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【よろく】福島泰蔵碑を思うーその三 建碑にかかわる故郷の人々の福島大尉への思い(続)(親族以外)  [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー建碑に込めた思い]


三つ(その二)、故郷の人々(親族以外の人々)の思い

一つ目、金井之恭の思い

島村出身の顕官書家、明治臨池の三大家と称され遺墨多し。詩や絵画にも非凡の才。幕末新田満次郎(新田義貞後裔)を担いで尊王倒幕、建武の未行再興を図ったが破れて獄へ。維新で解放、大久保利通に愛され、内閣大書記官、貴族院議員。同郷高山彦九郎に傾倒、高山の尊王論を天下に広めんと、高山操志を編述、明治2年に刊行。福島が士官学校生徒時代、知遇を求めてきてからの付き合い。新田義貞・高山彦九郎敬愛など共鳴点多く、気心の通じる交流を続けた。日清戦役時、福島を広島に訪ねて漢詩を贈る。扇子は今も大切に保管されていると聞く。士官学校卒業式終了後父泰七が挨拶(無事卒業のお礼)に来てくれ喜びを語りあった。

郷土を背負う人物の死を心から痛み、郷土の誇りとの思いを込めて、何かしたいと渡邉と話し合い福島泰蔵墓石の裏面に刻む院号「真泰院殿忠融義山居士」の書を書いた。
金井と渡邉は気心の知れた友人同士、話は通じる。碑文書を自分名義にする件は了承していたが明治40年5月没っし、果たさず。

之恭と鴎州(克太郎)の交友について、資料を国治氏にお願いしたところ、同氏から両者の間の書簡(写し)2通をお送りいただいた(平成24年1月4日消印)。そのうちの1通(明治40年3月4日付、渡邉克太郎から甚八宛て)によると、当初額の揮毫者を金井氏を介し野津大将に頼むが固辞され果たさず、金井氏も仲介の労を断り、甚八自身が出頭して依頼されたい旨。結局、軍事参議官であった同期の鈴木大将に高木昌が頼むこととなる。外にも福島泰蔵(生前、在弘前)宛ての某某の葬儀案内の葉書(写し)も同封してあった。案内人として親戚(二名連名の一人):渡邉克太郎、友人(六人連名の一人):金井之恭。二人の緊密な交友ぶりが伺えた。

渡邉克太郎の手紙は私には達筆すぎて解読不能。従って仰木三知子さんを通じ、彼女の師匠である古文書研究家の井手川泰子先生にお願いした。旬日の後、回答を頂いて、漸くこの経緯が分かった次第。この場を借りて、ご好意に感謝申し上げます。

二つ目、渡邉鴎州と息子克太郎の思い

渡邉鴎州は泰蔵が啓沃校(私立の変則中学校相当)に入学した際の塾頭。学費免除のため、住み込みの家僕となるが、周囲の無理解に反発、ついには退学。その苦しみや挫折とその後のきっと見返してやるの志と気概を良く知るがゆえに、軍人としての大成を何より願い、戦死を悼む気持ちは強かった。渋沢嘉津間から福島の希望を承知し、新田郡の誇りであり、宝だと建碑へ賛意と協力を申し出た。

当初、甚八の良き相談役として活動。碑文案を立見師団長と練り、三回忌までに仕上げ、書を金井名義とする下支え的働きをした。

後、高木昌が自宅(葉山)訪問(昭和6年12月13日午前)しての依頼に、金井之恭今はなく、鴎州が撰文の揮毫を快諾。

渡邊克太郎は泰蔵が学僕として住み込んだことから交友があり、建碑に関わる。

三つ目、渋沢嘉津間の思い

赤城神社渋沢神官の息子。泰蔵は少年時代父渋沢神官について四書五経を学んだので学友であった。漢詩での依頼(新田祠畔吾名記)を受け、甚八・渡辺・金井に連絡。友人の戦死を悼み、その業績・人となりや故郷の誇りを伝える思いで建碑に賛同。弘前での福島大尉の葬儀には世良田小学校職員生徒惣代として弔詞を奉呈。

