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HP「福島大尉から武人の心探求記念館」更新


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新年度の始まりに期して「福島大尉の心コーナーに福島大尉ならでは関連を投稿した。また武人の心コーナーの武人の系譜に「立花宗茂」を加えた。


福島大尉から武人の心探求記念館:http://www17.plala.or.jp/bujinn-kokoro/index.html

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記事への激励を頂く(続)ー孤闘を読む

31日孤闘を読み終え、読後感をNさんにお送りした。この読破を好機とし、今までの立花宗茂関連の本と照らし合わせ「立花宗茂」観を集大成し、以下の感想を持った。尚次作「福島大尉ならでは」は再々見直しをして深掘りし、30日某誌宛て提出した。4月1日HPに投稿した。


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①関ケ原に敗れた後の浪人生活の4年間に注目した。なぜ彼は浪人を続けたか、家康の許しを待ち続けたか,は宗茂らしさの凝縮である。家康の許しを得ることが真の復活と信じ、自分を信じ、家臣20人を引き連れ、無言のシグナルを家康に送り続けた。また家康は島津義弘や立花宗茂のような真の武将が好きだった。この間をつなぐ人が何人もいた。その代表が本多忠勝であった。勿論ここに至る潔い生き様の財産のお陰だがそれは何か、家康が何故好きだったのかは語らねばならない。

②宗茂の魅力は大義と筋を通す出処進退と家臣あってこそと言う思いから発する公正さ・情愛。その大義・筋を通す心は己の役割の最も望ましいものを篤く追求する心と同意である。以上から責務への専心と家臣を護る最善が難局で家臣も一体となった「共動」となった。これは私が旅を続ける武人の系譜に連なる心である。落ち着いたら宗茂旅を行い、纏める予定(時期未定)。


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兵を護る危機管理を先駆けた武人福島大尉のならでは(NO-1)ー全般

「HP「福島大尉から武人の心探求記念館」更新」稿は私が手探りで探してきた第5連隊遭難に覆われた福島大尉を照らすものに行き着いた、それは表題の福島大尉のならではである、という報告であり、長年探し続けてきたが特に今年に入って加速したことで一気に実現した。本稿に先立つ「年賀状が運んでくれた喜びー福島大尉の覆いを取り払うヒント」稿及び「八甲田山が新視点で記事に、ひと役買った著作と著者」稿も加速に一役買った。次から福島大尉のならではの要点を大掴みシリーズ(6編を予定)で補足し、大筋を理解して頂く資としたい。


参照:福島大尉から武人の心探求記念館:http://www17.plala.or.jp/bujinn-kokoro/index.html

    (福島大尉の心コーナー記載)


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兵を護る危機管理を先駆けた武人福島大尉のならでは(NO-2)ーならではの基本精神

 福島大尉は弘前中隊長着任以来、一連の演習・実験行軍等冬季戦研究を行い、集大成である八甲田山雪中行軍等始めとする実施報告を書いた。またその後から日露戦争までの間に二つの論文「影響」と「一慮」を書いた。それらを通してその中ににじみ出ている福島大尉の卓見を読み解き、基本精神と福島大尉のならでは4つを明らかにした。


基本精神

兵を護るは日清戦争・太平台の戦闘で兵が傷つき手当てが追いつかず雪の中に長時間放置されて凍傷患者が続発し、又なり手が無い下士官の穴埋めのため伍長・上等兵がその職に就いたが能力不足で兵の犠牲が多かった。その現場の只中に小隊長としていた福島中尉は兵あってこその部隊であるのに兵が護られていないと痛感し、兵を護るのは上長(兵の上に立つもの)の義務という地に足の着いた義務感を持ち、冬季戦研究が出来る弘前中隊長時にその思いの実現を図った。上長の義務とは直接・間接の危害から兵の命を守るだけでなく危機にしない、危機から護ることも兵を護る範疇である、そこまで出来て初めて義務を果たすことになる、と信じていた。誰も考えていなかった、と言って良い境地である。





参照:福島大尉から武人の心探求記念館:http://www17.plala.or.jp/bujinn-kokoro/index.html

    (福島大尉の心コーナー記載)


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兵を護る危機管理を先駆けた武人福島大尉のならでは(NO-3)ーならではとは何か

福島大尉の4つのならでは

ならでは①:八甲山雪中行軍で示した危機にしない兵を護るという危機意識(に基づく寒冷・寒地対策)。

 当時危機管理や危険見積もりという概念は無かったであろう。また当時の雪中行軍の記録を見ると危機にしないという発想も乏しく雪・寒気対策のルーチン化(「明治30年代前半の歩兵連隊雪中行軍」(小関論恒雄、医譚第74号(1999.3))がせいぜいだったようで、福島大尉は危機にしないレベルであった。福島大尉は今の時代でいうところの危機管理を先駆けて実践した。最悪(の露営に備える)、(予想外に備えるため悪天候を喜び、そこで得た経験値を)標準尺度48時間50分の不眠行軍倍加する危険・困難の意)という用語使用に危機意識が表れている。

