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これからの福島泰蔵大尉旅に向けて《補作》 十五、旅の到達点 [補作]

始めに

この補作シリーズの旅の到達点は「困難を究めた男」の視点で纏めた福島大尉像である。主題「困難を究めた男」の気づきは塾者への歩み総括で4つのなした事を繋げる作業をしている時、「書きたい知らしめたい」という強い思いが4つの成した事を繋げるスイッチであり焦点だとの気づきは要約書(素案)を要約書とした時点であった。いずれも「決まり」からはタイミングを失っしている感じであったが模索の中では必然という感じがしている。気づいてから以降は姿を現した福島大尉像を逃がすまいと文章化する事に全力を傾注した。「第四木曜日の読書会」での発表の機会を最大限活用したい、との思いが届かせてくれた到達点である。

事前に要約書(素案)を配り、目を通し疑問点は補作、冊子(3冊)(ブログ)を読んで頂いて直前に要約書をお配りする、というスタイルを取らして頂いた。読書会の決まりからは外れるが2つの理由からそうさせて頂いた。①皆さんがいきなり冊子(3冊)(ブログ)を読んで当日では厳しいかな、と思った。②要約書(素案)から要約書へと進化させる過程で「補作」作業が私にとっても必要であった。以上の過程は「第四木曜日の読書会」での発表の機会を最大限活用するための作業や機会作りを充実し到達点への道筋が次第に明らかになった。


補作シリーズ旅では「実行力の総括」や「塾者旅の総括」を通じ各主題毎の特徴的な福島大尉像を浮き彫りにした。用語「野外要務令綱領の体現」「冬季行動標準」「実行力」「塾者」「事を為す」の意義などを最終的に定義化し、既冊子(3冊)(ブログ)を補足強化した。更にもののふ旅のゴール(源流)や立見師団長の不覚の思いで見る福島大尉及び福島大尉の沈黙の意味なども明らかにした。既冊子(3冊)(ブログ)では未到・未踏のところを追加した。主題「困難を究める男」で要約するに際し既冊子(3冊)(ブログ)中に十分その資料がある事を確認し、福島大尉旅の主題というか切り口がもっとないか、と探す旅は終わりにして良い、と感じた。以上は「第四木曜日の読書会」での発表の機会を最大限活用して得た14年余の旅の到達点でもある。

例会録の中で浅井世話人は”いかようにも調理可能”、木曜人の百字提言の中で”贅沢”と意味深い表現をされた。その中に私や既冊子(3分冊)(ブログ)のことを念頭に置かれた労う意も入っていると感じた。こういう感性の言葉に出会えて良かった。思い切って冊子化して良かった、「第四木曜日の読書会」に参加させて頂いて良かったと心から思えた。



以下は本文。

第90回「第四木曜日の読書会」での到達点【「困難を究め男」の視点で纏めた福島大尉像】


1つ、初めに
弘前隊の八甲田山雪中行軍から危機管理を学びたい、と私は青森を訪ね(平成14年)、修親に投稿した。知れば知るほど知りたくなり、2度目の青森(平成20年)へ。そこでの出会いが遺族とのご縁に繋がった。遺族を訪ね、門外不出の遺品の数々を目にしてますます書きたくなり再投稿した。掲載記事を介して遺族から陸自幹候校へ遺品が寄贈され同校資料館に福島大尉コーナーが設けられた。この動きに刺激を受け福島大尉が何を思いどう行動したかの真実を探す旅を始めた。記録として残すためブログ形式にした。公開の緊張感や閲覧数の励ましが良い刺激となった。多様な切り口が欲しかったので数個の主題の思いめぐらし旅を続けた。頃合いを感じ、研究や教育の資料として活用して頂くため、冊子にして関係機関等に寄贈した。その内の一つ『第四木曜日の読書会』でのお誘いはもっと他に主題が?の思いに決別する機会となった。そして今。福島大尉が人生で成した4つのことの繋がりは困難の繋がりであった、その事に気づき困難を主題とした。その焦点は“書きたい知らしめたい”の思いであった。そこを中心に纏める。すべてが「ing」であった福島大尉を探す旅の到達点としての福島大尉像を提示したい。

2つ、生い立ちから軍人志望迄
慶應2(1866)年5月23日福島泰七あさの長男として群馬県新田郡世良田村(現伊勢崎市平塚)に生まれる。英才教育を受け順調に成長するが、明治14年頃家業の廻船運送業が衰退、貧する平民として苦悩(3度の挫折)を味わう。明治19年末、陸軍教導団に入団(21歳)するが成績優終者に与えられる陸軍士官学校受験の推薦ねらいであった。翌年末、士官学校に合格するが、入学は教導団を卒業して軍曹任官後と決まり、空しい永滞の思いと不条理に、なにくそ精神で立向かう。

3つ、士官学校卒業から初級士官
明治24年7月同校を卒業し高崎歩兵15連隊へ。天皇陛下及び国のため命を捨て忠孝両全を果たす、を志した。明治25年3月少尉任官。任官時の目標は野外要務令綱領の体現であった。特に綱領冒頭の「百事戦闘を基準とすべし」を体現するため①平素未知の困難を求め、戦場で新たな予想外に出会わないようにする。②困苦欠乏に耐える訓練をして「進取力や自信力」を増す。③困苦欠乏・戦闘惨烈の局所において顧みず前へ、の精神で本分を尽くす、を心掛けた。軍人として奏任官になるまでの道のりは苦難の連続であった。この先、志を遂げる道はもっと厳しい。ならば困難と進んで向き合い、自分の信じる道を歩むと誓う。彼が目指し、求め、身を置いたところは常に困難があった。

4つ、弘前中隊長―八甲田山への歩み
台湾守備隊勤務で立見軍務局長と出会い、後に立見師団長着任時、弘前中隊長に指名される。立見師団長は問題意識が旺盛で動きの良い若手に思いっきり活動させ、それを師団全部に波及させたい、と考えていた。福島大尉は新たな目標を加える。それは全軍の「冬季行動標準」の提言であった。露軍との戦いが次第に現実味を帯びる中、大陸の酷寒での対露戦を念頭において九州四国の兵も含めた行動標準が必要である。この標準は大陸の酷寒に相当する未知の厳しさに身を置かなければ得られない。標準を提言し兵を護るのは雪国師団の義務であり中隊長たる自分の義務であるという強い使命・義務意識に基づいていた。以下の一連の演習・実験行軍に挑みつつ並行して冬季戦に係る諸研究調査を行った。連続して未知の困難に挑み克服し更に厳しい八甲田山を手繰り寄せた。

1つ目、雪中露営演習(明治33年2月6日15時~7日)
大吹雪、夜半零下12度は極限状況、未知の困難であった。中隊は吹雪下、各施設を構築、その後その施設で終夜、勤務・露営した。現地の雪だけでの施設構築方法や猛吹雪下では掩蔽よりも側屏が有効である、を実証したが後の八甲田山雪中行軍決断に余裕と自信を与えた。行動標準に関わる「野外要務令」下部規定の改正提言を大胆に行い、天皇陛下からお褒めの言葉を賜った。

2つ目、岩木山雪中強行軍(明治34年2月8日~9日)
連隊教育委員として教育中の下士候補生で2ケ部隊を編成した。第一部隊は大吹雪下の積雪路上強行軍(100km)、第二部隊(福島大尉指揮)は大吹雪・深雪下の岩木山越え、いずれも未知の重なる困難、前人未踏の域であった。荒寥の原野と化した岩木山では識別困難で行軍に難渋し、村民に嚮導を再三にわたり懇諭した。両部隊合わせて落伍者9名が発生したがその原因は疲労・空腹で、休養を与えれば回復した。松代村で全員疲労困憊して立ち上がれず、福島大尉の真心の説諭で任務を完遂した。以上は八甲田山雪中行軍の構想(めど)確立に大きく寄与した。


3つ目、夏季強行軍(明治34年7月26日~7月30日)
連隊教育委員の立場で下士候補生に夏季において要求し得る最大限の行軍力を試みる目的は未知の困難。東北地方の兵は夏も冬も精強を実証。実施報告書の最後に立見師団長が書き加えた批評文が八甲田山雪中行軍への扉を開いた。

5つ、八甲田山雪中行軍(明治35年1月20日~31日)
福島大尉以下37名は20日弘前屯営を出発、中央山脈~十和田(三本木)~八甲田山~青森~浪岡を経て31日無事帰営した。厳冬期、吹雪・強風・深雪下、大寒波襲来、の長途山岳通過行軍の任務を達成した。中でも中央山脈経路と八甲田山経路の通行の可否を探検せよ、の任務は通行可能だが非常に困難であった。目標に行き着かず零下11度での田代での最悪の露営と引き続く49時間不眠での八甲田山越えは危険の極限の連鎖(危機への極限の連鎖)であった。危点は最悪事態の露営そのもの。露営実施間では座り込んで眠り即凍死。八甲田山越えでは道筋を外れ崖から転落或は道筋を探し続けざるを得ず連続長時間の暴露行動、露営に引き続く不眠・無休養・空腹で遂に昏倒者を出す等であった。乗り切れたのは最悪事態の露営に当初から備えた周到な準備。露営に臨む抗天・攻難の気持ち。露営間、立たせ眠らせない指導。埋雪した道筋の危険側を避けた地形眼と嚮導7人の献身的活動。小屋での2時間の休養。上下一体となった共動等であった。以上を通じ体得したのは①危点を洞察し対策を徹底して断ち切る。②日常の危険の連鎖を休養などで極限にしない、であった。
29日午前2時田茂木野に到着した福島大尉はそこで第5連隊210名全員の遭難を知った。好むと好まざるとにかかわらず自隊が遭難を際立たせる皮肉な立場にある。自隊の成功の原因が第5連隊の失敗の原因であり、核心は語らないと心に決める。しかし書きたい知らしめたい強い思いをどうしても消すことはできなかった。第5連隊遭難により「冬季行動標準」の提言は挫折した。

6つ、書きたい知らしめたい強い思い
行軍間に綴った雪中行軍手記を 「北辰日報編集部編纂 第五連隊遭難始末 附第三十一連隊雪中行軍記」(近松書店発行、明治三十五年二月十日印刷)に全文掲載した。世を驚愕させた激震の最中であった。翌年偕行誌上で課題論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」(以下「影響」)が募集され、直ちに応募した。いずれも書きたい知らしめたい強い思いからであった。前者は遭難の核心に触れない沈黙で非常の困難を伝え、後者は自己の成功体験のすべてを下敷きとする沈黙即ち戦史や典礼等のみで論を構成した。大言ではなく、科学的・合理的な思考に基づく兵を護り兵に役立つ実際的な提言であった。
福島大尉には焦慮があった。我が国の野外要務令は温暖下のもので寒冷下のものとしては露国に大きく遅れをとっており、露国に倣い、早く並び越えなければならない。大陸の酷寒での対露戦は困難が倍加し、一朝一夕には克服できない。国難対露戦必至の状況にも拘わらず第5連隊遭難はその停滞に拍車をかけている。更に精魂を傾けて究めた困難を全軍のために活かしその軍の真姿を伝えねばならないとの熱情と高みに立った陸軍第一人者の自負もあった。
全軍を思う使命意識・義務意識と己の信じるところ(目標など)を掲げ断行する性向が根底にあった。

7つ、論文「影響」
冬季戦の要則(山地戦と夜間戦の要則適用)並びに応用方略及び倍加する非常の困難と克捷方略を提言した。特に後者の倍加(複合)とは冬季戦そのものが非常の困難を持っている。これに攻勢を採る、防勢は決して採らない主義からくる困難。山地戦・夜間戦と同様の要則を適用する困難。冬季戦に於いては軍隊保育上の考慮を必要とし、応ずべき条件・様相は千変多様である困難。露軍に並び越えなければならない困難等が幾重にも加わり危険が連鎖となる、との意を込めている。困難が倍加する様相として二つの戦例を挙げ、6つの方略を示した。注目すべきは後方方略の充実特に休養方略の優先準備である。日常の危険の連鎖が休養が取れないことで極限になる体験を踏まえたものである。又補遺の項を設け、最重要の視点として兵の保護と主な危険が存する局面として露営を挙げ、山地雪中行軍における気象地形から兵を護る方略や雪中戦闘における衛生上の注意特に山地での危険の本質として激しい降雪と山中の暴風を挙げている。いずれも八甲田山雪中行軍の厳しい体験を踏まえている。困難を克服せんとする露軍に学ぶ、を述べている点に参謀本部は注目し対露開戦後の論文要請をした。主な注目点は以下の4点。①露軍は冬季を積極的に活用する意図を有している。②露軍の強みと弱み。③露国野外要務令には既に「降雪積雪の戦闘に及ぼす影響」その他が掲げられている。④露軍は冬季戦を我に有利と考えている。優等賞を受賞した。

