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【よろく】福島大尉の実行力を訪ねてーアクセス数が十万回到達ーいざが見えない平時のもののふの心を思う [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート2]

『日本人はなぜ日本のことを知らないのか(竹田恒泰、PHP新書)』からの気づきーいざが見えない平時のもののふの心を思う

始めに

福島大尉を訪ねる旅ブログが本日(11月10日朝9時)10万アクセスを越えた。アクセスの定義が今一よく分からないが大した数字、と感じる。福島大尉のなした事や人となりと何時か陽の目を!という遺族・親族の思い及び福島大尉を資質教育に活用したい陸上自衛隊幹部候補生学校の熱意等に関心を持つ人が増える事にいささかなりとも役立った、と思えばこの上なく楽しい。折角の機会によろく旅をしたい。

記念に思う事は色々あるが、この時に計ったように見つけた”忘れ物”について書きたい。それは竹田 恒泰氏の著作「日本人はなぜ日本のことを知らないのか(PHP新書)」の中にあった。竹田 恒泰氏は明治天皇玄孫に当たり、昭和50年旧皇族・竹田家の生まれ。慶応義塾大学法学研究科講師の傍ら著書に「日本はなぜ世界で一番人気があるか」・「旧皇族が語る天皇の日本史」・「日本人はなぜ日本のことを知らないのか」・「日本人はいつ日本が好きになったのか」(いずれもPHP新書)などがある。

一つ、この本の中で、意を強くしたところ

私がこの本の中で意を強くしたのは、以下の件。大宝律令完成の翌大宝2年(702年)の遣唐使は、律令国家日本の成立を物語る重要な意味を持つものだった。この時の遣唐使は、国号を「日本」に決めた旨を唐に正式に伝達したのである。(第五章『中国から守り抜いた独立と自尊』、「ついに「日本」を名乗ったとき」)
私が福島大尉旅の中で、秘かに発見し、少数派?の見解かも知れない、と思っていた「文武天皇御代の意義」を的確に語っている人に出会った喜びは大きかった。

二つ、翻って思う事ー何かが足りない

私はブログ「もののふの心を受け継ぐ心ーその二 軍旗祭祭文に思う」を書くに当たって、最初の疑問は何故福島大尉が軍旗祭祭文で文武天皇の御世から説き起こしているか、であった。

私はその二、祭文、何故文武天皇なのか?、のなかで「連隊の軍旗親授式(註)が明治31年年3月26日行われたことに触れ、軍旗の尊厳と保持の心得が語られている。祭文のキーワードは旭光と文武天皇の2つ。その前半部に文武天皇陛下の偉業が語られているが、文武天皇と陸軍軍旗間のつながりが私の乏しい知識では良くわからない。勿論用語が難しいのは言うまでもないが・・・。何故文武天皇なのだろう? 当時の人はこれだけで十分前後の脈絡が分かるのであろう。もっと、歴史を調べろ、というメッセージ?、と受け取り、続(しょく)日本紀をよむことにした。」とそのとっかかりを述べた。

そして、文武天皇の在位及び業績として、「文武天皇(天武天皇11年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇であり、在位は文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日の間。この間の業績は大宝律令の制定・施行や天智天皇以来の遣唐使の派遣再開等。」がある事。
大宝律令の意義、として「律令を基本法とする古代日本の中央集権的政治制度およびそれに基づく政治体制のこと。中国の隋・唐の法体系を取り入れて、天武天皇の律令制定を命ずる詔が681年に発令され、妃である持統天皇を経て 天武の孫である文武天皇の代の701年に制定された。国家としての体裁が整えられ、天皇親政及び法の支配が全国隅々に行き渡ることとなった。」がある事。
再開された遣唐使派遣の意義として「大宝元年(701年)正月、執節使粟田真人以下の任命。渡航は2年6月。遣唐使は倭国ではなく、日本国と名乗ったらしい。国号を日本と定め、律令制国家や暦を作り独自の年号を建て、和同開珎という貨幣迄発行する独立国としての体裁を誇り高く整え、政治的・外交的な意味合いから儀礼的・文化的な目的が主の派遣となった。(以上続日本紀 新日本古典文学大系 続日本紀への招待による)」がある事が分かった。

そして、何故文武天皇か?そして憧がどのように明治陸軍の軍旗となったのか、を追うの中で、「独立国として体裁を整え、内に在っては国威を隅々まで行き渡らせ、対外には対等の外交を、と胸を張る。この時代のそのような気分の中にいたもののふの心即ち国威を隅々まで行き渡らせ或いは翳らすものを討つ使命感や気概に溢れた心を今に生きる武人の原点ととらえ、その象徴がこの日像憧であった、ととらえていた。だから文武天皇の御代について語ったのであろう。」と結論付けた。

でも私の結論の中で何かが足りない、その足りないものがこの本や竹田恒泰氏の著作の中にあるのではないか、と気づいた。気づいた以上は探さなければならない。・・・と、其の他3編(前掲)の竹田氏の著作を勉強させて頂いた。

三つ、”脱”冊封

一つ目、意義

竹田 恒泰氏の”日本国史”(註1)から、多くの点で気づきを得た。その最たるものは、かって中国皇帝へ朝貢(註2)し、冊封(註3)を受ける体制にあった倭国がその縊りから脱して、「日本」と号し、自立の道を歩んだ。その歩みは今の日本に続き、明日の日本を拓く、日本国史の大きな底流となっている。そしてこの点は前記私の結論で足りないものである

註1 同氏は日本史という客観的な言い方では無く、誰のものでもない日本人の歴史という意味で”日本国史”と表現している
註2 中国国王等に貢物を捧げ君臣の礼を尽くす行為。 
註3 中国国王等が近隣の諸国・諸民族の長へ称号・任命書・印章などを授け、名目的な君臣関係を結ぶ外交関係の一種。

二つ目、被冊封国のメリット・デメリット

3つのポイントがある。1つは安心感。大国・中国の属国として認められた地域を支配する正当性が得られ、中国から攻められることはない、という安心。バックに中国が控えているので他の国からも攻められ難く、若し攻められた場合は援軍を要請出来る、という安心もあった。2つは自治権が認められていたため、自国領土が其の儘中国領土に組み込まれることはない、名目的な主従関係で済ますことが出来た。3つは義務や負担も少なかった。中国国王等が定めた元号と暦の使用という義務があったが外交文書だけで済ませる程度の拘束であったし、出兵の求めがあるかもしれない、という程度の負担であった。
一方、冊封体制に入らない国は大国中国の討伐の対象になった。中国との距離を保って、攻められない工夫をしつつ、国の独立と繁栄を保ち続ける努力は並大抵ではない。損得や安易さから言えば、冊封体制に入った方がはるかに得る所があった、と思う。

しかし、敢えて自立の道を選んだ。ここに、誇り高い優れた日本人の叡智が凝縮している。

三つ目、”脱”冊封はどのように為されたか?

朝貢・冊封の一番古い記録は後漢書東夷伝に、建武中元2年(57年)倭奴国が洛陽に朝貢し、光武帝が印を授けた、とある。しかし、この奴国は日本国の一地方の王に過ぎない。

国を代表する倭国王が朝貢し、冊封を受けた記録は宗書倭国伝にある。421年最初の朝貢使を送り、爾後10回続く。その間5人の倭王が登場する。讃・珍・済・興・武で各倭王は朝貢の度に宗に官職を要求した、という。しかし、倭王武以降、中国国王等からの冊封の記録は無い。即ち479年宗が滅亡し、其の後朝貢はしばらく途絶え、復活しても官職を求めなくなる。中国の冊封体制から抜け出す動きをはじめたのだ。

四つ目、冊封から抜け出す流れを追う

一番目、きっかけは雄略天皇

この時、雄略天皇(前述の倭王武)は5代続けて冊封を受け続けてきた事に疑問を感じ、独自の秩序を形成する事を意図したに違いない。倭とは見下しの稱ではないか?領土を広め、治める、は誰の為に行なうのか?誰の徳によって行なうのか?等の疑問を持ち、誰からも任命されない、何事も干渉をうけない、治天下の君となる道を歩みはじめた。日本が独立国としての道を歩みはじめる最初のきっかけを作ったのが、雄略天皇だった。

二番目、朝貢すれども冊封を受けずの立場を築く

589年に隋は300年ぶりに中国を統一した。これに遅れる事11年にして(600年)、隋に第1次遣隋使を派遣した。時は推古天皇の御世、摂政は聖徳太子であった。この時聖徳太子が描いた戦略は隋から最先端の文化と制度を導入しつつも、隋の冊封体制に組み込まれずに対等な外交を行う、という極めて難しいものであった。この為中央集権化を進め、律令国家の完成を目指した。この実現方策として、603年に冠位12階を定め、604年に17条憲法を制定した。607年に第2次遣隋使を派遣した。その時隋の煬帝に宛てた国書「日出づる処の天子、書を没する処の天子に致す。恙無きや」で対等外交の精神を高らかに謳った。これに怒った煬帝の返書を遣隋使の小野妹子は事もあろうに紛失した、という。608年の第3次遣隋使派遣では国書に「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」と前回の「天子」と同じ称号を避けて皇帝への配慮を示し、別段問題を生じさせずに、冊封体制からの独立を黙認させた。この3回の遣隋使によって「朝貢すれども冊封を受けず」という立場を築く事に成功した。

四つ、ついに「日本」を名乗る

聖徳太子亡き後、乙巳の変・大化の改新(645年)、白村江の戦い(663年)、壬申の乱(672年)等の激震にあいながらも中央集権化と律令国家構築等の国家課題は継承された。文武天皇の大宝元年(701)に大宝律令を完成させ、独自の年号を建てた。これらは律令国家の完成と共に中国王朝の秩序からの独立を示す大きな意義を有するものであった。
大宝2年(702)年の遣唐使は国号を「日本」に決めた旨を唐に正式に伝達した。この事は律令国家日本の成立を物語る重要な意味を持ち、日本の完全な独立を象徴する出来事であった。

以上この項は大部分「日本人はなぜ日本のことを知らないのか」の該当箇所を引用し、一部を筆者の独断で修正した。

五つ、追った”流れ”からの気づき

5つの気づきを得た。

一つ目、レベルの高い国作り

大国中国から、完全に自立する国家を目指した。その為に中国から学びつつも同化することなく、独自の中央集権・律令制国家を雄略天皇の発意から230年かけて完成させた。日本は君臨すれども統治せずの天皇を中心に国民が結集し、君民共治の自立国家を自らの叡智と努力で築き上げた。

二つ目、英明な指導者層(天皇を中心とする指導者達)

この時代に真に日本国の在り方とその統治策を考える指導者層に恵まれた事は日本国家の存立及び発展にとって大きな幸せであった。

三つ目、国造り事業

その道は険しく、決して安易ではなかったが敢えて、高いビジョンを掲げ、国を挙げて事業を継続・推進した。その陰に、中国の冊封から脱する安全保障上のリスクとその可能性を適切に見積る冷徹さがあった。

四つ目、外交

和して同ぜず、大胆にして細心な大国中国との距離感を持った外交感覚。

五つ目、もののふの在り様

自立する国作りに於いて当時の指導者層は”武”を主役とはしなかった。軍事優先の国作りではなく、万一の備えとしての”武”に留めていた。その例を白村江の戦い敗戦以降に見ることが出来る。白村村の敗戦(664年)以降対馬・壱岐・筑紫の防備を厳重にし、防人を置いた。689年に、軍団制を発足させたが719年には諸国の軍団と兵士の数を減らし、730年には防人を停止した。

一方国内的に律令制・中央集権が進むにつれ、702年薩摩に於ける多鍬(種子島)、720年大宰府に於ける隼人、陸奥国における蝦夷が叛く等反乱が続発した。爾後794年に陸奥国を鎮め全国を平定したが、朝廷の政策(強制移住や柵の設置等)に対する陸奥国での反乱及び全国での不安状態が続いた。”武”が表舞台に登場するのは手を焼いた朝廷が武官坂之上田村麻呂を征夷大将軍に任じた延歴16年(797)の頃である。しかし、それも本質は警備軍に過ぎない・・・。

この当時のもののふに期待されたのはいざの場合に”武”を持って国家の一大事に尽くす働きではあった。しかし、何時くるか分からないいざに備えるのは言うは易く、行うは難し。もののふは国家の発展の礎石として、(天皇・国家に心から尽くす)赤心と平時にあっても心の武装をとかず、武をひたすら練る無私の心の持ち主である事が求められた。

六つ、足りなかったもの、を思う

前記ブログでは文武天皇の御世を切り取った形であったが、自立を目指した歴史の流れの中で文武天皇の御世を位置づけ、その中でもののふへの期待度を考察すべきであった。質の高い国作りに邁進している中では軍事大国への道は歩めない。しかし備えは要る。その期待度はもののふの心構えに表される。

七つ、結びー何故文武天皇か?そして憧がどのように明治陸軍の軍旗となったのか、を追うに以下の下線部を加えたい。

「独立国として体裁を整え、内に在っては国威を隅々まで行き渡らせ、対外には対等の外交を、と胸を張る。この時代のそのような気分の中にいたもののふの心即ち国威を隅々まで行き渡らせ或いは翳らすものを討つ使命感や気概に溢れた心は勿論であるが、主役ではない”武”の期待度を弁えて、いざに備え、天皇・国家に心から尽くす赤心と何もない平事に堪えてひたすら武を練る無私の心を今に生きる武人の原点ととらえ、その象徴がこの日像憧であった、ととらえていた。だから文武天皇の御代について語ったのであろう。」と結論付けた。

ブログ「八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその15”山場”を越えて、意を強くした事(続き)」で極致(国難に際して)のもののふの心に思いを巡らした。しかし、その前段階に於ける、いざが見えない、長く続く平時に堪えるもののふの心も又今の我々が大事に、受け継がなければならないものである。

終わりにー日本の忘れ物を思う

自立した国作りに邁進した当時(8,9世紀)の日本とその時に於ける、”武”の在り方を今回初めて真剣に勉強した。もっと早く若いうちに、日本人なら当たり前の事として、先人の気高い精神と努力の跡を学び考えるべきであった。福島大尉旅がなかったら生半可な知識のまま終わった、であろう、と思うとゾッツとする。日本人として、学ぶべき歴史、誇るべき歴史を忘れ物として埋もれさせてはならない。そして今、「日本人はなぜ日本のことを知らないのか」に出会えた喜びを噛みしめている。

