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福島大尉の実行力を訪ねてー何故八甲田山か? ブログトップ

何故八甲田山か?その五 強い心の芯ー真心を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー何故八甲田山か?]


二つ、真心を思う

始めに

もう一つは真心である。私は『八甲田山への道のりその三 人を動かす力』稿で『福島大尉がぎりぎりの状況で隊員を立ち上がらせることが出来た要因は何か?』に対し、『何故?の要因を一つ挙げよ と言われれば真心。二つと言われれば真心と率先陣頭 であると思う』。その真心について『強行軍の成功を真心で願い全力を尽くす。嚮導はどうしても必要だと真心から思う。疲労困憊の隊員に対しては 真心込めて連れてゆきたいと思う。これらの基本に自分に対する誠実さがある。即ち自分が知らない事は知らないと言い、「冒険が過ぎたか』と自問する謙虚さがある。その上でその場しのぎではない真心から発した言葉の重みがある。包み込む力があり、応えたいとの気持ちにさせる。』と書いた。

一つ目、真心の背景

ここで、以上の考えの背景、影響を受けたであろう先人とその思想・人生訓等についてざっと触れておきたい。

一番目、藤田東湖と正気の歌

福島 泰蔵少年(八歳)は赤城神社神官渋沢嘉津間の指導で藤田東湖の正気の歌を筆写・清書している。尊王を口にする幕末多くの志士が愛唱したと言う。 正気の”正”は純正、即ち混じり気のない正しさを意味するらしい。とすると少年の頃すでに精神の核に混じり気のない国を思い国に尽くす心が植えつけられていた。しかし、成長した福島泰蔵は藤田東湖について触れていない。何故であろうか?

二番目、勝海舟と赤心

士官学校生徒時代、勝海舟の知遇を得て、交友を深めた、このことは「軍人 福島泰蔵の歩み」の稿で述べた。少し補足すると、士官学校生徒のうち志のある者は「偉人・先人に大いに教えを乞うべし」と多くの門を積極的に叩いた。福島生徒もその一人。又社会も生徒の振る舞いを許容した。

その勝海舟が藤田 東湖を評した言葉がある。「藤田 東湖は、おれは大嫌いだ。あれは多少学問もあり、議論も強く、また剣術も達者で、一廉役に立ちそうな男だったが、本当に国を思うという赤心がない。もしも東湖に赤心があったら、あのころ水戸は天下の御三家だ。直接に幕府へ申出づればよいはずではないか。それに何ぞや、かれ東湖は、書生を大勢集めて騒ぎまわるとは、実に怪しからぬ男だ。おれはあんな流儀は大嫌いだ。」(氷川清話)

勝海舟との交友の中で当然藤田東湖の話になり、前記「赤心」を聞いたであろう。又、勝海舟の生き方、幕臣ではあるが、幕府の私を捨て、自己の私を捨て、天皇・国家のために働いた、にも強い影響を受けた、であろう。福島大尉は終生勝海舟を尊敬した。仲間内の勝海舟没後三回忌が弘前で行われた際、福島大尉はこれに参列、漢詩を詠んでいる。この事は次稿から始める旅で触れたい。

三番目、西郷隆盛と南洲翁遺訓

士官学校福島生徒は在学中に永田 永孚の纏めた西郷隆盛の『南洲翁遺訓』を筆写している。

その中の一節『命もいらぬ名もいらぬ、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならては艱難を共にして国家の大事は成し得られぬなり。』でいう『大事をなすため私を捨てる心』にも印象を強くした、であろう。

勝が西郷を評して言った『その後西郷に面会したら、その意見や議論はむしろおれの方が優るほどだったけれども、所謂天下の大事を負担するものは果たして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ」(氷川清話)に代表される勝海舟の西郷隆盛観は軍人福島泰蔵の逆賊西郷隆盛?観(福島泰蔵の”義”観)の拘りを解いた、であろう。

この筆写を勧めた人物がおり、福島生徒は従った。又勝との交際、教えもあった。しかしだからと言ってすべてを許容したわけではない。西郷隆盛について、福島泰蔵の生涯の中で、二度とその名を見つける事を出来ない、がその答えであろう。