四つ目、除幕の盛典に祝詞を寄せた人々

各層に亘り、15名の方々から祝詞が寄せられた。肩書と姓名は以下の通り。
群馬県知事 金澤 正雄。新田郡会議員惣代 高橋 芝之助。世良田村長 粕川 宗造。村会議員 北爪 清一郎。世良田尋常小学校 栗原 利平。青年訓練所補充学校教練主任 平原 克二郎。宇都宮郵便局監督区 境町郵便局長 中澤 重勝。

新田郡連合分会会長 斉藤 修太郎。世良田青年団 松澤 守市。世良田消防組 総頭 高松 甫。大字惣代 関根 原一郎。

在郷軍人会世良田村分会 吉岡 耕一。日露戦役従軍者平塚惣代 渋沢 清治。

忠魂碑建設委員長 田部井 久三郎。肩書なし(友人代表) 渋沢嘉津間、病床にあり当日欠席の為建碑の盛儀逍遥の詞を奉呈。

終わりに

建碑旅の仕上げの群馬訪問

幾つかの調査・確認の為に平成24年3月12日15時過ぎ福島国治氏を訪ねた。国治氏は私のために忙しい時間を割き三つの資料を準備して頂いていた。

①、士官学校在学中の泰蔵生徒が父泰七に宛てた書簡(写真下)。文中に次の記述あり。「(略) 中沢 又二郎、渡邉 克太郎(鴎州の子)氏は士官学校の直に前に住居致し在り (略)渡邉 克太郎の妻は島村の人にて清水 庄三郎の親類(?)というなり(略)」

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克太郎は鴎州の子と明確に語られている。鴎州と克太郎の関係が同一人か否かも含め掴みきれなかったので大変有難かった。士官学校のすぐ前と言う事で交流が強くあったと思われる。

②、成田寅之助から甚八に宛てた立見師団長撰文にかかわる書簡。余りに長文、達筆、即読は到底無理なので後日の楽しみにとっておくことにした。

③、葬儀及び建碑当日の弔詞、祝詞。福島大尉との関係や思いが分る貴重なもの。

国治氏には今までに書簡で依頼し、回答を頂いたり、今回のように訪れて(ご準備頂いた資料を)拝見させて頂いた。そのご厚意のお蔭で、建碑の旅は格段に充実し、此処まで来ることが出来た。心からの感謝を申し上げます。

建碑をめぐる旅の終わりに・・

『福島泰蔵建碑経過録 高木』の最後のぺージには天人寺の宗派(天台宗)の座主大僧正梅谷孝永が群馬県知事金沢正雄に宛てた「天人寺記念碑建設願い副申書(昭和七年三月一日付)」を書き写し、三月四日進達と付記した覚書き(メモ)が記されていた。

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私の旅は伝教大師(最澄、天台宗開祖)の聖句に出会ったことから始まった。そして今回、記念碑建設の許可願いを本山の座主が副申した事実もわかった。不思議な因縁、奇縁である。

福島泰蔵建碑書類を「福島家宝」として残さんとした当時の遺族・親族・知人等の篤い思いがずしっと伝わってくる。この「福島家宝」の箱は”福島泰蔵の誇りを残す”、”いつの日か陽の目を”の具象であり、引き継いだ福島家当主国治氏が背負わされた人生の重みそのものでもあった。

参考・引用図書 高木勉三部冊、「修親(平成15年5月号、平成21年11月号~平成22年2月号、同年5月号、同年9月号)」。

この稿終わり

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【よろく】福島泰蔵碑を思うーその三 建碑にかかわる故郷の人々の福島大尉への思い [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー建碑に込めた思い]

三つ、建碑にかかわる故郷の人々の福島大尉への思い、を思う

始めに

福島大尉戦死の報を受け、当初に思いに駆られ動いたのは、弟甚八。その死後(大正5年9月22日)タスキを受けたのは高木昌(建碑時遺族親族代表)。

一つ目、甚八の動きと思い

一番目、甚八の動き

動起には第一回(三回忌、明治40年に建碑を目指した初動の時期の意?)、「撰文が出来て居りその意志がありましたがその儘となり」、第二回(七回忌ー大正2年に建碑を目指した中興の時期の意?)、「故甚八氏が色々配慮し書は金井此恭先生御揮号下さるお約束でき居り篆額の揮毫者未定。石材は不肖(高木昌)が研究を為し現在の石を交渉中重ね々の不幸続きに中断」とある。

