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書き終えてシリーズ総括 [書き終えて]

始めに
 「拓く 福島泰蔵正伝」の何処かに私の関わりを書きたいと内容との関わりよりも優先し、前書き・後書を充てた。そこを読んだ多くの方から「15年も福島大尉を追い続けたもの、根源は何か 」という疑問を呈された。ある意味狙いは当たったというもののその問いに対し私は答えを持ちあわせなかった。疑問が増えるにつれ、そこに答えるのは著者の礼儀という思いが私にのしかかってきた。たまたま「集いシリーズ」で答えを探し始め、施設同期会のS君の疑問に応える形で一応のゴールとさせて頂いた。私の中で今この段階で整理できた意味は大きい。その他も含め、出版後も「書き終えてシリーズ」でアクションをとり続けるからこそ、見えてきたものがある。これを機に、それらを整理し、福島大尉旅の大詰めと考える次のステージへの区切りとしたい。

1つ、「拓く 福島大尉正伝」のフォロー
 「拓く 福島泰蔵正伝」ではこれが福島大尉だ、埋もれていた真実だの境地に到り、雪中行軍と生きざまについて福島大尉が残した資料により、何を思いどう行動したかの真実を明らかにした。読者からはこれらに沿った感想を頂いた。特に最近はより深みのある反応や感想を頂き、著者として感じるものがある。例えば小郡駐屯地修親会や第4師団中隊長集合教育での講話を依頼され、31連隊八甲田山雪中行軍や福島大尉の生き様の真実を語り、併せて防衛のプロとしての参考事項等を語った。30年ぶりに訪ねてくれたT君は国難対露戦(陸戦)勝利の因は「零下12度℃になれば露営を切り上げ翌日の行動に移るという露軍の規定を実地に究めたこと」と冬季戦研究、雪中行軍の本質を突かれた。N氏は「福島大尉を悪い思い込みで見て「拓く」を読まないでいたが、読んでみて見方を改めた。私のように5連隊の悲劇にとらわれて福島大尉を偏ってみている人に(知らずにいる多くの方にも)益になる本である。」と福島大尉資料で語る真実の力、福島大尉のありのままの人物像からの触発 を語られた。歪んだ或いは誇張され偏った福島大尉しか見ないではなく、先ずは真の像を押さえて欲しい、と思う。S君は「拓く 福島大尉正伝」が5連隊遭難で覆われた真実を拓く、と語られた。著者の(当初の)意を超えた意と感じた。これらをもっと掘り起こし、(31連隊)雪中行軍や福島大尉の真実を明確にし、一人でも多くの人に知って貰い、教育・研究等に活用されるよう力を尽くしたい。

2つ、福島大尉が、生きていたら今に何を語るか
 一方でつい先日(6月9日)、東筑高校同窓会でK君からは3回読んだ。終章「立見師団長の不覚の思い」は立見師団長の思いにかりて著者の思いを述べている。今の世に活きるメッセージを感じた。例えば、武が嫌われ軽視されてきた。この結果として福島大尉や31連隊の雪中行軍が埋もれてしまった。全体を通して著者は雪中行軍と福島大尉の生き様の真実について、埋もれたものを掘り起こして、語っているが、そこだけではない。(終章では)武が嫌われ軽視されることが齎すものは何かというメッセージを感じ、考えさせられた。」との感想を頂いた。更に別のK君からは「40歳という若さで死んだ。生きていたらどんな陸軍、世の中になったであろうか」との感想も頂いた。これらを聞いて、武人(もののふ)として生き、地に足の着いた使命感を貫いた福島大尉ならではの今に活きるメッセージについて力強いエールを頂いた。以前から思っていたがここにきて背中を押された気がした。福島大尉が生きていたら今をどう語るか、の切り口でこれを深堀し、思いを巡らそう、と決意したのだ。出版原稿仕上げの段階では埋もれた福島大尉の真実を明らかにすることに注力し、今に活きるメッセージにまで手を拡げることは散漫になる、と終章だけの意志(スローガン的な)呈示に留めた。両K君は私の真意を見抜いてくれた。この点は今も私が福島大尉を追い続けてきたからこそ分かったことであり、両K君に感謝したい。メッセージに軸足を置くので「拓く」のフォローというより、「拓く」の拡充という意味で次のステージが相応しい、と思っている。
    
3つ、15年も福島大尉を追い続けたもの、根源は何か
 出版が決まり、原稿作成の当初、文芸社の役員の方から表記疑問を呈された。福島大尉を探す旅を念頭に「感応と共振」のワクワク感と前書きで書いた。しかし、未踏の思いは残った。「集いシリーズ」で各結節ごとに整理しようと思いつき、「集いその7続き」で一応の結論を得た。出版後もフォローを続けた根源は「先は見えないがこの先何かがある、福島大尉旅の奥深さや自分を信じもっと前へ、という前向きの思い」であった。整理にけりをつけられたS君の示唆、啐啄同時の集いに感謝。同時にS君の余裕を持って生きてきた生き様と感動する(若々しい)心に敬服。何故かは「集いその7続き」を読んで頂きたい。

 但し情念の部分は別、私の胸の中でもう少し見つめたい、と思っている。情念について付言すると、頂いた疑問の中で、(懇意ではあったが疎遠にしていた方から)いつの間にこんなことをやり遂げたのか、(年賀状などで福島大尉旅は承知していたが)ここまでとは思わなかった、後世に遺す仕事をしまして羨ましい、人生の仕上げの出版にロマンを感じるなどがあった。ことを為す意地や後世に残す仕事をする心意気などの見地からの発言と理解した。福島大尉旅は成案があって始めたわけではなく、感応と共振の連続に恵まれ、もう少しもう少しと前へと進んでいるうちに大化けしたものである。いつかどこかで福島大尉に名を借りて私の人生を重ね、ことを為すや名を遺したいなどの思いの源泉、情念といった方が適切かもしれない、が湧いてきたように思う。いずれその時が来たら考えてみたいと思うがここではこの辺で止めておきたい。