以上である。まだまだその名を挙げなければならない人が多いが、次への展開上これくらいにしておきたい。
又、福島大尉が赤心なる言葉を使ったか否かは未確認であるが、気分を表す意味で今後も使いたい、と思う。

二つ目、福島大尉の真心の特性

前述の”始めに”の真心の続きに戻る。この時の真心は二つの特性がある。一つ目は福島大尉が謙虚・誠実で居れるのは何事にも”私心を捨てている”からである。私心を捨てているから嚮導が本当に必要だ、全員を連れて行きたいという気持ちが曇りなく伝わる。二つ目は命令が効かないぎりぎりの状況でのやり取りである。この時リーダーの本性が現れる。極限状況では部隊の意地や自己の私心などを捨てきって、本当に国家を思う赤心や部隊、部下や嚮導(を依頼する相手)に本気で向き合い、本気で思う真心がないと人は動かない。

福島大尉には私心を捨てる気持ちと本心から国家を思い、相手を思う気持ちが強くある。勿論行動を伴う。

終わりー強い心の芯

福島大尉は”義”の衣の中に”真心”を持っている。二層の芯ー外芯は義の心、内芯は真心ーで強い三つの心をたくましく、しなやかに支える。

以上で何故八甲田山か?の山を越えた。この稿は平成23年11月2日に書き終えた。本シリーズを11月4日~5日の群馬県福島家訪問前に終稿出来ほっとしている。私の中にどこか安堵感がある。暫し、書き飛ばした心残りの「よろく」旅を楽しみたい。

このシリーズ終わり
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何故八甲田山か?その四 強い心の芯ー”義の心”を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー何故八甲田山か?]

一つ、義の心

始めにー天杯との出会い

平成23年7月5日 群馬県伊勢崎市境平塚(福島大尉の生家、旧新田郡世良田村平塚)の福島家で親族が揃い福島泰蔵大尉の遺品の確認と今後の活用・保管などについて話し合いが行われた。106年余、代々蔵の中に保管され、門外不出の遺品。明治35年1月に起こった青森第五連隊210名の遭難の陰にうずもれた偉業、福島家の誇りがいつの日か陽の目を見る時が来る。それまでは門外不出との父泰七の言いつけを守って来られた。今は当主国治氏がその大任を負うておられる。そのご労苦の大変さについて、私の感じは訪問を重ねる度に強くなって来た。この日私は直孫の倉永幸泰氏に同行し、同集いに立ち会った。

倉永幸泰氏は86歳、福島大尉の遺品の整理&活用法の確立が人生最後の大仕事と篤く語られる。諫早市多良見町にお住まい。福島泰蔵大尉の予想外を訪ねる旅の途次(平成20年7月18日)、お尋ねした。お会いした瞬間から直孫としての誇りと偉業を世に広めたいとの熱意に心打たれた。それに加え目の前の福島大尉の息遣い・筆使いそのものの貴重な資料の数々に心奪われた。爾来訪問は九度に及ぶ。私の旅は格段に充実した。その広がりで訪群馬も四度になる。

倉永氏とのお付き合いは二度目の青森取材旅行(前記予想外を訪ねる旅、平成20年6月17日~19日)の際、不思議な出会いで間山氏(八甲田山雪中行軍時の弘前歩兵第三一連隊の行軍参加隊員である間山伍長のお孫さん)に弘前をご案内願った。その間山氏のご紹介が契機である。

倉永氏との出会い以降、『福島大尉の予想外を訪ねて』が『修親』に掲載され、その記事が更なる展開を呼んだ。陸上自衛隊幹部候補生学校の(資質教育の教材と活用したい)思いと遺族の(同校への遺品を寄贈したい)思いが重なり始めて前記遺品確認・話し合いの運びとなった。

福島家の蔵の中の遺品を拝見したとき、保管状態の良さに驚いた。福島家当主は親族の協力を得て代々本気で言いつけを守ってこられた。福島泰蔵を一族の誇りに思う気持ちのなせるところと篤い気持ちがこみ上げてきた。

