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福島泰蔵大尉の実行力を訪ねてーこの旅の結び、終わりではなく中休み、に思う続きその三 [福島大尉の実行力を訪ねてー歩み総覧]

三つ目、福島大尉旅での高見、真の福島大尉にぐっと近づく実感につながった奇縁

115年余の間いつか陽の目を、を持ち続けた遺族・親族がどのような思いで遺品寄贈式(4月12日)を迎えるか、は私の最大関心事項であった。その狙いで平成24年2月29日に倉永氏(諫早)、3月12日に栗原良夫、斉藤昌男、福島国治3氏(群馬)を訪れた。三氏それぞれが熱い思いと取り組みをしてこられたことを承知し、貴重な発見をした。この時この出会いがなかったら、福島大尉旅での高見、真の福島大尉にぐっと近づく実感を持つことは出来なかった、と強く思う。

福島国治氏とのご縁

愚直に史料及び福島泰蔵碑を守ってこられ、訪問者に対しては手を休めて応接され、要望に応じ、蔵から出してこられる。その姿に資料保存の重責と福島家の誇りを痛い程感じた。多くの資料から旅の資を頂いた。中でも一度目の親族話し合い終了後、国治氏から特に見せて頂いた、愚直に守り伝えられた家宝「福島泰蔵建碑の動起及び経過の大略」と「福島泰蔵 建碑経過録 高木」は福島泰蔵碑建碑の経緯や撰文者について語る貴重な史料であった。このことで親族の建碑への関わりと何時か陽の目を、の思いの篤さや立見師団長の撰文始め関係者の役割を確認出来た。

栗原貞夫氏とのご縁

「八甲田山雪中行軍遭難と成功のかげに」はじめ多くの資料を親子二代に亘って収集整理してこられた。それらの多くを頂いた。中でも新田次郎氏が「八甲田山死の彷徨」脱稿一ヶ月後に読売新聞に六回連載した「私の取材ノート」記事(現物新聞)を頂いたのは有りがたかった。これではじめて新田氏の考えの見えない処がわかった。小説だからフィクションは当たり前という受け止めとフィクションと事実の扱いが曖昧な中で、作者が事実と明言し或いは興味本位に扱われている部分がある。それらの扱いで福島大尉の人間性や業績が歪められている、と感じた。小笠原孤酒さんと同じ感想である。遺族はどう思うか、の思いが湧きあがり、高倉健さんへの手紙となった。

その私の心の動きをブログ旅で綴った。書く事に未熟な私にとって大チャレンジであったが、福島大尉に近づけたと心から思えた出会いであった。

斉藤昌男氏とのご縁

同氏は何時か陽の目を、を先頭に立って実践してこられた。
娘の理恵子さんの中学三年時の夏休み宿題『「八甲田山死の彷徨」と福島大尉』を拝見し、福島大尉の事を悲しい人と結論付けているくだりに言い知れぬ悲しさ・悔しさを感じた。軍人の分かり難さ故の”知らない”もその一因であろう、私は旧軍の事も一般の人よりは少し理解出来る方であり、且福島大尉に大いに惹かれている一人である。正しい業績や福島大尉像を伝えなければならない、自分の目指しているところは間違ってない、を再確認できた。

前記の斉藤氏宅を訪れた際、「第五連隊遭難始末」(北辰日報編集部編纂、近松書店発行)を手にその中の附第三十一連隊雪中行軍記が雪中行軍手記と全く同文であるがこれはどういう事か、と質問された。その質問を切っ掛けに、そもそも雪中行軍手記を書いたねらい、何故公表したのか、第五連隊遭難と向き合う葛藤へと思いが深まった。そこは本筋の一番目の中心テーマ「非常の困難を思う」の中の、伝えたかったものの芯であった。

同氏のひたむきさから福島大尉にぐっと近づく貴重な出会い、を頂いた。

四つ目、奇縁を思う稿の終わりに

上記3つの奇縁と言うほどではないが有り難いご縁を頂いた方で最後に是非お礼を申し上げないと気が済まない方々がある。

加藤幹春氏、最初の青森取材旅行(平成14年秋)を思い立った時、大変お世話になった。当時陸上自衛隊第9師団司令部広報室長で私の旅の初動に行き足を着けて頂いた。爾来十年余、お陰様でこんな長旅を続けてこれた。

塚本宏秋氏、この旅を思い立って、書くのが苦手な私の挑戦を受け止め励まして少しづつ自信をつけさせてもらった。兎に角書いては見てもらう人(仲間)が猛烈に欲しかった。同氏は書く内容が分かってくれ、批評やアドバイスをくれる得難い貴重な友人で有り続けてくれた。時には私が持ち込む原稿で大激論となった事もあった。その刺激が何よりの客観性を齎してくれた。ここ数年は原稿を見てもらう事は止めていた。平成24年4月30日朝7時、福島大尉の遺品が陸上自衛隊幹部候補詩学校に寄贈された事についてのNHKニュースが流れた時、真っ先に電話をくれた。貴君がやってたことか、の問い合わせとねぎらいであった。感謝。

シバタ工業株式会社、既に述べたが実行力の芯、先見を技術部会議などの場を通じ気付かせて頂いた。シバタの一員であるからこその幸運に感謝する。と共にこれからの10年、創立100周年に向って、をどの社よりも親切力のある会社を目指し、商品力・生産力・親切力の3つをブランド(以上HATO・柴田社長寄稿より抜粋)として一品一様流儀を磨き上げ更に発展されるよう心から願う。微力ではあるがその恩返しを、と思う。

紙面の関係ですべてをご紹介出来ない事に、大変申し訳ない思いで一杯である。ご厚意やご協力を頂いた多くの方々に心からの感謝を捧げる。この出会いが天の時、地の利、人の和と、絶妙に呼応して得られたのはまさに福島大尉の導き、であった、と強く思う。

四つ、今後の旅の課題(抱負)

福島大尉旅はいつの間にか私のライフワークになってしまった。従って、旅に終わりはない、という事で中休みとした。これから先は寿命や健康との戦いとなるかもしれないが生きてる限り、書ける限りは歩み続けたい。福島大尉にもっともっと近づく為に。

この旅での作品は私にとって、不特定多数の人に向って書くという挑戦で産みだした、生まれたての雛である。成鳥に育てたい、育てなければ、と思っている。しかし良い楽しい旅ではあったが、満足のいく良い作品かと言えばそうではない。作品としての完成度は大変低い。恥ずかしい限りで赤面ものである。書く格闘をし、書き進めている途中では書き通す事に気が向いていて目をつぶってきたところ或いはできなかったところが段々と大きくなってきた。書く奥深さや道の険しさに身震いしている。

読み直して書き通したから気付く点についてブログを修正したい、と思うようになった。今私は『福島大尉がなし遂げたものと第五連隊遭難ーその六もっと、もっと・・・ねばならない、の思い』まで見直している。猛烈に書く基本、この稿で何を一番書きたいのか、それをどのように脈絡一貫・無駄なく展開するかを自問しつつ、最初に書いた思いを大切にして奮闘している。残りを含め、全体を通してもう二、三回の見直しで納得できるレベルにしたいと思っている。見直しを進めて行けば行くほど新しい気付きが出てくる。先へ進むか戻るか、その辺の折り合いが難しい