4つ、これで良いのか、を伝える
 4月27日小郡駐屯地広報資料館を訪れた。郷土(福岡・久留米)編成の龍(雲南正面、56師団)や菊(フーコン正面、18師団)の56工兵や18工兵連隊の戦績資料を拝見するためである。小郡駐屯地での講話当日、56工兵連隊長・龍陵守備隊長の小室中佐のお孫さんが東京から来館された由。お借りした「魂は甦る」に関連して本ブログ「小郡駐屯地講演会その1 龍陵守備隊隊長小室中佐の無断撤退命令を思う」にも投稿させて頂いたが大きな二つの収穫があった。著者が強く意識する地に足の着いた使命感に対比する新しく指揮下に入った龍陵守備隊に対する2師団の任務付与において示された師団長の大義オンリーの使命感と同紙に掲載された軍人勅諭に建国以来の功臣大伴氏が語られていたことである。これらから何かの因縁を感じたのも訪問理由の一つであった。館内には貴重な資料や遺骨収集の模様も展示してあった。英霊に敬意を込めた丁重な扱いであった。迂闊ながらこのような資料が展示してあることを知らずにいた。私同様知らずにいる人は多いと思う。工兵の聖地であり現代の施設の聖地としても大きな意義を持つ。このことを多くの人に知って貰いたい、と思う。
 また多くの従軍記・戦記(手記)があり、その手記の幾つかを見させて頂いた。特に戦後20年ぐらい経って書かれたものが多かった。戦後の混乱から抜け出し、生活も安定して余裕が出てきた頃に戦友の戦いぶりを残さねばと書かれたようである。中でも目についたのは、書いた人の思い、「これで良いのか」、という英霊に応える世の中創りのための魂の叫びであった。名もない人々の従軍記や戦記(手記)を伝えるのも大事なこと、と強く感じた。次のステージ「福島大尉が、生きていたら今に何を語るか 」との繫がりも大ありだと思う。
 
5つ、下り坂、黄金の70代のただ中にいる。今なすべきことは?
 
1つ目、感謝!感謝! 
 前稿でS君から頂い本からの気づきを書いた。今私は76歳、人生の下り坂で黄金期のただ中にいる。名実ともに耕好爺書楽歳である。その充実感はまさに「晴耕雨書」である。晴れの日にはマイファームで汗を流し、雨の日はリーダーに思いを巡らして書くことを楽しんでいる。これに「拓く 福島泰蔵正伝」のフォローや拡充も加わる。そのことに感謝!感謝!という気づきである。

2つ目、今なすべきこと
 この「晴耕雨書」は昨年3月までは仕事、昨年4月からは出版というやりがいが中心にあり、どちらかと言えばサブライフの意味合いが強かった。しかし今は「晴耕雨書」が生きがいそのものである。従って「晴耕」については果・花・菜の気持ちになって性根を据えて向き合い、その中から地に足の着いた喜びや楽しみを得たい。性根を据えて、とはこれからぐっと希薄になって行く世間と孤立する自分を受け入れその心を穏やかにして、という意味である。「雨書」については書き終えてシリーズで見つけたネタを基に自在な思いめぐらしを楽しみたい。特に「名リーダーを思う」は次のステージ「福島大尉ならではの今に活きるメッセージ」への反映も視点に置きたい。今までブログや出版で練習した「書く」腕をもっと磨きたい。書く苦しさに克ち楽しさをもっと味わいたい。

終りに
 以上アクションをとり続けてきたからこそ見えてきた諸点について、この稿を区切りとし再フォローを続けたい。「福島大尉が、生きていたら今に何を語るか 」については暫し時間を頂いて想を練り、次のステージに進み、福島大尉旅のラストランとしたい。

本稿はブログ「晴耕雨書」にも投稿しています。
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ある集いに思うその7施設同期会続きその2・終り [書き終えて]

前稿から続く

3つ目、「百歳人生を生きるヒント」読後感
 表題の本(五木寛之、日経プレミアシリーズ)をS君から出席者に進呈された。85歳の作者の視点は75,6歳の我々に非常に身近に感じた。軽く読めるから、読んでみてくれ、とのこと。手にして帰りの車中で一気に読破。第4木曜日の読書会で「ライフシフト」を(自分は)日本ならではのキャリア形成理論実践の観点から読んだが、今回は自分のこととして読んだ。その様を書きたい。
 
 作者は人生100年を25年づつの4期に分け、50歳からの3,4期を下り坂と認識している。登山で例えると上りだけを登山と考えてないか、登りと下りで登山である。そういう意味で下り坂のない人生は普通にはあり得ず、下り坂は人生の構成要素であり、そこに積極的な意味を見出そうとしている。そして50代は事始め、60代は再起動、70代は黄金期、80代はジブンファースト、90代は妄想、と10年ごとのあるべき姿を性格付けをしている。
 
 その中で50歳からの後半生を下り坂、70代を黄金期と認識する点に大きな共感を持った。
 
1番目、「人生の下り坂」について
 著者が指摘している老いの現実について4点が心に響いた。(自分が)心掛けてきて意を強くしている点であった。
①汚くなる。これに対し意識して身の回りをきれいにする。②体力・気力、耐寒・対暑力等がガクッと落ち、周辺を含め急(病)変が当たり前の境遇になる。これに対し今を悔いなく、一日一生の気持ちで過ごす。③下り坂の途中にも楽しめる景色はある。これに対し、楽しみは誰も与えてくれない、自分で見つける。④失ってゆく不安感や孤立感から無性に群れたがる。これに対し、所詮一人、あの世へは一人で行く。だから群れに安住を求めない。群れの中に居ても自分ならではの距離感を持つ。一人切りになり寝たきりになっても楽しく生きられる生き方を磨く。

2番目、「70歳代は黄金期」について
 私は76歳。著者の言う黄金期の真っただ中に今いる、名実ともに耕好爺書楽歳と感じている。
「拓く 福島泰蔵正伝」を書いてこれが福島大尉だ、埋もれていた福島大尉の真実だ、の境地に到達できた。多くの方の読後感などで私の境地を後押しして頂き書かなければ(出版しなければ)絶対に分からなかった。良かった!と思えた。福島大尉を世に問い、後世に遺るならではの仕事が出来た喜びは何物にも代えがたい。加えて福島大尉ならではの今に活きるメッセージ、地に足の着いた使命感や武人とは?等について深堀すべきという新境地に到達できた。このベースにブログ旅「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」と「晴耕雨書」を続けてきた、今も続けていることがある。

 これらを通じ思いを巡らし、書くことを時に苦しみ大半は楽しみながら修練をしてきた。自分の思いは奈辺にあり、どう書けば忠実に表現できるかを試し続け、ブログという公開の場で筆を走らせすぎてはいけない、配慮が無さ過ぎてもいけないと自分を縛り、何をどこまで書けるかを自問しながら、一歩ずつ歩を進めた。閲覧数を励みとしてここまでこれた。15年前には出版などという大それたことは思いもよらなかった。しかしその私にとって思いを巡らし、書くことは成長の証、大きな財産であり今後の下り坂を生きる糧となった。
 
