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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその十一 伝えたかったもの(続・終)ー何故公表したのか?) [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー遺品に込めた思い]

五つ、事態収束の流れに従う

津川連隊長の救援初動が遅きに失し、その上混乱も加わり、緩慢の様相を呈したのに比べ事態容易ならざるを察した陸軍大臣児玉源太郎の初動はす早かった。
 
一つ目、児玉大臣の迅速果断な立ち上がり

1月28日津川連隊長より総務長官あての電報を受けた児玉大臣は田村少佐、武谷1等軍医生の派遣を決め、即現地へ赴かせた(既述)。同時にある思いを持って友安旅団長へ生存者救護の万全を期すべく命じた。爾後現地に到着した両名の派遣幕僚の報告を受け事態を把握し、1月31日遭難者に対する善後策を講じるため、取り調べ委員(長中岡少将以下8名)を命じ、調査すべき事項を訓示した。

その内容は①凍死者はすべて戦死者と同様の扱い。②凍死者はすべて遭難地において官費で埋葬し、記念碑を建設。③見習い士官は本官にする。④将校には位階を追賜。⑤靖国神社に合祀する。⑥⑦略⑧遭難善後委員を置き事務を取り扱わす。⑨⑩略⑪行軍計画の当否を審査し責任の所在を明らかにする等。早速委員は活動を開始し、閣議に諮る準備及び法令の整備等に着手した。

二つ目、当初の児玉大臣の認識

事態容易ならざり憂慮措く能はずと児玉大臣が考えた認識の中心には遺族の非難の矛先が軍に向かい下士制度・徴兵制度全般に深刻な影響を与える事態があった。日露戦を控えた重大局面にある今、絶対に避けなければならない事態と直感的に反応したのだ。この当初の方向を福島大尉の感性が感じないはずはなかった。

三つ目、児玉大臣の当初の認識を確認する

5月28日最後の遺体を収容して捜索終了。6月9日立見師団長は天皇皇后両陛下に拝謁し、歩兵第五連隊遭難顛末並びに同連隊現下の状況に関し奏上した。その際に報告した別紙言上の控書の中に当初の児玉大臣の認識を確認(以下の下線)することが出来る。

「(略)悲報当時地方人民一般の感情は初め遭難の状況未だ明かならさりしか為め揣摩臆測空言虚談を伝え事変は全く軍隊の不注意より生じたる結末なりとし攻撃非難の声は一時軍隊に向ふて渦まく人心悩々たる情況なりしか(略)事変当初に於ける地方人民の感情夫れ此の如くなりしを以て徴兵及び志願者に関し地方軍事上に及ぼす影響は臣の大いに憂慮する所なりしも幸いに国民の同情と遺族の感激とにより却て尚武心を高ふし下士以下補充の点に就いても良好の結末を得るに至る(略)」

徴兵及び志願者に関し地方軍事上に及ぼす影響を大いに憂慮したが、下士以下補充の点に就いても良好の結末を得た、と述べている発言に当初の認識を確認する事が出来る。

四つ目、収束の方向

軍批判などの動きの一方で、未曾有の大寒波が遭難の原因との見方が支配的となった。又陸軍当局の素早い動きを受け、現地部隊が懸命に捜索を行い、誠実な遺族対応を行う等陸軍挙げて努力する中で国民や遺族感情の鎮静化と共に第五連隊凍死将兵は厳しい訓練に斃れた殉国の士である、との国民の同情が固まってきた。

五つ目、福島大尉の受け止め

福島隊の快挙は第五連隊の大遭難(大惨事)の前では陰に隠されてしまう立場にあったし、好むと好まざるとに係らず、福島隊は第五連隊の失敗を際立たせる立場にもあった。従って、第五連隊の遭難の陰に隠されてしまうことを受け入れなければならないし、出過ぎて五連隊の足を引っ張ってもいけない、遺族感情を害するなどしては不可。福島大尉はこの数日間でその両方を理解した。そして死者を弔う気持ちをだれよりも強く持っていた。


六つ、 公表への福島大尉の判断

一つ目、この時点での伝えたい思い

行軍出発当初の伝えたい、「手記」執筆の思いの中核部分は非常の困難の実相及び克服策であった。之に以下の二つの伝えたいが加わる。

一番目、第八師団精鋭の真摯な取り組みを後世に至る迄伝えたい

報道の過熱で本筋が忘れ去られていることに反発して、(若し何もしなければ国難対露戦に備え前後無比の山岳通過長途強行軍を身を挺して敢行した陸軍精鋭の真摯な取組みや意義が国民に伝わらない)成功をもたらした第八師団精鋭の真摯な取り組みを後世に至るまで伝えたい。

二番目、成功の功労者は下士

この「手記」に直接は書かないが、之を残し読み解くことで下士の重要性を広く伝えたい。即ち成功のキーマンは下士である。下士制度が揺らいでる今だから伝えたい。

二つ目、制約の中での方策に悩む

その際、五連隊遭難の陰に隠されることに甘んじ、出しゃばって手柄顔をしてはいけない、という制約の中で前項の思いを達成できる方策があるのか?、を悩んだ。

三つ目、方策を見つけた福島大尉!ー三つの配慮
 
福島大尉は直感的に三つの配慮をした。一番目、嚮導の表現を絞ること。地元の嚮導が行軍に絡む場面やそれとわかる直接的な記述は無くした。しかし隊員の嚮導は居るので「嚮導」という表現はする。手記で使った「嚮導」は隊員、地元どちらとも取れる表現であるし、隊員だけとも取れる。
二番目、服装は書かない。「手記」中に服装に触れる記述はない。
三番目、非常の困難に備えた準備をその場面に応じて簡潔に既述するに止めて居る。準備や計画の項を設けて周到な準備を強調する表現法はとってない。

何故このような記述法を執ったのか?

四つ目、前項「三つ目、」の「三つの配慮」の何故?を思う

一番目、遭難事故取り調べ委員(長中岡少将以下8名)の陸軍大臣宛て報告書(6月9日)の一節

「(略)将校以下弐百余名最悲惨の極に遭遇したる顛末は果たして人力の善く救済すべからさる天災なりしや否を追究するに全く予測し得べからざる天候の激変にして避く可らさる災危なり(下線①)しことは明瞭なりとす(略)」

「(略)歩兵第三十一連隊の一部日を替え該地接近の地を障碍なく通過せしに視るも当日のみ非常の天候なりしこと明白なり(下線②)(略)」

「(略)其の他防寒並びに衛生上の注意周到なりしも猶完備を求むれは次の欠点あるを指摘せさるを得ず。即兵卒に小倉服(註、筆者、夏服)を着用せしめたること(下線③)並びに該地方雪中の状況に慣熟したる嚮導を使用せさる(下線④)にあり(略)」

行軍終了直後は捜索救護に全力傾注であった為、連隊の委員は調査どころではなかったと思う。しかし、陸軍省の派遣幕僚2名への資料提供は待ったなし、であった。1月30日には行軍計画や今までの処置・経過など求められ提出している。その資料はいろんな部署に係るし、そういう雰囲気の中で出回る資料から何故?やどうして?等に関する部分を関心のあるものが抽出することは比較的たやすい。福島大尉ならば特に・・・。

二番目、福島大尉の気づき

小倉服使用(下線③)や嚮導不使用(下線④)は相当早い段階で資料が動いたと思うので何らかの形で福島大尉はその辺が問題になっている或いは自分の経験と比べてここが本質の問題だ気付いた、のだと思う。だからそこを外した。

福島大尉が不可欠と考えた二つの事項(嚮導及び全員冬服(ラシャ服))が五連隊には欠落(嚮導なし及び兵士は夏服)している。更にその理由は絶対に遺族には知らせられない。大隊長の指導であった。小倉服は古びたラシャ服よりは余程良い、から兵士は小倉服で良い。嚮導は不要、途中でそのことについて話し合ったが熟地であるとの自信力から、となった。

福島隊の成功の原因が五連隊の不具合(失敗)の原因と両極端に分かれている事に気づき、その理由共々福島大尉の胸の内に納めた。そのことで、その差を際立たせない配慮をした。

下線①や②については特別に強調し差別化が目立たない限り、日が違う、気象条件が違うのだから「手記」は公表しても構わないはず、と考えたであろう。

五つ目、2月10日愈々公表

公表にあたり、時期の判断と覚悟(腹決め)が必要であった。

一番目、するなら今しかない

今のところ報道関係や捜索関係部隊については報道制限や箝口令が敷かれているが、我が行軍隊に関しては、自らの意志で五連隊を思い自重している。口止めをされているわけではない。しかし、これから先は分からない。公表するなら今のうちにしてしまうが良い、幸い全文掲載の約束だ。本格的に箝口令を敷かれたら、破棄・没収となり、それを免れても陸軍内での(長期)保管は難しい。

二番目、外へ伝え、外で残す

自分はこの時機”外に伝え外に残す”ことが絶対に必要だと思う。外に残す事で伝えたい、はこの世に残る
箝口令が敷かれて、事件が収まる。やがて忘れ去られ風化してしまう。快挙と雖も陰の行軍隊、誰も記憶しないだろう、まして記録がなければもっと悲惨。軍の外に残した記録が役立つ時がいつかきっと来るだろう。

充分配慮を重ねたので自信はあるがどう社会が反応するか読めない点はある。陸軍並びに第五連隊攻撃派?を刺激する可能性である。其の時の覚悟はできている。もしそうなっても立見師団長だけはその真意を分かってくれる、はずだ。

終わりに

己が信ずることの断行、を見事に実行して見せた「手記」公表の動きであった。ひょっとすると軍人生命を断たれたかもしれない中で一身の事を慮外して後世に陸軍精鋭の苦難の姿と快挙を伝え・残す、(の信念)を貫いた。書きながら福島大尉の強い生き様に心が震えた。

この時点で思い至った事がある。ブログ『【よろく】陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うー資料が語りかける・・』で抱いた疑問ー公文書が何故?についての答えである。このような手記公表の動きの中では、(公文書を)後世に自らの手で残さねば、と思ったであろう。

この旅を福島大尉はどう思ってくれるであろうか、あの時断行して良かった、と思ってくれるであろうか?・・・。
もともとこのシリーズの旅を始めた端緒は3月12日に訪ねた斉藤 昌男氏、栗原 貞夫氏から疑問を呈されたからである。両氏は私の答えをどう思われるであろうか?・・・。

書き終えると、昨年8月ブログを書き始めて一番の気分の高まりを覚えた。これは何だろう?どこから来るのだろう?矢張り今回(非常の困難を思うシリーズ)のテーマ”「手記」公表で何を伝えたかったのか? は大きなテーマだった、と改めて思う。今までの旅ー想像で事実をつなぐーでいくつもの山を越え、そのたびに福島大尉に近づいた感じがして、楽しさと自信が膨らんだ。今回はどのくらい近づけたのであろうか? 正直わからないが、満足感はある。