参考・引用書籍:日本人はなぜ日本のことを知らないのか、旧華族が語る天皇の日本史、日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか、日本人はいつ日本が好きになったのか(以上竹田 恒泰 PHP新書)。日本の合戦別巻地図・年表(監修者高柳 光寿 人物往来社)

この稿終わり

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【よろく】八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその十五 ”山場”を越えて、意を強くした事(続き) [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート2]

続きー極致におけるもののふを思う

始めに

我が日本が文武天皇の御世以降に他国に侵攻された3つの例をとらえ、極致に於けるもののふやもののふの心の在り方を掘り下げ、前稿規定にどうして至ったかを明らかにして、一応のけりをつけたい。
その3つの例とは、新羅侵冦事件(894年(寛平6年)9月)、刀伊の入冦(1019年(寛仁3年)3月末から2週間)、元寇(1274年(文永の役)、1281年(弘安の役))である。

一つ目、新羅侵冦

一番目、戦いの概要

新羅船45隻が対馬を襲ったがこれを迎撃した国守である対馬守文室善友が郡司以下の士卒を率い、「百人の軍を各20番に結び」、戦闘を展開した。善友は全軍に楯を用いさせ、弩による勝負を挑み、新羅軍を撃退した。互いに乱声を発し、その矢は雨の如しだった。敗退した新羅軍の損害は甚大で、わが軍の圧倒的優勢であった。新羅侵冦の背景には前年来の不作で「人民飢餓」の状態が続き、「王城不安」を打開する為王命により、2500人の軍が大小100隻に分乗、飛帆した、という。軍である証拠として多くの戦利品と14人の将軍の戦死者が挙げられる。

二番目、もののふの戦いぶりー国守の危機に立ち向かう気概

不意を突かれたであろうが、真っ向から立ち向かい、楯を並べ、弓戦を挑み、大損害を与えて撃退した。危急の際に先頭に立って、賊に立ち向かう気概を感じる。更に平素からいざに備え装具を整え、訓練を行ったであろう周到さも感じる。

二つ目、刀伊の入冦

一番目、戦いの概要

高麗を荒らしまわった海賊船50隻(約3000人)が突然3月末、対馬を襲った。正体は刀伊(12世紀に金国を打ち立てた女真族)であった。対馬では多くの島民が殺され、家も焼かれた。賊は続いて壱岐を襲う。壱岐では守備隊は全滅、島民は10分の1に激減。4月7日には筑前国怡土・志摩・早良の諸郡、4月8日能古島、同9日警固所、同11日筑前国早良・志摩両郡に来襲。同12日上陸、防戦撃退。13日刀伊は肥前松浦郡に転戦、上陸、防戦撃退。

二番目、もののふの戦いぶり

その一、現地住人(註)の即応・勇戦

4月7日、筑前での緒戦、志摩郡来襲に際しては同郡住人文室忠光が、怡土郡では同郡住人多治久明、共に召集され、が急派された大宰府の兵と共に防戦し、人兵・舟船が不十分にもかかわらず賊徒数十人撃退。

危急の際、進んで渦中に身を投じるもののふの心意気が伝わってくる。
註:当時、地域の有力者・有勢者などの地方名士に与えられる名称

その二、OB(高齢者)の奮戦

4月8日、能古島に襲来、同地を拠点として、警固所を襲う。平為忠・同為賢を師首として馳せ向い合戦し、9日撃退。前少監大蔵種材も70歳の老骨に鞭打って奮戦。

10日、11日は強風の為、休戦。翌12日、志摩郡に上陸、これを撃退、追撃にあたり、進もうとしない諸将を前に大蔵種材は名をこそ惜しめ、軍用船の揃うのを待っている間に賊は逃げてしまう、種材唯一人でも追撃する、と言い放ち、進もうとした。この勢いにおされ、全員同調。13日賊は肥前国松浦郡に現れたが、待ち構えた肥前介源 知によって撃退され、以降日本から去った。

彼の場合、目の前の敵に敢然と当たる烈々たる闘争心は筋金入りの国への奉公心と表裏をなす。

その三、権師(ごんのさち:大宰府の次官)大納言藤原隆家、防衛の要として活躍

賊来襲の急使を直ちに京師に派遣すると共に、府兵(大宰府の兵)及び付近の豪族の兵を召集し、急襲の初動対応に当たらせた。10日11日には兵・船を整備して上陸に備え、上陸正面に戦力を集中して防御戦闘を行い、時機を看破して追撃を巧みに発動した。非常の時に、錯綜する状況下に、よく兵を纏め自分の意図を確立し、運用した。貴族ではあるが剛毅な指揮ぶりはもののふの名に値する。

三つ目、元寇

一番目、文永の役

その一、戦いの概要

元軍は兵3万3000人900隻の軍船で、文永11年(1274年)10月5日対馬、14日壱岐を襲い、過去に例を見ない残虐の限りを尽した。

19日に博多湾口に迫り、筑前怡土郡今津、一部は百道原に上陸、翌20日主力が博多・箱崎方面に上陸した。元軍は3方向から作戦目標である大宰府に迫った。日本軍は不利な状況に陥りながらも持ちこたえ特に赤坂山(現南公園)を確保して元軍の合流を許さず、夜まで持ちこたえ、船に引きあげさせた。その夜神風=台風が吹き、元軍は壊滅した。

その二、もののふの戦い振りー赤坂山の死守、菊池・竹崎両氏の勇戦

博多に集結した日本軍は19日の元軍上陸では肥後の御家人(註1)菊池武房・竹崎季長を赤坂正面に急派した、敗色濃厚で甚大な損害を出しながらも、両人の勇猛果敢(註2)、一歩も引かない戦いぶりに、舌を巻いた元軍は孤立して夜を過ごす恐怖に耐えられず、船に引き上げた。赤坂山を死守し元軍の早い時点での戦力合一を許さなかった。この点こそが戦いの帰趨を決めた要因の最たるものである。

註1:平安時代には、貴族や武家の棟梁に仕える武士を「家人」と呼んでおり、鎌倉幕府が成立すると鎌倉殿と主従関係を結び従者となった武士を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになった。このように御家人は、鎌倉殿から直接、所領安堵を受ける御家人と、本宅安堵を受ける御家人に分けられる。前者には東国に在住し、早い時期から頼朝に臣従していた者が多い。地頭職に補任されるなどの厚い保護を受ける見返りに、有事には緊急に鎌倉に参集する義務を負っていた。後者は、国を単位に編成され、「国御家人」と呼ばれた。(以上、御家人ーwikipedia)
註2:勇猛果敢さについて元軍側の記録には「日本兵は頑強で死を恐れず、十人百人に遇ってもまた戦う。敵に勝てない場合、敵と刺し違えてともに死ぬ。戦い敗れておめおめ帰って来るようなことがあれば、倭主がこれを成敗してしまう」といっているほどであり、また「倭婦は性質はなはだ烈しくて犯すことが出来ない」と言っているほどに、一般の婦女子までが敵愾心が強かった(『心史』)

菊池武房・竹崎季長の国の一大事に身を捨て、立ち向かう心はもののふの心そのものである。

二番目、弘安の役

その一、戦いの概要

元の東路軍は兵力4万、艦船900隻で弘安4年5月21日対馬の佐賀村、26日壱岐を侵略した。今回もまた前回に勝る残虐さであった。

その(一) 合戦経過

東路軍は6月15日江南軍(兵力10万)と合流の予定であったが、余勢をかって、単独で侵攻し、6月6日博多湾口の志賀島付近に出現、大船団が西戸崎付近に蝟集停泊一部は上陸。数次にわたる、日本兵の海ノ中道伝い及び能古島からの海上攻撃により、13日頃まで大激戦が続いたが元軍は耐え切れず敗走した(緒戦ー志賀島合戦)。

東路軍は肥前の鷹島に退却し、江南軍の来援を待ち受けた。江南軍との合流予定の東路軍は対馬を犯し、壱岐を攻め、守護代少弐資時以下を全滅させた。ここで江南軍を待ったが来着せず。東路軍は江南軍の予定変更に合わせ、6月13日鷹島へ後退した。ところが江南軍も予定変更があり、それを知らせる先遣隊(300艘)と東露軍は壱岐で6月26日頃以前に出会う事になった。

壱岐に元軍集結を知った日本軍は海上攻撃を企て、6月29日敵船団を発見,4日間に亘る激戦の末、これを破った。勿論損害も大きかったが、勇戦敢闘、敵に大損害を与え、敵は平戸へ後退し江南軍主力との合流を図った(壱岐合戦)。日本軍は深追いせず、博多に引き上げた。

鷹島に大船団集結中の報告を受けた日本軍は直ちに出動、7月27日大船団に夜襲を敢行し、翌28日迄猛攻を加えて相当の損害を与えた。ここに元軍の博多湾侵攻計画は支障を来し、艦船修理等の為数日の停泊を余儀なくされた。修理等が済み、まさに出発しようとしていた翌閏7月1日夜半、神風=台風が吹き、艦船の大部分は沈没、侵攻企図は挫折した(鷹島合戦)。

その(二) 元軍を受動に陥れ、台風との遭遇を余儀なくさせたもの

防塁ー文永の役の翌々年、建治2年(1276年)3月から同年8月にかけて、九州の守護が分担。箱崎付近から今津西北方後浜間の海岸線に沿って約20kmに亘って築いた、概ねの規格は厚さ約1丈・高さ5~6尺の石積みーの為元軍は文永の役とは勝手が違って上陸できず、多数の船が博多湾口に蝟集して停泊した。この緒戦の弱点を日本軍が勇猛果敢に攻めた事で、元軍を敗走させ、次なる海上攻撃で敗走に次ぐ敗走に陥れた。神風=台風遭遇に追い込む流れを作った。

その二、もののふの戦い振り

その(一)、緒戦、志賀島合戦における戦いぶり

其の一、海上攻撃

伊予の河野通有、肥後の竹崎季長、肥前の草野経永等が敵の弱点に乗じて夜襲を試み、敢然と小舟で敵船に押し寄せ、乗り込み、敵と格闘し,戦果を挙げた。この戦いは繰り返された。日本軍の損害は元軍以上に夥しく、夜討ち中止の触れもでたが、それでも尚、夜討ちをかけるものが多かった、という。これに懲りて元軍は海上停泊に当たっては、船をつなぎ合わせて日本軍の小舟が近づけぬようにした。この事が台風被害を大きくした。竹崎季長の奮戦は『蒙古襲来絵詞』が詳しく伝えている。

其の二、陸上攻撃

日本兵の一部も海の中道、志賀島に続く半島地区に沿うて襲撃、壮烈な戦いを繰り広げた。8日、豊後の守護大友頼泰以下が奈多の白浜で奮戦した。筑前守護太宰少弐経資の父、入道覚恵は、84才の老体にも関わらず、還俗して進撃に加わり、負傷した。

その(二)、壱岐合戦の戦いぶり

 筑前の守護少弐経資自ら壱岐島に渡って指揮を執った。博多湾守備の内、箱崎守備の薩摩勢、博多守備の筑前勢、姪浜守備の肥前勢、生の松原守備の肥後勢が夫々の国の守護に率いられて一斉に出撃した。勇戦敢闘し、敵に大打撃を与えたが日本側も相当の犠牲を出した。元軍は平戸へ後退、日本軍は深追いをせず博多港に復帰した。防塁の効果を確信したのであろう、守備隊が攻撃に出るという積極果敢さを発揮した。少弐経資の父、資能入道覚恵は志賀の島に引き続き、参戦して重傷をおい、この傷がもとでなくなった。

四つ目、旅の総括ー志賀島に立つ

緒戦の戦いを偲びつつ”もののふ旅”を総括するため平成25年5月26日、博多港から市営船で志賀島港に渡った。北九州4県を防衛警備の隊区とする第4師団創立記念行事出席の帰りに、国土を守る力強い師団長の式辞、今に即動し明日に備えるや隊員の勇姿に接した余韻、更には対馬警備隊長に伺った『対馬や壱岐の先人が蒙った多くの艱難のDNAは今も濃厚に伝えられ、頼りにされている、と感じるので部隊の名に恥じないようしっかりしなければ、と日々思いを新たにしている』を噛みしめながら・・・・。港から潮見公園まで、小1時間程歩き、同展望台から能古島及び海の中道方面を俯瞰した。 

写真①-左海ノ中道、右能古島
IMG_1285 (640x480).jpg

写真②-博多と地続きの海ノ中道IMG_1288 (640x480).jpg


一番目、緒戦としての志賀島合戦を思う

危急の際とは言え、狭い地区での戦いは犠牲が多く、勇を奮い起こす強い強い心が要る。改めて我が先人、もののふの凄味を感じた。1歩たりとも我が国土を踏ませない。わが身の犠牲は恐れない。犠牲を踏み越えて後に続く味方が敵に挑む。戦機を逃さない、勇猛果敢に攻める強い、強い心が心に響いた。少弐覚恵の(かっての)官人としての筋金入りの国の為、身を捧げる心も又強く心に響いた。此の強い強い戦いぶりは元軍に限りない、日本侮りがたし、冒し難し感を生じさせ、腰を引かしめた。

二番目、来寇に初めて統合国土防衛戦?を創造した志賀島合戦を思う
 
その一、戦い方を”創造”する心ーもののふの心

一歩も上陸させない意志を示した防塁の構築と揚陸できない所謂戦力発揮できない弱点に乗じて陸・海からの集中攻撃により”侵寇”企図を破砕する方針を掲げた事に日本国としての強い意志がある。未曾有の国難に際し、その強い意志を具現する戦い方を”創造"した事にもののふの極致の心を感じる。戦い方の”創造”は武によって立つ者の高い見識と勝つ事、新しい戦い方を産みだす事への執念と国を本気で思う心(赤心)があって初めて可能となる。この地に立つと、戦い方を”作り出した、極致ともいうべきもののふの4つの心が私に強く迫ってくる。

その二、如何なる時も国に尽くす心

防衛の任を帯びた官人がいかなる時も任務・国を守る使命を果たし、国に奉公を尽す心。例えば対馬・壱岐の国主や守護代が度々の外冦に際し、敵に立ち向かい全滅するまで戦った『心』、文永の役で官人が防衛の核として召集されたもののふと力を合わせ赤坂山を死守し、敵戦力の合一を断固阻止せんと戦った『心』及び防塁20kmを約6か月で構築し、この地を2度と踏ませないと誓った『心』等はそのまま志賀の島合戦に受け継がれた。