8つ、論文「露国に対する冬季作戦上の一慮」(以下「一慮」)
冬季戦の倍加する困難に克って、そのうえで露軍に勝つ方略を提言した。
訴えたかった主な点は①今冬露軍は必ず攻めてくる。②露軍の冬季山岳酷寒の困難克服法から学ぶべきもの。③露軍に勝つポイント。④冬季酷寒の大陸ならではの困難克服法。⑤防護のため個人レベルで役立つもの。特に②についてa露国野外要務令との差異(露軍にあって日本軍にないもの)とb露土戦役の教訓の二つの視点で述べている。aでは最良の露営は最悪の舎営に如かず。寒冷冱寒の露営に於いて寒気猛烈の場合直ちに翌日に係る行動を始める等。bでは酷寒の露営において凍死予防のため各種の運動を為し眠らさない。山中の雪路では踏雪隊必要。止むを得ず露営をせざる場合は非常の困難。雪靴の欠乏等。いずれも八甲田山雪中行軍の厳しい体験を踏まえている。
他に3つの特筆点がある。論文影響と同じく自己の体験を下敷きとする沈黙である。冬季作戦困難の原因は予想外(未知)にあるから、との意で、予想外対処の心得を結論としている。偕行社の『臨時増刊第一号』に掲載、全軍将校に配布された。書きたい知らしめたいの思いが目標挫折後の新たな目標「対露戦勝利の方略提言」を手繰り寄せた。

9つ、黒溝台会戦(明治38年1月25日~29日)
今冬露軍は攻めてくると警告したにも関わらず日本軍左翼は10万余の露軍に急襲され、予備であった第8師団が投入されて4日目、戦線崩壊の危機に陥りながら他師団の増援を受け決戦を挑んだ。福島大尉は虎の子の予備中隊長としてこの決戦に投入された。大砲・機関銃の集中砲火で損害続出、どうしても黒溝台を取り返さなければならない場面、先頭に立ち攻撃するも、発進1時間後、敵弾に倒れた。全軍の勢い大いに振るい黒溝台を奪取したと立見師団長は述べている。悲惨・危険・困苦欠乏等非常の困難の極致で顧みず前への精神を発揮し軍人の本分を尽くした。野外要務令綱領を体現し、もののふとして逝った。書きたい知らしめたいの思いで実行あるのみと訴えた自らの言(論文)を実行してみせた。

以上

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これからの福島泰蔵大尉旅に向けて《補作》 十四、第90回「第四木曜日の読書会」例会録 [補作]

以下の例会録(文責 世話人浅井輝久氏但し私の百字提言のみ文責発表者川道亮介)が送られてきた。

読書会の決まりに従って膨大な量を見事にA-4*2枚(議論された事は別に1枚)に要約されている。初見の人でも福島大尉がどんな人、この本がどんな本かが簡潔にわかる。本質を鋭くつき分かりやすく書いてある等学びや気づきを沢山頂いた。又浅井氏ならではの福島大尉観が表現されている、と感じた。私は新鮮さを覚え大変嬉しくなった。感謝の思いで一杯である。

次回私の旅の到達点をお示ししこのシリーズを終わりたい。


以下は本文

第90回「第四木曜日の読書会」例会録             発表者 川道亮介氏(シバタ工業顧問)
川道亮介著 『福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて(一、二、三)』
ブログタイトル『福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて』
はじめに
筆者は、平成14年、弘前隊の八甲田山雪中行軍から危機管理を学びたいと青森を訪ねた。それを『修親』に投稿した。それが旅の始まりになった。知れば知るほど知りたくなり、平成20年の青森再訪が福島大尉のご遺族とのご縁に繋がった。福島大尉の遺品とご遺族の言葉に福島大尉の「おもい」を感じて、それを『修親』に再投稿した。それが契機になって、平成24年、遺品が陸上自衛隊幹部候補生学校に寄贈され、同校資料館に「福島大尉コーナー」が設けられた。同校副校長で退官した筆者がその仲立ちになったのも何かの縁であった。福島大尉を探す旅をブログに掲載した。公開の緊張感と思いもかけない閲覧数に背を押されて旅を続けた。頃合いを感じ纏めたのが、三分冊の『福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて』である。冊子は、研究や教育の資料になればと関係機関等に寄贈された。いま、筆者は、14年にわたる旅の目的を改めて考えた。危機管理の本質の探求が福島大尉の思考と行動の探求に絞られた。その本質は「未知の困難に挑み続けること」と感得した。莫大な旅の記録は、多様な切り口でいかようにも調理が可能であるが、筆者は、いま、それを「困難を究めた男」の視点で要約している。
1.生い立ちから軍人志望
泰蔵は、慶應2(1866)年5月23日、福島泰七とあさの長男として、いまの伊勢崎市平塚に生まれた。幼くして神官及び漢学者に師事し、郷里の偉人新田義貞や高山彦九郎のように国家有為の人物になれ、と教えられ育った。妹4人に末子に14歳下の弟甚八が生まれる頃、家業の廻船運送業が衰退した。進路は、平民なるが故に三度の挫折をする。志を遂げる道は軍人しかないと、明治19年に陸軍教導団に入団した。それは、成績優終者に与えられる陸軍士官学校受験の推薦を得ることだった。翌年末、士官学校に合格するが、入学は教導団卒業後と決まり、空しい永滞の思いと不条理に、なにくそ精神で立向かう。
2.士官学校卒業から初級士官
明治24年7月、士官学校を卒業し高崎歩兵15連隊へ配属された。軍人として天皇と国家のため忠孝両全を果たすことを志とした。将校任官時の目標は、「百事戦闘を基準とすべし」とする野外要務令綱領の体現であった。それは、①戦場で想定外に遭遇しないように平素、未知の困難を求めること。②進取力や自信力を涵養するため極限の訓練をすること。③困苦欠乏と戦闘惨烈の局所で挺身すること。の三点に要約できる。彼が目指し、求め、身を置いたところは常に困難があった。台湾守備隊勤務で立見軍務局長との出会が、後に立見師団長着任時に弘前の中隊長への指名につながった。立見は、進取の気に富み、困難に立ち向かう若い将校により師団を錬成しようとしていた。福島大尉はその目にかなった。
3.弘前中隊長―八甲田山への歩み
日露間に風雲急を告げる秋、酷寒のなかでの戦いが迫っていた。しかし日本陸軍にはその準拠がない。福島大尉は、全軍の「冬季行動標準」の提言こそ、雪国の師団の中隊長の義務であるという使命観に駆られた。それは、一中隊長には壮大にして過望であるが、事は、時にこのような若い情熱によって動くものである。以下に「困難を究めた男」が部下と共に死をも恐れず会得したもの三例を見ることにする。
(1)一つ目は、一夜二日の雪中露営演習であった。それは、明治33年2月6日午後3時から翌7日にかけて、猛吹雪のなか、夜半零下12度の極限状況で行われた。中隊は猛吹雪の中で、哨所や居住施設などを構築した。日没後の作業は思いもかけない困難となった。その施設で終夜、勤務し露営した。疲労困憊した隊員は睡魔に襲われ、発汗で湿潤した衣服が凍結し凍傷、更に凍死の危険に直面した。これこそ福島大尉が求めた困難で本物の成果を得た。雪による施設構築法や猛吹雪の時は掩蔽よりも側屏が有効という体験は、後の八甲田山雪中行軍に役立つことになるが、それはまだ先のことである。この成果により「野外要務令」下部規定の改正提言を大胆に行い、天皇陛下からお褒めの言葉を賜った。
(2)二つ目は、一夜二日の雪中強行軍であった。それは、明治34年2月8日から翌9日にかけて、猛吹雪のなかで二つの試みをした。第一部隊は積雪の路上を第二部隊は岩木山の登坂を昼夜連続で強行軍させた。連隊教育委員の立場で下士候補生教育として行った。これは、前人未踏の烈度で当時の強行軍の世界標準を越えるものであった。本演習で落伍者9名を出した。松代村に着いたときは、全員が疲労困憊で立ち上がれなかったが、任務を完遂し極限状況に身を置くことで未知の困難の本質を体得した。積雪山地の行軍の難渋度と嚮導の必要性は、後の八甲田に役立つことになるが、それは先のことである。
(3)三つ目は、明治34年7月26日から30日まで四夜五日の夏季強行軍であった。これも連隊教育委員の立場で下士候補生に未知の困難を求める行軍で、雪国の兵は夏も冬も強いことを実証した。
立見師団長が実施報告書の最後に書き加えた批評文が、八甲田山雪中行軍への扉を開くことになった。
4.八甲田山雪中行軍
福島大尉以下37名は、明治35年1月20日、弘前屯営を出発、中央山脈‐十和田‐八甲田山‐青森‐浪岡を経て31日無事帰営し、厳冬期の長途山岳通過強行軍の任務を達成した。その成否は、いかに危険の極限の連鎖を断ち切るかであった。なかでも「危点」は、零下11度の予期しない田代での露営と引き続く49時間不眠での八甲田山越えであった。前者は、露営への周到な準備に裏付けられた抗天、攻難の気概で、後者は、嚮導7人による進路確保、小屋での2時間の幸運な休養と相互共動で脱した。
福島大尉は、3日遅れて青森屯営を出発し田代に向かった青森隊210名の遭難現場を通り過ぎてきたことを後で知った。福島大尉は、「自隊の成功の要因が青森隊の失敗の原因だ。自分は青森隊の失敗を際立たせる立場にある」と貝になる決意をした。使命としていた「冬季行動標準」の提言が挫折した。
5.論文発表
しかし、「困難を究めた男」はこの「非常な困難」を第5連隊の遭難に触れないように何らかの方法で伝えたいと思った。その機会はやがて訪れた。それが、次の二つの論文となった。
(1)論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」(以下「影響」)の発表
本論は、冬季戦の要則並びに応用方略及び倍加する非常の困難と克捷方略を提言したものである。
「倍加」とは、冬季戦は軍隊保育上の考慮を必要とし、応ずべき条件や様相は千変多様で非常な困難があるとした。また、冬季戦は攻勢主義に徹し、山地戦や夜間戦の要則適用が困難であるとした。参謀本部が「露軍に学べ」の提言を評価し、偕行社が優等賞を授与し更に対露戦に関する論文作成を要請した。
(2)論文「露国に対する冬季作戦上の一慮」(以下「一慮」)の発表
本論は、冬季戦の倍加する困難を克服し、そのうえで露軍に勝つ方略を提言したものである。本論も論文「影響」と同じく自己の体験を下敷きとしながらも、冬季作戦の「非常な困難」は予想外にあるとし、予想外対処の心得を結論としている。偕行社の『臨時増刊第一号』に掲載、全軍将校に配布された。
6.黒溝台会戦 「もののふ」の最期
明治38年1月25日、左翼の要点黒溝台が10万余の露軍に奪取された。予備の第8師団が逆襲に転じた。29日、福島大尉は虎の子の予備中隊長として陣頭指揮して敵弾に倒れた。立見師団長は、後にその敢闘が黒溝台を奪取につながったと述べている。野外要務令綱領を体現した武人の見事な最期だった。
7.読書会で議論されたこと
(1)福島大尉は、いわゆる四つのことを大言壮語に終わらせず実行本位で突き詰めた。それは、兵を護り、兵に役立ち、兵を休ませることを本気で追求するものであった。これを二つの論文にまとめたが、それは八甲田山の経験を「かくし味」にして、戦史戦例や外国典令などだけで語った。その丹念な収集力と成功体験を沈黙し通した「おもい」を思うと、ただ脱帽するという所見が多かった。
(2)一中隊長が、陸軍全体の事に思いを致すということに感銘を受けたという所見が多かった。普通は「任務を受領し、それを使命観を以て達成する」のが普通であるが、福島大尉の場合は、使命観が先行し困難な任務を自らに科す逆転の発想である。この強い使命観の根源は、何かについて、母の戒め、家業の衰退、身分格差による格差など多様な見方があったが天性の美質との意見もあった。
(3)積雪寒冷地における、行軍と露営についての「標準」はあったはずであるが、その情報は、どう伝わっていたかという疑問が出された。これに対し、当時、訓練演習で全軍に周知すべきものは、偕行記事に掲載するルールがあり、論文「影響」を含む応募優秀論文の教訓は、旭川第7師団第26連隊の今中尉が命により纏めて掲載され、情報は全軍に共有されていたと発表者の補足説明があった。参考までに、ピアリの北極圏踏破は明治41年、アムンゼンの南極圏踏破は明治44年のことである。
(4)雪中行軍というと青森隊の遭難が際立ち、弘前隊の快挙は忘れられていることを改めて認識したとの所見が述べられた。現に青森市幸畑には、立派な「八甲田山雪中行軍遭難資料館」があり、仮死状態で立っていた後藤伍長像のレプリカや遺品が展示してある。また、その裏手には、殉職者199名の墓標がある。その点、福島大尉の資料が100年後に幹部候補生学校で世に出たことは意義深い。
(5)無謀ともいうべきこのような訓練がどうして行われたか、その時代背景を考える必要があるとの指摘があった。第一に日本陸軍が内から外への転換点にあり、対露冬季作戦の訓練が奨励された。第二に、一般に兵は天皇の赤子で「奉げる命」で「守る命」ではなかったとの所見があった。しかし、福島大尉の演習準備や慎重な実施を見る限り「兵の命第一」との評価は揺るがないと思われる。
(6)リーダーに想定外はない。その点、福島大尉のとことん突き詰めた危険見積が強く印象に残ったとの所見が多かった。また、今日われわれが使用する『幕僚諸元』や技術教範の資料は、先人が命がけで積み上げたものであることを認識すべきであり、同時に、それを更に、軍事技術の進歩や作戦様相に適合するように「現実化」するように努力する必要があるとの意見も述べられた。
(7)ブログを読書会のテーマ書とすることにいろいろな意見があった。発表前日で170082件のアクセスのある膨大な内容は、読む焦点が定まらなかったという所見が多かった。一方、ブログ一つ一つは、短切でエキサイチングなもので、読みだすと惹かれる不思議な魅力があるとの所見もあった。これを今後の福島大尉の研究の一助にと提案している筆者に敬意を表するとの発言もあった。

『私の百字提言』
福島大尉が何を思いどう行動したか、の真実は膨大で今では難解な遺品と限られた事実を想像で繋ぐ私の旅の
中にある。そう信じて思い続けると真実が少しは見えて来た。それらが何時か誰かの踏み台となる事を切に願う!

