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福島大尉の実行力を訪ねて-福島大尉のなした事Ⅱ ブログトップ

熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその五 初級士官時代の総括 [福島大尉の実行力を訪ねて-福島大尉のなした事Ⅱ]

初級士官時代の総括ー塾者へ繋がったものを拾う

一つ、目指したもの

忠孝両全を最高の価値としていた福島少尉は任官に当たり、忠君報国の為、一廉の或いは事を為す士官になる、を誓った。高い志とそれに向かう目標として、「陸軍内で名を知られる男になる」、「野外要務令綱領体現の第1人者になる」の二つ、を掲げ努力を続けた。

二つ、研鑽の在り様

福島尉官が指揮者としての力を着けて行く過程で、3つの注目すべき点がある。①自分の考えを持ち、それを貫こうとする頑固さ、である。上官の厳しい指導を受けても妥協しない強さは出世と云う点では相応しくないかもしれないが、事を為す資質と云う点では伸び代を感じさせる。②大言壮語は良くないとちじ困らず逆に強く言い切れるよう、力を着ける、と腹を決めてその為の研鑽を本気で行なう。③その研鑽はすべて、正攻法である。その基本は必要と考える資料(参考書等)はすべて読破し、課題の本質(原則)を明らかにするところからスタートする。どの課題でもその姿勢を貫く、決してその場しのぎはしないし、都合よく資料を拾い読みするなどの要領主義もとらない。度外れた努力振りで、大化けを予感させるものがある。

三つ、理解者との出会いー弘前中隊長への指名で幕が開く

台湾派遣軍勤務ではその意見具申をする積極性が立見軍務局長(後参謀長)の目に留まる。この事が後年の立見第8師団長赴任時に、福島大尉を弘前歩兵第三十一連隊中隊長へ指名する伏線となる。この中隊長になった事で八甲田山雪中行軍を始めとして人生で事を為す舞台に立つ事が出来た。そして立見師団長という理解者(パートナー)を得て、彼が人生で事をなす幕が上がった。

これこそ将にプランドハップンスタンド(計画された偶然)とでもいうべきものではないか、と思う。具体的なものは無くても努力の大きな方向性ははっきり持ち、進んでいる。目の前に全力で向き合う。だからチャンスが偶然であるかのように装って現れる。しかしそれは計画された偶然、意志や意欲があるから現れる必然と解する性格のものである。

弘前中隊長は事をなす大きな前提となる条件である。その条件は立見師団長が作った。そのきっかけは希望者の居ない台湾派遣軍勤務を行くべし、と迷わず真っ先に志願し、現地では積極的に意見具申した彼の性向が齎した。爾後の事を為す展開に占める立見師団長の存在は大きい。

終わりに

高い志を抱き、目指すところに向かって、正攻法の努力を積み重ねて”持論””・直観力”を磨き、弘前中隊長に指名され、人生での事を為す舞台に立った。愈々その幕開けの時・条件を自らの意思で作り出すのだ。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその四 初級士官時代の研鑽ー戦術想定課題「上武野決戦に資する第1段隊長」の決心・処置を思う1 [福島大尉の実行力を訪ねて-福島大尉のなした事Ⅱ]


始めに

明治28年12月2日問題受領、明治29年1月31日作業竣工。陸軍歩兵中尉福島泰蔵、明治29年4月28日点検畢 連隊長 河野 通好、と表書。 日清戦争従軍から凱旋帰国した年、戦勝の余韻などを全く感じさせない課題作業である。

一つ、与えられた問題

当時の気分を伝える為、原文に忠実に記す。原文と言っても陸軍の内部文書であり、理解に苦しむ点が多い。そこで二つの予備知識が必要となる。
①福島中尉に対し、段隊長(増強された連隊長)としての決心・処置を求める課題である。即ち小隊長に対し、中隊・大隊・連隊と3段階上位、当然未経験の部隊長(規模・行動地域の大きさや行動期間の長さ及び責任の重さが段違いに大きい。従って判断の幅・奥行きなどが段違い)を勉強させ、その決心・処置能力を鍛えるものである。
②付与される任務・状況はすべて考えさせる狙いから作られる。任務は主力から離れ、某期間、独立して行動する部隊として、明確に与えられず、わざと、漠とした付与となる事が多い。その任務をもとに、主力の行動に寄与する方策について判断し、決心処置させる。戦術の想定課題における決心処置を求める方式は戦場指揮や普段の実務能力向上に直結する頭の体操即ち指揮官教育・訓練のツールとして重視されていた。

二つ、想定(状況と任務)

一つ目、上武野に決戦を予期する北軍は数縦隊で清水街道(註:新潟県湯沢~群馬県水上)を行進中。第1段隊は2月1日午後2時其の本隊の先頭高崎北端に到達。

二つ目、第1段隊長は後続段隊の為め、高崎付近に於いて広き作戦地を占領し、併せて糧秣を押収する任を負う。

三つ目、第1段隊長は2月1日午後2時までに左の情報を得る。

①我が騎兵の首部は岩鼻に停止し、その斥候は正午頃藤岡、新町、境町に於いて、敵の騎兵斥候に遭遇せり。
②本日正午頃、6000若しくは7000の敵、本庄に在り。
③旅団長の率いる第2段隊は本日5時までに渋川に着して、宿営する予定。
④高崎衛戍兵は数日前、東京方向に退避し其の兵営は過半消失せり。
⑤高崎停車場は処々鉄道破壊せり。

四つ目、第1段隊の編成は左の如し。

歩兵第1連隊、騎兵第1大隊第1中隊(2小隊)、山砲兵第1大隊、工兵第1大隊第1中隊。

三つ、問題

4問あり、その決心の妥当性や可能性と決心に基づく当面の処置(宿営、報告、計画・命令(配備))の適切性や可能性等を験している。

一つ目、第1問題、第1段隊長の2月1日午後2時における決心及び理由
二つ目、第2問題、2月1日の宿営に関する第1段隊長の命令
三つ目、第3問題、渋川に着すべき旅団長に呈する第1段隊長の報告
四つ目、第4問題、本庄に在る敵に対し、防御陣地の選定及び理由、但し1万分の1の略図を製し、予定配布を記入すべし。明治28年12月2日 陸軍歩兵大佐 河野 通好