戦死の報が入った時、父泰七は体調を崩していた。甚八は父に代わり師団長などへ戦死の状況を尋ねる手紙を書き、弘前での準師団葬並みの葬儀に参列した。師団長との書簡往復の間に嘉津間から福島大尉の希望を聞いていた甚八はその件を相談し、是非碑を作るべしとの意を確認し、意を強くした。

金井此恭と渡邉欧州の快諾と協力申し出を受け、建碑に向かって動き始めた。お金の事は成田虎之助に相談、応諾を受けた。撰文案は立見の手になるものが三回忌(明治40年)には出来上がっていた。書は渡邉の手で、金井名義とする約束であった。篆額の揮毫者、石屋を頼む段取りとなったが、立見死去(明治40年3月6日)、金井死去(明治40年5月13日)、甚八死去(大正5年9月22日)と続き、ついに泰七死去(大正9年2月23日)、中断のやむなきに至った。

二番目、甚八の思い

兄泰蔵とは16歳違い。自分が家業を継がないで申し訳ないと思うせいか、自分に対し物心ついた時から人としての歩み方、忠孝を教えてくれた。日清戦役出征前、「小事実録」を書き残し、小さなことをきちんとやる人間になれを自分の体験で語ってくれた。日露戦争従軍間、論文が全軍に配布された得意の便りが来たときつい手柄を立てろと言って猛烈に叱られた。手柄を立てるために戦に来ているのではない、御国に奉公するだけだ、結果はその時次第。余計なことを考えず自分の仕事に専念しろ、絶交するぞ。とのやり取りが戦死のほんの1ヶ月前。兄の私心を捨て、国家へのご奉公を本心から思う真心に心うたれた。幸いに師団長はじめ皆さんが兄を大切に思っていただいている。あんな立派な葬式もやっていただき、高名を残すことがみんなの願い。今となっては、建碑をこの手でやり遂げることが兄への何よりの恩返しだ。福島家の誇りを碑という形で残すことが何れ継ぐべき当主としての務めである。

二つ目、父泰七の思い

体調を崩していた泰七は息子の遺品が帰ってきた時、長持ちを作り、その中に保管、門外不出を命じた。御国に捧げた以上、戦死は覚悟していたが、八甲田山雪中行軍出発前の高ぶった心境を伝える手紙。対露戦出征後に「論文ー露国に対する冬季作戦上の一慮」が偕行社臨時増刊号に掲載され全軍に配布された喜びを伝える手紙。どうしてもとせがまれ畑を売り払って与えた名刀国安を手にしたときの感極まった喜びの表情等、思いは次々に駆け巡り、時を遡って行く。

志を果たし、悔いのない一生であったと思う。その中であれほど本人が精魂込めた冬季行動標準作りが幻となってしまったことが心残りである。八甲田山雪中行軍が第五連隊遭難の影に隠れてしい、その仕上げが出来なかった為である。

いつか息子泰蔵の志と業績が陽の目を見る日が必ず来る。その時に息子に十分語らせたい。だから門外不出、散逸させるな。甚八に任せている建碑、泰蔵が各地の古墳を訪ねその主と語ったように、志のある若者がいつか訪れ、心ゆくまで語れるように。是非やり遂げて欲しい。福島家の誇りを残す為にも。

三つ目、高木 昌がバトンを受け継ぐ

動起には第三回(二十七回忌ー昭和7年4月5日、建碑を目指した仕上げ時期の意?)、昭和6年4月長男勉が日本体育会体操学校へ入学したところ偶然に当時の校長が稲垣中将(福島と士官学校同期)。同中将から同期生を紹介され、急展開して建碑へ。

先ず鈴木大将(福島大尉と士官学校同期、軍事参議官、立見師団長の五女元子の婿)に引き合わせを受け。同中将からは同期生名簿等を恵與され更に故人の親友神頭中将を紹介受け。同中将は戦死の日まで一緒、「福島君は戦死した。併し其れだけでは最後を完了したとは言えぬ、碑が立つて其が地方一般民衆の激励感化に永久に役立つて其処に始めて意義ある完全な最後といふのだ。友人として切望する」、黒田少将からは「士官学校同室にて枕を並べて寝た友人建碑には賛助すべき義務あり、如何様にも骨を折る」と激励を受け、同期生の励ましに一同深く感佩。この時機を失してはと建碑準備を加速。