『木曜人の百字箴言』
二点間を結ぶ近道は必ずしも直線ではない。遠回りした分、近道した人より発見している。漠然とした目的で自由に
歩くくらい贅沢はない。そのうちに、ふと見た野の花に歩いている目的を発見する、そういうこともある。

以上

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これからの福島泰蔵大尉旅に向けてー補作十 三 発表準備 [補作]

発表モードで原稿を読み込むと、より分かりやすくの観点から原稿修正が適当と思える個所がでてきた。結構な見直しになる。締め切ったあとで、4枚に収める努力をまた仕直さなければならない。結論として口頭で補足をするところを文章化する事にした。


そのところとは「11、塾者への歩み総括 2つ目、書きたい知らしめたい強い思いの背景と展開」について補足する。八甲田山雪中行軍で究めた非常の困難とはどのようなものであり、それが論文上でどのように表現され、それが次にどのような展開となるかを4つの成した事の中に補足した。

口頭補足分は「5つ、八甲田山雪中行軍で成したこと」から「9つ、黒溝台会戦で成したこと」までである。要約書最終案に補足事項(下線部)をそれぞれ加えた内容としている。

補足本文

5つ、八甲田山雪中行軍(明治35年1月20日~31日)で成した事
厳冬期、吹雪・強風・深雪下、大寒波襲来、の長途山岳通過強行軍で中央山脈経路と八甲田山経路通行可否を探検せよ、の任務は通行可能だが非常に困難であった。それは目標に行き着かず零下11度での田代での最悪の露営と引き続く49時間不眠での八甲田山越えに代表される。危険の極限の連鎖(危機への極限の連鎖)であった。最も恐れた事(危点)は最悪事態の露営そのもの。露営実施間では座り込んで眠り即凍死。八甲田山越えでは道筋を外れ崖から転落或は道筋を探し続けざるを得ず連続長時間の暴露行動、露営に引き続く不眠・無休養・空腹で遂に昏倒者を出す等であった。危機への極限の連鎖を断ち切れたのは最悪事態の露営に当初から備えた周到な準備。露営に臨む抗天・攻難の気持ち。露営間、立たせ眠らせない指導、埋雪した道筋の危険側を避けた地形眼と嚮導7人の確保。小屋での2時間の休養。共動(一人一人が細心にやるべき事をやる)等であった。連鎖は最悪事態と危点を洞察し対策を徹底して断ち切らねばならない、日常の危険の連鎖を極限の危険の連鎖にしないを究めた{参照:補作「究めた非常の困難」}。この中には危険の連鎖の中で得たものも多く含まれている。連鎖の中心は中央山脈では地形が、八甲田山では気象であった。福島大尉はこの強烈な"非常の困難"を究めた事を手記公表及び後の論文化への大きな動機とした。しかし第5連隊遭難により「冬季行動標準」の提言は挫折した。{参照:補作「福島大尉の沈黙」}

6つ、論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」(以下「影響」)で成した事
冬季戦の要則(山地戦と夜間戦の要則準用)並びに応用方略及び倍加する非常の困難と克捷方略を提言した。特に後者の倍加(複合)とは冬季戦そのものが非常の困難を持っている。これに攻勢を採る、防勢は決して採らない主義からくる困難。山地戦・夜間戦と同様の要則を適用する困難。冬季戦に於いては軍隊保育上の考慮を必要とし、応ずべき条件・様相は千変多様である困難。露軍に並び越えなければならない困難等が幾重にも加わり危険が連鎖となる、との意を込めている。その様相として二つの戦例を挙げ、6つの方略を示した。注目すべきは後方方略の充実特に休養方略の優先準備である。日常の危険の連鎖が休養が取れないことで極限の危険の連鎖になる体験を踏まえたものである。又補遺の項を設け、最重要の視点として兵の保護と主な危険が存する局面として露営を挙げ、山地雪中行軍における気象地形から兵を護る方略や雪中戦闘における衛生上の注意特に山地での危険の本質として激しい降雪と山中の暴風を挙げている。いずれも八甲田山雪中行軍の厳しい体験を踏まえている。他に3つの特筆点がある。八甲田山や実験行軍等の体験を下敷きとした沈黙である。困難を克服せんとする露軍に学ぶ、を述べている点に参謀本部は注目し対露開戦後の論文要請をした。主な注目点は以下の4点。①露軍は冬季を積極的に活用する意図を有している。②露軍の強みと弱み。③露国野外要務令には既に「降雪積雪の戦闘に及ぼす影響」その他が掲げられている。④露軍は冬季戦を我に有利と考えている。優等賞を受賞した。
7つ、論文「露国に対する冬季作戦上の一慮」(以下「一慮」)で成した事
冬季戦の倍加する困難に克って、そのうえで露軍に勝つ方略を提言した。
訴えたかった主な点は①今冬露軍は必ず攻めてくる。②露軍の冬季山岳酷寒の困難克服法から学ぶべきもの。③露軍に勝つポイント。④冬季酷寒の大陸ならではの困難克服法。⑤防護のため個人レベルで役立つもの。⑥結論(予想外対処)。特に②についてa露国野外要務令との差異(露軍にあって日本軍にないもの)とb露土戦役の教訓の二つの視点で述べている。aでは最良の露営は最悪の舎営に如かず。寒冷冱寒の露営に於いて寒気猛烈の場合直ちに翌日に係る行動を始める等。bでは酷寒の露営において凍死予防のため各種の運動を為し眠らさない。山中の雪路では踏雪隊必要。止むを得ず露営をせざる場合は非常の困難。雪靴の欠乏等。いずれも八甲田山雪中行軍の厳しい体験を踏まえている。
他に3つの特筆点がある。論文影響と同じく自己の体験を下敷きとする沈黙である。冬季作戦困難の原因は予想外(未知)にあるから、との意で、予想外対処の心得を結論としている。偕行社の『臨時増刊第一号』に掲載、全軍将校に配布された。書きたい知らしめたいが目標挫折後の新たな目標「対露戦勝利の方略提言」を手繰り寄せた。
8つ、黒溝台会戦(明治38年1月25日~29日)で成した事
日本軍左翼が10万余の露軍に急襲され、予備であった第8師団が投入されて4日目、戦線崩壊の危機に陥りながら他師団の増援を受け決戦を挑んだ。福島大尉は虎の子の予備中隊長としてこの決戦に投入された。大砲・機関銃の集中砲火で損害続出、どうしても黒溝台を取り返さなければならない場面、先頭に立ち攻撃するも、発進1時間後、敵弾に倒れた。全軍の勢い大いに振るい黒溝台を奪取したと立見師団長は述べている。悲惨・危険・困苦欠乏等非常の困難の極致で顧みず前への精神を発揮し軍人の本分を尽くした。野外要務令綱領を体現し、もののふとして逝った{参照:補作「もののふ旅のゴール」}。書きたい知らしめたいが困難克服に実行あるのみと訴えた自らの言を迷わず実行させた。

以上。


究めた困難の主題の焦点になる書きたい知らしめたい思いをより具体的に出来たかな、と思うとやっとこれで来るところまで辿り着けた。これで安心と思えて来た。愈々発表を待つのみ。本読書会がなければ一生思い巡らし(殊に探す)旅を続けたかもしれない。感謝の思いで一杯である。

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これからの福島泰蔵大尉旅に向けてー補作十二 要約書素案から要約書へ [補作]

始めに

一連の補作シリーズを終え、要約書素案を見直した。発表原稿を仕上げるためである。見直しの主な視点は塾者旅の総括における焦点を鮮明にすること及び一連の補作旅で新たに気づいたことを反映することの二つである。

未だ未だの思いはあるがこれを以て私なりにやり切った思いもある。当日に向けて更に意を尽くしたい。

1つ、「11塾者への歩み総括」における焦点を鮮明にすること

要約書素案で4つの成したしたことをつなげて困難がキーワードとして浮かび、八甲田山で困難を究めたことが事後の理論化の動機であるとした。しかしどうもしっくりこないところがあった。このままでは繋がりの強さの表現は苦しい、という事に気づいた。前人未到の八甲田山で困難を究めた事と次の論文「影響」特に応募との間には強いつながりがある。繋げたものは福島大尉の強い思いである。論文募集に直ちに応募した事が明瞭に示している。従って要約書では困難を究めた事が事後の書きたい知らしめたいの動機となった。その背景と展開の方向性を思いの面から書こうと考えた。ここは繋がりの中の山場であり、しっかり思いを巡らしたいと思った。



2つ、一連の補作旅で新たに気づいたことを反映すること

「5つ、八甲田山雪中行軍に於いて成した事」に於いて、危機への極限の連鎖が断ち切れた理由として要約書素案では嚮導7人の確保とのみ書いていたが今回は埋雪した道筋の危険側を避けた地形眼と嚮導7人の確保とした。理由は補作十一の現地検討結果を取り入れた。

「13、福島大尉旅の総括」に於いて、要約書素案に今回はいずれも任務以前の使命意識・義務意識と己を信じるところを断行する性向を主な柱として語れるような気がした、を加えた。理由は補作七での検討結果を取り入れ、具体的にこれからの足掛かりとする意を示した。


3つ、要約書本文(最終)

