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福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1 ブログトップ

八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその十 無事帰営 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1]

第11/12日(1月30日~31日)ー無事帰営

1月30日

青森市~浪岡村。午前7時発~午後4時8分着舎営。合計実動時間7時18分、全行程6里半。途中経過;午前11時15分、鶴坂着行程3里半休止1時間昼食。午後4時8分浪岡村着行程3里、大休止15時22分。大小休止時間16時22分の外に休憩5回、之に要せし時間50分。積雪量;平均雪量2m72。最下降気温摂氏氷点下2度。曇天西北方和風。

「1月30日 行軍発営以来本日始めて晴天南風吹くも尚ほ寒し梵珠岳の新道は冬季と雖ども人馬の通行するを以て行進に困難をなすことなく浪岡村に達す」

1月31日

浪岡村~弘前歩兵第三十一連隊。午前7時30分発~午後2時5分着。合計実動時間5時間1分、全行程5里半、小休止時間1時の外に休憩4回之に要せし時間34分。途中経過;午前11時40分撫牛子村着、行程4里、休止1時間昼食。平均雪量1m86。最下降気温摂氏氷点下3度。微雪、東南方南風。

「1月31日 曇天にして風吹く三本木に於て落伍せし1名の患者の外に負傷者なくして無事帰営す」

一つ、本(両日)行程の特徴

非常の困難を克服し、無事帰営

二つ、無事帰営して福島大尉が振り返る非常の困難

一つ目、 非常の困難の整理

弘前到着に伴い、このシリーズのタイトルである”非常の困難”について整理したい。

一番目、福島大尉の集中点

任務(註1)で探討(下線①その1、その2)を命ぜられ、 運動は可能だが、非常に困難(下線②その1、その2)を伴うと報告(実施報告第14行軍実施に依て得たる結果)(註2)している。

二番目、非常に困難の本質

非常に困難なりの内容を特徴づけているのは危険個所(下線③その1、その2)があるから,である。即ち冬季山岳で行進に難渋するのは当然、それに今回、特有の危険(個所)が加わり危険の連鎖(危機への連鎖)が強大となって、想像を絶っする難渋行軍となった。

三番目、危険、危機の連鎖の実相

中央山脈通過では深雪に埋設した道筋を失わないよう或いは失ってマブや断崖から転落しないよう神経を張りつめた。従って時間をかけて慎重に進まざるを得なかった。そうなると厳しい寒風・吹雪に耐え続けなければならないので体温は奪われ体力は低下し、深雪を泳ぎつつ進むので疲労も極に達する。若し、墜落者、患者や昏倒者が発生すれば処置に窮す、であった。

八甲田山では深雪に埋設した道筋を失わないよう或いは失って駒込川断崖から墜落しないよう神経を張りつめた。従って時間をかけて慎重に進まざるを得なかった。そうしてもしばしば道を失し元の道に戻るのに大苦労した。そうやって時間が掛かり、寒中に耐え続けなければならなかった。その上、猛烈な寒風・吹雪の為食事も睡眠もとれないので、体温や体力を奪われ、疲労がその極に達っした。結局、墜落者や昏倒者が発生すれば、処置に窮したが幸いに数名の疲労者で済んだ。

四番目、危険、危機の連鎖の中心

十和田山脈と八甲田山脈では困難の内容が違う。即ち前者は地形(下線④)その1)が後者は天候(下線④その2)である。そして地形と天候は連鎖の中心であった。

註1:与えられた任務

第1、積雪時に於て十和田山脈を横断し直に軍隊を津軽平原より南部平原に運動せしめ得るや否や 若し運動せしめ得るものとせば其の難易を探討(下線①その1)すべし。
第2、 積雪時に於て八甲田山脈を横断し直ちに軍隊を三本木原より青森港に進出せしめ得るや否や 若し進出せしめ得るものとせば其の難易を探討(下線①その2)すべし。
第3、 積雪時に於て梵珠山脈を横断し青森港より弘前に通ずる道路行進の安易を偵察すべし。 
第4、 冬季に於ける行軍力の養成を図り且つ次の事項を調査すべし。以下17項目(略)

註2:行軍実施に依て得たる結果(全50項目中、当初の8項目)

第1、積雪時に於て軍隊の津軽平野より南部平原に運動せしむることを得べし然れども非常に困難(下線②その1)なり
第2、積雪時に於て軍隊を三本木原より青森港に進出せしむることを得べし然れども非常に困難(下線②その2)なり
第3、弘前戸来間に於て十和田山上、十和田湖断崖、犬吠峠は行進危険(下線③その1)なりその中殊に十和田湖の断崖を以て最と為す然れども此地点は船を利用することを得べし
第4、三本木間に於ては熊澤河岸、大中台、駒込川河岸は行進危険(下線③その2)なり
第5、青森より弘前に通する梵珠岳新道の通過は行進困難ならず又危険の箇所なし
第6、無雪時に於て人の通過し得る土地は山岳たりとも季節に如何に論なく雪量の多少に係わらず歩兵は運動することを得
第7、今回通過せし山脈は冬季積雪の際に於て馬匹又は橇を用ゆることを得ず蓋し三本木青森間は無雪時に至れば馬匹の通行を為し得るといふ
第8、今回の行軍に於て十和田山脈の通過は地形(下線④その1)に於て困難を感し八甲田山脈は天候(下線④その2)に於て困難を感したり

二つ目、どのように克服して無事につなげたか?

大きくは二つ。一つは長時間暴風雪・寒風、深雪を泳ぎ続け疲労の極及び食事・睡眠なしに耐え続けた事

二つは嚮導が終始道筋を決定的に外さなかった事である。今までの記述と重複する部分は項目のみとする。

一番目、長時間暴風雪・寒風、深雪を泳ぎ続け疲労の極及び食事・睡眠なしに全員が揃って耐え続けた事

①危険(危機へ)の連鎖に耐え得る少数精鋭の隊員を選抜した事。②その隊員が防寒法を身に着け、困苦欠乏に耐え、名誉を重んじ軍規を守り、相励まし、相助けた事。③部隊として、規律厳正・団結強固・士気旺盛であった事。④最悪、危険(危機へ)の連鎖に備え、周到な準備をした事。⑤雪中行軍法の工夫と習熟⑥福島大尉のリーダーシップ(詳しくは後刻福島大尉のリーダーシップで考察したい)。

二番目、嚮導が終始道筋を決定的に外さなかった事

深雪に覆われた道筋を探し続け、その緊張を最後まで切らさず、最後の最後で道を発見した。手記中に嚮導が登場するのは三度(しかない)。一度目、1月24日(犬吠峠の登下降時に)「嚮導は慎重を加えて方向及び地形を案じ隊は従容として之に従う」。二度目、1月27日(田代台行軍での露営決心直前に)「茲に於て嚮導の意思稍動く依て枯立せる一大樹を発見し其の下に露営をなすことに決す」。三度目、1月28日(田茂木野手前数町で、(やっと!)嚮導は一の雪路を発見遂に翌二十九日午前二時十四分田茂木野の民家を敲き喫食を行ふ」

簡明に表現しているが、いずれも決定的場面である。嚮導が果たした役割は大きい。危険、危機を避ける為嚮導を求めた福島大尉の英明に敬服する。

終わりに

十和田山脈・八甲田山脈の冬季横断は非常に困難であったが無事克服し帰営した。出発前「赤倉山、十和田山、猿鼻断崖、三嶽山、八甲田山等は冬季積雪の為めに人の通行する者なし其他と雖も青森弘前間を除くの外は絶て足跡を認めざりしなり当季節に於て山地の土人は蟄居して出でざるを通常とす」(実施報告第六行軍地地形)は痛いほど承知した上での非常の困難への挑戦であった。陸軍では未だかって誰も試みなかっただけにやれば出来る、歩兵はいかなる地形も踏破出来るを実証した意義は大きい。

愈々伝えたかったことの纏めに入りたい。その前にやるべきことがある。実は1月23日青森歩兵第五連隊は田代への一泊雪中行軍を行っていた。弘前隊が田茂木野に到着した29日午前2時の時点で210名全員の遭難が明らかとなり、その深刻・悲惨さは部内外に大きな衝撃を与えると共に状況の不明・天候の険悪・材料人夫の不足も重なり、捜索・救援の初動態勢つくりは混雑・遅滞を極めていた。従ってこの時機、福島大尉が第五連隊遭難とその影響などにどう向き合ったのか、がこれから私が思いを巡らしたいことである。そこを経ることで伝えたかったものとの関連が明白になる、と思う。

1月31日帰営した直後に2月10日印刷の『第五連隊遭難始末附第三十一連隊雪中行軍記(北辰日報(弘前市)編集部編』に何故投稿したのか?自己の一身の安寧等抛り出すような強い思い、の答えを見つけることにもなる、と思う。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその九 #6難所八甲田山通過 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1]

第9/10日(1月28日~29日)ー八甲田山通過

1月28日

田代露営地~小垰。午前7時発~午後11時50分着。合計実動時間15時59分、全行程3里。途中経過;午後1時5分鳴沢着行程2里、休止6分昼食。小垰着行程1里、休止5分。小休止時間11分の外に休憩10回、之に要せし時間50分。。積雪量;田代新湯4m50。八甲田山5m。気温:午前6時摂氏零下10度、正午摂氏零下6度午後6時摂氏零下9度、最下降気温摂氏零下12度吹雪西北方暴風

1月29日

小垰~青森。午前零時発~午前2時15分田茂木野着行程1里、休止3時間間食。同7時20分青森市着、行程2里半大休止23時40分舎営。合計実動時間4時10分、全行程3里半、大休止時間26時40分の外に休憩1回10分。最下降気温摂氏零下2度、幸畑。曇天西北和風。雪量大峠4m、田茂木野3m10、幸畑2m40、青森1m50.