高木昌は勉の稲垣中将との出会いをきっかけとして、精力的に動き、1年足らずで一気に竣工にこぎつけた。懸案であった額の揮毫は軍事参議官鈴木大将に依頼、快諾された。この機を逃したら再びチャンスは訪れないだろう、みなさんの力を借りて、福島家の力を合わせてこの大事業をやり遂げる。福島家の誇りを残したい、その一心であった。甚八亡き後の孝は未だ若く、親族が助け合って漸く福島家を盛り立てており、前途は多難。是を機として福島大尉の一人娘操が嫁した倉永 恒記氏とは漸く連絡が取れた。成田は遠い。ここは自分が背負わなければならない。

東京在住の息子勉の助力を受け、鈴木大将始め同期生との連絡・折衝。軍以外の関係者問の連絡折衝は自ら行った。前述の撰文者の確認。建碑役割調整・依頼。賛助者等募集。成田寅之助への出資催促。石屋との契約・竣工状況確認。忠魂碑建設用地確保のための天人寺・県との調整。親族関係の取り仕切り。除幕式企画・運営。金銭出納管理など。大事業の中心にあって、かかりっきりの八か月であった。

四つ目、高木 勉の思い

日本体育会体操学校学生の時、叔父泰蔵の業績について関心を持ち、福島の蔵に入り校長と同名の稲垣某の泰蔵宛ての手紙を発見し、本人と面談したことから建碑竣工へと一気に進む。地の利をいかし、叔父福島泰蔵の同期生との連絡・折衝面で父を助ける。

幼児期から何かにつけ、母親(福島泰蔵の妹,六女むつ)から「福島の兄上は…」と教えられて育った。ずーっと関心を持ち続けたことが前述の建碑再興の端緒をひらいた。新田次郎の八甲田山死の彷徨と映画「八甲田山」に刺激を受け、歪められた叔父の人となりや業績、正史を世に知らしめたいとの篤い思いと福島泰蔵の甥である誇りを持ち、「われ、八甲田より生還す(サンケイ出版)」、「八甲田山から還ってきた男(文芸春秋)」、「福島大尉の人間像(講談社出版サービス)」を著した。渾身の傑作ばかり、私の福島研究をより深く進めるバイブルともいうべき貴重な著作である。唯八甲田山雪中行軍における二名の凍死体発見の件の記述ー事実はなかったーが身内びいきに過ぎるとの印象を与えた点があったとすれば残念なところである。

五つ目、成田虎之助の思い

福島大尉の妻きえの実家(弘前、名家)の兄。福島とは漢詩同好会の仲間。転勤後も詩の交流が続く。建碑費用900円(註)拠出。当時の生活レベルでは並大抵の負担ではない、と思う。何しろ何度も催促されて、3回(200円,500円,200円)に分け払ったのだから。きえは自分の勧めで福島泰蔵の嫁になった。僅か2年3ヶ月の結婚生活で、未亡人となってしまった。不憫だ!しかし怪男児福島泰蔵の嫁としての悔いはないはず、誇りを持って操を育てて欲しい。

註今の貨幣価値ではどのくらいになるか。難しいが、コメ10kgの値段で当時(3円20銭)と今(4500円)を比較すると現在の貨幣価値では126万円となる!こんなもんではないだろう・・・。もっと他に尺度があるはず・・・。

六つ目、親族の思い

親類相談会、親類円卓座談会等と名前が変わるが親類の集まりが主要メンバーや石屋との連絡・訪問・調整のめどがついた頃即ち11月23日から始まり、3月6日にかけて7回開催された。これを踏み台として発起者会議、委員会と発展し、除幕式当日へとつながって行く。親類の集まりは建碑と除幕式当日関連業務の集約を行い、除幕式が秒読みに入った段階で役割を終える。実に基礎作業とも言うべき地道な作業の段階で福島家親族が力を合わせている。そこに名前が見える人は以下の通り。

