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阿弖流為・母礼の法要(於:清水寺)に立ち会って

 征夷大将軍坂上田村麻呂は延歴20年の征夷で平定した胆沢の安定を図るため、延歴21年(802)1月胆沢城造営に派遣された。この年4月蝦夷の大墓公阿弖流為・盤具母礼が500余名を率いて投降してきた。7月田村麻呂は投降者を伴い上京した。8月田村麻呂首謀者二人の助命を請うも容れられず。

 阿弖流為・盤具母礼はなぜ田村麻呂(個人)に投降したのであろうか。鍵は彼らが投降する際500人が従ったこと。田村麻呂が京まで同行し、二人の助命を請うたこと、にある。根拠地を追われ、損害も累積して、じり貧に追い込まれ、加えて胆沢の柵も出来、盤石の形が出来上がることが確実で最早これまでと思ったに違いない。そういう投降であるにしても、何故田村麻呂(個人)かの疑問は残る。そういう意図はなくたまたま、だったのか。ではないだろう。二人には500人を助け、後を託したい、という思いがあり、後を託せるのは良く戦って負けた田村麻呂(しかいない)と考えたに違いない。さらにこの戦いの間に命を落とした蝦夷の仲間達の無念の思いや自分たちが愛し暮らした陸奥の永遠の発展への思いを残る500人に託そうと考えたに違いない。何らかの形で坂上の祖が帰化人であり、長い苦労の末、今は融合して、武で国家の一角を占めている、ということも知り、すべてを田村麻呂に託すことで、数百年後の自分たちの姿、を夢見たに違いない。田村麻呂はそこを良く察する明智があり、蝦夷の痛みが分かっていた。だから京へ同行し、助命を請うたのだ、と思う。公家政治家(文官)は大和の人たちの損害の多さ、という憎しみに駆られ斬首しなければ命を落とした大和人が浮かばれない、見せしめと考えただろう。しかし田村麻呂はその思いも重々分かった上で、良く戦った相手に対する武人としての敬意があり、まだまだ不信の反復の芽は残っているので、その力量は生かして陸奥・出羽国や日本国全体の融合安定のため活かすと共に俘囚として全国各地に生きるであろう500人のこれからを見届けさせたい、と考えたに違いない。そこには情に流された、でもなく良く見せるパフォ-マンスでもない人としてそして統べる武人としての真心以外には何物も無かった、であろう。歎願に拘わらず、二人は処刑されてしまう。ならば田村麻呂は自分が弔う、自分が建てた私寺の清水寺で、と。この時代に唯一私寺を認められ、国家鎮護の勅も得て(た)清水寺でまつろわなかった民の融合を心底祈る、と誓った、に違いない・・。漸く私は思い到るというか何故田村麻呂か、の答えに行き着いた思いがした。
 10月初旬、資料の無さに困った私は清水寺の担当部門の方に田村麻呂の戦死者の弔いの記録の有無等について尋ねた(電話、名前は名乗らず聞かずじまい)ところ、度重なる火災で資料は皆無とお聞きした。ただ11月9日11時から阿弖流為・盤具母礼の慰霊祭が同寺で行われるということをお聞きした。たまたま前日の8日は大坂市内北区のザシンフォニーホールでの海道東征のコンサートを聴きに出かける予定であったので、奇縁に背中を押されるまま、京都まで足を伸ばし、その場に浸り五感を働かせて、何故田村麻呂(個人)か、の答えの肝を見つけたい、と思った。
 11月9日、早めに行こうと9時前に同寺についた私は、仁王門付近で準備中の関西アテルイ・モレの会という法被を着た人達が居られたので、お声を掛けたところ、会長の和賀亮太郎氏を紹介された。本日の建碑25周年記念法要を主催されている旨と学芸員の(清水寺の)さかい氏から、九州からお見えになる方が居ると聞いていた、と本日の立ち合いを了解し、線香も挙げてくださいとお話し頂いた。私は望外の扱いに感謝すると共にご連絡の労をいただいたさかい様にも心から感謝の思いで一杯になった。
 同会は岩手県人を主に趣旨に賛同する方で構成されており本日は岩手県の方からも同地のアテルイを顕彰する会や奥州市長さん始め多くの関係者が参加し、総勢200名はゆうに超える盛況であった。9時から西門下広場で、京都鬼剣舞の奉納、11時から、阿弖流為・母礼慰霊碑前の法要で、森清範貫主の読経に続き参列者全員での焼香、12時から大講堂円通殿での追善供養で(森貫主の)読経と焼香、法話と続いた。

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 この中に混じって、読経を聞き、焼香をさせて頂き、会員の方々に話を伺わせて頂いた。阿弖流為・母礼や5百名の方の子孫やゆかりの方がおられたら言い伝えなどお聞きしたいという期待は見事に外れたが、この雰囲気に浸り、皆様が田村麻呂を敬慕し、阿弖流為・母礼の魂が清水寺で鎮まって、今の日本に完全に融け込んでしまっていると強く感じた。また阿弖流為・母礼が託した思いや田村麻呂が二人の死を弔った時に誓ったであろう思いが叶えられている気がした。そして森貫主がご法話で京都ホテルの壁画について触れられ、その絵には田村麻呂と賢心が音羽の滝で出会い、賢心に観音様の教えを説かれた田村麻呂が大悲大慈の心に目覚めた様子が描かれている、という件を聞くに到り、瞬時に本日この場に出かけてきた答えの肝を得た。私はこの大悲大慈の心とは武人田村麻呂と阿弖流為母礼が好むと好まざるに関わらず戦わざるを得なかったという悲しみや阿弖流為・母礼が敗れたという悲しみ更には武人の務めとして人を殺めなければならないという悲しみに向き合い、だからこそ、田村麻呂が自他を慈み手を差し伸べる心を指していると思った。この心こそ武人田村麻呂の敵将阿弖流為・母礼の痛みを自分の痛みと感じる心である、と得心した。武人にとって信仰心とは如何なるものか、を説く知識は持ちあわせてない。それは基本的に個々人の心の在りようだと思うが、こと武人として生きるという見地からは統べる者の奥深さを形成する心の奥まったひだのような気がする。出かけてこなければ、そしてご厚意に与からなかったら、このお話に巡り合えなかった。何故田村麻呂かは武人坂上田村麻呂旅の最後の難問であった。これを以て旅は山を越えた。やっとなぜ今田村麻呂旅かの説明をする余裕が出てきた。それはそのうち、稿を改めて述べたい。

この稿終り

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