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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその十四 論文「影響」総括 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

事を為すリーダーの視点で論文「影響」を総括ー塾者への歩みに繋がったものを拾う

始めに―為した事の意義

本稿はブログ「「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」に於いてわれ虚名を釣らず その一、予想外の副官就任」~「論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その七 立見師団長再び登場」に対応させている。

”為した”事の意義

懸賞課題に応募し、優等賞を得、続く収集論文にも引用された。
優等賞を得た論文では八甲田山雪中行軍には一切触れず、戦史・諸外国の典礼等及び戦術書のみで論述。内容的には冬季に於ける戦いの原則的事項を抽出し、その応用方略と困難克捷の方略を主に論述した。偕行社記事320号(明治36年8月)及び第321号(明治36年9月号)に掲載され、そのユニークな視点は際立ち、「今や冬季は休戦ではなく、戦い継続が常態」、「冬季戦いの原則的事項とその応用方略」等啓発書としての意義は高かった。

収集論文にも優等賞論文等から多く引用等され、収集論文が持つ陸軍の冬期訓練の参考(準拠)書作りに結果的に参画した。本来福島大尉が目指した冬季行動標準作りー第五連隊遭難で頓挫したーが形を替えたものであった。

以上から、為した事の意義は啓発と冬季訓練の準拠つくり(参画)の二つ。その意義は熟者としての評価に繋がる。それを齎したものは4つ、①今、やるべき、と信じる事に挑む。②潮流に乗り、目指していた処に近づく。③次への展望を拓く布石。④理解者立見師団長の存在。

一つ、今、やるべき、と信じる事に挑む

やるべきと信じる事に挑むスタイルには3つのパターンがある。

一つ目、制約の中で、やるべきを見出す積極性ー最善と創造

第三十一連隊の行軍隊は第5連隊遭難の陰に隠れ、福島大尉は自らの行軍について語ることをせず、沈黙した。偕行社記事308号(明治36年2月号)で本懸賞募集を知った福島大尉は即座に応募を決心した。答解は当然応募者が自らの体験を基にする事を前提としていた。八甲田山雪中行軍について語らない、で書く以上大きな不利はあったが、それなりの成算はあった。冬季行動標準の基になる戦い方の理念が野外要務令では示されていないので、そこを問題意識として降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響を考えて来た。誰よりも先に。

その成案は論文内容の肝ー①冬季戦は夜間と山地の戦いの原則に似たり、その克捷方略はこれこれ、である。②幾重にも重なる困難が特性であり、その克捷方略はこれこれ、である、ーにある。その肝は持論と正攻法の研鑽で積み上げてきたものであり、目の付け所の奇抜さを表している。同時に与えられた条件の中で自分がやるべきと信じる事に敢然と挑み、最善を尽くす。全軍の緊急課題に役立つと信じる事に、私心を捨て、結果を恐れず挑む姿の”体現”であった。

二つ目、前向き、俺がやらねば

この時期、弘前将校団のため、弘前偕行社に図書館設置の発起人として奔走し、設立に動く。

明治36年4月、図書館設置の儀を旅団長名で通報。図書館を弘前偕行社内に設ける事で偕行者幹事長閣下(立見師団長)の御認可を受け、在弘前各部隊将校にご協賛を得たい、との趣旨。

仏国では図書館なるものがあり、非常に有益、との報告にならい、地方衛戍将校の勉学研鑽の一助と為す。この為将校は各自俸給の300分の1を月々拠出し、これを1年半積み立て、明治37年中の完成を目途に、施設及び図書購入に充てる。

施設は偕行社の施設内とするか別に空き地に立てる。施設内なら、施設費が浮き、大部分図書購入に充てられるのでも申し分なし。図書館建設計画は工兵将校に依託、建築は軍隊「大工」自営。

揃える図書は一般軍事書類、戦史及び緊要軍事書、地図、兵器及び所要地図、在弘将校の作業書類、雑書・図画、外国図書・新聞雑誌、撃剣道具、軍以上緊要な器械、書籍棚・机・椅子・黒板等。なるべく出費が嵩まないよう偕行社等に協力依頼し、又将校の拠出を歓迎する。

師団長の認可をとりつけ、非常に高い志で将校は勉学研鑽の場が必要と前向きに発起人として動く。特に、初級将校時代の軍事参考書等の負担は並み大抵ではなかったので、初級将校が共有する形があれば有益、との思いが強かったのだ。

最初に賛同し行き足を着けてくれたのが永沼騎兵中佐。後に日露戦争で放胆な騎兵の敵後方擾乱作戦を敢行し、大きな成果を挙げた、人である。

写真(下、前景)は明治37年に建てられた弘前偕行社、現在は弘前厚生学院記念館内に現存。偶々3度目の青森(h24.9.20)訪問の際、弘前駅前の案内板で偶然目にして訪れた際のものである。


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偕行社内には図書室(写真下)が設けられていた。福島大尉の希望が尊重されていた訳でこれが確認出来たのは何物にも代え難い喜びであり、収穫であった。

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最後に、突然の訪問にも拘らず快く案内していただいた・・・氏に篤くお礼を申し上げる。又このように立派に保存運営して頂いている弘前市教育委員会と弘前厚生学院記念館に敬意を表したい。

三つ目、あるべきから外れ或いは為すべきを為さない、を悪む

あるべきから外れる、を許さなかったt旅団長への極諌(参照ブログ「論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その三、極諌ー分った!立見師団長の本心」)。為すべきを為さない、を許さなかった桂陸軍大臣来弘前時の営庭に於ける中隊教練(参照ブログ「八甲田山への道のりー基礎固めの中隊長勤務その一)。何れの行動も私心のない本気が特質である。前者は免職も覚悟するが、t旅団長は予備役編入、本人は御咎めなしの山形中隊長への転属、という結末。立見師団長は最後の最後で福島大尉への思いを露わにし、二人の関係は新たな次元に入る。本気が立見師団長の本心を引き出した。

後者は大臣視察を敬遠して営庭を避ける他中隊の動きに反発しての営庭訓練ではあったが雪国衛戍部隊に対する訓練不足の懸念を一掃した。私心の無い本気、何時でも即動し得る中隊を錬成している自信が桂大臣の安心と信頼を獲得し、新編直後にもかかわらず精鋭第8師団の旗を掲げる事、となった。

この3つのパターン、積極性・前向き・本気、に共通するものは今、やるべしと信ずるものが常に【・・・・の為に】となっている事。即ち【全軍・弘前将校団・第8師団の為に】なると信じるものを私心なく(一身を顧みず、失敗を恐れず)、人任せにせず追及する姿勢である。

二つ、想定していなかった潮流に乗り、目指していた処に近づいた

論文に応募するところまでは福島大尉の想定内。しかし、本人が気付かない潮流があった。それは応募論文を一本にしての収集論文作成の動き、である。偕行社の計画ではあったが参謀本部の検閲を受け、訓練の準拠としての性格を持つ。第五連隊遭難で頓挫した冬季行動標準作りに形を替えて関わり、目指していた処に近づいた。

やるべき、と信じるものを持ち続け、懸賞課題募集の機会に、第五連隊遭難の沈黙というハンデー(制約)を後ろ向きに捉えず、持論【冬季戦の原則的事項とその応用方略其の他】展開のチャンスとして、応募し、優等賞を受賞した。

全21編の力作は優等賞の表彰だけでは惜しい、と当局に思わしめ、第7師団に依頼して、参謀本部が検閲する収集論文作成の動きとなった。この中に福島所論や今回の福島論文は引用された。

この想定していなかった潮流、他力に乗れたものは①やるべき、と信じるものを持ち続け、②前向きに応募し、③時代にマッチした濃い内容の3つであった。

三つ、次への展望を拓く布石

論文の肝であるー①冬季戦の原則とその克捷方略②幾重にも重なる困難とその克捷方略ー以外にも陸軍参謀本部の目に留まった事がある。①露軍への深い関心と研究・調査②補遺で示した兵を護る視点である。

これが新しいうねり、となって福島大尉を直撃する。福島大尉の力作は本人は意識していなかったが、次への展望を拓く布石となった。この事は次稿からの論文『露国に対する冬期戦術上の一慮』の旅の中で触れたい。

四つ、理解者立見師団長の存在

立見師団長は陸軍参謀本部戦史室への招聘を断り、旅団長副官に補した。旅団長との確執、極諌問題に際しては事が明るみに出、陸軍省人事課が動くに至り、最後の最後で、福島大尉の肩を持ち、本心を表した。

その本心とは福島大尉はどうしても手放せない、の一事。その積極性は師団全般の訓練練度向上に波及し、その戦場働き、義勇は比類なし。

この気持を理解した福島大尉は今まで以上にやるべき、と信じる事に最善を尽くす。それが立見師団等の思いと合致し、二人の関係は新たな境地へと入って行く。

山形歩兵第三十二連隊中隊長への補職には大きな意味があった。

終わりに

本論文は福島大尉が人生で、二番目に為した事である。福島大尉が為(成)した事は冬季戦の原則と応用方略などの啓発提言及び冬季訓練の準拠つくり(参画)の二つであるが、もう一つある。それは参謀本部を動かす布石である。詳しくは次稿からの旅で触れたい。
この論文で、明治陸軍における特異な冬季戦(備)論者としてその名を広く知られるようになった。

この稿終わり
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論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その七 立見師団長再び登場 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