その三、一朝ことある時に、一身を犠牲にして敵に立ち向かう心

風雲急を告げる九州本土への来寇、未曾有の国難に際し、官人や召集を受けたもののふはわが身の犠牲を顧みず、敵に勇猛果敢に立ち向かった。壱岐合戦、鷹島合戦も同様である。受け継いだ戦う心は敵の心胆を戦かせ、受動に陥らせ、戦勢支配に繋がった。この精神は尊い。

その四、将帥に忠義を尽くす心

国の分身である、権師、守護や将師等へ忠義を尽くす心。朝廷側の菊池武房が文永の役で幕府側の少弐経資の指揮下にこだわりを捨て、積極的に入る姿や多くの召集された御家人が本領安堵のお礼奉公の範囲に閉じこもらず、身を捨てて積極果敢に戦う姿には国の危機に際し、指揮官のもとで力を合わせようとする高い使命感と志が籠っている。

その五、いざ!に備える心

この志賀島合戦には、いざ、国家の緊急時に役立たん、とする即応の心。その為に或いはいつか来る日の為に受け継ぐ誰かを信じて力と技と心を鍛え続けてきたもののふの心。戦う以上は必ず勝つ、その為の方策を見つけ出す執念。それらが私にはしっかり見える。今日の精鋭第4師団の姿と重なって・・・。

三番目、往事の熱気を伝える火焔塚

公園からの帰途、火焔塚に立ち寄り波切り不動をお参りした。元軍来襲に際し、高野山の僧侶が天皇の敵国降伏の院宣を体し、眼下に夥しい元軍の艦船を見つつ、弘法大師作の波切り不動を据え、灯明を掲げ、敵国降伏を祈祷した、という。国難に身をすてて当たった僧侶の尊い心と国を挙げて処さんとした国民の熱気を今に感じた。階段は地元の方々の手で、綺麗に整備されていた。今に伝え、次に残さんとする地元の篤い思いも合わせて・・・。

写真③-火焔塚由来の碑
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終わりに

本稿で考えた極致におけるもののふの在り様特に統合国土防衛戦?を創造した志賀島合戦に見た4つの心をもって前稿の規定(もののふとは、もののふの心とは)に至る背景(バックグランド)としたい。

次回からはその後、八甲田山以降の福島大尉旅に舞台を移す。私の中の”大山場”を越えたところで暫くの充電をして、と思う。お許し願いたい。

この稿終わり

参考・引用書籍:日本の合戦2 南北朝の争乱 人物往来社、武士の誕生関 幸彦講談社学術文庫、日本の領土の歴史 晋遊舎。
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【よろく】八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその十五 ”山場”を越えて、意を強くした事 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート2]

二つ、意を強くした『時代の責任ー陸上自衛隊の歴史をどう考えるか?-番匠陸将』(修親h25.3月号)

始めに

番匠陸将の上記記事を読み、大変意を強くした。この記事の中の2箇所に福島大尉の『もののふの心を受け継ごうとする心』と”同じ”ものを感じたので・・・。

一つ目、先ずは”同じ”を感じた姿についてー先人の事績を訪ね、先輩の教えを謙虚に乞う姿

番匠陸将は誠にささやかながら、各地で心がけてきたこととして、【勤務した場所・地域の郷土史や郷土部隊の戦歴を辿り、又それぞれの地域に所在する忠魂碑を訪ねた】事を挙げ、夫々の歴史や武勲等に対する深い愛着や誇りなどの伝承に深い関心を寄せている。更に旧軍出身の先輩方との珠玉の出会いが財産となっていることを謙虚に語っている。

福島大尉は士官学校の入学試験の自由作文で『弔古墳記』を書いている。人生で最も緊張する局面で脳裏に浮かんだ事は最も自分が関心を持ち、実行し、身についている事であった。その内容は、各地の古墳(墓や碑等のこと)を訪ね、その主(ぬし)の事績や人となりを偲んでいる。福島大尉は各勤務地でも多くの古墳を訪ね思いを詩文に残している。又士官学校生徒時代、勝海舟、金井之恭、安川繁成、渡辺鴎州等を訪ね知遇を得て、もののふの心を磨いている。

先人の事績を訪ね、先輩の教えを謙虚に乞う姿に両者の”同じ”を感じた。

二つ目、福島大尉が受け継がんとしたもののふの心

一番目、「日本」国家の意識の始めは文武天皇の御代

福島大尉は明治32年6月26日の軍旗祭において、連隊長祭文の原稿を書いた。文中で、文武天皇の御世から説き起した。その先を福島大尉は語っていないので、続日本紀を調べると再興遣唐使に倭ではなく『日本』と称させ、国家儀式(外交)に憧(註)(日像・月像)を初めて使った。要するに文武天皇の御世は『日本』国家についての意識の始まりであった。この事はブログ「もののふの心を受け継ぐ心ーその二 軍旗祭祭文に思う」で既に述べた。
註:日像憧:元日や即位式のときの威儀の具の一。黒塗りの高さ3丈(約9メートル)の柱に、金漆塗りの九輪を貫き、その上に日にかたどった金漆塗りの円板に朱で3本足の烏を描いたものをつけたもの。儀場の庭上に立てる。月像幢: 即位などの大儀の式場の庭上に立てた、唐様(からよう)の威儀の具。九輪をつけた黒塗りの柱の頂辺に、光彩をめぐらした銀地の円板をつけ、中に月桂樹とウサギとカエルをかき入れて月を表示したもの。(以上デジタル大辞典)

軍旗や日本国旗の起源を憧に置き、「日本」称号の起源を文武天皇の御世から説き起す。その御代は中国の冊封から脱し対等の独立国家として胸を張る、誇り高い国の始まりであった。その事に連綿と続く今とのつながりや今を位置づける強い意識がある。

二つ目、受け継ぐもののふの心とは

そしてその意識の核心には”武”を持って身を立て、「日本」国家に尽さんとするもののふの心がある。例えば官人として如何なる時も国家に奉公を尽くす気構え。官人・民間人(便宜上の区別)などの違いを越えて、国家の大事に立ち向かい、身を捨てる覚悟。国家の分身である主上や将帥に如何なる時も忠義を尽くす心。戦えば必ず勝ち、所命を完ぺきに果たす、その為に心と体と腕を磨き、その時に備える心等を受け継ぎ後世に伝えんとする心、がある。

三つ目、もののふとは

もののふとは大和朝廷に「もののぐ(具)を作り」、軍事をつかさどった「もののふ」を起源とするらしいが、福島大尉の考えに則って考えたい。即ち文武天皇以降の朝廷に”武”を以て仕え、単なる警備・警察機能ではなく、「日本」国の軍事機能をつかさどる或いは官に仕える形ではなくても、”武”を以て「日本」国の危機に馳せ参ずる高い誇りと志を有するもの《部門》と規定しておきたい。

意を強くした思い

福島大尉が受け継がんとしたもののふの心の視点で再度番匠陸将の所論を見ると、【防人、侍・武士、軍人、自衛官とその名称は変わっても、そこに流れる武の精神と志は一筋の道として連綿と繋がっていくべきものと思う】と所信を披瀝している箇所が大きく私の目に映った。

この時、極々自然に、『ことに臨んでは危険を顧みず身を挺して専心職務の遂行に当たる』自衛官の服務の宣誓が私の脳裏に浮かんだ。そして東日本大震災で出動した自衛隊員は身の危険を顧みず職務を遂行した。原子力発電所の水素爆発で放射能に汚染される危険を顧みず、メルトダウンを防ぐため、真っ先にというか、あるいは最後の砦というか、として、身を挺し、ヘリによる直上放水や至近距離による地上放水活動を行った、事に思いが行き着く。

国家の大事に身を捨てて使命を果たす覚悟や実践は福島大尉が受け継ごうとしたもののふの心そのものである。

この番匠陸将の所信に、私の旅の狙いそのものを言い当てられているようで甚だ意を強くした。要するにもののふの心を受け継がんとする福島大尉、明治の一陸軍将校の生き様を学ぶことは今を生きる我々も亦もののふの心を学ぶ事である、と・・。

終わりに

福島大尉は『世の中の 事をばゆめと 思ふこそ 吾かもののふの 道をまよわし (福島泰蔵作)』との歌を残している。いつごろの作であるか、について未だ調べが及んでいない。 
もののふの道を全うする為、死生を超越する心境への到達を願っているのであろう。軍人と言わず敢えてもののふと云う所に深く連綿と続く精神性即ち日本を”武”を持って護る為、心を磨き自己を高めんとする心やそれをを受け継ぎ伝えんとする篤い心を感じる。

ブログ「もののふの心を受け継ぐ心を思う」旅では"締め"に届かなかった。この投稿を思い立って、もののふとは、もののふの心とはについて、図らずも総括し、整理することが出来た。番匠陸将のお蔭である。この場を借りて心からのお礼を申し上げたい。しかし、未だもう少し掘り下げたい。自分の中でけりをつけたい事があるので・・。

次稿へ続く
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【よろく】もののふの心を受け継ぐ心ーその十一 加藤清正と家臣の絆 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート2]

一つ、清正と家臣の絆

始めに

清正公一代記を通して読みたくなり、目を通す内に興味深いテーマを見つけた。この旅もそろそろ終わりにしないと、とは思うが、遠回りでもやらねばならないテーマだと思う。今回は遺言7ヶ条を残す清正と家臣の関係の在り様特に絆の強さに思いを巡らす旅である。

前記清正公一代記、合わせて清正公記や清正公行状奇を読んで、最も私の印象に残った3つの場面を取り上げ主従の関係に思いを巡らしてみたい。

一つ目、永禄の役、清正軍が咸鏡道に踏み留まった場面

一番目、戦いの概要

日本軍が破竹の勢いで朝鮮に兵を進め、清正軍が咸鏡道に達し、国境を越えオランカイに入った頃、明軍は40万人を投入し朝鮮を援けんと豪語し出した。この状況に清正は咸鏡道に退き、20余郡に兵を展開して確保する態勢に移行した。小西軍始め日本の諸軍は漢城に退き、戦々恐々として清正にも退くよう迫る。咸鏡道各地では義勇兵がたち、敗兵は息を吹き返して諸城を包囲した。清正軍は尚咸鏡道各地に展開させたまま引き揚げない。容易に下がれない、という状況に陥った。

鍋島加賀守は一々これ等の部下を救い出していてはきりがない、随意漢城に引き上げよ、と飛脚を出して置いて、自分たちは一刻も早く漢城に帰り、大明を破る工夫をせねばなるまい、と諌めた。清正は聞き入れない。

我々が異国の果てまで武功をたてるは皆部下の勇士等が働きである。清正は仮令退路を断たれ此処に戦死を遂げるとも、可愛き此の勇士原を捨て殺しに致されぬ、生死を共にと誓って日本を出た以上は、我独り生きて功名を遂げん心なしと、断然踏みとどまって部下の諸城を救い出すに決した。

此れを聞いた軍兵共は涙を流し、この公の為には一命何か惜しかるべし、と勇み立った。

例(いつも)の事ではあるが、、清正が部下を愛するは実に親の子を慈しむ様である。ここに於て、清正は吉州や金山の部下の諸将を救い、鍋島勢も亦兀平山の味方を救い出した。

是で可(よし)と云うので、漢城南大門に帰った。

二番目、清正の心根を思う

退路を断たれる危険な状況の中で尚踏みとどまって部下を救う決心をする。断固たる決意と行動が無かったら、随意退がれと命じた途端に各地の兵は怖気づいてしまい、異国でちりじりばらばらの敗兵となり下がる。清正への信頼も揺らいだ、であろう。清正のどんな厳しい状況でも部下を思う”不動の心”と失敗を恐れない、勝つために、最善ではないかもしれないが己を信じ、断行する”必勝の心”が私の心に響く。

二つ目、慶長の役、蔚山が明軍15万に突如包囲された場面

一番目、戦いの概要

再び日本軍が朝鮮に上陸し、破竹の勢いで瞬く間に南原・全州・全義館を落とした。この為明軍は15万を朝鮮に送り込んで来た。其の時清正は蔚山在陣中。蔚山・西生浦一帯に堅固な城を構え、ここを基盤として次の攻勢を準備せんとしていた。蔚山には加藤清兵衛を据え、清正は西生浦にいた。その矢先に突然蔚山が包囲された。清正を破れば後は容易いとばかりにすべての矛先を蔚山只一か所に集中させていた。

これを聞き先ず浅野幸長が蔚山の背後に回らん(釜山との連絡遮断)と、雲霞のような敵に対し突っかかる。多勢に無勢で進退窮しかけた時、加藤清兵衛は遥かに日本兵の旗が動くのをみて、斉藤立本・大木土佐・小代総兵衛に500の兵をつけて救援に出す。幸長勢は漸く城中に入り一息ついた。

蔚山の築城は未だできていない、味方は小勢。その上困ったことに城下の百姓・町民が明軍を恐れて逃げ込んできた。敵は一挙に攻め落とさんと猛攻を加える。余りの敵の多さと攻撃の烈しさに加え、食料が尽き、暮の寒さに難儀がいつまで続く、かと援兵を待ちかねている窮境である。

清正は一刻も早く蔚山に入場せんと、触れをだす。郎党の面々は諌める。蔚山に3分の1の兵を割いている。
西生浦に3分の1の兵を残さなければならない。連れてゆくのは3分の1しかない。諸勢の到着を待って救援しかるべし。

清正は危険は万々承知の上だがもののふの意地、大将の情としてこの危険は冒さねばならない。後日遅れて落城すれば弓矢の瑕瑾、恥辱は重い。のみならず蔚山に籠城する勇士は清正と共に生死の境に往来したもの。情に於いて我が子も同然である。敵は未だ押し寄せて間もない、今危いと躊躇すればこの先にては大軍にても近づき難し。危険を冒すは今この時。

又幸長を討たせては頼まれた弾正(幸長の父浅野長政)に合わせる顔がない。日本へ帰って何の面目あって顔を合わせようか。自分が行き着く前に若し討ち死にしても約束を守る為に死んだのなら弾正は許してくれるだろう。

そこまで言われるなら涙を揮ってお供しまう、と家臣一同。清正はこの戦はいつもの戦ではない。唯一概に城に入るを心がけよ、左右を顧みず真一文字に進め、と下知。数十艘の早船に打ち乗り漕ぎだす、敵は気をのまれこわごわ見送り難なく入城。