一つ、両日行程の特徴

更に続く非常の困難

虎穴(田代)を探り来たりて又龍淵(八甲田山ー駒込川断崖)

福島大尉はその詩作(田代露営)の中で田代台行軍並びに同地に於ける露営を虎穴にたとえ、八甲田山行軍(駒込川断崖)を龍淵にたとえて、その連続して現れる虎や龍に襲われ身を亡ぼしてしまいかねない厳しさ・あやうさを詠っている。

 田代露営其三

探来虎穴又龍淵【虎穴を探り来たりて又龍淵】惨憺身迷大澤邊【惨憺として身は大澤の邊に迷う】脚下幾尋千古雪【脚下幾尋ぞ千古の雪】埋没吾曹白如綿【吾曹(われら)埋没して白きこと綿の如し】

二つ、この行程で福島大尉が感じた非常の困難

手記から特に伝わる福島大尉の思いの極は48時間50分の不眠行軍という表現に尽きる。それをもたらしたものは以下の3つ。(!)八甲田山の気象の烈しさ(大雪行人を圧して事危うし(下線②)、(2)埋雪した道筋を必死で探し続ける労苦(断崖(註原文は岸)は之れを左方に避けて進みたり(下線④)然れども夜間往々方向を誤り(下線⑤))及び(3)不眠・空腹・疲労の極限(数名の疲労者を生ぜしめたり(下線⑥))。

一つ目、八甲田山気象の烈しさー大雪行人を圧して事危うし(下線②)

一番目、手記の表現

「1月28日大吹雪、田代露営地を発し青森に向ふ此日八甲田山脈の通過にして(略)積雪の深さは昨日の午後に於けるが如し然れども鳴沢に達すれば青森までは降路なる(下線①)を以て行進の困難は更に意とするに足らずとなし前進す。」

「其八甲田山脈の上方を通過するに当てわ北風樹木を吹き物凄く大雪行人を圧して事危うし(下線②)之に加ふるに奇寒は骨に徹して避くるに処なく涸陰は面を襲ふて行くに険あり依て互に相顧み相励まし注意を倍従して行く」

二番目、事危うしの意味

最下降気温摂氏氷点下12度では露営や休憩(立ち止まり)は死と直結する。しかも物凄い北風の大吹雪に避ける場所もなく、唯顔も上げられず行軍を続けるしかない、その行軍は髭は氷、あごには氷柱(つらら)、服も板状に凍りつき、不自由千万の体で、5mの雪を泳ぐ。厳しい状況である。

二つ目、埋雪した道筋を必死で探し続ける労苦ー断崖(註原文は岸)は之れを左方に避けて進みたり(下線④)然れども夜間往々方向を誤り(下線⑤)


一番目、手記の表現

「日暮るる頃に賽河原を過ぎ夜に入火打山に達せり之より田茂木野に向かひ駒込川の左岸に沿ふる山脈の凸線を降り断崖(註原文は岸)は之れを左方に避けて進みたり(下線④)然れども夜間往々方向を誤り(下線⑤)数名の疲労者を生ぜしめたり(下線⑥)更に充分の戒心を加えたり(略)田茂木野ならんと行くこと数町にして嚮導は一の雪路を発見(下線⑦)(略)」

二番目、崖は避けて進むも夜間度々方向を間違った

田代台出発以降田茂木野前数丁までは埋雪の下の道を探し続け、進路に迷い続けた行軍であった。鳴沢以降の八甲田山通過では迷い込んで駒込川断崖に近づき、墜落する恐れとの戦い、断崖は之を左に避けて進んだが、夜間往々方向を誤った。

三番目、実相

その一、道を誤った

進路を誤り黒石町方向の渓谷に下りた時の様子を泉舘伍長は「方面違ひに青森市街の夜景を見出し、眼下に描出し、指し合ふて(略)救援を語り合ひしに此の付近出身の者」が『あの様に見ゆるも絶対に青森市にあらず』と非認し却而現在居る地点は之より進むこと五、六十間にして断崖絶壁に差し掛かり居る事の危険を説き一同をして唖然足らしめた。復一千m餘引き返して進みたる事あったので不思議も甚だしかった。」と述べている。

その二、最後の最後で道を発見した様子ー嚮導は一の雪路を発見(下線⑦)

田茂木野への道を発見した時の状況を泉舘伍長は「此の時筆者(註泉舘伍長のこと)は先頭にありて進みしが微かに一小径を見出すや思わず『あっ径だ、道だ、里の近くだぞ、おおーい径があるぞ、路に出たぞ』と叫ぶこと数回、後尾より承知の逓伝(註ていでん、順次に伝えおくること)あり茲に始めて一同蘇生の思いをなし死地に活路を得たのである』と述べている。

嚮導はここに至って、漸く道を発見した。というか嚮導がここまで探し続けてきた労苦の程をこの短い一文に凝縮している、と感じる。

三つ目、不眠と空腹と疲労の極限ー数名の疲労者を生ぜしめたり(下線⑥)

一番目、数名の疲労者生ず

前掲の「数名の疲労者を生ぜしめたり(下線⑥)」は物凄い八甲田颪のもとで、厳しい山岳通過、夜間・吹雪で道に迷った事が加わり、に長時間耐え続け、しかもその間迷い込んで駒込川断崖から墜落する恐怖にさらされ続けた事で心身の疲労がその極に達し、現出した。長時間の空腹と不眠が疲労に拍車をかけた事は言うまでもない。

二番目、実相

その一、前嶽近傍

前嶽近傍の通過について泉舘伍長は「特に風雪に悩まされざりしも、昨夜来食事の不足と睡眠せざるに加えて相当の行程を行軍せしに依り疲労甚だしく、眠りながら歩むもの、或いは列を出でて熟睡するもの、又は列中にありて何等かのお化けを見て叫ぶものなどありて、相互に戒め衰弱の甚だしきものには看護者を附し之を労わりつつ無我夢中に進むのみなれば隊伍は乱れて延長し、先頭と後尾の連絡は困難な状態となった。」と述べている。

その二、田茂木野到着直前

田茂木野到着直前の疲労者の状況について、長尾見習い医官は「雪中に於ける軍隊衛生の件についての報告」のなかで数名の疲労者を生じ、行進間睡眠する者さえ居た。最も甚だしい伍長は数分間全く夢行に陥り、隊列の外数mの雪中に急奔して雪上に睡眠した。その他錯覚を生じ樹木を家屋と誤見し叢の根を人畜と誤解した者もいた。これは疲労と寒冷の為避けるべからざる睡眠を催し半ば睡眠中に行進した為である、と述べている。

三番目、不眠と空腹と疲労の極限をやっとの思いで乗り切った安堵を思わず表現

その一、増澤出発以来の温食⑧

「遂に翌二十九日午前2時14分田茂木野の民家を鼓き喫食を行ふ蓋し増澤出発以来の温食⑧なり」

実相

田茂木野での様子を泉舘伍長は「民家に入るや先づご飯を無心した、然れども夜半なればご飯のある家は稀なりしに幸ひ予の休みし家は粟飯と菜汁が大鍋に沢山余りありしを暖めて與えられし時は拝まん計りに有難かった。実際一行は昨30日の酸湯(註28日、田代新湯の誤り)に於いて握り飯一個を食せし後は何物も口にせず、而も彼の握り飯も其の前日のものでありし故分量に於いては昨日は一口も食せざる譯である。」と述べている。

その二、睡眠をなさざること二昼夜にして其時間は48時50分なり(下線⑨)

「1月29日風雪寒気強し田茂木野より夜行し払暁青森に達す増澤を発して青森に達するまで睡眠をなさざること二昼夜にして其時間は48時50分なり(下線⑨)」。

終わりに

龍淵の怖さは暴風・吹雪・寒冷下に埋雪した道筋を捜し続ける労苦が延々と続き、加えて駒込川断崖に迷い込まないよう慎重に、より慎重にならざるを得ない。そうなると行程は果てしなく延びる。夜間や吹雪が加われば行軍の困難は更に増す。睡眠と食事を断っているので、疲労が極限に達する。非常の困難の特質は虎や龍に襲われる危険、危機の連鎖に直面し、気を一瞬たりとも抜けない48時間50分の不眠行軍であった事。

福島大尉は「今回の行軍にて十和田山脈の通過は地形に於て困難を感じ八甲田山脈は天候に於て困難を感ぜり」「実施報告第14行軍実施に依て得たる結果第8)、と結論づけている。即ち八甲田山においては天候が困難の本質であり、上記危険、危機の連鎖の中心である、との意である。

気になる点が二つあるー今後への問題提起

今回で非常の困難を思う旅の山場を越えた。ほっとしているが気がかりな点がある。

その一、露営地出発直後の休憩小舎の件

研究事項「休憩」を担任した千葉見習い士官の報告に依れば28日午前4時7分露営地出発午前6時3分小舎着1時間37分休憩朝食午後1時5分鳴沢着6分間休憩昼食、とある。泉舘伍長や間山伍長も斥候をだして小屋を発見した、旨の記述をしている。しかし手記にその記述はない。小屋の偵察と休憩は爾後の行軍において大きな意味を持つ。何故福島大尉は触れてないのであろうか?嚮導についての記述がない事と関連している事は間違いない。

その二、鳴沢の認識について

前出下線①の「鳴沢に達すれば青森までは降路なる(下線①)」には大きな認識間違いがある。馬立場までは上りであり、上りきってから青森へが降りになる。その上りも急峻。斜面の降雪は強風・寒風で吹き飛ばされ氷山と化し、行進は極めて難渋。又道筋を発見できず、吹雪のなか、彷徨する大きな恐れもある。誤って足を踏み入れた吹き溜まりや断崖から駒込川に墜落する危険も極めて大きい。この認識間違いにも関わらず無事鳴沢を通り抜けることが出来た。何故であろうか?

