尚在り、又斯人(このひと)を見よ】轁(とう)略驚鬼叱咤捲雲【轁(とう)略鬼を驚かし、叱咤雲を捲く】義比山岳命付風塵【義を山岳に比し、命を風塵に付す】違芳千歳名勒貞珉【違芳千歳、名を貞珉(ていみん)に勒(おさ)む】

流風=遺風、轁略=兵略、風塵=風に吹き飛ばされる塵のように軽い形容、貞珉=石碑に用いられる美石

風流の心、言い得て妙の表現に感服!後ほど述べるが、黒溝台会戦で、福島大尉が最後を「士は己を知る者のために死す」とばかりに鬼神と化した心境、その心境が手に取るように分っていた立見師団長の心境。両者の心の通い合いの強さも伝わってくる・・・。

この稿終わり
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