このシリーズ終わり
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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその十一  伝えたかったもの(続) [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー遺品に込めた思い]

三つ、流言飛語ー本質から目を逸らすことへの怒り

一つ目、救助された後藤伍長の供述の中で流言飛語のもとになった発言がある。

救出直後に後藤伍長が朦朧状態で語った、2日目以降背嚢を焚いた及び以後は各自各方面に血路を開いて出でた(註)は連隊長から総務長官に充てた電報(1月28日零時8分青森発、午後1時着)にも使われ、流言飛語、あることないこと報道の端緒となった。

註 後刻の後藤伍長の供述では3日目(25日)の露営に於いて”背嚢を焚きて”は残っているが”以後は各自各方面に血路を開いて出でたり”はない。

二つ目、その波紋ー新聞記事に見る流言飛語

東奥日報号外(1月29日)によると、「●噫至惨!至惨!雪中行軍隊の大椿事全軍弐百餘の凍死」とショッキングな見出しで、29日の時点で全員凍死(註1)を伝えている。記事中の「第1報」で23日田代に向かって行軍の途次大雪の為め進む事能はす全軍露営に決し銃身や背嚢の端までも焚きて非常の苦難を経たる末遂に25日迄に山口大隊長を初め百四十餘名は凍死せし為其他六十餘は任意解散せしが(略)と後藤伍長救出に至る経緯と同伍長の証言が根拠になっていることを述べている。

更に「其詳報」で後藤伍長救出の様子、同伍長の談話による事実経過及び報告を受けた連隊長の決心処置、について更に詳しく紹介している。特に当局は銃身を焼いたこと及び任意解散は軍の存立の基本にかかわることと神経を過敏(註2)にした。またこのほかにあることないことの扱いでは29日時点で全員凍死となっていること及び山口大隊長の凍死(註3)も該当する。

註1 1月29日立見師団長は(当時師団長会議の為め出京中)林参謀長の発せし左の電報を(大臣?に)報告せり「未だ確報は得さるも二百九名悉く凍死せるものの如し悲惨極まれり」。左にあるような見方が広がっていたことが背景にある。
註2 2月5日午後5時田村少佐(註4)より陸軍大臣あての報告第5号には「遭難者は銃を焼きて暖を取りし如く新聞に散見するも実際は小銃を焼きたること未だ形跡なし只背嚢若干は其枠子を焼きて暖を取りしものの如く」とあり、神経をとがらせている様子が窺える。
註3 1月31日大滝付近で救出。
註4 既述の津川連隊長から総務長官あての電報(1月28日零時8分青森発午後1時着)で事態容易ならざるを察した陸軍大臣児玉源太郎は憂慮措く能はず機密課員田村少佐と衛生課長武谷1等軍医生の派遣を命じた。両名は直ちに出発、29日には現地に入り活動を開始した。

三つ目、報道の過熱が本質とは程遠い陸軍非難や悲惨報道へエスカレートする苦々しさ

福島大尉はこの時機二つの思いで報道のエスカレートに対する怒りというか苦々しさを持っていた。

一番目、吾にも責任の一端がある

東海記者が東奥日報号外(日付不明であるが文中の記事から30日付と推定)の雑報において「三十一連隊雪中行軍隊最後の三日」の記事中、死体発見と銃の発見に触れている件で報道過熱の一端の責任を感じていた。

任務を帯びる行軍間の事は、凡ては隊長の責任と権限の範囲内に委ねられる。遭難が明らかになった以上、当事者でないものが、遭難とは関係ない見聞録であれば許されようが・・・、軽々しく語る事は許されない。死者を弔う意味からも、流言飛語を作らないためにも・・。捜索に協力するため、自分が木村少佐に話したことは隊長福島大尉の責任においてなした。隊員及び東海記者には厳重に口止めをした。にもかかわらず東海記者は載せてしまった。行軍隊関係者から報道エスカレートの一端を担ぐものを出してしまった自責の念、がそれである。

二番目、軍の真姿が一顧だにされない、危惧の思い

危険に挑み、困難を克服せんと前後未踏の訓練に勵んだ軍の真姿が一顧すらされない状況に対する危惧の思いがあった。何の為に訓練したか?ロシアに勝つ為である。その為に全軍の冬季行動標準確立を目指した。国難対露戦の危機は目前に迫っている。本質が報道の過熱の中で見失われている・・・。
 
この思いは田村少佐から陸軍大臣宛ての報告(2月6日)中の一節「新聞記者多数当地に出張しあり此事件に就き有ること無きこと推魔臆説を逞ふし記載するものあり(略)」と重なる。


四つ、遺族の悲しみ・怒りの矛先が下士制度・徴兵制崩壊へ向かう心配

一つ目、福島大尉の深刻な下士についての問題意識と教育への取り組み

福島大尉が下士教育に大きな問題意識を持ち情熱を持って取り組んだことは既に述べた。

連隊の教育委員の立場で下士候補生教育担任の場を活用し、岩木山雪中強行軍や夏季強行軍を行い、困苦欠乏に堪える強い下士官の養成にも取り組んだ。今回の雪中行軍でも、見習い士官7名・見習い医官2名及び長期伍長19名を主体とする37名(当初38名)で行軍隊を編成し、次のリーダー育成をも狙いとした。

遭難発生当時立見師団長は師団長会議の為、出京中であった。その師団長会議の議題は『下士の奨励策』。各師団長が与えられた前記課題について実行策を発表するというものであった。その前提になる認識は徴兵で集めた兵から下士官への応募者が少なく質が落ちているのでその対策が急務、であった(註)。福島大尉は議題も承知し且具体策資料も提出したので 当然下士の問題が全陸軍共通で緊急の大問題という認識は有していた。

註 立見師団長は遭難対処の為、途中帰営し、発表はしていない。

二つ目、本遭難事件の意味するところ

一番目、徴兵制度から派生するもの

三十一連隊は地元青森の若者が入営するが、五連隊は岩手、宮城の若者が入営していた(註)。遭難死亡者189名中(士官除く)岩手県出身145名、宮城県出身40名、その他の県出身4名であった。従って従来からの徴兵隊区変更希望激化に火をつけた。

福島大尉は以下の『田村少佐より陸軍大臣あての報告(2月6日午前11時、盛岡連隊区司令官依りの報告引用)』に類する情報を様々な方面から入手し、報道の過熱が遺族の感情を逆なでし、下士や徴兵制度全般に深刻な影響を与える恐れを強く抱いていた。

「1 陸続各新聞誌上に遭難責任問題を現し或いは現に無謀とか或いは冒険的行事とか喋々嘴を以て地方人心を刺激し為に遭難者の父母妻子等は益々悪感情を起し特に山口少佐の生存一度新聞紙上に報するや一層遭難者の不幸を嘆き(略)如斯状況は独り愚民のみに止まらず有力の士も亦喋々非難せり」
「2 今回遭難事件は徴兵上大なる影響を及ぼしたるものの如し宮城3郡の如きは特に然りとす再来同3郡は行政区域に従い徴兵区も仙台師団に変更の念官民共に常に希望しあるは畢竟彼我人情の異なると交通の遠隔せるとのみにあらず多くは衛戍地の善悪に起因するならん此回の事変に於て該郡の人心を益従来の処思たる徴兵区変更の熱度を高めしものの如し実に仙台師団に入営すれば如斯惨状悲嘆は決してなきものと信じ益々悲嘆しあるものの如し」

二番目、本来抱えている問題から派生するもの

福島大尉の深刻な下士についての問題意識と教育への取り組みについては既に述べており、重複するので省略。

以下次稿に続く
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八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその十一  伝えたかったもの [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー遺品に込めた思い]

始めに

福島大尉は探討の実相や成果並びに軍人の頑張り等を広く公表する狙いで手記を書き綴ってきた。非常の困難の実相とその克服策が中心テーマであった。その考えを激しく揺さぶったのが第五連隊の遭難である。田茂木野到着の29日午前2時ごろから「手記」(原稿)を北辰日報社に提出する(7日頃?)迄の福島大尉の思いを探る。

この間、福島大尉には五つの思いがあった。
一、福島大尉自身の事態との向き合い方。二つ、死者への弔。三つ、流言飛語ー本質から目を逸らすことへの怒り。四つ、遺族の悲しみ・怒りの矛先が下士制度・徴兵制崩壊へ向かう心配。五つ、事態収束の流れに従う、である。

以下それぞれに思いを巡らし、伝えたかったものとその公表への判断を考えたい。

一つ、福島大尉自身の事態との向き合い方ー田茂木野で第五連隊遭難を知った福島大尉が木村少佐に語った事から見えるもの

一つ目、田茂木野到着、木村少佐のもとへ

田茂木野に到着した行軍隊一行には死体収容所の看板が目に入った。異様な雰囲気を感じた福島大尉はその近くの民家を敲き、事情を聴くと同時に、食事の世話を頼んだ。真夜中の2時過ぎ、家人は疲労困憊した隊員の風貌と田代を越えてきたことに驚き、隣近所に声をかけ、残り物を温め直してくれた。第五連隊の大人数が遭難し捜索・救援が始まったばかりであるが難航している旨も承知した。

迎えを受け、福島大尉は現地捜索指揮官木村少佐のもとに出向いた。木村少佐はその承知した内容を連隊長に報告した【在田茂木野木村少佐報告(29日朝の報告)】。上記木村少佐報告は【歩兵第五連隊雪中行軍遭難に関する諸官の報告 捜索実施詳報 遭難付近地方状況報告綴りの中に含まれている1等軍医生 武谷永城から児玉陸軍大臣宛て訪第1号(明治35年1月30日)】中の文書である。

以下は該報告の概要(要旨・要約)である。(註数字項目段落は筆者)。

二つ目、木村少佐報告の概要(要旨要約)