城中は百万の兵を得た心持で以後20日間持ちこたえ、兵糧攻め、水攻めに堪える。援軍の来着と共に明軍は囲みを解いて撤退する。

二番目、清正の心根を思う

部下を援ける為に危険を冒す、危険を冒すのは今をおいて無い。清正が諫言を受け入れ部下が納得した場合に比べそれ以上のもの、清正の決心は部下の戦う気持ちや清正への強い信頼、を引き出した。ここでも、部下を思う不動の心と必勝の心が私の心に響く。又弾正との約束を守る義の心、守らなかった場合を恥に思う心も私の心に響く。

三つ目、関ヶ原の戦いの間における人質とされた奥方救出の場面

一番目、事の概要

この時清正は肥後で戦い、奥方(註)は伏見にいたが、三成の企みで人質として大阪城に囚われていた。処が大阪の加藤家留守居は大木土佐、船奉行は梶川才兵衛であった。両人申し合わせて救出のための行動を起こす。梶川は毎日3度川口から屋敷にくる、病人と偽って駕籠に乗り綿帽子・夜着を身に着け、出入りする。番人は別段怪しまなくなる。頃合いをみて、梶川は例の通り、城中に入り戻りに奥方を駕籠に乗せ、綿帽子と夜着でかくして大木と梶川は伴の内に紛れ込む。若し番人がとがめた時は大木が番人を切る、梶川は奥方を刺し殺す。命を棄てる覚悟の手筈であった。処が番人は咎めもしないで通す。川口からは船中に奥方を移す。船番所の見張りが有るので、大きな水桶3つを予め準備、其の内の1ヶは中底を設け、下に奥方を、上に水を入れてやすやすと舟番所の検査を受け通過。奥方は両忠臣の苦心によって無事帰国した。

(註) 奥方は徳川家康の養女、実は水野和泉守の女で浄源夫人と言い、慶長3年入與翌年嫡子熊之助が誕生。

二番目、家臣の心根を思う

家臣は現出した状況の中で取りうる方策を知恵を出して考え抜き、命を捨ててかかる。決して命令や指示を待つ余裕などなかった、であろう。最悪の場合、自分たちは勿論、奥方の命も捨てさせる覚悟であった。この状況で奥方の無事救出が最善のシナリオ、最悪失敗して全員死んでも、もののふ加藤の名は立ち、徳川家康への申し開きも出来る。清正は凄い部下を育て、持ったものだと思う。そして家臣はこの殿の為なら命も捨てる、と本気で思う。清正の”部下を思う不動の心と必勝の心”を我が心に写し取り、子が親に孝を尽くすように或いは清正の心を我が心として、蔚山では清兵衛が浅野行長を援ける為場内から打って出させる。咸興道では各地に散る我が守兵を丁寧に、わが身の危険を冒して援ける等、心底仕えた。

二つ、福島大尉の思いを重ねる

一番目、部下を思う心

清正は従5位侍従の位階を賜り参内し、天皇からの御下問を受け、文禄・慶長の役で一戦も不覚を取らなかったのは部下の忠義と南無妙法蓮華経のご加護の賜物と奏答している。部下を思い感謝する心は篤い。

福島大尉は厳しい場を設定し、隊員に役立つ実際的な実験行軍や演習を行い、部下(次下級指揮官)を教育・訓練した。八甲田山雪中行軍に於て十和田湖畔断崖道は当初から最も危険と考え教育し、舟行の準備等に万全を期した。無事通過し終わった日の手記には「無事通過できたのは各自の注意深かりしならん」と述べ、又八甲田山雪中行軍実施報告第12行軍間の軍紀並びに作業の順序において「(略)各人競ふて困難に耐へ克つの気力を有し辛酸の度益々加はるに従ひ敵愾の気益々強く十有餘日の難路通過に於て一人の患者を生せしのみ要するに演習員自ら其名誉を重んじたると且つは其所属隊長の訓育宜しきを得たる結果なり」とも述べている。部下を思い讃える気持ちを表している。この篤い気持が清正に重なる。

二番目、不動の心

清正はその生涯に於て、危険や困難に立ち向かい、進退窮まる場面でも怯んだり・たじろいだりせず、戦いに於いて不覚を取ることはなかった。

福島大尉も前人未到の岩木山や八甲田山雪中行軍に挑んだ。何時も自分の経験や予想を超える難しい局面に遭遇したが怯まずやり遂げ一隅から千里を照らす大きなことをなした。不動の心が清正に重なる。

三番目、必勝の心

清正は困難や危険に立ち向かう時、失敗を恐れない。”必勝の心”を持って、やるべしと信じる事を己を信じ断行する。

福島大尉もまったく同じ心を持っている。

四番目、強い心の芯

清正の強さは不動心と必勝の心に表れている。強い心の芯には信仰する心、義の心(註1)、忠孝を尽くす心(註2)がある。

(註1) 侍としての道を護るを例として述べると、16才で200石を秀吉から頂いた時家来を抱え、もののふとして上に立つを志し、武士さらには侍大将等の将校としての道から外れないよう精進した。弾正との約束を守り行長を援けんとする心、裏を返せば恥を知る心も義の心である。

(註2) 忠を尽くす心として、秀吉子飼いとしての戦場での槍働きの御奉公を懸命にした。孝を尽くす心として、父の菩提を弔う為、大坂在勤時本妙寺を建て、肥後領主となって熊本に移駐し規模を拡大した。

福島大尉の強い心の芯は義の心とまごころである。ぶれない強い心と芯を持つ点が清正に重なる。

三つ、本妙寺を訪れて

浄池廟の側に大木土佐守の殉死墓(写真下)があった。清正と家臣の絆を語るのに、これ以上相応しい人はあるまい。その人に、ここで会えるとは・・・・。大木土佐守は本稿の中だけで3度目の登場である。新参ではあるが清正の信頼が篤かったのであろう、大木土佐にとって、清正は「士は己を知る者のために死す」の「己を知る者」であった。

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終わりに

清正旅の最後を飾るのにふさわしい今回のテーマであった。清正は部下の心をその強い生き様で鷲掴みにした。もののふの中のもののふと言っても言い過ぎではない。難局で同じ心を持ち、同じ行動をとる、清正と家臣の絆は強い。

今回でもののふの心を受け継ぐシリーズも終わる。福島大尉は先人の古墳を訪ねてその主と語らい、もののふの心を受け継いだ。福島大尉を思うことは古来から脈々と伝わるもののふの心を受け継ぐことである、と改めて思う。

本シリーズ終わり
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【よろく】もののふの心を受け継ぐ心ーその十 加藤清正の治績 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート2]

一つ、加藤清正の治績

始めに

関ヶ原の役後清正は肥後54万石の領主として、漸く到来した太平無事の間に、専ら領内を治めることに努める。断片資料ばかりで弱っていたが、治績の全体に触れている資料「清正公一代記」(中村事著、明治42年)」に出会った。大助かり、である。これに依って思いを巡らしたい。

一つ目、先ず着手したのは熊本城築城

慶長6年正月江戸城に赴き、家康公に城普請の許可を受け、3月帰国と共に工事に着手した。茶臼山に着目し、これを拓き、古城と千葉城を一つにして今の熊本城を築いた。この時清正は二つの事を同時に行った。城を要害とし併せて民の利便を図る事であった。城は3年後に完成する。位置取りや白川を外堀、坪井川を内堀にする巧みさと築城技術の卓抜さは天下の名城としての評価が高い。西南戦争でその難攻不落振りが証明された。

一番目、坪井川の取り込み

民の利便として、白川に流れ込んでいた坪井川の流路を変え、城地を巡らして内堀とし、河道を開削して井芹川に城下町の南端で合流させその流量を増やして河口から城までの舟による運漕を容易にすると共に灌漑水として使えるようにした。

二番目、分流堰

当時白川は現在の子飼橋~代継橋付近で大きく蛇行し、現在の熊本市役所付近で坪井川が合流、それから現在の坪井川の流路を通り、現在の長六橋付近で現在の流路となっていた。清正はその合流地点に分流堰を作った。

二つ目、次に行(おこな)ったのは土木工事

清正以前の肥後は統一した大名がなく土豪処々に割拠していたので大川の堤防を築く力がなかった、ので年々洪水の害を蒙ることが甚だしかった。従って堤防を造り、その効果を広げて新田や、新村、新川等を作った。
一番目、北肥後の土木工事

加勢川の大堤防を築き中瀬橋を開き江津付近の洪水の惨害を減らし、合わせて城の外郭とした。今村より野田に至る大堤防を築き御船付近の水が飽田詫磨に氾濫するのを防ぎ、下牟田の新村を造り、杉島小岩瀬間に新川を開いた。二町川口より白川高瀬川を経て七洞八崎より玉名に入り横島長洲間の大堤防を築き、御船川の川床を変え、新たに八龍塘を築き犬塚山の麓で緑川と合流させた。

治水工事の代表例

その一、鹿漬堰(しつけぜき)。

白川と黒川との合流地点に設けられた鹿漬堰(しつけぜき)は白川の流速を速め、黒川の流速を遅くする作用があり、 川岸から中央に向かって突き出した石堤(石刎(いしばね)は堤防を保護するために流速を下げることを狙ったもので、流域各所に設けられていた。

その二、用水工事

画図・春竹・田迎・世安方面(1083ha)の農業用水路とするため、用水路をつくり、渡鹿に堰(渡鹿堰)を設けた。
 
二番目、南肥後の土木工事

緑川の下流に大曲を開鑿し、満潮時に川水が潮勢に押され緩くなり、為に上流が大洪水になる事や川尻付近水没の恐れを解消した。最も有名な工事である。今日に至るまで川尻地一帯はその遺徳に浴している。今の球磨川の萩原一帯に大堤防を築き、麓村掛かりに八字の堰を造り、高田植柳の灌漑を図り、八代郡一帯が同川の大水氾濫で沼沢地から抜け出せない水害を除き、水利を起こした。今の新村はこの時に出来た村である。

三番目、横島新田を開く

土木工事が一段落すると、次は横島新田に着手。元来高瀬川は小田久嶋山と横島の間を海に流れていたが、大野牟田より大濱小濱へ落とし、久嶋横島の間を埋め立てて新たに八ヶ村を作った。これには10余年を費やした、清正一代では片付かない大工事であったが清正の設計宜しきを得たものである。今日、誰もが認める良田である。

註 土地・河川などの名称はそのまま使用した。

二つ、現地に立って思う

一番目、分流堰

分流堰跡の紀念建造物から坪井川・白川を望む(写真下)

手前坪井川、奥は白川。中央の建物が分流堰跡の記念建造物(この地に移設)

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二番目、西高橋側から井芹川・坪井川合流点を望む

左井芹川、右坪井川

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三番目、西高橋神社にて

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四番目、現地での思い

平成24年12月28日、本妙寺の帰りに訪れた。西高橋神社の由緒、に依れば「かって高橋は津(港)として栄えた(略)。(細川の代になって鳥居などの修造の)寄進碑には役人や商人が多数刻まれ、商の港、高橋を物語っています(略)・・」とある。高橋は舟運と商いで賑わった事が分かる。清正の狙い通りである。清正の視線の先に民の暮らしがある、と実感できた。

合流点付近で清正の治績の記念の碑や説明版がないか探したが無かった。「由緒」にも触れて無い。何故?

清正の工事は多方面に亘っており、驚くばかり。更に驚くのはその多くが今尚多くの人の暮らしに役立っている事だ。私はそのことに清正の本物の技術力を感じた。だから長続きしている。本物とは本当に困っている事(本質の問題)を見抜き、確かな技術力で克服する事を言う。しかしそれだけではない。清正しか持ちえない篤い思いが其れに加わっている。天下第一と自負する築城技術を民の暮らしに役立てたい、領国を良くしたいという篤い思いだ。それが私に伝わってくる。

三つ、福島大尉の思いを重ねるー特技を活かす

清正は築城技術を民の暮らしに役立てたい、領国を良くしたいという篤い思いで治政を行った。熊本の人が今尚清正公(せいしょこ)さんと慕っているのは今の暮らしで、お蔭を感じているからであり、己の特技を本気で自分達の先祖の暮らしのために揮ってくれたその篤い思いを伝え続けてきているからである。

福島大尉は地理学・地図作成を特技とした。台湾の守備隊長としては地理学的素養を活かし蛮族を統治した。日本の近代化の一環である地図整備にも陸地測量部の一員として加わった。冬季行動標準提言の為、地理学的研究や地図作成などを意欲的に行った。八甲田山雪中行軍に至る一連の実験行軍や演習などは常に全陸軍の為に負うべき第8師団(将校)の義務である。兵に役立つ実際的成果探究は上長たる将校の責任であるとして篤い思いを込めた。福島大尉の特技を活かした全軍及び兵士への篤い思いが清正に重なる。

終わりに

清正は芯の確りした奥の深い人だと思う。猛将・勇将・知将・智将・仁将、何れの顔も持つ。智には武に係らないもの、土木技術を民に活用する、がある。福島大尉が干戈説でいう良智を越える超良智であるかもしれない。

この稿終わり
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【よろく】もののふの心を受け継ぐ心ーその九 加藤清正の遺言 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート2]

一つ、加藤清正の遺言

始めに

(秀頼公・家康公の対面後に許しの出た)暇即ち肥後帰国を許された清正は、船中で熱病を発っする。しかし、其の儘肥後に到着し、熊本城に帰る。わずらわしくはあったが、家中の全員に振る舞い歌舞伎を興行し、「今度秀頼公家康公ご対面を調え、天下に名をあけ帰国」と始終を説明し、「今病相究(きわまり)て命之終此時也。虎藤丸を守り立へしとあれは。何れも及悲歎。」病気次第に悪化し、6月23日、祐筆を呼び、書置き3通と遺言を残し、24日死去。

一つ目、書置きについて

 家康公・利家公宛てには 倅虎藤丸を然るべき様頼み奉る、との意が、 家老、侍一同には肥後国虎藤丸へ下され給うべし、さもなくば籠城の上一戦をとぐへしとの意が表されている。