四つ、答案概要

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一つ目、第1問題の答案

決心「第1段隊は烏川左岸に前進して、ここに陣地を定め、敵を防御して以て後続段隊の到着を待つ」。理由は考えるべき3つの選択肢(新町、岩鼻、倉賀野)のうち、新町は我が旅団進出前に各個に撃破される危険性が大きくてネグレクト、岩鼻は連隊の能力及び敵の企図への適合上最適で、旅団の決戦にも寄与出来る。倉賀野は敵の進出の可能性低いとして、この問題では触れず。

二つ目、第2問題の答案

前衛は右翼を烏川鉄橋に托し、左翼台新田までの先を警戒し、其の本隊は岩鼻町警急舎営を為す。本隊は倉賀野町に警急舎営す。

三つ目、第3問題の答案


四つ目、第4問題の答案

方針「第1段隊は烏川の左岸に前進し本庄にある敵に対し防御陣地を岩鼻町に決定す。」理由は岩鼻のみが地形上防御に適する。敵にとって倉賀野進出は危険であり(我が旅団進出前に)でてこない公算高い。岩鼻が最も利がある。即ち、①敵の機動を観測し得る。②陣前及び陣内の障害及び要点保持に依り敵を拒止出来る。③若し背進の必要が生じた場合でも良好な交通路を使用し、退路を確保できる。

五つ、連隊長の批評

全体についての纏まった批評はないが、答案中の書きこみ批評がある。第1答案理由の第1の項中の文章「第1段隊が任務を尽くさんには新町を占領するを以て適当とす。然れども此希望は地形上よりするも敵状よりするも成し得べからざる所なり換言すれば我段隊は後続段隊の到着せざる前に敵の為に破られ其の受けし任務を尽くす能わざるのみならず・・・」の箇所の傍註的に「通好(印)地形敵情為し能わざれしに適当にあらず」(朱書)の批評がある。

六つ、答案に決心の在り様を思う

一つ目、「何を」、「何時」決心するか、が一番難しい

第1問題答案では岩鼻防御を明確に謳っている。しかし、第2問題答案では前衛本隊を岩鼻におき、本隊を倉賀野に於いて警急舎営としている。茲で1つの疑問が湧く。

岩鼻防御の主体は誰なのか。段隊本隊なのか或いは段隊から先遣された前衛の本隊なのか。倉賀野に本隊を置くならそこが防御の陣地の意ではないか、ともとれる。要するに前衛を運用して防御させる、という即ち前衛の運用に関する決心なのか段隊本隊の防御の決心なのか、が良くわからない。

恐らくここが討議の焦点になったであろう。旧軍の実情も良く分からず”感じ”だけの物書きで申し訳ないが、「何を」「何時」決心するかは大変難しい問題である、との問題提起という意味で挙げさせて貰った。

福島中尉は改めて戦術における決心、「何を」、「何時」を誤りなく行なう難しさと重要さを痛感し、今後の修養の大きな課題として銘肝した事であろう。

二つ目、直観力に磨きがかかり始めた

前述の連隊長批評にもあるように、新町を当初から落としている点には合点が行かない気もする。また倉賀野防御についても選択肢として触れていない点も気になる。しかし、地図を見る限り、地形上の陣地適地は岩鼻が一頭抜けている。状況と任務から考えても岩鼻が適当と思う。任務分析も上級部隊長(旅団長)の関心・期待度を反映できるようになった。第1段隊長の任務達成の期待度には幅がある。maxは旅団の攻勢への寄与、この為どこを保持すべきか、miniは旅団の戦力回復への寄与、この為第1段隊が健在して(撃破されないで)旅団と合流。この範囲の中で達成すべき事項を明らかにしその優先度を明らかにする姿勢が窺えれば言う事なし、である。しかしこの時点でそこまでを要求すべきではないだろう。福島大尉の思考は大筋を外していない。

岩鼻着目に今までの課題と同じ、を感じる。課題「師団前衛が携行すべきは山砲のいづれか」におけ野砲主張。課題「弾薬補充法」ににおける弾薬嚢改良不用主張と同じ何かである。これは何だろう、と思ってきたが、今回、直観力ではないか、と思い当たった。

七つ、福島大尉の直観力には見るべきものがある、と思う

一つ目、”正攻法”で、取り組む効用

①全ての課題に対し、広く戦術書を読み、戦術に関する幅広い知識や戦い方の術策及び部隊の運用方策を学ぶ。その事即ち正攻法で幅広い視野や柔軟な思考並びに総合的な判断力を身に着けると共に、必ず原理原則などの基本を押さえる、から物事の本質把握力に長けて行く成長過程が浮かんでくる。

②どの課題でも必ず戦史を紐解く。課題の目的に応じる戦例を探し求める。この姿勢から、前記の戦術学と同じものは当然として、戦史ならではの効果がある。即ち追体験である。追体験により強い意識化が進み、深い洞察力や先見力が身に着く。

前記①②の研鑽の結果、瞬時に幅広い要素を捉え総合的に判断する力や物事の本質を見抜く力等の”直観力”に磨きがかかって来た。福島大尉にとって戦術課題想定の”ならではの意義”はこの点にこそある、と強く感じる。

二つ目、福島中尉の直観力を思う

彼には少年の時から、瞬時にかくあるべし、と物事のあるべき姿や先行きを見抜く力が備わっていた。自分なりの意見、持論を持っていた。しかし我意偏重であったり実行には繋がらない等の正すべき点があった。この点を、陸軍教導団入団の為、故郷を後にする日の朝、母あさからこんこんと説諭された。士官になるまでは帰らない、の発言に対し、「実行あるのみ、さすれば大言ではなくなる」は肝に響いた言葉であった。