1 唯今歩兵第三十一連隊雪中行軍隊司令官福島大尉来訪、該隊行軍の状況につき左の件を承知せり
2 該行軍隊は26日午前8時半、三本木発、増澤に至り、翌27日午前6時半増澤発、田代新湯へ向け行軍した。増澤の土民6名を嚮導としたが、目標発見できず午後9時頃雪中に露営した。この日露営は頗る危険にして困難(下線③)実に寒気は氷点下10点に達し、掩蔽物が何もない状況であった。(要旨)
3 翌午前8時露営地発、途中田代より田茂木野に至る通路上の頂界線上に於て30年式歩兵銃の雪中に立ちあるを見之を収容せり。此の時午後1時なりしか約1000mを進むや更に1丁を発見せり。(要旨)
4 既にして前進午後4時頃八甲田山の東南麓を通過する時、通路の左方に各1人の兵卒凍死せるを見る。その服装は背嚢なく唯背負い袋を携帯せしのみ。うち1名は喇叭手なりしが大尉は其等の現象に対して理由を発見し得ざりししてその死体の所在地は田茂木野より約2里半のところなりとのことなり(原文のまま)
5 田茂木野到着は今午前1時にして当地に2時間の休憩をなし青森に向け発程さるる予定あり(原文のまま)
6 此行軍隊は将校3名、見習士官10名、見習医官2名下士候補生19名及び喇叭手2名、従卒2名新聞記者1名より編成されしが患者は唯三本木に於て1名を出せしのみにして他は悉く健全好く其の目的を達成されたるものと云ふべ(下線①)し(原文のまま)
7 以上は其概況に過ぎす猶一行は本日青森に於て滞在の予定に付或いは更に詳細の状況直ちに御聴聞の期も可有之と存候(下線②)、小銃2丁は当地に於て受領致候。 (原文のまま) 

三つ目、驚きつつも冷静誠実に語った福島大尉

遭難は驚天動地、事情不明な中で、捜索救助の一刻も早い事を願い、凍死隊員の霊安かれと祈った事であろう。木村少佐から遭難と救助の状況を聞いて我が行軍隊の事で役立つであろうことを極めて冷静に、誠実に述べている。銃2丁や凍死体2名の発見の状況とその位置を具体的に述べているし、その現象については何故かはわからなかった、と述べている。青森に向かう任務続行の姿勢を明確にしながらも追っての沙汰に従う姿勢(青森での滞在予定通知)(註)も伺わせている。事態にキチンとあるがままに、極めて沈着冷静に、向き合う行軍隊長福島大尉の姿がある。

その姿勢に木村少佐も感応し、好く其の目的を達成されたるものと云ふべし、と感想を率直に述べている。又猶一行は本日青森に於て滞在の予定に付或いは更に詳細の状況直ちに御聴聞の期も可有之と存候、と福島大尉の任務続行の姿勢を尊重している。

註 将校が泊まった青森鍵屋旅館には門司大隊長、児玉連隊長、友安旅団長が訪れ、快挙達成・無事帰還の労をねぎらった。と共に行軍を続行し、無事に帰営するよう、意を伝えている。

四つ目、木村少佐の焦慮

一番目、遭難と捜索の経緯及び木村少佐進出

23日青森第五連隊第二大隊210名は田代への一泊行軍に出発した。小垰付近から天候急変、猛吹雪となり橇14台(人員4名で曳航)の行李輸送に難渋したため全体の行軍も遅滞し、ついに先頭が馬立場に達した時、橇ははるか後方で放棄の止む無きに至る。荷物は人力運搬としたため行李輸送に当たった人員の疲労や凍傷が甚だしかった。その後鳴沢付近で道を失し、猛烈な寒気と暴風雪の中、(23日夜と24日夜)露営、彷徨を繰り返し、25日やっと鳴沢から抜け出し、25日夜は中の森付近で露営して、帰営を続けた。この間未曾有の大寒波の中での彷徨で多くの隊員が凍死した。

23日の行軍を開始後、始めて捜索隊を田代へ向け出したのが26日、この日は大吹雪、道案内人27名を雇い大峠小屋掛け沢付近までの進出がやっと、やむを得ず捜索隊(隊長:三上少尉)は田茂木野に引き上げた。翌27日、捜索再興、猛吹雪の中、賽の河原で後藤伍長を救出する。付近で神成大尉他3名の死体発見。その救出間に捜索隊員が昏倒し二次遭難の恐れが強く、捜索隊は後藤伍長のみを搬送し、田茂木野へ引き上げた。

折から別途救援隊が派遣され田茂木野まで進出していたが戻ってきた三上隊長から本腰を据えた救難体制をとらない限り救助は無理と留め置かれる。之より先14時ごろ後藤伍長救出の第1報が連隊長に届き、連隊本部は大騒動となった。三上隊長はその足で連隊長官舎に赴き(19時40分頃)、ただならぬ救援の状況を報告。かくして連隊長は現地にまず田茂木野から逐次逓伝哨(捜索隊の活動の拠点、資材食事などを前送したり、夜は引き揚げて休養などを目的とする施設)を1000mから600m毎に設け、露営したと思われる地点まで延伸の処置を講じつつ捜索継続を決心し、翌日から全力を挙げて活動する事となった。ところが28日、29日ともに物凄い吹雪の為、田茂木野まで進出するのがやっとであった。その上、掩蔽資材の確保がとても間に合わず、又輸送の為の人夫も集まらない為哨所が出来上がらない、出来上がらないので捜索隊を前に送れない状況であった。

二番目、現地捜索隊長木村少佐の焦慮

このような状況の中、木村少佐は27日~28日夜、現地に於けるすべての責任者として田茂木野に進出した。29日午前2時頃の木村少佐の関心は何処を捜索の重点とするか、そのための拠点となる哨所をどうつなげるか、であった。哨所構築が遅れれば遅れる程死者は増える。哨所構築の目途が立たたない焦りがあった。更に後藤伍長の供述では露営場所の特定が難しい(註1)。

三番目、福島大尉の話に手がかりを見出した木村少佐

ところが福島大尉の説明には得るところがあり、捜索構想決定上の重要証言を得て有難かった(註2)。最初の銃発見の場所は頂界線(馬立場付近?)、死体発見の場所は八甲田山東南麓で田茂木野から約10km(直線距離ではなく道路上の実距離、中の森から賽の河原付近?)が概ね特定できたであろうから、露営地考察の手がかりが得られたことになる。

註1 後藤伍長供述内容の感想(筆者)
3日間の露営を含め行動経過と悲惨な景況をを供述しているが行動に係る具体的な地名(地点)は田茂木野以外にはない。前掲報告の中の【後藤伍長の供述】による。
註2 地名は筆者の推定

四番目、福島大尉報告後の状況

逓伝哨概成は30日夕刻、この日から哨所内に泊まれるようになり、31日主力を捜索隊として派遣できるようになった。30日賽の河原で36名の死体発見。31日鳴沢の炭小屋で生存者2名、鳴沢付近で死体33名、駒込川大滝付近で生存者9名発見。2月1日、三十一連隊の増援隊(平岡少佐以下218名)到着し、2月2日大崩沢炭小屋で生存者4名、田代元湯で生存者1名発見、この日が結果的に生存者救出の最後であった。


二つ、死者への弔意

福島大尉の遭難死者を弔う気持ちを二つの漢詩で汲みたい。

於田茂木野聞友軍之惨事大驚

八甲山頭風四起【八甲山頭風四(よも)に起る】雪花如翼積埋身【雪花翼の如く積りて身を埋む】蹂践迹腥過去路【蹂践(じゅうせん)の迹(あと)腥(なまぐさ)し過ぎ去るの路】昨朝忠死弐百餘人【昨朝忠死す二百餘人】

田茂木野の民家で聞いたその時の感想を詠っている。状況不明ではあるが、我々の通った道で遭難があった。二百余人が亡くなった!大いに驚いたとしか言いようのない心境が伝わってくる。

弔友軍忠魂

雪底埋屍事亦栄【雪底に屍(かばね)を埋む事亦栄(えい)なり】男児一死万年名【男児一死万年の名】忠魂須護北門塞【忠魂須(すべか)らく北門の塞(とりで)を護るべし】鳳詔恩多二百兵【鳳詔(ほうしょう)恩(いつくしみ)多し二百の兵】

鳳詔=天子の詔、死者は戦時死亡者と同じ扱いで靖国神社に合祀するという勅命を指す。

雪中行軍に関する『轁(とう)略餘音』全21首の最後即ち行軍の心旅の最後を『弔友軍忠魂』で締め括っている。軍人の任務遂行中の死は栄誉なことだ。その名は永久に残り、忠魂は国を守り続ける。靖国神社合祀はその忠魂の後押しをしてくれるであろう、との篤い弔いの意が伝わってくる。

以下次稿に続く


 
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【よろく】陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うー"波紋" [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー遺品に込めた思い]


始めに

遺品寄贈式に思う旅の最後を寄贈式が齎した三つの”波紋”の話題で締めたい。

一つ、4月30日朝7時台のnhkニュース

ニュースを見ていた私たち家族の前に映像が飛び込んで来た。陸上自衛隊幹部候補生学校に寄贈を受けた福島大尉の遺品の紹介と同校の校長田浦将補のインタビューであった。

2分足らずの報道は、核心となる言葉で語られていた。

最悪の事態を想定する事の重要性、それに備えて事前に周到な準備をしたこと及び準備を周到にすることで予想外の事にも備え得ることを物語る資料、とnhkの紹介。

準備万端整えてことに臨むことの重要性及びそのことでいざと言う時の指揮官としての決心を適切に行うことが出来る、を候補生に学んで欲しい、と学校長の談。

私が何故福島大尉に惹かれたかの原点となるキーワードばかりである。このキーワードの先には福島大尉の思いと”実行”した事がぎっしり詰まっている。それらを候補生が吸収して、国家の一大事に、適切に判断・決心できる要石になって欲しい。

この2分間のメッセージは短いがとても重い、価値ある、今までの総括とこれから先への視線を表す、ものに感じる・・・。

二つ、成田寅之助氏の書簡の解読

4月12日来校した福島国治氏からわざわざ私のために持参頂いた書簡(コピー)を受け取った。3月12日に群馬を訪れた際、ご厚意でさがして頂いていたが余りに長文・達筆過ぎて解読不能、次の楽しみとさせて頂いたものであった。

福島家宝「福島泰蔵建碑の動起及び経過の大略(以下動起)」と「福島泰蔵 建碑経過録』を読んで抱いた衝動「高木氏が立見師団長撰文を確認した根拠となった成田寅之助および渡辺 克太郎両氏の手紙を拝見したい」を、気にかけて頂いていた訳である。その手紙の解読を仰木三知子さんを介して依頼していた井手川泰子先生からご回答頂いた(5月20日)a3版用紙6枚(書簡コピー)に対応させたa3原稿用紙6枚(解読)の構成であった(写真下)。

上部は書簡コピー、下は解読文

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その書簡は成田寅之助氏から高木昌氏宛で、撰文者は本当は誰なのか?を訪ねる高木氏の問いに答えたものであった(昭和6年10月24日付)。