第90回第四木曜日の読書会発表資料            平成28年7月14日
                              発表者 川道 亮介
川道亮介著『福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて』―要約書「困難を究めた男福島大尉」
1つ、始めに
弘前隊の八甲田山雪中行軍から危機管理を学びたい、と私は青森を訪ね(平成14年)、修親に投稿した。知れば知るほど知りたくなり、2度目の青森(平成20年)へ。そこでの出会いが遺族とのご縁に繋がった。遺族を訪ね、門外不出の遺品の数々を目にしてますます書きたくなり再投稿した。掲載記事を介して遺族から陸自幹候校への遺品寄贈が動き始めた。この動きに刺激を受け福島大尉が何を思いどう行動したかの真実を探す旅を始めた。記録として残すためブログ形式にした。公開の緊張感や閲覧数の励ましが良い刺激となった。多様な切り口が欲しかったので数個の主題の思いめぐらし旅を続けた。頃合いを感じ、研究や教育の資料として活用して頂くため、冊子にして関係機関等に寄贈した。その内の一つ『第四木曜日の読書会』でのお誘いはもっと他に主題が?の思いに決別する機会となった。そして今。福島大尉の行動・思考の中心には何時も困難への思いが色濃くある。未知の困難を進んで求め、挑み、又新たな未知の困難へ。ついに高みに立った福島大尉。であるが故にそこで動く。以下困難を究めた男の視点で要約する。
2つ、生い立ちから軍人志望迄
慶應2(1866)年5月23日福島泰七あさの長男として群馬県新田郡世良田村(現伊勢崎市平塚)に生まれる。幼くして神官及び漢学者に師事、神道・漢書・漢詩を学び、ふるさとの偉人新田義貞や高山彦九郎のようにお国の役に立つ立派な人物になれ、と教えられ育った。明治14年弟甚八(14歳下)が生まれ、妹4人弟1人。この頃家業の廻船運送業が衰退、家業を手伝うか学問で身を立てるかに悩む。平民故に3度の挫折をする。志に叶う世に出る道は軍人しかなかった。陸軍教導団入団(明治19年末、21歳)。成績優終者に特に認められる陸軍士官学校受験推薦狙い、であった。狙い通り推薦を受け翌年末、士官学校合格。しかし入学は教導団卒業後軍曹任官後と決まり、空しく永滞の思いで過ごす。身の上の数々の不条理さに生来のなにくそ精神で立ち向かう。
3つ、士官学校卒業から初級士官
明治24年7月同校を卒業し高崎歩兵15連隊へ。軍人として天皇陛下及び国の為身を捨て忠孝両全を果たす、を志とした。将校任官時の目標は野外要務令綱領の体現であった。主な柱は以下の3つ。①綱領冒頭の「百事戦闘を基準とすべし」を体現するため平素未知の困難を求め、戦場で新たな予想外に出会わないようにする。②「進取力や自信力」を増すため困苦欠乏に耐える訓練をする。③困苦欠乏・戦闘惨烈の局所において顧みず前へ、の精神で本分を尽くす。少尉任官に当たり、心に誓った事があった{参照:補作「困難観確立の背景」}。生まれてから世に出る道、軍人として奏任官になるまでの道のりは苦難の連続であった。この先、志を遂げる道はもっと厳しく困難に堪えねばならない。ならば困難と進んで向き合い、自分の信じる道を歩む。野外要務令綱領の体現は福島大尉がやりたい事に出会い、なりたい自分になるために最も相応しい、と信じるものであった。彼が目指し、求め、身を置いたところは常に困難があった。師範学校時にのめり込んだ地理学で特技「地理・地図」及び問題意識旺盛で意見具申を積極的に行う若手将校として活躍する。台湾守備隊勤務で立見軍務局長と出会い、後に立見師団長着任時、弘前中隊長に指名される。立見師団長は問題意識が旺盛で動きの良い若手に思いっきり活動させ、それを師団全部に波及させたい、と考えていた。福島大尉はその先駆けの一人であった。
4つ、弘前中隊長―八甲田山への歩み 
福島大尉は新たな目標を加える。それは全軍の「冬季行動標準」の提言であった。
露軍との戦いが次第に現実味を帯びる中、大陸の酷寒での対露戦を念頭において九州四国の兵も含めた、兵を護る標準が必要である。この標準は大陸の酷寒に相当する未知の厳しい困難に身を置かなければ得られない。標準の提言は雪国師団の義務であり中隊長たる自分の義務であるという強い使命感・義務感に基づいていた。必然的に連続して更に厳しい未知の困難に向き合う事になった。
1つ目、雪中露営演習(明治33年2月6日15時~7日)
大吹雪、夜半零下12度は極限状況、未知の困難であった。中隊は吹雪下、各施設を構築、その後その施設で終夜、勤務・露営した。吹雪下の施設構築作業は日没後更に困難となった。疲労困憊した隊員は眠りにおち、発汗で湿潤した隊員の衣服は凍結し凍傷・凍死の危険が増した。これを求め・挑む事で本物の成果を得た。現地の雪だけでの施設構築方法や猛吹雪下では掩蔽よりも側屏が有効、の実証は後の八甲田山雪中行軍決断に余裕と自信を与える大きな成果であった。他に二つの特筆点がある。行動標準に関わる「野外要務令」下部規定の改正提言を大胆に行った。天皇陛下からお褒めの言葉を賜った。
2つ目、岩木山雪中強行軍(明治34年2月8日~9日)
第一部隊の大吹雪下の積雪路上強行軍は未知の重なる困難。第二部隊の大吹雪下の深雪・昼夜連続岩木山強行軍も未知の重なる困難、前人未踏の域。当時の強行軍の世界標準を越える行軍力を連隊教育委員として下士候補生に要求、が本行軍の未知の困難の本質。極限状況に身を置く事で本物の成果を得た。荒漠たる雪原と化した山地は識別困難で行軍難渋、嚮導の必要性を痛感。落伍者9名の原因は疲労・空腹。松代村で全員疲労困憊、立ち上がれず、しかし任務完遂等。
3つ目、夏季強行軍(明治34年7月26日~7月30日)
連隊教育委員の立場で下士候補生に夏季において要求し得る最大限の行軍力を試みる目的は未知の困難。東北地方の兵は夏も冬も精強を実証。実施報告書の最後に立見師団長が書き加えた批評文が八甲田山雪中行軍への扉を開いた。
5つ、八甲田山雪中行軍(明治35年1月20日~31日)で成した事
厳冬期、吹雪・強風・深雪下、大寒波襲来、の長途山岳通過強行軍で中央山脈経路と八甲田山経路通行可否を探検せよ、の任務は通行可能だが非常に困難であった。それは目標に行き着かず零下11度での田代での最悪の露営と引き続く49時間不眠での八甲田山越えに代表される。危険の極限の連鎖(危機への極限の連鎖)であった。最も恐れた事(危点)は最悪事態の露営そのもの。露営実施間では座り込んで眠り即凍死。八甲田山越えでは道筋を外れ崖から転落或は道筋を探し続けざるを得ず連続長時間の暴露行動、露営に引き続く不眠・無休養・空腹で遂に昏倒者を出す等であった。危機への極限の連鎖を断ち切れたのは最悪事態の露営に当初から備えた周到な準備。露営に臨む抗天・攻難の気持ち。露営間、立たせ眠らせない指導、埋雪した道筋の危険側を避けた地形眼と嚮導7人の確保。小屋での2時間の休養。共動(一人一人が細心にやるべき事をやる)等であった。連鎖は最悪事態と危点を洞察し対策を徹底して断ち切らねばならない、を究めた{参照:補作「究めた非常の困難」}。この中には危険の連鎖の中で得たものも多く含まれている。連鎖の中心は中央山脈では地形が、八甲田山では気象であった。福島大尉はこの強烈な"非常の困難"を究めた事を手記公表及び後の論文化への大きな動機とした。しかし第5連隊遭難により「冬季行動標準」の提言は挫折した。{参照:補作「福島大尉の沈黙」}
6つ、論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」(以下「影響」)で成した事
冬季戦の要則並びに応用方略及び倍加する非常の困難と克捷方略を提言した。特に後者の倍加とは冬季戦そのものが非常の困難を持っている。これに攻勢を採る、防勢は決して採らない主義からくる困難。山地戦・夜間戦と同様の要則を適用する困難。冬季戦に於いては軍隊保育上の考慮を必要とし、応ずべき条件・様相は千変多様である困難。露軍に並び越えなければならない困難等が幾重にも加わり危険が連鎖となる、との意を込めている。他に三つの特筆点がある。八甲田山や実験行軍等の体験を下敷きとした沈黙である。困難を克服せんとする露軍に学ぶ、を述べている点に参謀本部は注目し対露開戦後の論文要請をした。優等賞を受賞した。
7つ、論文「露国に対する冬季作戦上の一慮」(以下「一慮」)で成した事
冬季戦の倍加する困難に克って、そのうえで露軍に勝つ方略を提言した。他に3つの特筆点がある。論文影響と同じく自己の体験を下敷きとする沈黙である。冬季作戦困難の原因は予想外(未知)にあるから、との意で、予想外対処の心得を結論としている。偕行社の『臨時増刊第一号』に掲載、全軍将校に配布された。
8つ、黒溝台会戦(明治38年1月25日~29日)で成した事
日本軍左翼が10万余の露軍に急襲され、予備であった第8師団が投入されて4日目、戦線崩壊の危機に陥りながら他師団の増援を受け決戦を挑んだ。福島大尉は虎の子の予備中隊長としてこの決戦に投入された。大砲・機関銃の集中砲火で損害続出、どうしても黒溝台を取り返さなければならない場面、先頭に立ち攻撃するも、発進1時間後、敵弾に倒れた。全軍の勢い大いに振るい黒溝台を奪取したと立見師団長は述べている。悲惨・危険・困苦欠乏等非常の困難の極致で顧みず前への精神を発揮し軍人の本分を尽くした。野外要務令綱領を体現し、もののふとして逝った{参照:補作「もののふ旅のゴール」}。
9つ、八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の総括
極限状況でリーダーとして真価を発揮した。田代での露営を最悪事態と先見洞察し周到な準備を行った。田代台での露営では行軍に難渋する中で、3つの力(指導・管理・統御)を指揮力【決断】に収斂させ、半径4m深さ2mの雪壕を夜間2時間で構築し、円滑に露営に移行させ一人も眠らせなかった。49時間不眠での八甲田山越えでは常に今を戦い次に備え、率先陣頭に立ち、任務を完遂した。
10、福島大尉の実行力総括{参照:補作「実行力総括」}
八甲田山に立つという漠然としたビジョンを任務として命じられる迄に高めた自己の内なるものを形にし、フォーマルに至らしめた実行力。論文応募という偶然のチャンスを(さも計画であるかのように)活かしきった「プランドハプスタンス」の実行力が際立っている。
11、塾者への歩み総括{参照:補作「塾者総括」}
1つ目、成した事の繋がり 
八甲田山雪中行軍では非常の困難を究めた。その実感は書きたい知らしめたい、への強い動機となった。論文「影響」募集に直ちに応じ、困難をテーマにした。冬季は幾重にも倍加する困難があり、その実相と克捷方略を提言した。その中で倍加する困難を克服せんとする露軍に学び、並び・越える狙いの記述は参謀本部の注目するところとなり開戦後の論文要請の布石となった。要請を受けた論文「一慮」では倍加する困難を克捷し、対露戦勝利の方略を提言した。黒溝台会戦では危険・悲惨・困苦欠乏等の非常の困難で棄命。全軍に勢いをつけ、黒溝台奪取につなげた。成した4つの事は困難で繋がっていた。書きたい知らしめたい思いが成した事を繋げたスイッチであった。やるべきなのに誰も思いつかない、出来ない及びやろうとしない事をなす(為す・成す)が齎した困難であった。
2つ目、書きたい知らしめたい強い思いの背景と展開
我が国の野外要務令は温暖下のもので寒冷下のものとしては露国に大きく遅れをとっており、露国に倣い、早く並び越えなければならない。又大陸の酷寒での対露戦は倍加する困難で且つ予想外であり、一朝一夕には克服できない。国難対露戦必至の状況にも拘わらず第5連隊遭難はその停滞に拍車をかけている。論文募集を機に以上の焦慮と精魂を傾けて究めた困難を全軍のために活かし軍の真姿を伝えねばならないとの熱情と高みに立った陸軍第一人者の自負が彼特有の使命意識・義務意識に火をつけた。だが大言ではなく、科学的・合理的な思考で兵を護り兵に役立つ実際的な内容を提言した。全軍のための経験を語らない信念(見識)の吐露であり、実行あるのみとのメッセージであった。
12、纏め
任官を境に困難を忍ぶから困難を攻めて楽しむに変わった。変えたものは野外要務令綱領体現の目標であった。体現のため未知の困難を自ら求め挑み続けて遂に八甲田山に立ち、非常の困難を究めた。困難をテーマに冬季戦を論じ遂に対露冬季戦勝利の方略を提言した。事を為す男を貫き、全将校に所論を周知し、忠孝両全を果たす等人生の快楽を得た。
13、福島大尉旅の総括{参照:補作「福島大尉旅の総括」}
私は読書会での発表を単なる過去の作品の纏めにはしたくない。福島大尉旅の新たなスタートにしたい、と思って来た。そのため未だあるかもしれない主題は洗い出す、と思い続けて来た。ブログ旅の主題「実行力」や「塾者への歩み」を総括し、成した4つの事をつなげているうちに「困難」が浮かび上がった。『第四木曜日の読書会』に備えての補作並びに要約書(読書会での発表原稿)作成作業中であった。「困難」は福島大尉となした事の心棒である。そう確信が湧いた。その確信は「ing」であった「もっと訪ね(探し)たい、に終りを告げた。これで(危機に強いリーダー)、強いリーダー、実行の男、事をなす男、そして困難を究めた男等の主題候補が出揃った。いずれも任務以前の使命意識・義務意識と己の信じるところを断行する性向を主な柱として語れるような気がした。読書会のお陰である。更なるご意見や感想を頂き、"これぞ福島大尉"確立のスタートとしたい。以上。
【私の百字提言】
福島大尉が何を思いどう行動したか、の真実は膨大で今では難解な遺品と限られた事実を想像で繋ぐ私の旅の中にある。そう信じて思い続けると真実が少しは見えて来た。それらが何時か誰かの踏み台となる事を切に願う!