士官任官後も厳しい指導を受けた。課題「師団前衛が携行すべきは山・砲のいづれか」に於いて野砲携行を強く主張した事。課題「弾薬補充法」に於いて弾薬嚢改良不用をしつこく主張した事等とそれに対する連隊長や大隊長から強烈な指導を受けた事は記憶に新しい。

しかし、よく言えば信念一徹論者、悪く言えば偏屈我執論者であるが、彼の言動には特徴がある。福島少尉・中尉の主張は必ずどうする事が国家・陸軍・兵卒の為になるか、が根幹にあり、私心は無い。他のものに阿たりはせず、自らこうだ、と信ずるところを断固歩む。西郷隆盛の言(南洲翁遺訓、士官学校福島生徒筆写)「(前略)命もいらぬ名もいらぬ官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり、此始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大事は成し得られるぬなり(後略)」その儘を実践している。

”正攻法”の勉強スタイルをやり抜く間にきらりと光るものが出て来た。それは、妥当な直感力である、岩鼻着目にとげとげしさというか危うさがなくなった気がする、からである。
それは①戦術学全般の素養が向上した事。②想定や実戦・実兵訓練などで、任務意識がしっかりし軸が太く強くなった事。③瞬時にバランスのとれた総合的な判断や本質を見抜けるようになった事。④本気の戦史研鑽による追体験効果で洞察力や先見力がいや増した事などが本来の直感を磨く方向で噛み合い出した、と思う。

三つ目、”戦術眼”も気になりだした

直感力を考えている傍らで、”戦術眼”と云う言葉が浮かんできた。意味するところは本質を見抜く眼力、戦いの術策や用兵及び要務遂行上のセンスや目の付け所等々。他の人と一味違うものがある。この”戦術眼”も福島大尉の直感を構成している重要な要素である。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその三 初級士官時代の研鑽ー戦術課題「戦闘中弾薬補充法の研究」答案を思う [福島大尉の実行力を訪ねて-福島大尉のなした事Ⅱ]


始めに

明治25年12月2日、問題受領、明治26年2月28日作業竣工(提出)。点検畢、大隊長同年3月30日、連隊長同年4月20日。この論文課題には連隊長、大隊長の纏まった批評はない。しかし文中の処々に手厳しい批評が書きこまれている。今回はその手厳しさを表した連・大隊長の思い、この手厳しさを招いた福島少尉の思いとこの批評を受けた福島少尉の思いを探ってみたい。

戦闘中弾薬補給法ノ研究(明治25年12月2日)024 (640x506).jpg

一つ、戦闘中弾薬補充法(歩兵の為め)の研究答解概要

4つの戦闘場面における弾薬補充の特性と補充法を主たる論点としている。4つの場面とは①敵の射撃界内に入る前の敵に近迫、②射撃界内の敵に近迫、③突撃前後、④攻撃奏功後である。補充方法として①では、節用。大隊行李の予備弾薬を豫め兵卒に配分。②では、2名の弾薬補充兵による追走配分は困難と認識すべし。依って、死傷者の弾薬取得等の個人補充と予備員・予備隊投入。③では、予備員は使い果たし、死傷者からの弾薬取得も困難で最困難最緊要。④では、後方駄馬追走を要求等を述べている。

個人が弾薬を携帯する弾薬運搬用の雑嚢、背嚢、弾薬盒、弾薬巣等について、不備を厳しく指摘しているのが目につく。福島少尉の言葉の強さに比例して連大隊長の批評の手厳しさが増している。

二つ、答案作業間に湧きあがった福島少尉の思い

一つ目、福島少尉の思いは①で、はや爆発し決闘を宣した。

予備弾薬を個人配分するとして、それを入れる雑嚢や袴の側嚢は携帯に不便、運動に困難。特に雑濃は重量は一方に偏し身体の中部にありて振動し、袴の側嚢は膝射や山間跋渉障碍飛越等に際し動作の自由を束縛する、之より生じた背嚢改良説に基づく弾薬巣或いは前帯弾薬盒の発明は本質的解決に至ってない。この器械的論峰に対し後文にて決闘を試みんと欲す。(第5 戦闘中弾薬の補給における第一(①)の場合)

二つ目、戦闘酷烈の場合即ち③の場合、背嚢を現地に捨て置け、と強く主張する

③の場合、最も戦況は苛烈であり、弾薬は欠乏し補給は最緊要事であり、最も困難事である。この時背嚢を外して弾薬を取りだし弾薬盒に詰め替える時間はない。兵卒は宜しくその場に伏臥し、背嚢を脱却し、弾薬を取りだし、背嚢は之を捨て置くべし。勝敗の決一挙に在り、一個の背嚢何んか有らん。(第7戦闘中弾薬補給に於ける第三の場合)

三つ目、背嚢の改良説に対する非難を声高く論ず

後文で決闘をせんとして、新たに「第13」の項を立て、背嚢の改良説と言い前帯弾薬盒の創意と言い未だ新機軸を角出して万衆の耳目を驚かさざるを悲しむと書き出した。
改良策として、背嚢の下部に弾薬入れを設ける案は携帯工具を付着せる者は重心左下し、更に一層困難になる。是を矯正するため鍵型や背嚢両側に設ける案などあるが構造単簡ならず。吾曹は現用の背嚢を改良するを要せず、と思う。前帯弾薬盒と言い弾薬巣と言い、少しく見るべきところはあるが運動に支障があり、散兵の伏射姿勢に妨害あるので、其の利其の害を償うを得ず。(第13背嚢の改良説と前帯弾薬盒及び弾薬巣とに対する非難)

四つ目、再度、背嚢を捨てるを可とす、を強調す

第15結論の前の「第14戦術単位の長は弾薬補給を如何にするや」項の末尾で火線にある兵卒背嚢より弾薬を出すの点に付き、一言すべき点あり、として再度、背嚢を捨てるを可とする事を強調している。
敵に応射せざるを得ない場合に、敵近くでは、各個に背嚢を脱して弾薬を出し、時機危険なれば背嚢は捨つるも可なり。豈何ぞ予備の七品を顧慮するに暇あらんや。