品々の中に木箱に納められた白天杯があった。”義勇”の銘。日清戦役の際、広島大本営で天皇陛下拝謁に際し拝領した恩賜の品に間違いない。「御賜杯可以為家宝者也」の蓋書きがある。”家宝”とせよとの福島大尉の直筆、感激の大きさが伝わる。


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今私は「強い三つの心」の芯になるものは何か?を思っている。二つあるが、本稿では、そのうちの1つ、義の心について述べたい。

義とは①五常の一つ、「人として守るべき正しい道②五倫の一つ、君臣の間に守るべき正しい道(以上広辞林)である という。福島大尉には三つの義の心がある。

一つ目、天皇陛下や国家に対し忠義を尽くす心

これは既に述べて来た通り、恩賜の天杯(義勇の目銘)に感激し家宝とせよ、と記す心が雄弁に物語っている。

二つ目、雪国衛戍部隊中隊長として冬季行動標準確立を「義務」として全力を尽くす心

報告岩木山において、当第三一連隊は本州の東北端に位し冬期作戦研究に就いては実に先天的の義務を有す、と述べている。

「義務」の言葉に福島大尉の義の心を感じる。国難対露戦勝利の為、行動標準を作り全軍に広めなければならないと考えたら、そのためのアプローチを自ら発意し(企画し)、それを実行するのが自分の務め、守るべき正しい道と信じて全力を尽くす。そう考えるから義務と言う言葉を使った。雪中露営演習、雪中岩木山強行軍、夏期強行軍の困難に立ち向かう姿。実験の仕上げとして非常に困難な八甲田山に挑む姿にそれを自分の務め、守るべき正しい道と信じる”義”の心を感ぜずにはいられない。

三つ目、同じく雪国衛戍部隊中隊長として兵士の命を守る事を「責任」として全力を尽くす心

「八甲田山への道のりその一 最初は雪中露営演習」で以下の事を書いた。繰り返しになるが再掲する。

歩哨の位置毎の温度を計り、交代時間の長短を験し、『歩哨が依頼物なく風雪劇しき処に長く停立するときは番兵廠舎または哨兵坑を作らざるべからず。歩兵工作教範に哨舎の寸尺だに示さざるは何そや。』と厳しく提言している。これを一例として各研究事項は兵卒を大事にする眼差し・愛情、兵に役立つ(実用的な)実験をする意欲に溢れている。

その理由を報告岩木山では以下のように述べている。
我が国は漸く昨明治33年2月野外要務令を改正、冱寒に対する諸種の事項を精密にし以て冬季演習の必要を認められたり。要するに一層冬季演習に重きを置き寒気及び風雪に対し兵卒を保護し得べき方法を験知し吾人の責任を果さざるべからず。

私は兵卒を保護すべき方法を験知する事が吾人の「責任」と言いきっている事に義の心を感じる。

其の気概の元に福島大尉ならではの切迫感がある。

明治33年2月の野外要務令改正は、福島大尉からすれば兵卒保護の観点からは不十分と映っていた。即ち日清戦役では兵卒は命を軽んじられたといっても過言ではない程の悲惨な体験をした。このままでは同じ轍を踏む、そういう切迫感があった。だから雪中露営演習を発意し提言した。行動標準を確立し、全軍に広め(全軍の)兵卒の命を守るのは自分の務め、行い続けることがやるべき正しい道であると信じている。

以上、三つの義の心が八甲田山に挑む強い心の芯、”義”の心である。ここで切迫感を抱いた日清戦役の体験について触れておきたい。

四つ目、切迫感を与えた日清戦役の体験

一番目、深刻な直接戦闘体験

明治28年2月24日太平山の戦闘(雪中戦闘)において、寒気厳しく交戦日没に亘る。且つ戦線広大の為衛生隊の収容進まず、夜半まで患者は積雪上に横たわるのみであった。1日で総数4200名の凍傷患者発生。師団兵力の35%。あまりに多く野戦病院ではすべてを収容出来ず各部隊毎の休養所を設けてしのいだ。福島中尉は小隊長としてその現場の只中にいた。