以上
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これからの福島泰蔵大尉旅へ向けて《補作》 十一、4度目の青森旅で”真実”を思う [補作]

始めに

福島大尉が何を思い、どう行動したかの真実は福島大尉が残した遺品と限られた事実を想像で繋ぐ私の思い巡らし旅の中にある、と信じて14年余旅を続けて来た。福島大尉が手記公表の動きの中で思ったであろう軍の真姿特に31連隊に関し、その真姿が顧みられていない、という強い思いに、更に感じるところを強くし、福島大尉だけを見つめてきた。その旅、探す旅も終わりのようだ。

4度目の青森旅、6月19日~⒛日、を思い立った。この時しかない、と思うほど強く確かめたいことがあった。

確かめたかったのはまず福島大尉の鳴澤の認識について、である。このことを間山元喜氏に相談すると自分の都合をやりくりして付き合って頂くことになった。

間山元喜氏は弘前在住。祖父仁助伍長は31連隊雪中行軍隊員。祖父の踏破した過酷な道のりに自衛隊定年退官後の平成5年に挑戦。八甲田山雪中行軍を再現し壮大なロマンと大きな反響をよんだ。『孫が挑んだ もう一つの八甲田雪中行軍』(中経出版)も著している。同氏には2回目の青森旅行(H20.6.17~19)で弘前市役所を訪れた際に紹介されご案内頂いた。事後の展開が拓けた大きな出会いであった。今もご厚誼を頂いており今回はそのご縁に甘えさせて頂いた。

次に確かめたかったのは経路や露営地について不十分と感じていた個所の現地調査であった。この希望を伝えたところ、八甲田山雪中行軍で地形地物の名称調査を担当した福井見習士官の報告書を現地確認された由。陸上自衛隊幹部候補生学校作成の福島大尉遺品寄贈便覧の中にある資料である。なんという幸運。で興奮した私はその一部でも確認したい旨お願いした。こちらも快く応じて頂くことになった。現地確認が願ってもない形で実現した。福島大尉遺品の中の真実を掘り下げる活動に胸が躍った。更によろくの成果もあった。それら諸々を書きたい。先ずは福島大尉の鳴澤の認識から。

1つ、福島大尉の鳴澤の認識

1つ目、何故?今?か

手記中に福島大尉が記した「鳴澤に達すれば青森までは降路なるを以て」を私は福島大尉に鳴澤のこわさの認識がなかった、としてそのような抜かりのあった予想外にも拘わらず何故無事に通り抜けられたのかという問題意識で2回目の青森旅行を行い、修親(福島泰蔵大尉の予想外を訪ねて、H21.11~H22.2)に投稿した。最高点は馬立場であり、鳴沢から馬立場までは登りである。馬立場からが降路である、との認識は今に至るも変わっていない。

ところがその確信が揺らぐ時が来た。既述の某所の参考資料化検討資料に鳴沢から馬立場がほぼ同じ高さの台地上に描かれている要図を発見した。高低だけでいうなら現在の車道を馬立場から下った経験、鳴澤から馬立場方向を見上げて望んだ経験、馬立場から四周特に田代が見渡せた経験から、馬立場が最高点であることに絶対の確信を持っていた。

そして鳴澤は澤としての概念と地域としての概念の両方で使われいるとも記してあった。私は澤としての鳴澤の上方を走っている現代の道路付近からそんなに離れていないところに当時の行軍路がある、と漠然とイメージしていた。どちらかといえば澤としての鳴澤の概念であった。

地図上から拾う作業をしたという事であったが背後に深い知見が潜んでいるような気がした。同時に何か忘れ物を思い出したようで落ち着かない気持ちになり、もう一度現場に立つ必要を痛感させられる機会となった。


2つ目、現地確認

先ず間山氏と鳴澤に向かう。同所で(現地で)澤の上流の頂界線上を行軍路としたのではないか、等高線(756mの閉曲線)もあるしその辺の高さまで登れば、馬立場(732.7m)より高くなる。見下ろしながら行ける。行軍路としてはあり得る、と確認①。

IMG_2286 - コピ縮小作図.png


その後銅像茶屋で千葉社長、語り継ぐ会の蛯名会長を紹介された。千葉社長の説明を雪中行軍資料館の鹿鳴庵で受けながら、一枚の写真に目が留まる。馬立場での捜索の写真(当時)であった。馬立場の背景(後ろ)の稜線が鳴澤から馬立場へ至る稜線という説明。この稜線を辿れば馬立場を見下ろしながら登ってこれる。この稜線に立って福島大尉は降りと感じたのかもしれない、と思った②。

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後藤伍長の銅像地点まで登り、四周を千葉社長の説明を聞きながら確認。当然田代も見えるし鳴沢から馬立場の稜線も見える。馬立場にこの銅像が設置された理由はどこからでも見えて後世の人が迷わないようにとの意もある、と千葉社長③(写真なし)。生憎樹木が繁茂し視界は得られない。帰りは階段路ではなく、何回目かの慰霊式典に合わせて作られた周回道路を降る。途中、茶店の上方の地点で鳴澤から馬立場の稜線、現在の道路(標識あり)が確認できた④。①を上から確認する格好となった。

縮小.jpg

更に千葉社長は自分の車で大崩れ沢に沿う田代元湯への経路(途中)を案内された。崖の深さ(200m)を実感。途中で馬立場(写真奥の稜線の左端)、按の木森方向(画面の右手、写真には映っていない)を見る。上を通る高圧線(これも映ってない)方向にある。随分降って来たのにくっきり見える⑤。馬立場がどこからでも見えるし、土地の人は目印にしていただろう、と納得。余談であるが曾祖夫(母)の頃から、明治35年当時、田代元湯の千葉館を経営しておられたとの事。田代元湯へは吊り橋を渡らなければ行けなかった、との言。「第5連隊遭難始末」及び本人の体験談によれば村松伍長が2月2日に元湯で救助されるまで小屋で温泉を飲み永らえた、とある。千葉館と何等かの関りがあるかもしれない。

IMG_2308 - コピー縮小.jpg

3つ目、福島大尉の表現を思う

福島大尉は地域としての鳴澤を意識していたようだ。澤としての鳴澤・平澤を含む地域全体を意識し、焦点は鳴澤の上方の凸線(頂界線)である。以上の認識は本人自らが行軍前から保有していたのか嚮導の意見によるのか、そこまでははわからないが・・。

従って鳴澤・平澤の怖さを認識していたことになる。だからこそ、澤を遠く避けて澤の上部、ガレ場の上まで登り切って(756m等高線(閉曲線)等から山麓を横切るように凸線上(頂界線上)を馬立場を見下ろしながら馬立場に向かって進んだ。当時の冬季行路が澤に迷い込むことを避けてそうなっていたのかもしれない、あるいを行路を大きく外して上方の凸線(頂界線)を行軍路としたのかもしれない。この感覚を鳴澤に達すれば青森までは降路なるを以て、と表現したのではないか、と理解した。但し当時(1月28日)は大吹雪、八甲田颪のただ中で目印の馬立場が見え無かった、はず。吹雪の止み間を待ち一瞬の視界を頼りにしつつより安全な行軍路を上へ上へと探しながら鳴澤~馬立場の凸線(頂界線)迄登ろうと努めた。昼間でありながらの真っ暗闇、上へ上へが澤に迷い込まず青森へ近づくための取り得る一番確実な手段だった。嚮導の働きが益々際立ったであろう。

このとき「鳴澤に達すれば青森までは降路なるを以て行進の困難は更に意とするに足らずとなし前進す」の文句が眼前に浮かんだ。そして馬立場を見下ろす澤の上部の凸線(頂界線)までなんとしても登るんだ、という福島大尉の強い気持ちが伝わって来た。更にそこまで上がれば後は降りだもう一息だ!と隊員を鼓舞する福島大尉の強い調子の声とそれに和して頑張れ!しっかりしろ等と励ましあう隊員の声、吹雪に負けじと張り上げる声、が聞こえて来た。

2つ、経路・露営地確認

過去に2回経路調査を行ったが不十分(イメージが湧かない)で新たな旅に掛かる前にはそれなりにイメージを持っておきたい、と考え続けて来た。今回願ってもない機会を頂いて全経路上の主要地点。切明から元山峠を経て銀山事務所に至る経路。田代台露営地。田代台露営地~鳴澤~馬立場~田茂木野の経路確認を重点とした。すべて福井見習い士官の調査報告書を基にした。

詳しい内容は別の機会に譲るが、福島大尉の思いや行動についてならではのイメージアップが出来た気がする。そして福島大尉の遺品の中の真実、の掘り下げが愈々動き出した(間山氏)かと思うとたまらなく心躍る思いである。

3つ、.嚮導の後遺症へのフォロー

高木勉氏の著書では書いてあったがその根拠となる資料を見つけだせないまま、であった。それが今回の青森旅行で発見できた。大深内村の7人の嚮導のうち凍傷の後遺症に苦しんだ方の救済について「八甲田山雪中行軍を語り継ぐ会」の会長蛯名隆氏が大深内村長から旅団副官福島大尉にあてた書簡を会として解読された由。数度のやり取りの後での軍の処置に対する随分丁重な感謝に満ちたものであった。福島大尉の人柄の一端が明らかにされた。蛯名会長は福島大尉遺品寄贈品便覧の価値を高く評価されていた。詳しくは別の機会に譲るが福島大尉の遺品の中の真実に注目する篤志者(蛯名会長)が現れたことに重ねて心躍る思いがする。

終わりに

まずは参考資料検討案にお礼を申し上げたい。同検討案からの懸念が本稿の大元であり、これが無ければ現地に足を運ぶことも気づきも無かった。お陰様で福島大尉の真実に大きく近づくことが出来た。

読書会(私の発表)に向けてのシリーズの最後は4度目の青森旅、そこで福島大尉の”真実”を思う稿とした。これで私の考えられる諸作業は要約書(素案、発表原稿)の見直しを残すだけとなった。福島大尉が何を思い、どう行動したかの真実は彼が残した遺品の中にあり、それをしつこく追い続ける私の旅の中にある、を図らずも訴え、(福島大尉資料の活用について)同じところをみている方の活動を紹介して最後を締める形となった。これからの旅では探す旅で得た福島大尉像を更に確かなものにし伝えたい。今回の気づきの教訓を踏まえ、従来に加え、敢えて注意を向けてこなかった優れた市井の方の研究資料などにも目を向け知り得る”真実”の質を高めたい。《要約書(素案)私の百字提言関連》

引用・参考図書:『遭難始末 歩兵第五連隊』、『歩兵第五連隊第二大隊雪中行軍遭難』(昭和40年1月23日、第1教育連隊本部 村松文門)

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これからの福島泰蔵大尉旅に向けて《補作》 十、立見師団長の不覚の思いで見る福島大尉 [補作]

始めに

冊子寄贈時に某氏が、立見師団長は福島大尉を福島泰三碑文で「塾者である。それを平生の間に身につけた」と評している。ここに陸大でもないのに、或は陸大を超える!という響きを感じる、と呟かれた。そこから私はある思いが湧いてきた。立見師団長は不覚の思いを抱いていた。その思いで福島大尉を見ていたのではないか、と。全く新しい視点であったが考えれば考えるほど尤も、と思えてきた。語らない立見師団長の胸の奥を思う。

立見師団長の不覚

その不覚とは八甲田山雪中行軍における第8師団隷下、第4旅団隷下の弘前第31連隊の兄貴分である第5連隊の遭難と黒溝台会戦での大苦戦の二つである。

八甲田山雪中行軍における不覚の内容

第5連隊は青森から田代の一泊雪中行軍で未曽有の大寒波に遭遇し、露営彷徨を繰り返し、210名全員が遭難し,救助された後でなくなった6名を加え199名を失った。一方第31連隊は厳しい条件下、長期山岳連続通過雪中行軍を行い、見事成功。38名(1名は途中帰営)全員無事。

立見師団長は碑文で『君在弘前雪中行軍者冒風雪〓(ゆ:超える)山谷未会傷一人』と岩木山・八甲田山雪中行軍を通じての無事故を讃えている。その未会傷一人は両雪中行軍は前人未到の厳しさへの挑戦であり、雪中露営演習や岩木山雪中行軍からの成果の積み上げがあった事を踏まえた賞賛であった。一方に青森隊遭難への無念の思いを込めている。不測の悪天候が原因とはいえ、どんな状況でも兵士を護るのは指揮官の務めであり、細心の注意が緊要でこそあれ、判断の緩るみや偏りがあってはならない、自分の監督下で起きた!無念との思いが強く籠った表現である。

不覚を齎したものー指揮官(大隊長)の判断力特に科学性・合理性の無さ

第5連隊雪中行軍遭難事件取り調べ委員報告書(明治35年)によれば
兵に小倉服(夏服)を着せた事及び嚮導を使用しなかった判断は不適切であった。特にその理由①古びた絨衣袴を着せる位なら小倉服(夏服)で十分。②田茂木野~田代は熟地だから嚮導を使わなかった、の意味するところは重大である。今となっては真偽の程を確かめようもないが、①兵にだけ夏服を着せ、雪中行軍及び兵を軽んじていないか。②未だ一度も冬季に踏破していないにもかかわらず熟地と言い切るのは自らを過信し、雪中行軍をなめてないか。