よね(長女、福島よね)、よう(二女、北爪よう)、りく(四女、増田りく)、とく(五女、栗原とく)、福島亀蔵(不確定)、北爪権平(不確定)、福島清八(不確定)、大島伝蔵(不確定)、高木昌(六女むつの夫)。

女性陣は手紙投函、事務作業などを手分けしている。

四女りくは福島大尉の結婚式・披露宴(明治35年10月13日、泰蔵38歳、きえ21歳)に父泰七と共に参列。結婚式は弘前偕行社で、祝宴は成田家大広間で行われた。兄泰蔵の語り草となった、大酔、前後不覚の高鼾を目撃した。

当日の運営の委員長は、田部井 久三郎氏、副委員長は北爪(名前不確定)、福島清八の二氏。

田部井久三郎は以下の田部井の縁続きに違いない。泰蔵に教導団入団を薦めてくれた、田部井 冽氏。教導団入団の為、出発する泰蔵を見送ってくれた田部井磯七郎、叔父田部井与惣治。与惣治は士官学校卒業式に父泰七と共に列席、後見役を果たしてくれた。

親戚筋、縁続きの人々?が建碑の進捗を喜び、喜んで役どころを引き受けた。

終わりにー除幕

除幕は泰蔵の一人娘操がおこない、甚八の息子孝がこれを介添えした。これは親族の総意であった。泰蔵戦死後に残された未亡人きえが懸命に育て、海軍士官倉永恒記に嫁いだ操。甚八亡き後の福島家を何れ背負わなければならない未だ若い17歳の孝。父甚八の顔を知らずに育った孝、その孝と福島本家を遺族が助け合って今があり、同時に協力一致してこの大事業を行った。今までそしてこれからの親族・遺族協力一致の象徴的行事であった。

以下次稿に続く
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【よろく】福島泰蔵碑を思うーその二 建碑にかかわる立見師団長の思い [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー建碑に込めた思い]

二つ、立見師団長の思い、を思う

始めに

建碑除幕当日の写真(写真下)、満開の桜の下、賑々しい光景に沢山の人の熱意が伝わる。当日は平塚村うちの小学校は休みとなったと聞く。

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平成23年7月5日 福島国治氏宅を倉永氏と共に訪れた際、親族揃っての遺品確認等のすべてが終わり一息ついたところで国治氏が福島家宝と上書きのある箱(写真下)を蔵から出してこられた。私は早速拝見した。中には「福島泰蔵建碑の動起及び経過の大略(以下動起)」と「福島泰蔵 建碑経過録 高木(以下経過録)」の二つがあった。

修親投稿の『予想外を訪ねてシリーズ』以降、建碑の経緯や建碑の思いをつないだ中心人物は誰か?が私の中心テーマであった。平成22年2月20日福島家訪問時、お集まりの方々に私の記事が載った雑誌「修親」をお贈りした。それを見て何か役立ててと栗原貞夫(福島大尉の妹五女とくが嫁した歌三郎の長男愛太郎の長男、つまりとくの孫)氏から倉永氏経由で資料を送って頂いた。その中に動起(コピー)があった。動起は昭和7年4月10日の除幕式での遺族・親族代表高木 昌の挨拶草稿であった。それには弟甚八から高木昌(福島大尉の妹六女むつの婿)へと思いを繋いだ経過の大略が記してあった。それを元に、修親(平成22年9月月号の『続福島大尉の強さを訪ねて 『福島泰蔵建碑ノ動起及経過の大略』を思う・・』で中心人物はを立見師団長、弟甚八そして高木昌であったと書いた。この記事が国治氏の目に留まり呈示につながった、と思っている。それにしても経過録は全くの初見であった。経過録は建碑に関わる関係者の発意、中断、再興そして建碑当日に至る詳細な動きや書簡等の記録であった。

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その経過録(写真下)を見て、碑が出来たのは昭和7年4月10日、立見大将がなくなったのは明治40年3月6日。撰文は本当に生前書き上げてあったのであろうか?についての疑問が氷解し、関係者の関わりがはっきりした。

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①間違いなく立見師団長が生前書き上げた撰文であった。
②建碑にかかわる関係者の役割ー福島大尉に対する思いの強さがわかった。