作戦・戦闘環境の凛冽さ

内陸部は摂氏零下40度の寒気・寒風。輸送能力が弱く、弾薬や糧食補給には常に苦労。兵は空腹と栄養失調で、凍傷や脚気を助長。兵卒の防寒用被服装具の不備劣弱。

二番目、全般の凍傷患者発生状況

戦役間の凍傷患者総数は12616人。最初の患者発生は明治27年11月第一軍の草河嶺付近戦闘。第五師団は約400名の凍傷患者、内170名は重傷。12月13~14日第五師団の鳳凰城付近に於ける戦闘で、547名の凍傷患者。当地区戦闘員の四分の一相当。最も多くの患者が発生したのは明治28年2月第二軍の太平山付近の戦闘で、約4000名(内軽症者2000名)。

(参考)立見師団長の深刻な直接体験
福島大尉と立見師団長の心の交流を思う時、両者の日清戦役の深刻な体験を抜きにしては語れない。従って立見師団長の経験も参考として挙げておく。
明治27年11月29日~30日鳳凰城付近の戦闘において草河城付近~黄嶺子付近への50km行軍で極寒・積雪の中、数条の河川渡渉によって被服が水冷凍結し、兵が甚だしく疲労。続く戦闘で、一中隊で80~90名の凍傷患者発生、定員222名の4割。
同年12月2日歩兵第二二連隊は凍傷患者150名(内歩行に堪えない者60名)、歩兵第十二連隊で300名(内150名は全く休業)。

終わりにー次回は真心

「雪中露営の事天聴に達す」と題して詠んだ漢詩の中に”真心”の言葉が見える。

弧身為国処艱難【弧身国の為艱難に処す】行役未希容膝安【行役いまだ膝をいれるの安きをねがわず】幸有愚衷通鳳闕【幸いに愚衷の鳳闕に通ずる有り】君王乙夜憐吾寒【君王乙夜吾が寒を憐れむ】

鳳闕=宮城 乙夜=午後十時転じて天皇の書見時刻 愚衷=己の心の謙称おろかなまごころ

福島大尉は彼が信じた”義”の道を只管歩み続け、この詩を表した。その中で”義”に関する言葉と共に表れた言葉は”真心”であった。強さを支える何か、”義”とは別の何かが思わず迸り出た。次回は真心を思う。

参考・引用図書:明治27,8年戦役 第2,5,6巻 参謀本部編。郷土兵団戦史 第1巻 第1師団。近代日本戦争史 第1編 日清日露戦争 同台経済懇話会編。日清戦争原田 敬一 吉川弘文館。軍国50年史 帝国軍友会 田辺元二郎。福島大尉の人間像 高木 勉著。

この稿終わり
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何故八甲田山か?その三 露軍を”超えねば・・”の心 [福島大尉の実行力を訪ねてー何故八甲田山か?]


三つ、露軍を超えねばならない

始めにー福島大尉の露軍研究の視点

福島大尉が露軍研究にあたり、常に保持した三つの視点がある。「露軍に倣い肩を並べる」・「露軍を超える」・「露軍に勝つ」である。「超える」、「勝つ」の気持ちが篭っているのは開戦後に書いた論文一慮でしかお目にかかれないのでそこでの考察に譲るとして、本稿では前二者について考える。

一つ目、露軍に倣い・肩を並べる

一番目、露軍を本気で見習え

露軍は冬季訓練を他国に先行し、且(将来の戦に備え)更に熱心に励んでいる。日本はもともと水をあけられているのだから、普通にやっていては追いつけない。露軍に見習って良い所はどんどん取り入れるべし、ボーッとするな、との意見を随所に記している。

露国は戦闘教練に冬季を利用する企図に於いて殆ど他の邦国を凌駕す。吾人の目に映り、耳にはいる冬期の研究事項はすべて露国より来るを知る。この如く吾が西隣の国が冬季演習を盛んに挙行し天候の峻酷道路の険悪等に慣習して之に耐ゆるの方法を講究するを思えば吾人あに寒夜灯りを守るのみにして可ならんや(報告八甲田山)。

