SSブログ
福島大尉の実行力を訪ねてー福島大尉が目指したもの ブログトップ

【よろく】福島大尉が目指したものは?-その三 全陸軍冬季行動標準作り [福島大尉の実行力を訪ねてー福島大尉が目指したもの]


始めに

今回は目指したものの最後、「全陸軍冬季行動標準作り」である。”行動標準”については既に思いつくままに述べてきたので、本号はその整理をしておきたい。

福島大尉と行動標準

福島大尉は行動標準なる用語を使っていない、しかし彼の遣った用語を拾い集め、思いを巡らすと、こういうことではないかと思われるイメージが私の脳中に浮かぶ。それを”行動標準”と表現した。福島大尉像を語る上でそのイメージの整理をしておくことが今後に役立つと思うので、そうする。

一つ、福島大尉の使命意識

二つの視点が浮かんでくる。雪国衛戍部隊の義務を負う者と隊員保護の責任を負う者としての全軍の行動標準作りの視点である。

一つ目、雪国衛戍部隊の義務を負う者

「厳冬冱寒の候に於ける雪中演習は当第八師団菅下の如き地に非ざれば充分の研究を為す能わず現下の趨勢に鑑み東北地方に在る軍隊は冬季演習を拡張し特に其の行軍実施の必要なることを認む」(岩木山雪中強行軍 第二十 研究せし事項の要旨)と雪国衛戍部隊の先天的義務について語っている。

四国・九州などの暖国の部隊は冬季演習はできない。しかし、暖国の部隊と雖も国難対露戦、10倍の敵との総力戦では冬季、酷寒の大陸で戦わざるを得ない。明治30年に新設された第八師団は冬季行動標準つくりを急がねばならない。師団だけの視点では不十分。全陸軍の為かってでも背負う気概が必須である。その荷は自分が全力で背負う。

二つ目、隊員保護の責任を負う者

福島大尉ならではのものに隊員への愛情、隊員への目線と言っても良い、がある。精強な兵に育てること、粗忽なことで身を誤らせないよう注意をすることが将校の真の愛情との思いが以下の表現となっている。

「前年度(註明治33年2月)改定の要務令には冱寒に対する諸種の事項を精密にし以て冬期演習の必要を認められたり(略)従来よりも一層冬期演習に重きを置き寒気及び風雪に対し兵卒を保護し得べき方法を験知し吾人の責任を竭(つくさ)ざるべからず」」(岩木山雪中強行軍 第二雪中の行軍力)

「兵卒の健康に対する主要の危険は気温の低下せる場合に在るを以て成し得る限り避寒の手段を採らざるべからざることは上長たる者の義務にして特別にこの点に注意なかるべからず」(雪中露営演習 一雪中の露営法)


二つ、行動標準の中身
 
上記について以下の三種の考え方をくみ取ることが出来る。行動指針的規定、行動実行上の準拠的規定、行動実行上の細部実施規定である。

一つ目、行動指針的規定

福島大尉には行動上の標準を明確にする合理的な考え方がある。露軍典令等を参考にして皮切りの雪中露営演習で標準を定めた。全軍種、全隊員共通の行動指針的規定である。

「兵卒寒気に堪え得るの程度を試験するには予めその標準を定めざるべからず。何おか標準となさんか、気温之なり」と摂氏氷点下12度、露軍が露営を為さじめざる規定の温度を本演習(試験)の標準とした。(雪中露営演習 六雪中露営に於て兵卒寒気に堪え得るの程度)

露営演習を行った結果、以下の結論に到達する
「摂氏氷点下10度の気温に於て軍隊は尚ほ能く寒気に堪え得る事」(雪中露営演習 六雪中露営に於て兵卒寒気に堪え得るの程度)

二つ目、行動実行上の準拠規定

福島大尉は冬季顧慮欠落の為、夏季規定のままでは困難あるいは不利益な事項等の指摘とその成案を提示し、実行上の準拠規定検討を行った。全軍種、全隊員が共通的に行うべき事項についてその行動上の原則的事項等についてあるべき方向を提示している。

「雪中の露営法は野外要務令の原則を厳守すること困難なり故に多少之が改正を要する事」(雪中露営演習 雪中露営に於いて研究せし事項の要旨 左の如し)