要旨は以下の通り。

「碑文は杏川氏を通じて立見将軍に依頼した(実は渡邉先生の撰文で立見将軍に見て頂き、同将軍の撰文にすることで快読(諾、筆者?)を得た)」
更に
「書は金井先生(此恭)に決定、篆額は閑院宮へお願いしたいという祖父(泰七)様の意向であったが杏川氏にお願いしたところご快諾無く、強いて立見将軍に計ったが皇族殿下へのお願いは難しい、とその儘になっていた。今回貴下(高木氏)の御尽力で鈴木大将に決まればこの上なき仕合せであり、満足です。碑文は渡邉先生のところにあり、委細は渡邉先生もご承知のはず」と続く。

私の脳裏に浮かんだのは今までの道のり!であった。修親予想外シリーズ第2弾(平成21年12月号)で「立見師団長と福島大尉の強い関係の在り様を考えるため碑の前に立った」と記し、そして「福島大尉戦死から27年を経て碑が建立された。碑建立の思いをつないだのは鈴木大将なのか(誰なのか?)」の疑問を提示した。

それが引き金となって「建碑の動起」を栗原貞夫氏から提供頂き、前記疑問の回答を得る事が出来た。その事も修親に投稿した。23年7月4日群馬国治氏宅での親族総出での遺品確認終了後、国治氏が蔵から出してこられた福島家宝「建碑の記録及び建碑の動起」と「経過の大略」の二つを拝見した。この事特に「経過の大略」で私は撰文者立見師団長に間違いない事に納得しその根拠となる書簡の存在に見当をつける事が出来た。がしかし実物の書簡を確認できないでいた。

その最後の”一応の決”が国治氏のお土産でつけられたのだ!しかも遺品寄贈式の”波紋”として・・・!井手川先生及び仰木三知子さんのご厚意にも篤くお礼を申し上げる。


三つ、甦る花菖蒲に托した思い

《まごこころの 菖蒲が拓く 明日の夢》
 
花言葉はうれしい知らせ、勇気だそうです。花言葉そのままに私に夢を見させてくれる菖蒲に感謝!!
また菖蒲は尚武に通じます。尚武に懸けた思いもいくつかありますが、今のところそれは私の胸の内にしまっておきます。
 
以上は私のブログ『晴耕雨書、「今年のマイ花菖蒲(2011-07-17)」』の追記の一節です。遺品寄贈式が無事終わった今、私の胸の内にしまった尚武に懸けた思いを明かしたい、と思う。

昨年(平成23年)の5月から6月にかけて私がここ数年真心込めた花菖蒲が見事な花を咲かせてくれました(写真下)。

昨年のマイ花菖蒲
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ちょうどそのころ、関係者みんなの思いが重なり、遺品寄贈の光明が灯りました。尚武とは①武事をたっとぶこと。〔ーの精神〕(広辞林)とある。その核に幹部候補生がいる。その候補生への思いを”しょうぶ”に懸けた。

真心込めた花菖蒲が見事な花を咲かせ、多くの人にうれしさや勇気をくれるように、幹部候補生が福島大尉の心を受け継いで、尚武の道を究め、盤石の礎として日本の明日を支えて欲しい。

表記俳句は当時の学校長森山陸将補へ呈した私の感謝の思いでもある。学校長の(学生の)資質教育に対する真摯な情熱に心動かされ、遺族・親族方の福島大尉の遺品寄贈へ水面下の動きが緩やかに動き始めた。その時の心境である。

この稿終わり
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【よろく】陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うー私の福島大尉惹かれ旅 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー遺品に込めた思い]

始めに

”遺品寄贈式に思う”旅も愈々大詰めが近くなった、今回を含めあと2回でこの旅を締めくくりたい。今回は4月12日の遺品寄贈式につながった私の福島旅の道のりを振り返り、福島大尉のどこに惹かれたかを明らかにして、心ある人の参考になればと思う。

一つ、最悪事態に備えた”本気”が心に響き、危機管理を学ぶ

一つ目、『雪中行軍手記』を読み最悪事態への本気に心が痺れた

第1次取材旅行(平成14年10月)で、本物(コピー、全文)を入手(青森県立図書館)し、田代での露営の記述の中で、最悪事態である露営に備えた”本気”がまず私の心に響いた。最悪事態は最も起きて欲しくない事態。最悪事態に備える事は危機管理の本質である。やるべきことが山ほどある中で、起きないかもしれない、万一に備えることは言うは易く、行うは難い。現場を一番よく知っているものの”本気”がなくて、危機管理はない。だから”本気”に惹かれた。調べてみると、その”本気”はとことんの準備として表れていた。

二つ目、危機管理を調べ、修親に投稿。

同時に青森県立図書館で『明治三十五年第三十一連隊雪中行軍案内路実録』、『八ッ甲嶽の思ひで』(時の下士候補生泉舘久次郎)及び『明治三十五年一月二十日雪中行軍日記』(間山仁助)等を入手し、併せて川口泰英氏に柏小学校に案内頂き、7人の嚮導人の教育調査をしている現状を理解した。それらを突き合わせてみて、『手記』に本来書くべき事が、書いてない事を知った。主として嚮導が絡む部分である。これは大きなテーマになるが、そこは一先ずおいて、これらを総合すれば現場指揮官の危機管理の教訓は導き出せる、と直感した。平成15年5月号に『八甲田山雪中行軍ー福島大尉に危機管理を学ぶ』を投稿し掲載された。

二つ、周到な福島大尉でも八甲田山では”予想外があった、どう克服したのかを現地現物で調べる。

一つ目、問題発見

研究調査を進めるうち、難所の鳴澤(第五連隊の遭難死体75名を発見した)を馬立て場と間違う手抜かりの予想外や史上最悪の寒気団が襲うという予想を超える予想外に遭遇したが無事切り抜けた。何故成功できたのか?ここを調べたいという思いが日に日に大きくなっていった。

二つ目、問題を解く鍵

一番目、キーマンとの出会いと思いがけぬ展開

第二次青森取材旅行(平成20年6月17日~19日)を思い立った。青森空港から直路 弘前市へ、でまず向かった市役所で間山元喜氏(雪中行軍隊員、間山仁助伍長のお孫さんで自身も雪中行軍を再現)を紹介され、案内を頂くと共に倉永氏を紹介頂いた。

帰福後、早速7月18日倉永氏を諫早にお訪ねし、八甲田山雪中行軍の実施報告書等を拝見させて頂いた。その福島大尉の息遣い溢れる一級資料の迫力と内容の濃さに驚嘆し、数年間の拱手の歯がゆい思いが消え去ってゆくのを快く感じた。そして”ここ”3年以内に取り組んだ雪中露営演習、岩木山雪中強行軍、岩木山夏季強行軍の実施報告や諸外国の戦史・典令等の研究調査資料などを目にして、これに出会わなければ永久に確信の持てる答えには辿りつけなかったろうと感激で一杯になった。

二番目、現地の人との偶然の出会い

問題を解く鍵のもう一つは現地の人との偶然の”出会い”であった。特に、再訪の旧柏小学校跡で偶々声をかけた農作業中の福沢 しげお(仮名)(7人の道案内人の親戚筋)氏に「大中台から田代台にわたる一面5~6mの雪世界、猛吹雪・酷寒で全く目標に窮した中での道案内。終始先頭に立ち、体で風の強弱を感じ、方向を掴んだ。それは土地のものでないとできない事だった」と言い伝えられているとお聞きして、眼前の霧が一挙に晴れる心地がした。

三つ目、修親投稿

倉永氏から話をお聞きし、旬日後の平成20成年7月24日天人寺の福島泰蔵碑を訪れた。無性に訪ねたかった碑の前に立つと不思議なくらい次々に思いが巡った。撰文者立見師団長との関係は?、建碑の心をつないだのは誰か?、第五連隊遭難は福島大尉の人生にとって、予想外そのものではなかったか?、人生の次なる予想外、t旅団長との確執・中隊長再勤・黒溝台会戦戦死(棄命)等もある。どう対処したのか?等湧き出てくる疑問に向き合い、必死で書くことと格闘しているうち、修親(写真下)の掲載が4回シリーズ(『福島大尉の予想外を訪ねて』平成20年11月号~翌年2月号)となった。私の関心は何時の間にか、八甲田山雪中行軍を離れ、彼の人生全般に移っていた。

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倉永氏の手元の一級資料から得られた新たな事実が加わり、(事実をつなぐ)想像が今まででより大胆に奥深いものに変った。思いを巡らし、想像し書くことで福島大尉に近づける楽しさを十分に味合えた。

三つ、”強さ”をキーワードに調べる

予想外シリーズ終了後、私は未知に挑み、とことんを貫き、難局でたじろがない福島大尉の強さが脳裏から離れなかった。その秘密を彼の人生全体に求めたいと思った。

福島青年が行った迦葉山(群馬県沼田市)の山籠もりを実感するために大雪の時を選んで訪れ(平成22年2月)『福島大尉の強さを訪ねてー福島青年の山籠もりを思う』(修親平成22年5月号)を投稿した。再三諫早に倉永氏を訪ね、少・青年時代にかかわる資料の収集に努めた。彼が生まれてから陸軍教導団入団までを過ごした世良田村及び生家をどうしても訪ねたくなり、倉永氏の紹介で群馬の実家である福島国治氏宅を既掲載の『修親』を持参して、平成22年2月20日訪れた。遺品を拝見し、お話を伺った。同地に立ち、この時代、この土地、この両親があって、福島泰蔵あり、の思いを強くした。同家で栗原貞夫氏や斉藤昌男氏にもお会いでき、ご縁を頂いた。後程お持ちした修親を読まれ、リアクションとして資料を頂いた。それをもとに修親平成22年9月号に『続福島大尉の強さを訪ねてー『福島泰蔵碑建碑ノ動起及経過ノ大略を思う』を投稿した。思いがけぬ出会いと展開で旅物語が出来上がって行く楽しさを十分味わった。


四つ、遺品寄贈への動きに関わる

ブログ『【よろく】陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うーこの日につながった親族の思い』の中の七つ、倉永幸泰氏の項で詳しく述べているのでそちらに譲る。

この時私は最高に昂揚した気分で居た。倉永氏始め親族の方々の思いを叶えるお手伝いが出来る喜び。陸上自衛隊幹部候補生学校の資質教育の教材として福島大尉が加わり、同校の充実発展にobとして寄与できる喜び。両者の動きで何より福島大尉が喜ぶとの充実感。両者の動きに関わって、新しい発見や展開があり、遺品寄贈の旅、福島大尉旅が高見に至る期待感。両者の仲立ちという役割に人生終盤の男のロマンを感じる等、に満たされていた。