将来寒国と戦はんには軍隊の訓練においても出師の準備においても沈思黙考せざるべからず 我未来の敵(註露国を指す)は一層深く此の点に熟慮し天候の峻酷道路の険悪を顧みす将校の教育に兵卒の訓練に勉めさると云う事なし吾人も亦思はさるべけんや。(報告八甲田山)

福島大尉はワルシャワ軍管区に注目し、特に以下の二点を注意喚起している。

二番目、ワルシャワ軍管区に注目

その一、行軍と機動演習に慣れよ

ワルシャワ軍管区に於いては各兵に毎月二回以上の行軍をなさしめ其の終末には機動演習を行わしむ。(報告岩木山)

その二、軍靴の研究調査は緊要

又1896年2月露国ワルシャワ軍管区において各地の軍靴20足を集めて実験。わが国においても充分な研究をなして以って露人に先んせざるべからず(報告八甲田山第14行軍実施により得たる結果第18)。後に福島大尉は自ら、明治37年1月、冬靴の試験を上申し許可を得て行っている。

三番目、露軍の典礼に注目

露軍の典礼を調べ、行動標準などの検討に活用している。
露国勤務教令には寒中糧食を増加して軍隊を保護し、危害を避けるの法を示す。(報告八甲田山 行軍実施により得たる成果第17)

二つ目、超える

一番目、露軍のバルカン踏越と攻勢に注目

福島大尉は論文影響や同一慮において、露土戦役(1877年12月~78年1月上旬)における露軍のバルカン山を踏越した攻勢について、露軍は冬季戦に於いて守勢を採らない、厳冬期に嶮山を通過した露軍の事を思えば(露軍と戦わんとする)我らは如何なる大雪嶮山といえども出来ない事はないし、やらねば勝てない、を覚悟すべし。従ってこのバルカン山に相当する国内高山で訓練を積み、自信と備えを持たねばならない、との持論を展開している。

二番目、国内高山での訓練との対比を念頭に置いた観察

論文一慮に於いても多くの紙数を費やして(b4罫紙100枚約1万字)、露土戦役から多くの事例・教訓を抽出している。中でも独国の佐官「プアイル」が観戦武官として露軍「イエレッキー」歩兵ミルスキー公の本部付きとなり記した手記から1877,78年戦役冬季に於ける状態及び実験(露土戦役、78年1月5日からの「バルカン」越山の状況等)を掲載し詳細な観察を行っている。

具体的には高地2700m、気温列氏零下20度(摂氏零下27度7分)、寒風凛烈、深雪・凍結雪路困難(踏雪困難・崖下への転落危険)、夜間露営、「サン、ニコラウス」(バルカン山の最高峰)山上での寒気の危害状況等がある。国内高山での訓練との対比を念頭に置いた観察の意味合いも当然あった。

終わりに

先ず謙虚に露軍に注目する。貪欲に吸収して倣い・肩を並べる。露軍のバルカン山越えの厳しさに相当する(八甲田山・中央山脈)山岳踏破を行い、我が国陸軍の行軍力・耐乏力を発揮して露軍を超えねばならない、を思うに至った。
そして三つの心が重なって、八甲田山への思いは愈々強くなった。

この稿終わり
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何故八甲田山か?その二 予想外と困難の極致に挑む心 [福島大尉の実行力を訪ねてー何故八甲田山か?]


二つ、予想外と困難の極致に挑まなければならない

始めにー本稿の狙い

冬季行軍の難しさの根源は予想外である、と言い切っている。又予想外の訓練は喜ばなければならないとも言っている。その根底にある考え及びその目線の先にあるものを明らかにしたい。

一つ目、冬季行軍が何故難しいのかー予想外だから

福島大尉は冬の戦い・行動・訓練では何が起きるか、どういう状況になるかを予想出来ない。その予想外は困難を伴い、予想外の対応を迫られる。との意を述べている。予想外について、関心が高く、各種報告や論文中に多く記述している。それを拾ってゆく。

冬季行軍の至難なることは平時と戦時を問わない。その揆は同一で実に予想外にあり、今回の演習の暴風雪は意外の困難を与え、予想外の実験をすることとなった。前日来の気象に徴するに夜半は風雪にして昼間は快晴なりしが故に今日も亦黎明刻を移さば晴天なるべきことを予想せり然るに全く予想に反し・・(報告岩木山第二 部隊行軍の実況)