「野外要務令の規定に依れば歩兵は露営の設備をなすに叉銃線(註銃を組み合わせて立てかけた並びの線)と休宿地とは全く分離し又装具は昼間集合場に置くを定則とす。然れども此の定則を厳守するの不利益なることは雪中露営の実施に於て切に認むる所なり。」(雪中露営演習 一雪中の露営法)

「野外要務令には炎熱冱寒の害を予防するの方法を規定せらるるも積雪の害を排除するの手段は応用に帰せらる。雪中行軍に於ては度々先頭を交替せしむるか又は旅次行軍に於ては踏雪隊を設けるの必要なり」(岩木山雪中強行軍 第二十 研究せし事項の要旨)

以上は福島大尉が好都合と喜んだ特に厳しい地形・気象条件(降雪・積雪、寒気及び寒風)が隊員個々の衛生面・行動面、部隊行動面、指揮活動面などへ及ぼす影響や耐え得る程度及び克服法などを明らかにすることによって可能となった。

三つ目、行動実行上の細部実施規定

雪中露営法・施設の構築法及び装具の携行法等について、露営演習で、周到な準備と厳しい気象条件下に実験した、そこで得られた結果を踏まえ、行動実行上規定すべきと考究した事項について野外要務令及び下部規定に条項の新設或いは改正を行うべし、を信念を持って提言している。特定の軍種或いは特定の局面における部隊の行動についての規定である。

「露営の付属作業として哨舎の構築法を歩兵工作教範中に加える事」【雪中露営演習 雪中露営に於いて研究せし事項の要旨 左の如し】

「雪中露営に在っては武器装具は必ず掩蔽内に置き銃器の携帯法は特別に規定するを要す」(雪中露営演習 雪中露営に於いて研究せし事項の要旨 左の如し)

終わりに

目指した三つのものは福島大尉の人生を貫く三本の柱と言っても良い。発現の時機は異なるが、前者の目指したものの強い思いからその次の目指したものが産まれた。目指したものの深化(進化)の過程である。

次からは愈々八甲田山雪中行軍へと思いの舞台を移す。

このシリーズ終わり
nice!(0) 

【よろく】福島大尉が目指したものは?-その二 野外要務令の体現 [福島大尉の実行力を訪ねてー福島大尉が目指したもの]


始めに

雪中露営演習と岩木山雪中強行軍の二つの実施報告の中で、野外要務令改正に触れている、福島大尉の関心が極めて強い、が分かった。ので野外要務令を調べることにした。其れらの経緯はブログ「山場の岩木山雪中強行軍その6明治33年2月野外要務令改正と福島大尉」に述べた通り。

それとは別に野外要務令を読んでみると、各種実施報告などの用語遣いが野外要務令特に綱領に拠っており、気の入れ方が半端ではないと思い始めた。単なる軍人の専門用語遣いに留まらない、行動標準作り以前の心構えの問題として私に迫ってくるものがあった。

それが目指したものの二番目、野外要務令の体現である。

一つ、野外要務令とは

一つ目、野外要務令の意義

陸軍が野外勤務(戦闘場面が本旨)に於いて準拠とすべき典令。天皇陛下の名において卒由(ざっつと準拠の意?、重々しくしないでの意?筆者)が命じられたもの。特に綱領では平素からの将校の心構えについて述べている。

二つ目、綱領で述べられている重要事項(項目のみ)は以下の通り。

①(天皇陛下が定めた)野外要務令を卒由すべし。
②凡て百事戦闘を以て基準とすべし。
③名誉心。
④軍紀。
⑤指揮官の最も戒むべきもの、為さざると遅疑する。
⑥武技に習熟すべし。
⑦武器の使用に習熟すべし。
⑧困苦欠乏に耐え克つ。
⑨演習で示し得ざるもの。
⑩軍人の本分を尽くす。