立見師団長の受け止めを思う

始めに

福島大尉が論文に応募し、優等賞を貰った事や収集論文に目を通して、立見師団長がどう思ったか、に思いを巡らせないとこのテーマの旅は終わらない。

一つ目、論文「影響」について

八甲田山雪中行軍始め自己の実験・演習について全然触れずに論文を書いた。その事に2つの点で感想を持った、であろう。

一番目、第5連隊遭難への配慮
配下の両兄弟連隊が明暗を分け、一方にはその偉大な挑戦と栄光を讃え、もう一方にはなし得る限りの誠をつくすべき総責任者として、福島大尉の沈黙と優等賞受賞の快挙には感じる所があったに違いない。先ずは第五連隊遭難への(福島大尉の)配慮、即ち自分達の事より遭難者への心づかいを優先する思いを感じたであろう。師団長としては死者や遺族へなし得る限りの配慮をして、この事変が新たな危機事態、徴兵忌避や下士希望者の激減等へ波及し国難対露戦備に深刻な影響を与える事を恐れ、早期収拾に努めた。その為三十一連隊は表に出すわけにはゆかなかった。それは報いてやれない無念の思い、となった。それを幾分なりとも晴らしてくれたのが優等賞の快挙であった。
二番目、本物の冬季戦への取り組み
体験した実験行軍や演習、その内容の濃い所を語れば説得力はあるだろうがそれを捨て諸外国の戦史・典令などで論を作らんとした。その点に、冬季戦戦への取り組みの思いは強い、本物である。福島大尉の進化は敬服もの、と感じた、に違いない。今までに歩みを観て来たからこそ、理解者であればこその感想であった。
今までの一連の演習や実験行軍の際に自ら手を挙げ、今の状況で出来る事に最善を尽くした姿勢と全く同じものがあった。連隊の教育委員として下士候補生教育担当の場を最大限利用して、岩木山雪中行軍や夏期行軍を発意した。その事に通じるものである。与えられた条件の中でやるべき最善を見出す。その発意自体が周囲の度肝を抜いたが、常に問題意識が旺盛で、一見困難で大言に見える事もとことんやり抜く。その事で自らを進化させ周囲への刺激を与え続けた。福島大尉は一地に止まる事をせず常に前を向いて一段又一段と目指すものに近づいて来た。
二つ目、優等賞受賞について
戦史研鑽の深さに驚き、戦略眼の卓抜さと能力の高さに感嘆し、又実際的論点に首肯した、に違いない。
一番目、戦いの理念抽出
雪中の戦闘は山地戦、夜間戦の原則に似ているので、その適用に留意すべし、と戦いの理念を明らかにしている。個々の現象と戦例例えば降雪の多い場合、少ない場合の影響や利や害をもたらした戦例などについて、細かな作業を気の遠くなる程積み重ね乍、戦理的事項に常に目を向けている。形に捉われず、地形と敵を徹底的に分析して勝つ方途を見つけて来た立見師団長から見ても戦術眼は卓抜であり、能力は高い、と感じた。
二番目、困難に向き合う姿勢
雪中の戦闘は幾重にも重なる困難が倍従する、は本質をついた表現であり、その克服の本質も又、攻撃精神に代表される克捷方略にあり、とする見解について戦場の本質を見抜く立見師団長の全く同意する処であった。
三番目、実際的論点
雪の戦術上に及ぼす影響についての論点は戦術上の学説と兵を護る視点からの実兵感覚が融合した実際的論文である、と感じたに違いない。かって立見師団長は学説と実兵感覚の一致の例として突撃時期の看破について述べている(註)。これは立見師団長が最も自得につとめている点である。その視点で見れば大いに首肯できる内容であった。
註:偕行社記事「立見師団長談話」(329号、明治37年1月号)
四番目、第八師団の評価
優等賞3編の中に入った事は福島大尉個人の優秀さを示すものであったが、冬季行動について研究調査を進めてきた第8師団の取組の評価でもある、国難対露戦備は一刻も揺るがせに出来ない。第五連隊遭難で行き足の止まりかけた第八師団に再び喝を入れる良い機会、であると考えたに違いない。
三つ目、収集論文について
論文「影響」からの引用や雪中露営演習や実験行軍実施報告等と同じ趣旨と思われる表現箇所が目につく。福島見識が活きた証左である。収集論文は陸軍としての教育訓練の準拠としての性格を有し、その意義は大きい。準拠つくりに参画しこういう形で当初からの思い、冬季行動標準作りを貫徹した福島大尉は流石だ。第五連隊遭難による停滞も挽回し、八師団の名誉を回復してくれた。
手元に置いてよかった、喧嘩両成敗にせずに良かった。でも本当に福島大尉が活きるのはこれから。戦場には、なくてはならない男だ・・・。
四つ目、立見師団長撰文を思う

立見師団長は福島泰蔵碑に碑文の中で論文「影響」について、「嘗拠偕行社課題総裁閑院宮賞之賜軍刀一口君究之於平生者熟乎故臨事能栄功也」と撰文している。
大意は「偕行社課題に嘗拠して戦術と雪との相関を論ず 総裁閑院宮は之を賞して軍刀一口を賜う 君は之を平生に於て究む  ああ熟者といわん乎 故に事に臨みて能く栄功也」である。
立見師団長は熟者である、だから事を良く成す。しかも平生に於て之を究めたのが凄い、と激賞している。思いがけず巡ってきた懸賞募集の機会に自らに制約を課した中で、全く新しい発想をもって、前向きに処した姿と戦術眼の確かさや能力の高さを上記の”熟者”に込めて表現した。同時にこれを平生に於ける自らの努力で勝ち取った、と讃えている。

終わりに

私は熟者の響きに戦術能力に秀でたというだけではなく、事をなすリーダーとしての”熟者”を強く感じる。そして平生に於いて之を究めた、に物凄く惹かれるものがある。
それをどうやって身に着けたのか?士官学校出に過ぎない福島大尉が陸大出身者(註)に引けを取らないものをどうして?である。
註:陸軍大学校の略。陸軍における最上級の学校。高等用兵を教育し、参謀や上級指揮官を育成する。陸軍士官学校卒業者で、部隊勤務2年以上、30歳未満の大尉・中尉にのみ受験が許された。
次回からは”熟者”と云われるまでになった福島大尉の”平生”の修養・研鑽の歩みを掘り下げてみたい。
このシリーズ終わり

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論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その六 納得した納まり [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

収集編(論文)を思う

始めに

懸賞論文優等賞は福島大尉の第五連隊遭難との決別、即ち今この懸賞論文に応じて新たに為すべきことを見出し、福島大尉自身も進化したことの何よりの証明であった。それに加え、これで良い、と納得する事があった。それは表記偕行記事329号(明治37年1月号)に付録として掲載された「降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響」の中にあった。応募作21編を一本にまとめた収集編(論文)である。その中から福島大尉の思いに迫る、を本稿の狙いとしたい。

一つ目、収集編(論文)の概要

一番目、経緯及び主旨

優等賞3名以外の選に漏れた18名の答案にも良い所があって捨てがたく、之を蒐集して一本とすれば有益な資料になる、との主旨で東京偕行社編集部から北海道の第7師団司令部に編纂を依頼したところ、同司令部は応募者である同師団隷下歩兵第26連隊附の今中尉に命じた。今中尉は公務の余暇に編纂に当たり、稿を仕上げた。更に参謀本部に於いて検閲したものをこの度記事付録として頒つこととなった。
今中尉の編集方針は以下の二つ。①優等者の作業よりは成るべく抜粋を避けたるも対照の煩労を省かん為め亦抜載したる条項も少なからず。②各作業の抜粋は原文のまま記載する(筆者註、被引用者名は記載されていない)ことを力めたるも尚同一の条項に於て彼是混同したる所も多し。(例言)

二番目、構成

例言
第1章総説(?)
第1節・・・。第2節 地形に及ぼす影響。
第2章行軍
第1節道路。道路の偵察及び嚮導の必要。第3節速度。第4節隊形、長径、隊間距離。第5節行軍の実施。第6節行軍の警戒。第7節夜行軍。第8節行軍に関する注意。第9節被服装具及び補助材料。
第3章駐軍
第1節舎営。第2節露営。第3節駐軍の警戒。第4節露営中の補助手段。第5節炊嚢。
第4章戦闘
第1節戦闘の指揮。第2節射撃。第3節野戦工事。第4節攻撃。第5節防御。第6節夜間戦闘。第7節弾薬補充
結論

二つ目、収集編(論文)を思う

一番目、”構成”の福島大尉の受け止めを思う

この収集論文の性格は積雪及び降雪の影響を受ける戦術上の考慮要素を網羅した、応募者や部隊の優れた点を集めた全軍の参考書的資料であり、戦いや行動の規範・教義的性格はない。しかし参謀部の検閲は教育訓練の準拠資料としての性格を与えた、と福島大尉は感じたであろう。
又岩木山や八甲田雪中行軍等の一連の研究調査や実験行軍などでは、レベルの高い行動標準や規範を、今回の応募論文では戦いの理念や教義の確立を目指した。侮りがたい露軍と戦って勝てるレベルに到達させるために必要な戦い方の理念や行動標準等を示さんとした福島大尉の目線ではこの”構成”が示す論文の性格には物足りない点があったように思える。しかし、今はこの位にして先に進みたい。

二番目、岩木山雪中行軍結果の引用に思う

目を通してすぐ気になった事がある。
第2章行軍、第3節速度の項で、明治31年~36年の間の14例(連・大隊)を収めた雪中行軍一覧表(実施期日・部隊・当時の積雪量・人員・日数・行軍路程・1日平均)がある。その中に明治34年2月第三十一連隊即ち福島大尉が下士候補生教育として行った岩木山雪中行軍と同33年2月第三十二連隊の2例が北海道の部隊(第七師団及び屯田兵)以外で記載されている。

ここ数年の間に第八師団管内で雪中行軍を実施した部隊の数は多い。三十一連隊に限っても相当の数に上る。その中で三十一連隊と三十二連隊のみが記載されている。この2つがどうして選ばれたのか?特に岩木山雪中行軍は下士候補生教育の一環であり、部隊の行軍とは趣が違う。今中尉は何故これに着目し、この資料を手に入れたのであろうか?

考えられるのは3つ、①今中尉が編纂にあたり、提供を求め、福島大尉はこれに応じた。その際岩木山雪中行軍実施報告を含む2つのみを提出した。②既提出の該報告書を今中尉が参謀部に依頼し入手した。③今中尉が軍事雑誌類に掲載してあるものを蒐集しその中にこの2つが入っていた。真実が何処にあるかは分からない。福島大尉に依頼があった時点で、32連隊中隊長となっていた福島大尉は32連隊の分も合わせて提出した、と考えるのが一番妥当のような気がする。今中尉は福島大尉及び岩木山雪中行軍実施報告に関心を強く持っていたであろう。更に、雪中露営演習報告記事(偕行社記事第239号(明治33年4月)も目にしていた、にちがいない。
以下、この収集論文の中で、福島大尉の琴線に触れるであろう箇所はどこで、それは何故かを考えたい。

三番目、収集編(論文)が福島大尉の琴線に触れたところを思う

その一、今中尉の編集視点

この論文中に今中尉の編集視点を窺わせる表現が2か所ある。

その(一)、要求すべきレベルは一般雪中行軍

前表(註:雪中行軍一覧表を指す)に依れば雪中行軍に於ける1日の平均行程は16kmより34kmの間に変化する。而して歩兵第三十一連隊の実施せる1日平均50kmの行程は僅かに2日間なるを以て要求し得へく決して此距離を以て一般雪中行軍の行程を定むる素因とすべきものにあらす。(第2章行軍、第3節速度)

その(二)、降雪少なき部隊も対象

降雪少なき衛戍地も各隊に於ては如何に研鑽せんと欲するも得へからす或いは雪中の研鑽は之を遂け得る事あるも寒気の研究は到底望むへからす。之がめ各将校団より年々1,2の将校を青森近傍及び第7師団管下に派遣せしむる所あらば国家の幸福蓋し大なるものあらん。(結論)

その(三)、小纏め

要するに今中尉及び参謀部は雪国以外の部隊も対照とし、全国の全歩兵部隊が準拠として実施すべき一般的な事項や、到達すべき一般的なレベルを明示することが狙いであった、と思われる。