ならでは②:八甲田山雪中行軍で「極意」を得た。

 最悪の露営には露営演習で究めた先行成案、折からの大寒波襲来には雪中露営演習や岩木山雪中強行軍で得た経験値を標準尺度とし、難所・八甲田山越えには当初から最大の山場として(気象と地形と不眠・疲労が重なる)倍加する危険困難の予測(結果的に48時間50分の不眠行軍)が決め手であった。また常に次への余力を持っていた。これらの決め手や次への余力が難しい訓練・研究の極意であり、他者のそれへの道筋となるべきものであった。 

ならでは③:実戦での倍加する危険困難と言う危機意識(に基づく克捷方略)。

 八甲田山雪中行軍での48時間50分(気象・地形に加え不眠・疲労・空腹等が加わる危険困難)を拡充し、(論文二つで)寒地寒冷の実戦では倍加する危険困難(八甲田山のふらふらに敵が加わり、さらに夜間・山地という戦いの困難さが加わる)という危機意識に基づき、損害を少なくして勝つため作戦計画より休養方略優先(論文「影響」)或いは露軍の弱点に乗じる(論文「一慮」)という余力を保持し対応力を高める方略を提言した。

ならでは④:上記3項を含め不易流行への思い。

 雪中露営演習実施報告では要務令改正を提言し、各実施報告・論文で冬季訓練・研究の推進を口酸っぱく説き、課題「梵珠山防御計画」では歩兵操典改正を提起する等不易流行への思いは篤い。



参照:福島大尉から武人の心探求記念館:http://www17.plala.or.jp/bujinn-kokoro/index.html

    (福島大尉の心コーナー記載)


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兵を護る危機管理を先駆けた武人福島大尉のならでは(NO-4)ーならではの特性と意義


ならではの特性

 ならでは①は先駆性、ならでは②は具現性、ならでは③は先見性という特性がある。これらは寒地・寒冷対策に危機にしないという科学的・合理的な考え方と兵を護るという兵あってこその軍という地に足をつけた考え方が一体となって加わる新しさが齎した。ならでは④の不易流行の点から言えばこの新しさは寒地・寒冷の訓練や実戦における対策レベルの深化と危険・困難が倍加する寒地・寒冷の実戦では損害を少なくして勝つ或いは敵の弱点に乗じて勝等戦い方の変化を促す性格(❶)のものであった。同時にこの新しさは軍の体質・在り方を変える性格(❷)のものであった。後者の性格❷については寒地・寒冷という枠を越えた、福島大尉が意図するか否かに関わらず、普遍性があった。

ならではの意義

 福島大尉のならではは兵や部隊の行動に働きかける点で寒地・寒冷対策の深化と戦い方を変える画期を示し、そのバックグランドに働き掛ける点で軍の体質・在り方を変える画期を示す。このならではは第5連隊遭難がかぶされなければ大注目され、心ある人が気づきその有用性に目をつけ、軍に取り入れれればその後の歩みは全く違うものとなったであろう、と言う思いは強い。この画期性は今まで議論されて来なかった視点で、第5連隊遭難に覆われた福島大尉を照らす燈明と言える。





 



参照:福島大尉から武人の心探求記念館:http://www17.plala.or.jp/bujinn-kokoro/index.html

    (福島大尉の心コーナー記載)


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兵を護る危機管理を先駆けた武人福島大尉のならでは(NO-5)ー寒地・寒冷対策の深化等の画期の灯明性


寒地・寒冷対策の深化と戦い方を変える画期の灯明性

 第5連隊遭難直後の児玉陸軍大臣の新たな危機に波及させないという早期収拾方針によって抜本的対策がなされず福島大尉のならでは省みられなかった。抜本的対策とは軍の本質から史上最大の寒波にも対応できる備えであったか、という意味である。又日露戦争での辛勝と膨大な人的損害に対してまた黒溝台会戦で危機に陥ったにもかかわらずこれに対しても真摯な反省がなされず、彼のならでは③は顧みられなかった。奇襲され、判断ミスが重なって第8師団は至る所側背を包囲され戦線崩壊の危機に瀕し、酷寒下に3昼夜連続の交代なしの大苦戦をした。この様相はまさに福島大尉ならでは③の倍加する危険困難、先見性を証する、であった。また第8師団の傷病者の1/3は凍傷であった、と言われる。この先見性は倍加する危険困難を見据えて危機にしない周到な準備の必要性を示している。前稿の特性と意義を踏まえ節目において、寒地・寒冷という条件下での軍の在り方に光を当て警鐘が鳴らされるべきだった、という点に燈明性がある。