五つ目、答解に窺える福島少尉の心底

背嚢の改良は不要、がこの答解の肝である。少尉任官1年未満の若輩乍、背嚢改良説に徹底して反対、との立場を臆することなく鮮明にしている。第1線の兵卒に焦点を置き、酣戦における一瞬の無駄も許されない戦闘継続と弾薬補充を焦点として、そこを突き詰めている。そこに福島少尉ならではの考え方の本質がある。

自分の意見を主張すべきはする。さはさりながら駆け出しの新品少尉としては学ぶべき事が山ほどある。本命題で出題者が期待する答解姿勢とはずれがあった。もっと地道で謙虚な研鑽答解が求められていた。連・大隊長からすれば、その期待に収まり切らず、はみだしたり足りない部分或いは正すべき点が目につく福島少尉では無かったか。

三つ、連・大隊長の手厳しい批評

一つ目、足元を見ずして大言を叩くな

仏国が複嚢を採用する如く本邦に於いても麻製の長布嚢を作り云々の記述に対し、本邦而今の制度を知らずして如此談を発す(連隊長)。

背嚢の改良説と言い前帯弾薬盒の創意と言い(略)未だ新機軸を角出して万衆の耳目を驚かさざるを悲しむ云々の記述に対し、前帯弾薬盒は近時の創意に非ず、欧州各国の弾薬携帯法を研究せずしてみだりに大言を吐くべからず。(連隊長、第14戦術単位の長は弾薬補給を如何するや)。

敵に応射せざるを得ない場合に、敵近くでは、各個に背嚢を脱して弾薬を出し、時機危険なれば背嚢は捨つるも可なり。豈何ぞ予備の七品を顧慮するに暇あらんやの記述に対し、背嚢を捨つる論述は二回に及ぶ斯くせざるも他に手段あらん研究を望む蓋し少尉は茲に至るも尚背嚢の改良を望まざる乎。(大隊長、第14戦術単位の長は弾薬補給を如何するや)

二つ目、不用意な言葉を使うな

防御に於いて補給された弾薬を壕内の身辺近き地上に置く云々の記述に対し、地上に置くとは解し難し(大隊長)。

三つ目、良く調べてもの言え

戦闘開始の時弾薬駄馬の位置は戦闘兵の後方800m付近にあり、ここに各中隊から2名の兵卒が弾薬箱を受け取り、2名で1ヶの弾薬箱を搬送し、その隊に還る、との記述に対し、箱の儘2名の兵卒にて搬送するに非ず1箱中の5百発を1名250発宛てに二分して搬送する(要務令第317末項参照)。(大隊長、戦闘中弾薬補給第一の場合)。

駄馬の監視に任ずる下士は長官の命令無きと雖も所属戦列隊に弾薬を補給するの必任義務を有するものなりとの記述に対し、第1の場合に於いても然りか尚一考すべし(連隊長、戦闘中弾薬補給第一の場合)。

仏国歩兵弾薬車は一輪に必ず12個の複嚢を備えこれを弾薬運搬の用に供すとの記述に対し、我が邦には抽出条及び負条なる者を弾薬箱中に備えあり。(大隊長、第6戦闘中弾薬の補給に於ける第二の場合)。

遭遇戦に於いては後隊の開進の時機に合わせてこれに定数外の弾薬補充、との記述に対し、尤も細心研究すべき場合なり。然るにその手段に至って甚だ明瞭ならず(大隊長)。

現用の背嚢を改良するを要せずとの記述に対し、背嚢の改良に就いては深く研究をせざるべからず(大隊長)。

大隊長は好時機に於いて予備隊の全部を散兵戦に増加する場合に在っては状況により予備隊をして多分の弾薬を携行せしめ云々の記述に対し、要務令第318条に規定し在り、然れども其の手段方法に至りては尚詳細に研究すべき所なり。然るに本文の処置とは如何なる手段を用いるか極めて無責任の論なり(大隊長)

四つ目、何故もう1歩突っ込んで調べないのか

①吾曹は又既往の戦争に関する彼我弾薬の費消及び死傷の数を細密に計算せる書に乏しければ戦闘散兵が何れの時機何れの場合に如何なる状況を呈して弾薬の費消を訴ふるに至るかを予言するに由なしの記述に対し何故探究せざるや(連隊長、第14戦術単位の長は弾薬補給を如何するや)
②腕力に富む兵卒は僅々なる戦闘時間中80乃至100発の弾薬を携帯運動するも強いて其の労を覚えずと、との記述に対し、百発の弾薬を如何して携帯する乎その方法を記載すべし。(大隊長、第14戦術単位の長は弾薬補給を如何するや)

五つ目、知ったかぶりをするな

(前項、前言②に続いて)吾曹も多年村田歩兵銃を持て演習し其の然るを知る而して此の二兵卒の言の大隊全部の兵に行い得らるるを信ず、との記述に対し、少尉は兵卒の言を聞きて初めて知りたるにあらざるや。(連隊長、第14戦術単位の長は弾薬補給を如何するや)

六つ目、小纏め

福島少尉の論調のエスカレートに伴い連・大隊長の批評が手厳しくなって行く。知らずして大言を吐くな、調べるべきは調べよ、知ったかぶりをするな等謙虚さを身に、地道に力をつけさせ、一人前の将校に鍛え上げなければならない。今のうちに正さねば、鉄は熱いうちに打てと心を鬼にして、将来の為に敢えて厳しい批評を書く二人の上司の姿が浮かぶ。

四つ、批評に対する福島少尉の思い

一つ目、自分の意見を持つ、自分の信じる途を行く。

誰がどういう取り組みをしようと、それが軍当局の定めであろうと、戦いの重要局面に於いて隊員を護れない、戦えない、勝てないものは意味がない。この場合、酣戦に於いて敵に近く戦う場合、行動の自由が得られない、不便な装備・装具がそれに該当し、背嚢を捨ておく、となる。背嚢改良説は不要である。この考えは厳しい指導ではあっても改める所も、積りも毛頭ない。
自分の今までの僅かな経験と考察によって得られた結論であり、まだ足りない点も多い。しかし全軍の為に、を思う気持ちは誰にも負けない。修養研鑽を積み重ね伸ばすべきは伸ばし、正すべきは正して行きたい。