その(四)、福島大尉の思い

東京偕行社編集部の編纂主旨、今中尉の編集視点及び”構成”を目にした福島大尉はこの収集論文が今まで雪中戦闘及び行動について自分が目指し、成し遂げたかったものとは大きな開きがある事を即座に悟ったに違いない。それはそれで仕方がない、受け入れなければならない。ただ、参謀部が検閲して、教育訓練の準拠としての性格を与えた事には大いに意を強くするところがあった。野外要務令には独断を理由に冬季行動についての規定はほとんどない。現状は全国の部隊の冬期訓練に対する取組に致命的差があり、雪国にある部隊だけで戦闘を終始する事はできないので、全軍に、何らかの標準は必要である。
又今中尉が雪国以外の軍隊も対象としている事について福島大尉は大いに意を強くした。何故なら福島大尉は冬季訓練に励み、暖国の範を示す事を雪国にある軍隊の義務として、俺がやらねば誰がやる、の気概をもって取り組んできたから・・・。
何れこの準拠をスタートラインとして、全国の冬季訓練が盛んになり、やがてレベルの高い本物の行動規範・標準や戦い方の理念・教義が必要とされ、創りだされるだろう。そうなって始めてこの収集論文が意義深いものになる。自分のかかわりが意味あるものになる。第五連隊遭難で挫折したが、今までの自分の歩みがより活きる。厳しい場を求めれば求める程その途は険しくなるはずだから・・・。我が意に沿わぬところもあるが、新たな大道を共に歩む事こそ肝要だ。

その二、内容に同感し意を強くした点多し

その(一)、同意ー野外要務令改正

今中尉は同章第5節行軍の実施1出発時刻に於いて「出発時刻の選定は要務令の規定に準拠すべしと雖も午前に於て行程の大半を経過し、日没数時前に於て宿営に就く如く計画するを要す。」とある。
福島大)以来、声を大にして訴えている
第3章駐軍第2節露営4兵器及び装具の置き場に於いて休憩や露営作業などの為叉銃をする規定は積雪深い時は依りがたく、それに応じる方策を提案している。雪の中での叉銃の不都合について福島大尉は雪中露営演習実施報告や八甲田山雪中行軍実施報告露営の項で詳しく指摘している。野外要務令の規定の不備と改正方を今中尉が勇気を持って提言した事に大いに意を強くした、に違いない。

その(二)、兵を護る、を実践

今中尉は同章第2節露営3警戒部隊の掩護に於いて雪中冱寒に於いて歩哨を守る掩蔽施設の構造とそれを雪塊で作る方法を示している。
福島大尉は雪中露営演習に於いて雪塊で歩哨哨を作り、且その強度実験を行っている。兵を護る、は最も大事な価値であった。この時、歩哨の哨所についてその規格の寸尺だに規定せざるは何事と声を大にして訴えている。今中尉の記述には露土戦役のバルカン山踏越えで露軍兵卒が歩哨について酷寒の為凍死した事例を福島論文から引用しているがこの事と併せ大いに意を強くしたに違いない。

その(三)、自分(福島大尉)の論文「影響」のみならず所論を活用してくれている!

其の一、嚮導の事

今中尉は第2章第2節冒頭にcardinar von widermの道路偵察に関する格言を福島論文から引用し、嚮導の必要性を述べている。
嚮導は福島大尉が岩木山の苦い教訓を八甲田山に活かし、成功の大きな因となった。戦史、典令と格言を調べそれを行軍で験した福島流スタイルの代表選手である。福島論文の中でも各行軍実施報告の中でも強調している。今中尉にはその熱が伝わっていたのであろう。活用してくれている、その喜びに加え、大いに意を強くしたに違いない。

其の二、尺度

今中尉は同章第3節速度の項中、行軍一覧表の解説の最後に露国「ワルショー」軍管区の規定である1日行程約22km、最大行程30kmを福島論文から引用している。
岩木山では強行軍を行い、困苦欠乏に堪える強さを鍛えた。八甲田山でも連山地長途強行軍を行い非常の困難に耐える忍耐力を鍛えた。その際強行軍と普通行軍の区分けをする尺度として上記を引用した。夫々の実施報告に詳しく述べている。その客観性に今中尉は倣った。

其の三、夜間攻撃

今中尉は同章第6節夜間戦闘において、夜間攻撃を行う場合が多いことについてその理由と共に「露国の如きは冬季の野営をなし以て夜間の動作を練習すと」と福島論文から引用している。
福島大尉は冬季が短日であり、夜の戦闘をならざるを得ないが、防勢を取らず攻勢を取る我が陸軍の主義から夜間攻撃に精通しなければならないとの持論を持つ。更にその理由に露軍が本気で冬季に行軍を行いその際夜間攻撃と露営を併用していることも加わる。この意のある所に今中尉は倣った。

其の四、冬季は休戦ではない

今中尉は結論に於いて「吾人は雪季を以て所謂休戦の時機として放擲して可ならんか曰く否戦いは決して雪を以て止むるへきものにあらす反て戦略上の攻勢に有利なるもの存するに於いてをや」と述べている。
福島大尉は論文冒頭で冬季休戦は誤りと宣している。今中尉が福島大尉の格言を結論に持ってきた事に大いなる同調を感じる。

その三、内容が我を越え進化している。流石!

その(一)、雪中の工事

今中尉は第4章第3節野戦工事2工事の実施に於いて雪を掩体として使う場合の抵抗力を増す方法及び明治35年に歩兵第28連隊が実施した30年式歩兵銃の積雪胸堆に対する平均侵徹力の実験結果とその分析を掲げている。
福島論文「影響」で歩兵及び砲兵を守る方策として露軍の例を上げ、注意喚起している。第七師団も掘り下げており、それを全軍で共有し得る域にある事が確認出来た。その事に流石と感じたであろう。

その(二)、幕舎内燎火を敵方から確認

今中尉は第3章宿営第2節露営1幕営に於いて、幕舎内燎火の光遠距離を験して4km以外より能く之を認知する事を得へし、と述べている。
福島大尉は雪中露営演習で施設内の音や灯りの認知距離を験している。現地現物に即して敵方からデータを取る第七師団の流儀にさもありなん、の思いであった。

終わりに

第五連隊遭難の葛藤に身を委ねる中で、旅団長への極諌・軋轢という試練もあった。懸賞論文募集を契機として、新たにやるべき事を見出して応募した。その姿勢が優等賞をもたらしただけでなく、収集論文即ち全陸軍の訓練の準拠作りに参画する道を拓いた。
偕行記事329号附録の収集論文を手にして、福島大尉はその中に我が意を得たり、の強い思いを持った。今中尉と第七師団及び他の応募者と夫々の原隊の流石!の取り組みに目を瞠った。思いがけず応募者の中の一人として参画出来、国家・陸軍の為に、自らの研鑽が活きた事を素直に喜んだ。第5連隊の遭難の陰に隠れたままであった福島大尉や第三十一連隊の努力が密やかにではあったが報われた。第五連隊遭難の縛りから解き放たれ進化した福島大尉は「今や、自分の名を出したい、とは思わない。まして虚名なんぞは不要だ。これで良い、これで十分だ。」と思った。
ここでこのシリーズを終わりたい、ところであるが、どうしても気になる影がある。立見師団長がどう思ったか、である。次回はそこを掘り下げてこのシリーズの旅を締めたい。

この稿終わり
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論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その五、最も訴えたかったものー二番目、複合する非常の困難と克捷の方略(続・続)軍隊保育上の顧慮 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

《前稿から続く》

四つ、軍隊保育上の顧慮

一つ目、何故補遺を設けたのか?

補遺の章の冒頭、福島大尉は恨むらくは大いに順序を欠けりと述べている。この事は何を意味するのであろうか。纏まりがないというわけではない。何かが決定的に欠けているというわけでもない。どう考えたら良いであろうか。その手がかりを私は補遺という言葉そのものに求める。補遺の章はあくまで”補”としての性格・位置づけと解釈したい。であるならば何を補う”補”となるのか、私は次のように考える。
諸外国の戦史、典令、格言等で、論を構成し、2つの主要な論点を中心に展開すると、我が陸軍の軍隊保育上の課題に迄は踏み込めない。特に福島大尉が最も篤い視線を注いだ兵卒保護に光が当たらない。無理に展開中の論点の中で踏み込むと拡散してしまう。否ただでさえ、大幅に超過している枚数の収まりが更に膨らむ恐れがある。従って、当初からの論文の狙いの一貫性や纏まりを保持しながら、非常の困難の克捷方略の考慮要素としての性格を持つ軍隊保育上の考慮事項を別建ての補遺の章とした。

二つ目、軍隊保育上の考慮をする上での視点

福島大尉は軍隊保育上の考慮をする上での視点について各所で触れている。それを拾いあげたい。

一番目、視点1-専ら留意着眼すべき事項ー兵の保存

何れの場合に於ても衛生上の勤務を粗忽に附すべからず、特に西比利亜及び満州等に於ては南清或いは直隷の平野に於て戦争する時よりも専ら兵の保存に留意着眼するを要するならん。(宿営)

二番目、視点2ー夏期との違い

露国warschau軍管区軍隊冬季演習規則第16に冬季に於ける軍隊行軍は夏期行軍と左の差異点あり、としてその例を引用している。例えば行軍日程は夏季より短かからしむべし、積雪深く道路にあらざれば運動する能はずして各行軍縦隊の連絡非常に困難なるを以て綿密に行軍を計画せざるべからず等。(行軍)

三番目、視点3ー冬季欠くべからざるもの

露国冬季演習規則第3編第13に曰く冬季露営と夏期露営の間の一大区別は兵卒暖を採る所の燎火は冬季露営の欠くべからざる付属物たるの点にあり。(宿営)

四番目、視点4ー有害なる影響を減じる

露国冬季演習規則第3編第12及び第13条の観察を通じて得られる露国冬季演習の目的について、冱寒積雪の地に於る給養方法及び支隊の兵員をして一には服装着靴を適当し若しくは之を有益機巧にし寒気及び暴風雪の有害なる影響を減じ凍傷及び感冒を防ぐ事。二には厳寒大雪の際に於ける作戦の特質を知らしめる事等の利益を享けしむるの主旨なるの如し、と述べている。(宿営)

五番目、視点5ー(主要な)危険が存する露営

露軍の露営規定によれば摂氏10度以下の気温に在って露営をなさしめず。その気温更に低減して摂氏12度以下に達すべき時は直ちに露営を止めて翌日行ふべき運動を開始すべしと規定せり。蓋し冬季に於て兵卒に対する主要の危険は気温の低下せる場合に於て露営を為すにあればなり。(宿営)