黒溝台会戦での大苦戦における不覚の内容

1月25日未明、突如露国第2軍団10万5千百が日本軍の左翼、秋山支隊に(騎兵旅団主体、黒溝台は種田支隊守備)襲いかかった。事前の不審な動きを察知した秋山支隊からの報告にも係らず、厳冬期本格的攻勢はあるまい、と油断した満州軍総司令部は対応が遅れ且つ誤り、同日正午、慌てて第8師団に、「努めて多数の兵力を以て直ちに前進して黒溝台方面の敵を攻撃せよ」と命じた。之を受け、立見師団長は黒溝台守備の種田支隊を(増援の小原連隊を含む)退却させ、敵を誘致して撃破する作戦構想を立てた。由比幕僚長の意見具申を即断で容れ決心した。第8師団は急進し、26日朝2ケ旅団並列して攻撃開始した。これより先25日夜(2025)、この構想を確認した種田支隊(増援の為同日時黒溝台に到着していた小原連隊を含み)は退却を始め、追随してきた露軍はそのまま占領し陣地を構築した。第8師団は次々に増派される露第2軍に左右両翼隊の側背を逆に包囲され、黒溝台に近付くどころか至る所で戦線崩壊の危機に瀕した。事の重大性に気づいた総司令部は他正面から2ケ師団抽出、第8師団は体制を整え漸く28日総攻撃。29日露軍退却で黒溝台を取り戻した。2ケ師団の応援をもらい大苦戦したのは不敗の軍人人生おける唯一の不覚。

不覚を齎したものー

①甘い敵情見積もり(総司令部作戦参謀)と②巧妙で確実性に欠ける誘致導入策の採用(由比幕僚長意見具申)で、みすみす黒溝台を敵手に渡した事。特に②についていくら火急とはいえ戦に慣れていないと感じつつも小手先に偏った意見具申を採用した不明が悔しい。

不覚の思いで見る福島大尉の優れた判断力特に合理性・科学性

八甲田山雪中行軍及びそこに至る過程に見る合理性・科学性

①仮設を論理的に考証し、実験で検証するアプローチと②実地・実測を観察するアプローチが顕著である。そして①から②は連続するサイクルとなっている。例えば雪中露営演習では露営方法やその施設並びに構築方法或いは冬季に隊員が行動し或いは露営する標準尺度(温度)等について戦史・外国典礼などから検討すべき仮説を導き出し、実験した。その結果を観察して成果や更なる研究調査事項を見出した。その歩を一歩一歩と進め、八甲田山雪中行軍でも合理的・科学的判断に基づいて冬季行動標準の提言を目指し、厳しさに身を置いて、そのための対策を練った上で、深く求めた故の成果を得た。具体的な資料を集め具体的に考え、実地・実測値で検証し、それに基づいてさらに具体的考える。その判断に緩るみや偏りはない。

黒溝台会戦に見る対露判断の合理性・科学性

論文「影響」では今や冬季は休戦ではない、積極的活用すべし、と啓発した。全軍に配布された偕行社記事臨時増刊第1号(明治37年11月号)上の論文「一慮」では今冬(開戦後の明治37年~38年冬)露軍は必ず攻めてくる、油断せずこちらから攻めて行け(攻撃第一主義)、と啓発した。更に同論文では露軍評論として露軍に勝つ方略を示した。福島大尉の露軍研究は年期が入っており、任官当初の学び・習うべき露軍研究から並び・越え・勝つべき露軍研究へと深化しその露軍見識も参謀本部に注目される高いレベルに達していた。特に任官当初から露土戦役に注目し、戦史資料、露軍の野外要務令や露軍に関する週報等の収集・考察を積み上げた。具体的な資料を多角的に集め具体的に考える,恐れず侮らずの精神とそれに基づく判断に緩るみや偏りはない。


終わりに

立見師団長が福島泰蔵碑撰文でその将才を讃えている。福島大尉ならではの科学的・合理的思考を念頭に置いているからではないか、ふとそう思った。責任が重くなるほどこの資質の重要性は増す。国家を誤らせないために上級リーダーを志す人、その教育に任ずる局にある人の心すべきことと思う。高木 勉氏も同じような感想を述べている。

「その職責にあるものが、血の滲むような努力で研究を重ね、希望的観測や一見勇気あるかに見える大言壮語に左右されること無く合理的に、真面目に対策を講じなければ必要以上の犠牲を払わなければならない。それまでの経験で学ばなければならないこの教訓は第二次大戦にも生かされず、日本は敵を降伏させる目途もなく米英と先端を開き、国家を破局に導きました。」(八甲田山から還った男)


補作旅では作稿と投稿の順序が後先になったところがあったがお許し願いたい。

引用・参考図書;明治百年叢書 機密日露戦史(谷 壽夫、原書房)・日露戦争(第三巻 児島 襄、文芸春秋)、八甲田山から還った男(高木 勉、文芸春秋)

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これからの福島泰蔵大尉旅に向けて《補作》 九つ、福島大尉が受け継がんとしたもののふの心ーもののふ旅のゴール [補作]

始めに

福島大尉はもののふの心を持ち、磨き続けた軍人であった。よろく『もののふの心を受け継ぐ旅』は黒溝台で福島大尉がその最後をもののふとして逝った、との表現に収斂させた。しかし、もののふの心のおおもとはどこかについては未到であった。しかし、本稿でどうやら行き着いた。そんな気がしている。これをもってもののふ旅のゴールとしたい。

意識の隅でゴールを求め続けていた私は『武士道』(新渡戸稲造)を読んだ。同書において、武士道は時代とともに廃れるだろうしかしその”香気”は残る。武士道の”淵源”は仏教・儒教導入以前の日本民族の純なる魂、神道の中にある。以上の表現が私をなんとなく『万葉集(保田與十郎)』に向かわせた。その中で、大伴家持の歌にその”香気”、”淵源”を考える重要なヒント(材料)を見つけた。

1つ、聖武天皇の詔とそれを賀す歌ーもののふの心の淵源

天平21年夏4月甲午朔、聖武天皇は造営なった東大寺大仏(廬舎那仏)に対し詔を橘諸兄をして白さしめ、続いて諸王諸臣に対し詔を賜った。その中に大友・佐伯両氏に対す詞がある。

「大友佐伯の宿祢は、常も云う如く、天皇朝守仕奉事(すめらがみかど まもりつかまつること)顧みなき人等(ども)にあれば、汝たちの祖(おや)どもの云ひ来(く)らく、海行かば水漬(みず)く屍、山行かば草生(む)す屍、王(おおきみ)の邊(へ)にこそ死なめ、和(のど)には死なじと云ひくる人どもとなも聞し召す、是(ここ)を以て遠天皇(とおすめろぎ)の御世を始めて今朕(いまわが)御世に當りても、内兵(うちのいくさ)とおもほしめしてことはなも遺(つかは)す、かれここを以て、子は祖(おや)のこころなすいし子にはあるべし、此の心失はずして、明き浄き心をもちて仕え奉(まつ)れとしてなも、男女合わせて一二(ひとりふたり)治賜(おさめたま)ふ」

この詔を富山の任地で伝え聞いた大友家持は、同年5月12日詔書を賀す歌を作る

「・・・大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主(おおくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬く屍 大君の邊にこそ死なめ 顧みは為(せ)じと 異立(ことだ)て・・・」

以上の詔とそれを賀す関係性に大君と臣大伴を代表とする君臣合和す関係、日本の国柄・国体の在りようを見る。大伴は武臣である。大伴氏は天孫降臨の日より国土平定国を啓くに亘る時代において武臣の首領として、戦陣の御前に奉行し、功業においても系譜に於いても他に比するもののない存在であった。

遠い神代から大君に仕えた大伴氏がもののふの淵源である。そして親代々の言い伝えと聞いている「海行かば水漬(みず)く屍、山行かば草生(む)す屍、王(おおきみ)の邊(へ)にこそ死なめ、和(のど)に死なじ」の心でこれからも仕えてくれと聖武天皇から白された。その仕え来た心こそもののふの心の淵源である。

応えた歌・・・「海行かば 水漬く屍 大君の邊にこそ死なめ 顧みは為(せ)じ・・・」は神代の代から続く君が代を讃え、君臣合和す国柄・国体の永遠を願い、大伴の尽忠の誠を誓った。これを以て万葉集の心を確立した、即ち大君思想を確立した重要な意味を持つ歌である、と保田與重郎氏は述べている。とするならば


大宝律令を制定(701年)し中央集権国家として、中国の冊封体制を拒絶して誇り高い独立国家、日本、として歩み始めた。その時の大君思想の確立であった。その確立をもって大伴氏とその心がもののふとその心として日本国家に広く認知された、と考えたい。

注目点

この歌は大仏造営を讃えたものではない。仏教で国つくりをという大君の方針には全く触れていない。その意図するところは既述の通りで我が国古来の神ながらの道(神道)にあくまで則っている。


2つ、防人の歌に、和した大伴家持の歌ーもののふの心を天皇の側近から一般の国民に拡げた

歌は天皇と臣氏の情をつなぐものとする文化が当時からあった。そのなかで、出征に際し一般兵士にも兵部省の役人が提出させたようである。その提出された歌を選び万葉集に載せたのが大伴家持。それだけではなく兵士の歌に和して【防人の悲別の心を痛む長歌】等を作っている。「・・・真幸(まさき)くも 早く到りて 大君の 命のまにま 丈夫の 心を持ちて 在り廻り 事し終らば 恙(つつま)はず  帰り来ませと・・」と妻たちの心を悲しみ、同時に大君の命のまにまと至誠を以て出征の詔に答える、仕える国家のおおもとを諭している。

各種の和歌も詠んでいる。「海原を遠く渡りて年経(ふ)とも児らが結べる紐解くなゆめ」はその一例である。この歌に重要な意味を込めていると保田與十郎氏は言う。大伴家持は防人の妻達の心情に寄り添いつつもののふの心を防人(一般国民)に拡げる教育者的役割を果たしたように感じる。

3つ、その他の注目点

1つ目、背景として新興の文臣藤原氏が全盛期を向かえようとしていた時代、豪族曽我氏の目に余る横暴とは違い陰湿な策略・陰謀が張り巡らされ大伴一族が追い詰められてゆく。族長家持の苦悩は大きかった。そのなかでひたすら抗争に向かわず、沈黙で、歌で大君思想を歌っている。臣同士が争うのではなく、大君のもとに仲良く盛り立てようと・・・、それが古来からの国柄を守り伝えるみちである。

2つ目、大伴古慈悲失脚に伴い一族の自重を促す「諭族歌」を詠んだ。その中で藤原氏の陰謀極まる状況を深刻に憂い、伝統精神【尽忠至誠、至誠奉公】のありようとして「赤き心(赤心=本心から大君を思い私心や邪心なく大君に仕える清く明るい心、命のままに一身をささげる覚悟」を示している。「・・・君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇方(すめかた)に 極め尽して 仕え来る 神の職(つかさ) 異立て・・・」
私の「赤心」初見は勝海舟旅。爾来その典拠は何処かと探していた。

3つ目、万葉集を閉じた最後の歌「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)」は祝い歌である。当時の人は雪を吉事ととらえていた。雪が降り積もるように吉事が重なり重なり表れよ、と君の御代を讃え願っている。この時家持42歳、以後作歌無し、逝去68歳。

終わり

福島少尉は初級士官当時から、野外要務令・綱領の体現を目指した。綱領の最後は軍人の本分についてであった。「・・・戦時之に耐へ克ツノ道ハ則チ之レ有リ義務ヲ守リテ死生ヲ顧ミス一身ヲ犠牲ニシテ君国ノ為ニ盡ス即チ是レナリ之ヲ要スルニ軍ノ真価ハ一ニ軍人精神ニ在リ此ノ精神ヲ鼓動シテ責ヲ重ンジ任ヲ竭シ斃レテ後ニ止ム是ヲ軍人ノ本分とス」。その精神の核には、死生を顧みずの精神があった。それが大伴家持の大君思想のもののふの心とつながっていた。福島大尉が受け継ごうとしたもののふの心の大元は大伴の「顧みず前へ」の心であった。

自衛官の服務の宣誓「事に臨んでは身の危険を顧みず身を以て専心職務の遂行に当たり…」にも顧みずの精神がある。

以上から意識するとしないとに関わらず、連綿と続く武の心の中に今の日本の国柄・国体に相応しい武の心を持った今の自衛官はいる。福島大尉が受け継ごうとしたもののふの心を学ぶことは今の我々も又もののふの心を受け継ぐ事になる、と思う。

もののふ旅の冒頭に「天皇(朝廷)に仕えた武臣」ともののふを仮定義した。今その仮定の確かさを証明出来たような気がしている。やっぱり、漸くの思いである。


引用・参照書籍:万葉集の精神ーその成立と大伴家持(保田與重郎、新学者)、武士道(新渡戸稲造、・・)
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これからの福島泰蔵大尉旅に向けて《補作》 八つ、福島大尉の沈黙  [補作]