一つ目、立見師団長撰文について

私は碑文は陸軍、軍人の実態がわかり、本人を良く知る人でないとかけない。その表現方法を含め、立見師団長以外にはあり得ない、と思っていた。動起には三回忌の明治40年撰文が出来ておりましてこの時その意志がありましたが其の儘となりました、とありほぼ間違いないと確信した。しかし福島大尉戦死(明治38年1月28日)後、ズットと戦地にあって明治39年3月弘前凱旋、その後体調を崩した立見師団長の関与の程度は如何なものか、という疑問が私の心の片隅で、ほんの隅っこだが、湧いてくるのを消せない、迷いみたいなものがあった。以下の二点がそんな迷いを吹き払ってくれたのだ。

明治45年中秋ごろ、(渡邉克太郎)からの手紙を)甚八から見せられ、撰文の所在を承知していた高木昌は、甚八没後、息子勉の稲垣中将訪問(昭和6年9月12日)後、建碑準備を加速する中で、それが本当に誰の筆になるのかを調査した。成田寅之助の返信(10月27日付)及び渡邉克太郎(11月13日付)の書簡から立見師団長であると確認。同時に渡邉の碑文を金井之恭(金井先生)名義とする約束(11月20日付成田から高木への書信)であった事も分った。

昭和6年12月13日、高木昌が鈴木大将宅を訪問した時、以下のやり取りがあった。
「閣下は立見将軍の撰文を否定なされ色々実証を挙げられ立見将軍の伝記中の一節を対照、文の骨格気概の異差を述べらる」。

これに対し「午前(この日午前(註葉山の渡辺宅訪問)渡邉先生より拝聴せる立見将軍の御添削の箇所を申上げ更に渡邉、成田氏よりの書簡を順次に御目にかけ漸く了解」とある。

以上から撰文は立見が概案を示し渡邉が作ったか渡邉の書に立見が手を入れたか或いはその両方で作られた、と思われる。

二つ目、立見師団長の思い

立見師団長は福島大尉を弘前中隊長着任から山形中隊長での戦死までの6年3ヶ月、手の届くところに置き続け、手放さなかった。二人は大陸での対露冬季戦に備えた冬季行動標準作りが第八師団の義務であり、急務との使命意識を共有した。福島は一連の厳しい実験行軍や演習を自ら発意・挑戦して、前人未到の成果を上げるとともに一名の犠牲者も出さない働きをした。その先駆け活動は八師団全部に波及してレベルを上げ、師団長の狙いに沿っていた。実施報告や論文でも真に知的レベルの高い作業で全軍のレベル引き上げに貢献した。露軍10万奇襲でたちまち窮地に陥った黒溝台会戦。せめぎあい(根競べ)の中、臨時立見軍の”全滅を期しての”総攻撃転移に際し、最後まで温存された総予備中隊長として、戦線投入直後1時間で棄命を率先躬行、全軍に勢いをつけた。

戦死の地に立ち、その忠義心は讃えるべし、将才惜しむべし、詩才並びに風流の心愛すべし。碑に刻み、永久に顕彰すべし と強く思った、に違いない。

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註 轁(とう)略驚鬼の最後の節の「多」は「名」の誤り。

この撰文の中で特に目を引くところが五ヶ所ある。棄命、忠勇義烈、進栄退辱、雪中行軍両次、未会傷一人である。
立見師団長にとって一番強く印象つけられている福島大尉の生き様は『棄命、忠勇義烈』である。従って碑文冒頭。黒溝台会戦での総予備中隊長福島大尉は棄命を率先躬行した。その覚悟を表す訓示が『進栄退辱』、前夜の自分の檄(全滅を賭して黒溝台を取り返せ)に真っ先に応えんとした言葉でもある。岩木山で概成し、八甲田山で仕上げた雪中行軍を意味する『両次』。その両次行軍で厳しい状況への挑戦と事故無しを讃え、その一方で第五連隊210名全員遭難を心底悔やむ『未会傷一人』。福島大尉を悼む思いは強い。