二つ目、正攻法で力をつける

将校としての修養研鑽は未だ始まったばかり、物事を為すときは常に淵源に遡りて探究し全う(第二 弾薬補給法に於ける戦術上の関係如何)する。戦術・戦史研究や諸外国典令等を究める、正攻法で臨みたい。力をつける事で自分の意見を持つ、自分の信じる途を行く、を貫きたい。

確かに耳に痛い、心がけなければならない事ばかり。指導は謙虚に受け入れる。しかしへこむつもりは毛頭ない。実行が伴えば大言ではない、目指すはスケールの大きい有言実行である。そして”事を為す”リーダーになる。その為越えなければならない試練である。

終わりに

明治26年高崎歩兵十五連隊当時の資料綴りの中に偶然、一枚の訓練想定(明治27年3月17日、福島少尉指導官)を見つけた。午後8時20分この地(高崎衛戍地)を出発し、歩兵1大隊2大隊を以て岩鼻を襲撃し、敵の鳥川に於ける架橋作業を妨害するというものであった。その中に団隊長が1、2大隊長へ伝える注意事項として、「背嚢は高崎に脱し置き、背嚢中の弾薬は弾薬盒及び袴に収容すべし」との項があった。福島少尉のこだわりは本物であった。自分がこうと思ったことは誰が何と言おうとぶれずに貫く、精神の芯の強さを改めて確認した。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその二 初級士官時代の研鑽ー対抗野外演習における実兵指揮を思う [福島大尉の実行力を訪ねて-福島大尉のなした事Ⅱ]

対抗野外演習における実兵指揮を思う

始めに

明治25年9月15日福島少尉は一方の指揮官(小隊長)として大隊内小隊との対抗野外演習に参加を命ぜられた。その実施報告と批評から彼が学んだ事を思う。

一つ目、福島少尉が受けた命令(要点のみ)

1 敵は我が軍の捕虜となりし者(凡そ5、6百人)を高﨑に護送せんが為に之に若干の歩兵を附し午前11時金古を発せしとの報あり。
2 少尉は部下の歩兵1小隊を率い棟高村と大八木村との間に於いて敵の護送隊を襲撃し、戦友をして逃脱せしむることを計るべし
(演習命令として 帰営後48時間以内に実施報告すべし。但し5000分の1の詳図を添ふべし、がある。)

貼付した大八木野村野外演習の掌図
大八木村野外演習実施報告(明治25年9月15日)011 (640x462).jpg

図が見にくいので若干の補足。金古は中泉村の北2km。赤は敵、x/y/l/mは捕虜/後衛/側衛/前衛、mは終局の位置。青は福島小隊。a/b/c/d/eは1/2/3/4/5分隊、nは終局の位置

二つ目、実施報告の大要

上記命令(任務)を受けた福島少尉は図上で大八木村付近で敵兵襲撃を決心し、小隊を率い現地(井野川左岸の畑地)へ午前11時40分、進出。同地付近を偵察、この地において待ち伏せし、敵が井野川橋梁を通過して大八木村に入らんとするを待ってその右側より襲撃し捕虜を逃脱せん、と決心。この決心に基づいて1分隊にはaに潜伏、敵の前衛の首力を見たら突撃せよ。5分隊にはdに潜伏し、井出村の方向警戒を命じた。

敵の接近に伴い、当初1分隊がaで戦闘開始、突撃はせず。その離脱に伴い敵の前衛は当初の我がaの位置に進出、敵の後衛は我が小隊主力の前面に展開して対峙。当初姿を見せなかった敵側衛xが現れ、5分隊はeに前進して射撃戦となった。

この状況で敵の中央部に大きな間隙ありを承知して、零時32分、福島少尉は「小隊は挙げて敵の散兵戦に突入し、捕虜を奪還し、大八木村より上小鳥村に向かう。第5分隊のみは此の地点で敵の右翼に向かい猛射せよ」と決心し、命令を下達。零時35分将に突撃せんとした時、演習終了の号音あり。

三つ目、連隊長及び大隊長の批評

一番目、大隊長(演習統監者、大隊長少佐 斉藤・・・)

①少尉の任務は戦闘を避け戦友を逃がす事にある。故に必ず通過する道路の近傍に埋伏して突然敵の後衛兵を奇襲し、その擾乱に乗じて捕虜を逃走させるにある。然るに地障を隔て、敵との距離を置いて奇襲の意図が全くなかった。②又1分隊は敵を、我主力の方向に誘引した。何故この機に乗じなかったのか?4分隊をd点北方の桑樹中に埋伏し、1分隊を以て三国街道上井野川の右岸或いはその東方に敵の護衛兵を誘引し突然起って縦隊の中央或いは其の後尾に突撃し又は猛烈な射撃を為せば或いは目的を達っしたかもしれない。

二番目、連隊長

①命令は通常単簡を旨とするがこの場合は綿密な命令で宜しかった。②大隊長の批評のように此の任務を果たさんには奇襲が適当である。③此の報告書は頗る順序正しく適当である

三番目、統監者斉藤大隊長の厳しい批評から見えてくるもの

その一、任務を深く分析する、を教える

成し遂げなければならない任務は捕虜となった仲間を逃がす事。逃がす為に如何なる行動をとるべきか。そこを深く考えなければならない。新品少尉には難しい任務であるが、鉄を熱いうちにたたく、任務を真剣に考えさせるためには良い機会である。統監の正解は奇襲で混乱状態に陥れその隙に逃がす、であった。福島少尉は撃破狙いの戦闘指揮で、目的達成には程遠い出来栄えであった。多くの将校見学者の目の前での失敗は強烈な印象と共に任務分析は如何にあるべきかを脳裏に刻み込む良い薬になった、であろう。