 「晴耕雨書」の主題はマイファームで四季折々の花・果・野菜を愛で、リーダーとはに思いを巡らすことである。マイファームでの土いじりはある意味正念場を迎えている。雑草の蔓延り、特に今や地中深く根を張り巡らし、200坪の畑のいたるところに顔を出し繁茂する害草、への本格対処(戦い)が必至となった。自分の衰えを考えると、大問題である。どう克服するかはこれからも楽しく過ごせるか否かの鍵を握っている。旬を味う贅沢や孫娘に採れたての一番良いできものを贈る女房殿の喜びへの奉仕、花菖蒲のようにご近所様に喜んで頂く喜び、工夫や手間暇をかけ、育て、実りを目にし、手にする喜び等ここでしか味わえない楽しさに満ちている。又作物作りは明日を見据え明日に希望を与えてくれる。楽しさと希望は私の「黄金期」充実の柱である。もう一つの主題である「リーダー」については今までの考察を福島大尉像に反映させた。次のステージ「福島大尉ならではの今に活きるメッセージ」の考察へもテーマがテーマであるので、私の心に響く今の時代のいろいろな分野、陸上自衛隊に限らず、のリーダーのあり様を反映させることは更に発信力を増すに違いない、と楽しみにしている。この歳になってこのような楽しみや明日への希望が持てる生き方が出来るとは思わなかった。感謝!感謝!である。

 いよいよ残り半分の下り坂に入る。残りの「黄金期」を心から楽しみ、更に生を与えられるなら80代を「ジブンファースト」でこの世に一人しかいない自分に向き合い労り、そして90代を「妄想」で豊かに思い巡らし、出来ることなら書いて、楽しみつつ誰かのために、の道筋を辿りたいと願っている。
 終り
本稿はブログ「晴耕雨書」にも投稿しています。
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ある集いに思うその7施設同期会続きその1 [書き終えて]

前稿から続く

2つ、S君の「拓く 福島泰蔵正伝」の感想と疑問と頂いた本に思う
1つ目、感想
 良かったぞ、幹候校など若い人の(心の持ち方や任務・訓練の取り組み方の)教育資料として活用できると思い薦めている。お前が書けるとは思っていなかった。ボキャブラリーの豊かさや表現法の適切さに感心した。自衛官としての体験が随所に滲んでいると感じた。自衛官ではないが八戸の甥っ子にも送り読むよう薦めた。思い切って尋ねたところ、12.3冊ぐらい購入した、とのこと。思わず足を向けて寝れない(位有難い!)と叫んでしまった。こんな感激!がこの場にあるなんて信じられない思いであった。

2つ目、疑問
 S君から3つの疑問を提示された。持ち帰って、この稿を考えれば考える程S君の人間洞察力はすごい、と敬服した。僕がずっと意識して或いは無意識に考え続けてきたことであった。まさに啐啄同時、この時に到った、と考え答えを纏めることにした。この場では以下の2つに答えたい。

1番目、何故「拓く」というタイトルか?
 自分は5連隊遭難で閉塞した真実を「拓く」という意味でとらえたぞ、と疑問を呈された。私は国難日露戦争勝利のみち(未知・道)、自分自身のみちその他を「拓く」という意味で使い、その他には入っていなかったので予想外であった。しかしあることが脳裏を過った。書き終えてシリーズを書き進めるうち書いて良かった、と思えることが随分あった。最近ある方(N氏)から読後感を頂いた。それには、昨秋「拓く 福島泰蔵正伝」を購入していたが、福島大尉について良いイメージが持てず、積読(つんどく)にしていた。というのは、道案内に雇用した地元住人を残酷な目に遭わせ、かつ何人か重い凍傷にかかったのに拘わらず、その後の治療等に誠意ある処置を執らなかったとか、青森第五連隊の遭難現場を通過しながら、救援を行わなかった等の悪評をどういうわけか思 い込んでおり、好意を全く持つことが出来なかった(からです)。
3月に入り思い直して読んだところ、貴台の描かれた内容に引き入られ、1日で貼付してある
地図を参考にしながら一気に読んでしまいました。私の思っていたことは全く見当違いなことでした。福島太尉の偉大な人物像、任務や訓練に対する考え方や取り組み方、八甲田山雪中行軍の指揮等に強い感銘を受けました。私のように青森連隊の悲劇に気を取られて、誤解をしているも者もいることでしょうし、そう言う方に偉人への正しい認識を持たせる読み物ですね。また、現職の自衛官には訓練の考え方や、取り組み方を学ぶ格好な資料にも成ると思います、とあった。
 
更に、それにしても貴台は年月を掛けて、資料の収集や関係者からの聞き取りや現地調査等を綿密にされ、この本を上梓されたことに、驚嘆する次第です。ともあった。 私は大きな流れとして、福島大尉や第31連隊の雪中行軍が福島大尉が残した資料によらず、福島大尉の沈黙や門外不出との言いつけで公表されず、語られてきた、と思ってきた。そういう意味では「拓く」で福島大尉の資料で福島大尉を語ったこと、特にその成功へのプロセスを明らかにしたこと、は第5連隊の遭難が閉塞した真実を拓く端緒になるかもしれない、と思った。S君の深読み力に敬服!


2番目、何故15年も続けられたのか、或いは続けられたものは何か?
 この疑問は多くの方から呈されてきた。正直自分でも良くわからなかったので自分探しを続けている。S君には自分を重ねたから、と答えたが・・・。やはり答えは一言では無理である。歩みの過程のステップ毎に思いの丈を通観してみたい。

その1、原点
 「集いに思うシリーズ、その6 最後の48会…」で述べたが原点は中隊長時代のおくれをとった、このままでは終われない、という思いと見守ってくれた自衛隊への報恩の思いである。

その2、福島大尉に関心を持つ切っ掛け
 群長時代、ある部外工事現場で長雨のためのり面崩壊、300M下流の人家に土石流が流下する危機に瀕し、夜中に呼び出されてその場で決断を迫られた。防大で土木専攻ではあったが勉強不足を痛感し、もし土砂崩壊になれば自衛官終りと覚悟した。後に第4師団司令部幕僚長の時に一級土木施工管理技士を受験・取得した。これは退官後の民間務めに際し、自衛隊の経験を活かして安全管理面での貢献を狙いとして、労働安全コンサルタント資格取得に繫がった。そこで危機管理を自己の専門領域とし分かりやすく提示するため、八甲田山、福島大尉に注目した。これがきっかけとなった。
 