今はこのブログを良い作品に仕上げる事に努力を傾注したい。次に控える課題(テーマ)もある。それはいずれ・・・。

終わりに

投稿記事数150、これに要した期間3年1ヶ月、アクセス数(平成26年9月10日9時の時点で)139009が私の形に表れた足跡である。アクセス頂いた多くの方に心からのお礼と引き続きのご関心をお願いし、すべての終わりとする。

この稿終わり
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福島泰蔵大尉の実行力を訪ねてーこの旅の結び、終わりではなく中休み、に思う続きその二 [福島大尉の実行力を訪ねてー歩み総覧]

二つ目、陸上自衛隊幹部候補生学校への遺品寄贈式につながった奇縁

間山 元喜氏

福島大尉の予想外を訪ねる為、二度目の青森旅行(平成20年6月17日~19日)を思い立った。青森空港到着後レンタカーで直路弘前市役所観光物産課に向った。福島大尉を理解する上でどうしても深堀しなくてはならない立見師団長について、旧第八師団司令部や師団長官舎等関連情報を収集するのが狙いであった。係りの方は丁寧に地図のコピーを取って説明して頂いた。打ち解けた私は弘前の雪中行軍隊長福島大尉の事を調べる為福岡から来た事、青森は二度目である事、を告げた。そうすると弘前市に明治35年の雪中行軍隊員、間山仁助氏のお孫さんで、自衛隊を定年になって雪中行軍を再現した人がいる、と間山 元喜氏を紹介頂いた。

折よく都合が良かった同氏と落ち合いご案内を頂いた。道中、再現雪中行軍についての東奥日報連載や出版についての篤い思いと高い見識を伺い敬服の念に圧倒された。自分の福島旅は緒に就いたばかり、どのようなゴールが待っているのか、と武者震いをした。大きな励みを頂き、覚悟を新たにした出会いであった。

又、福島大尉のお孫さん(倉永幸泰氏)が諫早にお住まいであり、実家筋にあたる群馬の福島国治氏の事もお聞きした。両氏とは面識もおありで、倉永氏を俄然お伺いしたくなり、紹介をお願いした。同氏は快く応じて頂いた。弘前・同市役所を訪れなければこの出会いはなかった。これから私の旅は急速に進み且内容の濃いもの、となった。まさに転機、天意としか云いようのない出会いであった。

倉永 幸泰氏

青森旅行から帰った1ヶ月後の7月18日、諫早市の倉永幸泰氏を訪ねた。氏は82歳(当時)、直孫として、矍鑠とされ、祖父を尊敬し誇りに思っておられた。話もそこそこに、早速お持ちの資料を拝見した。資料は露営演習や雪中行軍実施報告などの一級資料ばかり、息づまる思いで閲読とデジカメ撮影に没頭。しかし、話にも花が咲く。この資料の大部分は群馬の実家の現当主福島国治氏から平成18年に活用方を委ねられて送られてきた由。多良見町の小学校の校長先生を終えられた後は文化財保護委員長や史談会長を長くお勤めされてこられ、戦史は勿論日本の安全保障戦略にも高い見識をお持ちであった。従って雪中行軍だけをみるのではなく日露戦争を良く理解して祖父を分かって欲しいと力説され、福島資料についても真に活用される方策を見出したいと篤く語られた。

時間はあっという間に過ぎ、資料の持ち帰りも勧めて頂いたのでご厚意に甘えることにした。事後お返しに伺っては又新しい資料をお借りする繰り返しで、9度多良見町を訪問した。倉永氏の初回訪問に続き、福島泰蔵碑(群馬県伊勢崎氏天人寺)も7月24日に訪れた。この碑の前でも色々な思いが渦巻き、この訪問を機として福島大尉の人生すべてを知りたい、との意欲が猛烈に沸き起こり、それが書きたいへと進化して、修親紙上に「福島大尉の予想外を訪ねて」を連続投稿(平成21年11月号~22年2月号)し、その後「強さを訪ねて」を修親、同年5月号、9月号に投稿した。

「福島大尉の予想外を訪ねて」掲載の修親4冊を持参して、平成22年2月11日に倉永氏を、同氏の紹介を頂き、2月20日に福島国治氏を訪れた。この時、栗原良夫、斉藤昌男氏をご紹介戴いた。初対面の三氏にも貴重なお話を伺い、資料の拝見や提供等ご協力を頂いた。又持参した修親記事を読まれて、新たな情報や資料を提供頂く等の交流が深まった。この時はまだ予想も出来なかったが、将来の遺品寄贈への流れを拡げる貴重な出会いであった。

倉永氏が活用方を模索され始めて3年目、そろそろの頃にご縁が始まった訳である。そして倉永氏の手元の一級史料を使わせて頂いて、修親投稿となり、その修親記事が取り持つ縁で親族方との交流が深まり、寄贈の流れを後押しした。まさに奇縁であった。

古原康孝氏佐(当時一等陸佐、陸上自衛隊幹部候補生学校副校長)

前記第1回目の投稿が掲載された修親(平成21年11月号)には陸上自衛隊幹部候補生学校(学校長:松村陸将補)が総力を結集して検討された『幹部候補生学校における六大資質とリーダーシップ研究について』も続きページで掲載されていた。当時幹部候補生学校では候補生が有すべき資質検討とその教育方法の検討が進められていた。その教育方法の一環として、折からの大講堂・武道場等の建て替えに合わせ資質教育資料展示室の整備を検討し、その資料室に展示するに相応しい先人、候補生がその資質を学ぶべきリーダーとして相応しい先人、をリストアップすべく検討していた。

平成22年3月4日、福島大尉関連の資料収集の為、同校資料館を訪れた際、当時同校副校長であった古原1佐から前記検討の為、話を聞かせてくれ、との申し入れがあった。

古原副校長から上記話を承知して、私は大変興奮した。幹部候補生学校が”資質教育に相応しい人”を探している。一方で倉永氏が活用方を模索している。実にタイミング良く福島大尉は名乗りを挙げた事になる。まさに修親が取り持つ奇縁である。

そして古原一佐は修親・福島大尉に着目し、福島大尉の志や為そうとした事及び受け継ごうとした”もののふの心”に感応した最初の人であった。

倉永氏と陸上自衛隊幹部候補生学校長との交流

この事を早速倉永氏に伝えたところ同氏も大喜び。史料を持参して手筈を整え、平成22年5月14日、訪問。松村学校長・古原副校長始め担当者と、史料をもとに話が弾み、交流が進み始める。双方が好感と今後への期待を持てた意義深い出会いであった。その後親族が集まって群馬福島国治家での遺品の確認と寄贈についての話し合いを行う(平成23年7月4日~5日)事になった。確認した資料写真等は幹部候補生学校に提供し、寄贈受け検討の資とした。

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上記写真は倉永氏(写真中央)が前記親族話し合いの帰途、陸上幕僚監部人事部長に異動さていた松村将補(写真右)と陸上自衛隊中央情報隊副隊長に異動されていた古原1佐(写真左)を市ヶ谷に訪問した際に写したもの。(撮影者川道)。

これに先立ち学校教育現場を確認しておきたい倉永氏と候補生教育及び福島大尉資料の活用法について良くご理解願いたい学校側の要望が重なり、2度目の学校訪問(同年6月20日)の運びとなった。学校長は森山将補に変わられていたが、学校長自らのブリーフィングや学校案内、お歳を考慮しての送迎など真摯に対応され、倉永氏は幹部候補生学校が最良、じいちゃんが喜ぶ、と確信を持って群馬へ出発された。