終わりに

(甚八の依頼というか相談に対し)甚八に建碑すべしを伝え、後押しすると共に、撰文を約した。福島大尉の轁(とう)略余音(新田祠畔吾名を記せ、前稿参照)に対し、轁(とう)略驚鬼で応え撰文の後を締めくくった。こういうのを”風流”と言うのであろうか・・・。

轁(とう)略驚鬼

新田之郷古出忠臣【新田之郷、古(いにしえ)より忠臣出(い)ず】流風尚在又見斯人【流風尚在り、又斯人(このひと)を見よ】轁(とう)略驚鬼叱咤捲雲【轁(とう)略鬼を驚かし、叱咤雲を捲く】義比山岳命付風塵【義を山岳に比し、命を風塵に付す】違芳千歳名勒貞珉【違芳千歳、名を貞珉(ていみん)に勒(おさ)む】

流風=遺風、轁略=兵略、風塵=風に吹き飛ばされる塵のように軽い形容、貞珉=石碑に用いられる美石

風流の心、言い得て妙の表現に感服!後ほど述べるが、黒溝台会戦で、福島大尉が最後を「士は己を知る者のために死す」とばかりに鬼神と化した心境、その心境が手に取るように分っていた立見師団長の心境。両者の心の通い合いの強さも伝わってくる・・・。

この稿終わり
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【よろく】福島泰蔵碑を思うーその一 福島大尉が建碑に託す故郷への思い [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー建碑に込めた思い]

始めにー端緒

福島大尉の名を残したい、いつか陽の目を見させたい等、その周辺の人々の思いが一番凝縮されたものがある。「福島泰蔵碑」である。そこに光を当てた散歩旅を、今しばらく続けたい。

「新田祠畔記吾名」を思う

上記は日露戦争従軍詩集轁(とう)略余音中の「郷友に寄す」と題する詩の一節である。故郷平塚村赤城神社神官の子息嘉津間に(明治37年11月13日作)日露戦争従軍中の戦陣から送っている。

此行唯在致丹誠【此行(こう)唯丹誠を致すに在り】絶寒風雲不思生【絶寒の風雲生(いき)るを思わず】一別託君身後事【一別君に託す身後の事】新田祠畔記吾名【新田祠畔吾名を記(しる)せ】

故郷に名を記せとの願いを込めた詩は彼の戦死後(明治38年1月28日於黒溝台)の明治38年3月30日、萬朝報に掲載された。死後27回忌を期して、昭和7年4月10日生前の希望通り故郷平塚村天人寺境内に福島泰蔵碑が建立された(写真下)。

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27回忌を期しての建碑。単なる勢いではない。多くの人の思いを繋がなければこうはならない。死後繋ぎ続けた多くの人の関わりに物凄く興味が惹かれ、三つの思い旅をした。一つ、福島大尉の故郷への思い。二つ、立見師団長の建碑へのかかわりと思い。三つ、故郷の人々の建碑を通しての福島大尉に対する思い。

一つ、福島大尉の故郷への思い、を思う

一つ目、望郷

当初から成績優秀者に認められている陸軍士官学校受験の推薦受けねらいの教導団入団(明治19年12月)であった。途中で帰ってくることはならんときつく言いきかされての門出。狙い通り明治20年8月には士官学校受験をゆるされ、11月合格。しかし、卒業後曹長になってからの士官学校入校がきまり。従って折角合格したのに1年後の士族受験合格者と同じ学年として、空しく待つことになる。その心境を”永滞”と本人は言う。福島泰蔵は少尉任官迄足かけ7年間家の門をくぐらなかった。この時の彼の心を支えたのは向学心と望郷の思い。

二つ目、励み

福島大尉は志をたて、国家の大事に役立ち、名を残す事は国家に対する忠と両親に対する孝の両全の途であり、我が人生の快楽である、と考えた。その通りに陸軍教導団・士官学校の足かけ7年間の修行は勿論、その後の軍務や自己研讃に懸命に励んだ。その際、「(略)故郷を辞するも他山の月異境の風に一身を送る際は一日一時も父母故旧のことは忘るる能はざる者なり(略)予は常に青雲の志を達し錦を衣て故郷へ還り父や母や弟や妹や親族の者や村老や里婆や朋友や凡ての人に向ひ一喜を得ることを希望して止まざりき(略)」であったと小事実録『男児錦を衣て故郷に還る悲かな母は無し』で述べている。父母故郷を思う事、錦を飾るぞとの思いが修学の励みであった、と正直に語っている。