ならではの寒地・寒冷対策の画期の光明は福島大尉の資料で福島大尉の真実を語る端緒。

 ①第5連隊遭難以降福島大尉は沈黙したまま黒溝台で戦死し、その後遺した資料は門外不出とされ、福島大尉の資料なしで福島大尉が語られてきた。②また遭難直後はその悲劇性と迫りくる日露戦への準備から本来の軍の在り方等の議論はタブーとされたこと、5連隊と31連隊の対比という枠で福島大尉の表層しか捉えられなかったこと及び嚮導人の手記や新田次郎氏「八甲田山死の彷徨」等から歪んだ先入観と福島大尉像の議論が常にあったこと等から福島大尉の真実探求が足止めされた側面はある。これらの是正策が必要と思って来たので是正の好機が来た、と思っている。


ならではの寒地・寒冷対策の画期の光明は嚮導人や協力者とその子孫の真の誇りを呼び覚ます

 2度目の青森旅で七勇士の碑の近くで出会った嚮導人の子孫の方が暴風雪のなか(田代台の冬は北西の恒風が吹く、を知っているので)高いところにあがり体で風をうけて方向を判断した、と言い伝えられていると語られた。この一言に確かな誇りを感じた。熊野澤の嚮導人7勇士はじめ協力者の真の誇りは第31連隊行軍隊の偉業への貢献・協力にあるはずである。とすれば福島大尉がどのような考えで偉業を為したかという真実が鍵であり、今回見つけた福島大尉のならではがその鍵となり得る。



参照:福島大尉から武人の心探求記念館:http://www17.plala.or.jp/bujinn-kokoro/index.html

    (福島大尉の心コーナー記載)


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兵を護る危機管理を先駆けた武人福島大尉のならでは(NO-6)ー軍の体質・在り方を変える画期の灯明性

 軍の体質・在り方を変える画期の灯明性


 前稿での節目に福島大尉のならではに光を当て警鐘を鳴らすべきだった、と全く同じ思いの燈明性がある。この場合は軍の体質に光を当てるという意味である。危機にしないという科学的・合理的考え方や兵を護るという地に足の着いた考え方を取り入れなかった体質が寒地寒冷という枠を越えて、後の大東亜戦争に至る非科学的・非合理的で無残な戦い、人命・兵站・情報軽視となったのではないか、という思いが強い。この思いは今のところ因果関係解明というよりは後の世を考究し或いは思いをはせる好材料という捉え方に基づく。とすると。例えば福島大尉のならではという優れた見識が何故受け入れられなかったか、国難に対しては国家・国民が沸騰する。その中から優れた見識が生まれる。それを吸収できる組織(体質)とはというような今日的意味を持つテーマが見いだせる、からである。
 



参照:福島大尉から武人の心探求記念館:http://www17.plala.or.jp/bujinn-kokoro/index.html

    (福島大尉の心コーナー記載)


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兵を護る危機管理を先駆けた武人福島大尉のならでは(NO-7)ーならではが目指したもの


精兵と魅力化の追求

 福島大尉は日本軍が露軍に遅れている寒地・寒冷の戦いでよりよく勝つことを狙っていた。そこに向かって福島大尉は下士のなり手が無いという問題を誰よりも深刻にとらえていた。連隊の教育委員として下士の教育責任者の立場を活かし、厳しい場を求め、能力の高い下士候をして冬(岩木山強行軍)も夏(夏季強行軍)もやり抜き、困苦欠乏に堪え進取と自信力を増して東北の兵は精兵であるを証した。それを踏まえ酷寒の大陸での露軍との戦いを想定した厳冬期の山岳通過行軍(八甲田山雪中行軍)に見習士官・下士候主体の少数精鋭で臨み、危機にしない寒地寒冷対策を講じて、一名の落伍者もなく1878年1月の露土戦争における露軍のバルカン山越えを並び越えた。前人未到の成果はなり手のない下士を真に主役にすることで軍の魅力化を図ったもの、という側面もある。折から(明治35年1月29日頃に)行われた師団長会議の議題は「下士の奨励策」で、各師団長はその策を発表することになっていた。天皇陛下のご臨席を賜るであろうその場に成果を届け、お言葉を賜る栄と軍魅力化の一層の推進を図ることが狙いであったことは十分推察できる。行軍出発前の父への書簡「上手くゆけば天皇陛下奏上」はこれを窺わせる。しかし、第5連隊遭難が覆い隠した。



参照:福島大尉から武人の心探求記念館:http://www17.plala.or.jp/bujinn-kokoro/index.html

    (福島大尉の心コーナー記載)


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ルピナス(別名昇り藤)今盛り

一昨年秋から冬播きの種の植え付け時期が遅く、大苦戦し、開花を見ずに終わった。従ってどんな花か未知のままだったルピナスが順調に育ち開花の盛りを迎えた。家庭と畑で3年越しの堪能中。

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