上記二点について、何故か?は大きなテーマである。ここでは提起に止め、別途「福島大尉のリーダーシップ」(仮称)の中で思いを巡らすこととしたい。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその八 #5難所ー田代台露営 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1]

第8日(1月27日夜~28日朝)ー田代台露営

午後8時50分着~午前7時出発。大小休止時間10時間20分。最下降気温氷点下11度。積雪量田代5m10。吹雪西北方暴風

一つ、本日行程の特徴

非常に困難な露営

暴風雪を雪で作った側屏壕で凌ぎ、猛烈な寒気(気温は零下11℃に降下)の中での露営。13時間殆ど休みなし、雪に埋まり雪を泳いだ行軍で疲労しきった体は厳しい寒さで凍傷にかかり、眠りにつきたがる。凍傷にかからないよう暖を取り、体を摩擦し動かし続けなければならない。体を停止させ暖を取れば一層睡眠へと傾く、眠れば即凍死。一人たりとも眠らさない戦いが夜中続く。

雪穴の中の状況を泉舘伍長は「各班の作業整ふて焚火を始めたるに雪穴の上空は風強く煙は室を出でず狸穴を燻すも同様加ふるに燃料は生木なり、焚けば焚く程苦しく眼を腫らし涙出て苦痛であった。手あぶりは数人ずつ交互に行ふ。一穴に固まる人間の勢いに雪穴暖まる。暖まれば直ちに眠気つく、眠れば生命危険なりと互いに戒め合い各自元気を張り揚げ穴中に目白押しを始め、指揮官は焚火に居て号令す「わっさわっさ」と揺るがし合い押し合ふ。かくして午前2時ごろに至りし頃、嵐幾らか静まりし故に2組の斥候をだして湯小屋の捜索を為さしむ。」と述べている。

二つ、露営間の福島大尉の非常の困難の思い

田代での露営について福島大尉は手記中の最後に「雪中露営の状態」の項を設け詳述している。特に思いが伝わるのは非常の困難を感じたからこその本気、その本気の中味は①とことんの準備と②気魄の指導である。

一つ目、とことんの準備

一番目 万一を顧慮して露営の準備を豫め整頓

冒頭で「今回の行軍は其の目的山嶽通過に在るを以て万一を顧慮し露営の準備は豫め整頓して出発せり」と万一、ではあるが妥協を排して本気で取り組んだ事を述べている。続いて「殊に先年実験せし雪中露営は大吹雪の夜にして気温は摂氏氷点下12度且つ一の露営材料なく火気を用ひざりし者なり此標準尺度は必ずや今回の行軍に比較の用を成すならんと思ひり果たせるかな田代に於いて其時機に会したり」と今回の事態を捉えている。

従って雪中露営演習の経験を標準尺度としたことが整頓の決め手であった。漫然と準備したのではなく標準尺度を設けて準備する合理精神と厳しい場を求めて行った経験の積み重ねが非常の困難に通用する域に達しせしめた。

二番目、出発前の覚悟と最終確認ー予備糧食の準備

「田代は今回の行軍に於て宿営に最も困難なるべしとは最初より覚悟せしを以て増澤を発するに臨み予備糧食の点検を行ひしに各人十分の用意有ありたり」

福島大尉は(予備)糧食に深い関心を持ち、出発前に予備糧食を各人に餅三食分(2合の餅3ゖ)並びに糒(註ほしい:ご飯を乾燥させたもの)三食分牛肉半斤梅干し数個その他不時の用として胡椒若干携行させた。

その関心を更に掘り下げて説明している。「寒中行軍において害を避ける最良の方法は糧食を増加するに在り」(第十一)。佛国及び露国の野外典令に寒中糧食を増加して軍隊を保護し危害を避くるの法を示す(第十七)。山岳通過は不測の事態に遭遇することが間々あり空腹を催すことが急なので、予め多量の予備糧食の携帯が必要である(第第三十二)(以上八甲田山雪中行軍実施報告第十四行軍実施に依て得たる結果)。

もっとも大事と思うことが徹底されているか否かを最終点検、増澤出発時、して全体の準備の具合を確認した。指揮官として色々気になることがあるだろう。その中で出発前に1つの注意に徹し切る。人間の凄味、である。

三番目、円滑な露営準備作業への移行

その一 露営適地

薪材とするに足る枯れ木等の存在。雪穴を掘開出来る地積。寒風をさけ得る場所など露営適地の条件が事前に明らかにされていた。泉舘伍長が述べているようにここが明快だったので夜間・大吹雪であっても隊員が手分けして適地を見つけることが出来た。

その二、露営準備作業区分に応じる器材の分担携行

「小斧並びに畳鋸を以て樹木を伐採する者と方匙を以て雪を掘開する者と点火の準備をなす者とに別ち」と工事に着手する区分を明らかにしている。これが出来たのは出発前に各人の携帯器について方匙6個小斧3個畳鋸3個蝋燭並びに火打器若干と示し、分担携行させたから。見事な逆行的準備である。

その三、露営施設構築作業基準と練度・士気の高さ

「元来雪中露営は降雪よりも寒風を防ぐを以て主要となすが故に掩蓋よりも側壁を構築するを可とす故に薪材に富む林中に雪穴を掘開するを以て最良の法となす携帯天幕等は強て無きも支障無し」。雪中露営の経験を活かした考えである。それを受け、「約2時間の後ち枯木を中心として中径凡そ四米深さ約二米の雪穴を設置することを得たり」。構築基準が明確であることが前提ではあるが、背嚢に括り付けた携帯器具をほどけないほど凍え切り、疲労困憊の状態での工事着手であることを思うと、その流れの円滑さや速さは驚くばかり。隊員の練度・士気の高さも伝わってくる。

二つ目、気魄の指導

最悪の露営に際し、福島大尉は凍傷患者や睡眠して凍死する者が発生するので行軍間よりも野外の停止間に注意を要する、との信念を強烈に貫徹し、守るべきことを隊員に強制した。

一番目、天に勝てよ、と檄

「雪上に孤立せる一大枯木の下に於て露営の命令を下し且つ左の一言を告ぐ『吾人若し天に抗するの気力なくんば天は必ず吾人を亡ぼさん諸子天に勝てよ』衆皆な大いに奮起し」と述べているが、一瞬の気の緩みどころか天に勝つ気力を持ち続けなければ死につながるぞ、との檄を飛ばしている。背筋を伸ばし、気を入れなおす絶好の機会、命令下達直後をとらえた気魄を感じる。

二番目、一人たりとも眠らしめず

(露営間に)『皆な(掘開した雪穴)其の内に在て停立休止をなす(略)中央の枯木を切りて熱き暖を取れり、(略)予備の餅を炙りて喫す。交番に時々穴を出て薪材を求めしめ一人たりとも眠らしめず」 停立させ腰を下ろさせず。穴の中で休む者、外で薪を集めるもの、外で足踏みするものなど交代で一晩中体を動かさせる。一人たりとも睡眠させない。凍死者や凍傷患者を出さないという強い気魄が伝わる。

終わりに

福島大尉は隊員を一人たりとも眠らさないように目を光らせていたが同時に気温摂氏氷点下12度以下まで下がるか否かに重大な関心を持っていた。標準尺度導入は露国が摂氏氷点下12度になれば露営を切り上げる、即ち翌日のために行動開始する基準としている、から学び雪中露営演習で確かめたもの。この露営間に唯耐えるだけではなく更に厳しい困難に如何に対処するかにも心を砕いていた。

「実験に依るに歩兵は摂氏氷点下十二度の気温に於て露営をなすことを得べし然れども之より気温低落せば翌日の運動を開始するを適当と認む此の如くする時は患者の発生を予防することを得べし」(八甲田山雪中行軍実施報告第十四行軍実施に依て得たる結果第四十七)

福島大尉の檄に応えた隊員の頑張りを詠んだ詩。

田代露営其四

気息凍凝鬚似銀【気息凍凝し鬚銀に似たり】氷天雪窖饉鐖臻【氷天雪窖(せっこう)饉鐖(きんき)臻(いた)り】連宵不眠指将墜【連宵(しょう)眠らず指将墜(おち)んとす】思起邊庭拝岳人【思い起す邊庭岳人を拝す】

露営間、耐えに耐えた厳しい状況とその状況下で、岳人(隊員)の頑張りに頭が下がった、との意が伝わる。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその七 #4難所ー田代台行軍 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1]

第8日(1月27日)ー田代台行軍

増澤~田代。午前6時30分発、午後8時50分着、露営。実動13時間12分、全行程4里半。峻坂、台地。大中台まで約2km/時、田代台上約1km/時。休止2回(#1休止10時50分大中台、行程2里、休止8分間食、#2休止午後1時10分長吉川着、行程1里半、休止10分(昼食)。大小休止時間10時間28分の外に休憩10回で50分。行進長径70m、平均歩幅35cm。終日零下4度以下、最下降気温零下11度田代。積雪量二又5m30、田代5m10、平均積雪量4m80。吹雪西北方暴風

一つ、本日行程の特徴

非常に困難な田代台行軍 
 
行進(大中台まで約2km/時、田代台上約1km/時の速度)に難渋し、目標選定に困窮し、行軍遅滞して夜に入りその困窮度は倍加する。ついに最悪の事態である露営を決心せざるを得なくなる。

「大吹雪。出発の際は尚ほ甚しからざりしが大中台を上りて後ちは非常に吹けり。増澤を発して大中台に達するまでは地形錯雑の為めに行進に困難し、大中台より田代までは地形錯雑ならざれども積雪の為めに行進に遅滞を生すること著大なりし(下線①)(以下二つ目の引用文に続く)」