その3、福島大尉を探すステージ
 危機管理を学ぶからスタートし、次いで予想を超える予想外や考えていない予想外に遭遇したが成功した。何故かに関心を持った。その答えを探す旅が思いがけない出会いと展開、遺族から息遣い溢れる資料の提供受け、となった。そうなると人生全般に関心が移り、次々に新たなテーマとその答え、福島大尉の真実が現れ、感応と共振のワクワク感に満たされた。遺族が陸幹候校に遺品を寄贈する運びとなり、私はその仲立ちをさせて頂いたが更なる感応と共振の高見に到った。この10年余の旅を通じて一貫していたのは福島大尉をもっと知りたい、知れば知るほど知りたくなる思いであった。難解な資料の解読や行間の思いの感知には自衛官としての人生経験が役立った。これを伝えるのは自分(にしかできない)の使命という思いがだんだん強まった。ワクワク感の中身はブログなどを通じて思いを巡らすことと書ける(ようになる)楽しさであった。

その4、表現のステージ
 頃合いをみて冊子「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」(1/2/3)を作り、関係機関等に寄贈した。その一つ「第四木曜日の読書会」で、発表の機会を頂き、1年かけて、何を主題とすればこれが福島大尉だ、福島大尉が何を思いどう行動したかの真実に迫れるか、に思いをめぐらした。発表テーマは「困難と共に」としたが、その後その困難は「己が信じることを断行する性向」が齎したと気づき、その両者を確信を持って主題とした。いつの間にか自衛隊での体験等を福島大尉に重ね始めていた。
 
その5、出版のステージ
 原稿を出版社に見せ、いよいよ仕上げのステージに入り、主題に沿って仕上げて行くほどに、自分が自衛官として積み重ねた体験や考え方などが表現に入り込み、福島大尉に重なっていった。そしてこれが福島大尉だ、福島大尉の真実だ、という確信が深まるにつれ、後世に伝えねばならない、という思いが強くなっていった。年齢から今やらなければチャンスは永遠に来ない、最後のチャンスかもしれないという切羽詰まった思いが後押しをした。他にもいろんな思い、寧ろ情念といった方が適切かもしれないが、が巡った。しかしそこはまだ私の中で漠としている。

その6、出版後のステージ
 出版後もブログでの福島大尉旅を続けている。何故続けているか? ここもよくわからないが表面的にはブログの閲覧者32・6万人初め関心をもつ人に対し、「拓く」を紹介すること。「拓く」で書ききれなかった点等を補足することなどである。もっと深いところでは、先は見えないがこの先何かがある、福島大尉旅の奥深さや自分を信じもっと前へ、という前向きの思いに動かされた。福島大尉旅はすべてそうだった、と思いながら・・・。その思いは以下の新境地に到った、という思いによって裏付けされているように感じている。①いま、出版後も旅を続けて良かった、続けなければ永久にわからなかったと思える点を確信出来た。例えば武人(もののふ)として生き、地に足の着いた使命感を貫いた生き様に(私の中で)今の世に活きる強いメッセージの手ごたえを感じだした。②S君はじめ多くの方から寄せられた疑問、何故15年も続けられたのかについて思いを整理できた。

次稿へ続く

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ある集いに思うその7施設同期会 [書き終えて]

初めに

 表記会がT君(先日土木11班の山岸会で会った)の帰郷に合わせ、平成30年5月2日、鳥栖市で行われ、久方ぶりに参加した。同期施設会とは陸幹候校38期卒業時に、施設科職種に配属され施設隊員として勤務した、福岡・佐賀県域在住の者で、当日都合のつくものが集った。会話は私にとり大変有意義な話題があり、「集いシリーズ」の中締めに相応しい時間と思えた。その様を書きたい。

1つ、T君とのこと
 T君と話しながら思い出したことと座が終わり博多までの車中での二人きりで話した中で印象的なことがあった。
 1番目、思い出したT3曹(当時)のこと
 最後の48会に続く思いでがT君と重なった。中隊長時代どん底に落ち込んだ時、立て直しに色んなことを行った。ある時、当時旭川第2施設大隊中隊長であったT君と電話で話す機会があり、建設機械操縦・分隊長・スポーツと万能で上下の信頼が厚く指導力も高いT3曹が九州との人事交流の時期になり、本人も両親のもとに戻るため鹿児島への転属希望を願い出ている、惜しくて仕方がないがやむを得ないとの情報を入手した。早速人事系統を通じ、上級部隊に立て直しの基幹要員として是非とも欲しい、と願い出た。かくして?かどうか、飯飯塚駐屯地320施設中隊に途中下車したT3曹は当初どん底ぶりに驚いたようであったが即溶け込み、銃剣道で頭角を現し、第5施設団の大会で、中隊を、どうしても届かなかった、優勝させ、飯塚駐屯地代表として全国大会に出場し、中隊基幹のチームの責任者として参加、優勝した。その他の面でも中隊躍進のなくてはならない人材として頑張って頂いた。鹿児島に帰してくれ、と口にだしつつも飯塚・第2施設群で退官の日を迎えられた。第2施設群長時代でも、前稿の48会でも、帰してくれ、だめだが二人の間のあいさつ代わりの恒例の話題であった。退官後も見込まれて学校法人につとめ70過ぎまで活躍し、大貢献して自衛官の評価を高めて頂いた。
 その場からT3曹に携帯電話し、T君と話して貰った。かれこれ50年ぶりの(電話)再会の労をとらせて頂いた。今年の48会では会えなかったので近況を伺うために、一人の人(ご一家)の人生を私が迷惑をかけた中隊のために捻じ曲げた申し訳なさを込めて・・・。