五つ、本ブログのスタート、当初のメインテーマは実行力

数次の演習や実験行軍及び八甲田山雪中行軍等を”第8師団の義務”と考え、自ら手を挙げ、率先して行わんとする思考・行動態様から、福島大尉には内面・基盤的資質面の充実(強さ)の上に実行面の強さが顕著である。この実行力をもっと掘り下げたい、と考えるようになった。

そして、愈々動き出した遺品寄贈に向かっての歩みの中で平成23年6月倉永氏の幹部候補生学校訪問と同年7月4日福島大尉遺品の親族確認(於福島国治家)、を機に福島大尉ならではの実行力”について思いを巡らせるため、2011-08-02本ブログをスタートさせた《本筋の旅》。”強さ”は”実行力の要素”と言う事で、旅を統合させた。

併せてよろく旅『福島大尉を訪ねる旅』もスタートさせた。おかげで旅の面白さが私の中で無限大に広がった。11月18日の訪群馬までに『何故八甲田山か?』を”本筋の旅で書き上げ、当日は遺族・親族の皆様に新福島大尉像を披露した。事後4月12日まではよろく旅とした。特に2月25日から、親族がどういう思いで4月12日を迎えようとしているかをテーマにした。『107年余の間』の長さに負けず福島大尉を誇りに思う気持ちや陽の目を見させたいの強い思いが原動力であったと改めて実感した。この場に立ち会わさせて頂いた幸運に感謝している。

終わりに

私の道のりは修親なしでは語れない。書きたい思いが充満した時、そこに修親があった。下手でも門戸が開かれていたので思い切って投稿(挑戦)したら掲載された。読んでいてくれる人がいてリアクションがあった。そのリアクションに刺激され、福島旅は次第に高みを望めるようになった。そして筆者(川道)と副校長古原1佐の間の修親を介した交流から始まった動きが大きなうねりとなって遺品寄贈となった。新しい扉が開き、新しい歩みが始まる。その道も又『修親』の灯りが照らして欲しい、と願う。

この稿終わり
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【よろく】陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うー雪中行軍手記に込めた思い [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー遺品に込めた思い]

始めに

雪中行軍手記(以下『手記』)に福島大尉は重大な思いを込めている。『手記』(写真下)は栗原 貞夫氏から倉永幸泰氏に託され、同氏から今回寄贈された。同『手記』は雪中行軍の景況ー行軍初日の1月20日出発から31日帰営までの行軍及び田代での露営ーを物語る、福島大尉自筆のものとして大事にされてきた。

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ある特徴を発見

単なる手記ではなく、ある狙いを持って書かれたものであった。

3月12日、栗原家、斉藤家の順にお訪ねした時、両家で『第五連隊遭難始末附第三十一連隊雪中行軍記」(北辰日報(弘前市)編集部編、明治三十五年二月十日印刷、写真下)を見せて頂いた。附の部分が「『手記』と同じなんです?どういうことですかね?・・・と・・・。私は帰宅後私の所有分を読み直し、今まで注意を払わなかった点に気づいた。即ち①『手記』と全く同文のものが(附録?)として後尾に記載されていること。②行軍終了直後(2月10日)に、印刷されていること。最後に③〔編者曰く該行軍日記は雪中行軍隊長陸軍歩兵大尉福島泰蔵氏の日記に拠り編纂せしものなれば茲に付記す〕とあることの3つである。

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即ち、行軍終了(1月31日)直後に福島大尉は同『手記』を書き上げ、2月10日の印刷に間に合うよう、北辰日報社に提供したことになる。

何故福島大尉は大急ぎで『手記』を書き、提供したのか?

折からの第五連隊遭難は、その衝撃の大きさを反映して連日各新聞社の紙面を賑わせた。遭難の原因や救援の遅れなど軍当局の不適切さを非難する記事及び悲惨さや不祥事をより生々しく伝え読者の興味をそそる記事が目に余った。特に同行した東奥日報東海記者が書いた『三十一連隊雪中行軍隊 最後の三日』の見出しのもと、「凍死体2名、銃2丁発見」の記事は興味本位の傾向に拍車をかけた。参加者全員に口止めしたにも関わらず、足元から表ざたになったことに責任を感じ、興味本位の報道を何とかしたい、と思ったに違いない。偶々これから小冊子を編纂する予定の北辰日報社が、全文掲載の約束をしたので、手記を提供することとし、そのため帰隊後すぐ、着手し、一気に書き上げたのではないか。

その狙いは?

そのねらいは①興味本位を正し、雪中行軍の取組の真面目さを強調する。②第五連隊の大遭難の陰に埋没してしまう、或いは完全に箝口令が敷かれる前に、第三十一連隊の”得た成果・記録”を残すため、早い段階で公表してしまう。

二つの狙いとも、いかにも福島大尉らしいと思う。前者は”正義感”故であり、後者は人生をかけて挑んだ貴重な成果残すべしの信念故であったろうと思う。私は福島大尉のメッセージという点で、後者の狙いをより強く感じる。このような時に公表する選択をした、おそらく一身の保身など眼中にない覚悟のほどやそのタイミングを計る直感力の凄さに感じ入ったことが大きい。

終わり

私が福島大尉に惹かれ始めたきっかけは『日本史 地図を歩く 別冊歴史読本(新人物往来社532、平成12年1月14日発行)』の中の「弘前連隊 八甲田山雪中行軍ルート」に出会い、感動した事である。大変コンパクトに纏められ、始めて目にする私でもスーッと理解できる優れものであった。その記事が『雪中行軍手記』をベースに書かれている事を知り、本物を見たい、と思い、後刻青森県立図書館でコピーした。

その私が福島大尉に惹かれて其れなりの著作を試みる。そしてまた誰かが・・・。当時の軍隊の直面した困難とその時々の福島大尉の心を感じ、伝える、これこそが行軍終了直後、永久に陽の目を見れないかもしれない思いの中で、”福島大尉が”公表し外に残す”を断行した所以のものである、と思う。 

そして違いに気づいた栗原貞男氏や斉藤昌男氏の半端ではない手記への思い入れの強さに感じ入った。本稿の大元はそこにある。

この稿終わり
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【よろく】陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うー資料が語りかける・・ [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー遺品に込めた思い]

始めに

展示してある演習等の実施報告書には上司の点検畢(註:(音)ひつ、悉く終わるの意、出典岩波 新漢語辞典第二版CDROM版)がある。公用文書である。本来は部隊で保管されるべきものが、どうして個人で保管されて来たのであろうか? 以下の実施報告を見ているうちに、ふと抱いた疑問である。

明治34年7月下士候補生夏季強行軍実施報告
  点検畢 立見師団長
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福島大尉ならではの二つの理由が考えられる。一つは冬季行動標準作りの研究調査の為に持ち出しが許さていた。もう一つは名を残すイクオール記録を残すという拘り、があったから、と思う。

一つ、冬季行動標準つくりの研究調査の為の持ち出しが特に許可されていた

一つ目、問題意識

中隊長として着任した福島大尉はやらねばならない、と思う事があった。それは新設間もない雪国衛戍師団ならではの冬季行動標準作りであった。野外要務令及び其の下部規定などに冬季いかに戦うかの陸軍として統一された行動標準が何一つ定められていなかったので、彼には思うところがあった。

三つ挙げる。一番目、日清戦争の二の舞ををしてはならない。今回は吾の10倍の兵力で冬季戦に長けた国難対露戦である。暖国九州や四国の兵と雖も冬季に戦う総力戦である。冬季行動標準は雪国部隊しか作れない。第八師団が全陸軍の為かってでも負うべき”義務”である。
二番目、野外要務令には「陣中勤務の実施方法において余地を存したり。濫りに細則等を設けてその範囲を縮減することなく常に応用を講究すべし』(野外要務令緒言、明治33年2月)』とあるが、それでは露軍と戦う前に、冬将軍に各個に敗れてしまう。
三番目、同令に冬季の事が定められたのは明治33年2月、それも2か条のみ。隊員を守る観点からも実際的ではない。

二つ目、やり方

雪中行動標準作りの為には継続した研究調査や系統的な演習・実験が必要である。行動標準の項目・内容の検討(案)はわが国陸軍の野外要務令を読み込み、諸外国の典礼・冬季戦史、高名な軍人の格言並びに土人の習俗などを研究調査し考案する。考え出した検討案を、実験・演習で試す。

実験・演習は先ず露営演習から始め、次は精鋭の下士候補補生により岩木山雪中強行軍、同じく下士候補生で夏季強行軍。仕上げは八甲田山の雪中山岳通過・長途強行軍である。一つ一つのステップが自発的な挑戦であり、何れも厳しい場を求めて行う。そうしなければ大陸での酷寒に通用する行動標準は産みだせない。求める厳しさ故に成果の意義は重い。その重い成果を纏め報告する。その中で、野外要務令や下部規定改正の提言をし、更に論文などにより『冬季行動標準の提言』を目指す。

若し成果報告や記事が天皇陛下へ上奏され、その周知及び迅速な具体化が図られる事態になれば、一身の誉これに卓ものはなく、望外の喜びである。これも又秘かに畏れ多くも目指したものの一つ、であろう。

この目指したものは最初からあった訳ではない。階段を一つ上る毎に次第に見えて来た、失敗したらそれから先はない、厳しいものであった。
第五連隊の遭難は福島隊の成果を隠した。このことで当初目指したものは八甲田山以降、大きく修正し、形を変えざるを得なくなる・・・。

三つ目、自宅持ち出しを許される

福島大尉はこの目指したことをなすために特別に自宅持ち出し(保存)を許されていた。研究調査を行うためには多くの時間と労力を必要とした。彼のスタイルは多くの資料を手元に置いて常に確かめながら”正攻法”で取組み持論を構築する為に必要だった。その姿勢は弘前歩兵第三十一連隊中隊長、第四旅団長副官、山形歩兵第三十二連隊中隊長として一貫する。山形歩兵第三十二連隊中隊長として日露戦争出征前に論文『露国に対する冬季作戦上の一慮』を書き上げ、師団長に提出した。なさんとしてきたことへの彼なりの”決”をつけて外征の為山形を出発した(明治37年9月)。使った資料は山形の留守宅に残した。返せという人は居ない。それどころではない。

二つ、名を残すイクオール記録を残す

福島大尉は大変な能筆家である。その時々に、目の前の事象などに真心を込めて向き合い、その感想、観察記録、書簡などを克明に書き残している。

「新田祠畔記吾名」と漢詩を書き送ったことから福島泰蔵建碑が動いたことは既に述べたが、それは彼が”名を残す、を目指していたからである。そして記録を残すことを大切にしていた。

