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加藤清正の兵を弔う深い心

 田村麻呂とその旅の醍醐味を語ればもう一人の寺を建てた武人、加藤清正とその旅について、語らねばならない。日本会議唐津支部での講演の翌日、(令和元年)6月9日訪れた名護屋山大乗寺(佐賀県唐津市)縁起に、加藤清正は同寺を建立し、出征に先立ち怨敵降伏を祈願し、慶長の役後に戦死者を弔った、とあった。

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 丁度武人旅の胸付八丁で、このであい!と胸がときめいた。この件はブログ・福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて・よろく旅、福島大尉が漢詩で読んだ武将達についてその心の重なりように現地などで思いを巡らす旅である、で清正を取り上げた際は気づかなかったことである。またブログ・同・よろく旅で坂上田村麻呂を取り上げた際、律令制後初めて、武人として、征夷大将軍を確とした田村麻呂が清水寺(京都)を建立し、蝦夷征討に向かった、とあること(そして当然戦後の弔いもあるはず)を承知した。そしてこの二人の寺の建立と弔いは単なる信仰心や弔いに止まらず、統べる者として、兵を死地に投じる自分の責めや兵の命の重さを深く自覚して最善を尽くしたか、を自らに問いかけるものであったに違いない、と思っている。

 私は武将清正のこの自覚は慶長の役・蔚山城の戦いに示されているはず、という所から清正旅を始めた。

 蔚山城の戦いの概要は主に清正公記(中村事、明治42年2月発行、国会図書館蔵)(註)、に(大意)拠ると(丸数字は筆者)、以下の通り。慶長2年12月22日、蔚山城は突如、明軍57000、朝鮮軍12500の大軍に包囲された。蔚山城は南を大和江に面し、東・北・西の3正面に天然の要害があり、これに外郭(1400間(2500m)余の土塁と木柵)と内城(延長760余間(1370m)の石垣)を設けていた。西生浦城と共に加藤清正の持ち城であった。このとき清正は6里(24km)離れた西生浦城にいたが、急を聞いて駆けつけ、一刻の猶予もなし、直ちに早船を出し蔚山へ入城せんと触れだされた。これに対し、老党の面々は諫める。軍勢の3分の1は蔚山にあり、今半分をこの陣(西生浦)に留めると、お手元に従う兵は3分の1に過ぎず、敵は100万の大軍で如何に勇猛でも危うい危うい。諸将の来援を待ち大軍にて後詰なさるべし。公曰く「①蔚山の城は清正が持ち分で、清兵衛(改行詰め加藤清兵衛のこと、清正が若干16歳で200石取になった時に召し抱えた竹馬の友)以下を籠らせている。後日(救援が)遅れて落城せば弓矢の瑕瑾、恥辱は一命よりも重い。②のみならず蔚山に籠城せる勇士は清正と共に今日まで生死の境に往来した者、情において我が子も同様である、その火急を聞いて便々時日を過ごさるべきか、③特に敵軍今は押し寄せて間もなく、陣屋の要害未だ十分ではあるまい、この時を失わば大軍にても近づき難かるべし。危うきを冒すはこの故なり」と。老党の面々は「哀れ今は何をか申すべき、我等の朋輩を救わんとて、君には万死を冒して進まんとのたまうぞや、いづれもこの君のご馬前に死してご恩に報い奉れよ」と呼ばわれば、士率涙を奮って勇み立つ。清正いたく喜び「今日の一戦日頃の戦と同じからず、ただ一概に城に入るを心掛けよ、左右を顧みず、真一文字に進め、敵を討つとも首をとって暇取るな」とげきを飛ばし、数十雙の早舟にうち乗り蔚山に向かわせ給う。敵の軍船数百隻はただ目口を見開いて見送るのみで、難なく9時頃入城した。この時、城内の食糧は2,3日分を残すだけで、守城の準備はできて居なかった。明・鮮軍の攻撃は23日から開始され、連日多勢に物言わせ何時となく猛攻を加えたが、城兵は良く守り、損害を重ねさせた。一方城内では食料が欠乏し、攻囲軍に谷々の水をせき止められ水にも窮乏し、寒気にうたれて凍傷を起こし、凍死するものも少なくなかった。翌3年正月2日、遂に待望の援軍、毛利秀元・鍋島直茂・黒田長政らの軍勢13000名、が到着した。おどろいた攻囲軍は4日囲みを解いて、京城まで後退した。

 その思いを確かめるべく、同寺の檀家総代田中武樹氏(桜の会・会長)を通じ、住職のお話をお聞きかせ頂くよう依頼したところ、10月10日にその運びとなった。久保田智雄住職にはお忙しいにも関わらずお時間を割いて頂き、「清正公大神祇」について、貴重なお話を伺った。さらに山号「名護也山」と寺号「大乗寺」名づけの証である寺宝の題字旗「南無妙法蓮華経(血染の軍旗)」と「軍礼状(真筆、木版彫り)」拝観の栄に預かり、大感激した。なかでも題字旗の血書に兵の命を護る決死の覚悟とその迫力を感じた。

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 清正公記では蔚山城入城の際に、「船頭(へさき)に南無妙法蓮華経の大旗を押し立てたる下に、」と記述してあることから、その時のままにその決死の気分を今に残していると感じた。軍礼状は至極残念であるが解読不能で、今後の課題としたい。しかしこの寺建立に掛ける清正の本気を今に伝えていると感じた。お陰様で想像に過ぎなかった思いを確信に変えることが出来た。思い巡らし旅の最高の喜悦である。関係された皆様へ大感謝すると共に同寺及び唐津市に幸多からんことを祈るばかりである。

何故今武人旅で、この二人かについてはおいおい語りたい。
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