車中にて、庭師の棟梁の話にさもありなんと思った
 以前から庭師の話は聞いていたが、棟梁の話は初耳であった。自衛隊定年退官後の第2の職場を定年後、好きだった庭師、某市のシルバー人材センターの、になり、ある棟梁に弟子入りして初歩から学んだ。6年後、棟梁を継いだ。仕事が入ると作業種別、所用人員、工程並びに経費などを見積、報告。承認された計画に基づき、段取りがすべての実員指揮と粒不ぞろいの会員を教え且つ戦う統率の真剣勝負、自衛隊の小隊長をこの年で出来ること、がたまらなく面白かった。7年続けたが脳の梗塞が発症してリタイアした。退官後すぐにこの道もあったな、と篤く語った。 
 この時、幹候校卒業に引き続く施設学校の幹部初級課程(BOC課程)でのある一コマを思い出した。卒業前の総合演習(枝川(勝田市)での架橋と浮橋の混合橋の全通仮設演習)でT君は小隊長を命ぜられた。他の学生は彼の下で演習小隊員としてそれぞれ役割をあたえられ。彼は現地を偵察し、橋台高と橋軸線の設定を先ず行い、それから工程見積及び作業に適した作業編成を決め、段取り良く、架設作業指揮に移った。一昼夜で所用の時機までに所用の強度を有するまっすぐ・まっ平な架設に成功した。私は彼の緻密さに驚嘆した。後に尋ねたところ、技術の組み立て(とリーダーとして行うこと)に興味があると語った。さもありなん、若き日のキャリア育成過程で大事にしたものはその後の人生でそれなりの意味がある、と思った。 
以下続く

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菖蒲は尚武に通ず [書き終えて]

6月4日、午前強い日差しのもと、花菖蒲(北・南菖蒲畑、東・西側溝菖蒲畑)へのホースでの水やり(水道水)中、ご婦人が見学を所望された。有難いことと心行くまでご覧いただくようご案内し、暫しの話、に花が咲き、驚きの展開となった。

 ご本人は同じ町内、この畑付近は遊び場で、で育ち、今も結婚されてお住まいとのこと。バラを手掛けておられるので当花菖蒲にもどなたが、との関心があり、黙っては立ち入れないので、丁度水やりの姿をマイカーで見かけ、思い切って立ち寄った、とのこと。

 ひとしきり菖蒲問答をしているうち息子さん二人が防衛大学校の学生と判明。こんなところでこんな奇縁、世の中は広いようで狭い。

 いつの間にか水やりの手を休め、二人の生活・クラブ活動・学校の訓練行事、父兄の連携等に話題が巡った。私の青春時代の一駒を懐かしく思い出し、今は昔と共感を覚えることばかりだった。なかでもカッター競技の話には今の私の心に響くものがあった。

 カッター競技会は2年生の春に行われる洋上での中隊対抗の短艇の櫂(オール)を漕ぎ速さを競うものである。試合に備え新中隊編成後から、1ケ月位、毎日ポンドまで駆け足で坂を掛け下り、漕法訓練を行い、猛練習に励む。全員の気合が一致しないと前に進まないし、揃って技量が上がらないと早く進まない。腰を入れて全身の力で櫂(オール)を引くので腕は鈍るし尻の皮はむけやすい。一旦むけると治ることなく最後まで悲痛との付き合いになる。話の様子では息子さん(お兄さん)は乗り組みクルーのリーダー(責任者)だったらしく、このリーダーを重荷とは思わず、なり切ることに集中し楽しんだらしい。私は楽しい、という言葉が大好きで、彼に好感を持った。

 私は平成30年4月15日陸上自衛隊幹部候補生学校の記念日行事における候補生隊対抗の綱引き大会優勝チームのリーダーの戦い前の鼓舞や勝ちを決めた後の雄たけびをする際の気合の入った声や動作からリーダーは勿論全員の楽しげな気分が伝わって来たこと、を思い出した。

 あるべきリーダー像を目指し日々修練する。そこを見据え、リーダーになった時になり切るよう修練する。それを積み重ねて自己の器を大きくし、いつか来るかもしれない国家の一大事を背負う大覚悟の持ち主となる。日々の修練との向き合いやなり切りは真面目に取り組めば取り組むほど修行僧のごとく十分苦しい。どうせなら心に余裕を持って、楽しく立ち向かって欲しい。

 心の余裕は風雅の心や花を愛でる等の優しい心を生む。強さだけではない優しさを持ち併せた真の武人になって欲しい。福岡は元寇撃退の輝かしい戦績が残り、大東亜戦争において負け戦に陥った際、唯一大健闘した菊(フーコン、18師団)や龍(雲南、56師団)という精鋭を生んだ尚武の地である。この尚武の遺風を受け継ぐ地元出身の後輩へ“明日の日本を頼むぞ”と心からのエールを贈りたい。花菖蒲が齎してくれた尚武の爽風に感謝。

 防大では統率参考資料「福島泰蔵大尉の統率」を作られたと聞く、防大で「統率」を福島大尉に学び、陸幹候校で遺族が寄贈した福島大尉の息遣い溢れる遺品に触れ、「拓く 福島泰蔵正伝」を座右の書として、武人の心を磨いて頂ければ耕々爺(こうこうや)の願いこれにすぐるものはない。

 最後に私の関わりを述べさせて頂くと防大では統率参考資料「福島泰蔵大尉の統率」を作られる際、私が寄贈した冊子「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」(1/2/3)を参考にされた。陸幹候校へ遺族が遺品を寄贈する際には私はその仲立ちをさせて頂いた。昨年上梓した「拓く 福島泰蔵正伝」の著者は私である。

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友あり遠方より来る、「拓く 福島泰蔵正伝」が取り持つ縁を思う [書き終えて]

始めに
  5月25日、高校の同級生、東京在住のT君が突然、我が家に訪ねてきた。私が30年前に東京から地方への転勤に際し、新車を購入したいと、当時販売会社に勤めていたT君のお世話になって以来の再会である。昨年10月「拓く 福島泰蔵大尉正伝」を読んだ、来年法事で福岡に帰るのでその時会おう、という言葉と共に近況を語ってくれた。「拓く」や私の出版という行為が何かの刺激になり、感じるところがあるのかな、と思った。
 不意の訪問であったが、僕も会いたかったので、丁度咲き始めた花菖蒲の手を休め、約束に間に合わした。「友あり遠方より来る、楽しからずや」にいう極めて楽しい時間であった。その様を語りたい。