三つ目、「本問題に対する答案の補遺」の章から見えてくる軍隊保育上の考慮

一番目、雪中戦闘における歩兵及び砲兵の援護ー敵火から或いは敵を火制して兵卒を護る【視点2】

露国冬季演習規則にある歩兵及び砲兵を援護する方法を紹介している。それには雪を踏み固めて射撃に対する胸壁の坑堪力を強化し、砲車を雪上に無処置で据え付ける目安として1m6がある。露国第29旅団の軽砲兵中隊の雪中射撃実験の成果11項目を紹介している。主なものは①雪の肩壕ある時は照準困難②砲車の両輪は積雪中に漸次没落、その傾き斉一ならず、発射毎に傾きを図る等注意必要③架尾後座積雪中に穿入する時は数発を限度として同位置での継続困難等がある。

二番目、雪から目を護る【視点4、5】

雪中の戦闘に於て注意すべき事は日の低きか為に生ずる影響及び積雪上光輝ある時は眼病に罹り易く一時に多数の患者を出す恐れある事なり。これを防ぐため防雪眼鏡若しくは遮眼布を用ゆべし。更にわが軍と仏軍の同布について、色や大きさの違いを比べている。

三番目、山地雪中行軍における気象地形から兵卒を護る【視点4】

仏国alpen隊が山地雪中行軍に雪履(がんじき)、雪靴を使用していることを紹介し、併せて同隊が使用している1~2mの縄を紹介している。縄は吹雪暗夜の連携、河川を渡る際、橇を引く、徒橋を架設する際、天幕を展張する際、急峻の断崖の昇降等多目的に使用できるので便利と力説している。又独軍の携帯する縄について触れ、銃口の2倍半の長さで中央部を大きくして油布を挟み銃口の手入れに使うと説明し、我が軍の88式歩兵銃の手入れ杖は2本を接続しなければならないので不便と提起している。この項は福島大尉の思い入れの特に強い所である。最後の箇所は八甲田山雪中行軍で、酷寒の為機能不全に陥った反省として銃の手入れ不十分を挙げている、この事との関係大あり、である。

四番目、雪中に於ける戦闘及び行動に欠くべからざるものー運搬手段【視点3】

雪中に於て兵器弾薬其他軍需品を運搬する為の橇を必要とす、と宣してから1892年9月14日瑞士野戦砲兵第3中隊のairoloよりbargnascoに通ずる山間の険路を越える際の橇使用を紹介している。至高の地に砲架運搬即野戦重砲兵の進出が確実に可能である事を実験し、その構造は単簡で軍用に適する、としている。更に1896年露国歩兵第157連隊の実験した橇を紹介し、単簡にして製作容易、方向変換容易で軍隊と共に跟髄せしむるに適す、と激賞し更に此の種の橇の材は軍隊の近傍で得られる木材又は薪材を使い且つ兵卒が新造出来るもので、木工具もまた必要と続けている。
歩・砲・騎の協同の観点から説いている。

五番目、雪中に於ける戦闘及び行動に欠くべからざるものー器材【視点3】(略)
六番目、雪中に於ける戦闘及び行動に欠くべからざるものー天幕【視点3】(略)
七番目、身に着け降雪・積雪、寒気、寒風から身体を守るー被服【視点4】(略)

八番目、身に着け降雪・積雪、寒気、寒風から身体を守るー雪靴・馬蹄の藁底【視点4】

雪靴の研究は最も緊要なり、と宣して露国各地の猟兵隊が種々の制式の雪靴試験を行ってる事に触れ、現今軍靴を寛大にする事と藁沓が極めて緊要なる事を明言していると附記している。多くを語っていないが極めて強い響きが伝わってくる。八甲田山雪中行軍などの実験行軍で、兵を守る観点で、靴を始め器具・服装等の改良に取り組んだ、その努力を振り返る気分が伝わって来る。
更に騎兵の馬蹄に雪が固着する事の予防策として、藁草履(わらぞうり)のような或いは藁の土瓶敷きのような藁底、其の規格や挿入法も含め、提案している。これも歩・砲・騎兵の協同の観点から説いている。

九番目、雪中戦闘における衛生上注意すべき事項ー危険を避け、有害な影響を減じる【視点4,5】

その一、雪中の戦闘に於ける衛生上注意せざるべからざる要件は凍傷と感冒なり。ー有害な影響を減ずる注意【視点4】

凍傷と感冒の因となる事項、特に行動について注意喚起し、其の注意喚起と関連した予防策や守るべき事を具体的に述べている。又其の他の注意として、①目の保護ー露営等の際の生木を焚く時の燻煙に目を曝すことにより生じる炎症や空腹・疲労による眩暈、②坐臥する際の痔疾予防の為桐油紙は非常に効力有り、③積雪山地の長降路通過の際には捻挫し易い。を挙げている。何れも八甲田山雪中行軍で体験済みの事項でその深刻さを痛感していればこその説明である。

その二、冬季山地を跋渉して遭遇すべき危険【視点5】

徒歩者は自己の重量に因り雪層内に埋没せられるに非ずして唯烈しき降雪及び多く山中で見る所の暴風にあるのみ、何となれば此二者は白昼を闇黒となし徒歩者をして其方向を詳にする事能はざらしめ終に之をして埋死せしむるに至る、とその危険の本質を断言している。これも又八甲田山雪中行軍での深刻な体験があればこその説明である。

終わりに

補遺の章を讀めば読むほど私には福島大尉が八甲田山雪中行軍等敢えて厳しい場を求め、厳しい状況に身を曝したから得られた貴重な成果のエキス、兵を守る目線が詰まっている、と感じられてならない。軍隊保育上の考慮の度が増すほど困難は倍従する。克捷の方略は考えて考え抜き、実行する。これあるのみ・・・。

一連の実験行軍や露営演習等での研究調査は他の追随を許さない域のものであったが、行軍や宿営などに限定した研究に過ぎなかった。この事を自覚していた福島大尉はこの懸賞論文応募を良い機会と捉えた。今までの実験行軍や演習などには触れない、とする考えを前向きに発展させ、諸外国軍の戦史や典令などをベースにし、戦闘に目を向けた論文を展開し、活路を新たに見つけようとした。進化した福島大尉の姿であった。
今回をもって論文「影響」そのものについて思いを巡らす旅を終わる。

最後に優等賞を福島大尉はどういう風に受け止めた、かを考えたい。懸賞募集の背景は痛いほど分る。だから直ちに応募した。並み居る練達の士を相手に名誉な賞を頂いた。論文の質の高さや自分の研鑽の程が認められ、素直に嬉しい。しかし、それがすべてではない。陸軍参謀本部の施策、国難日露戦の戦い方や戦備等の向上に役立って初めて応募や優等賞の意味が出てくる、はず。だから・・・。

この稿終わり
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論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その五、最も訴えたかったものー二番目、複合する非常の困難と克捷の方略(続)露軍に克つ [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

《前稿から続く》

三つ、露軍に克つ方略

始めに

ブログ「何故八甲田山か?その三 露軍を”超えねば・・”の心が拓いた」で述べたが、福島大尉の露軍への関心は高い、露軍に並び越え、勝つためである。本論文中にも多くの箇所で記述している。それらを拾ってみたい。

一つ目、露軍は大陸に於て、冬季を積極的に活用せんとする意図を有する

露国の一佐官の自国参謀部への報告中に「軍隊を支那に侵入せしむべき最良の時期は冬季にある。その理由として積雪地面を覆ふか為に高粱その他植物の障碍なし」とある由、露国の今日北満州に於る挙動に依て察すれば戦争に冬季積雪を利用するの可なる事を推知するにたる。我が将来の敵(露国)は冬季積雪の利点を活用するのみならず、その利益に伴う害も熟慮し天候の嶮酷、道路の険悪を顧みず将校の教育に兵卒の訓練に勉めざると云ふ事なし。吾人も将来寒国と戦はんには軍隊の訓練に於ても出師の準備に於ても沈思黙考せざるべからず。(緒言)

要するに露軍に学び、遅れを取らない覚悟が必要である、と冒頭に警鐘を鳴らしている。

二つ目、戦術的教令に戦争の真理はあるのか?

warschau軍管区の冬期演習規則第4編第15戦術的教令は冬季の戦術上に及ぼす特質の分析をもとにしている。しかし地形の利用判断は全く他の時季と異ならざるを得ないので、単にwarschau軍管区の戦術的教令に満足してはならない。何故なら此の教令は極論すれば衛生上の注意に止まる事項にのみ重きを置いているので戦争の真理を此中に発見することが出来ない。(一般の要旨)

三つ目、露軍の強みと弱みは?

一番目、露軍の攻勢は肝に銘ずべき、然れども損害の多さにも注目すべき

1877及び78年の露土戦役を例に挙げ、露軍は決して守勢をとらざりしなり。堅固で比類なき天然の障碍であるbalkan山を踏越えた露軍の事を思えば吾人は如何なる大雪嶮山と雖も決して攻勢軍の動作し得られざるものにあらざる事を脳裏に銘ずるを要す。然れども攻勢を取り幾多の障害を排除して之を略取すると雖も其受ける損害の度果たして如何にあるべきかを考察し、之を減少するの手段を平時に於て自得するを必要とす。(一般の要旨)