二つ目、遺した言葉について

遺言には「我死せば具足を着させ、太刀をはかせ、棺に入納へし」とあり、熊本城の西の中尾山本妙寺(熊本市花園町)に送葬された。

別に「家中侍共へ被申出7ヶ条」がある。

第1条奉公の道油断すべからず。【朝早く起き、兵法・弓・鉄砲・弓・馬を練るべし。武芸すぐれた者には加増の事。】第2条 鷹野鹿狩り、相撲に出るべき事。第3条衣類は質素に。【衣類に金をかけるな、身を相応に武具を嗜み、人を扶持すべし。軍用の時の金は遺しておくべし。】第4条平生の傍輩付き合いの客は一人で十分。【食は黒飯。但し武芸執行の時は多人数の出会い可。】第5条軍禮法は侍の存ずべき事。【不必要な事、美麗を好む者は曲事(正しくない事)をしている。】第6条乱舞方一圓停止たり。【太刀を取れば人を切らんと思う。武芸の外乱舞稽古の輩は切腹為すべし。】第7条学文の事【情を入れて兵書を讀むべし。忠孝の心懸専用たるべし。詩聯句を読む事停止たり。心に華奢風流なりて弱き事を存じ候えば、いかにも女のように成るものにて候。武士の家に生まれてよりは太刀を取りて死る道本意也。武士道吟味せさればいさきよき死は仕にくきものにて、よくよく心を武士にきさむ事肝要。(以上清正記から)】

二つ、福島大尉の思いを重ねる

一つ目、清正の書置きや遺言に福島大尉の思いを重ねる

この行(くだり)を読み、清正の強い思いが私を圧倒した。今はの際に残した2つの思いの切実さに、である。

一番目、加藤家(領国)を守り抜く

心を削り家康と交わって此処まで来た。今自分が死ぬことは無念である。虎藤丸に継がせたい、そう家康公・利家公には誠心誠意頼んだ。若し通じないことがあればその時は家臣一同立て籠もって戦へ。元はと言えば太閤殿下の恩を受け家臣一同が力を合わせて築いた加藤家(領国)だ。加藤家である誇りと名誉にかけて戦おう。自分が縄張りをした熊本城は難攻不落、其の時には加藤の名を存分に挙げられるだろう。自分は中尾山で軍神となって末世までも加藤家(領国)を守り抜く。

福島大尉は国難日露戦争に勝つ。そのための冬季行動標準を自分が提言する、強い使命感と気概を示した。その国を守り抜く使命感や気概が清正に重なる。

二番目、武士は強くあれ

家を興すも潰すも、戦いに勝つも負けるも、武士次第。武士は強くなければならない。今の加藤家が有るのは家臣が強かったからだ。その為には普段からの心構えと覚悟がいる。(この7ヶ条は)自分が終生守り、お手本を示したものだ。家臣はこの7ヶ条(註)を守り強くあれ。これが守れないものは暇を申しつける。守ることは男としての道である。この道を成さぬ者は追放する。速やかに遂げるを吟味せよ。清正が死んでも強い家臣であり続け、虎藤丸を盛り立て加藤家(肥後国)を安泰にせよ。

註 いざを基準に武芸を磨け(1・2条)、いざに役立つよう無駄なことをするな(3・4・5・6条)、学文に励め(兵書を情を入れて読め・忠孝の心懸け・太刀を取りて死ぬ事が本望・武士道吟味・・7条)

福島大尉は常に戦場での予想外をなくすために普段の厳しい訓練と隊員目線で隊員に役立つ実際的訓練を重視した。前人未踏の岩木山雪中強行軍や八甲田山雪中行軍に挑んだのは強い兵を作る信念の証である。
又福島大尉は兵の中核として常に、岩木山雪中強行軍や岩木山夏季強行軍及び八甲田山雪中行軍に於いて、次下級リーダーの養成に真剣に取り組んだ。

福島大尉の強い兵とその中核となる次下級リーダーを育てる強い思いは清正の強い武士であれに重なる。

三番目、家中侍共へ被申し出7ヶ条に福島大尉の思いを重ねる

福島大尉は少尉任官以降、野外要務令特に綱領の体現を目指してきた。福島大尉が体現に努めた綱領の中で、特に以下の7点が清正(7ヶ条)に重なる。

その一、常にいざに備えてが基準

清正の7ヶ条すべてに通じる精神は”いざに備えて”である。福島大尉が体現に努めた精神は「凡て百事戦闘を以て基準とすべし、」である。凡ては戦いに勝つために、の精神が重なる。

その二、武芸を磨け

清正は武士の表芸として「奉公の道油断すべからず、の中で兵法・弓・鉄砲・弓・馬を練るべし、」更に「鷹野鹿狩り、相撲に出るべき事。」と述べている。

福島大尉は「軍人の技術は武器の使用に外ならず。習熟して心手期せずして相応すべし。将校は模範と為るべし。」の体現に努めた。30式歩兵銃習得のために戸山学校に入校(註)し、八甲田山雪中行軍中には寒冷の中で銃の性能を確認した。武技特に武器の操作に習熟する心が清正の武芸重視の心に重なる。

註 雪中露営演習終了後の明治33年3月~9月射撃学生として入校

その三、質素倹約

清正の精神はいざに備えての質素倹約である。

福島大尉が体現したのは「演習の日において困苦欠乏に耐え克つを教誨養成すべし。」である。岩木山雪中強行軍、岩木山夏季強行軍そして八甲田山雪中行軍では極めて厳しい場を設定し、その中で困苦欠乏に堪える訓練をした。この心は清正の質素倹約に重なる。

その四、名誉心

清正は「7ヶ条を守れないものは暇を申しつける。男道を成さぬ者は追放する。」と言っているが家臣の名誉心や誇りをもたせよう、とする篤い心が籠っている。

福島大尉は「名誉心は軍人精神を維持するものなり。胆力を助け怯懦を掃蕩し死生の地に従容たらしむ。故に全軍の名誉を宣揚すべし」の体現に努めた。岩木山雪中強行軍ではその困苦欠乏に堪える程度は各国軍と比べても右にある。又冬も夏も強行軍をやり遂げた第8師団は精兵である、と述べている。その名誉を重んじ宣揚する心は清正の心に重なる。

その五、忠孝両全の心

清正は「学文の事の中で、忠孝の心懸専用たるべし。」とその目的を明確に述べている。

福島大尉は忠孝両全を最も大事にした。既に何度も述べたが、「快楽説」でその所信を述べている通りである。何の為に学問するかの精神が重なる。

その六、武士道を身に着ける

清正は「武士の家に生まれてよりは太刀を取りて死る道本意也。武士道吟味せさればいさきよき死は仕にくきものにて、よくよく心を武士にきさむ事肝要。」と武士道の真髄を説く。

福島大尉は「戦時、実敵及び危険悲惨に耐え克つ道は義務を守り、死生を顧みず一身を犠牲にして君国のために盡す、軍人精神にあり。この精神を鼓動して責めを重んじ任を竭(けつ、出し尽くす意)し斃れて後に止むこれを軍人の本分とすべし。」の体現に努めた。岩木山雪中強行軍に於て、松代村で疲労の為動こうとしない隊員を鼓舞する際、斃れて後に止む、を強調している。この軍人の本分を尽くす精神と武士道の真髄に迫る精神は重なる。

その七、情をいれて兵書をよむべし

清正は「学文の事の中で、情を入れて兵書を讀むべし。」と述べている。

福島大尉は陸軍士官学校入校以来戦術・戦史の熱心な修養研鑽に励んだ。外国典令・戦史から検討項目を抽出し戦術・戦史でその内容を験し実験で確かめる正攻法であった。その結果冬季行動標準提言の為の質の高い各種実験行軍の実施報告や論文を世に出した。格言・外国典令・戦術・戦史等をリンクさせる心は清正の情を入れた兵書の修養・研鑽と重なる。

二つ目、本妙寺(熊本市花園町)を訪れて

平成24年12月28日、訪れた。来て分かったことがある。清正の遺体は熊本城にむいており、天守閣と同じ高さ、中尾山の中腹に祀られていた。墓所を浄池廟(写真下)という。廟の中ではなく、下に安置され、建物全体が墓になっている。

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仁王門から浄地廟までの参道も長かった。世間の雑音に捉われず、熊本城だけ、肥後国だけを見ている。何かあればすぐ戦うぞの気概を示す生き様そのままに肥後の国を思う、志や知恵や勇気のある家臣こそ宝と思う不動の心が伝わってきた。だから7ヶ条なのであろう。

終わりに

前号の秀頼公・家康公の対面と加藤清正を書き終わって、清正記の先を何気なく読んだ私は清正の最後と遺言のところで大きなショックを受けた。今はの際の清正の強い気持ちに圧倒されたのだ。間違いなく福島大尉も心打たれたはずだ、との思いで本稿を書いた。思いがけない所に思いもかけず面白い題材が潜んでいた。人物を追う戦史(記)はつくづく奥深い、と思う。

参考・引用書籍:清正記巻二 塙保己一 群書類従、清正行状奇 塙保己一 群書類従、日本戦史・朝鮮の役・(本論附記・文書補備・付表付図) 参謀本部編纂、日本の合戦6 豊臣秀吉 監修高柳 光寿 人物往来社、日本の合戦別巻年表・付図 人物往来社、福島大尉の人間像 高木勉 講談社出版サービスセンター、八甲田山から還ってきた男 高木 勉 文芸春秋、われ八甲田より生還す 高木勉 サンケイ出版、戦国合戦大全 下巻 学習研究社。

この稿終わり
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【よろく】もののふの心を受け継ぐ心ーその八 秀頼公・家康公対面と加藤清正 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート2]

一つ、清正、秀頼公・家康公の対面を取り持つ

始めに

福島大尉は清正について漢詩を詠んでいる。そこから対面に繋げたい。

一つ目、加藤清正

誰料懐中匕首存【誰か料(はか)らん懐中に匕首(ひしゅ)存するを】人乎是鬼在鴻門【人乎(ひとか)是れ鬼か鴻門に在り】丹誠独護弧君座【丹誠独り弧君を護り座し】今日聊報太閤恩【今日聊(いささ)か太閤の恩に報ゆ】

鴻門=故事、鴻門の会を云う。漢の高祖と楚の項羽が会う時に高祖が危うく殺されるところを免れた。

大意:慶長16年秀頼、家康と対面の為二条城に赴いた。道中、清正と幸長(註)は終始お側を離れず、対面の時も清正傍を離れず、対面後、邸に帰る舟の中で、匕首を懐中より出し無事終えて「秀頼君に指一本触れさせなかった。聊報太閤恩」との感慨を持った、との意。

註 浅野 長政の子、父長政は織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝の娘・やや(彌々)の婿養子として浅野家に入る。同じく長勝の養女となっていたねね(寧子、のちの北政所、高台院)が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長政は秀吉にもっとも近い姻戚として、信長の命で秀吉の与力となる。信長の死後、秀吉に仕え、累進して大名となる。行政手腕を発揮して、5奉行の筆頭となるが三成と対立、秀吉死後の関ヶ原の役では東軍に加わる。

二つ目、対面のきっかけ

家康公、二条城にて清正と幸長に振る舞いあり、その際両名に対し、秀頼(註1)との対面の取り持ちを頼む。二条城(写真下)に出向いてもらうことに御母公(淀殿)は気遣い(註2)されるであろう。右兵衛常陸介(註3)も一緒するので安心して欲しい。その足で清正行長は大阪に赴き、利家に相談。3人で淀君に対し、両名で秀頼君のお供奉つると申し上げ了承を取り付けた。

註1 秀頼の奥方は家康の娘千姫
註2 淀君は秀頼を大坂城に移ってからは一度も場外へ出さなかった、という。
註3 家康の子、紀州和歌山藩主徳川頼宣のこと。

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三つ目、対面

対面の日、清正は片時も離れず陪従した。淀川の左岸は清正の、右岸は幸長の兵を配置して警護し、その中を舟行した。途中、清正の馳走や家康からの進上などで、秀頼は寛いだ。清正は秀頼公の御成人ぶりを京童に見せるようお勧めし、乗り物の左右の戸を開いた。

伏見より二条城までは徒歩でお供し、玄関では家康が出迎え、互いに挨拶。酒杯に移り、頃合いを見てお戻りの時刻と告げると、家康からの進物などあり、秀頼公は座を立たれた。家康玄関にて見送り、清正徒歩にてお供し、伏見からは船で大阪城へ向われた。洛中どころか日本国中で多くの人が清正は家康公秀頼公の対面を調えて忠義を尽くされ、終始の首尾を調えたる武士なり、と感じ合った。秀頼公家康公清正へ御暇を賜り、帰国。(以上清正記から)

四つ目、清正への対面依頼に至る家康との接点

清正が太閤恩顧の大名であることは周知の事である。一方家康との関係は慶長地震の際の申し開きを家康を通して行ったことがもとになって始まった。秀吉没後清正は家康の養女を娶る等家康に接近する。二条城の対談に至る接点を清正記では以下の様に述べている。

清正は関ヶ原の役には出兵せず、肥後において西軍小西行長の宇土城や八代城を攻め落す。戦後は黒田如水と通じ、立てこもった柳川城の立花宗茂に下城をすすめ、城を受け取り、薩摩攻めの一員に加える。家康から肥後一国を事がなったら(薩摩が降り、九州の平定がなったら、の意か)進置との約束を取り付ける。清正・黒田如水の薩摩詰めの間にも島津に降伏を勧める。家康から「小西の領分不残肥後一国一職主計頭可被領」、「肥後一国の仕置き等申し付。」と安堵され、熊本に九州第1の城を構えた。

慶長8年3月6日、大阪城で秀頼公にお目見えし、利家に参候し、家康公お見舞いに浅野左京太夫と同道した。
右兵衛様左京殿婿に、常陸介を主計殿婿に望まれるが両名とも断った。お断りで御立腹と思ったが、家康公御祝着あって御振舞とあり、20日間滞留し、上京。

慶長15年4月7日中納言秀忠卿征夷将軍に成らせ給う。清正も従5位上侍従に被任。清正大いに喜び参内。

家康公尾張国名護屋城普請有て、薩摩守へ可被遣との儀にて、諸大名へ御普請の依頼有り、清正も伊勢浦にて石割。尾張国萬松寺を宿陣として、女三百人で歌舞伎興行、天下の大小名の目を覚まさした。9月中旬、普請成就し、大阪へ下着、秀頼公にお目見えし、伏見にて送光陰。伏見に足を運んだ清正はさびれた伏見で太閤の事を偲んだであろう。

以上を経て家康の秀頼との対面取り持ち依頼となる。(以上清正記から)