1つ、彼の人生はプランドハップンスタンス【計画された偶然、クルンボルト】そのままである
 大学は某私大の演劇学科、しかし就職は車販売会社、セールス一筋で一生を通す。54歳で某損害保険会社に出向、代理店作りを担当する。車でT君についていたお客さんが保険でもお客さんになってくれ、いつの間にか代理店の仕事にも手を出した。60歳の定年で本社に呼び戻され、営業指導で全国の営業所回り。定年後に本社から声がかかるというのもセールスマン人生の評価の証である。学生時代に演劇つくりや役に魂を込めることで磨いたマインドをセールスに役立たせたに違いない。営業指導もかなり面白い仕事であったが、代理店との2足の草鞋を履いた。損害保険のお客さんが雪だるま式に膨らみ途中から代理店1本に絞った。車のセールスと同じようにお客様本位を徹底し、特に事故やトラブルのフォローは親身に現場、を貫いた。現在お客様は〇百人、この歳になるときつい、とおもうこともあるが信頼という自ら築き上げたブランドの誇りが自分を支えている。福島大尉は懸賞課題論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」募集とその後の論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」要請という偶然の機会に際して、すでに準備が整っていた。計画された偶然といい方が相応しい生き様である。T君も偶然に見えるかも知れないが車販売会社入社に際しては磨いたマインドを武器とし、出向に際してはならではのお客様を持ち、(意識はしていなかったが)代理店の準備はできていた。定年後の営業指導職は完全自立への滑らかな助走準備であった。常に目の前に本気で向き合い、その積み重ねが切り拓いた人生であった。「拓く 福島泰蔵正伝」のご縁で人生を語り合えた。楽しさ極まる、の心境である。

2つ、零下12度での行動を究めたことが日露戦争勝利につながった
 T君は福岡県宗像郡の大島出身である。中学3年時に八幡市内の某中学に転校して東筑高校に入学した。高校時代は話したこともなく今回初めて知った。T君の説明によると、その大島は対露日本海海戦が行われた海域にあり、宗像大社の中津宮があり、三女神の次女“湍津姫神”を祀っている。「坂の上の雲」(司馬遼太郎)に出て来る佐藤市五郎の日本海海戦の目撃談は宗像神社、創建以来書き継がれている沖津宮日誌に記されている由。又戦没した露軍人の遺体が多数大島に漂着し、島民は総出で収容・弔いを行い、手厚く遇したらしい。日本人117名とロシア人4830名の犠牲者の慰霊祭が2012年からロシア大使も出席して始まったそうである。従って日露戦争は身近に感じているので「拓く」を興味深く読んだ。なかでも零下12度での行動を究めたことが日露戦争の陸戦勝利につながった、と語ってくれた。将に図星と私は感じた。これは露軍に並び越え・勝つのシンボリックなテーマであり、福島大尉が語らなかった、何を思いどう行動したかの真実である。露軍は零下12度になると露営を切り上げ翌日の行動に移る、よう方面軍レベルで規定していた。露営し続ける危険の方が暗夜・酷寒・吹雪等の悪天候下の(行きあたりばったりではない覚悟を持った)彷徨による危険よりも勝っているという考え方であった。一方日本軍では規定はなく、その認識さえも共有されておらず、身を持って確かめようとしていたのは福島大尉ただ一人といっても過言ではない状況にあった。八甲田山雪中行軍で確かめ、その結果を論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」で対露戦勝利の方略として提言した。ここに感応してくれた読者に出会う喜びは何者にも代えがたい。

本稿はブログ「晴耕雨書」にも投稿しています。
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第4師団創立64周年、福岡駐屯地創立68周年記念日に思う  [書き終えて]

始めに
 表記行事が平成30年5月27日、行われた。晴天無風の絶好の記念日日和。整然と並んだ隊列、一糸乱れぬ観閲行進に精強第4師団を実感した。その中で特に3つの点に大きな感動を覚えた。その様を書きたい。

式典における師団長高田祐一陸将の式辞
 厳しさを増す国内外情勢下、如何なる任務を与えられても即応し、任務を完遂するためには旺盛な使命感・責任感が必須である。隊員は今一度服務の宣誓「ことに臨んでは身の危険を顧みず責務の完遂につとめ、以て国民の負託に応える」に立ち返り、その重みを噛みしめ、覚悟を新たにせよ、と強調された。この服務の宣誓は他の公務員にはなく自衛官だけに課せられている。だからこその、最後の砦としての深い自覚に基づく静かな決意と受け止めた。私の心に深く響いた。

徒歩行進部隊の先頭は自衛官候補生
 観閲行進の先頭部隊は今年4月に入隊したばかりの教育中の自衛官候補生達である。僅か2ケ月弱で見事な練度に到達させた。見学の父兄も見違えられたことであろう。本人たちの努力は勿論であるが師団の教える力に敬服。明日を担う若者が先陣ということで師団の明日への希望も感じられた。

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小川福岡県知事の挨拶
 式典には服部副知事が出席し、知事挨拶を代読された。記念会食には知事が出席され冒頭2名の国議員と共に台上に上がられた。最初に小川知事が「昨年の北部九州豪雨災害での自衛隊の多岐にわたる災害派遣活動に感謝、どうしても今日は直接来てお礼が言いたかった、」と挨拶された。その後他の国会議員が挨拶される間、背筋をピンと伸ばし、微動だにされず10分以上「気を付け」の姿勢を続けられた。美しい!姿勢を正す敬礼だ。県民を代表し第4師団への心からの感謝と敬意が(態度に)溢れている、と私は言い知れぬ感動を覚えた。会場にも感動が静かに拡がるのを感じた。 

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ある集いに思うその6 最後の48会続き Mさんと「拓く 福島泰蔵正伝」 [書き終えて]

 Mさんから、自家製の新ジャガイモ(メークインとにしゆたか)が思いがけず、送られてきた(5月18日)。Mさんとは、最後の48会の参加者、前稿で登場した弁論大会に出場し陸曹候補生を勝ち取った、人である。
 
 48会も解散し、これで会えなくなるので、記念のつもりかな、と嬉しさ半分なんでかな半分で、お礼の電話をしたところ、とれたてです、味わってください、とジャガイモの話はそこそこに、意外な話をしてくれた。「「拓く 福島泰蔵正伝」を近くの本屋さんに頼み取り寄せました。連休には息子(弟)のところ(市ヶ谷)へ行く予定だったので、出発ぎりぎりになって手に入れ、車中で読み、息子に渡し、読み終えたら名寄の兄貴に送るように言いました。正月は二家族とも、孫含めて11名が揃い、帰省しますので・・」と弾んだ声が伝わってきた。

 
 この本を求めて読み、読んだ本を息子に渡し、読み終えたら次の息子に渡して、リレーで読む。正月には皆が帰省して顔をあわせる。そういう風に読んで頂けるなんて、と奥深さを感じ、書いて良かった、出版して良かったと思った。
 