露軍の損害を顧みない攻勢は脳裏に刻みこまねばならないと強調すると同時に、その損害の多さにも注目している。そしてその損害を少なくする平素からの努力を訴えている。 二番目、露軍恐れるべからず、しかしながら全ての軍が出来る訳ではない 露土戦役に於ける露土両軍の困苦欠乏、損害を比較し、土軍の末路は敗戦の惨なるものにあるのに反し、露軍の行動は吾人将来の敵の決して侮るべからざる事を示すに足る。今や各国共に冬季戦役の練習に力を用いるの可くべからざるは当然として休養衛生に至る迄将来の戦役に対する準備を十分にすることに留意している。特に露軍は極めて細密な規定を設け、之が研究に余念なきものの如し。而してその大なる衛戍地にあっては冱寒積雪の地に機動演習を実施し其間に夜間戦闘と露営とを併せ行ふを常とす。(宿営) 露軍侮るべからずと強調し、将来戦への備えと研究に余念がない、その具体例として機動演習を実施し其間に夜間戦闘と露営とを併せ行ふを常としていると紹介している。 以下、露国冬季演習規則第3編第12及び13条及び1894.2.9のradimine軍隊の雪中露営報告の考察を続け、最後に露国に於ける冬季演習は年々歳々盛んに実施せられ大体上充分の効力あるを表し兵卒に遺漏なく寒を防ぐの注意を與え得たりとするも之を以て直ちに実践の模範と見做すは少しく其当を失するものあり。として、何となれば露国軍隊管轄廰及び其監督部は今日尚大集団に対し普く寒を防ぐ等の処置を施す事能はざればなり。(宿営) 四つ目、きめ細かな露国野外勤務教令 一番目、露国冬季演習規定には降雪及び積雪の戦闘上に及ぼす影響を掲げている その中で短日であり(夜間戦が多い)。狭路戦闘、交通線路外の運動困難の特質を有している、を述べている。この懸賞論文そのもののの問題意識及びその答えのエキス、山地戦及び夜間戦の原則適用、が露軍の規定に既にあることを暗に語っている。(戦闘) 二番目、天候悪い場合の処置は大切な事 露国野外勤務教令は他国の典令類に比すれば比較的天候険悪に関する注意の条項多し,として229条を挙げている。夜間雪風濃霧の場合の警戒隊の注意倍従の方法を具体的に示している。(捜索勤務と警戒勤務) 五つ目、冬季戦は我に有利と、露軍は考える? 1854年のsebastpol攻城間に連合軍が大いに雪と風と寒に悩まされた例を挙げ、露軍は単に此戦役に限らず温和中等国の人民は寒気を恐るるの弱点ありなし冬季戦役を以て自己の有利なる条件中に数えしものの如し。(補遺) 六つ目、おもいは大陸の酷寒、易きに流されるな 露国ulkutsk地方は寒威酷烈にして冬期は屋外の気温摂氏零下45度に降り、夏期と雖も地下1mを掘削する時は猶凍結し樹木は根を深く生ずる事能はずと云ふ。世人は往々西比利亜の降雪の少なき事を信ずれども天は何れの時如何なる大雪を降らすやも知るべからず。用意の周到なるに如かず。(補遺) 終わりに 最後に補遺の章で雪靴の研究について触れている。是を紹介して本稿を締めたい。雪靴の研究は最も緊要なり。露国各地の蝋兵隊は種々なる制式に依る雪靴試験を行ふを常とす。附記す露国wyborg歩兵連隊に於て実験せし所に依れば靴下の平面に蠟(ろう)液を塗布する時は之に因り靴の凍凝を防ぎ其効特に顕著なりとす。(補遺) 露軍に学ぶべき点は多い。学んで並ぶ。そして越え、克つ。この論文の中で露軍について語る福島大尉に、或る時は先行露軍に学ぶ謙虚さ、又或る時は露軍何物ぞの猛々しさや勝負師の冷徹さ、を感じた。 隊員を護る、は福島大尉が一貫して持ち続けた篤い視点であるが流石にこの論文では出しどころがなかった、と思われる。しかし最後に軍隊保育上の観点から補遺の章を設けることで自分なりに納得する仕上げとした。その代表選手は雪靴であった。次回、最後に「補遺」を思う。 次稿に続く

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論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その五、最も訴えたかったものー二番目、複合する非常の困難と克捷の方略 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

二つ、複合する非常の困難と向き合い克捷の方略を探る

本号からは福島大尉が本論文で最も訴えたかった2つのうち、残りの一つに入る。

一つ目、複合する非常の困難

冬季戦そのもののが非常の困難を持っている。これに攻勢を取る、防勢は決してとらない主義からくる困難、山地戦・夜間戦と同様の原則を適用する戦い方からくる困難、冬季戦に於ける軍隊保育上の考慮を必要とし、応ずべき条件・様相は千変多様である困難、露軍に並び越えなければならない困難等が幾重にも加わり、困難が倍従する。
福島大尉は前述の複合する非常の困難が最も顕著にあらわれたものとして戦例2つを挙げ、複合する困難の実相と克捷の方略を例示している。

一番目、戦例その1《1870~71年戦役、mans戦闘以来7日間の独軍行動・疲労》

《goltzの手記からの引用。その大意は以下の通り。》
毎朝氷結する道路上を行進し、騎兵は下馬して馬を牽き、密霧消滅すれば直ちに戦闘し、敵を撃退す。砲兵は次の陣地を推進する準備に移り、歩兵は深雪をおかし、地障を越えて進む。敵に接近して追撃せんとすれば忽ち後方の陣地にさがり、その為深夜に及び、その捕捉は困難となる。夜になり(仕方がないので)露営に入るが寒気凛冽のなか、(集合に時間は掛かるが)耕作物中に散在せざるを得なかった。四方からの襲撃に備えなければならないので、警戒勢力を強大にした。この時壊乱させたはずの敵がまた再び我を急襲し、殆ど連夜緊急集合させざるを得なかった。軍隊の休憩も不十分であった。積雪上の露営火や炊事場の回りに群集し余地なし。被服は湿潤、身体凍凝するので火に曝し渇いてもすぐ氷雪に覆われるので、被服の毀損甚だしく、追撃して帰隊したある時、某中隊では、軍袴が異なる20種の多さに及んだ。服は仏軍のものを身につけているものさえあった。靴は木靴から騎兵靴まで悉くその種類を異にし、正規の上着又は外套を着用するものなし。士卒の3分の1は既にla mans以来麻製の袴にて5度乃至6度の寒気中に行進せり。(宿営)

二番目、戦例その2《1877及び78年における露軍のbalkan山を越えての攻勢》

露軍は尚一層困難を顧みず以てandnnopleに侵入した。当時露軍は土軍に対し数月来schipka峠の要地であるnfcolas山陣地を保持していた。此の陣地は悉く雪で覆われ温度は列氏零点下20度であったので、露軍の患者頗る多く、殊に第24師団は他の部隊より遅れて参戦したにも係らず、12月25日迄に、6千人以上の病死者を数えた。12月24日、1日で1連隊中で630名の病死者を出した。従って第30師団が替るという事態に陥り、その後大縦隊は部署を分ってbalkan山を踏み越えた。露軍戦死者の過半は敵弾に斃れたのではなく、寧ろ足凍が原因、寒気積雪の害によるものであった。当時極寒に先立ち防寒衣を得たもの洵に少なく、特に困難したのは靴で、将校以下兵卒に至る迄靴底があるものは殆どなく、皆草若しくは布辺を以て纏絡していた。
二つ目、方略 一番目、狙い・目的 降雪と積雪の影響は千態万状・複雑、其の時々刻々の変化は予想外であり、天候不時の現象等もあり、無形上の判断を行うことは困難である。従って最良の方法よりも寧ろ寡害の手段を考え冬季戦役に於ける本来の目的を達成すべし。之が為、行軍・戦闘・宿営から攻撃・防御、衛生給養に至る迄仔細に研究・調査・実験し、戦時に際し、成るべく自己の経験に上らざる未知の困難に遭遇する事なきを期せざるべからず。(緒言) 二番目、要訣ー旺盛な攻撃精神 その一、攻撃精神が本質的に優れる点 1864年攻勢を採った普軍は敵の防御線の側らにある村落で安穏に舎営せし間にdanemarkの守者は降雪中その保塁の後方に昼夜其兵を武装の儘に置かしめたり終に戦はずして要塞を委附するの優れるに如かずと認めたる程其兵は疲労し且つ飢渇せり。本問題に対する答案の主旨は将に茲に尽きんとす。(結論) その二、攻撃精神の発揚ー戦例その2より 強大なる軍に対しては地形も積雪も障碍の要をなさず。険山と雖も恃むに足らず。bugeandの言「余は敵と地形とに関せずして動作すべし」は凝寒積雪の地に於いても是れ応に適用すべき確言にて攻勢と先制とに適するものなり。(宿営) 三番目、基本態度 その一、困苦欠乏は忍ぶべしー戦例その1より 戦争は其当初より終局に至る迄微細の計画を定むる能はざるのみならず予期せざりし事件続々湧出し来たるを常とし形勢の変化を精密に察知する事実際の許さざる所にして困苦欠乏は之を忍ばざるべからずklausewitz曰く能く飢渇に堪ゆる事は是れ軍人美徳の一とす苟も此徳なければ一軍の士気振起する能はざるべし(宿営) その二、士気の高さ・規律の堅確・団結の固さー戦例その1より この困難に打ち勝ちたる所以のものは志操の堅確耐忍と軍規の厳粛なりしに因る。(緒言) 四番目、冬季演習への慣塾 その一、準備の周到ー戦例その1より 準備を周到にして臨む大切さとその結果の予想、深い先見洞察の必要性を述べている。即ち、事の初めは能く利害を討究し其後は敢て之を試む可し、之を試みし結果は概ね此の如き事を予想するを要す。(宿営) その二、手遅れにならない先行準備ー戦例その2より 気候天候に係る措置を十分に準備するを緊要なりとす。その必要を感じて遂に之に着手せんとするも時機既に去て又遅し。(行軍) その三、冬季演習の施行ー1897年1月20日独兵事週報第6号より 同週報の「積雪及び降雪の戦術上に及ぼす影響」についての記事を紹介している。その最後の「各種の困難は固より悉く除去すべからずと雖も若し軍隊をして之に慣熟せしむる時は其の幾分を減殺する敢えて難しからず」に続いて、此の如き演習を頻々施行する時は各指揮官並びに兵卒は漸次雪中に於ても固有の地形を判知する事に慣れ馬匹も亦雪中を歩行する事に熟し、且自ら経験を積み敏捷となるべし。(一般の要旨) その四、損害少なく目的を達成する法を自得すべしー戦例その2より 攻勢を取り幾多の障碍を排除して堅固なる陣地を攻撃し、之を略取するを得べし雖も其の受くる損害の度果たして如何にあるべきかを考察し、之を減少するの手段を平時に於いて自得するを要す(一般の要旨) 五番目、後方方略の充実 その一、充分な後方の準備ー戦例その2より 居常之か練習に力を用ゆるの欠くべからざる事は当然にして休養衛生に至る迄将来の戦役に対する準備充分ならざるべからず。(宿営) その二、後方の困難ー戦例その2より 後方の連絡に対し雪の及ぼす影響は特に甚だしく輜重縦列は迅速な行進を行えず、鉄道は往々全く其往復を中止し、攻城砲及び材料の運搬に大いに困難なりとす(行軍) その三、休養方略の優先準備 将来の敵に対し、寒国に於て戦闘を終始せんには作戦計画よりは寧ろ休養方略を先にし、平時より豫め充分の調査を行なはされば不可なり。(補遺) 終わりに 福島大尉が本稿のテーマ、複合する非常の困難とその克捷方略について、最後に実行あるのみと結論付ける過程に、八甲田山雪中行軍に於いて”非常の困難に挑んだ経験と無事に任務を達成した自信が大きく働いた、と思われてならない。 其の他福島大尉が訴える克捷方略には対露方略と軍隊保育上の(特別の)考慮の2つがある。これらからも非常に篤い思いが伝わってくる。夫々の訴えるところを混じりなく伝える為、別建てとしたい。 次稿に続く

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論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その五、最も訴えたかったもの一番目、戦いの理念と応用方略(続) [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

前稿から続く

二つ目、雪中戦闘の原則を応用する方略

始めに

山地戦及び夜間戦の原則を応用する方略として戦闘、行軍、駐軍及び捜索・警戒について、夫々の重視事項を述べている。

一番目、戦闘 

その一、歩砲騎の協同

積雪地・山地の戦闘において突撃の決行を翌日に延期あるいは遅緩する時がある、即ち正面攻撃等の場合、比較的に砲兵増加を可とする例として1870年12月27日の独軍がmont avron山による仏軍を囲撓して行った砲兵戦を挙げている。