この間、森山学校長は寄贈先の選定について、親族方の自由な意思を尊重し控え目に対応された。しかし候補生教育充実への情熱は倉永氏にしっかり伝わった。

倉永氏と親族方の話し合い

1度目の話し合いで大筋として遺品を候補生学校に預ける方向で話がまとまり、2度目の話し合いを平成23年11月18日~19日に行う事となった。2度目の親族話し合いでは前回のメンバーが集まって、学校担当者(織邊3佐)の説明を聞き、資料確認や意見交換というスタイルで行われた。結果寄贈で話が纏まり、以降翌年4月12日の遺品寄贈式への動きとなった。学校長は田浦将補に変わられていた。私はこのすべての動きに立ち会わさせて頂いた。この奇縁に感謝するばかりである。

次稿に続く
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福島泰蔵大尉の実行力を訪ねてーこの旅の結び、終わりではなく中休み、に思う続きその一 [福島大尉の実行力を訪ねてー歩み総覧]

三つ、”奇縁”を思う

多くの方々との思いがけぬではあったが、その時のその人でなければならない運命的としか言いようのない必然の出会い、後から思えばの話ではあるが、に恵まれ、その上親身のご協力を頂き、次につながる新しい展開を得ることが出来た。その次、その次への展開のつながりで前述の高みに至ることが出来た。私はこれは奇縁であった、と強く思う。その奇縁は大別すると、福島大尉旅の正道を歩む道しるべとなった奇縁、陸上自衛隊幹部候補生学校への遺品寄贈式につながった奇縁及び福島大尉旅での高見、真の福島大尉にぐっと近づく実感につながった奇縁の3つである。

一つ目、福島大尉旅の正道を歩む道しるべを頂いた奇縁

白石 博司氏

平成14年、防衛研究所戦史部の室長としてご勤務の頃、大日記類八甲田雪中行軍関係の書類を見つけ出し、資料収集のご指南を頂いた。特に第五連隊遭難事故取り調べ委員報告書関連の書類は入手当時からいつか役立つときが来る、と確信して温めてきた。五連隊遭難の陰に隠された福島大尉の生き様の考察に大いに役立った。その後靖国神社靖国偕行文庫室長として勤められ、ここでも資料収拾の世話を頂いた。特に日清日露戦役に従軍した部隊の隊史、野外要務令や偕行記事関係の資料は、明治陸軍に関する理解を深め、福島大尉の軍務への取り組み考察の貴重な資料であった。野外要務令の体現や冬季行動標準作り等彼が目指したもの(志)や八甲田山以降の人生の考察に役立った。

川口 泰英氏

この旅の結びに近づいたある日、青森の川口泰英氏から新著の「後藤伍長は立っていたか」(北方新社)をご進呈戴いた。氏は八甲田山雪中行軍の真相を豊富な資料を基に鋭く解明しておられる。そのスタンスは最初の著書「雪の八甲田で何が起こったのか」(北方新社)から変わっていない。

私と同氏の出会いは平成14年に遡る。明治35年の弘前隊の八甲田山雪中行軍について、福島大尉の危機管理に関心を抱いていた私は始めての青森現地訪問(9月、3日間)を思い立った。1日目は青森県立図書館に出向き資料収集。残る2日間はレンタカーによる現地走破の予定であった。中でも道案内をした嚮導7名の事が知りたくて現地のボランテアの方に案内を依頼したところ、同氏を紹介頂いた。同氏には行軍路・道東旌表碑及び柏小学校に案内頂いた。同氏が指導している同校での地元の先達である嚮導7名の研究学習の様子を研修させて頂いた。この研修は前記図書館で入手した案内実録と合わせ、真実の福島大尉のリーダーシップを把握するうえで欠く事が出来ないものであって、じ後の研究調査に弾みをつける事が出来た。

実録を一読して直ぐ、二つの疑問というか感想を持った。一つは福島大尉は何故雪中行軍手記で嚮導人の事に触れてないのか?二つは描かれている福島大尉像が暗く高圧的なのが気になった。

前者の答えは前述の大日記類、雪中露営演習や雪中行軍実施報告等との出会い迄待たねばならなかった。何故?及びその回答は第五連隊遭難との向き合い方そして八甲田山以降の彼の生き様を理解するうえで私にとって不可欠で重要な過程であり、此処のクリアが福島大尉に近づく大きな関門であった。

後者について私は、厳しい任務を帯びて前人未到の雪中行軍中の軍隊と部外の案内人との間に厳しい緊張状態はあっても、気楽な関係があるはずがない、と無意識のうちに福島大尉を好きになろうと努めた。そう思って旅を続けるうち、新しい出会いや展開に恵まれどんどんのめり込んだ。そして心底福島大尉が好きになった。

以上二つの疑問というか感想の回答(解決)は川口氏のこの案内によって得られた現地での肌感覚、福島旅を貫く、がもたらしてくれた、と信じている。

”好きになる”は高倉健さんに戴いた言葉

川口氏に関連して、忘れてならない人がいる。”好きになる”は高倉健さんから戴いた手紙にあった言葉。俳優としての信条が役に魂を込め、その役を好きになるとの意であった。

福島旅を終えた今の私にはこの言葉がしっくり入ってくる。好きだったからここまで来れた、遥かな高見も出来た、本心からそう思う・・・。

35年前の一シーンを見も知らぬものから尋ねられ、きちんと答えられる。俳優としての魂の入れようの本気さと人としての誠実さに感服した。

次稿に続く
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福島泰蔵大尉の実行力を訪ねてーこの旅の結び、終わりではなく中休み、に思う [福島大尉の実行力を訪ねてー歩み総覧]

始めに

書き始める前は思いもしなかった景色、遥かな高見、が見えるようになった。よくぞここまでの達成感と共に今の時点だからこその次なる課題も見えてきた。最初は単なる福島大尉惹かれ旅であったが、今やライフワークになった。だからこそ終わりではなく、中休みを迎えての感想というか思いを書きたい。

一つ、旅の実相

思いついた疑問やテーマについての思い巡らし旅は次なる旅を呼ぶというサイクルを繰り返しきた。勿論どこへ行くか、何が出てくるかは定かではない旅である。そのことで、限られた事実と事実を繋ぐ想像の確度を少しずつ高めると共に自分が本当に何を書きたいのか、書けるのかについて、思いを書き出す作業に脳漿を搾ることで自分自身が気付かなったより確かな思いが前面に出てくるようになった。つまり福島大尉に近づく実感というか喜びを高める事が出来るようになった。

同時に現地現物で思いを巡らす。思いが深ければ深いほど現地現物は何かを語り掛けてくれるものだ・・・。福島大尉が陸軍士官学校受験の時の作文「吊古墳記」で書いた古墳(墓や碑)を訪ね酒を注ぎそこの主と話を交わした心境が理解できるような気がして来た。これもまた福島大尉に近づいた証であろうか・・・。限られた資料について頭の中だけの論理思考では到達できない域がある、という事を学んだ。

その都度の思い巡らし旅はテーマを深堀りし、思いもよらぬ発見となることが多々あった。しかし、今見直してみると、思い未だや表現未だ或いは主旨散漫なところが目につく。書き通した今ならではの手入れが必要である。

二つ、旅の中心テーマ

私のブログ旅は福島大尉の人物像や為した事を明らかにする本筋の旅「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」と本筋の旅のよろく部分に光を当てた”よろく”旅「福島大尉を訪ねる旅」の二本立である。