二つ、本行程における福島大尉の非常の困難の思い

手記中の四つの記述箇所、下線①~④にそのその思いを強く感じる。

一つ目、積雪の為めに行進に遅滞を生すること著大なりし(下線①)

大中台は田代台への取り付くための尾根や沢を越える険山路。田代台は八甲田山へ通じる高原台地で北からの寒風の吹き抜け路。従って向かい風の暴風・寒気・深雪・吹雪下の行軍となる。福島大尉は大中台から田代台上までは地形錯雑の為行進に困難。田代台上は積雪の為めに行進に遅滞を生すること著大なりし、とその違いを端的に述べている。

列中の隊員はどのように感じたであろうか。2名の隊員の体験記からその一端を拾う。

田代台上への行軍

(泉舘伍長);「奥入瀬川の支流に沿ふて進みし時は、行軍というよりは寧ろ雪山攀登の方にて、幾度か足を踏み外しては剣崖の下にまろび落ち、或いは止め度なくして渓流に足をぬらすもの、或いは渓崖の中段にある木にすがり居て救助を乞ふもの、此等は一々縄を卸し之にすがりて攀じ登らしめつつ行く故に、其の速度牛よりも遅く、午前11時ごろ漸く蔦温泉(出発地より2里、筆者註大中台の誤り)付近に達し、(略)、此の時朝餉の命令(筆者註間食の誤り)ありしも、背嚢中の(筆者註雑嚢の誤り?)握り飯は氷りて歯も立たず水筒は全部氷りて栓を取るを得ず」

(間山伍長);「急峻、急坂仰ぎ見る程にて雪の厚きこと5m以上にして、風雪激しく且つ雪は前日と異なり綿の如くなれば歩行の困難計りがたし。」

田代台上の行軍

(泉舘伍長);「山頂に近づくに従って風雪益々烈しく、粉雪満州の埃より尚烈しく襲ひ来たりて天日為に暗く、列中の2.3人すら前を見通し得ず眞に「咫尺を弁せず」で一同唯事ならざるを感じた。殊に旋風の如く時々一段烈しき風雪唸りを生じて襲ふので其の危険言語の外であった。斯くの如き時は一同伏して之を過ごし、過ごしては又進み、(略)先頭を承る者は交互に2,30mの雪を踏めども直にその足跡を滅して歩行の難易は先頭後備の差はなかった。前兵は後兵を誘ひ、後兵は前兵を援けつつ共に勇を鼓して(略)」

(間山伍長);「寒気甚だしく風雪濃き霧の如く咫尺を弁ぜざれば5歩位遅るれば忽ち一行を見失う外套は凍りて板の如くポキポキと折れ、午後7時位に至るや凍傷気味にて無感覚となり、何処を通行せしや一向方角を弁知せず。止む得ず雪中に立ちて軍歌を唱え身体谷まりて午後9時頃遂に露営に決せり。(略)」

二つ目 目標の選定に殆ど窮す(下線②)

「又目標の選定に付ては増澤より大中台に至るまでは山あり川あり。目標となすに宜し。然れども大中台の剣坂を登りし後は北風頻りに雪を飛ばし緩徐なる斜面より成形せる劫丘は空濛の銀世界に変じ四望一色皚々として白く目標の選定に殆ど窮す(下線②)(以下三つ目の引用文に続く)」

岩木山雪中強行軍で”目標の選定に窮した”経験は今回の八甲田山雪中行軍の様相洞察に大いに役立った。手記中に「雪中行軍に於て行進目標選定は実に緊要なり坂路凹凸地森林等は地区地物に依て弁識すること容易なるも平坦開闊地は方位の識別困難にして迷ひ易し大吹雪の時は羅針も充分の用をなすものに非ず。更に「雪中露営の状態」(次稿予定)で「田代は今回の行軍に於て宿営に最も困難なるべしとは最初より覚悟せしを以て」と田代に注目し、目標に窮しての露営を洞察していたことを語っている。

三つ目、行進次第に渋滞す(下線③)

「此の時に当たり日は暮れんとして前程尚ほ遠く雪は益々深くして行進次第に渋滞す(下線③)蓋し丈餘の雪を泳ぎつつ進むなり。最初兵営出発前に於いて田代村には長内文二郎なる者一家三口にて居住しあるを知ると雖も白雪の中茅茨何れに在るかを認めえざるは遺憾なり。(以下四つ目、露営決心引用文に続く)」

夜に入るもまだ先は長く何時に行き着くか皆目見当がつかない。雪は益深く困難の度は倍加し、速度は益低下する非常の困難に陥った。

四つ目、露営を為すことに決す(④)

「茲に於て嚮導の意思稍動く依って枯立せる一大樹を発見し其下に露営を為すことに決す(④)。此枯木は本夜の薪材に充つる為なり。」

これでもか、これでもか、と手を変え品を変え天が試した非常の困難。その最後は最悪の露営決心であった。

終わりに

田代台での非常の困難を見通し、万一の最悪に本気で準備し、やってきた最悪に覚悟を決めて臨んだ。行軍に窮した時に軍歌を歌わせ、露営l決心に際しては、嚮導人の自信のほどや隊員の身体の谷りようを見極めた。非常の困難では、隊長の強いリーダーシップが不可欠。隊員は、足を踏み外した者を縄で助け上げ、交代で踏雪を行いながら助け合って進んだ。

一大困難のときにこそ部隊の真価が問われる.。出発(編成)8日。艱難を共にして、極めて規律厳正、士気高く、団結固い行軍隊が出来上がっている。

非常の困難の行き着く先、最悪の露営決心は行い難いもの。その時どのような心境であった、かを詠った詩。

田代露営

終風逼(ひっ)発六花飛【終風逼(ひっ)発して六花飛び】欲宿前程無一扉【宿を欲するも前程に一扉無く】枯木寒厳身半凍【木を枯らすほどの厳しい寒さに身半ば凍る】仏心能断死生機【仏心(の境地)で、死生の機の断を行った】

終風逼(ひっ)発=終日寒風が角笛のような唸り声を発する事、六花=雪の異称、前程=前途、仏心=ほとけのこころ、死生の機=露営するかいなかの境の意

最悪の、已むを得ざる露営であったが、やるべきことは尽くした。決して受け身ではない。仏のこころは我が生にある、を信じて、露営の決断をした、と伝わってくる。 

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその六 八甲田山前日、最終準備 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1]

第7日(1月26日)

三本木町~増澤。午前8時発、午後2時40分着、村落露営。実動4時間34分、全行程3里半、平坦地。3.1km/時。休止1回11時30分昼食、段の台。大小休止時間17時20分の外に休憩5回で36分。行進長径50m、平均歩幅70cm。終日零下最下降気温零下5度三本木泉。平均積雪量1m38。微雪、西方の和風。

一つ、本日行程の特徴

八甲田山前日、最終準備。全行程は僅かに3里半、増沢を過ぎれば田代迄人家はない。最悪の場合は田代露営で青森(田茂木野)まで休養らしきものは取れないかもしれない。本当に最後の準備、白竜が住む八甲田山へ臨む、である。

「風雪極めて少く天候較可なり。三本木より段ノ台までは積雪上に行人の足跡を存し且つ本日の行程は僅に三里のみ倉手山を廻り熊澤河岸を過ぎて増澤に達し明日の準備として充分の休養を與ふ(下線①)

二つ、福島大尉の本日行程における非常の困難の思い

上記の明日の準備として充分の休養を與ふ(下線①)から愈々白龍がすむという魔の山八甲田山に挑む”最終準備だ”の思いが伝わってくる。そこに福島大尉がこめた思いを探りたい。

一つ目、書簡往復3度ー非常の困難を訴える地元、それでも福島大尉は、

福島大尉は通過予定地の市町村役場すべてに休憩所、宿泊所、嚮導人の斡旋、食糧補給、経過路の確認等の依頼状を送付した。現存する上北郡法奥沢村役場からの福島大尉あての返事書簡3通をもとに福島大尉の思いを探る。

#1返書(1月10日付)、「本月9日付けを以て十和田より三戸間雪中行軍難易お問い合わせの件」、十和田山界隈は1月下旬~2月下旬の間は最も困難な時期で、例年1月、2月は月に1回か2回の往復を得るのが可能であるに過ぎない。

#2返書(1月15日付)、「本月13日付けを以て当村谷地の湯を経て八甲田山を越え、田代え到達すべき道路の有無及目下通行の成否お問い合わせの処」、経路は一線あるのみで、その経路も「目下の積雪到底通行せられざるものと被存候」

之に対し、福島大尉は雪国における軍隊の状況を天皇に奏上する重要な演習であり、切に協力して欲しい旨の書簡送付。

#3返書(1月24日付)、今回雪中行軍御施行の件(?)、歓迎(以下不明)、酒肴を献じたく(以下不明)

#3返書は行軍開始後、従って福島大尉はその内容を承知していない。不退転の気迫に押され、協力承諾の返事となった。現地到着時に福島大尉はその承諾の答え及びもてなしの申し出を受ける。

二つ目、 福島大尉が貫徹させた思い

八甲田山登山口の大深内村に前以て隊員でない下士官2名を連絡の為派遣、嚮導人7名の提供を要請する公文書と念書(日当その他の費用は立て替え払い)を持参させた。嚮導人の内訳は排雪(寒地着使用、ラッセル役)6名(2名1組の3交代)、雪道に詳しいマタギ衆(猟師)1名。他の地域では1~2名の嚮導依頼であったのに比べて、田代~八甲田山の困難を深刻に思えばこその手当であった。

岩木山雪中強行軍では先頭で排雪に任じるものの疲労が大きく、後続の主力では前半分の疲労が大きい(理由は前者の踏み跡が十分に固められていない)。寒地着など着用し踏雪に任じるものは軽装備のものが良いなど実地に試した先頭交替法の有効性が強く脳裏にあった。