山地戦に在っては正面攻撃とならざるを得ないが、その困難を医する為、迂回及び包囲攻撃の必要が生じる。この際に砲兵で前面の敵を攻撃する間に敵翼側を騎兵及び歩・砲の支隊が衝き、敵を乱れさせた例として1871年1月19日saint quentinの戦闘における独軍の攻撃を挙げている。

1877及び78年戦役に於けるbalkan山の戦闘に於いて、露軍は土軍が主力をもって守備するtrjarsthorに対しては主力を当て、支隊をもって側面よりその背後を衝く作戦を取った。将官gourkoの指揮した右迂回縦隊は工兵が堅氷を段形に鑿開し、12月28日よりは降路となったが大雪に見舞われ、砲桿は兵卒60人で縄で挽行した。1月4日より6日は分解して橇に載せ砲1門につき駄牛48頭を要した。要するに将官gourkoは砲兵は如何なる犠牲を払っても戦場に必要と考えた。

本戦役において露軍騎兵が他の兵と協力して氷雪中に動作した例として、1878年1月2日sofia付近の戦闘を挙げている。将官gourkoの軍はsofiaに向かい前進し、将官rauchの軍は正面攻撃により土軍を攻撃した。将官rauchの軍が突入した時、土軍は多くの弾薬を遺棄して既に遁走していた。この後近衛騎兵第3旅団を右側警戒の為翌3日出発させ、phillippopol街道に達したので、将官karzofの軍は3梯団でtroian嶺を踏越した、この時、中佐cncbumnilow歩兵2中隊とcosaques4ヶ中隊を背後に差遣し、その方形堡を奪取した。

歩砲騎からなる追撃隊が戦果を拡充した例として、1871年1月4日のrovertle dinbleの戦闘において独軍は午後6時出発、氷雪中寒気激烈にも拘らず月明に恵まれ連合の目的を達して仏軍を敗走させた。

困難があるからこそ、山地の攻勢には歩・騎・砲各兵種の特性、夫々の利点を結合し欠点を補って総合力を発揮する協同が必須である。歩兵はあらゆる地形を克服して徒歩で敵に近接・突撃出来る力を持つが徒歩主体であり近間範囲に極限される。砲兵は威力を遠くから敵に浴びせ圧倒するが観測点や陣地が必要。この奪取は歩兵に頼る。騎兵は騎乗遠距離の機動力を持ち、翼側の警戒・敵の退路遮断や陣地を放棄させ要点の奪取などの力を発揮するが地形や降雪などの障害を受けやすい。

その二、指揮官の独断心

雪中に在っては迅速なる交通法を設ける事が困難なので命令及び情報を速達出来ない。故に指揮官は独断心に富み機に臨み変に応ずる知略を備える事が緊要なりとして、1871年1月上旬の独軍のla mansにおける、右翼13軍団と左翼第10軍団の連携による集中的作戦が非常な困難に陥った際に第39旅団の果敢な攻撃によって仏兵を一挙に撃退した例を挙げている。

そして指揮官の独断力について、1871年1月14日独将von mantenffelが狭隘で深雪のlangres高原通過に際し下した訓令を紹介している。その要旨は以下の通り。つとめて迅速に山嶽を通過し、諸縦隊や輜重はこれが追随に全力をあげ、時宜に依り隣接軍との交通の保持に努めなければならない。この為、これから数日間、余は命令を下すことが出来ないので、分離する各縦隊の司令官は百事専行せよ。若し中間に敵が介在する時は之を排斥せよ。この為、山嶽の出口に達した縦隊は直ちに左右に展開し、隣接縦隊の進出を自在にせよ。若し進出自在ならざる時は各司令官は出口に向けて行進する縦隊の難を免れるため時機と便宜を計り百事独断決行せよ。

以上、各軍毎の独立的行動とならざるをえないので、速やかに打通を図り、成功したところから成果を拡充する。又不測の事態も多いので、指揮官の独断専行が必要である、との趣旨であるが、山地戦の原則適用の応用方略と捉えた例示である。

その三、準備の周到

降雪は視界を遮り射撃は困難、地形を覆い、機動及び目標の識別も困難で、戦況の進展は遅い。冬季は短日の為、早期に攻撃を開始しても、その進展は遅く、夜戦にそのまま移行することが多い。敵に膚接した追撃も難しい。

雪中殊に夜間に於いて著しく困難なるが故に深く注意を要すとして、1877年karsの夜戦の例を挙げている。露軍は前夜捜索兵を出して保塁の近地を偵察せしめ、之を嚮導としたが、一部(3大隊)の縦隊は方向を誤り、hafisの保塁を攻むべきところその付属の砲台を攻め是を奪取した。逆襲してきた土軍の1大隊も撃退し、追撃したが、露軍の3大隊は散りじりとなった。将官bacarewは方向誤りを知り、予備隊でhafiss保塁を攻撃させ、略取した。この夜月光に乗じてはいたが、地上を覆う白雪は地形地物を一様に包み軍隊の混乱を惹起した。
地形偵察、目標・行動境界などの計画及び事前の予行等周到な準備は必須であるがそれでも尚困難が付きまとう。不測の場合の予備の手段を準備して万全を期すべし、等の応用方略を明らかにしている。

二番目、行軍ー夜間行軍に習熟

戦場に於ける夜間行軍は之を必要とする場合極めて多く凡て大戦役に興りたる軍は夜行軍を必ず為さざるなし、その例はfriedrich及napoleonの戦役中に最も多しとして数例を挙げている。1806年estcqの軍団は冬季中多く夜間行軍をなしたれども甚だしく疲労することなく、2月2日午後より7日の夕に至る迄5日半の間に20余哩進みたり、此れの進軍は概ね夜間に在りて殊に積雪に埋没せる大交通路を通過したるにも係らず8日には此れの有名な行軍を遂げ得てeylauの戦場に到り、当日の勝敗を決せり。将に夜間攻撃と同様の扱いである。
上記は強行軍ー決戦に間に合わせる等状況急を要する場合に行われた例でもある。

雪中の夜間行軍(強行軍)もその宜しきを得れば普通に実施し得らるべし仏将lawl曰く行軍の功を奏せざるは困難よりも寧ろ其の実施方法を知らざるに在りと。

1899年改正露国野外勤務教令草案第312に曰く、夜行軍の際は行進方向の保持、軍隊の連絡に関し特に注意すべきこととして縦隊に嚮導を付すること、道路の交差点に標兵を立つること、縦隊の距離を減じ密接して行進すべきこと等に着意するを要すとある。是等夜行軍の規則は皆降雪の際に於ける行軍に適用せざるべからず、と福島大尉は述べている。

三番目、駐軍ー休養

少し観点が違うかも知れないが、連続夜戦に伴う疲労や不眠の解消は戦力維持上きわめて大事である。駐軍方略が必要である。

寒威特に甚だし中、連続数昼夜に及ぶ数次の会戦ー1870年及び71年の独仏戦役に於いて、1870年12月15日~18日のlisaine河左岸horlcourt付近の戦闘、12月23日~24日のamiene付近の戦闘、71年1月17日のlisaine河畔の戦闘で、仏軍は倒れし者多く、退却を常とした。これを評して福島大尉は”駐軍”の中で、指揮官たるものは宿泊に関する十分の配慮は片時も離すべからず、と以下のように語っている。

此れの戦役間に独軍の休息したる法を観るに、大いに仏軍に優れるものものあり。独軍は通常舎営せるを以て其の軍隊は不良の天候に悩まず毎夜能く休息せしが故に翌日新務に就いて苦しまず。唯保安の兵隊は行進の間、独り露営せり。本軍若し翌日に戦いを交ゆべき事を先見し之が為集合して夜を徹するを要する時は其の兵は悉く皆露営すと雖も是亦1両日に過ぎさりしなり。
仏軍は是と異なり露営を以て常則とし舎営を以て変則とす。此の役の初期に於いては殊に多く、露営し之が為に寒に苦しみ、勇を粗し、安息する能はず。加ふるに此の法を用ひたるが故に我が宿営を窺われ、我陣地を偵察せられ我が部署及び兵数を判断せらるる等の害を受けたり。

更に、一方には行進の迅速を貴び、一方には非常の損害を避けるべからざる行軍と決して離るべからざる宿営の法亦難しかなと付け加え、plaqusの格言《凡そ戦争の機関は闘争と睡眠とにあり即ち体力を費耗し及び之を回復する之なり、而して体力を回復するは之を費耗するに比すれば非常の智力を運らすにあらざれば能はず》を引用し、是れ大いに真理に的中せるの言なりと述べている。

四番目、捜索及び警戒ー多くの勢力を充てよ

その一、捜索

騎兵の襲撃は豫め多時を費やし、綿密に捜索を行ひたる後に非ざれば確実の成功を期し難い。又騎兵及び歩兵の陣地に於ける運動は周到なる捜索の必要よりして、勢い遅滞に陥るを免れず。
地形の捜索については特別の措置を要するを実験すへし。例えば騎兵の運動に際し、横路に派遣する捜兵は操典に規定せるが如き少数者を以てたれりとせず、或いは正面前に凡そ10歩宛ての距離をもっうて一大連鎖を成形するの必要を見るべし。(一般の要旨)

夜間、山地の原則適用に似た考えが背景にある。

その二、警戒

露国野外勤務教令第229を引用し、即ち警戒隊は夜間雪嵐濃霧に際し、その注意を倍従するを要す之が為各小哨は多くの哨所を置き、各警戒区域に於いて補足小哨及び潜伏斥候を出すべし。(捜索及び警戒)

終わりに
独断心を書きながら福島大尉は野外要務令綱領の中で、受令者其の処置を発令者に恣稟する暇なき時は自ら其命令の目的を達し得べき方法を撰び独断専決以て機会に投せさる可らずの条項を思い起こしていたに違いない。独断専決が求められる場合は指揮官として最も難しい場面である。雪中戦闘ではその難しい事が常態の様に起きる。難しさ即ち困難さに向き合う福島大尉の姿がここでも伺える。

この稿終わり
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論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その五、最も訴えたかったもの一番目、戦いの理念と応用方略 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

戦い方の理念と応用方策

一つ目、冬期戦の戦い方の理念

始めに

福島大尉が本論文で最も明らかにしたかったものは冬期戦の理念、冬季行動標準の大元(おおもと)、であった。この為、今までの研究では未だ手を付けていなかった”戦闘(の章)”を解明する事に重点を置き、所謂論文の肝とした。論述の過程で最も、力を注いだのは2つ。1つ、戦い方の理念とその応用方略。2つ、冬季戦は幾重にも重なる困難を伴う、その困難の過酷さと克捷方略であった。