 二人の息子さんは陸上自衛官、二人とも狭き門の曹候補学生を経て、とお聞きした。自分の後ろ姿をみて、息子が自衛官になった。その自慢の息子達を思う、親心は如何ばかり、かと思う。その親心の何かに「拓く 福島泰蔵正伝」が響いたのであろうか。或いは「拓く 福島泰蔵正伝」の何かがその親心の眼鏡に叶ったのであろうか。・・・もしそうであれば冥利ここに極まれる、である。
  
 私には凡そ45年程前のMさんが浮かんできた。当時陸士長であったMさんは おとなしく目立たない存在であった。ある時の陸曹候補生1次学科試験で今までの受験と比べ物にならないくらいハイレベル、断トツの成績で合格し、初めて本気を確信した。しかし2次試験は面接と分隊訓練の術科で、他中隊の受験者と比べ、このままでは正直厳しいと思った。丁度弁論大会があったので、積極性をもっと前面に出すよう、陸士の部の選手として出場させた。最初渋っていたMさんは覚悟を決め、頭を丸刈りにして、若手某3曹の指導も受けて、慣れない弁論大会に打ち込み、堂々たる発表で見事優勝した。自信をつけたMさんはその勢いで2次試験も突破した。事後、何事につけても、目を見張るぐらい積極的な自衛官勤務をされた。なりたい自分になるために覚悟を決めたMさんの姿が浮かぶ。前稿では書き漏らしたが、優勝した時の表彰状は額に入れ今も自宅に掲示してあるとのこと、Mさんの自衛官人生における大切な”覚悟”の記念なのだ、と思った。

 Mさんの親心に何があり、Mさんがこの「拓く」を読んでどのような感想を持ち、息子に読まそうと思ったのか。息子さん達がどのような感想を持たれるのか、大いに関心がある。48会の解散を受け入れてはきたが、ちょっぴり惜しい気を抑えられない自分に気づいた。

 我が家のジャガイモは未だ畑の中、6月初め頃の予定で、早速、新ジャガイモ第1号は我が家恒例の電子レンジでチン、蒸かしいもにしてバタ―をつけ、味わった。今年は旬を味わう贅沢が2回も出来る、とハッピーな気持ちも更に加わった。

 前稿で思い出したことを元に記憶を呼び起こしつつ書いた。聞き違い、思い違いがあるかもしれないが、大意に誤りはない。もしその節はご勘弁頂きたい。

 
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ある集いに思うその6 最後の48会 [書き終えて]

始めに
 表記会(平成30年4月14日~15日、直方市福智山麓花公園の憩いの村)に万感の思いを込めて参加した。昭和48年7月第108施設大隊第1中隊は第2施設群第320施設中隊に改編した。その際に中隊に所属していた者(OB)の集まりが48会である。私は新旧両方の中隊長を務めていた。平成3年、私が第2施設群長着任を機として、これも何かのご縁と、結成された。爾来毎年、中止の時もあったが、飯塚市周辺での一泊形式で、今年で24回目となる。メンバーも高齢化し、今回が最後の会活動となった。48会には特に思い入れがあった。自衛隊人生を全う出来、今を最大限楽しく過ごせている、のはこの時の仲間、会のお陰。そして本書「拓く 福島泰蔵正伝」で福島大尉に自分を重ねて表現できたのもこの会のお陰です。

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感謝の思いの原点
 「中隊長等集合訓練」で述べたことを再掲する。私は45年前、中隊長に上番して1年たった頃、大きな事故が連続し、各方面に多大な迷惑をおかけした。隊員にも申し訳なく自分も落ちこんだ。100人の部下を持つ中隊長の重さに向き合う覚悟や努力不足があった。中隊長にさほど緊張感や覚悟を持たずに上番し、前任者の貯金を自分の力と錯覚して、目の前の業務に忙殺され心ここにあらずのつけが出てしまった。事故が連続し呆然自失状態に陥って初めて自分の偏った「為すべき」つまり「3つの心」がけの弱さや覚悟の無さや親身の指導不足等々を思い知らされた。「3つの心」を究め、(立見師団長が福島大尉を称した)「塾者」として中隊、100人の上に立つ、(ように努力する)というあるべき姿に照らしなんと未熟であったことか。そういう状況になってもついてきてくれた隊員のお陰で覚悟を決めて、自分の「為すべき」を尽くし、立て直すことが出来た。「心におくれをとっていた。このままで終われない」と気持ちを新たにしたこと及び支えてくれた隊員と見守ってくれた自衛隊への感謝の気持ちを忘れたことはない。

尽きない話
 顔振れは戦闘施設小隊の分隊長、中隊本部の係陸曹、車両班や器材班のオペレーター、営内班長や営内陸曹、やんちゃであった陸士など多様である。
 
 名誉顧問ということで挨拶の時間を頂き、万感の思いを込めて感謝の思いを述べた。

 事故多発時に全員でなにくそ、と服務指導や訓練で良いところを見せようと頑張った話。好景気で優秀な陸士が1、2任期で辞めるので、継続指導に苦労した話。検閲や演習で器材を創意工夫した話。競技会で勝つために秘策を練った話など尽きなかった。
 
 なかでも、競技会当日入校中であった優技者を中隊長?の私物命令で原隊復帰させ優勝した話【呼び返された当人の話】。陸曹候補生受験者の本命を受からせるため弁論大会出場を命じ、その指導を最も信頼していた優秀な若手の3層に命じ、見事優勝させ曹候合格も勝ち取った話【弁論大会に出場し、陸曹候補生に指定された当人と指導に当たった当人の二人】。幹部候補生学校副校長時に会員の息子さんが教導隊に居るということで息子さんに会いおやじ(中隊長時の副分隊長)のことを話して聞かせ激励した話【激励された息子さんから報告を受けた父親、当人】等最後だからと佐賀や長崎から駆け付けた当事者の裏話に私の記憶が瞬時に蘇った。

 昔ながらのあっちに5名、こっちに3名と輪が出来それぞれの話が咲く宴会風景で教え子のK君が男気を見せ「拓く」の感想分A43枚の感想を何ら臆することなく最後まで読み終え、最後だけ皆の拍手喝采を受けた。その数分間は感動的であった。
 最後は私が中隊長時代ことある毎に必ず歌った「九州男児の歌」(村田英雄)を合唱した。その音頭は最後の新隊員、最も若手であったY君がとっってくれた。感無量。