三つ目、福島大尉が増澤での一夜に懸けた思い

(最初の引用文の続き)「(・・・充分の休養を與ふ)然れども山間寂寞の郷三戸の家一枚の畳なく浴場の如きも村長の周旋に依て僅に一個処を設け得たるのみ(下線②)

僅に一個処を設け得たるのみ(下線②)ー福島大尉は風呂を強く要望

増澤を過ぎると田茂木野まで8里半(34km)の間、行人は途絶え、全くの埋雪路。田代元湯(増澤から4里半(18km)に1軒の家があるのみ、増澤は準備を整える最後の地。休養場所は宇樽部に次いで2度目の民家の土間。畳なし、寝具(蓆)1枚。福島大尉は蓆、薪、風呂を要望。食事は依頼せず。夕食は携行の餅、翌日の朝食餅と牛缶詰(半分)従って翌日の携行昼食は餅と牛缶詰(残り半分)。これで白龍に立ち向かう。風呂は福島大尉の強い気持ちを受け村長が走り回って準備。風呂は何としても隊員に使わせ、疲れを取りたかった。

終わりに

十和田山脈通過をしたと思ったら、直ぐに八甲田山。連続する”非常の困難”の谷間の休養。行く手の厳しさを噛みしめる休養であったが、増澤での休養のアクセントが隊員の心身のメリハリをつけた事も間違いないであろう。

増澤露営口占
踏破江山欲駭神【江山を踏(ふ)み破りて神を駭(おどろ)かさんと欲し】寒風大雪琢此身【寒風大雪に此身を琢(みが)く】要是古人輸甓竟【要は是(これ)古人輸甓(しゅへき)の竟(きよう)】勵精日夜養天眞【勵精日夜天眞を養う】

古人輸甓=中国の故事、或る武将が、平時なんでもない時に、瓦をある地点まで、運び込ませ、それを又持ち帰らせながら時の来るまで何度も繰り返し、兵士を訓練していた故事。竟=尽きる。終わる。終える。天眞=国家(天皇陛下)に対する、混じりけのないまことのこころ

福島大尉は通過経路上の市町村長に対し、丁重に協力依頼を行った。その中で非協力的な態度を示した地域の通過に当たり、勿論最終的には応諾を得たが、この行軍の意味を理解してほしい、との強い思いを込めた。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその五 患者発生 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1]

第6日(1月25日)

戸来村~三本木町。午前7時30分発、午後4時40分着、舎営。実動6時間43分、全行程5里、傾斜地・平地。3km/時。大小休止時間16時50分の外に休憩8回で57分。終日零下最下降気温零下5度伝法寺山。平均積雪量2m16。

一つ、本日行程の特徴

①十和田(中央)山脈通過後の傾斜地・平地行進②患者発生

「雪天にして北風吹く此日は獅子神山を越へ伝法寺の東麓を過ぎ戸来より三本木に達す積雪道なきも前日来の行程に比すれば疲労を感ずること少なかりしなり且つ処々に部落有りしを以て患者等発生することあるも其の処置に便なるを以て山中行進に比すれば余分の心配を要せざるなり(下線①)

二つ、本日行程におけ福島大尉の非常の困難の思い

処々に部落有りしを以て患者等発生することあるも其の処置に便なるを以て山中行進に比すれば余分の心配を要せざるなり(下線①)」、に過去3日間、十和田山脈中で、非常の困難に直面し、患者発生を恐れた思いと本日の患者発生は処置が出来るのでそうでもない・・・の思いが伝わってくる。

一つ目、患者発生を恐れる思い

福島大尉は「山間積雪の時に於て患者の発生することあらんか実に救助の方法に窮する者なり。之が為めに遅滞躊躇すれば全隊の安危に関す。行軍出発の際特に注意すべき一事なり」と述べている。

人家がない、山間積雪の時の患者発生は救助に窮する。救助に当たるのは隊員しかいないが、隊員は任務を果たさねばならないし、救助で疲労が倍加し被救助者になり得る恐れも多い。そうなると全隊を危殆に陥れる。かと言って患者を見殺しには出来ない。ボーとしてるとこれまた全隊を危殆に。其れゆえに如何にすべきか悩ましい。

岩木山雪中強行軍の苦しい経験から学んだ事

百澤より嶽村を目指したが一面の荒野と化した雪の高原で目標を失した。嶽村と思しき地点を目指したが根の山であった。そこで嚮導を懇諭再三、終諾。出発後6,700mと行かぬ間に2名遅滞、手当をしても1名回復せず、昏倒。嚮導に患者を付し帰村、手当と原隊への後送を依頼。主力は嚮導なしで行軍続行。

嚮導に指示された方向を予想し、高低を推測し進む。やっとの思いで嶽村につき、嚮導を懇諭再三。終に条件付きで2名応諾。河底への転落に細心の注意を要する鍋河岸で、昏瞑者2名発生、殆ど進退に窮したとき、松代村の村民が救援。休養協力依頼のため、先行させた嚮導のうちの1名の知らせが命を救う端緒。

根の山を後にして直ぐの昏倒者発生の場面では、折角得た嚮導を手放し、方向について指示を受け自ら判断しつつ行軍続行を決断する。昏倒した隊員の救助を優先し、自らは困難な道を択んだ。鍋河岸では休養協力依頼のため、嚮導1名を先行した。その嚮導の機転が村民の救援となり、危機一髪を救った。

嚮導人の働きが窮地脱出の決め手であった。現地に詳しい嚮導に期待する事は道案内だけではない。患者が発生した場合の救護・緊急依託や村人への緊急の連絡・依頼等の働きがある。その働きはその土地や土地の人とのつながりがあるから出来るものである。嚮導はこの点からも絶対に必要である。

二つ目、患者発生

「此日伍長一名脚気患者となる。前路の見込なきを以て下田より汽車に乗せ帰還せしむ」

十和田山脈通過中に発症していたのであろうか、それとも本日の行程での発症であろうか。前者であれば重苦しい思いでここまで連れてきたのであろう。後者であれば厳しい山地通過が終わり気が緩んだ、のであろうか。

この患者は、村人に委託し汽車にのせたという。其の処置に便なるを以て山中行進に比すれば余分の心配を要せざるなり、は正直な思いであろう。

終わりに

十和田山、十和田湖断崖道、犬吠峠の連続難所で若し患者が発生したら本当に窮地であった。厳寒深雪寒風の嶮山・断崖で人家は遠い。患者を連れて進むも退くも留まるもできない。患者が発生しなかったのはとことんの準備と各自の沈着冷静さが齎した天佑である。これからも天佑を期待し、自らを信じて進むのみ。

もう視線の先には八甲田山

越獅子神山

此行何以説間関【此行何を以て間関(かんかん)を説かん】後難排去又前難【後難を排去して又前難】雄心欲達青雲志【雄心達せんと欲す青雲の志】一挙超来白雪山【一挙に超し来たれ白雪の山】

間関=路が険阻にしてめぐれるさま、又人が困難にあう喩え。

この行軍の困難を述べようもないが、十和田山脈を越してきた、と思ったら次には八甲田山が控えている。必ずやり遂げて見せる。天佑を得て、の心で一挙に八甲田山を越す。もう次の困難に思いを馳せている福島大尉、1月25日の作。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその四 #3難所犬吠峠通過 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1]


第5日(1月24日)

宇樽部~戸来村。午前6時30分発、午後6時30分着、舎営。実動9時間11分、全行程8里半、峻坂5里、左記以外の山地傾斜地2里半、平地1里。途中行程:8時40分犬吠峠着行程2里、休止8分間食。午後零時30分枯澤川着行程3里、休止11分昼食。同3時30分下栃棚着行程1里半、休止1時30分間食。大小休止14時間49分の外に休憩9回で1時間。終日零下最下降気温、犬吠峠の零下16度。犬吠峠行進長径100m。

一つ、本日行程の特徴

①十和田(中央)山脈、最後の難所、犬吠峠通過【3日連続で難処が続く、その3日目】②大寒波襲来に遭遇

「午前暴風吹き降雪は樹木の凝雪と共に乱舞す。午後に至り一層獷(こう)猛を極め気温最も低く天候も亦甚だ悪し。本日通過すべき山嶽は三嶽山にして今回の行軍中屈指の高峰(標高900m)なり、即ち緩斜面の谷間を登ること2里急斜面の険坂を攀ずこと半里余にして嶺頂に達す。之を犬吠峠の険と云ふ。気温零下16度を示し風雪咫尺(しせき)を弁ぜず寒気の為に停立休憩をなす能はず(下線①)鬢に氷條を懸け肌膚に粟を生じ心戦き身顫(ふる)ひ口噤(つぐ)み眼眛(くら)む此間に処し嚮導は慎重に加えて方向及び地形を案じ(下線②)

行軍の様相

福島大尉は24日の気象について,「青森測候所の通知に依れば一月二十四日は西方の強風吹き大雪にして最低温度は零下十二度を示し測候所創設以来既往二十年間未だ曾て有らざる天候なりと云ふ」(実施報告第八行軍当時の気象)と述べている。

この非常に困難な状況下の行軍を泉舘伍長(当時)は「犬吠峠に向へば嵐は昨日に増して激しく、山腹より吹き揚くる吹雪にて空中に浚へ揚げらるるかと思はるること幾回なるを知らず。指揮官の注意により予て用意の麻縄を以て己の腰を結び其の一端を後列に渡し、後列は自己の縄に結びて逐次後方に廻し、斯くして一行三十二名(註38名の誤り)は猿繋ぎに結束して進んだ、偶旋風に會ふ毎に一行は悉く伏し、和げば又進み、風来れば又伏し、斯くして徐々に進む。其の行動は地獄話にもかって聞かざる所であった。)」(八ッ甲嶽の思ひ出)と述べている。