福島大尉旅を始めて10年余になるが、遺族・親族の陸上自衛隊幹部候補生学校への遺品寄贈の動きが形を見せ始めた頃(平成23年8月)に上記2つのブログ旅への挑戦をスタートした。候補生に福島大尉をよく知り、りーダーとしての修養に役立てて欲しい。この旅の楽しさを伝えたいとの思いであった。ひょっとしたら私のように福島大尉にのめり込む者が将来現れるかもしれない、その際の踏み台にして欲しい、とも思った。更に遺品寄贈に関わる関係者が福島大尉及び遺品を100年余、どのように思い・扱って、遺品寄贈に繋げたか、それに係る私がいつ何を思いどう行動したか、を含むすべての記録も兼ねている。

本筋の旅は八甲田山雪中行軍に三度思いを巡らしつつ、人生全体を思った。最初の中心テーマは「非常の困難」、ついで「リーダー福島 泰蔵大尉の実行力」、最後の中心テーマは「熟者(事をなすリーダー)福島大尉への歩み」であった。

よろく旅は「遺品寄贈(式)に係る関係者の思い」や「もののふの心を受け継ぐ心」等について思いを巡らした。遺品寄贈(式)に関わる関係者の思いを巡らす旅からは関係者の遺品についての篤い思いが福島大尉のなそうとした事への篤い思いを投影している事を実感した。

もののふの心に関わる旅からはもののふの心が”棄命”で完結する。人生を貫くものである事を痛切に感じた。又日本・軍旗の起源を文武天皇の御代に置いている事に自分の頭で考え行動する福島大尉の持論主義、福島流の事をなす要件、の特徴を強く感じた。福島大尉の心を受け継ぐ事は福島大尉が受け継いだもののふの心を受け継ぐことである。よろく旅を本筋の旅に連接させ、旅は一段又一段と面白くなった。

振り返ると本筋の旅の中心テーマの選定には大きなドラマがあった。そこは是非この際書き残しておきたい。

遺品寄贈(式)に係る親族(斉藤昌男氏)への取材の中から、雪中行軍手記と全く同文が明治35年2月10日付の「第五連隊遭難始末附第三十一連隊雪中行軍記」(北辰日報社)に掲載(公表)されている事の提起を受け、何故か?をスタート。結局「非常に困難であった雪中行軍の実相と軍隊の取り組み」を広く伝えたい、であるという事で、そこを堀下げる為雪中行軍手記をもとに、「非常の困難を思う」を本筋の旅の最初の中心テーマとした。そして最後にどのような思いで公表したかに触れた。その後、第五連隊遭難の陰に隠される運命のもと、「成し遂げたかった事」で福島大尉の葛藤へと思いを巡らす、事となった。第五連隊遭難は福島大尉の人生の予想外であったが、それだけにその後の人生で彼がなした事への影響の大きさは計り知れないので、ここでの福島大尉の向き合い方に確信を持てたことは大変意義深いものがあった。

『論文「影響」を思う』旅で大論文と格闘し、福島大尉のスケールの大きさに何度も打ちのめされながら最後はやはり立見師団長再び登場とした。その際、同師団長撰文の『福島泰蔵碑』に立ち戻ったが、今までに何度も目を通しているにもかかわらず、碑文中の『熟者』の文字が大きく私の目に飛び込み、”事をなす”と同意義と映った。この時、これこそが私がやりたかったテーマ、との天意のような畏れ多い衝撃を感じた。ここから三度目の中心テーマ『熟者(事をなすリーダー)福島大尉への歩みを』を始めた。既に福島大尉旅は論文『影響』まで進んでおり、今までに新しく付加したり、総括する形を取りつつ、これから始める論文『一慮』以降と並行させる工夫をした。このテーマの発見というか気づきの時は本当に求めていたものに巡り合えた気持ちの高ぶりを覚えた瞬間であった。

二度目の中心テーマ『実行力を訪ねて』における実行力は陸上自衛隊幹部候補生学校が掲げる幹部候補生の六大資質の一つで、当初から中心テーマと決めていた。他の二つの中心テーマが追加されることで旅は広がり、福島大尉により確実に近づける喜びを実感した。

次稿に続
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福島泰蔵大尉の実行力を訪ねてー旅の最後を仙台で・・・続きその二 [福島大尉の実行力を訪ねてー歩み総覧]

二つ、秋山少将の弔問を思う

始めにー見つけたきえ未亡人の手紙

私は倉永幸泰氏や福島国治氏に電話し、秋山少将の手紙や弔問等を語るものがないか尋ねると共に幹候校から頂いた資料集下巻の福島大尉戦死後の資料を当たってみた。

なんと10月8日付(明治38年?)のきえ未亡人から父泰七への手紙に、野津大将は特命検閲で当地に7日程滞在され、戦死された将校家族の弔問に訪れたとの事で、元帥閣下と師団長(立見師団長という名はない)と秋山少将それに副官3名、総勢6名であった、その時の様子は云々とあるのを発見した。きえ未亡人が大変驚きながらも失礼があってはと準備に奔走し気丈に応対した様子を伝える手紙である。・・・私は全く根拠のない予感が現実のものとなり、大変興奮した。平成26年5月23日の事であった。

そういえば何度目かの倉永氏訪問の際、猛烈な勢いで資料を拝見しつつデジカメ撮影をしながら、ちらっとその名を見てあれっと思った事を思い出した。その撮影資料は今私の手元にあるが大変見難い・・・。

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師団長の事は横に置く。秋山少将はどういう思いで弔問に訪れたのであろうか? その思いを、を思う。

論文「影響」と騎兵挺進作戦

秋山少将は論文「影響」に於ける福島大尉が訴えたかった2つの点ー1つ、冬季の戦いは山地戦と夜間戦に似ているのでその原則を応用すべし、その方略は攻撃精神と歩騎砲の協同。2つ、冬季の戦いで攻勢をとり、大陸の酷寒に耐える上からは幾重に陪従する困難があり、それを克捷しなければならない。ーに注目した、に違いない。

山地戦や夜間戦の原則応用方略として攻撃精神と歩騎砲の協同を述べているのも素晴らしい。特にそれぞれの兵科の特色をいかに発揮させるか、の観点から述べているところは自分が騎兵旅団に歩兵や重火器を装備させているのと軌を同じくする。倍従する困難とその克捷方略についても出動全部隊、騎兵そして騎兵の挺進作戦にも参考になることばかり。特に兵を護る、兵に役立つ観点が一貫しているのが良い。

挺進作戦に直接関する記述としては、2つほど大いに役立った記述がある。

1つ、仏の猟兵隊が1871年1月18日より22日の間に実施した夜間潜入・鉄道橋爆破を2度取り上げている、事である。一度は小部隊(300人)が夜間行進をなして好成績を得たる例として挙げ、夜間も準備よろしきを得れば排斥することはない。二度目は積雪尋常な場合における渋滞を招かなかった例として挙げ、能く行軍に習熟し克つ規律を厳粛に保つべし、と述べている。新開河鉄橋爆破の為の潜入・襲撃・離脱作戦の計画・準備にこの戦例を掘り下げて活用した。

2つは嚮導の欠くべからざることを忘れてはならないとの記述。以下の2つの戦例ー1812年のsmolenskの戦闘における露軍夜行を嚮導が道を誤って失敗した例。napoleonがbluchrの軍を夜攻に決し、1814年3月8日夜、露軍の後衛を突こうとしたが嚮導が道を誤り目的を達っしなかった例ーから嚮導の必要は其の困難に伴ふて益々其の度を増す、と述べている。遠く、内蒙古の砂漠を通っての挺進の成否は嚮導はじめ蒙古馬賊の協力が不可欠であった。この協力を取り付けたのが大きかった。この論文で最も役立ったところだ。