本稿では戦い方の理念の全体像をその形成過程と共に明らかにしたい。

一番目、第一段階ー冬季戦は避けるべからず、否寧ろ積極的に利用すべし

”緒言”冒頭で、昔は戦争数年にわたる時は両軍共に冬営し戦闘を停止するを普通とした、と述べ、近代は軍術の進歩と軍隊保育上の発達並びに費用膨大になり決戦を指向せざるをえないなどの理由により、「予め冬季戦役の避くべからざることを期するを要す否寧ろ冬季戦役の積雪冱寒を利用するの慣習を養はざるべからず。」と啓発している。

二番目、第二段階ー断固攻勢をとるべしー嫌”愉安労吝”

”緒言”で、軍隊が寒気に抗し得た好例として1878年露軍のschipkaを迂回してのbalkan山跋渉において飢寒不眠疲労の辛酸を嘗め尽してその運動を成就した例、更に古代の名将hannibalのgenevre山、napoleonのsaint.bermaluckyd、macdonaldのsplugenに於ける氷崖幽谷の通過の例を挙げ、攻勢軍の好模範と述べ、攻勢を取るには強い意志がいるとして、行軍が出来ない理由に天候や氷雪による滑倒を挙げるのは愉安労吝に等しいと断罪している。

”一般の要旨”で戦術上及び戦略上の守勢は冬季の作戦に適する、との論を偏見であるとし、この言を信ずれば攻撃を断念するやもしれないので此れの如きは吾人の採らざる所なり、と述べ防勢は慮外と強調している。

更に防勢を不可となすが故に顕著な実戦の好例として1877年12月下旬より翌年1月上旬におけるbalkan山踏越を、その厳しい様相と共に挙げ、露軍は決して冬期戦闘に守勢をとらざりしなり、この事を思えば吾人は如何なる大雪嶮山と雖も決して攻勢軍の動作し得られざるものにあらざることを脳裏に銘するを要す、と述べている。

我が陸軍は敵を求め、短期決戦によりこれを撃破する(註)ことに戦勝の活路を見出す、このためには攻勢が最も有効な戦略手段と考えていた。
駐:この主旨は日露開戦時の戦略方針に明らかである。

三番目、第三段階ー山地戦、夜間戦の原則を適用すべし

その一、山地戦の原則適用について

"戦闘”の章の最後に、露国冬季演習規定を引き、積雪深き時、地形一般に多数の狭路を現出する時は軍事的作戦も狭路戦闘の性質を有することとなる。道路外の運動は困難となるので、正面攻撃とならざるを得ない、を引用している。そして結論で雪中の戦闘は山地戦に似たり故に山地戦の秘訣は之を雪中戦に適応するを得べし、として、敵をして其陣地より出て我が陣地を攻撃せしむや孤立したる部分攻撃に依るの外方法なく、集中的に行動すべしなどの格言を引き補足している。しかし攻勢によって戦勝の道を拓くべき我が軍としては正面攻撃の困難を医する為に迂回若しくは包囲攻撃を行うべきであり、その例として普仏戦争における1871年1月19日saintquentinの戦闘を、背撃を行った例として1877年及び78年の露軍のbalkan山越えを挙げ、攻撃機動の各方式併用或いは適用を示唆している。

その二、夜間戦術の原則適用について

降雪は展望を妨げる。特に攻者に厳しく、部隊指揮は困難となり、守者の目撃に苦しみ射撃は威力を発揮しない。吹雪や一面の雪原は目標の選択、方向の維持に苦しみ、相互の連絡を困難にする。従って結論に於いて、雪中戦闘は夜間戦闘の原則を確守するを要す。飛雪の火器効力に及ぼす影響及び積雪の軍隊運動に及ぼす影響等も又全く夜戦に於けると等しい。

冬季は短日であり、戦勝後直ちに之に踵って追撃を実行すること難し。即ち冬季の戦闘は仮令未明に開始するも夜半に至らざれば局を結ばず。是冬季に於いて夜間戦の多き所以なり、と述べ1871年1月のla mans及びsaint quentin等の戦例を挙げ、独軍が敵と膚接を失い、或いは不完全の追撃を為せし原因を冱寒積雪にともなう(夜間の)運動上の困難を挙げている。

夜間と同様の戦闘であると同時に夜間戦必至という考えで原則適用を述べている。

次稿に続く
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論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その四、仰天! 型破り大論文 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

型破り大論文に仰天!四つのの思い

始めに

論文「影響」を何回も読み返した。その度に仰天の思いが深まった。その仰天とは八甲田山雪中行軍などに全然触れずにこの論文を書き応募した、その強い思いが一つ。応募規定は罫紙30枚(12000字)以内であったが、それを遥かに超える罫紙108枚(43200字)のボリュームが二つ。このテーマは八甲田山雪中行軍で着手済みであったが、大事な部分の手つかずがあった。それをこの機会を最大限活かして仕上げたいと、いう強い思い入れが三つ。そして訴えたい事の迫力、声の大きさが四つ。

一つ目、八甲田山雪中行軍には触れずに書く

偕行社記318号、懸賞論文披露の中で、応募者21名の労作の講評があり、福島大尉に関してはその型破りさに目を奪われた講評となっている

「本案は露土戦、普仏戦及千八百年前後の冬期戦例を網羅して殆んど残す所なし。故に其所説概して大要に止まり稍漠然たるの感あり又大尉の実験研究したる事項は一も之を発見する能はす(註下線は筆者)。随て直接の施設等に関しては一も述ぶる所なし。要するに雑誌新聞等の抜粋輯録よりなる一の冬期戦史と見れば可ならん。但し斯の如く数多の戦例を蒐集したるの労は決して没す可らず」
この旅の冒頭にブログ「福島大尉のなしたことを思う」で何故八甲田山雪中行軍に触れずに論文「影響」を書いたか?と提起した。その答えを模索し続けて、ブログ「八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその十一 伝えたかったものその三(終わりー何故公表したのか?)」で漸く辿りつくことが出来た。要するに福島隊の快挙は第五連隊の大遭難(大惨事)の前では陰に隠されてしまう立場にあったし、好むと好まざるとに係らず、福島隊は第五連隊の失敗を際立たせる立場にもあった。特に小倉服使用と嚮導使用問題は三十一連隊にとっては成功の、五連隊にとっては不成功の要因として際立っていた。この事を弁えていた福島大尉は陸軍当局が鎮静化に努める動きの中では、沈黙が最も相応しい行動と認識した。しかも懸賞に応募した時点では旅団副官という職にあった。兄弟である五連隊と三十一連隊両方への目配りが求められる立場として、沈黙の強化は当然の帰結であった。
自己の、自隊での雪中行軍等の体験をベースにする事は応募論文を書く上で、暗黙の要件とされており、又選考委員も体験を書くことを期待していた。それが分かっていて尚触れずに書いた。
敢えて触れずに書かねばならない、俺には書けるという強い思いが、私に迫って来た。

二つ目、応募規定の罫紙30枚(12000字)以内を遥かに超えて罫紙108枚(43200字)を書く
明治36年降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響002 (640x467).jpg
ボリュームに圧倒されたがまだ驚くには早い。次がある。この中で取り上げた戦例は普仏戦役(1870~71冬)、露土戦役(1877~78冬)等から92、格言(手記・書簡等からの引用)は39、露・仏・独の典礼等7、外国の週報等・・・を数える。数の多さと丹念さに脱帽である。これだけの資料を蒐集し整理し、しかも冬季の諸条件と戦いの様相などに該当する戦例を抽出するわけだから、相当以前からの修学の積み上げが無ければ2,3ヶ月で出来る作業ではない。

三つ目、この機会を最大限活かして仕上げたい自らの研究テーマ

八甲田山雪中行軍では研究項目として「降雪・積雪の戦術上及び休養上に及ぼす影響」を片腕の田原中尉に担当させた。当然福島大尉が指導した。これは羅列的な報告にとどまっているが、雪中行軍に際して初級将校に与えた研究テーマであり、已むを得ない。しかし、何れ懸賞論文で求められる事を予期したかのような時代の先を読む先見性に驚く。
これとは別に、一連の演習や実験行軍でも福島大尉は自ら降雪・積雪の影響を研究している。雪中露営演習(明治33.2)では降雪・積雪の斥候や警戒に及ぼす影響を研究し、岩木山雪中強行軍(明治34.2)では降雪・積雪の雪中行軍特に夜間・強行軍に及ぼす影響について研究し、八甲田山雪中行軍(明治35.1)では降雪・積雪の駐軍や行軍に及ぼす影響について研究している。
その研究態度は冬季行動標準を明らかにするため、諸外国の典礼や戦例を調べ、格言に照らして、検討事項を明らかにして演習や行軍で試し、わが軍に反映すべき事項を求めている。この事は今までに、夫々の実施報告書の中に見てきた通りである。

応募に当たり、自己の研究テーマの未完の部分、即ち戦闘への影響に一番力点を置いたに違いない。
降雪・積雪の戦闘への影響、の中で戦い方の理念は関連する行軍や駐軍などを規制する。今回の応募の機会を最大限活かし、戦闘の理念等を明らかにする事でその具体化の方略及び掴みとった理念に規制される行軍や駐軍の在り方などを見直し、集大成しようとしたに違いない。

四つ目、声を大にして言いたいことがある

一番目、論文の構成

〇緒言〇降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響を論ずるに当たり一般の要旨(以下要旨)〇降雪及び積雪の行軍に及ぼす影響(以下行軍)〇降雪及び積雪の駐軍に及ぼす影響(以下駐軍)〇降雪及び積雪の戦闘に及ぼす影響(以下戦闘)〇降雪及び積雪の捜索勤務及び警戒勤務に及ぼす影響(以下捜索・警戒勤務)〇本間題に対する答案の補遺(以下補遺)〇結論

讀みながら知恵や知識がぎっしり詰まった大海を必死で泳いでいる気がしてならなかった。之を語り尽すことは浅学の私には出来ない、限られた紙面でどのような切り口で迫れば最も福島大尉に近づけるかに頭を痛めた。・・・そのヒントは結論にあった。

二番目、結論の要点

〇戦い方の理念について、雪中の戦闘は山地戦に似ているので山地戦の要訣を適応すること。雪中の戦闘は夜間戦術の原則を確守すること。
〇軍隊の保育上の問題が有る上に冱寒積雪の中での山地戦・夜間戦を戦う戦争そのものの困難は言うべくもない。その困難を克服して勝利の為に必須のものは攻撃精神あるのみ。攻勢を取ることで困難のなかで主動を保つ、これこそが真髄である。
〇困難と向き合い克捷の方策を確立すべし、敵と戦い、地形と奮闘し、偵察を行い準備を周到にする。換言すれば時と地形を味方にすることを躊躇するな。つまるところ実行有るのみ。

三番目、核心

要するに山地と夜間戦の原則に似ている事に着目した雪中戦闘の理念とその応用方略及び幾重にも倍加する困難との向き合い方が福島大尉が一番言いたかった事の核心である。
次回から福島大尉が論文「影響」で声を大にして訴えたかったもの即ち2つの核心と夫々の周辺、をこの”大海”から掬い上げたい。