二つ、本行程における福島大尉の非常の困難の思い

寒気の為に停立休憩をなす能はず(下線①)と嚮導は慎重に加えて方向及び地形を案じ(下線②)の2ヶ所に福島大尉の非常の困難の思いを強く感じる。

一つ目、寒気の為に停立休憩をなす能はず、から伝わる福島大尉の思い

表記から、岩木山雪中強行軍以降の取り組み方向の正しさを確認した思いの強さ、が伝わって来る。

一番目、岩木山での成果

福島大尉は一瞬たりともたち止まれない、休憩できない物凄い寒気の凄さを身に染みて感じた。本日の犬吠峠での厳しい経験、最高峰で最大の寒波(氷点下16度)に遭遇し、表記を心底感じた。同時に今までの取り組みの正しさと更なる工夫の必要性を痛感した。

岩木山雪中強行軍では防寒外套ではなく普通外套にし、襦袢袴下は一切着用させ無かった。理由は長い時間とどまらない(露営等)ので必要ない、身軽にして動き易くする。体を動かすことで暖を取る。ためであった。結果その考えの正しいことを体得した。そのことで、以下の2点を確信する。①その温かさは汗を伴うので、とまれば直ぐ冷える。冷えた時は凍傷に罹る時。従って成るべく体を緩やかにうごかし続ける事が大事。従って休止法を更に模索し(1.5時間又は1時間毎等適宜に)、休憩は小刻みに多くとる。②体をうごかせば腹が減る、腹が減れば体内に熱源が無くなる。そうなれば凍傷にかかる。従って食料を準備し、適宜食べることが最も大事。そのため食糧の携帯法や食事のとり方を工夫する。

二番目、本行軍での工夫

今回の長途山岳通過行軍にあたり、絨衣袴冬襦袢冬袴下及び冬外套の服装とした。休止以外に休憩を頻繁に計画した(本日は9回で1時間)。昼食と間食を宿の主人等に依頼し、間食は岩木山の必要に応じ与える許可制から午前又は午後の計画喫食とした。更に予備糧食として各人に餅三食分(二合の餅3個)糒三食分牛肉半斤梅干し数個を携帯。食料は雑嚢に入れさせ、取り出し易くしたり、おにぎりは凍らないよう腹にじかに巻きつける工夫をした。

三番目、工夫した方策の有効性と改善点

「(犬吠峠を後にして)之れより緩急相接続せる凸稜を下ること二里枯澤の凹地に達し、凍凝せる昼食を喫す。水筒の水は皆氷結せるを以て止なく雪を噛(か)み尚ほ(略)」

朝6時30分出発から午後3時30分下栃棚着まで、隊員の体力気力を持ちこたえさせたのは小刻みな休止、休憩と小刻みな食事及び体を急激に冷えさせない運動の持続であった。実施報告では短時間少時の休憩の必要性及び予備糧食を多量に携行する必要性とその理由、不慮の事変及び空腹を催すことが速やかなのでそれに備える、を述べている。反面、厳しい寒さで食料や水筒が凍ってしまう、従来の保存法等の更なる改良の必要を痛感し、実施報告では水筒に少量の酒精を混ぜ、予備糧食として砂糖を混ぜた餅などの提案や今後の検討について問題提起をしている.

二つ目、嚮導は慎重に加えて方向及び地形を案じ、から伝わる福島大尉の思い

以下の三つの思いが伝わって来る。

一番目、何故方向及び地形なのか?ー雪中危険の連鎖、危機への連鎖に思いを至し、嚮導の必要性を一層鮮明に理解。


方向を案じると地形を案じるとは同意であるはず、なのに敢えて並列させている。この場合の地形には特別な思いが入っている。福島大尉は十和田山脈の険しさとマブなど、雪の下に潜む危険箇所をイメージし、地形という表現をしたのではないか。行軍出発以来、十和田山地では福島大尉は危険について多く語っており、危険についての関心は強い。方向及び地形を方向及び危険個所ととらえ、思いを巡らす。

岩木山雪中強行軍では当初嚮導を予定していなかった。開始とともにその必要性を感じ、その都度懇諭し終諾まで粘って嚮導を得ることが出来た。が短い区間等制約が多かったので、3ヶ所、延べ4名であった。その結果「未熟地に於て飛雪中は道路並びに方向等に迷い易し殊に夜間は地形の識別困難なるを以て頗る嚮導の必要なることを感せり」(岩木山雪中強行軍実施報告第二十研究せし事項の要旨第十一)と述べている。

今回の行軍では夫々の山地を熟知する嚮導を険路通過の羅針として次のように計画した。弘前~三本木:進藤 貞吉伍長、三本木~田代:兵卒沢目 亀三、田代~青森:兵卒小山内 福松、又必要に応じ二名乃至七名の土人を現地に於いて雇いだす。

本日の行程において、厳しい山岳気象下、吹雪と寒風で視界が得られず、5m前後の積雪を泳ぎながら、方向の維持と同時にマブ・雪庇・隠れた断崖等の雪の下に口をあける危険箇所を案じる嚮導の有難みを一層鮮明に理解した。同時に危機への連鎖に思いが至ったに違いない。方向維持と危険箇所を避ける為、慎重にならざるを得ないので寒中に堪え続ける時間が増える。更に崖下への転落者等が発生した場合にも寒中に堪える時間を増やす。これらの時間が増えれば気象の激変や不測の事態に遭遇する機会も多くなり、疲労や空腹の度及び凍傷の恐れも増す。そうなると昏倒する者や落伍する者が発生し、その救助に多大な労力を要し、更に寒中に堪える時間が増える。また落伍者について、山中人家なければその処置に窮する。この危機への連鎖を最初の段階で断ち切る為に嚮導が必要なのだ。

二番目、福島大尉が嚮導に触れているのは本手記中2ヶ所のみ、それも簡単明瞭の記述。何故であろうか?その何故、に第五連隊遭難への配慮を感じる。

この点はいずれ項を新たにして述べたいのでここでは項目のみに止める。

三番目、福島大尉は心から嚮導を信頼し、任せている

此日の嚮導は進藤伍長。以下の「隊伍は従容として之に従う一行の元気大いに予の心意を強くするに足るものあり」にある”従容(註)”に嚮導を信頼しきった心情を感じる。又”一行の元気に心意を強くする”に迷いのない信頼を感じる。 従って、謙虚に自己の足らざるを思い、心から嚮導を信頼している気持ちが伝わる。

註 【従容】ショウヨウ:動ぜず、ゆったりと落ち着いている。【従】の原義:前の人のあとにうしろの人がつきしたがう、ついてゆく意。つぎつぎについてゆけば長いたての列となるので「たて」の意。 

終わりに

猛吹雪、厳寒の犬吠峠の険の登下降は非常の危険、困難を与えた。その厳しさに身を置いたからこその貴重な実感であった。福島大尉は小刻みな休憩や食事と運動をし続けることの有効性を体得した。嚮導が慎重に加えて方向及び地形を案じている姿に、危機への連鎖に陥らない、早い段階から注意深くある必要を体感した。そしてこの為にこそ嚮導がなくてはならない、を一層明確に認識した。

それでいて、零下16度の山上で、福島大尉は遥高見を目指す。それが以下の詩。

越犬吠坂

惨慄風吹壮士顔【惨慄たる風、壮士の顔(かんばせ)に吹き】堅氷満頤玉痕班【堅氷頤(おとがい)に満ち 玉痕(ぎょくこん)班(まだら)なり】一望光景蜀耶越【一望の光景蜀か越か】大雪名詮犬吠山【大雪名は詮(あきらか)なり犬吠山】

犬吠峠では氷点下16度、予想をはるかに超える大寒波に身も心も凍る。しかし、福島大尉は遥か大陸を眼下に納める気持ちであろうか。何処までも目線は大陸の対露冬季戦。

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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその三 #2難所十和田湖断崖道通過 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1]


第4日(1月23日)

十和田村~宇樽部。午前7時発、午後4時30分着、村落露営。山地傾斜地、実動7時間40分、全行程5里。2.8km/時。休止2回(10分1回:間食、1時間1回:昼食)。休憩9回で40分(大小休止の外)。十和田湖畔行進長径120m。

一つ、本日行程の特徴

①本行軍1番の難所十和田湖畔断崖道の通過(今回の行軍中最も危険とせし難処は十和田湖畔本日の行程)②【3日連続で難処が続く、その2日目】

「風強く降雪多く寒威も亦強し今回の行軍中最も危険とせし難処は十和田湖畔本日の行程とす(下線①)。(略)夏季と雖も峻厳を仰ぎて藤蔓を攀じ深淵に俯して蒙茸(柔らかい葉や草が生い茂る)を披くにあらずんば通過すること能はず若一歩を誤れば千仞の淵に沈む然るに此の積雪を冒し無事此地点を通過し得たるは演習員各自の注意深かりし為なり(下線②)此地点は通過に多くの時間を要したり」

2008_07170120.JPG

(銀山と鉛山の中間、寺子屋ノ岬付近)

行軍の様相

断崖がすぐ湖の上に屹立し、その斜面には倒木や樹木が横ざまに生え或いは蔓類が這っている。湖岸道(人道)は湖の直ぐ近く、断崖を縫うように走る。冬季は波の飛沫が岩肌や樹木・蔓類に凍りつき、足場は滑りやすく、掴まるものもない。足を踏み外せば真冬の寒気厳しい湖に転落する。以上の状況を壮観筆紙に絶す、と泉舘久次郎伍長(当時)。状況を猿候の如く巧みに乗り越え、と間山仁助伍長(当時)は語っている。