陸軍士官学校の入学試験の作文「弔古墳記」と「駿馬説」を終了後すぐに再現して残している。おかげで彼が古墳(註、墓や碑などを指す)を訪ねその主と酒を酌み交わして語ることを大きな楽しみとしている、を知った。更に多くの古墳を訪ね歩き、主と話をし、詩を捧げていることも知った。

碑や記録を残すことで後世の人と語り合いたい、と思っていた。公用文書も例外ではない。

終わりに、二つの感想

一つ目、福島大尉は何をなそうとして雪中行軍をし、論文を書いたのか

ここにきて漸く福島大尉がなそうとしたことが私の中ではっきりしてきた気がする。11月18日の訪群馬以降、4月12日を遺族・親族はどのような思いで迎えられるのだろう、を焦点に”よろく”旅の中で思いを巡らしてきた。親族の思いは遺品への思い、と最近特に感じるようになった。展示室でふと誰かが語りかけている気がして立ち止まったところ、昨年旅を始めてから徐々に膨らんできた疑問「福島大尉は何をしようとして雪中行軍を行い、論文を書いたのか』の回答のヒントとなる疑問『公用文書を何故個人で保管したか?』を”点検畢”が語ってくれた。

冬季行動標準作りであることは岩木山雪中強行軍ー野外要務令確認の旅でぼんやりとつかめたが、どのようにするかや論文との関係がはっきりしなかった。冬季行動標準を提言しようとした、天皇上奏でその迅速化が図れたら身に余る光栄と考えることで得心できた。そのヒントのおかげで、である。

改めて、目指したものの全体像を考えたい。

二つ目、今ある点検畢文書の保管の流れに遺族・親族の篤い思い、が込められている

遺品の当初の保存には大きく四つの流れがある。一つは独身時代の資料関係、しかるべき時、例えば日清戦争出征前などに生家に送られたもの。二つ(註1)は福島大尉が戦場まで身に着けあるいは持参し、戦死に伴い遺品として、未亡人きえさんの実家弘前の成田家にあづけられ、長崎に落ち着いて後に成田から取り寄せたもの。三つ(註2)は日露戦争出征時に、留守宅(山形)に残し、戦死に伴い、生家(福島家)に送られたもの。四つ、(註3)成田家から倉永家に送られ、太平洋戦争の終戦頃福島家に預けられたもの。

註1、未亡人きえさんの娘操さんから高木勉氏へ「福島大尉の人間像」を贈呈されたお礼の手紙(日付記入無し、(註)昭和59年8月頃と推定筆者、倉永操七十五才と自署されている)の中に、「長崎に来て始めて父の遺品を頂きました」とある。福島大尉戦死後親子で成田家に16年間お世話になり、その後家を出て東京へ、操さんが海軍士官倉永恒記氏と結婚し、太平洋戦争頃は逗子に居住していたが、恒記氏死去により同氏の故郷長崎へ移った。操さんの人生後半になって漸く遺品を手中にしたとの意。

註2、前記手紙の中に「伯父(註、寅之助のこと)に考えるところがあり(註 筆者書き換え)、母の花嫁の時の品と父の物を山形より荷物送ったので群馬に残ったので御座います 持ち出す者も無く何よりな事でございました 「八甲田山」のおかげさまでは有りましてか私の心が天にとどいたと思ひまして (以下略)」の一節がある。きえさんと操さんは一時群馬で暮らしている。

註3、『永遠の武人福島大尉』(塚越真一氏、平成19年10月発行)の30ページに「米軍の日本本土攻撃が始まれば倉永家に保管されている資料は、米軍の艦砲射撃や空爆で焼失してしまう。そこですべての資料を群馬県の福島大尉の実家へ運び保管したのである。これは私が初めに刊行した小冊子(註、上州人豪雪の八甲田を征す』(平成15年8月発行)を福島家へお届けするために訪問した時、福島大尉の実家を訪れ、大尉の甥で実家を継ぐ孝氏の夫人よし子さんからお聞きした話である。」とある。これが正しければ成田家から倉永家に送った(渡した)事になる。

点検畢のある文書は多分第三の流れの可能性が強いと思われるが、どのような流れが実際であれ、倉永家、成田家、そして福島家の福島大尉への思いが遺品を今につないだ事は間違いない。

そしてその大元には福島大尉の(持ち出しが許される位に)研究調査への情熱や後世に名を残し記録を残さんとする篤い思いがあった事も間違いない。

この稿終わり

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【よろく】陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うー高倉健さんの手紙 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー遺品に込めた思い]


始めに、きっかけ

棺桶に入れあの世に持って行くご先祖様?への土産、健さんのサイン入りの返事を貰って、が出来た。

きっかけ

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話しを少し戻す。栗原貞夫氏から頂いた資料集の中の新田次郎氏の私の取材ノートを読んだ私は小説『八甲田山死の彷徨』を読み直し、映画『八甲田山』(DVD)を見直した。新田次郎氏が事実或いは真実であるかのように書いたことで史実や福島大尉の人間像が歪められていると感じた三つの点、すでに述べたが、を確かめるためである。

その作業のなかで、映画「八甲田山」のある場面が小説と違うことに気づいた。4月12日の福島大尉の遺品寄贈式が具体的になってきてから、親族がどんな思いで当日を迎えられるかに関心を集中させていた私にはその違いはとても大事なことに思えた。

私は思い切って俳優高倉健さん(以下健さん)に手紙を書き送った(1月31日付)。その一節を紹介する。健さんは徳島大尉役(福島大尉モデル)で同映画に出演されている。

健さんへの手紙の一節

第五連隊遭難の陰に隠れた偉業、フィクションで歪められた人物像などについての親族の思いが健さんの話で心静まるところがあるはずと思います。

例えば案内人秋吉久美子さんを到着時「案内人は最後に」と徳島大尉。案内人は「もう用無しか」と不満げ に後に下がります。原作では徳島大尉が高圧的に描かれ、ここまでは原作通りです。然し健さん演じる徳島大尉は隊員を整列させて去ってゆく案内人を頭右の敬礼で送ります。原作にはないシーンです。私は健さんの人柄がにじみ出ていて親族は救われると思いました。何故そのようにされたのか?が知りたいと思います。健さんの俳優魂がフィクション云々を越えて描いた福島大尉像をお聞きしたいのです。

そのねらいとするところは

秋吉久美子さん演じる案内人の場面は小説でも映画でもフィクションに過ぎない。しかし、新田次郎氏は取材ノートで案内人を後尾にさげたのは案内人を使ったのを恥じたのだろう。案内人を使って成功したと言われたくない軍人の見栄であったと断じている。その物言いは私の胸に棘のように刺さった。その棘が”違い”に気づかせてくれた。どんな答えが返ってくるのか、あるいは来ないのか、返事をもらえなくて当たり前だが叩いてみなければ扉は開かない・・・。健さんはどういう思いであのシーンを加えたのだろうか?、それが知りたい。

待ちに待った、返事!

健さんの返書(封筒)は、速達であった。私が同封した返信用封筒(80円切手貼付)に350円切手が貼り足され、赤字で速達と印字されていた。 誠実な、らしい健さんの心遣いにぐっと来て、封を切る。

拝復
お便り、拝読いたしました。どのような気持ちで、徳島役を演じたか?とのことですが、”俳優として魂を入れた”の一言に尽きます。しかしそれは、どの映画に対しても同じです。役を演じるからには、自分がその人物を好きにならなければ 過酷な撮影を乗り切ることはできません。

「八甲田山」の撮影前に、脚本家の橋本忍、監督の森谷司郎、そして俳優としては自分一人が、冬の青森の陸軍墓地を参詣させていただきました。雪に埋もれた大小の墓が、無言で不条理を訴えかけてきた気持ちがしました。

八甲田山に関する資料をいろいろ読み進め、案内人の秋吉君には、日本陸軍が教育された最高の敬礼「頭右」で送りたいと思い、監督と相談しました。結果あのようなシーンになりました。映画は、大勢のスタッフ、キャストの協力なしには成り立ちません。「八甲田山」は3年間185日の撮影の結晶でした。

次回作の宣伝活動に追われ、お返事が遅くなりました。悪しからず、ご了承ください。
以下略                                                         
                                
健さんの手紙に思う

簡明にして尚且つ強い芯が窺える文章から健さんの明晰さと人間の大きさが伝わり息をのむ思いがした。
俳優としての信念ー与えられた役に魂を入れ、一生懸命に好きになる、を明快に確立して俳優人生を歩んでこられた。その確かさは徳島大尉役にも十分に感じられる。

「陸軍が教育された最高の敬礼「頭右」で送る」の文句が目に飛び込んできた時、我が意を得たりと思った。その先の説明を健さんはしない。しかしそれは余韻の部分。これで十分過ぎる位十分だと思った。健さんへの感謝と尊敬の気持ちが湧きあがった。

案内人や福島大尉に対する敬意を最高の敬礼で表している。最高の敬礼「頭右」は無事目的地にたどり着いたその日の行程、ひいては行軍全般の成功に対する道案内(人)に対する感謝の大きさを著している。又最高の敬礼「頭右」で送ることを発意し実行した徳島(福島)大尉に対する健さんの大きな敬意の表現でもある。

福島大尉の親族始め、彼に注目する人々の心には穏やかさが広がる、と確信した。

この場合、健さんが魂を込める、好きになるとは敬意を著すことのように思える。陸軍墓地参拝で感じた不条理さ特に師団上層部の企画した雪中行軍競争の構図や青森第五連隊の亡くなった一人一人の無念さ等故に、健さんは徳島大尉を丁寧に演じようとした、と思う。だから原作通りでは不条理さが募りすぎる場面では原作を離れ、人間味を出す即ち敬意を著すこと、が健さんの魂を込める、好きになる誠意であったと思えてならない。

問うて、返事を貰ったから分かった健さんの思い。映画製作35年後に1シーンの質問をされ明快に答えた魂の入れ方の本気さ、に感動した。俳優が魂を入れたすぐれたシーンは心をうち、記憶に残る。映画人の誇りや映画の効用を改めて感じさせられた。これも亦福島大尉が取り持ってくれた縁であろうか。

終わりに

4月12日親族が集まられた折に健さんの返事について私から話しをさせて頂いた。フィクションのなかでも役に対し真心を込めた健さんのその時の思いが分かり「良い話を聞いた。健さんが好きになった。」との感想を頂いた。映画を見直したり小説、取材ノートを読まれた感想をお聞きするのは後日の楽しみとしたい。

ずい分迷ったが、全文紹介とさせていただいた。その方が健さんの真意が誤りなく伝わるし私の感想なり思いもまた都合の良いとこ取りではないと理解して頂けるだろうと考えたから・・・。福島大尉も勿論賛成してくれるはず。