この稿終わり
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論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その三、極諌ー分った!立見師団長の本心 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

始めにー旅団長を極諌

事もあろうに旅団長を極諌し、抜き差しならない事態を招いた。旅団長との軋轢が表面化したのは明治36年4月頃の事という。詳しい経緯はわからない。先ずは不義を悪む、福島泰蔵の強い心の幾つかを述べたい。

一つ、福島大尉の不義を憎む強い心

一つ目、欲しかったが、桐野利秋銘の掛け軸と分って購入しなかった”不義”を悪む心

小事実録(註)の「小癖ありて大癖に陥らず」で以下の事を述べている。

《大要》自分は書画を愛する癖がある。然れども忠孝義烈の士の筆するものでなければ見たくない。高碕市内の書画を扱う店に出向いた折、非常に気に入った掛け軸を見つけた。漢詩の趣が爽快で凡人の作ではなく、筆跡もまた巧みであった。惜しむらくは名がなく、印章もはっきりしなかった。店の主人も何人の作かを知らなかった。朗吟を数度して見ると心地よい、どうしても欲しくなった。
 将に買おうと思って、灯りを近づけて再び印象を熟視すると、4字の刻印であった。時間をかけ1字目は桐、3字目は利、遂に桐野利秋であることが分かった。それで主人に西南の逆賊桐野敏秋の揮毫である。仮令、1文と雖もこれを買うことを欲しない、と直ちに辞した。

彼の義の根本は忠孝義烈であり、それに生きる、を日常坐臥の間に自らに課している。これに反する不義を悪む心は強い。

註:日清戦争出征前にした明治26年7月23日、弟甚八に我が志を知らしめ、道学の一助にと書き与えた小論文集

二つ目、不条理を悪む心

日清戦争恩賞の不公平を知った福島大尉は以下の詩を詠む。

見功賞録

沙場百戦共馳駆【沙場百戦共に馳駆す】戦後功多閥閲徒【戦後の功多し閥閲の徒】麟閣姓名吾忌見【麟閣の姓名、吾見るを忌む】髑髏知友此中無【髑髏の知友此中に無し】
沙場=戦場の意、閥閲の徒=功績もないのに、薩長等の閥の恩恵に預かる徒、麟閣の姓名=高殿に掲げられた姓名、髑髏の知友=戦死した友人

台湾守備隊在勤中に日清戦争の功賞録を見た時、彼と共に戦場を駆け巡り戦死した友人の名が落ちていた。これに憤慨する心境を詠った詩。恩賞の不公平に世の中の不条理例えば薩長閥優遇等の不義を感じたのであろう。
その外にも青年時代に平民なるがゆえに3度の挫折を味わい、迦葉山に篭もり、窮途に悩んだ切ない思い。陸軍教導団に入学して半年で士官学校受験を許され合格した。しかし直ぐ入校が認められず、教導団を卒業して軍曹任官迄徒に1年半以上待たされた”永滞”の思い等。それらの根底に世の中の不条理を激しく悪む心があった。

三つ目、私心の無さ

福島大尉の義の心には”私心”がない。その心で接する時、旅団長の私心は天皇や国家に奉公する軍人としての道に全く外れている、意を尽くし誠を尽くして諌めたが、事ここに至れば極諌しかないと思ったに違いない。

二つ、度重なる旅団長への諌め、堪忍袋の緒が切れた

顛末その一、初めに捜索初動の遅れにt旅団長の一役?

話しは第五連隊遭難が明らかになり三神捜索隊の捜索2日目、明治35年1月27日の事である。この日三神少尉以下60名は昨日に続いて猛吹雪、酷寒、深雪の中の活動であった。辛うじて大峠付近まで進出し、大滝平から2,3百m過ぎた地点で生存後藤伍長を発見、救護した。そこまでが精一杯、嚮導の諌止により、2次遭難の危険を感じ後藤伍長を収容し、田茂木野に引き上げた。その足で連隊長官舎に向った三神少尉は午後7時40分官舎着、心身疲労気息奄々殆どものが言えなかったが暫し時間をおいて、漸く口を開き救援隊の目撃した所と後藤伍長口述の大意とを報告し、救援至難の情況を詳述した。連隊長は事態の頗る容易ならざると救護の一刻をも疎かにすべからざるとを知り、即時将校を其の官舎に集め状況を説明し、今後の計画について説明した。
連隊長は翌朝三神少尉に師団司令部及び旅団司令部に報告させ、自己の心事を書いた書面は直接t旅団長に届けるよう命ずる。三神少尉は弘前へ向かい所用の報告を行ったが旅団長不在の為書面は持ち帰った。連隊長は大いに叱責し、旅団長は目下当地に滞在中なれば貴官は之より青森市に至り直接交付すべし、と更に三神少尉にそのまま届けるよう命じた。その指示された場所、某所は青森市内から15km程離れた浅虫温泉の花街、愛妾宅であった、という。(第5連隊遭難始末及び八甲田山から還った男其の他による)
公然の秘密、私行が知れわっていた証左である。
師団長は会議の為上京中で不在、連隊が事態容易ならざると沸騰している時、t旅団長は・・・。初動のもっと大事な時に任を果たさず。
この事を後で承知する福島大尉は副官として、わだかまりを覚えたに違いない。早ければ助かるべき命がもっとあった、我が身内は?との遭難者・遺族の心情を思へばそのわだかまりは当然。後の軋轢の伏線となったであろう。

顛末その二、いい加減にしてくれ無責任な職責遂行

t旅団長と福島大尉の官舎は道一つ隔てて向かい合っていた。t旅団長は夫人を広島に残して単身赴任の身、官舎にいる事は稀でその某所にいる事が多かった。明治35年10月頃から体調を崩し、半年程休暇を取り広島の夫人のもとで自宅療養した。正式に入院や医者にかかる手続きをしたわけではない。この間の諸々の気遣いは大変なものが有ったであろう。
又休暇後も勤務に精励する気配が見られず、福島大尉は苦言を呈し始めた。某所通いの儘出勤せず、文書を従卒に届けさせる等はザラであった。遂にたまりかねた福島大尉は上申書を書き、極諌に至る。

顛末その三、許せぬ、薩長閥を楯にごり押し

t旅団長は旧長州士族で、薩長閥意識を強く持っていた。夫人h子の父は旧薩摩藩士、明治陸軍乃木将軍の妻某とは父方の従妹にあたる。最も福島大尉が忌み嫌う薩長閥が立ちはだかる。
t旅団長は陸軍中央部に薩長軍閥を楯に副官交代を働きかけた。一方福島大尉は軍籍離脱或いは転属の意思表示をした。話しが表沙汰となり、捨ててもおけなくなり陸軍省は秘かに調査を始めた。

三つ、降った裁定

t旅団長は現役から予備役に編入、広島に引退、ついで後備役に編入された。福島大尉は何等咎を受けることなく山形歩兵第三十二連隊中隊長に転属することになった。

裁定の陰に

顛末を知らせ転属を希望して寄越した福島大尉に対し、裁定が降った後での陸軍省恩賞課長、亀岡中佐の書簡に「一点にても争点に貴君の不理屈之有候へば停職もの、それなくて安堵仕り候」、「世上に対しては毫も疾しき所なく、一身上の価値で却って上がるも下がる事なく」、「師団長に対して、今後一層御憤勉の程希望致し候」とある。 福島大尉には一点の非もない事がはっきりした訳である。
亀岡中佐(陸軍省)1 003 (640x160).jpg

四つ、立見師団長の苦悩と決断

亀岡中佐の書簡にもあるように、立見師団長は最後の局面で福島大尉の肩を持った。t少将は日清戦役に第10旅団長(司令部松山)立見少将隷下の丸亀歩兵第十二連隊長として参加し共に、戦った仲。偲び難いところはあったが、結局のところ喧嘩両成敗にはせず、福島大尉の”義”を取った。戦場経験の豊富なものだけが持つ勘とでも言おうか、立見師団長はその”義に戦場のにおい、鬼神のにおいを感じ取っていた。命を懸けた修羅場にはなくてはならない、どうしても連れてゆきたい男であった。
偕行社記事第329号(明治37.1)に立見第8師団長談話が載っている。その要旨として、歩兵の突撃について「間断なく成るべく敵に接近すべしとの原則は今も今後も生き続ける。充分に準備射撃をなし、最後に肉弾を投ず、是のみ。突撃の時機に至っては、口言ふべからず筆記すべからざるものあり。この時機を知るは自得にあらざれば能はず。予は常にこの時機を重んじて研究しつつあり。学説と実兵の指揮は一致し難きものあり、実兵の指揮は工風多年塾練の功を積むにあらざれば達し得ざるべし。」と述べている。
つまるところ立見師団長にとって、戦いは(攻勢の)突撃の精否で決まる。成否は時機を巧みに捕えられるか否かである。要するに戦場働きで、戦機を掴む等最も頼むに足る男、それが福島大尉であった。
立見師団長は自分の手元に置き続け、その冬季戦術・行動に係る高い見識と実行力を如何なく発揮させて、第五連隊遭難で負ったダメージの回復と来たるべき国難日露戦争勝利の為、無くてはならない、得難い存在と思い込んでいた。戦場にはああいう男は絶対に居るんだ、特に雪国師団故に最激戦正面を任される第八師団には・・・。
最近、米国留学経験者から聞いた話であるが米陸軍ではトラストミーと云う制度があり、一生に一度だけ、戦場に臨む際自分の部下をトップが選んで連れて行ける制度があるそうだ。指揮官がどうしても連れてゆきたい、と顔が浮かぶ者を部下に得て、思いっきり戦い勝つ。これほどの指揮官冥利は無いであろう。

五つ、明治36年10月 山形第三十二連隊中隊長に転属

「一身上の価値で却って上がるも下がる事なく」と言った亀岡中佐の言葉通りの処遇であった。中隊長を2度経験する士官学校出の将校は確かに少ない事であろう。しかし、あれだけの大騒動を起こしたにも係らず、国家が中隊長として部下100名余を預けた意味は大きい。軍人の働き場、戦場で100名の命を我が肩に背負い、勝利と命を護る為に智勇の限りを尽くす。
山形歩兵第三十二連隊長森川中佐は日清戦役を高碕歩兵第十五連隊で中隊長と小隊長として共に戦った仲であった。又この時きえは身重の身体であった。早々に官舎を後にして山形へ向った。

終わりに

本稿で一番心に響いたのは最後に立見師団長が福島大尉の肩をもったことであった。この時、立見師団長は好むと好まざるとに係らず本心を出さざるを得なかった。その事で二人の関係は一段と近づき、新たな段階に入って行く。特に”志士”福島泰蔵大尉の理解者”立見師団長”への思いは一段と篤くなった。

この稿終わり
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