本稿そしてすべての旅の終わりに

以上、野津大将、秋山少将の名を見つけたことで想像を思い切り逞しくしてみた。それを通して、最も私の心に響いたのは、二人が士としての福島大尉を良く知り、その志を知り、そして福島大尉のなした事を知っていたからこそ弘前まで足を運んだ、という事。事を為す、の精神に感応したから、と思う。直接の交流はなくとも福島大尉のなした事の意味の大きさや人間性に惹かれ、足を運ぶ人がいる。この事こそが後世へのメッセージ、ではないだろうか。いつの日か福島大尉に惹かれる人が現れ、訪れる。私の旅がそのお役に立つよう願う。これ以上ピッたりの結びはないのかもしれない。

矢張り福島大尉旅の最後を仙台で締めたい、との思いは思いがけぬ展開となった。結局福島大尉の導きだったのだ。最後もまた面白い旅であった。長い間旅を続けてきて良かった、と心底思う。

終わり
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福島大尉の実行力を訪ねてー旅の最後を仙台で・・・続きその一 [福島大尉の実行力を訪ねてー歩み総覧]

前稿の旅の中で、膨らんだ思いがある。ー野津大将、秋山少将の弔問を思う

始めに

それは、福島大尉戦死後、黒溝台会戦における秋山支隊長の秋山少将が群馬の福島家あるいは弘前の成田邸に身を寄せていたきえ未亡人きえを弔問におとづれたのではないか、という思いである。

「ああ永沼挺身隊」を読み進めるにつれ、論文「影響」のエキスが反映されている、との思いが強くなった。大陸で冬季戦を戦う部隊としても、騎兵部隊としても、騎兵の挺進作戦遂行するうえでも多くの事を参考にしたに違いない。福島大尉と親交のあった永沼中佐は勿論、騎兵を創案し、挺進作戦を持論とした秋山少将には論文「影響」には強く感じる所があったのではないか、という訳である。

加えて、私が秋山少将の弔問があったのではないかと考えたのは最初に、投稿記事が掲載された『修親』を持参して、群馬福島国治氏宅を訪れた時(H22.2.20)のある思い出が元にある。その日、私は福島家の座敷に掲げてあった数個の額の中の一つに目を奪われた。

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それには、野津大将が弔問に訪れた、その際に陸軍大将 野津道貫という名刺も頂いた。大切に扱うという気持ちを添えて、きえ未亡人が父泰七に、野津大将が持参した開雲堂のお菓子の包み紙に書いて、知らせている。

野津大将が故福島少佐の遺族、きえ未亡人の弔問に訪れていた・・・。その事が私の脳裏に刻み込まれていたのだ・・・。野津大将はどのような思いで弔問に訪れたのであろうか?

一つ、野津大将の弔問を思う

一つ目、野津大将の略歴

日清戦争では第5師団長を務め平壌を陥落させた。山県有朋第1軍司令官が駐陣中病で召喚されたあと同官に補され連戦連勝28年陸軍大将に進んだ。凱旋帰国後は近衛師団長、東部都督、教育総監と歴任し、37年軍事参議官に補され、同年日露戦争が勃発すると62歳で第四軍司令官として満州(中国東北部)に出征し,常に第1軍(黒木軍),第2軍(奥軍)の中堅となって、戦線が膠着しがちな敵正面を担当することが多かったが、両翼に展開する他軍と連携し各会戦を勝利に導いた。攻城野戦の猛将で,猪突猛進型の指揮官。

二つ目、注目、教育総監

以上の略歴の中で、教育総監に着目すると、同職には明治34年4月に補されている。福島大尉の活動の頃と重なる。教育総監の重要な職の一つに、「教育総監は受領せし各演習実施報告及び記事を調査し該年度に於ける軍隊教育の結果を 天皇に奏上し且之を陸軍大臣及参謀総長に移す」がある(野外要務令第149条)。

福島大尉が天覧の栄に浴したのは雪中露営演習、論文「影響」、論文「一慮」の3回である。弘前隊の八甲田山雪中行軍は成功すれば天皇上奏の約束であったが、第五連隊遭難で吹っ飛んだ。教育総監の立場からその能く言い能く行う福島大尉は大変目立つ存在で、大いに注目していた、であろう。

歩兵第五連隊の遭難の事変処理に際し、教育総監は意見を求められる立場にあった。実際閣議案(明治35年6月9日)において、「行軍前の事に於て連隊長の所置に責むへきものなし。遭遇後捜索の遅延せしは寧ろ師団長及び旅団長の責に属す。連隊長を懲罰に附するを要せすと」と陸軍大臣に対し、意見を述べている。遭難取り調べ委員の特命に依る顛末書(註)を承知した上での意見であろうことは勿論である。

註 閣議案中に附せられた顛末書の要点:連隊長処罰の可否に焦点をおいて、計画上は適切であったがあえて不備を挙げれば①雪中行軍について大隊長以下に放任し過ぎていた。②上等兵以下に小倉服(夏服)を着用させたことを黙認していた。③嚮導を携行せさりしを黙認していた、の3点。実施上は大隊長の責めに係るものにして全く責任なきものとす。遭難後の処置に関しては専ら連隊長の責任に属するものにして其の採りたる処分を調査するに行軍隊の当然帰営すべき日より3日間を徒費して救護隊を編成し、その実施は28日にして4日間を費やせり。この間糧食の欠耗する事分明なるにも拘わらず適当な処置を採らず下級将校に救護を委ね置きたるは緩怠と言わざるを得ず。結論として、連隊長は此の雪中行軍に重きを置かず事を軽忽に附したるに胚胎せし事は推断するに足るへし。然れども行軍の計画準備実施については多少批難あるを免かれさるも之が為に直接此の遭難に利害の感及せし者と認めがたく・・(以下略)

野津大将は前代未聞の大惨事に目を奪われ、その収拾の為、弘前隊を陰に追いやらざるを得ない状況を了承した。特に小倉服着用と嚮導不携行の問題があるので、弘前隊の成功の因は青森隊の失敗の因であり、弘前隊は青森隊の失敗を際立たせる立場にある。弘前隊の成果は表に出せないと了承しつつも教育総監の立場更に猪突猛進気質からは前代未聞の挑戦を高く評価し、その成果を表に出すべし、天皇陛下に奏上して広く全軍に広めるべき、と悩んだであろう。

その悩みと天皇陛下奏上3回の実績が教育総監経験者として自分が関わった故福島大尉の弔問に弘前まで足を運ばせた、に違いない。

続きその二に続く
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福島大尉の実行力を訪ねてー旅の最後を仙台で [福島大尉の実行力を訪ねてー歩み総覧]

仙台で永沼挺身隊を思う

始めに

福島大尉旅は林 子平の墓を訪ねる、仙台の地に立つ事から始めた。思い掛けず山家学生式に出会い、旅の骨格を思いつくという幸運に恵まれた。

福島大尉が弘前偕行社に図書館設立の起案を行った際、真っ先に賛同し協力を惜しまなかったのが永沼騎兵中佐、第8騎兵連隊長であった。又論文「影響」や「一慮」において歩騎砲の協同についてかなりの紙数を割いている。この事に永沼中佐との浅からぬ交流(意見交換特に騎兵の冬季長距離の挺身行動を力説している点)がある、と感じた。又自然の流れとして、日露戦争における永沼挺身隊の行動について調べた。「あゝ永沼挺身隊(上・下)」(島貫重節著、原書房)を読み大きな感銘を受けた。