二つ、体現しようとした事、を思う

上記の内、その体現振りが具体的に表れている幾つかを取り上げ、考察したい。

一つ目、百事戦闘を基準とすべし

《凡て百事戦闘を以て基準とすべし。戦時の軍務の多端なことを思えば将校は平素から確然自立しての任務遂行に励むべし。》

その体現ぶりですぐ浮かぶことが二つある。

一番目は予想外についての考え方。平素厳しい訓練をするのは予想外に対処する能力を高める為であり、その難しい経験の積み重ねで戦時における未知即ち予想外に出会わないようにするとの信念を持っていた。既に見たように雪中露営演習や岩木山雪中強行軍における予想外の厳しい状況を喜んでいる。寧ろ厳しい困難な場を積極的に求めている。

二番目は常に心身の整頓、即動に心掛けていた。①日清戦役動員下令に応じ、連隊将校の中で真っ先に屯営に駆け付けた。②下士候補生夏季強行軍帰営の翌日から参加者を軍務に復帰させた。③八甲田山雪中行軍において1月30日夜浪岡泊の時地震があった。直ちに呼集を行い、負傷者の救助等に当たらせた。

百事皆戦闘を基準にすべしの体現を妥協をせず、やるからにはとことん実行している。

二つ目、指揮官の戒め

《指揮官の最も戒むべきもの二あり。為さざると遅疑するなり。》

現時点で私の脳裏に最も厳しい場面での決心処置が浮かぶ。
岩木山雪中強行軍において、迷い込んだ根の山部落を出て嶽村に向かって700mほど進んだ地点で、大吹雪の為、卒倒者2名が発生した。四辺人家なく、火を得る手段無く、その処置に苦しんだ。どうしても1名は蘇生しないので、折角懇諭応諾した嚮導を付して根の山部落に引き返させ、その地で帰営の保護を依託した。本隊は嚮導なしで行軍続行を決断。物凄く悩ましい状況で遅疑逡巡せず、てきぱきと、であった。

三つ目、武技、武器操作の模範たれ

《常備軍の主綱は戦備の常に整頓し在るなり、従って兵卒教練は直ちに戦闘に切要なるものを先とし、時季を択ばず、常に怠るべからず。教練は武技を脩(しゅう)習するものなり、教練により、技術に熟達し、膽気を壮大にす。軍人の技術は武器の使用に外ならず。習熟し心手期せずして相応すべし。将校は模範と為るべし。》

小事実録の「剣は膽気に在り」の中で「明治27年高崎連隊の撃剣場新設に伴い、連隊の将校6,70名が会合した時の事である。日本流の剣術で達人大沢少尉と試合をすることになった。西洋流の槍術しかやったことがない自分は西洋流を所望した。日本流の剣術に巧みでないなら、君は西洋流で僕は日本流で、日本式の方が得るところが多いから、と見下された。甚だ激した予は然らば予も日本流で応じた。試合が始まってすぐ予は気勢を充実、一刀垂直に大沢の頭上を打ちたり、この直後審判は福島勝てり、と。此の時予は覚えず剣は渾て膽気に在りの語を発したりき。然りと雖も一撃剣の試合或いは僥倖もあるなれば(略)技術に長じて膽気ある上の上なり」。
「予は覚えず剣は渾て膽気に在りの語を発した」事は膽気壮大を普段からを心がけ武技修練に励んでいる表れであり、模範たれを心がけている具体例と感じる。

四つ目、名誉心、軍紀、困苦欠乏に耐え克つ精神を強固に持つ

《名誉心は軍人精神を維持するものなり。胆力を助け怯懦を掃蕩し死生の血に従容たらしむ。故に全軍の名誉を宣揚すべし。》
《軍は軍紀を以て成るものにしてその消長は実に勝敗の由って岐れる所なり。》
《演習の日において困苦欠乏に耐え克つを教誨養成すべし。ひとたび経験の後は大いに自信力を強くしまた進取力を増すものなり。》

一連の演習や実験行軍では厳しい状況や困難な場を求めている。その厳しさ故に必ず表記を訓示し、実施報告ではその研究で得た成果として触れている。

下士候補生夏季強行軍実施報告の中で「第十二行軍実施に依てたしかめたる所見二」に於いて「東北地方の兵は盛夏炎熱の時に於いても亦厳冬極寒の時に於いても労働に耐え得る如く強健なり」とその名誉心を高揚させている。
雪中露営演習に於いて、「平時演習に於いて艱苦に克ち欠乏に耐え以て進取力を増し、自信力を強くせざるべからず(以下略)」と訓示した。
岩木山雪中強行軍実施報告に於いて、「第二雪中の行軍力」の中で「(略)実験上の結果により困苦欠乏に堪え得るの程度が露猟兵隊は言うに及ばず極めて栄誉なる独の第9軍団の右に在るを喜ぶ(略)」と優越した行軍力と綱領体現の効果を評価している。