健さんは直接ぶつかったら必ず答えてくれる、但し響く内容であればね、と私を励ましごみ箱行きにならないよう心配をしてくれた仰木 三知子さんには心から感謝の意を表したい。「棺桶に入れてやる」は郵便受けから健さんの返事を見つけ私に手渡す時の女房の”らしい”喜びの言葉。喜びを共有する仲間?が身近にいるのは心強い。

この稿終わり
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【よろく】陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うーこの日につながった親族の思い [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー遺品に込めた思い]

始めに、四つの山場と志を継いだ8人

107年余は長い、この間いろんなことがあった、であろう。でも福島大尉の資料は生きつづけて寄贈式につながった。持続させたものは何か?つながったものは何か?を思う。

親族には”福島大尉を誇りに思う気持ち”が強くあったが、そのもとになる”為したこと”についての事実認識は希薄であった。それはやむを得なかった、と思う。第五連隊遭難の陰にかくされたこと、門外不出で且語るべからず調べるべからずの封印が外・内両面にかかったこと及び軍用語の分りにくさ等から確認のしようがなかったからである。しかし”誇りに思う気持ち”や”いつか陽の目”をの思いは心の底にシッカリと伏せて、何か事ある時には呼び覚まされる性格のものであった、と取材を通じ強く思った。

四つの山場と志を継いだ8人

そのことある時は大きく四つの山場がある。第一は福島泰蔵碑建碑にかかわるもの。第二は新田次郎氏の小説『八甲田山死の彷徨』が昭和46年9月に発行され、一躍注目されるようになったことに伴うもの。第三は八甲田山雪中行軍及び日露戦争100年を迎え、特集などが組まれ取材されるようになったことに伴うもの。第四は遺品寄贈が具体化の道を歩み始めたことに伴うもの。

その山場には8人の志を継いだ親族が居合わせた。彼らがどのように乗り越え、4月12日に繋げたか、を思う。

一つ目、福島甚八(福島大尉の弟、大尉亡き後福島家の当主)

福島泰蔵建碑の動起者であった。

二つ目、高木 昌氏(福島大尉の妹六女むつさんの夫)

福島泰蔵碑建碑に際し、親族の総意を結実させ、牽引車の役割を果たした。

以上、二人は名を残さんとの福島大尉の希望をまず建碑で実現する役割を果たした。私の旅はいつもこの碑から始まり碑に終わる。この繰り返しで何度も新しい発見をした。この碑のお蔭である。

三つ目、高木勉氏(昌氏の長男)

第二の山、昭和46年9月小説『八甲田山死の彷徨』が出版され、昭和52年には映画『八甲田山』が封切りとなった。世間の注目度も高く、新田次郎氏の小説はフィクションが多く、正史を書かねばと著作を決意。門外不出の禁を破り、『われ、八甲田より生還す』(昭和53年)、『福島大尉の人間像』(昭和58年)、『八甲田より還った男』(昭和61年)と次々に著作・出版。 歪められた”福島大尉の誇り”を回復したいという強烈な思いの発揚であった。

力作であり、記述内容の史実性も高い。私はこの3部作を原点として福島大尉旅を続けてきた。唯身内贔屓が過ぎると解される点がありその点が惜しい。例えば「福島大尉らが雪中彷徨中に青森隊雪中行軍隊と出会ったといくだりである。極めて重大なことで、事実とすれば福島大尉以下の人間性を疑われても仕方がない」、色々調査したが「発見したという報告を見つけることが出来なかった」と述べている。(われ、八甲田より生還す)しかし、後に福島大尉が報告した文書が見つかったので具合が悪い、のである。

四つ目、栗原愛太郎(福島大尉の妹五女とくが嫁した栗原歌三郎の長男)氏&栗原貞夫(愛太郎氏の長男)氏

寄贈式の1か月前の3月12日貞夫氏宅を訪れた私は、愛太郎氏が7才の時りくさんが死亡し、後妻が家に入られたので亡くなった母方の話は自然にタブーとなった。ではあったが除幕式には愛太郎とみやの兄妹が参加した。そのことが愛太郎・みや兄妹には強く焼きついた。その折の様子などを父から聞いて育ったことで、貞夫氏の中にも福島大尉を誇りに思う気持が自然に存した、を聞いた。更に小笠原弧酒さんが『吹雪の惨劇』執筆中に愛太郎氏に宛てた資料『雪中行軍手記』提供依頼の手紙を3度にわたり無視したことも知った。理由は何書かれるかわからんであったと言う。しかし理恵子さん(斉藤昌男氏の長女)の課題研究『八甲田山死の彷徨と福島大尉』には『学者等だれにも貸したことはないんだが』と言いつつも特別に貸し出した。

福島大尉を誇りにし陽の目を見させようとする思いを共有できるか否かの拘りが愛太郎氏には強くあった、と感じる。

又貞夫氏の話から同氏が読売新聞に連載された新田次郎氏の『私の取材ノート』を特別に(自宅は朝日新聞)取り寄せた経緯も知った。資料集『八甲田山成功と遭難の陰で』に輯録してある取材ノートではわからない前後の間の事情などが現物(新聞掲載)によって確認できた。福島大尉に関係する資料を集めようとする執着心もまた強い。

更にこの資料集に新たなものを収集し編集しなおして『厳寒の八甲田山雪中行軍 全員生還とほほ全員凍死の明と暗』(a438ページ、平成21年8月)を作り、前記『雪中行軍手記』を教頭金子緯一郎先生に委託し、訳本している。その訳本のあとがきに『栗原貞夫四十五才、由江三年貞夫の長女「昭和五十五年度南中学校PT A本部役員(副会長)時、当校教頭金子緯一郎先生に栗原家所有の手記を見せ、この書物を私に与えてくれた物である。実に記念になるものである「大事にせよ」』と記している。

愛太郎氏が集め伝えた資料を、貞夫氏が保存して次代に引き継ぐため、高柳進氏に依頼して輯録し、更に再編集する。また『雪中行軍手記』の訳本を作る。以上から”福島大尉を誇りに思う気持ち”や”陽の目を見させたい”の父と子2代に亘る執念ー栗原家ならではの思いが伝わってくる。これらのおかげで私の旅は思いもよらぬ高みに辿り着いた。

何故手記が栗原家にあるか、については福島大尉と親友であった金井良作氏の倅義久氏が『雪中行軍手記』を終戦の頃自宅に、持参してきた。当時中学生だった貞夫氏もその時の様子を覚えているという。

貞夫氏は境町史談会、行政(役所、伊勢崎市議会)などへの働きかけを行い、福島大尉の誇りを地元に定着させる役割を担ってこられた。又福島家における親族総出の資料確認(平成23年7月4日)に際し、幹部候補生学校で役立てて貰えるなら本望と『雪中行軍手記』を提供され、遺品寄贈に真っ先に賛意を表された。同手記は倉永氏に託された。

3月12日話しを伺った帰りに、ズット話の中に登場した愛太郎さんにお別れが言いたくて突然の申し出をし、隣室の御位牌にお参りさせて頂いた。仏前には幹部候補生学校からの遺品寄贈式当日の案内の封筒がお供えしてあった。貞夫氏の心根(愛太郎さんに報告)に心うたれた。

五つ目、斉藤昌男氏(福島大尉の妹五女とくが嫁した栗原歌三郎の娘(長女)みやが嫁した斉藤勝一氏の長男)

町内の方が青森旅行で、福島大尉についてバスガイドが知らない事に驚いた。その連絡を受け、斉藤昌男氏はこれではいけない、と福島大尉の周知に立ち上がった。『雪中行軍手記』や福島泰蔵碑等をprし始めた。その努力が実り、朝日新聞群馬版(1976年(昭和51年)9月13日)に掲載され、世間の注目度が上り始めた。

福島大尉を調査していた塚越 俊一氏の取材に協力し、3部作完成に尽力。同氏の3部作には自費出版した『上州人豪雪の八甲田山を制圧(平成15年8月)』、『福島大尉のメッセージ(平成16年8月)』、『永遠の武人(平成19年10月)』がある。塚越氏が村長を務めていた関係で倉渕村の上野氏と知り合い、当時セミナー青森社長で講演活動をしていた、福島大尉について詳しい山下康博氏を同村の生涯教育講座の講演(平成17年2月20日)招聘に尽力。山下康博氏は『天に勝つべし(平成16年6月)』や『指揮官の決断(平成17年12月)』を著した。

第3の山、100年ブームに際し、福島大尉を群馬にしっかり根付かせる働きをした。斉藤家ならではの陽の目を見させたい強い思いを感じる。これも平成24年3月12日お会いして分ったこと。


六つ目、福島国治氏

福島家当主として甚八氏、孝氏から引き継いだ資料を保管する責めを負って来られた。甚八氏の死と入れ違いに孝氏が誕生、成年に達するまで親戚の後見を受けたらしい。資料の保管にはよろしくない環境にも関わらず、こうして散逸や痛みも少なく当時そのままの状態を維持してきた。その陰には門外不出を懸命に守らんとした代々当主の愚直さは勿論当主不在の本家を盛り立てて来た親族の固い結束があった。

又建碑当時、孝氏は17才。高木昌氏の強い指導力で完成を見たが、その維持は亦当主にずしりと重い責めとなっている。

塚越氏や、山下氏等取材に訪れる人の増加に伴い、その関心の高まりを察した国治氏は平成18年10月高木氏が著作作成時に持ち出し使用した資料を倉永氏に送った。直孫の倉永氏の手元にあった方が良いと判断されたという。これは平成24年3月12日、口の重い国治氏だからこそ、寄贈式直前にどうしても直接会って確認したかったこと、である。

訪問者に対してはいつでも求めに応じ自ら蔵に入り資料を持ってこられ、用が終わればきちんと元の状態に戻し、蔵に納める。閲覧や写真撮影の間、その場に付き合われる。家業もあるのに大変な手間である。資料をいちずに守り、福島大尉を世に伝えたい思いがひしひしと伝わる。

資料が107年余前の儘、維持されてきたのは言い伝えをまもり資料を守らんとした福島家伝統の愚直さである。今回の寄贈式につながった大きな転機は関心の高まりを察した国治氏の素直な判断によるところが大きい。

寄贈式の時の顔は実に晴れやかであった。生まれてからズッツと肩に背負わされた重荷、まだまだ残っているが、が降りた、安堵の思いがそうさせたのであろう。

七つ目、倉永幸泰氏(福島大尉の直孫、福島大尉ときえの間の娘操が嫁した倉永恒記の長男)