その結果、旅が終盤に近付くにつれ、最後の締めは仙台、永沼挺身隊長の墓をおとずれ、事を為したリーダー永沼中佐と福島大尉の重なり、について思いを巡らしたい、との思いが強くなった。

一つ、現地(仙台)に立って永沼中佐と福島大尉を思う

平成26年4月13日、北仙台の輪王寺(曹洞宗)を訪ねた。
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日曜日の日暮れ時、閑散とした広い寺域では目指す墓がどこにあるか見当もつかなかった。社務所に寄り、応対の若い僧に日露戦争における永沼挺身隊の隊長であった永沼秀文中佐(当時)の墓におまいりしたい旨申し出た。一旦引っ込んで、過去帳を調べたのであろう、永沼家の墓に祀られている、との事で、案内頂いた。厚かましくもお線香もお願いして・・・。

2年前、墓を守っておられる当主の方から、このまま墓を維持し続ける事は自分の代までで精一杯。永代供養の納骨堂(新設)に移したい、との申し出があり、そのようにした。永沼家には大変ご貢献頂いておりますので、墓は当寺の意向でそのまま残して管理しているとの事。

ご案内頂いたのは永沼家の墓と永代供養の納骨堂。墓銘には永沼家の墓とあり、永沼中佐は自分の墓をつくらず、家の墓に入っている。永沼家の家風に従っている。いかにも無私が際立つ、永沼挺身隊長らしい・・・。

二つ、挺身隊の作戦概要

永沼中佐指揮の(騎兵8連隊基幹の)2個中隊(176騎)は満州馬賊2000騎の協力を得て、ロシア軍の背後に、1月9日潜入開始し、3月24日の本体帰還解散まで、極寒の蒙古を経由しての約2000km、75日間の挺進行動を行った。

img067.jpg(ああ永沼挺身隊 背表紙から複写)

1月31日、遠く内蒙古砂漠地帯を経てトンジーの攻撃基地に進出した挺身隊は準備を整え、2月12日未明、東清鉄道長春駅南方の新開河鉄橋を爆破した。が、堅牢であったため橋脚完全破壊はできなかった。この報は外電により、世界に大きな衝撃を与えた。政戦略上の効果は多大であった。日本軍上層部はその報道から成果を承知する次第であった。

この離脱間に優勢な追跡部隊にほぼ完全に補足された挺身隊は2月14日敢然とロシア騎兵と砲兵の間に突入し、大きな損害を受けるも撃破に成功する。殲滅されても仕方のない状況下、逃げずに却ってど真ん中に捨て身で突っ込み、生を得た。この戦いで、敵の砲を分捕り、命を懸けて守り抜き、戦利品とした。張家窪子、月下の襲撃と言われる戦い、であった。

3月4日、哈爾濱・・の前進基地に戻った挺身隊は更に次の攪乱行動を準備し、傷病者50数名を残置して、残りを2ヶ部隊に分け、3月6日~14日分進、東清鉄道の橋梁爆破、通信線の破壊、糧秣集積所の焼打ちなどロシア軍の後方を攪乱、ロシア軍に多大な脅威と負担を強いた。満身創痍のなか、更なる後方攪乱を企図する意志の強さ・使命意識の高さに驚嘆する。

挺身隊はその成果を知る由もなかった。後にクロパトキンの回想録(もちろん戦後の)によって明らかになったが、クロパトキンは176騎の隊を過大評価し、ミシチェンコ騎兵団含む3万の兵を後方警戒へ回した。奉天における決戦戦力の集中上日本軍を有利にし、放胆な包囲・迂回作戦を可能にした、

三つ、両者の重なりを思う

一つ目、執念の意見具申ー企画実現

永沼中佐は騎兵による後方攪乱の為に挺進作戦企画を満州軍総司令部に上申するが、児玉総参謀長により却下される。少数では蹴散らさるだけでその効果は期待薄という理由であった。しかし、騎兵の一番の働きどころは本作戦にあり、とする永沼中佐の決意は固く、それではと第8騎兵連隊を秋山支隊の配属下に入れ、第2軍司令官奥大将の命令で実施の運びとした。騎兵の後方挺進攪乱作戦は日本騎兵の生みの親である秋山好古少将が最も力説している点であり永沼中佐もその信奉者の一人であった。企画実現に騎兵将校挙げてのサポートがあったことは勿論であった。永沼連隊長の企画力とその実現への執念は凄い。

福島大尉は冬季行動標準作りを目指し、雪中露営演習を皮切りに岩木山雪中強行軍や同夏季強行軍に挑み成功させ、八甲田山雪中行軍の扉を拓いた。すべて福島大尉の自発的な発意であり、苛烈さに渋る連隊長などを説き伏せての実施であった。従って失敗すればその先はない、厳しい重荷を背負ってのものであった。

両者の自らの発意である企画実現への執念が重なる。

二つ目、決断

前進基地出発後、新開河鉄橋爆破の為の夜間潜入・近迫時、手違いが生じ予定より大幅に遅れ、このままでは例え成功しても離脱が白昼となり、捕捉される危険大と思われ、中止を求める部下の言に、首を縦に振らず強行襲撃に切り替えた決断。新開河鉄橋爆破後の離脱において、全員疲労の為、睡眠行軍となり、気が付くと敵追撃部隊の重囲に陥った。この時、永沼中佐は一瞬の躊躇も見せず、前面の敵の歩兵と砲兵に向い突進を命じた。この戦いで失った兵は多かったが、敵撃退に成功した。

福島大尉は八甲田山雪中行軍において、1月24日朝、宇樽部を出発する際、躊躇なく出発を命じた。昨夜来の日本列島を襲った大寒波で行く手を危ぶむ声が大きかった中での決断である。この日犬吠峠では山上零下16度の大暴風雪。1月27日大中台を過ぎて突然大暴風雪となり、田代へはとても行付けない引き返した方が良い、と嚮導7名の意見具申に、ここまで来たら行くも戻るも同じだ。覚悟を決めて前進せよ、と叱りつけ覚悟を強制した。

両者が最も厳しい局面で遅疑逡巡することなく、決断し、その向うところを明確に示した。その決断の在り様が重なる。

三つ目、無私の心

永沼中佐は戦後の第2軍司令官の感状上申に際し、第8騎兵連隊からは最も勇敢なる者として兵卒2名を上申したのみ。当時第2軍全体では30数名の受賞者。内訳は将校数名の外は大部分は下士官及び上等兵。

福島大尉は八甲田山雪中行軍成功後の心境として虚名を求めず、を詠っている。冬季行動標準作りの為の一連の演習や実験行軍ではあくまで第8師団の義務を果たし、兵卒を護る視線に徹している、からである。 

両者の無私の心が重なる。

四つ目、立見師団長の存在

永沼中佐の挺進作戦を立見師団長はもろ手を挙げて賛成している。福島大尉の一連の演習や実験行軍、論文「影響」や「一慮」などについても、その実施の背中を押し、成果の天皇陛下奏上等のフォローを行っている。

立見師団長は師団全般の能力向上の為、平素から積極的に軍務に取り組み、他の先駆けとなる将校を育成し、目を掛け、その活動を助長してきた。その立見師団の気分の中に両者がおり、且つ師団長の信頼が厚かったところが重なる。