感謝の思いを述べたい人ーUM氏とのこと
 感謝の思いを代表してUM氏(78歳)に述べたい。同氏は48会の世話役を10数年務めて頂いた。会社勤務も社長の信頼が厚く継続中、某部隊OB会の世話役継続中、老人福祉関係の地域貢献世話役も継続中という多忙の身で皆の面倒を見て頂いた。
 出会いは私が幹部初級課程(BOC)を終え、1中隊に配置され、最初の部外工事、嘉穂工業高等学校グランド造成工事の隊長を命ぜられた時に始まる。当時上野陸士長は測量係として参加していた。ベテラン陸曹顔負けの技術者であった上野陸士長は仕事の出来に関し、妥協しなかった。全くの新米であった私は全く歯が立たなかった。悔しいけど教えを乞うた。その後彼は3曹に昇任し、二人そろって体育学校格闘課程(幹部・曹課程)に入校し、徒手格闘指導員として方面管内の普及教育に携わった。やがてホーク移駐となりそのための訓練場の造成工事が始まり、方や測量、方や作業小隊長として、密接不離の関係が2,3年続いた。その他各方面にわたり何かトラブルが生じたとき等はなぜか二人がペアであった。私が中隊長に上番した時は測量係として工事になくてはならない存在で、戦闘施設小隊の分隊長として演習に共に汗を流し、営内班長として班員の服務指導に苦楽を共にした。中隊長下番後彼は北海道に渡り、私が群長に着任した時は飯塚駐屯地業務隊で管理課員としてその工事能力をフルに発揮していた。2施群OB会、中隊OB会が無いのは不都合だと、発足の運びになった時はその中心メンバーとして注力してくれた。その延長線上に今の48会の世話役がある。彼の世話のお陰で皆さんと毎年顔合わせが出来ご縁が続いた。大変お世話になりました。どうかお元気で、そしてこれからも頼ってくるみんなの良き相談相手として、またご縁の深い付き合い相手として宜しくお願いします。(終り)
 


 
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ある集いに思う その5教え子との旅行会 [書き終えて]

始めに
 前稿は私の教官への思いを書いた。今回は私の教え子への思いを書きたい。表記旅行会(平成30年4月1日~2日、佐賀市川上温泉の龍登園)に参加した。例年全員参加しているが今年は残念ながら1名(T君)病気で(痔瘻で動けず)欠席した。私は教官として昭和42年2月入隊の新隊員後期課程の教育を担当(108施設大隊1中隊、飯塚駐屯地)した。6歳下の教え子9名(うち1名逝去)との旅行会を毎年続けている。かれこれ30年になる。平成元年、私が第2施設群長(飯塚)に着任し、それを機に本部1科のS君が音頭をとったのが始まりである。ご縁が出来て50年、今では誰が教官で教え子かは全く分からない。
 
1つ、絆 
 私は平成10年4月1日自衛隊の定年を迎えた。退官前にごく親しい人達で送る会をやって頂いた。その企画者TY君(昭和42年2月入隊の新隊員後期教育の教え子で当時幹候校の教官)から心のこもった表彰状とスコップ1丁(施設科隊員、土方を象徴する器材)を頂いた。私の記念の宝物である。
 
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 又TS君からは電報を頂いた。その電文には「教官へ 遠賀川とボタ山を背景の筑豊の地で教育を受け、三十余年  塩頭池での漕舟訓練(*1) 毎日かけ足で往復(疲れました)教官が切れた時のいい加減なかけ足(回れ進め(*2)が多かった)思い起こせば苦しい事ばかりでしたが今となっては大変貴重な思い出です。教官、長い間、お疲れ様でした。そして有難うございました。」とあった。
*1:渡河ボートを操る訓練、場所は駐屯地から約2KM、時期は盛夏
*2:駆け足のまま方向転換をして逆方向の後方へ走ること
 
 この電文にあるように私はかどだらけで、決して好かれる・褒められる教官ではなかった。でも兄貴分として向き合う熱意があったから・・と、こうやって仲間に加えて貰っている。有難いことである。この旅行会は楽しみであり、互いの無事を確認し合い来年への意欲を燃やす絆の証となっている。私は「拓く 福島泰蔵正伝」出版に当たりTY君にはアドバイスをお願いし大変お世話になった。上梓に際し全員に本書「拓く 福島泰蔵正伝」を謹呈し、仲間に加えて貰っている謝意を表した。今回の旅行で感想を聞かせ貰えたら、と密かに期待した。

2つ、会場にて
 開始に先立ち弘前・・復刻版「八甲田ザラメ雪」をサプライズ贈呈された。本書「拓く」に因んで探し出した一品とのこと。センス溢れる宝物に感激し有難く頂戴した。

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 その他にもアイデア溢れる感想発表を頂き、最高の贈り物を頂いた。
 U君は詩吟「八甲田山」を熱唱してくれ、福島大尉の壮気を全員で味わった。
 TY君は中隊長時代ちゃらんぽらんで過ごしたと反省したが、読んで一度だけ真剣になったことを思い出した、とその紹介をしてくれた。大村施設大隊中隊長の時、雲仙普賢岳での火砕流の恐れがある中での作業のため出動隊員の人選をした時は誰を連れてゆくか真剣に悩み眠れなかった。翌朝考え抜いた人選者を決め、渋っても命令で行かせようと腹を決め、発表しようとしたところ全員申し出てくれた。漏れた者には何故自分が、かと詰め寄られた。使命感の高さを感じ嬉しかった。絆の強さも感じた。
 K君はA43枚に感想分をビッシリ書いてきてくれていた。15年間福島大尉を調べた執念に感動した。「拓く」に出ている地点の殆どに足を運んでいるので親しみやすかった。3回半読んだが読むたびに頭に入ってきた。最後は一日で読み終えた。7師団での勤務経験から北海道にはないが青森には地吹雪ツアーがある。それぐらい豪雪地帯での訓練の厳しさが良く理解できる等々盛りだくさんの感想を頂いた。とても時間中には終わらないぞとヤジが飛び途中でやめペーパーは私が有難く頂いた。K君ならではの贈り物と感じた。

 この辺で時間切れとなってしまった。聞きたかったが強要するのも、と我慢、残念だが幹事の指示に従い、次の行動に移行した。今回の幹事H君とI君のお骨折りに感謝し、来年はU君のお世話で伊王島での開催と決まった。これから1年を楽しみに過ごしたい。皆さんもお元気で。
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