その二、状況に応じて決心処置、指揮運用する難しさを教える

折角、1分隊の誘引で敵の前衛と後衛が突出してきた。この乗ずべき状況が現出したにも係らず、何等之を利用することなく、真面目の戦闘を決心した。ここは新品少尉の初陣だからこそ心を鬼にして厳しく指導しなければならない。常に任務をいかに達成するか、をその場の状況に応じ追求する、決心・処置(命令して各分隊を意の如く動かす)、の難しさ、を痛感した事であろう。

四つ目、この体験及び批評の福島少尉の受け止めを思う

一番目、任務を深く分析する。

見習い士官の時の戦術課題答解(前々稿)で厳しく指導を受けた任務分析の過ちを再び犯した。現地では待ち伏せし、敵が井野川橋梁を通過して大八木村に入らんとするを待ってその右側より襲撃すると決心し命令も下した。にも拘らず、敵前衛が井野川橋梁のはるか手前500mの地点に達した所で1分隊は射撃を始めた。

何故こうなったのか?待ち伏せするには通過する経路に出来るだけ近づいて、敵が良く見え、自らは陰蔽出来る位置を占め、且離脱に便でなければならない。敵前衛が井野川橋梁を渡りきり、後衛が後ろを見せるまでやり過ごす必要があったが1分隊は過早に射撃を始めてしまった。機を待つ忍耐が出来なかった。小隊主力は敵の混乱状況に乗じて直ちに敵護送隊に近迫できる位置を占めるべきであったが敵から離れすぎていた。発見される恐怖に打ち克ってもっと近づくべきであった。

こうなった大きな原因は任務達成の方法、奇襲をどのようにするかの企図を自分が明確に確立していなかったからである。1分隊について、行動要領をよく説明・徹底しなかったからである。更に兵士の恐怖心を取り除き、忍耐心を喚起させる事に意が足りなかったからである。

”目的を達せず”の批評はきついお灸だ。任務分析の大切さ・難しさが骨身にしみた。事を為すリーダーとして成長する為の自分の課題がはっきり見えて来た。

二番目、状況に即応して決心処置、指揮運用する力をつける

統監の批評の②は目の前に現出する状況に即応して決心処置、指揮運用し、常に任務達成に繋げる大切さ・重要さを教えてくれている。零時32分の命令「小隊は挙げて敵の散兵戦に突入し、捕虜を奪還し、」は小隊長の企図が明確ではなかった。「護送隊を襲撃し、捕虜を逃がす」であった。目指すは護送隊のみ。「散兵戦に突入」では勢いだけの戦闘指揮になり、真面目の戦闘に陥ってしまう。兵士も意図が良く分からなかったであろう、寧ろ混乱したかもしれない。ことの進展に応じ或いは当初の予想と異なる展開になった場合に於いても戦機や局面を見抜く戦術眼を持って任務達成の為今何を為すべきか、次に何に備えるべきかを常に考え、決心し企図を明確に示さなければならない。

じっくり考えたいが目の前に敵がいる、悠長に考えている時間はない。命じなければならないが、何をがはっきりしない。自分の命令で奇襲の成否が決まる・・・。任務は成功できるかのか、兵士の命は守れるのか・・・等夫々の場面の決心の重さに心が戦いた。野外要務令綱領の「指揮官の最も戒むべきもの二つあり、曰く為さざると遅疑するなり、苟も之を為し之を断行すれば仮令その方法を誤るも尚為さざると遅疑するとに癒す」が重くのしかかった。

事を為すリーダーとして成長する為の重要な課題と強く認識した、に違いない。

終わりに

今回は野外対抗演習(小隊対抗)の中での小隊長として、実兵指揮を演練する場における失敗体験を捉え、戦術能力研鑽を思う旅であった。小隊長は最小単位の指揮官であり、将校がクリアしなければならない第1関門である。生身の人間を実兵として手足のように動かす、決心して命令する事は難しい。まして戦場(修羅場)では重圧がかかり正常な判断・決心はより一層困難となる。その事を厳しく脳裏に刻み、真剣な研鑽を覚悟した貴重な失敗であった。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその一 初級士官時代の研鑽ー戦術課題「師団前衛が携行すべき火砲」答解を思う [福島大尉の実行力を訪ねて-福島大尉のなした事Ⅱ]

一つ、”熟者”への歩みを考える意味

始めに

論文「影響」の最後で、福島泰蔵碑碑文中の”熟者”の響きに戦術能力に優れただけではなく、事を為すリーダーとしての”熟者”を感じる、と述べた。今稿から、その熟者へ至った歩み、勿論為した事も、について思いを巡らす旅を始めたい。

一つ目、事を為すリーダーとは

”事を為すリーダー”とはの視点を明確にして、今までの旅を振り返って整理し、残る論文「露国に対する冬期戦術上の一慮」や黒溝台の会戦などでその思いを巡らす旅を続けたい。

事を為す、”事”とは誰もなし得ない偉大な業績と一応定義(仮)し、前に進めたい。しかし、多くは成そうとして為すものではなく一生懸命挑み、無心に取り組んだ結果としての業績であると思う。そうであれば、目指すところの在り様やそれに向かっての取組及びその仕上がり等を確り拾いあげる事で何か見えてくるものがあるはず、と思う。

事を為すリーダーとは指揮力・指導力・管理力・統御力の4拍子が揃った上にプラス何かがある者を指すと考える。この4拍子についての考えは既に述べた通り。特に軍人の特性上指揮力が中核となる。指揮力の中でも決(断)心と処置力がその又中核である。その決心と処置力を磨く為には戦術力を高める事が一番の近道である。この事は戦術力が戦いに関する様々な知識を習得した上で、変転する状況の特質を掴んで決心し、戦いの術策と用兵上の処置を適時・適切に行ない得る力である、と考える事で良く理解出来ると思う。