終わりに

以上の積極性は個人の資質上の特質に依るところが大きい。しかしこの特質をより引き出した土壌、第8師団の気風も又大きな意味を持つ。組織のリーダーが作る気風が大事を為す(成す)大きな要因である、という教訓である。

参考・引用書籍:ああ永沼挺身隊(上下)(島貫 重節、原書房)

次稿に続く
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩み-その十七 この旅の終わりに(3) 再び棄命を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー歩み総覧]

三つ、棄命を思う

始めに

私の最後の思いというか疑問は福島泰蔵碑碑文の記述順序にある。福島大尉が人生で為した事が初めから黒溝台会戦、論文「一慮」、両次行軍(筆者註 八甲田山雪中耕行軍と岩木山強行軍)、最後に論文「影響」の順に述べられている。為した事の重みの順であろう。そういう訳で、冒頭にある棄命の重みを考える事にする。

一つ目、何故冒頭に棄命か

撰文者立見師団長は何故冒頭に棄命を持ってきたのであろうか。彼の死は蘇麻堡を取り返し、勢いをつけて黒溝台を取り返す為に大きな貢献をした。この事を認めればこそのものである。

特に身を棄てる覚悟は戦場だから当然求められる。結果として死に至る事は許容しなければならないが、だからと言って命を粗末にしてはならない。死を恐れて怖気づいたり卑怯な振る舞いは軍人である以上許されない。

森川連隊長がきえ未亡人に宛てた戦死の様子を記した書簡に「・・・故泰蔵大尉の戦死せられたる状況は隣接他部隊大いに窮境に陥り殆ど前進の望みなきに到り大尉は予備なりしが一度前進の命令を受けるや敵の銃砲弾下をものともせず先頭に立って尚部下を督励しつつ他部隊を越え前進中敵の砲弾大尉の面前に発裂し顔面を負傷即死せられたるなり(以下略)・・・・」とある。

死が明白である時、先頭に立つ指揮官の胸中は如何なるものであろうか。真っ先に死に直面する恐怖に打ち克たなければならない。そこには旺盛な責任感や透徹した使命感で身を処するか目の前の敵に立ち向かう狂気に身を任すか或いは死を恐れぬ勇気を奮い起こすか、でしかない。

今まで福島大尉の無私の強い生き様を見つめて来た私には十分想像できる事がある。それは強い義勇の心の持ち主である福島大尉はその時死など念頭にない心境にあったであろう、と言う事。

この点こそ、立見師団長が最も感じた事であろう。軍人は実行して初めてその本分を尽すことに繋がる。特に勝敗を左右する存亡の危機に瀕し、死に直面した指揮官が死すら念頭になく使命達成に邁進する姿は、最もよく行動し、事を為すに繋がる。立見師団長ならずとも周囲の者の心を動かす。死をも念頭にないレベルは智情意の人間修養で到達できる最高の美しさを表し、実行力の極致であり、生き方の全てが収斂されている。

立見師団長は福島泰蔵碑撰文の詩『轁(とう)略驚鬼』で命付風塵(命を風に漂う塵の様に軽く扱い」と詠っている。まさにその形容が相応しい。

だから冒頭なのだ・・・。

二つ目、生き様を思う

部下に進栄退辱を求め、自らも先頭に立ち、命を棄てた。命を棄てる、は戦いに於いて、私心無く自分を投げ出す究極の姿。平生の訓練・行動に於いては敢えて厳しい道を選び、身を棄てる覚悟で困難に挑んだ。

福島大尉は将に能く行い能く言うもの、であった。

三つ目、もののふの心を思う

福島大尉の郷土群馬県には2人の英雄がいて、彼は大きな感化を受けて育った。鎌倉幕府打倒のために僅か150騎で挙兵した新田義貞の義勇の心。徳川幕府政治の閉塞打破、新しい国作りの為、ただ一人立ち上がり国家・天皇に尽くした高山彦九郎の赤心である。それらは福島泰蔵少年の心に早くも国家に尽くす志の骨格となった。軍人となった以降も日本国家・国旗の原点を文武天皇の御代に置き、当時に武を持って国家・朝廷に仕えた”もののふ”の心を原点とした。其の為多くの武人の古墳(墓や碑)を訪ね、杯を注いでその心を我が心としてきた。その核心となるものは義勇の心であり、赤心(私心なく国家・天皇に尽くす心)であった。

棄命は一生掛けて磨いたもののふの心の究極の発露でもあった、と思う。

終わりに

福島大尉旅は仙台で最澄の山家学生式に出会ったところから始めた。今、その一節「能く行い、言うものは国の宝也」へ思いが戻る。この能く行うの意は身を棄てて行う、が究極であろう。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩み-その十七 この旅の終わりに(2) 予想外の人生 [福島大尉の実行力を訪ねてー歩み総覧]

二つ、予想外の軍人人生を思う

始めに―軍人人生の予想外を振り返る

私の次なる思いというか疑問はどうして予想外の境遇を辿りながらも、結局は黒溝台会戦の天王山の戦いで、軍人の本分ー身を棄てて国家に奉公し、全軍の勢いをつけるという奇勲を奏する事が出来たのか、である。今までとはちょっと違う切り口で振り返ってみたい。

軍人人生の予想外を振り返る

八甲田山雪中行軍は福島大尉の人生のクライマックスとなるはずであった。しかし同時期に起こった第五連隊遭難は、それを無残にも覆い隠してしまった。軍人人生における最初の予想外であった。そして次なる予想外は旅団長副官としての前代未聞の旅団長極諌問題と三十二連隊中隊長への補職替えであった。ここでは後者を題材としたい。

一つ目、注目点ー福島大尉の出処進退

私はこの極諌時に於ける福島大尉の出所進退に注目する。亀岡中佐からの書簡にあったように部下として一点の非でもあれば重大処分という厳しい目を潜り抜けた御咎めなし。その非の無さ、即ち無私に徹し、2度めの中隊長に全力投入する迷いのない姿に、である。

一番目、無私の徹底

争いに於いて、非が無いとは物凄い事である。余程冷静に無私を貫かなければこうはならない。単に争いを勝ち抜くというけちな料簡ではなく、余程核心を突き、周囲の共感を呼ぶ何かがあったのであろう。

福島大尉には陸軍かくあるべし或いはかくあるべしから外れるを許さない人並外れて強い義の心がある。それは私心の無さから出ている。妥協のない義の心、無私の心の持ち主は扱いに困るし始末に負えない。

西郷隆盛の名言ー名誉も金もいらないやつは始末に負えない。しかしそういう始末に負えないものでないと国家の大事は任せられないを思い出す。事を起こしてくれるなを思う人からは厄介な人物である。しかし国難に立ち向かう人、立見師団長は福島大尉のこの始末に困る義の心、無私の心を大事にしたのだ。

そしてその無私は軍人としての本分、身を棄て、忠君報国の徹底となる。否今までの忠君報国に徹する生き様が無私の徹底となった、という方が適切であろう。

二番目、2度目の中隊長に全力投入する姿

その迷いの無い勤務から、周りの目などは気にしない、自分の生き方を貫く非常に前向きの姿が浮かぶ。軍人は戦場で働く、戦って勝つのが使命、その為には部下を直接率いる中隊長が最高、と喜んでいる姿だ。