二つ、福島大尉の思いを重ねる

一番目、報恩の心

清正は家康公を天下一の実力者と恐れていたので、この依頼に対し、太閤殿下への恩に報いる為、秀頼公へのこの対面を取り持った。家康公が秀頼公を殺めるような振る舞いがあれば身を挺して阻止する。指一本触れさせない。万やむを得ず危害が及ぶ事態になればこの匕首で淀君に死してお詫びする。家康が出向くのが筋、とばかりでは緊張が高まるばかり、家康公が天下一の実力者である現実を踏まえた対応が必要だ。家康の孫娘千姫の婿として挨拶に出向き孝養を尽くす等現実的対応、それが秀頼公をお護りする事につながる。

福島大尉は忠孝両全の生き方を理想とした。育ててくれた親の恩、自分を心底理解してくれた立見師団長の恩、国難に事を為すことが出来る、一廉の男に育ててくれた国家への恩を持ち続け、日露戦争・黒溝台の最悪事態に棄命で恩返しをした。その報恩の心は清正に重なる。

二番目、名を残し続けたい

清正記を紐解きながら、私に伝わってきたのは誰に見せたかった、のだろう、との疑問とその答えであった。

太閤に大恩があるのは言うまでもない。秀頼公の安泰には家康公との仲直りが必要である。我が加藤家こそは豊臣を守る忠義の臣。家康公に接近し家名を残すことが豊臣を守る道。その経過を残す。家康と斯く交わって加藤が残った。心を削る清正の苦労であった。家康公を恐れていたが、新恩を感じてもいた。その事を弁えて加藤家を発展させて欲しい。

福島大尉は戦場から我が名を故郷に記せ、と言い送り、福島泰蔵碑が建立された。碑を残すことでもののふの心を継ぐ志のある若者が訪れ、語り合い、何時の日か国家の大事に自分を越えて尽くすことを期待した。その”名を残す心”が清正と重なる。

終わりに

清正は立場と思惑が180度違う秀頼公と家康公、両者に対し、”報恩”に現実的に対処した。勇ましいだけでない。真に智将であるとの感想を持った。因みに清正記の序(冒頭)に「英雄の士あれとも。能知将なし。其れを知らせ給うは太閤秀吉公也。」とある。太閤はこの清正の対面取り持ちを何と思うであろうか?

参考・引用書籍:清正記巻二 塙保己一 群書類従、清正行状奇 塙保己一 群書類従、日本戦史・朝鮮の役・(本論附記・文書補備・付表付図) 参謀本部編纂、日本の合戦6 豊臣秀吉 監修高柳 光寿 人物往来社、日本の合戦別巻年表・付図 人物往来社、福島大尉の人間像 高木勉 講談社出版サービスセンター、八甲田山から還ってきた男 高木 勉 文芸春秋、われ八甲田より生還す 高木勉 サンケイ出版、戦国合戦大全 下巻 学習研究社。

この稿終わり
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【よろく】もののふの心を受け継ぐ心ーその七 慶長伏見地震と加藤清正 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート2]

始めにー福島大尉は最悪の田代露営で加藤清正を思っていた

八甲田山雪中行軍実施報告の中で触れている武将がもう一人いる。加藤 清正である。2か所ある。
①「(前略)慶長2年2月加藤清正の再ひ朝鮮に入るや朔北の風雪甚だしき為めに土穴を穿ち寒を防ぎし例証(以下略)」②「附記す雪中行軍及ひ露営に在て四肢の凍凝は最も恐るべき者なりと雖も尚一の恐るべきは眼目の昏鳴に在り酷寒の際空腹なる時は先づ眼目の視力を減じ次第に眩暈を帰来して倒る。加藤清正の朔雪中土居せし時も将士多く雀目を患いたると云ふ」(以上、第十一雪中露営の状態)

人生で最も過酷な場面で、思いを寄せる人、加藤清正。福島大尉は清正を詳しく知っているに違いない。まずは土穴や雀目について、この裏付けを取ろうと朝鮮の役について諸資料を調べたが発見出来なかった。しかし、色々な局面の資料に目を通し清正がもののふの心を持つ凄い武将である事は分かった。福島大尉は清正からものふの心を受け継いだに違いない。

一つ、地震加藤

文禄・慶長の役を調べるうち、私の目に留まった(福島大尉も注目したであろうと思う)のは小西行長の讒言で、太閤秀吉の怒りをかい、本国に呼び戻され蟄居した事。先ずはそれに纏わる話から始める。

一つ目、地震発生直後清正登城

慶長元年7月12日夜、大地震発生。二、三百年間、聞いたことがないほどの烈しい揺れ。五畿内全域に及ぶ広範囲に家屋は一戸残らず倒れ、死者も数知れず。

この時清正は即行動開始、足軽・侍を引き連れ、伏見城(写真下)・太閤の側へ急行。一番乗りであった。太閤は大庭に出て、幕屏風で囲った中に、大挑灯に照らされ、女装束で政所様・松の丸殿・高蔵主そのほかの上臈衆に交じって座っていた。

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だれそ、との問いかけに、清正は「加藤主計頭是迄参たり。大地震夥敷候に。上様を始めおしにうたれ御座可被成と奉存。はねはつさんため弐百人の足軽に手子を持たせ参候通。太閤様、政所様、へ被仰上候へ」との口上で答える。

政所様からの数々の質問に、清正は答える。それを側で聞いていた高蔵主は太閤へ言上した。文禄の役での清正の数々の貢献・手柄については考慮されず、小西行長が同じく文禄の役で清正に後れをとり表裏を申し上げたことは聞かれ、和平の不都合は承知されず、石田光成と仲が悪い為受けた讒言を誠と思われ、今切腹すべし、と高麗から呼び戻されたが、自分に非がないとの確信があったので清正は帰朝し奉公に励んだ。良く申し開きさせれば落ち度がないことは自明である。

太閤は清正の姿を見て涙を流すが声はかけない。

其の内大名も多く詰めかけ、広庭が狭くなったので、一段高い石垣の犬走りへ太閤一行は上がる。依然として太閤からの御前の許しがない。・・にもかかわらず、清正雁木の下に立ち護衛に努める。その時までもなんとも声を掛けなかった太閤が「提灯を灯しあげ主計を細々と御覧被成。御落涙。」 清正を幼少から知る政所様は上臈衆を通して「御前は大形事済そかし」と細々御落涙なされた。清正の難儀がよく知られることとなった。

夜も明けいずれも下城すべしとの仰せで清正も退出す。(以上清正記から)

二つ目、加藤清正の蟄居

一番目、蟄居にいたる清正の振る舞い

加藤清正の母は秀吉の奥方寧々(政所様)の従妹にあたる。清正5才の時、母が長浜の領主であった木下藤吉郎の妻寧々に清正を頼みに行き身柄を預けたことから奉公の縁が始まる。秀吉子飼いとなり、後に武将として育つ。朝鮮の役では肥後北半国の領主・大名として出兵、文禄元年4月17日釜山に上陸した。2番手軍団の長として22000名を率い、慶州・忠州を落とし、5月3日漢城南大門から入場した。安辺を経て咸鏡道を進み7月23日寧城、国境を越え明領のオランカイでも2週間ほど行動(探索)する。明軍の参戦や義兵の抵抗及び一揆の多発等により苦戦の様相となり、11月頃まで清正は安辺に在り、諸将を咸鏡道内に配置して一揆平定に努める。黄海道・京畿道(朝鮮半島西岸)、忠清道(同中央)正面と足並みを揃え、撤退に転じ、永禄2年2月29日漢城にはいる。更に咸鏡道・江原道・慶尚道(同東岸)沿いに南下し、諸軍は5月7日釜山付近に集結し諸城に分屯することとなり、慶尚道を確保して講和を待ちつつ、その進展?に応じ他軍を逐次引き揚げさせた。この間にも明・朝鮮軍は日本軍の漢城撤退と共に南進し、明軍には講和の気運充満した。しかし戦いは継続した(以上永禄の役)。この間の慶長元年5月14日清正は謗せられて、戦場から伏見に着き、同地で蟄居した。

朝鮮の役図
img036 (453x640).jpg(戦国合戦大全下巻217ページ)

二番目、小西行長の振る舞い

小西行長は堺の薬商人小西隆佐の二男、宇喜多直家に見出され、抜擢され武士となり、家臣となる。秀吉の三木城攻めの際、直家の使者として秀吉のもとに派遣され、出会う。秀吉から才知を気に入られ、臣下となる。肥後南半国の領主・大名、一番手の軍団の長として18700人を率いて、釜山に上陸し進軍、5月3日漢城興仁門から入場、6月15日平壤を戦わず陥れた。事後明軍の攻勢にさらされ、度々撃退するも永禄2年1月7日平壌を撤退、漢城へ退く。自らが主導して進めた講和の進展と兵糧の乏しさを考え、4月19日漢城を徹し、全羅道を南下。5月15日石田三成と共に明使を伴って名護屋に着す。

三番目、小西行長が進めた講和

文禄元年8月、平壤郊外での沈惟敬との会見で50日間の休戦を約束した時に始まる。この時から行長は日本側から封貢(宗主国と朝貢国の相互関係をいう)を求める妥協条件で一貫している。行長が秀吉の意図をどのように沈惟敬に説明したかは分からないが秀吉に対し、封貢の事などひた隠しにした事は間違いない。朝貢という形で一般貿易をしよう、というのが行長の目的であった。

これは清正が強く主張した朝鮮割地とは全く相容れない。

四番目、和議

秀吉が名護屋において永禄2年6月28日示した和平7条件は①明の公主を日本の皇妃に迎える。②朝鮮の2王子を返還する。③勘合貿易を復活する。④朝鮮を8道に分割しその4道(平安・咸鏡・黄海・江原)及び漢城を朝鮮王に返還する。⑤その他であった。困った行長は沈惟敬と諮り、秀吉の表文を偽作してまで和議を進める。行長の腹心内藤如安が北京で明側から示された和議の条項は①(封貢は認めない封だけ、というもので)封を受けた後は日本兵を1兵残らず朝鮮から撤収する。②秀吉を国王に封ずるが日本は別に貢布を求めない。③朝鮮と修好し、共に大明の属国となって再び朝鮮を侵犯しない。であった。この場で如安は守ることを誓わされる。

五番目、秀吉激怒

明使は慶長元年(文禄4年)9月1日、秀吉に謁する。秀吉は冊封使(付庸国の国王が新たに即位する際、それを認める勅書等たずさえ派遣される明国王の使い)とは知らず、全権講和使であることを信じて引見した。現地の状況は秀吉が示した和議7条とは程遠く、変わっていた。結果激怒 朝鮮再征が決まる。大地震・清正馳せつけはその1か月半前の出来事であった。

三つ目、後日の申し開き

後日、政所様からの使いが清正のもとへ。清正の勘気は溶けたが召し直しの儀は世間の手前もあり、家康・利家のとりなしをもって太閤御前に出座のこと。

一番目、主計頭登城

不届きの2点,①小西程の者を境の浦の町人と云ったこと。②許してもないのに勝手に豊臣朝臣などと北京への勅答に書いた事について委細申し上げよとの御意が示された。

二番目、清正は謹んで家康・利家の方を向いて答える

①について行長の軍は明国軍40万の勢いにおされ、1戦にも及ばず、武器を捨て、釜山浦迄逃散し、日本人がいない地域を多く作ってしまった。行長は宗対馬の守の縁者、大明国への案内者で堺の浦の商人であり、逃げたのは仕方がない。行長を大将とすると日本が侮られる。従って本大将ではない、私が大将だと言った。
②について豊臣と書いたことは我等は4つや5つのころより親に離れ候へば氏をも不存相調申。日本太閤か本武将と言ったのは私である。明・朝鮮40万を自分の方に引き付け、切り崩し、大明国迄攻め入らんが為であった。③休戦の交渉や生け捕りにした朝鮮王子と美女の扱いの交渉を行長は誤っていたので、日本を飾り小西を悪しく言った。朝鮮王子は太閤に伺わず返すことは出来ないし、美女は交渉のカードではない。

聞き終わった太閤は「涙を流され扨々太閤に能く似たる物かな。彼が後追いの時より我が膝の上にて育ち我等が計り事を能く見置、其の儘にせたる物かな。我等為には近き親類也。去れども余り荒者にて人柄かいを小さきときよりしつけ親子名乗りを不致と。」

家康・利家に「豊臣氏改むべし」との上意を仰せ付けらる。(以上清正記から)

二つ、福島大尉の思いを重ねる

一つ目、常に即応の心身の整頓

清正は大地震(註1)発生と共に侍・足軽(手子を持たせ)を引き連れ伏見城に馳せつけ、秀吉を守らんとした。平素から自らだけではなく、部下までにも厳しく即応、整頓を心がけさせ、いつ来るかもしれないいざに本気で備えていた。

八甲田山雪中行軍の11日目(1月30日)の浪岡村泊まりの夜、大地震(註2)があった。前日、青森で49時間ぶりの睡眠をむさぼったとは言え、疲労もまだ残っていたであろう。福島大尉は隊員の非常呼集を行い、しばらく街角で警戒と警備にあたらせた。

この両者の何時来るか分からない、いざに備えた本気の整頓の心が重なる。

註1 この年は地震が各地で頻発し、慶長と改元された。 閏7月9日 - 伊予国で大地震、薬師寺の本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊(慶長伊予地震)、 閏7月12日 - 豊後国で大地震と大津波、瓜生島が海中に没する(慶長豊後地震)、 閏7月12日から13日 - 畿内一円で大地震、伏見城や方広寺の大仏殿が倒壊(慶長伏見地震

註2 震源;青森県三八上北、名称;1902年・青森県東部地震、規模;m7.1、損害; 死者1名、負傷2名、住宅全壊3棟、一部破損330棟、震度6弱。

二つ目、赤心ー何を、どうすることが本当に国の為か

清正は太閤の狙いや当時の状況における国益に一番合致する、そうすべきと考えたことを周りが何と言おうと主張した。行長を悪者にして太閤や国益を守らんとした。そのために讒言を受け、帰朝後の蟄居の間、三成等と仲直りをしなければ太閤はお許しにならない、と言われても頑として自分の意を貫き、座を立った。 もしこの地震がなく、地震があってもこの地、この時に居合わせ無かったら、おそらく切腹を命ぜられていた。それでも清正は自分を曲げなかった。清正が最も大事にした価値は赤心ー本気で太閤を思い、国を思うことと義の心ー臣下の道(分)を守る、であった。それだけに不義を憎む気持ちも強かった。