二つ目、予想外の厳しさを喜ぶ心境

雪中演習・実験は予想外の厳しさであった。福島大尉は願ってもない・・と喜こんだ。

一番目、始めから願っていたところ、このような厳しい場に出会い、二度とはないであろうから幸運である、と喜んだ。

今回此の演習を実施するに當、天候の極めて不良にして寒気の最も凛冽ならんことを希望せり・・・・・
幸いにして演習の当日は寒気殊に烈しく疾風肌を*き飛雪面を撲ち行人絶えて道路没し土人の所謂大吹雪の日に遭遇し一載の中復再びすべからざるの好時季を得たり (報告雪中露営 冒頭)

二番目、訓練の価値が増える、と喜んだ

行軍地の景況及び其の当時に於ける天候の関係は実に意外の困難を与え非常の労力を要し実に予想外の実験をなせり。しかし、却って希望する所にして暗に強行軍の価値を増大すると喜べり(岩木山第二 部隊行軍の実況)

三つ目、何故予想外、困難を望むのか

福島大尉は野外要務令の綱領冒頭の「軍の主とする所は戦闘なり故に其の凡百の事皆戦闘を以て基準とすへし」にある、百時皆戦闘を基準とすべしを忠実に体現して服務した。戦闘場面で通用するかどうか、その為に訓練はどうあらねばならないかを基準としていた。その考えに従うと前掲の「冬季行軍の至難なることは平時と戦時を問わない。その揆は同一で実に予想外にあり、・・」には重要な意味がある。「戦時における予想外・未知の困難をなくす、・・」、「このため平時の行軍などでは好んで予想外に遭遇・・」が福島大尉にとって最重点の課題となり、信条となるからである。、

その発露が以下の言葉。

一番目、戦時における予想外・未知の困難をなくす為に・・・

福島大尉は平時の訓練(研究)における雪中露営の場合における施設構築方法選択の基準を「平時の演習においては最も困難なる場合を予想して研究し、戦時に際し、成るべく未知の困難に一も遭遇する事なきを期す」、と明確にしていた。

雪中における掩蔽物の構築には三種の方法あり、単に氷片雪塊を利用する場合、是に僅かに補助材料を用いる場合、多くの露営材料を用いて行なう方法。小部隊はそうでもないが大部隊の地形適応困難であり、平時の演習においては最も困難なる場合を予想して是の研究をなさざるべからず。要するに戦時に際し、成るべく未知の困難に一も遭遇する事なきを期すればなり。依って今回の演習にあっては単に雪塊による作業と又は之が補助材料を僅かに用いて行なう作業とを実験せり(報告雪中露営 二雪中掩蔽物構築)

同趣旨の記述が(報告八甲田山 結論)、(論文影響 一般の要旨)にもある。

二番目、困苦欠乏などの困難に耐える力は我が陸軍の行軍力、名誉を表す。

1870年12月16日オルレアン付近の戦闘における普第九師団が33時間に約80kmを行軍した例及び1895年露歴10月12日オデッサ駐屯の猟兵分遣隊が23時間に76km行軍(平時)した例との比較で、第一部隊は22時間で100km。第二部隊は21時40分で53kmであった。

我が両部隊は行軍力及び地形・気象要因等による困苦欠乏に耐える力(耐乏力)が遥かに右にある。第一部隊は行軍距離において十分雪中強行軍、第二部隊は兵器及び背嚢を携帯する時間の長さ即ち疲労に堪え得た時間の長さ【ゴルツの格言を引用】の点で雪中強行軍と言える。(以上報告岩木山第2 雪中の行軍力)

四つ目、福島大尉の予想外対処の信念

一番目、周到な準備と注意

予想外の事変を違算無く処置しうると否とは素より人々の天賦に由るべしと雖も亦其の平常における準備の良否と注意の深浅とは少なからざる関係を有するものなること疑いなかるべし (論文一慮10章 結論)。とある。
従って、福島大尉の予想外対処の流儀は考え得る限り周到な準備をし細心の注意をする、にある。