その喜びを後押しするように論文「一慮」は全軍に配布され、少しは名を知られた男になった。思い残すことなく、筆を擲ち、今度は軍刀で奇勲を立てるぞ、の戦場働きの決意を見せた。

黒溝台会戦では大戦(おおいくさ)に最後の最後まで温存された決戦予備中隊としてこれ以上ない働き場を与えられ、自らの緒戦、僅か40分で前向きに斃れた。しかし、全軍の勢いをつけ、黒溝台奪取につなげた。

終わりに

常に無私で前向きに生きる姿にいつの間にか天も味方になり、人生の予想外にかかわらず軍人としての本懐を遂げる事が出来た、のだ。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩み-その十七 この旅の終わりに(1) 奉天会戦に見る先見 [福島大尉の実行力を訪ねてー歩み総覧]

始めに

熟者への歩み旅の終わりに、どうしても触れたい事がある。このテーマは10年余にわたる福島旅の終わりに、やっと見つけた、本当にやりたかったものである。この最後を今私の脳裏に最も鮮明にあるものーリーダー福島大尉を特徴づける3つの事、福島大尉の①先見力・②予想外への対処・③棄命について思いを巡らす事で締めたい。

一つ、奉天会戦に於ける先見

日露戦役の最終戦は奉天会戦である、この戦いでも福島大尉の先見通りー論文「一慮」で指摘した露軍将官の指揮力不足の様相を呈し、これが戦いの帰趨を決した感が強い。

一つ目、奉天会戦の概要

兵力は日本軍25万に対し、露軍32万。砲は日本軍990門、露軍1200門、露軍優勢。

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(出典日露戦争(歴史群像シリーズ㉔学研、75ページ奉天の戦い略図より)

日本軍の部署は東から鴨緑江軍、1軍、4軍、2軍、3軍。鴨緑江軍が先立って、行動開始。露軍左側背を脅威し、1軍は露軍左翼を攻撃、4軍は現陣地を保持し攻撃を準備、2軍は露軍右翼を攻撃、3軍は遠く迂回して露軍右側背を脅威する。即ち劣勢の日本軍が放胆な機動で露軍を両翼から包囲し、総攻撃に転じて一挙に殲滅せんとする企図であった。

鴨緑江軍は2月22日行動開始、激闘の末、清河城制圧。26日夕には馬群鄲方面に進出。この動きを乃木大将指揮の3軍と見誤り、しかもこの正面から日本軍が攻勢にでると誤判断したクロパトキン大将は日本軍左翼を衝く企図で西部に集結させていた主力、大兵力を東へ振り回した。

27日、この作戦の効果を利用して3軍は迂回行動を開始。1・4・2軍は、これに資する一斉砲攻撃を行った。
日本軍は3月1日を期して総攻撃に移る。しかし、全正面でこう着状態に陥り、寧ろ日本軍が劣勢。順調に迂回前進を続けた3軍も露軍の烈しい抵抗にあい遅滞するようになった。クロパトキン大将もこの頃漸く、3軍の所在を掴み、又も3軍を日本軍主力と誤判断して、東部戦線に移した大兵力を再び西部へと移しはじめた。

日本軍の作戦の成否は3軍の露軍右側背への進出にかかっていた。猛進を続けた3軍の前面の抵抗は愈々厚くなり遅々として進まない。露軍は3月5日、3軍左翼1師団に攻撃の重点を置き、大攻勢に転ずる。3軍も総力戦で撃退、一進一退の激闘が続いた。3軍に対する露将カウリパルスの指揮拙劣が目立つ。3月3日3軍の横腹を衝く機会があったにもかかわず日本軍第7師団前面の部隊を撤退させ、戦線縮小した。3月6日にクロパトキン大将からこれ以上3軍を右側背に回り込ませないよう、全力を挙げて攻撃せよとの命令を受けていたにもかかわず、従わなかった。

7日夜、1・4軍の正面の露軍が不可解な退却を始めた。奉天北方20kmに進出した秋山支隊、或いは永沼挺身隊の長春付近での鉄橋破壊により、後方部隊がパニックに陥り、奉天正面即ち1・4軍正面から数十の大隊を後方警備に送り、又渾河の線へ退却した。その動きである。

日本軍はこの機を逃さず、翌8日、猛烈な追撃戦に移った。1・4・鴨緑江軍が今までの悪戦苦闘を晴らすかのように進撃。露軍は渾河の線で踏みとどまれず、更に後退。

一方、奉天西方の2・3軍は退却援護せんとする露軍との死闘を繰り返し、8日の逆襲では第1師団が壊乱敗走し全滅の危機に陥る。苦戦に喘いだ3軍は漸く10日攻勢に出る。

10日、鴨緑江軍は撫順北方高地に進出。2・4軍は奉天付近を制圧。1・3軍は東西から鉄道線路に迫った。露軍は北方へ敗走してゆくが日本軍はただ眺めるだけ。追撃の余力、兵力・火砲・弾薬が極度に欠乏していた。

二つ目、露軍将官の判断

前述のように、クロパトキン大将は脅威に敏感すぎて、受動に陥った。当初西部戦線での攻勢を企図したが、鴨緑江軍を3軍と誤り、主力を東に振り回し、3軍の西からの迂回を容易にした。漸く、進出部隊が3軍である、と確認し、これを日本軍の主力と誤判断して、再度西に振り回した。日本軍の主力の脅威に対処するために、追随して部隊を充てる、に過ぎない指揮ぶりで、あった。

又西正面は固くなったが、今度は永沼挺身隊等の進出に後方線路への脅威を感じ、1・4軍正面の露兵数十個大隊を転用して、渾河へ後退させ、後方警戒に充てさせた。この転用が決戦正面への彼我の戦力集中上日本軍に有利に作用し、此処から露軍は崩れた。これをもたらした永沼挺身隊の行動・永沼中佐の指揮もまた後程何らかの形で明らかにしておく必要があると考える。

三つ目、福島大尉の先見を思う。

我慢比べに勝ちせめぎ合いに勝った。露軍が自らこけて、転がり込んだ勝利、と言えなくもない。戦いの本質は指揮官の意志の戦いであり、辛抱に欠け、弱気や受動に陥った方が負けである。この傾向を長年の露軍研究において、その本質に立ち戻り、掴んだ福島大尉の慧眼は敬服するばかり。

岩木山雪中強行軍・八甲田山雪中行軍等では困苦欠乏に堪える,を訓練の目的とした。それが意志の戦いを勝ち抜く秘訣と強く認識していたからに他ならない。

遼陽会戦、沙河の会戦、黒溝台の会戦で同様の傾向があり、福島大尉の先見の明があった事は既に述べた。日露戦役の決、最終戦もまた露軍将官の指揮の拙劣で勝敗の方が着いた。

終わりに

この最終戦でも先見の明を発揮した事は大変シンボリックに感ずる。即ち時代の先、戦いの様相の先、行動間における次を誰よりも先に、遠く、深く見る熟者(事を為すリーダー)福島大尉の先見力の総纏めの意味合い、を感じるので・・・。鬼神となった福島大尉は天国でこの奉天会戦と自分の露軍評論をどう見たであろうか・・・。

参考・引用書籍:明治三七八年日露戦史第7巻参謀本部編纂・同第7巻付図。日露戦争(歴史群像シリーズ㉔、学研)。ああ永沼挺身隊(上・下、嶋貫重節著、原書房)。戦略・日露戦争《上・下、島貫重節著、原書房)。日露戦争史(横手慎二著、中公新書)

この稿終わり
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