だからと言って、それだけでは不十分、他の関連する指導力・管理力・統御力が高くないと高見は望めない。故に4つの力の総合的な普段の錬磨が必須である。

又戦術は地形・敵・我・兵器に関する幅広い分野を対象とし且つ複雑である。錬磨法も座学・課題論文等による知識の習得、図上や現地戦術による術策・用兵策の演練、実戦及び限りなく実戦に近い演習による実兵・実敵での実戦感覚や指揮運用力の感得、武器・装具操法の習熟、戦史による追体験等多岐に亘る。従って相当の覚悟を持って、臨まなければ任重く、途尚通かった、に終わってしまう。

二つ目、このシリーズの旅で目指すもの

従って、目指す旅は4拍子(研鑽)の在り様とプラス何か、一味濃いリーダーの(研鑽の)在り様について考えるものである。残念ながら戦術以外の研鑽資料は少ない。しかし、限られた資料の中に宝がある・・・。
”立見師団長に熟者”と言わしめた平生の歩みとはいかなるものであったか?は私にとって、大変興味深い。自らの力で機会を掴み、挑んで事をなした。その姿に物凄く惹かれる、からである。

二つ、冬季作業戦術課題と答案を思う

一つ目、当時の若手将校の演練方式

明治20年代後半~30年代前半の陸軍の部隊に於いて(在籍した歩兵第十五連隊(高崎)、三十一連隊(弘前)を含む)、戦術能力向上策(教育)として重きをなしていたのは演習等における実兵指揮に加え、戦術論文命題や想定付与と答案提出作業方式があった。今回からは福島大尉が残した資料について、出来るだけ、その一つ一つを紐解き、テーマに迫りたい。

福島見習い士官は陸軍士官学校を卒業して高﨑歩兵第十五連隊に原隊復帰した。明治24年夏の事である。当時連隊では冬季作業として、毎年12月に戦術課題を与え、3月頃に答解を提出させ、大隊長や連隊長が指導する方法が通例であった。中隊の若手将校は演習や新兵始め各階層の士卒の教育其の他の軍務に大多忙であったので、業務に埋没して戦術能力の自学研鑽が疎かにならない為の上層部の配慮であった。

二つ目、冬季作業戦術課題付与

明治24年12月1日、冬季作業課題「本邦規制の師団一道を前進するに当り山野砲兵の内何れを前衛に区分するを適当とする乎 但し地形及び時機に因り殊別あらば之を詳記せよ(以下表題)」が連隊長大佐河野通好から付与され、翌年3月1日提出。後日、末尾に大隊長と連隊長の批評が朱書されて返された。

三つ目、答案の概要

福島大尉の結論は野砲(註1)を前衛に置くべし。その理由は山砲(註2)に比し①効力が大きいので、前衛の戦いは緒戦であり、その勝利を最重視すべき。②諸外国軍が山砲を有している数は少ないので対抗上野砲にすべきである、の二つ、であった。又論拠を補強する為、③メッケル少佐(註3)の所論、日本国土の特性上山砲重視すべしには断固反対と広言し、野砲が運動性において劣る点について、日本の国土開発の速度からすれば険山険谷に馬車道や鉄道線路を通す事はそう遠くない将来に可能である、と断言している。④野外要務令・戦術学教程・軍路学教程・兵器学教程・砲兵戦術教程・砲兵野戦教範草案・野砲兵戦法論・砲兵論・師兵術・普仏戦史・魯土戦記を読破し引用している。

註1 大きな架台に載せ、車輪を持ち、馬で牽引して歩兵に随伴・移動し遠距離を射撃する大威力火砲。

註2 同口径の野砲に比べ、軽量・小型かつ分解が可能で、砲口直径(口径)に対する砲身長(口径長)が短く、低初速・短射程で高弾道の火砲。山地の向こう斜面の敵の射撃等に適する。

註3 ドイツ陸軍大学校の兵学教官。参謀総長大モルトケの推薦で、日本に1885年に派遣され、3年間陸軍大学校で戦術教官を務めた。高等戦術について多くの学生に影響を与えた。現地戦術教育法は日本陸軍の伝統的教育法として定着した。

四つ目、連・大隊長の批評(大要)

一番目、大隊長の批評

①多くの書を購読しているのは宜しいが、有益に理解していないのでその労に比し賞賛すべき点は少ない。②野砲の有効性だけを論じ、山砲は無効のように論じているが、それは本問題の要求に沿っていない。③記載上引用はその出典を明確にせよ。(4月10日付)

二番目、連隊長の批評

①多くの参考書を研鑽しているのは宜しいが、不要の記述多し。②前衛の任務を深く研究して効力を比較すれば適当な決心に至るべし。③野砲を携行すべしの結論には同意するが、道路の改築が容易であるとは信じられない。③メッケル氏の山砲論は同氏が深く考えるところあり、軽々に論破するを好まず。(4月20日付)

三番目、批評から見えてくるものー鉄は熱いうちにたたけの親心

大変手厳しい批評である。①無駄・不用の記述が多い。②論旨が求めに合ってない、任務の取り組み方を教えなければならない。③大言・広言が目に余る、地に足の着いた考え方や知識を身につけさせる必要がある等今のうちに正すべき点が多い、と感じたからであろう。

五つ目、この批評を受けた福島大尉の受け止め

一番目、自分の頭で考え、自(持)論を持つ
 
メッケル少佐への反論は相手が誰であろうと己が正しいと信ずる所信は堂々と披瀝する。連隊長から厳しく指弾されたが改める積りはない。前衛に野砲を適当とする結論も自分がそう考えたので導いた。その過程に誤りがあれば改めなければならない。肝心なのは自らの頭で考え、自論を持つ事である。事の大小を問わず、その姿勢を貫き、研鑽を続ける事でもっともっと難しい問題に対し本物の考えを持てるようになる。借り物や世に阿る考えは身に着かない。