始めに

冊子化時点で福島大尉旅で未到・未踏であったいくつかの事項について考えを巡らし補作とし、読書会を意義あるものとしたい。
まず今回は沈黙について。福島大尉の沈黙については『・・』、『・・』(略)で述べた。
何故沈黙か、沈黙にみる人間性、沈黙が齎したもの(後世への影響)等筆者として、未だ未だ考え抜くべき課題がある、と考えている。

1つ、何故沈黙か、その沈黙の意味・性格は

寄贈した冊子の感想について遺族の斎藤昌男氏が福島大尉から東京裁判でA級戦犯に処せられた広田弘毅の沈黙を連想し広田は気骨の人であったと表現した。これを聞き、何故沈黙かの考察が沈黙の意味・性格を左右する、と気づいた。この点からいえばまだその背景を含め深堀しなければならない、と感じた。

2つ、沈黙に見る人間性

福島大尉の沈黙には物凄く人間性が現れていると感じる。第5連隊遭難直後では手記及び実施報告本文には田代台での露営間に行った長内文二郎宅捜索に関わる事及び発見できず代わりの空き小屋発見に関わる事並びにそこでの休憩については触れていない。ただし休憩を担当した千葉見習士官の調査報告書には載っているが・・・。それと”嚮導”(地元の道案内人)の記述は手記中に3ケ所しかなく、少なすぎる感じである。又地元の嚮導が関係すると思われるところの記述はなく、何故だろうとの疑問が湧く。第5連隊遭難の影響、強い意志を持った、せざるを得ない沈黙である。論文『降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響(以下影響)』では戦いの要則と応用方略については、軍事書や戦史や外国の要務令などで語り、語る必要のない沈黙である。又倍加する困難と克捷方略については自己の卓越した体験を下敷きに留めている。論文『露国に対する冬季戦術上の一慮(以下一慮)』でも過去の経験を語らず下敷きに留めている。沈黙を時系列で語ると以上の通りである。沈黙そのものに第5連隊遭難を悼む気持ちが込められているがそれだけではない何かの切迫した思いが籠っている、と感じる。

以上の切迫した思いとは何か?何故沈黙か?前にも述べたがここは背景も含め更に深堀しなければならないところ、と思っている。沈黙の在りように福島大尉の人間性を解くカギがある。

手記公表の動き【北辰日報編集部編纂 第五連隊遭難始末 附「第三十一連隊雪中行軍記」(近松書店発行、明治三十五年二月十日印刷、同年三月一日発行)の附部分は手記と同文】にも身の保身など考えない強い思い、を感じる。沈黙しなければならない強い思いと公表すべき、それだけの価値ある雪中行軍であるとの強い思いの葛藤を感じる。そしてそこには葛藤の素となった考え方・思い入れがある。これらにも福島大尉の人間性を解くカギがあると感じる。

論文『影響』『一慮』で敢えて卓越した自分の成功体験を語らず、封印して論を構成する。説得力の低下を恐れぬ人間の腹の座りようを感じるし自らの得意を封じても尚まだ打って出る論文力、これが駄目ならあれで・・の逞しさというか平素からの正攻法・科学的思考法等の努力の確かさを感じる。これらにも福島大尉の人間性を解くカギがあると感じる。

3つ、沈黙が齎したもの

よろく旅で遺品・建碑に込める遺族の思い、幹部候補生学校への遺品寄贈に絡む遺族の思いの中に”いつか陽の目を”だけではない思いが混じっていることに明瞭に気づいたのは冊子寄贈後のフォローをしているときであった。沈黙が齎した、ダメージ感とでもいうべき感じであった。

1つ目、世上、多くは福島大尉資料によらず。福島大尉、雪中行軍及び旧陸軍を語っている。この為、扱いにフィクションや偏見がある。

雪中行軍路案内実録に登場する福島大尉は暗く・高圧的である。その場面は福島大尉が全く語ってないこともあって比較すべき資料がなく、この印象が多くの人の思考を左右する傾向がある。
新田次郎氏の『八甲田山死の彷徨』では、彼の『私の取材ノート』によれば、最初から雪中行軍競争の枠組みの中に福島大尉を嵌め込み虚実混淆させ、真の人物像を歪めている。福島大尉の沈黙がそして門外不出の言いつけが新田氏に興味本位にストーリーを作る事を意図に反して許した、ともいえよう。

福島大尉を語るのに福島大尉資料によらず何を、どうかたるのであろう。遺族が陸上自衛隊幹部候補生学校に遺品を寄贈し、いつでもコンタクトできるようになった今、多くの人が触れて読んで語って欲しい、と切に願う。何を思い、どう行動したかの真実はこの遺品の中にある、と思う。

2つ目、遺族はいつか陽の目を、の思いに加え、思わぬダメージを被っている。

実録の福島大尉からは案内人を踏み台にする暗く高圧的な将校、『八甲田死の彷徨』からはお互いに遭遇を予期しつつ進む展開の中で凍死者を見つけ助けない非道な将校、田茂木野で凍死者を見なかったという嘘つきな将校、道案内人を見下す非道な将校をイメージさせる。歪んだイメージは反証できない遺族に思いがけぬダメージを与えている。

4つ、何が真実か、を後世に伝える務め

福島大尉に関わり生資料の凄さに驚き、格闘してきた。まだ福島旅を続けねばならない、続けたいと思っている。真の福島大尉像、業績及び旧軍人の真摯な姿等を明らかにして後世に伝える事は私の残された人生の使命であり、務めである。関心と関りを持つ人が増える事、私の冊子がその踏み台となる事を願っている。


終わり
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これからの福島泰蔵大尉旅へ向けて《補作》 七つ、福島泰蔵大尉旅の総括 [補作]

始めに

主題「困難を究めた男」旅で福島大尉の人物像に関し、最も印象深いものが二つある。使命意識とやるべきと信じることを断行する性向(義の心)である。以上の二つは人物像の核ではないかと思えてきた。又福島大尉旅を振り返って多様な切り口(視点)が欲しかったので主題を複数挙げて思いめぐらし旅をした、と要約で述べた。そこの所を最後に補足しておきたい。切り口、視点、主題についていずれも同意で使用している。

1つ、人物像について印象深いもの

1つ目、使命意識について

弘前中隊長以降の福島大尉は常に全軍、兵を護る為なすべき事に視線を当て、それが自分の使命であり義務であると考えている。その考えは任務以前、というか任務の枠を狭めずというか任務を拡げるというか視野が広く自由であり全軍を背負う気概に溢れている。
任官以来培ってきた実力と法によって与えられた力(権限)のバランスが取れやるべき事の具体的な方向性が定まった結果素志が成志になり、高い使命意識となった
高い使命意識は天皇陛下・国家・陸軍に一身を捧げる篤い使命感とそれに基づくやるべき或はやるべきでない事を峻別する"義"の心よりなる。

2つ目、なすべきと信じる事を断行する性向、について

その強い使命意識は本来持っていた、自分を信じる力(自信力)と自分がやるべきと信じる事を断行し確実に成果をだす性向を一層強くした。具体的な関心はやるべきなのに誰も出来ないや誰もやろうとしない事等に向けられ周りに惑わされなかった。
強い使命意識は目標のありようも規制している。なすべきと信じる事を可能性より必要性を重視して、否絶対実行して見せるという強い意志を持って、掲げ達成を追求した。野外要務令綱領体現は任官時に掲げ終生貫いた。冬季行動標準提言は弘前中隊長時掲げ、八甲田山雪中行軍を手繰り寄せたが第5連隊遭難で挫折した。

3つ目、行動の核

二つの事は八甲田山雪中行軍で非常の困難に挑んで究めた点、究めた事を理論化して論文「影響」と論文「一慮」で困難を論じ広く啓発しょうとした点において行動を発意し行動に邁進させたという意味で行動の核である。又使命意識を高く持ち、自らが信じることを断行する性向は困難を自ら招き、それを克服する。その事によって人生の障害を除き前へ進めると共に自らを成長させる。以上をサイクルとして回す行動に関しても同様に核である。

4つ目、以上の二つと他の主題との関連

この二つは「強いリーダー」、「実行の男」、「事をなす男」等にも色濃く表れている。「強いリーダー」としては八甲田山雪中行軍において最悪事態の露営に備えて周到に準備し、露営を適切に決断して一人も眠らせなかった。49時間の不眠・空腹・疲労の極限状況で常に先見・次見、卒先陣頭に立ち、共動の域に到らせて任務を完遂した。八甲田山に至るはるか以前の発意や信じる事の断行は極限状況に備え対処する行動の核である。「実行の男」としては内面を充実させ、漠とした思いを形にし任務として命ぜられ、やり抜く行動の核である。「事をなす男」としては誰も出来ない或はやるべきなのにやろうとしない事等に挑み事を成す行動の核である。


5つ目、福島旅のこれから

主題「困難を究める」旅で二つの事が困難に関する行動の"核"である事を明らかにした。同様にこの二つはこれまでの主題旅でも、意識しなかったが、その核であり、人物像を明確に語るポイントであるような気がする。この確認から、これからの旅をスタートさせたい。

6つ目、用語「使命意識」について

今までに述べてきた二つの事、使命感と信じることを断行する、の関連について『修親「使命感と目標と」(平成27年12月号、防衛大学校幹事小林陸将)』を大いに参考にさせて頂いた。同記事において使命感とこれに基づくなすべき(なすべきでない)事の峻別が述べられていた。私はここを使命意識ととらえる事で二つの繋がりがはっきりすると考えた。

2つ、多様な切り口(視点)が欲しかった、について

①生来私は思いめぐらし旅そのものが好きだったし、そうする事やそこからの展開が楽しかった。だから旅をつづけるために主題が複数必要だった。

福島大尉の匂いがする所はどこでも行く。思いついたことからまず着手する。動いてみれば思いがけない機会が待っており、展開が拓け、次のテーマが見つかる。その時、その土地、その人との出会いがキーワードである。単品ごとの旅を重ねると、それぞれの主題(テーマ)の内容が関連性を持ち、スパイラルに階段を上がって行く実感がした。

②福島大尉が何を思い、どう行動したかの真実を言い切れる自信が身の内に自然に備わるまでは思い巡らし旅を続けたい。このため視点を思いつく限りは旅を続ける。もうこれでよいと得心ができればそれは即ち自信が出来たと、思いたい。

③福島大尉が残した膨大な生資料を読み切るために視点(切り口)は出来るだけ多い方が良い。所詮(一つの視点で)集めた資料について見たい資料(事実)しか見ないし見えない、というのが私の実感であった。

④限られた資料でどこまでの想像が出来、妥当かを常に脳裏に置く。勢いのままあるいは自分の恣意での決めつけや断言などで、あとで訂正を余儀なくされる。そんな事態は招かない。ここまでなら言えるかな、の少しづつの積み重ねや前進を大事にしたい。従って出来るだけ多くの切り口や見方のなかから得心を探してきた。幸い14年余の歩みで歯切れの悪さはあるが、”しまった”の思いはない。



③について、その実感は少し修正した方が良いかな、とも思い始めた。今回の主題「困難を究めた男」についてブログを読み直してみると同じ文でありながらちゃんと主題「困難を究めた男」に沿った内容の抽出が出来た。これは、主題に沿って福島大尉を探すと同時に(無意識に)福島大尉の本質を探す努力をしていた、からではないかと思う。



参照:修親「使命感と目標」(平成27年12月号、防衛大学校幹事陸将小林茂)

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これからの福島泰蔵大尉旅へ向けて《補作》 六つ、実行力総括 [補作]

始めに

寄贈した方々との意見交換で貴重な気付きを沢山頂いた。中でも実行力の纏めが今いち、でメインテーマに即した福島大尉像のインパクトが足りない、と感じた。

私はこのブログ旅を開始する時、福島大尉の強い実行力が最も印象深かったので表記タイトルとした。強い実行力は充実した内面を基礎にしていると考えたので、以下のようにイメージ(仮定義)した。広義:自己の内にあるものを形にし、具体化し、実行に移して成果につなげる。その全局面を実行力ととらえる。狭義:実行場面を実行力ととらえる。

上記イメージ(定義特に広義)に関するものが弱いので特質を考察し纏めとしたい。自己の内面の具体化には職務や任務以前即ち使命感や義務感に基づく、一個人の資質としての実行力によるものと職務や任務に基づくリーダーの資質としての実行力によるものがあると思われるが福島大尉において顕著なのは前者である。