家業衰退の中、学業に専念させてくれた恩、啓沃校退学に際しての中途半端な人間になっては不可と迦葉山山籠もりを命じた厳しい叱咤の恩等に自己の成長で応えたいとの思いが強かった。又本来家を継ぐべき自分が学業で身をたて、軍人の途を歩んだ。その事で家の行末を案じ、16歳下の甚八を教導する思いも強かった。

「小事実録」を弟に書き与え、その緒言で「(略)予郷里を辞せしより将に八年ならんとす家に一弟あり辺々の婆心自ら遭遇する所の小事を碌し之を弟に遣り以て兄の志を知らしめ且つ道学の一助となさしめんとす(略)明治廿六年七月廿三日高碕の寓居に於いて 晩成子 福嶋泰蔵記す」とその教導の思いを述べている。

三つ目、絆

師や友人との交流を大事に長く続けた。教導団生徒の時、師範学校時代の地理学宇田川教官を東京見物に招待せんとしたが父母への孝行へ充てろと諭され、その手紙を終生自己の戒めとした。啓沃校の恩師、渡辺鴎州(克太郎)との交流も長く続いた。県出身者人脈を活用し、知遇を得る努力をした。例えば金井此恭、安川繁成、勝海舟、日高 藤吉郎を士官学校生徒時代に訪れ,交流を続けた。安川との面会について「小事実録」・「勅人官吏を庭番人と誤見す」で「安川翁の邸宅を訪れた際、一室に通され待たされること数十分。福島生徒は不平を語り始めた。先ほどから庭で草むしりをしていた一老父が立ち上がり室に入り上座へ。安川繁成その人であった。翁の宅を出でて後予は安川翁を一の僕丁視せしを甚だ失礼の事なりと思ひき」と強烈で印象的な出会いについて語っている。県出身将校人脈も強かった。これらの人脈を研究調査や自己研鑽に活かしている。陸地測量部では諸外国軍特に露研究を行い、県出身の参謀本部森 邦武大尉の協力を得て、陸軍大学校兵学教官東條中佐の「露人の一都府的侵略筆法」を筆写する等している。

四つ目、郷土愛と誇り

故郷の偉人新田義貞・高山彦九郎を敬愛し、度々漢詩に登場させる。新田の荘等歴史上名高い史跡に囲まれて育ったことを誇りに思い。三山(赤城山・榛名・浅間山)や利根川の風光明媚を愛し、誇りに思っていた。少年時代刀水(利根川の別称)と号す。

後で述べるが、福島大尉は八甲田山雪中行軍において最も厳しい、最悪の事態ー田代での進路に窮しての厳しい露営の場面で、厳寒の木の芽峠で、多数の部下兵卒を凍死させた新田義貞の苦難のほどに思いを馳せ、自らを励ましている。

五つ目、心休める所で待つ

厳しい戦況と任務(総予備)で戦死、奇勲をたてるを覚悟する心境となった時、静かに眠りに付き、少しは知られるようになった名を残すのはやはり心休める所にと思ったに違いない。

脳裏に去来するのは、雪中露営演習の画期的成果と天皇奏上の栄。岩木山雪中強行軍・八甲田山雪中行軍の成功。偕行社懸賞論文「降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響」が優等賞を受賞し論文「露国に対する冬季作戦上の一慮」が功一等の扱いで偕行社臨時増刊号に掲載され全軍に配布され、天皇奏上の栄に浴した事。

そして、自分は各地の英雄の古墳を訪ね歩き、古墳の主と語り合い、酒を灌いできた。それは英雄の心を知り、自身の成長の糧としたかったからである。志を持つ有為な若者が私を訪ねてくれ、心ゆくまで語り合い、酒を酌み交わす。そんな日がいつの日か訪れるであろう。陸軍士官学校受験の時に書いた作文『吊古墳記』の再現である。”碑”はそのためになくてはならないもの。その日を楽しみに、故郷の人々に囲まれて心静かに待ちたいものだ。

この稿終り
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