二番目、正攻法の確かさ

大隊長や連隊長から不要の記述が多い、との指摘を受けた。果たしてそうであろうか?自分はそうは思わない。問題に対する正しい答えを導くには正攻法が一番の近道である。先ず関係する資料をすべて読破する。その中から答案作成上必要な基本的考え方やアプローチを導き出す手間を惜しんではならない。無駄と思える知識等沢山出てくるが結論との関係での濃淡はあるがいずれも必要なものである。答案作業は今回限りではなく今後につながる幅広い知識形成の一環であり、必ず役立つ時が来る。答えに直結するところだけ拾い読みし、要領良く纏めるやり方を自分はとらない。その場限りで身に付かないし、もっと難しい問題に対し応用が利かないからだ。
正攻法のきっかけと効用
正攻法とは戦術学と戦史を両輪として之に地形学や武器等を総合的に学び自得する福島少尉ならではのやり方である。この決意を固めたきっかけがある。

物心ついてから漢書・歴史・地理等、大変な読書好きであったがある時酒癖の悪い日根野大尉の非難を受け、大議論となった。君は何の為に雑書を讀むか、益なし。寧ろ酒を飲んで時間を過ごす方が益ある事を知れ。書を読む癖が抜けないなら、専門になる一定の学問をせよ。予はごもっともと承ったが、この事あってから、彼の持説又確実なる所多い事に気づき、予は多くの力を兵書に割くようになった。友を撰ばば善友なり、悪友なり、有利有益の友を撰ぶべし。(隙あるも彼れは益友なり)【小事実録】

そして兵書に没頭するにつれ、戦いの術策と決心処置能力を磨く効用に気づき、実力派将校の表看板、戦術の実力をつける事で国家に尽くす、即ち事をなす途を拓くと思った、であろう。

三番目、偏りのない判断

自分は前衛の任務分析をする際、緒戦の勝利を一番重視し、そこに砲兵が寄与する視点で考えたので効力重視の野砲携行という結論とした。連隊長は前衛砲兵の任務の分析を深くやればおのずから正しい答えに繋がると指導された。その指導に沿って考えると、前衛が本軍との関係で敵との接触を維持し、時に時間を稼ぎ、時に地域を確保する役目を負う事を考えれば山地隘路等作戦地域の特性によっては第一線歩兵への跟随性や射弾観測の容易性が重視され、山砲も捨て難い、事に気づく。任務分析即ち緒戦の勝利にとらわれ過ぎていた。又問題である一道を師団が進めるのだから、道路素質は良い、と短絡的に考えたが、その考え方は題意を自分に都合よく考え過ぎていた。そう思って問題を見直すと「但し地形及び時機に因り殊別あらば之を詳記せよ」、即ち”詳記”せよとある。自分はきちんと答えたであろうか。最初の任務分析を深く行なっていればこの点を見逃さなかったはずだ。逆にこの点をきちんと読み込めば任務分析も違ってきていた。

任務分析、前衛がどう行動する事を本隊から期待されているかを深く考え抜く事と目の前の状況を客観的に冷静に観る事がこれからの自分が成長するための課題、と強烈に認識した。

四番目、断固言い切る為にはそれだけの力をつける。さもないと単なる大言に過ぎない。

自論を展開するに当たり、強く言い切る為には力をつけ、それだけの周到な準備をすることが必要である。メッケル少佐への反論に対する連隊長批評「深く考えるところあり、軽々に論破するを好まず」や自分の国土の険山・嶮谷の改良は近い将来可能だ、に対し連隊長批評「近い将来に出来るとは信じない」のいずれも厳しい批評、人格否定とも取れる、である。これらの批評に沿って悔い改める積りはない。へこたれたりもしない。自分が正しい、やるべきと信ずる事はもっともっと力をつけ、準備を周到にして強く発言し、行動して見せる。陸軍教導団入団の為故郷を後にする日、今は無き母から何事も実行ですぞ、さすれば大言ではなくなる、ととこんこん諭された事は忘れない。

六つ目、休暇請願書発見

福島大尉遺品寄贈品目録のとある箇所に休暇請願書がついていた。請願休暇の件とあり2月22日付の申請に対し、願の通り往復共3日間許可すとの公印(押印者名不明)が押されている。何気なく目を通した私はある事に気が付いた。7年ぶりの帰郷そして今は無き母への報告の為だったのだ。去る2月5日、弘前将校団会議があり、その席で満場一致での少尉への推薦が決まった。3月21日付での少尉任官である。その事を父泰七に知らせたのが2月6日、その返事が2月19日付であった。その中で、驚くことに母朝は2月7日に亡くなった、今まで知らせなかったのは少尉任官まで自分の病気を知らせるなとの母の遺言であったから、との報せであった(註4)。

その直後の悲嘆にくれた中での休暇申請だった。それらが折り重なった中でのこの答案作業の提出と批評受けだったのだ・・・。 

そう思うと二度と会う事のない母への思いが将来の成長への尚一層の強い決意となった気がする。同時にこのような状況にある福島少尉に対し、敢えて厳しい批評をした連・大隊長の親心に改めて痺れる。・・だから明治陸軍は強かった、としみじみ思う。

註4 この時の心境を後に「男児錦を衣て故郷に還る悲しきかな母は無し」(小事実録)に作詩2篇(悲しきかな詩15絶及び滄浪歌)を添えて表している。

終わりに

鉄は熱いうちに打て
答案作業に対して、鉄は熱いうちに打て、との厳しい指導を受けた事で福島見習い士官は将来の大成、事を為す為の成長の課題をはっきり認識した。若手将校の間に機会を捉え厳しい指導を受けるか否かは決定的ともいえる程、人生に対する意味合いが変わってくる。厳しく温かい上級将校の情熱は明治陸軍の後継車者育成の体質を表している。

感謝とご恩返し
このシリーズは陸上自衛隊幹部候補生学校から頂いた福島大尉遺品寄贈品目録に殆ど頼る事になる。きちんと資料がスキャナーされ、気分がそのまま伝わり、落ちがなく見やすいからである。今更ながらお骨折り頂いた同校の関係者特に直接作業に当たられた西山准尉に心からの感謝を捧げ、充実した福島大尉旅をお届けする事が私の務めである、との思いを新たにした。この事をこの場を借りてお伝えしたい。

この稿終わり
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