福島大尉が前人未到の八甲田雪中行軍に挑んだのは国難日露戦争勝利の為、自分の手で冬季行動標準を提言せんとしたからであった。それは国家の勝利を本気で願い、ベストを尽くすのが自分の義務と信じたからにほかならない。

両者の赤心と義の心は重なる。尚、福島大尉も不義を憎む気持ちは強い、がその事は後ほど触れる事としたい。
終わりに

今回の旅で昔何かで目にとめた荻生徂徠の言葉を思い出した。人材は瑕疵あり、瑕疵無きは人材に非ず、という趣旨のものであった。加藤清正は将にこの言葉がぴったりの人だな、と思う。今回の感想について言うと、文治派三成や行長と武断派清正の対立、秀吉恩顧の争いという視点もあろうが、この”重なり”で述べた長所が抜きんでている分、凹みはある。その凹みにのみ注目してその人を論ずるべからず、長所をこそ重く見よ、である。

参考・引用書籍:清正記巻二 塙保己一 群書類従、清正行状奇 塙保己一 群書類従、日本戦史・朝鮮の役・(本論附記・文書補備・付表付図) 参謀本部編纂、日本の合戦6 豊臣秀吉 監修高柳 光寿 人物往来社、日本の合戦別巻年表・付図 人物往来社、福島大尉の人間像 高木勉 講談社出版サービスセンター、八甲田山から還ってきた男 高木 勉 文芸春秋、われ八甲田より生還す 高木勉 サンケイ出版、戦国合戦大全 下巻 学習研究社。

この稿終わり
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【よろく】もののふの心を受け継ぐ心ーその六 新田義貞の北國落ちを思う [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート2]

始めに

本稿では、ブログ前々稿で述べた「下線①からは、鎌倉の得宗専政攻略の大功をたてながら、逆賊足利尊氏に勝ちきれなかった。しかし天皇に対する忠義は貫いた。義貞の心情に思いを寄せる、福島大尉の心根が伝わる。」の内、貫いた忠義の在り様に思いを巡らす旅である。旅の主な舞台は第3期(延元元年(1336年)10月10日~延元3年7月2日)、比叡山での北國落ち決意から越前に移り、自立支配圏確立を模索し、歿するまでの間である。

三つ、北国落ちー第3期自立支配権確立の動き

一つ目、動き概観

延元元年10月10日、比叡山を恒良親王・尊良親皇を戴いて後にしたが、討手の為、経路を迂回して、風雪の木の芽峠越え(同年10月11日)となった。多くの将兵を凍死や遭難などで失い、やっとの思いで10月13日越前金ケ崎城に入った。やがて大軍に金ケ崎城は包囲され、飢えに苦しみ、遂に3月6日落城。直前(3月5日)義貞は杣山城に移る。残った尊良親王と新田義顯(義貞の嫡子)は討ち死に、恒良親王は捕えられた。

拠点とした杣山城は越前国府の南にあり地の利が良く、義貞は徐々に勢力を盛り返した。北畠顕家は建武4年8月11日大軍を率いて上洛、8月19日には下野小山城攻略、建武5年正月28日、上杉憲顯・土岐頼遠等の連合軍を美濃国青野ヶ原で撃破し、一大決戦の機運が生じた。これに呼応して義貞は2月中旬に斯波高経を鯖江に討ち、越前国府も攻略して地歩を固めていった。顕家軍への呼応の姿勢は示したが実現には至らなかった。本当のところ、できなかった。その後顕家軍は5月22日泉堺浦の決戦で大敗した。顕家も戦死し、上洛して足利との一大決戦は水泡に帰してしまった。

義貞は建武5年5月斯波高経の足羽郡の諸城を次々に落とし、6月には越後勢の応援を得て勢いを増していたが、閏7月7日藤島の灯明寺畷で不慮の死を迎えた。享年39才、上野の国を出てから転戦に次ぐ転戦、各地を流れ歩いた足かけ6年間、忠勇を貫いた人生であった。

二つ目、木の芽峠(福井県)に行こう、行かなければ始まらない

前々回ブログの冒頭で紹介した弓矢を焚いて暖を取った木の芽峠は以前から私の中で強烈に焼き付いていた。現地に立ちたい、と思うに至ったのは福島大尉の漢詩を読み直して、新しく心に響くものがあったから・・・。

一番目、田代露営其の二 轁(とう)略餘音(福島義山)

新田左将我郷人【新田左将は我郷の人】爇矢焼弓嘗苦辛【爇矢焼弓(ぜっししょうきゅう)苦辛を嘗む】露宿北風飛雪裏【露宿す北風飛雪の裏(うち)】追思此是古忠臣【迫思す此れ是の古(いにしえ)の忠臣】 

大意:厳しい田代露営の間に思いを重ねたのはわが故郷の人新田義貞公の寒さに矢を火にくべ弓を焼いた辛苦であった。今自分が感じている辛苦、即ち八甲田山目指して実験を重ねた辛苦やいまこの田代での寒さ・不眠の辛苦と義貞の辛苦が重なる。それらは弓矢を焼きしなりをつけ即ち兵を鍛え戦い続けた辛苦や弓矢を焚き寒さをしのいだ雪の木の芽峠の辛苦であった。

掛けて重ねる巧みさに加え、行間に木の芽峠越えの義貞の深い苦悩に思いを寄せる福島大尉の心根を感じた・・・。この時期義貞の辛苦で大きかったのは北國落ちの苦悩に加え苦寒の木の芽峠越えと陥落直前の金ケ崎城脱出であった。この二つの義貞の思いを現地に立って偲びたい。

二番目、木の芽峠(写真下)にて

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琵琶湖岸の堅田より舟行し塩津・海津に上陸し七里半街道を敦賀へ、の予定が行く手に斯波高経の討手あり、の報を受け、迂回して10月11日の木の芽峠越えとなった。例年より早い冬の到来、風雪と寒気に苦しみ、凍死するもの、凍えて戦えず刺し違えて死ぬもの、道に迷い討たれるもの、降参するもの等多くの兵を失った。

平成24年9月27日、深山幽谷のこの地(峠)に立って、私に伝わってきたのは後醍醐天皇の心変わりの痛手に耐え、前途の厳しさへの不安に耐え、苦寒で将兵を目の前で失って行く苦痛にもひたすら耐える義貞の思いであった。その思いとは?峠は過去と未来、絶望と希望をわける処。この峠を越えれば、愈々北國管領への歩みが始まる。必ず成し遂げる、であった。

三番目、北國管領について

前々回ブログで触れたが足利直義や北畠家親房は皇子を擁して、関東や陸奥国の管領となった。制度上は国の出先機関に過ぎないが実質は自立支配圏としての基盤となる。後醍醐天皇から距離をおいて自立した基盤を持つことをも意味する。この例を頭に置いて、止むを得ずではあったが、義貞はこの途を択んだ。

四番目、比叡山での後醍醐天皇京都還御と義貞北國落ち決意

比叡山でのことを今少し詳しく述べる。尊氏と後醍醐天皇の和議密約が進み、天皇が京都帰還を決め、根本中堂を出発寸前の時に、堀口貞満が是を知り駆け付けた。貞満は轅に取りすがって、涙ながらに怒りを表した。義貞に知らせず、義貞を捨て、尊氏に心を移す天皇の無節操さを強く批判した。やがて義貞もその場に駆け付けたので天皇一行は動きが取れない状況になった。義貞は「其の気色皆忿れる心有といえ共、而も礼儀乱りならず」怒りを抑えて控えていた。

義貞の心中は? 後醍醐天皇や公卿の側近たちへの怒りと絶望。新田一族でありながら、自分を見限り天皇に従って、尊氏に帰参する江田行義や大館氏明を見つけた衝撃、生品神社での固い契を反故にされた怒りと嘆き。その一方でこうなったのも自分の力不足、後醍醐天皇に申し訳ないとの自責の思い、もあった。諸々の感情がないまぜになっていたであろう。
このまま天皇を出発させたとして、尊氏の監視の下で天皇の心が安らかなはずがない。残った自分や一族も逆賊となり、衰亡への坂を転がるだけだ。それは避けなければならない、明日の再起に繋がる途をこの場で見つけなければならない。
ふっと、ある思いが湧いてきた。・・・この天皇の和議密約を局面転換の他日に繋がる一石にしよう、としたたかに、前向きに義貞が考えたかも知れない。充分あり得る・・・。

天皇は陳弁し、その場を取り繕った。結局天皇は京都還御、義貞は恒良・尊良両親王を推戴して越前下向と二手に別れて比叡山を後にする事となった。義貞の必死の具申であった。この時恒良親王は天皇の位を譲られたとも言われるが定かではない。

三つ目、金ヶ崎城趾(写真下)にて

金ケ崎城は東・南・西は手筒山の尾根続きの山塊に囲まれ、北は尾根が海に落ち込む要害の地にあった。30分ほどかけて、城址を歩き、月見御殿跡の40~50mの断崖の淵に暫くたたずんだ。眼の下は海、此処までは囲みきれない。ここから義貞は波の荒い夜に舟で脱出したのであろうか?伝わってきたのは囲みを破って金ケ崎城を脱出した義貞の明日、北國管領に望みをつなぐ、したたかな思いであった。

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新田軍は13日、敦賀につき、気比大宮司の案内で金ケ崎城に入った。越前国は足利方の斯波高経が守護であったので、高経は当然城を攻めたが決着つかず、翌建武4年正月、高師泰以下の大軍が城攻め。飢餓状況現出の中、激戦の後、義助を脱出させての救援も失敗し、3月6日落城した。義貞は義助と共に直前、3月5日に脱出し、20km離れた九頭竜川の支流日野川の東岸にある杣山城に入った。

義貞の心中は?包囲され飢餓の中での激戦、この儘、死を待つ事は凡てを諦めることである。今を打開するのは、義助ででも失敗した以上自分が脱出しての救援しかない。自分が抜けることで残る者がたつくかも知れないが、ここは息子義顯以下に頑張って貰うしかない。残るも出るも地獄の道、自分が死ねばすべて終わりだ。他日を期す為の北國管領の望みはあきらめない、他力ではなく自力で拓く。

二つ、福島大尉の思いを重ねる

義貞が執念として持った北國管領は、自立活動基盤を築き、他日、天皇の世の作り直し、を期する道であった。管領を目指した思いの核心は天皇に忠義を尽くす心と武家の在り方についての信念であった、と思う。この2点に思いを重ねたい。

一番目、天皇に忠義を尽くす

見捨てられ、裏切られても義貞の天皇への忠義は変わらなかった。やむを得ずの北國管領ではあったが、他日を期し天皇との距離を置く事が今の自分に出来る、自分に相応しい仕え方と思った、であろう。

福島大尉は臣としては忠、子としては孝を守り、それらを一体化した忠孝両全の道を歩んだ。天皇や国家に対して、軍人として忠義を裏表なく盡す事に誰よりも誠心誠意であった。勝海舟が言った赤心、真心から天皇や国家を思う心は国難日露戦争勝利のため国家を一身に背負って、前人未到の八甲田山雪中行軍に挑んだ心そのものである。これは義貞の忠義の心に重なる。

二番目、武家の在り方

義貞は天皇を支える武家でありたい。天皇をないがしろにする、世を乱す武家であってはならない、との考えであった。尊氏との対立の根っこにはこの点の違いがあった。義貞の原点は挙兵の際の後醍醐天皇の綸旨の言葉、「万国を理(おさむ)るは、明君の徳なり。乱を揆(おさ)め四海を鎮するは、武臣の節なり」にあった。義貞はこの”節”を大切にした。尊氏が目指す武家中心の世に武家の多くは共鳴した。尊氏につけば実利も与えられた。

福島大尉は良い武であるか否かは武人の良智による、と述べている。干戈説を例にひき、何度も述べた通りである。この見地から福島大尉の武と義貞の武は重なる。

三番目、不屈の闘争心

杣山城を根拠として勢力を盛り返した義貞の不屈の闘争心は福島大尉が一連の冒険的実験行軍に挑み、やりきった勇気に重なる。

終わりに

今回で新田義貞の旅を終わる。旅の最後に、逆境に於て、忠義や武家の誠を貫ける強い人、新田義貞像が私の中ではっきりした。福島大尉が尊敬した郷土の偉人だけの事はある、と思った。良い旅であった。

挙兵以降の原点とした綸旨の中の言葉にいう”明君の徳”について、新田義貞が仕えた後醍醐天皇を福島大尉がどう見ていたか、について彼の漢詩を紹介して終わりとする。

羽後旭川村弔藤原卿墳
往事悠々跡白鴻【往事悠々として跡は白鴻】菊花村在晩楓中【菊花の村は晩楓の中に在り】秋老補陀寺辺路【秋は老いたり補陀寺辺の路】満山風雨弔藤公【満山の風雨、藤公を弔う】

藤原宣房は後醍醐天皇に仕えた気骨ある側近。建武親政後に独裁に陥り、他を顧みなくなった後醍醐天皇を諌めること数度、遂に建白書を出し、辞職したがその後は行方知れず。福島大尉が後醍醐天皇を語ったことは聞かない。この詩は宣房を通じ語った唯一の後醍醐天皇観と言っても良い。忠臣義貞はそんな”後醍醐天皇”に仕えた。辛苦の一因でもあった、と福島大尉が言っているように思える。

参考・引用書籍等:新田義貞峰岸純夫吉川弘文館、新編日本古典文学全集太平記②長谷川端小学館、建武政権森茂暁講談社学術文庫、福島大尉の人間像 高木 勉 講談社出版サービスセンター、赤松円心・満祐 高坂守 吉川弘文館、菊池氏三代 杉本 尚雄 吉川弘文館。 

このシリーズ終わり
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【よろく】もののふの心を受け継ぐ心ーその五 勝ち切れなかった新田義貞を思う [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート2]

始めにー勝ち切れなかった、と感じた福島大尉の思い

本稿は前回ブログ冒頭でふれた「鎌倉の得宗専政攻略の大功をたてながら、逆賊足利尊氏に勝ちきれなかった。しかし天皇に対する忠義は貫いた。義貞の心情に思いを寄せる、福島大尉の心根が伝わる。」のうち勝ちきれなかった思いを辿る旅である。旅の舞台は第2期(元弘4年【建武元年】正月29日~延元元年(1338年)10月10日)、朝敵足利尊氏との抗争に勝ちきれず、比叡山での北國落ちを決めるまでの間である。