宿泊地(宇樽部)の様子

宇樽部では開墾地故に畳なし、寝具なしで土間で休む。この夜、予想を超える大寒波襲来。風雪益々猛り湖上は白浪荒れ荒び、山岳鳴動して寒気殊に烈しく、空叺に体を入れ、「狸や豚に劣る」など言い合いて一睡もせず、出発の時を待った(泉舘久次郎伍長、当時)。隊員の多くが先行きの不安を覚えたであろうが、福島大尉だけは土間であっても屋根付きで火の気の暖有り、の休養に、村落露営方式の手ごたえを感じたことであろう。

二つ、福島大尉の非常の困難の思い

今回の行軍中最も危険とせし難処は十和田湖畔本日の行程とす(下線①)及び此の積雪を冒し無事此地点を通過し得たるは演習員各自の注意深かりし為なり(下線②)の二箇所から強い思いが伝わってくる。

一つ目、今回の行軍中最も危険とせし難処は十和田湖畔本日の行程とす(下線①)ー岩木山夏季強行軍で見抜く

昨年の下士候補生夏季強行軍で唐竹より戸来に至る間、約20里の連山地を隊伍と共に行進しつつ二十余時間に実測した。十和田湖岸道はその中に含まれている。地勢の大要を示すに止まるものではあるが、現地踏査の意味は大きかった。

特技地理学・地図の眼力で(やるとすればの前提で)今回の行軍で最も危険な難所である、を見抜いていた。しかし実施報告では「十和田湖の周囲は行進困難なり而して冬季は猶其の度を増すならん」(下士候補生夏季強行軍実施報告第十二行軍の実施に依ってたしかめたる所見 第三)とのみ述べている。この時点では思いを抑えていた。

二つ目、『此の積雪を冒し無事此地点を通過し得たるは演習員各自の注意深かりし為なり(下線①)ー周到に準備

一番目、準備はとことんやる

その一、十和田湖の氷結と経路上の崩雪について、事前に調査

「十和田湖は北風の強き為め常に波濤を捲き氷結することなしと唯明治16年に一回氷結す其時は行人氷上を歩せりと云ふ。雪害に付いては明治17年4月2日鉛山に於て雪崩の為に樵家7戸一時に全滅せりと云ふ」

その二、万一に備えた準備を本気でやるー舟行と救助舟の準備

「最初予の考案に依れば十和田湖は氷結する事なきを以て湖畔の難処を通過し得ざる場合には舟行に渝(か)ゆるむ胸算なりしなり若し又通過し得るも極めて危険なれば救助舟を沿うて行進せんと思えり然るに事茲に至らずして崎嶇を全うせんは(略)」

連絡用の信号旗3組も準備。「信号旗3組蓋し此信号旗は十和田湖の断崖を通過する際に若し救護舟を沿ふるの必要ある時は之を用いむ為めの準備」(実施報告第二服装器具並びに糧食の第四)とある。念には念を入れている。

二番目、演習員よ注意深くあれ

その一、優秀隊員を選抜し、意識植え付け

当初「諸子は将来将校となり或いは下士となるべき地位にある者なれば宜しく此際に於て分担せしめられたる事項の研究調査は遺漏なく之を行ひ(略)」と訓示し研究事項を分担させ、参画意識を高めていた。その事で名誉ある行軍隊員に選ばれた誇りと将来のリーダーたるの自覚を強く持ち、どう行動すべきか、が分かっていた。


その二、本気の伝わり

万一に備え、本気で取り組む福島大尉の姿勢が隊員に浸透した。。言うは易く行うは難し、であるが隊員保護にとことんを貫く本気が伝っていた。又危険を予測しその対策を徹底する安全管理意識も伝っていた。従って軽はずみや不注意で部隊を危険に陥らせない認識も又高かった。、

その三、隊員の連帯感

雪中では交代で先頭に立ち後に続く者の為に踏雪し、或いは前者の踏み跡を踏んで歩くことや命綱でお互いに結び合い、助け合うことなどから強い連帯感が生まれ、断崖道での安全な足場、手懸け箇所及び身のこなしなどの共有が行われた。

終わりに

福島大尉は舟行の準備もしていたがその要はなかった、と言っている。若し、大寒波の襲来が1日早く、なんとしてでも行軍続行の場合、湖面から吹き付けるしぶきが瞬時に崖道の足場、手がかりとなる藤蔓など及び猿け鼻・抱返の丸太1本橋を凍らせ、その通過が非常に危険となったであろう。その場合でも安全に行軍を続ける手段を準備していることの意味は大きい。 万一を予測し、本気で備える、を福島大尉は実行した。何としても安全にやり遂げる、の強い意志の表現でもあった、と感じる。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思う その二 #1難所十和田山通過 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1]

第3日(1月22日) 切明村~十和田村

午前6時30分出発、午後3時着、舎営。山地傾斜地4里、実動7時間3分。大小休止時間16時50分の外に休憩7回で37分。全行程平均約3.4km/時、温川~十和田間(1里を2時間20分)、1.7km/時。間食1回、昼食1回。

一つ、本日行程の特徴ー①連山地行軍(峻坂を登ること四回降ること亦四回、今回の行軍中多くの丘渓を跋渉せしは本日を以て最となす。)②3日連続で難所が続く、その第1日目【十和田山(岩嶽森)】③行軍難渋


「終日風雪止まず、積雪の量は滋深く寒気も亦前日の比に非ず山益高ければ気温益低し(下線①)之に加ふるに四里の山地一の人家無(下線②)く積雪身を没し堅氷頤に満つ此の日峻坂を登ること四回降ること亦四回高きものは五百m以上にして低きものも二百mを下らず

行軍難渋の様相

起伏に富んだ、本行軍の最初の難処である十和田山(岩嶽森)を含む四つの山岳の登下降であった。岩嶽森は標高880m、従ってここでの山の高さは(登山口?からの)比高差(実際に上った高さ)を語っているのであろう。豪雪地帯故に雪量は昨日の2~3倍。凸稜線に少なく、凹稜線に多い傾向しかも雪質は軟雪のため、危険は少ないが行進は雪に埋もれ、雪を泳ぎ、斜面を滑り落ち難渋。北方の強風と寒気に行動が制約される。雪量(最浅4m70、最深8m(十和田山)、平均5m82)。終日氷点下、最下降気温零下7度(十和田山)。

十和田山(岩嶽森)において1列側面縦隊で行進長径は130m、2歩間隔で1歩の平均歩幅50cmとして40m程度が標準に対し、本行軍間でも最も長く、その難渋の程度が分る。2歩間隔とは前者の踏み跡を踏むのが最も効率的と考えたからのようである。又行軍速度(温川~十和田間1.7km/時)の点からもその難渋の程度が明らかである。

二つ、福島大尉の非常の困難についての思い

手記中の表現に福島大尉の思いが滲んでいるものがある。それらを拾いたい。

一つ目、山益高ければ気温益低し(下線①)ー山の高低と積雪量と気温の関係

前回ブログで載せた『経過路積雪表』を自ら纏めたことに依り、『積雪の深浅は山の高低と比例をなす』との定義を得、又山益高ければ気温益低しの知見も加えて、山の高低と積雪量と気温の関係について独創的な思考をしている。厳冬期山岳通過に当たっての知見を得た、訳である。

二つ目、四里の山地一の人家無く(下線②)ー研究調査の積み重ねによる自信と余裕

中隊長に着任して雪中行動の研究をしていた頃、福島大尉は拠るべき人家がない路程で風雪の(が厳しい)場合及びその場合に厳しい状況で行わざるを得ない露営などの困難性に思いを寄せ、安全に露営を行う方策を持たない不安を感じていた。
 
今回、福島大尉は四里の山地一の人家無く(下線②)とは述べているが気がかりなこと、不安に類すること等は何もないかのように淡々としている。私には4年有余の間の研究調査や実験行軍などで最悪の場合の露営法について成案を得て、不安を克服してきた自信と余裕が言わしめている、と感じる。

三つ目、臀部を雪上に置き蹲踞て以て静粛に奔下(下線③)ー急傾斜地の安全降下法

「傾斜危峻約1分の2に近き斜面は臀部を雪上に置き蹲踞て以て静粛に奔下(下線③)せり、今回の行軍中多くの丘渓を跋渉せしは本日を以て最となす。茲に於いて始めて軟雪時に於ける山嶽通過の危険少なきこと(下線④)を知得せり」

昨日は長い坂路を勢いに任せて奔下する危険を厳に注意喚起していた。具体策は特になかったが急坂では本日の方法で安全に下る事が出来る、との安堵と喜びを表現している。冠雪の山路の登下降への関心は強い。

四つ目、軟雪時に於ける山嶽通過の危険少なきこと(下線④)ー何故この時期か?

この時期に行軍をした事は正解であった。

福島大尉は雪質は主に季節によって硬軟の度を異にすと以下の3期に分けている。第1期は11月中旬より1月中旬、雪質は柳絮の如くにして俗に若雪或いは綿雪と称し山地の行進最も困難なれども危害の少なき時期なり。第2期は1月中旬より2月中旬、雪質は硬軟相半ばし、雪量もっとも多し。行進容易ならざれども危険少なし。第3期は2月中旬より4月中旬、雪質は一般に凍凝し俗に堅雪といふ。山地と雖も行進困難ならざれども危険の多き時期なり、と述べている。

雪質の考察から見える非常の困難の考え方

行軍実施時期の選定に当たり、難渋して困難ではあるが危険の少ない方を選んだ判断の正しさが知得できたと述べている。その言葉の裏で、部隊や隊員の安全を如何に重視したかを控えめに語っている。福島大尉の非常の困難とは単に行軍の難易だけを指すのではなく、危害の大きさとそれを避けるために慎重な行軍をせざるを得ない事から派生する、遅滞と遅滞から生じる困難も思考の範囲内である。

五つ目、一の難処あり即ち岩嶽森(下線⑤)ー岩嶽森が何故難処か?