以下①八甲田山への歩み、②八甲田山雪中行軍、③論文『影響』、④論文『一慮』、⑤黒溝台会戦における棄命の順である。

1つ、八甲田山への歩みに見る実行力ー自己の漠としたビジョンを命ぜられた任務とする力

自己の内にあった漠然としたビジョンを上司から任務として命ぜられまでに高めた実行力は際立つ。このビジョンは全軍を背負い兵を護る篤い使命意識、義務意識や責任感に基づいて時代の先を見据えた先見力や問題意識の高さの表れである。軍人としての素志が成志となった証であり、弘前中隊長の職を得て、10数年間培った実力と職務で与えられた能力とによりやるべきと信じるものの具体的な方向がさだまった事を示す。ビジョン追求の歩みにはストーリーがある。八甲田山は最初から福島大尉の脳裏にあった訳ではない。発意し挑戦して成功。その成功に自信を得ると共に周囲の信頼を勝ち得る。言い出したからには覚悟を決める。後へは退けない、失敗しないように準備に最善を尽くす。その積み重ねで一歩また一歩と階段を上がる、失敗したらその先はない厳しい歩みであった。最初は雪中露営演習に挑戦、行軍に行き詰まっての露営方策を明らかにする等の画期的な成果を上げる。ここからスタートした慧眼、当時の各部隊が直面した難題解決の光明を掲げた事に驚く。翌年、連隊教育委員の立場を活用し粒ぞろいの下士候補生を使って岩木山雪中強行軍を厳冬期に実施。山岳通過と海岸平地強行軍の可(否)を同時に明らかにし、厳しい状況ならではの成果・教訓を得る。その年の夏、下士候補生夏季強行軍を実施、東北の兵は夏も冬も精強を謳う。この実施報告で師団長から背中を押され、八甲田山への扉が開く。八甲田山が福島大尉の中で明確になったのは岩木山雪中強行軍の後、やればできるの達成感とと共にやり残し感を抱いた頃に重なるのではないかと思う。そのやり残しで仕上げの厳冬期2つの山岳の連続長途強行軍(探討目的)は前人未到。ではあったが周囲は一連の演習・実験行軍等の実績から福島大尉に全幅の信頼を寄せ福島しかできないと期待した。福島大尉は余裕と自信を持って命じられた任務を果たす決断をした。

ビジョンに向かって未知の困難に挑み克服しながら一歩又一歩と地歩を拡大し非常に困難が予想された八甲田山を手繰り寄せ、自信と余裕を持って決断した。任されて意図通りの準備を周到に行い断行した。漠然としたビジョンを任務として命じられる迄に高めた漠然から有、有からフォーマルにした実行力は際立っている。


2つ、八甲田山雪中行軍
1つ目、全陸軍冬季行動標準提言にみる実行力ー己の信ずるところを主張し一貫して実現を目指す
行動標準なる用語を福島大尉は使っていない。標準の尺度などという用語使いから私がイメージした造語である。当時の軍隊に現代の訓練基準に相当するような行動標準の概念はなかったのではないかと思う。

雪中露営演習(明治33年2月)実施報告で野外要務令改正の提言をした。その意図するところは炎暑に密で寒に疎であり実際的ではない、兵も護れない、であった。この同じ年の2月に野外要務令は改正された。初めて冬季考慮の条項が2つ加わったがそれでも提言に応えるものではない。改正提言は参謀本部が腰を上げる前になされた。先を見て自分が信じることを周りを気にせず貫く持論の強さを感じる。

野外要務令の主旨では軍隊の自主積極的行動を助長する為応用を第一義としいたずらに細部規定して縮減するなとなっており、当時天皇が卒爾すべしと命ぜられたものに堂々と先んじて改正の提言をする事は相当突出する観のある行動ではなかったか、と思う。

しかし、改正提言をした雪中露営演習の成果は偕行社記事に掲載され、天皇に奏上された。立見師団長の後押しである。本人には大きな支えであり自信となった。天皇陛下の御ことばを師団長から謹受した福島大尉は感激し、提言を目指す歩みに行き足が着く。師団長は下士候補生夏季強行軍の点検畢で1時間一回の休憩は適切である。冬ではどうか、と暗に行動標準提言を目指す実験行軍を示唆する。それを受け前人未到の八甲田山雪中行軍が実現する。うまくゆけば天皇陛下奏上との師団長のことばを背に、厳しい過酷な場を求めその可否を明らかにした。福島大尉が目指したのは限定的で質の高い行動標準提言であった。

第5連隊の210名全員遭難は陸軍存立の大事案、福島大尉以下を覆い隠し、福島大尉は沈黙する。提言は挫折する。

2つ目、沈黙か否かに見る実行力ー相反しても方途を見つける実行力
福島大尉は田茂木野で惨状に心を凍らせるが見聞した事項を冷静に語る。任務続行と同時に捜索協力の姿勢も示す。弘前隊は好むと好まざるとに関わらず青森隊の失敗を際立たせる立場にありその陰に隠される運命にある、と悟る。
行軍終了後、福島大尉は状況の掌握に努め、雪中行軍手記を公表すべきか沈黙すべきかの相反する葛藤の数日間を過ごす。結局該手記は・・・に掲載された。発行日は2月10日。悲惨さに目を奪われ興味本位や陸軍非難の報道過熱の中で非常の困難を克服した陸軍精鋭の真姿が省みられない。伝えなければならない、との強い信念であった。我が身の保身等は眼中になかった

事故取調委員が大隊長の責任の有無に関し兵に夏服を着せた事ときょうどうを使用しなかった事を焦点にしている事を知り衝撃を受けた。雪中行軍についての認識の甘さや取り組み(準備)の緩みは歴然としていた。青森隊の失敗の原因が弘前隊の成功の原因であった。
以上は勿論過去の成功体験も絶対に喋ってはならない、と心に決めた。
ここを守れば手記公表は構わないはず、とも思った。

第5連隊遭難に伴い沈黙を貫いた。当初はせざるを得ない沈黙。論文「影響」では二つの論点、戦いの要則については自己の体験を語る必要の無い沈黙であり、倍加する非常の困難関連については自己の成功体験を下敷きとする沈黙。論文「一慮」でも下敷きの沈黙であった。

3つ目、予想外対応に見る実行力ー野外要務令・綱領の体現【常に心は戦場に置く】
何故八甲田山?の答の一つとして、戦場で一も予想外に出会わないために厳しい訓練、厳しい場を求めることが必要、と福島大尉は随所で語っている。これは野外要務令綱領の冒頭
「百事戦闘を基準とすべし」の体現である。これを初めとして野外要務令綱領の精神や用語が多い事に気付いた。その事に専門用語等を使いこなそうとする気持ちと早く一人前の将校になる、否誰にも負けない野外要務令綱領の体現者になるとの強い思い(人生で目指したもの)を感じた。

行軍では大部分予想の枠内であったが、実際、予想を超える予想外、流石の福島大尉でも抜けのある予想外に遭遇した。予想を超えるとは大寒波の襲来であり、ぬけのあったとは鳴澤の怖さの認識の甘さ、嚮導は鳴澤の手前の田代までの約束を指す。屋台骨的問題点の克服(村落露営、労働と休養と睡眠の調和)、危険見積もりの徹底、全経路嚮導の確保及び大局観のある周到な準備(最後の難所八甲田山及び田代での露営を最悪事態と認識し当初から備える)で無事乗り切った。本人が掲げる予想外対応の実践であった。

『実施報告』では「中央山脈越え、八甲田山越えは可能であるが非常に困難」と述べ、論文『影響』では「冬季は幾重にも倍加する困難があり、その克捷法」を述べ、論文『一慮』では予想外対応の心得を述べて結論とした。何故予想外かは「幾重にも倍加する困難に更に対露戦の困難が加わる。その本質は予想外にあるから」としている。予想外について一貫して自分の所論を披瀝した。常に戦場に心を置き野外要務令・綱領の体現に務めているからこその所論の一貫、というべきである。

4つ目、全くの生地八甲田山に挑む実行力、未明でも前へ
任務の一つに中央山脈・八甲田山山麓通過の可否を探討し可能なら・・・がある。前者(中央山脈は下士候補生夏期強行軍において行程に組み入れ地図10葉も作成していた。この時の現地での地形観察を今冬の予測に活かした。後者(八甲田山)は夏も冬も足を踏み入れた事のない全くの生地であった。しかし岩木山雪中強行軍の経験と事前調査に基づく予測を今回に活かした。それは田代での目標に行き着かず露営せざるを得ない場合を当初から最悪事態と予測して周到な準備をした事、増澤から田代の間は7人という外の区間に比し圧倒的に多いきょうどうを確保した事及び疲労のぴ-くで難所八甲田山越えに万全を期すという大局観のある準備等に表れている。未だ見えない恐さは残る。しかしやるべきを尽した上は実行あるのみ、顧みず前への精神が際立つ。

5つ目、目的の確立追求に見る実行力ー同時に複数の目的を追求
福島大尉は一つの目的だけの為に行動しない。実行力の特質の一つである。八甲田山雪中行軍での目的には*1中央山脈・八甲田山山麓の探討、*2行動標準の検証、*3所命研究調査、*4安全、*5困苦欠乏に耐える訓練、*6リ-ダ-養成等がある。多くは内容が同じか関連があり、並立が可能で妥当且つ効率的である。り-ダ-の資質として、高い見識とバイタリティーが必須である。しかしり-ダ-の負担は大きい。福島大尉は一身を顧みる事なく旺盛な目的意識を持ってその時その地点でのやるべき事に最善を尽くしている。
目的同志の両立が厳しいものがある。厳しい訓練・探討と安全の両立である。前人未踏の挑戦、極限状況の中で顕著な成果を挙げると同時に1名も失わなかった。両立への強い信念とあるべきをとことん追求する執念及び細心な注意心が際立っている。

3つ、論文『影響』ー応募に見る先読み力と余裕力
第5連隊遭難で挫折感を抱いていた福島大尉は論文募集を知り即座に応募を決める。常に事態を前向きに捉える福島大尉の流儀である。課題『降雪積雪の戦術上に及ぼす影響について』は既にかなりの部分研究済みであった。雪中露営演習や岩木山雪中強行軍と積み上げ、八甲田山では「・・・」を研究調査項目として片腕の田原中尉に与えた。それだけでかなりの力作が作れる自信はあった。しかし福島大尉は自分の成功体験を封印して戦いの要則と方略に力点を置く。降雪積雪の戦いは山地や夜間に似ているのでそれらの要則と方略を準用すべし、と全て戦史・外国軍の典令・格言等で論文を構成した。その背景に梵珠山防御計画であえて研究した山地防御の確信があり、一連の実験行軍等や戦術課題に際し行った正攻法で身に着いた戦術・戦史・外国軍の典礼等の豊富な知識があった。いざ勝負と思った時には既に為すべきを手がけている先読み力やこれが駄目なら他の手での余裕力は実行力として卓抜している。

4つ、論文『一慮』、対露勝利の方略提言に見る実行力ー見識(をつくりあげる)力
論文「影響」で倍加する非常の困難に打ち克たんとする露軍に学び、越え勝っ方略を示した。この段階では諸処に散りばめた見識に過ぎなかったが、この見識の煌めきに参謀本部は注目した。本人は全く意識していなかったが次の布石、論文(一慮)要請になった。

その要請を受け論文「一慮」を作成提出した時期は対露開戦後の出動準備、最も心胆が震える時、と重なった。そのような中、大陸での酷寒での冬季戦は困難が倍加する。ロシアが相手では更に厳しさがます。従って倍加する困難を克しようした上での対露戦勝利の方略を提言した。将校任官以来の露軍についての思いや学びを結実させた見識と八甲田山で究めた困難の見識が合わさった論文である。時期的にも内容的にも見識がなければ書けない論文である。本論文は困難の認識では論文影響と一体と捉える事が適切である。
以上、福島大尉はこの時が見えて学んだ訳ではない。学び続けて最初は単なる広言に過ぎなかったが持論となりついに見識に。時代の要請を受ける迄高めた力(見識力)の発露が本論文である。

5つ、八甲田山から論文「一慮」迄を通した実行力
八甲田山雪中行軍で強く実感した非常の困難を課題募集の機会を活用して理論化し論文「影響」を成した。この中で位置づけた露軍見識が布石となり論文「一慮」を成した。八甲田山で実感した非常の困難を理論化する見識と任官以来継続した露軍研究の見識を論文「影響」で融合させ、そこから論文「一慮」への流れを作り結実した。偶然のチャンスをさも計画であるかのように活かしきった「プランドハプスタンス」の実行力は際立っている。


6つ、黒溝台会戦-【顧みず前へ】で野外要務令綱領を体現しもののふとして死す
黒溝台での死はものを思わせられる。今冬露軍は攻めて来る、備えを怠るなと啓発した。にも関わらず急襲され戦線崩壊の大難戦。この決を着ける場に決戦予備として最後迄温存され続け、戦場投入1時間後に一番前で前向きに倒れた。棄命で黒溝台奪取の勢いを着けた。
我に続け、おくするな。進栄退辱。我が倒れても構わず前へ、の檄の通り、かわりの者が次と指揮を取り、黒溝台に旗を立てた。
ここにあるのは、顧みず前への精神で軍人の本分を尽くす野外要務令綱領体現の姿である。
同時に受け継いだもののふの心、顧みす前へ、の発揚の姿であった。

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