五つ目、軍人の本分を尽くすー斃れて後に止む

《戦時、実敵及び危険悲惨に耐え克つ道は義務を守り、死生を顧みず一身を犠牲にして君国のために盡す、軍人精神にあり。この精神を鼓動して責めを重んじ任を竭(けつ、出し尽くす意)し斃れて後に止むこれを軍人の本分とすべし。》

岩木山雪中強行軍で、松代村に到着した時に全員が疲労困憊し行軍続行の意欲全く消失した。全く動けない2名は残し、更に出発せんと福島大尉は真心込めて説諭し、疲労したものを励まし、睡眠しつつあるものを起こし、従容として鰺ヶ沢の方位を指した。その時衆皆中道にして斃れつつあるも尚ほ上官と偕に此の行を果たす、と立ち上がった。
このくだりはまさに平常時における軍人の本分を尽くす精神の発露そのものである。

終わりに

福島大尉の野外要務令《綱領》体現は次なるステップへの挑戦の布石【次に目指す目標への視線】という意味も有している。例えば下士候補生夏季強行軍実施報告の中で第十二行軍実施に依てたしかめたる所見二、」に於いて「東北地方の兵は盛夏炎熱の時に於いても亦厳冬極寒の時に於いても労働に耐え得る如く強健なり」と述べている。

上記で第八師団の兵の精強を謳い、その名誉心に訴えている事は伝わる。ただそれだけではない。八甲田山雪中行軍実施に向けての環境整備、精強な兵が準備を周到にして臨んで始めて白龍が棲むという魔の山を越えることが出来る。その精強な兵の心身の準備、命があれば応えられる、を宣している・・・。

この稿終わり
nice!(0) 

【よろく】福島大尉が目指したものは?-その一 名を揚げ、名を残す [福島大尉の実行力を訪ねてー福島大尉が目指したもの]

始めに

福島大尉は何を目指して(何をしようとして)八甲田山雪中行軍を行ったのか、がようやく私の中で明らかになった。遺品寄贈式に思う旅が終わった後はここからスタートしたい。

何故”目指したもの”か?

ブログ開始当初(「福島大尉が為した事を思う」)、為した事の背景にある”目指したものを”何時か、何処かで考えたい、と漠然と思っていた。既に述べたようにそのきっかけを”資料が語りかけて”くれて(ブログ『陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うー資料が語りかける・・』)掴めた。

第五連隊の遭難以降、福島大尉の人生には”予想外”が続く。しかし、福島大尉は立ち止まったり、流されることなく、現実をしっかり受け止めて前へ進み、自己の志を果たす。その歩みが私には、まるで八甲田山雪中行軍などは単なる通過点であり、自分の人生の”目標”に向かって進むだけだ、と話してくれているように見える。

だから、福島大尉の目指すものがズッツと気になっていた・・・。

目指すとは人生の”目標”と言い換えても良い。八甲田山以降黒溝台戦死までをも貫くものである。それは軍人の道を歩む時期により三つある。一つは陸軍教導団から士官学校生徒の修養時代に確立した、名を揚げ、名を残す。二つは若手将校時代の、野外要務令特に綱領の体現。三つは歩兵第三十一連隊中隊長時代の、冬季雪中行動標準作り。

今回は”名を揚げ、名を残す”を思う

一つ、基本的な考え方の確立

上記を表明しているものが快楽説中にある。快楽説とは明治20年11月6日付でまとめた14編の論文集「文俎余廉(ぶんそよれん)」の一編である。教導団生徒時代、軍人の人生いかに生きるべきか、をテーマに私見を纏めたもの。

人世之為快楽者何乎(略)苟当乱世乃為干城之将 当治世乃為柱石之臣 以肆志於一世 而垂名千秋則可也 (略)是豈非忠孝両全乎 豈又非人世之一大快事乎 余之称快楽者 則是而止耳(略)