二番目、冬季演習は天候を選べ

冬季演習は頻繁に之を行うよりも施行の度を適宜に定め天候を択ぶこと緊要なり。如何となれば温和な日に施行する演習は毫も他の時季に於ける演習と異なる所なければなり(報告岩木山 研究せし事項の要旨35)。とある。これは彼が今までの厳しい状況を喜ぶ事で明白である。

三番目、研究・調査・実験などの地道な実践による指揮官の力の向上

降雪の時、積雪の地における軍隊の受ける影響を仔細に研究し、既往の戦史に照らし、之を先人の格言に鑑み、並びに各国の典礼に照らし且つ実験の功を積み以って戦時に際し、成るべく自己の経験に上らざる未知の困難に遭遇する事無きを期せざるべからず(論文影響 一般の要旨)、とある。これは将に彼が”正攻法”で軍務や自己の研鑽に取り組み、何事にも持論によって自己の見識を高めて成長・進化せんとする姿を表している。

終わりに

すべては戦場での予想外をなくす、が基本である。この為に平素、厳しい場を求め厳しい困難な訓練を真剣に行い、予想外の経験を多く積むことが緊要である。だから福島大尉は最も厳しい場と厳しい状況が待つ八甲田山へ挑み、大陸での国難日露戦勝利に一身を捧げる覚悟なのだ。

この稿終わり
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何故八甲田山か?その一  ビジョン追求の心 [福島大尉の実行力を訪ねてー何故八甲田山か?]

始めにー八甲田山へ挑む三つの心

八甲田山は青森県中央部に位置する標高1500m級の10の高峰の総称。厳冬期は北方・陸奥湾・日本海の三方向からの寒風が八甲田山でぶつかりあう、その寒風吹きすさび吹雪常態の厳しさは想像外。豪雪及び気象の激変と相まって人を寄せ付けない。青森(田茂木野)~増沢間(40km、中間の田代に一家三人だけ)は冬季、全く人跡途絶える。土地の人が魔の山と恐れる厳冬期の八甲田山。荒れた八甲田山はこの世のものとは思えない。

福島大尉は実施報告、論文等の著作の中で断片的ではあるが自己の所信を披歴している。それらを集めるとある傾向を持った思想ともいうべきもの、本シリーズの答えが浮かび上がる。三つある。ビジョンの追求、予想外・困難を敢えて求める、露軍を超えねば・・である。本稿はその一番目のビジョンについて、思う。

一つ、ビジョンを確立し、その実現を追求

ビジョンとは国難対露戦の戦い方とそのための訓練のあるべき姿のイメージである。雪国に衛戍する第八師団の義務と固く信じて、全軍に広めるための冬期行動標準作りを懸命に模索する過程に生じた必然であった。

一つ目、戦い方のビジョン

ビジョンの要素毎にその考えを拾ってゆく。

一番目、冬季休戦は今の戦いにそぐわない

冬季休戦の考えが時代遅れである事を各実施報告などで以下のように(要旨)述べている。
往昔は冬期を以て作戦に不利の時期であるとして両軍共に冬営を計画し戦闘を休止する事を普通としていた。従って冬季の訓練・演習をそんなに重視してこなかった。しかし、(兵器・戦術の進歩により)今は冬季も戦わざるを得なくなった。従って、冬季の積雪冱寒を積極的に利用しなければならない。(論文影響)

二番目、露軍は冬攻めてくる

露軍佐官の報告や将官の説話を引用して露軍は冬戦うの企図がある、を紹介している。
露国の一佐官は軍隊を支那に進入せしむへき最良の時期は冬季に在ることを以ってし其の意見中に付記して積雪地面を蔽うが為に高粱その他植物の障碍なしとし之を自国参謀部に報告せしことあり・・・(論文影響)。
北支那地方に於ける作戦は何時を可とするやの問に対しウオカック少将(註露将)は答えて「直隷の平野に於いて戦争するに最好時季は冬季なりとし其理由として第一に河川の氷結を利用することを得る(以下略)」(露国に対する冬季作戦上の一慮(以下論文一慮))。