二つ、勝ちきれなかった戦い

一つ目、戦い概観

一番目、義貞節度使となる

足利尊氏との親政内対立が表面化し、建武2年(1335年)7月、北条高時の遺児時行の起こした中先代の乱鎮圧後鎌倉に留まり続けた尊氏は義貞誅伐を奏上し、義貞も之に反論。後醍醐天皇は義貞に宣旨を11月7日下し、義貞は節度使(反乱鎮圧使)として錦旗・節刀を賜り、6万7000余騎で出陣した。

二番目、義貞、敗走に次ぐ敗走

義貞軍は緒戦、11月25日矢作川で勝ち東進したが、箱根竹の下で敗れた為京都へ敗走した。この機に尊氏軍は大動員して京都に迫った。建武3年の1~2月、新田軍は瀬田・宇治や大渡・山崎の防衛線を突破され、尊氏の入京を許し、天皇は東坂本に逃れた。

三番目、尊氏九州に敗走

その一、京都奪回

ところが奥州から北畠顕家軍が大挙上洛、義貞と共に足利方の拠点園城寺を攻略、一進一退の戦闘の後、糺河原の戦いで勝利し、尊氏は丹波に敗走して、天皇は京都を回復。更に2月11日、豊島河原で破れた尊氏は兵庫から九州に敗走した。しかし単なる敗走ではなかった。

その二、尊氏の企図・行動

この間、尊氏は極めて興味深い動きを見せる。即ち、室泊で光厳院より、義貞追討の院宣を得て、諸国に動員を命じた。天皇対上皇の戦いに変えたのだ。この事の義貞にとっての意味は大きい。又2月11日に軍議を開き中国・四国地方の侍大将や守護の配置を決定(註)した。その後の尊氏の軍事基盤となる重要な意味を持つものであったが、実際は各武将が築城に本格的に着手する開始でしかなかった。赤松円心は苔縄の赤松城を捨て、白旗山の築城に着手した。時間との競争が始まったのだ・・・。

註 四国;細川和氏・頼春・師氏・顯氏・定禅、播磨;赤松円心、備前;石橋和義・松田一族、備中;今川顯氏・貞国、安芸・周防・長門(いずれも略)

正成の京都市街でのゲリラ戦に手を焼いた尊氏は一旦間合いを切り、反攻を前提として、大勢力での野戦に義貞をおびき出す機会、或いは京都市街での時間をかけたゲリラ掃討を企図した。従って動ける九州の反攻勢力結集に自ら動いた。円心の助言である。

同時にこの反攻拠点である、播磨・中国の要地を縦深に保持し、反攻勢力を結集し、攻上る時間稼ぎの処置をした。播磨は円心、足利の一族石橋和義は備前を固めさせた。要地を最も信頼に足る者に託したのだ。

その三、尊氏の伏線

尊氏は九州の武家に働きかけ、鎮西探題を陥落(元弘3年(1333年)5月25日)させた。鎌倉陥落の3日後。これに先立ち、護良親王の令旨をうけた肥後国菊池武時・阿蘇大宮司惟直が鎮西探題を襲い失敗した。九州の有力武家が様子見をしたためである。2ヶ月前には探題方であった少弐貞経が見限って真っ先に動き、これに影響されて前回動かなかった多くの武家が尊氏には応じた、従って親天皇派は弱小化した。その意味は大きい。それが今述べた西国落ち、反攻勢力結集・巻き返し・京都奪回の伏線となったのだ。

四番目、尊氏九州落ち後の義貞の動きー白旗城攻撃

3月末になって、義貞は播磨・美作・備中・備前を討ち、広島・周防の武家を靡かせ、尊氏を九州に破るを、目的に動く。まず赤松円心が籠る白旗城を6万の兵で囲む。しかし、円心の策謀に10数日を無駄に過ごし、其の要害を攻めあぐね、犠牲は増え続けて、徒に日が過ぎた。ここで、義貞は一部を残し、船坂城を落とし、備前の三石城や美作の奈義山城等を攻撃させた。備中福山城は攻略し、其の他は播磨・美作・備中に展開して諸所の城を包囲し、中国の交通網を遮断する態勢をとった。

五番目、尊氏の反攻東上

2月23日筑前に着いた尊氏は宗像氏や少弐氏などの力を得て、多々良浜合戦に菊池武敏を破り、諸将を靡かせた。白旗城から急遽派遣された赤松則祐(円心の嫡子)の1日も早い東上要請(註)を受け、4月3日大宰府(26日九州の説もある)を出発、反攻東上を開始した。5月1日安芸宮島に到着し、陸路(鞆の浦から陸路直義以下20万)と海路(尊氏以下本隊、兵舟七千五百余艘))から兵庫目指して進む。

註 太平記には3月3日播磨国を出発して、同月18日大宰府に到着して将軍にご上洛を進めた、その理由は義貞も攻めあぐね、気力を失い、兵糧も尽きた頃合いです、遅延して白旗城が落とされ一族が自害するようなことになれば他の城は1日も持ちこたえられない云々、とある。

六番目、義貞湊川の戦いで破れ、京都へ

尊氏東上の報を弟の脇屋義助(三石展開中)から受けた義貞は5月18日、播磨・美作等の囲みを解き、兵を摂津に引き上げた。海路・陸路から敵を1ヶ所に待ち受ける為である。敗走する義貞軍の収容援護・前線を受け持つ正成は湊川に、義貞は和田岬に陣を構えた。戦いは5月25日未明、始まる。地の利なく、兵力に劣った為、破れ正成戦死、義貞京へ。天皇は5月27日再び比叡山へ臨幸した。

七番目、尊氏軍、比叡山を攻める

建武2年(1335年6月2日、尊氏20万騎を比叡山に差し向ける。6月~8月にかけ、近江・京都を戦場とした激しい合戦が行われたが、義貞軍は拠点である、阿弥陀峯が落ち、最終的には叡山に立て籠もるだけになった。

八番目、後醍醐天皇は京へ還御、義貞は越前落ち

尊氏と後醍醐天皇和議密約が進む。義貞は蚊帳の外、即ち使い捨て、切り捨ての身であった。将に還御出発直前、堀口貞満抑え留めの口上を述べ、義貞も駆け付ける。天皇は誤りを認め譲位し、京へ向かった。義貞は止む無く恒良・尊良両皇子を戴いて越前へ下向した。

二つ目、勝ちきれなかった戦いの本質

勝ちきれなかった(戦い)とは尊氏の反攻に敗れる事に直接繋がった2つの事、①九州落ちの尊氏をやすやすと逃がした事と②拠点である白旗城などを抜けなかった事を言う。

一番目、九州落ちの尊氏をやすやすと逃がしたこと、を思う

尊氏が兵庫から海上を去った時、舟での追撃を何故行わなかったのであろうか。考えられる理由は二つ。一つ目、疲れた兵での深追いは却て危険と義貞が考えたのであろうか?兵の疲れも頷ける。新田一族は故郷(根拠地)を遠く離れて転戦の連続であり、有力武将を失い、損害も多かった。兵力の立て直しが必要だった。

二つ目、天皇方はこれで勝負がついた、やれやれと思った。だから追わなかった。寧ろ義貞に追わせなかった、という方が正しいかもしれない。そこには天皇や側近との近寄りがたい溝を感じる。天皇対上皇の戦いとなってしまった以上、この勝利を機に和議の機会を探る上で義貞の積極的な動きが邪魔と考えたとしても不思議ではない。顕家は徹底した武家政治否定派の父親房の影響を受け顕家自身も貴族意識が強かった。正成は義貞を切り捨て尊氏との和平献策をした、と太平記にもある。一人の武将に力を集中させ過ぎない、競わせる作用も働いていた。

二番目、拠点である白旗城などを抜けなかった事、を思う

二つの疑問がある。尊氏が九州落ちをしたのが2月11日、義貞が白旗城攻略に動いたのが3月末日。何故そんなに間があいたのか?と何故白旗城攻略に徹底しなかったのか?である。

その一、間が開き過ぎた出陣

前者の考えられる理由は四つ。一つ目は兵の疲れ。前述したので略。二つ目は、蜂起を掴む注意力や情報網に抜けがあり、把握が遅れた。各地の動静、特に白旗城は義貞の所領国であり、赤松円心、には十分注意しなければならなかったはずである。いざ鎌倉に備えた身辺の整頓に問題があった、と言わざるを得ない。三つ目は病気。瘧病(マラリア性の熱病)との説がある。四つ目は勾当内侍(註)との愛に溺れた。との批判もある。

註 天皇に仕えた女官(内侍の司)の上位者の称であるが、後醍醐天皇の寵愛を一身に受けた後、其の了承のもとに義貞の妻となった。武者所の頭であった義貞が宮中で見初めたことが縁という。

その二、白旗城攻略に徹底しなかった訳

考えられる理由は二つ、一つ目、いたされて攻略の目途が持てなかった。①白旗城は地形の険しさに加え築城等の準備の余裕(註1)を与えたので要害度が増した。②力攻めしたので損害(註2)が多く、鈍重になった。

(註1) 円心が播磨守護職補任の倫旨を賜れば、味方するとの申し出、それを受けた義貞は朝廷へ伺いを立てた。倫旨をもたらされた時には円心に突き返され、結果的に10数日間という準備の時間を与えた。
(註2) 面目をつぶされ激怒して力攻めをし、損害を出した。

二つ目、白旗城(写真下)の戦略的意味の理解が不十分であった。①白旗城は尊氏の反攻の最前線拠点である。②義貞が持てば尊氏の陸路からの山陽道・山陰道への進出を阻止・制約出来、海上と陸上の連絡も遮断できる。③白旗城攻略は円心と尊氏の強固な関係を崩す。他武将が己に置き換えて注目する一石であった。

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三番目、白幡城趾に立って

白旗山は標高440m。東側は崖多く険しく、西と南は峰々で連なる山塊の中で一段高い。平成24年10月23日訪れた。生憎の雨、傘を片手に、登った。山は深く傾きは急峻、雉の声が響く。よく整備された小道を辿り、麓から山頂迄1時間10分程かかった。下りは雨に足元をとられないよう気を使ったので50分であった。5つの郭が作られ要害度は高く、頂上から伐採木の間を通して山陽道が目の下に見え、守は易い。攻めるは喘ぎながらどこから出てくるかわからない敵におびえる。山を分け入るほどに発生した霧で視界がなくなり、言いようのない不安が募ってくる。力攻めだけでは容易に落ちない。兵糧攻めや山麓からの火攻めなど工夫と断固たる決意がいる。白幡城の戦術上の価値や義貞軍の損害の多さが体感できた。

四番目、勝ちきれなかった本質?

逃げる尊氏をやすやすと逃がした事や拠点である白旗城などを抜けなかった事に思いを巡らしている間に、畏まり、遠慮している義貞像が浮かんできた。勝ちきれず天皇を2回も京都落ちに至らしめた自責の念、後醍醐天皇や側近との距離感とそれを越えられないもどかしさ、後醍醐天皇に競わされる武将同士の不信感、天皇対上皇の戦いの”元凶”に陥ってしまった身の不条理等が伝わってきた。武門第1人者として断固主張すべき時であり、主張すべきものがあったのではないか、と思えてならない。

三つ目、福島大尉の思いで観る

福島大尉も同じように思いを巡らしたであろう。その中で彼の経験や感性に照らし、もののふの心を受け継ぐ心を作っていった、ものがあると思う。私は以下の3点を挙る。

一番目、戦機を逃すな

やすやすと逃がす、白旗城攻略出陣の遅れなどは戦機を逃す痛恨事であった。義貞は”戦機逸すべからず”を強く強く主張すべきであった。福島大尉には最も響いたであろう。戦機に投ずる、を何よりも優先する軍人の、そしてもののふの心得である。

二番目、武門第一人者の”智”

福島大尉は勝ちきれない苦しい状況で、天皇や側近との関係における義貞の窮屈さ、坂之上田村麻呂の”智”に比べて、を感じた事であろう。その窮屈さとは天皇の揺るぎない信を得ていない自信の無さであったり、反対を押し切ってでも断行する気概の無さ、から感じたのであろう。一時的には相反しても軍事専門家でしか分からない洞察力や見識に対する尊敬を得ておく事が重要である。その事で信を得て、真の大事に持てる力をすべて発揮し、いかなる時も忠義を貫く事が、武門第一人者の持つべき”智”である。この点が既に述べた福島大尉が”干戈説”で意図する良智に響いたであろう。

三番目、整頓

白旗城攻めの出陣遅れは凡ての整頓が出来ていないことに繋がる。病気しかり、勾当内侍しかり。福島大尉は八甲田山雪中行軍においてとことんの準備を行った。最悪事態である田代の露営を想定して当初からその準備に万全を期した。整頓は福島大尉が”いざ”に備える上で最も大事にした価値である。その価値観に響いたであろう。

終わりに

今回の最後は勾当内侍で締めたい
福島大尉の漢詩ー新田義貞公(青年時代の作)

野戦孤軍踏嶮危【野戦孤軍嶮危を踏み】功成殿上賜明姫【功成り殿上明姫を賜う】惜哉壮士心肝折【惜しかな壮士心肝折れ】遺恨北風倒将旗【遺恨なり北風将旗を倒す】
註 明姫=勾当内侍、北風=北朝即ち尊氏側
 
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天皇の女官を妻に賜り、その愛に溺れて出陣を遅らせた、と後世に批判されている。義貞亡き後に琵琶湖に身を投げた伝説がある、福島大尉の漢詩を手に、今堅田の野上神社を訪れ、義貞の出所進退(出陣判断含む)に思いを寄せた。平成24年9月27日、この地に立って、”心肝折”、安らぎを得たかった、波だった気持ちが伝わってきた。勾当内侍は武将の務め、戦機の看破よりも優先する安らぎの拠り所だった、のか?と思う。

参考・引用書籍等:新田義貞峰岸純夫吉川弘文館、新編日本古典文学全集太平記②長谷川端小学館、建武政権森茂暁講談社学術文庫、福島大尉の人間像 高木 勉 講談社出版サービスセンター、赤松円心・満祐 高坂守 吉川弘文館、菊池氏三代 杉本 尚雄 吉川弘文館。 

この稿終わり
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