一番目、マブを思う

「温川より十和田に至る間に一の難処あり即ち岩嶽森(下線⑤)(土人は山を森と云ふ)の項嶺に堆積せる氷雪は西北風の作用に依り西北部は極めて緩傾斜を以て地を覆ひ之に反する東南部は数十仞の断崖をなし其崩れ来らんとする勢いは恰も絶壁の傾けるが如し土人は俗に吹き溜又は「マブ」と云ふ。若し夜間或いは其の吹き溜を知らずして緩斜面の方向より進む者は必ず断崖に墜落して命を失う(下線⑥)故に沈重に積雪の状況を考えそのもっとも低き処を飛越せざるべからず。」

そして昨年の岩木山雪中強行軍に於ける観察と合わせ、「十和田山脈の一部に止まらず何れの地に於いても多く山背に生ずるものなる(下線⑦)を以て注意すべき一事なり」と注意喚起をしている。

マブの恐さを具体的に述べ、夜間或いは其の吹き溜を知らずして緩斜面の方向より進む者は必ず断崖に墜落して命を失う(下線⑥)更に何れの地に於いても多く山背に生ずるものなる(下線⑦)と注意喚起している。本行軍に関しては夜間或いは其の吹き溜まりを知らずして緩斜面の方向より進み断崖に墜落して命を失う危険性が付きまとう。夜間には吹雪などで視界が効かない場合を含み、道に迷う場合も想定している。今後中央山脈に残る2つの難所や八甲田山の鳴沢や駒込川の断崖に思いを寄せ気を引き締めている。その気分が強く伝わる。

又同じく昨年の岩木山雪中強行軍では山背について、岩木山脈の北面と南面では北面の方が雪量が多いという報告にとどまっていた。今回は山背のマブについて新しく認識した。岩木山雪中強行軍では平地部のマブについて、第1部隊はマブに遭遇し、吹雪と合わせ行軍に難渋した、と述べていたが今回の危険極まりない経験により、「平地路上に生ずる吹き溜は円形にして単に道路を杜絶するのみなれども(略)」と感想を進化させている。

二番目、山上にて

十和田山上で万歳を三呼

非常の困難にあって、困難をものともせず、最初の難所であるがゆえに敢て行った万歳三呼と詩作。立ち向かう雄々しさ、天皇陛下をたたえる気持ちを山上で素直に表現するー誰もなし得ない爽快さ、心の余裕などを感じる。

身在寒空第一嶺【身は寒空の第一嶺(れい)に在り】三呼万歳響轟天【三度万歳を呼(さけ)びて響(ひびき)天に轟(とどろ)く】山霊使我歌君徳【山霊我をして君徳を歌わしむ】祝頌応至京洛辺【祝頌(しゅくしょう)応(まさ)に京洛の辺に至るべし】

祝頌=君徳を祝いたたえる。

十和田山(岩嶽森)頂上でのことを隊員の泉舘伍長は以下のように記している。

「午後に至り山は俄かに荒れ、大木揺ぎ樹々の軋る音、雲無き空に雪狂ふなど、物凄まじき中を辛うじて山頂に達す。山頂は海抜三千尺の高山なれば風雪殊に激しく、吹き飛ばさるる如きに裏に隊長は今回の計画中に於いて、第一回に踏破すべき山頂に無事到着せるの故を以て(下線⑨)、隊列を整へ、服装を正し、威容を改め、直面して遥かに「天皇陛下の万歳」を三唱した。以下略」(八つ甲嶽の思ひ出、時の下士候補生 現後備陸軍歩兵特務曹長 泉舘久次郎、昭和十年一月二十四日)

終わりに

第一回に踏破すべき山頂に無事到着せるの故を以て(下線⑨)、の表現にメリハリを持たせた指揮官福島大尉の力量を感じる。行軍に難渋し下を向きっぱなしで終わるのではなく隊列を整へ、服装を正し、威容を改め、直面して遥かに「天皇陛下の万歳」を三唱し、胸を張らせた。その気分の変化を意識的に作り出した点に、である。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその一 馴致 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1]

始めに

このシリーズを含め旅のすべてで八甲田山雪中行軍に関し、主に歩兵第三十一連隊雪中行軍手記(以下行軍手記或いは手記)、歩兵第三十一連隊明治三十五年一月下旬雪中ニ於ケル山嶽通過ノ実施報告(以下八甲田山雪中行軍実施報告或いは報告八甲田山)に依っている。尚明治三十五年歩兵第三十一連隊雪中行軍路案内実録(昭和六年二月調査大深内青年団熊野澤支部調、以下案内実録或いは実録)、八ッ甲嶽の思ひ出(泉舘久次郎、以下泉舘手記)並びに明治三十五年一月二十日雪中行軍日記(間山仁助、以下間山手記)にも資を求め、事実の総合的な把握・検証に努めている。

福島大尉は雪中行軍手記で何を訴えたかったのか?
『手記』と『第五連隊遭難始末附第三十一連隊雪中行軍記』及び八甲田山雪中行軍実施報告本文が全く同文である事は既に述べた。何故ぶれないのだろう?が気になっていた。何か強く訴えたいものがあったに違いない。それは何か? 

八甲田山雪中行軍で福島大尉に与えられた任務は「積雪時に於ける十和田山脈及び八甲田山脈の探討であり、通過可能であればその難易を明らかにせよ」であった。同実施報告第14 行軍実施に依て得たる結果の最初の第1第2項で「積雪時に於いて軍隊を津軽平野から南部平原へ、南部平原から青森港まで運動せしむることを得べし然れども非常に困難なり」と述べ、更に第8項までを困難性について費やしている。 

私は福島大尉が与えられた任務と優先報告事項を一貫させていることに注目する。

福島大尉は「冬季全く行く人が絶える険しい山岳通過・雪中行軍が非常に困難である実相とそれを克服した軍隊の行軍力及び極限の厳しさだから得られる貴重な経験(発見)を広く世に伝える」為に、手記を公表し、それをそのまま実施報告本文とした、と思う。

従って八甲田山雪中行軍の中心テーマを非常の困難を思う、とし非常の困難を伝えたかった福島大尉の思いを雪中行軍手記で辿り併せて雪中行軍の実相を理解することとしたい。

雪中行軍の概要はブログ「福島大尉のなした事を思う」参照

以下の二つの資料で行軍における困難の全体像を概略掴みたい。

一つ目、福島大尉が使った地図

福島大尉が書きこみ、行軍の厳しさを共にした地図(1/20万)である。唐竹より戸来の間は昨年の下士候補生夏季強行軍で地図(10葉)を作成したが、八甲田山地域は作成していない。この地図だけであり、細かな地誌資料は掴めていない。しかも未知の土地、加えて冠雪に覆われ、様相が一変する厳冬期、非常の困難の度はそれだけでも十分予測がつく。

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二つ目、雪中行軍経過路積雪表

行軍後福島大尉が自らまとめたものである。高低に比例して積雪量が変化しているのが一目瞭然である。
山深くなれば積雪多く行進は益困難になる。危険度も増す。

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第1日(1月20日)弘前屯営~小国村

午前5時出発、午後3時20分着、舎営。全行程6里、実動7時間45分。大小休止時間17時50分の外に休憩7回で55分。約3km/時。間食1回、昼食1回。

本日の行程の特徴ー行軍馴致

「朝寒気強く風吹き雪降り天候不穏なりしが暫時にして風雪止み冱寒の度を減じたり弘前より唐竹に至るまでは前日来の足跡半ば存し行進困難ならず唐竹より小国に至る間は黒倉山の坂路にして来往全く絶え加うるに行軍初日なりしを以て較々疲労を感ぜり」

初日故の疲労を完全に取り、明日からの山道に慣れさせる為、短い行程として午後3時20分には宿営地に到着、被服の乾燥、体の手入れをし、屋内・畳の上での休養を十分にとった。

第2日(1月21日)小国村~切明村

午前8時出発、同11時40分着、舎営。全行程1里半、実働時間3時16分、大休止時間18時50分の外休憩3回時間20分。約1.8km/時。間食1回、昼食1回。

本日の行程の特徴

一つ目、行軍馴致

「曇天微雪にして風強からず冬季の天候としては較可なりしが積雪の量は前日に比し一層深く道路を認め得ず小国より切明に達するまで僅かに1里半なれども行進迅速ならず鳶坂難路の登上は著しく時間と労力を要す琵琶平山背行進はこれに次ぐ」

愈々山地へ差し掛かり、雪道の厳しさ(行進速度1.8kmに低下)、今後の山岳通過が如何に困難であるかを身を以て体感し、本気の準備を決意した所で、第2日目は終わり、明日からの長途・山岳通過に備えた。宿泊休養が出来る村落は次は銀山である。従って馴致の観点から屯営から切明け迄を二日行程とし、以降に備えた。休養地で軍靴は全員藁沓に変えさせた。岩木山雪中行軍が希望に応じて着用させたのに対し、今回は全員に統制した。

二つ目、台地状で目標とすべき著名地物等がない場合の方向維持の困難性実感

積雪量は鳶坂で2m40cm、 琵琶平は2m10cmであり、上記表現となった。琵琶平は地形上行軍の目標とする明瞭な地物がなく、積雪に覆われた際の目標発見・方向維持の困難性を実感した。最悪事態と当初から認識していた一面の雪世界で目標識別に困窮する田代台行軍を連想させる予行訓練的な意味合いもあった。

三つ目、長距離の降傾斜地の降下の危険性

「湯坂難路の降下は実に爽快を覚えたり然れども坂路を疾足に滑走すれば断崖に落ち或いは然らざるも脚部を挫折するの恐れあるを以て勢に任せ降下することは慎まざるべからず長距離の降傾斜地は特に注意を要す」

長い下り坂は滑走をして勢いに任せる弊に陥る、と隊員の行動特性に絡めた観察をしている。

この稿終わり
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