【人世の快楽と為すは何ぞや。(略)苟(いやしく)も乱世に当たり、乃ち干城之将と為り。治世に当たりては乃ち柱石之臣と為り。以て志を一世に於て肆(ほしいまま)にして、而(しかし)て、名を千秋に垂るれば則ち可也。是れ豈(あに)忠孝両全に非ず乎。豈又人世之一大快事に非ず乎。(略)】

大意は「軍人としての忠君報国の志をどこまでも貫き、名を揚げ、名を残す、ことで十分。それが忠孝両全の途であり、人生の快楽そのものである。」である。志を貫く結果として名を残す、が根本価値。福島大尉が大事にする価値観である。軍人人生の最初に確立した目指すもの、名を揚げ名を残すについての基本的考え方である。

二つ、発現のばねーなにくそ精神

教導団生徒時代に詠んだ漢詩ー竹帛の名

恥我轗軻志未成【恥ず我れ轗軻(かんか)志未だ成らず】三年永滞古鴻城【三年永滞す古鴻城(ここうじょう)】秋風横剣感何極【秋風剣を横にして感何(いずく)んぞ極(きわ)まらん】千歳欲垂竹帛名【千歳(せんざい)竹帛に名を垂れんと欲っす】

註 轗軻=人の志を得ざるたとえ  竹帛=竹の札とえぎぬを意味し、紙の無かった時代の書物の意 

古鴻城は陸軍教導団の所在地国府台(現市川市)にあった里見氏の城址、鴻台城をさす。平民だったので窮途に悩み、士官学校受験狙いで教導団に入団。狙い通り成績優秀者となり受験(明治20年8月)が許され、同年11月、合格した。しかし、入学は翌年の士族の子弟と同じである。教導団を卒業し、軍曹任官後が決まり、であったので如何ともし難かった。”三年永滞”で、虚しく待たされる悔しさと士官任官までは家の敷居をまたげない寂寥感。それを千歳(せんざい)竹帛に名を垂れんと欲っすとのなにくそ精神で振り切らんとする強い思いが伝わる。

三つ、名を揚げ、名を残す思いの発現した場面

発現した三つの場面を取り上げ、思いを巡らしたい。

一つ目、父泰七への手紙

CIMG5871 (640x480).jpg

雪中行軍出発前々日の18日付の書簡、成功したら天皇陛下奏上の予定であり、第8師団の前後無比の演習である、と高揚した思いを伝えている。治世に於ける志を果たして名を揚げるは今、の気持ちが伝わってくる。


二つ目、もう一つ父泰七への手紙

img003 (640x453).jpg

論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」が師団長から賞詞を賜り、全軍に配布された事を父に伝え、自分が目指してきた忠孝両全の途に叶った喜びと共に人に少しは知られるようになった、と名を揚げ、名を残す域に達した達成感を表している。治世における柱石の臣としての働き、雪中行動標準作り等に悔いはない。残るは軍刀でのご奉公で奇勲をたて、こちらでも名を揚げ名を残すぞ、と一層の奮起を誓っている。

三つ目、新田祠畔記吾名

ブログ「福島泰蔵碑を思うー建碑に託す故郷への思い」ですでに述べたが、満州進出1ヶ月後の11月、生きて帰ることを思わない心境となった時、脳裏に浮かんだのは名を残す事。

多分福島大尉が思い描いたであろう景色は次のようなものであったろう。自分がしてきたように、自分の碑を誰かが訪ねてくれ、話を交わし、酒を酌み交わす。そんな時が来るのを静かに待ちたい。

終わりに

福島大尉の名を揚げ、名を残す、は強い。若い時の昂揚した気分の儘の言いっぱなしではなく、生涯を通じ持ち続け、行動させた。その強さは本物であった。
黒溝台会戦の棄命は本当に自ら求めたのではないか、と思える程凄まじいものがある。名を揚げ、名を残すのは今この時、命を惜しむな、とのもののふの心が最後は迸ったのであろうか。

この稿終わり
nice!(0) 
福島大尉の実行力を訪ねてー福島大尉が目指したもの ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。