三番目、戦場は大陸

次の戦いの戦場について、考えるところを以下のように述べている。
将来の戦場は自国にあらずして多くは其の寒国たるを予想せざるべからず(報告岩木山)。
冬季に於ける野営において「将来我大軍が松花江並びに黒竜江の河孟に沿いて前進するに当たっては完全なる宿営をなす能はさるは又已むを得ざる所なり(以下略)」(論文一慮第5章)。

四番目、決戦(速戦速決)、攻撃主義

旅順・大連の北には遼河平原ー満州が広がり、東清鉄道でシベリア鉄道・ロシア本国へと続く。露の野望は満州にあり、野望を砕くには伸ばしてきた手をそこで叩く。シベリア鉄道の延伸も近い、その前に叩かねばならない。その為には決戦(速戦速決)しかない。しかも外征軍である以上敵を求めて決戦すべし。制海権や後方兵站の負担からもそうすべし。冬に入ったからと言って、休んではおられない。大陸は広く、逃がしたらどこまでも追わねばならない、エンドレスの戦いに引き込まれてはならない。
 
五番目、戦いのビジョン纏め

要するに国難対露戦は大陸で冬季・酷寒といえども戦う。敵を求め檄穣する短期決戦を追求しなければならない。

二つ目、訓練のビジョン

一番目、その背景

福島大尉が諸報告や論文『影響』や論文『一慮』で述べている事を拾いながら、彼が考えている背景を明らかにしたい。

本州の東北端にある第三一連隊は冬期作戦研究を行い、これを全軍に広める先天的義務がある(報告岩木山)。とある。従って冬季行動能力向上は急務。雪国衛戍の師団だけが戦うのではない。暖国の師団も冬戦わなければならない。暖国の師団は冬季行動能力錬成の厳しい訓練はできない。だから第八師団が先頭に立って行動標準を確立しなければならない。

我が国は漸く昨明治33年2月野外要務令を改正、冱寒に対する諸種の事項を精密にし以て冬季演習の必要を認められた(報告岩木山)、とある。従って、一層冬季演習に重きを置かねばならない。日清戦役は過酷だった。凍傷で苦しめられた。大陸の酷寒は桁違い、同じ轍を踏んではならない。

露国は戦闘教令に冬季を利用する企図に於いて殆ど他の邦国を凌駕す。就中ワルシャワ軍管区に於いては各兵に毎月2回以上の行軍をなさしめ其の終末には機動演習を行わしむ(報告岩木山)。とある。従って、負けてはおれぬ。我こそ同種演習を先んじて行うべし。

二番目、大陸(満州)での対露冬季戦を想定した訓練をすべき

大陸の酷寒での戦闘の厳しさは想像を絶する。この為、これに相当する厳しい場と厳しい訓練が必要。しかし国内ではなかなか得られない。八甲田山や中央山脈の厳冬期を撰び、厳しい山岳気象に打ち克つ連続山地・長途強行軍を行わねばならない。

三番目、そのねらい

本当に厳しい場を求め、厳しい状況に挑戦をする。
・・その事で本物(大陸の酷寒に相当する)の行動標準を確立する。
・・その事で多くの未解明な事項を一気に解明する。冬季行動標準作りは未だ緒に就いたばかり、調査し解明しなけばならない事は多いが、悠長に構えている暇はない。
・・その事で準備を周到にして臨み、訓練の成功と事故無しを同時に追求する。
・・その事で第八師団がこの種訓練の嚆矢となって勢いを作り出し、且行動標準作りの先頭に立つ。
・・上記各ねらいを追求・達成して雪国衛戍師団の義務と隊員保護の責任を全うする。

終わりに

福島大尉のビジョンには二つの意味がある。一つは誰よりも先を見て向かうところを描く先見力そのものであり、今一つは自己の内にある篤い思いを形にし、具体化し、実行に移し、やりきる。その大元である目指すところを描く力である。後者の実行(力発揮)は未だ中途の段階である。どう具体化し、実行に移し、やりきるのか、を八甲田山で良く注視したい。

この稿終わり
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