最後はこの人、倉永幸泰氏である。ぢいちゃんのことはきえばあちゃんから子守唄のように聞いて育ったと聞く。倉永幸泰氏が本格的に周知活動に身を入れ始めたのは第3の山、塚越氏の著作の送付を受け、目を通したころ(平成16年7月)からであろうか。そして山下康博氏との出会い。転機となったのは国治氏からの資料送付を受けた平成18年10月。

倉永氏は多良見町の文化財保護委員長や史談会長を長く勤められた。その見識を踏まえ、真に活用される方策や相手を模索していた。

折しも、私は第2次青森取材旅行(平成20年6月17日~19日)の際、最初の地弘前で出会った間山(福島隊、間山伍長の孫)氏の紹介で、同年7月18日 倉永氏宅を始めて訪れた。惜しみない協力を約束され、お借りした資料や貴重なお話からやがてそれは修親記事に『福島大尉の予想外を訪ねて』シリーズ(21年11月号から22年2月号)として実を結んだ。その後も「強さを訪ねて』シリーズ(22年5月号、22年9月号)として掲載された。お送りしたり、持参する記事をみて、じいちゃんの語らない真実がある、じいちゃんが喜ぶ、明治の防人の心は矢張り平成の防人が一番・・・との言葉に勇気づけられ、書き続ける気力を頂いた。

22年3月頃、その記事を目にした当時の幹部候補生学校副校長古原1佐から資質教育の題材として検討したいが話を聞きたい、との申し出があった。倉永氏に伝えたところ自衛官(OB)だから分かり合えるのですね。資料が一番活かされるところが見つかりましたねと大変喜ばれ、高齢(当時84歳)をものともせず、同年5月資料を持参して訪問された。八甲田山雪中行軍実施報告書・論文・手紙などの福島大尉の息遣いが伝わる貴重な資料の数々に当時の松村学校長始め皆さんも驚嘆された。一方倉永氏は学校のたたずまいや候補生教育に対する真摯な取り組みに感嘆され,前途に光明を見出された様子であった。以後幹部候補生学校の担当者(織邊3佐)も倉永氏宅を訪れ、ご自宅の資料確認や話を伺う等双方の交流が始まった。第4の山の始まりである。

その後も交流は続く。幹部候補生学校で、愈々教材として福島大尉が取り上げられる方向となり倉永氏は平成23年7月4日~5日群馬福島家を訪問、親族総出での資料確認と遺品寄贈についての話し合いの運びとなった。

それに先立ち倉永氏は幹部候補生学校で陳列される資料室などの様子をイメージアップし、親族のみなさんに詳しく説明したいと同年6月再度学校を訪問。当時の森山学校長にお会いし、学校長の候補生の資質教育への熱誠と福島大尉への関心の高さ及び学校当局の心のこもった受け入れ準備にいたく感銘を受けられた。それを踏まえ、単身6月に訪群馬、資料提供の意義などを親族に詳しく説明、7月訪問の地ならしをされた。


7月4日~5日では親族が集まり、蔵の中の遺品集を確認し、記録した。この記録は幹部候補生学校に提供した。同校はこれをもとに検討を始め、11月18日~20日の訪群馬に備えた。

話し合いでは遺品を同校へ預ける方向で纏まった。預けるものやその方法等については改めて同校から担当者に出向いてもらい、確認・話し合いの上、決める事となった。

下の写真は整理中の遺品を前に顔をそろえた親族の方々
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前列左から佐野和子(福島大尉の妹ようが北爪隆吉に嫁しその五女よねが佐野和一に嫁しその長女)、・・(不明)・・。後列左から倉永幸泰、栗原貞夫、細谷栄(福島大尉の弟甚八の弐女つねが細谷長造に嫁し、その長男)、福島国治、筆者(川道亮介)の順 平成23年7月4日、撮影者栗原良夫氏


11月18~20日には幹部候補生学校担当者(織邊3佐)が群馬に出向き資料の確認を行い、親族方に学校の候補生教育について説明を行った。その結果寄贈の方向でまとまり、道筋が見え始めた。

この間、倉永氏は高齡に加え、心不全で体調を崩されたが懸命に自得された健康法を駆使し、11月には必ず訪群馬との固い決意をもって、養生回復に励まれる傍ら資料の整備ー高木目録の再整理を進められた。

終わりに

私はすべて倉永氏に同行し立ち会ったが、陸上自衛隊の幹部候補生学校に寄贈することが一番良い、じいちゃんが一番喜ぶから・・。と篤く話された。その篤さに陽の目を見させる思いを成就させたい、人生の大仕事をやり遂げたいを、強く、強く感じた。

下の写真左は倉永氏が福島大尉の軍服を蔵から出して確認作業の合間に着たもの。右の福島大尉に実に体型、顔かたちが似ている。軍服も107年余の時を超えて直ぐ着れる状態に保存されている。

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私の感想を少し

私はかって投稿した修親(平成21年9月号)でこう書いた。 「書きたい思い」が素晴らしい出会いへ。その出会いのなかで、『思いを巡らす旅物語』が出来た。その修親 掲載記事が福島家・同親族の「伝えたい」の火付材となり、新たな発見に繋がった。このサイクルと波紋が もっと広がり、福島大尉のなしたことー志、気概、生き様をもっと多くの方が知るようになれば、と思う。

今改めてその思いを強くし、寄贈に繋がった夫々の親族の"ならでは"の思いと行動力が更なる高みに至るよう願い、そのご努力に心からの敬意を捧げたい。

もう一つ、私の予想外シリーズが掲載された修親初号(平成20年11月号)には幹部候補生学校が総力を挙げて検討された『幹部候補生学校における六大資質とリーダーシップ研究に就いて』もまた掲載されていた。隣り合わせであった。幹部候補生学校が最も関心を持っている時に福島大尉は名乗りを挙げたことになる。勿論結果的に、である。そんな事とは露知らない私は唯福島大尉に惹かれた”思い旅”をしただけだったのだが・・・。奇縁、福島大尉の導きであろうか。

この稿終わり
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【よろく】陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思う [よろく 福島大尉を訪ねる旅ー遺品に込めた思い]


始めに

平成24年4月12日、表記行事が行われた。その様子を記念に残しておきたい。


一つ、寄贈式

セレモニーの場所は資料館2階の多目的ホール。中央から左手入口側に自衛隊、奥側に遺族が配席。

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参列された遺族・親族

5名の遺族が表記学校に集まられた。長崎から倉永幸泰氏(大尉の直孫)、倉永淑子(大尉の直孫、幸泰氏の次弟・正道(故人)氏の奥様)さん。東京から佐野和子(大尉の妹よう(二女)さんの孫)さん、堀 美弘(大尉の直孫、幸泰氏の三弟)氏。群馬から福島国治(大尉の二弟、甚八の孫、福島家の当主)氏。栗原貞夫、斉藤昌男両氏は当初出席の意向であったが体調不良で欠席。私(川道 亮介)も仲立ちのご縁で立ち会わさせて頂いた。

遺品寄贈者は倉永幸泰氏と福島国治氏の二名。

寄贈された遺品は大尉の八甲田山雪中行軍などの実施報告・手記・手紙などの書類関係及び同雪中行軍時に身につけていた軍服など息使いを感じる貴重なものばかりでその数、二百数十点。

状態は107年余前の当時のままに良好に維持され、又門外不出の言いつけもあり散逸防止も厳しく守られてきた。遺族のなみなみならぬ努力を窺わせる。福島家では、かっては遺品の虫干しなどを近くの親族が力を合わせて行ってきたという。それもこれも”福島大尉に、陽の目を見させたい”の篤い思いから・・。

かって門外不出の禁を破り、高木勉氏が正史を書かんと持ち出した以外に持ち出しの例はないと聞く。倉永幸泰氏が平成18年10月、福島国治氏から活用方の依頼(或いは移管)を受けて以降、より活きる方策を模索する一環で限定的に貸し出した例は私を含め多くはないらしい。

寄贈申し出、受け書の交換

田浦学校長と倉永幸泰氏

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田浦学校長と福島国治氏

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挨拶

寄贈側代表倉永 幸泰氏

日露戦争に如何に国家が真剣に向き合ったかの大きな視点でとらえることで八甲田山雪中行軍を行った祖父の志がよりよく理解できると信ずる。資料が日本のこれからしかも国防を担う幹部候補生の教育に活かして貰えるので、陸軍と陸上自衛隊のちがいはあっても同じ防人の心を受け継ぐ者同志、その志や気概など通じるところが多いはず。陸上自衛隊幹部校候補生学校は最高の寄贈先であると確信している、祖父(福島大尉)も喜んでいる旨の挨拶(発言)。

寄贈を受ける幹部候補生学校長田浦将補

寄贈への感謝の言葉とともに八甲田山雪中行軍において準備を周到にして最悪事態である田代での露営に万全を期した姿や2昼夜不眠不休で最難所八甲田山越えの陣頭指揮をし、一人も失わなかった姿をはじめ多くの具体的な事例がある。その事例は陸上自衛隊の幹部候補生がリーダーとしての在り方を学ぶ上で貴重な示唆を与えてくれる。戴いた生の一級資料を活用し、立派な幹部候補生を育て、全国各地に送り出してゆく。その結果福島大尉を正しく理解するものが増えてゆくことでしょう、旨の挨拶(発言)。

二つ、感謝状贈呈

感謝状が学校長から倉永幸泰、福島国治両氏に贈呈、本日御欠席の栗原貞夫氏にも贈呈された。

三つ、資料コーナーオープン、テープカット

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テーップカットで愈々使用開始。候補生がこのコーナーを訪れ、福島大尉とその業績を知る。更に興味が湧いた人は一階の図書室で資料閲覧や読書ができる工夫がしてある。一般の方は駐屯地広報を通して申し込めば所要の手続きを経て見学okらしい。地域の方にも活用して頂き、陸上自衛隊幹部候補生の資質教育の一端を深めて貰いたい、と思う。

終わりに

幹部候補生学校は手厚い歓迎

車による送迎と学校長以下の主要スタッフの出迎え、候補生教育の説明、学校施設案内、教育現場視察など各地から集まった遺族・親族方の”身内福島大尉を誇りに思う気持ち”や寄贈の決断に対し、敬意と感謝の気持ちを表しつつ、学校をよく理解していただきたい、寄贈後の資料の扱いや教育策等について安心して頂きたい・・などの心配りが隅々まで行き届いていた。

親族・遺族は感激し、安心した様子

拝見したビデオで入校した候補生の顔つきが(教育で)変わってゆく様子。朝起床後5分以内に毛布等をベッド上にを揃えてたたみ、道路上に整列し点呼を受ける事から一日が始まる等すべてが修養そのものの生活の様子。随所で出会う職員の(気を付けの)姿勢や挙措の端麗さ・活発さ等にひとつひとつ感嘆の声をあげながら、学校の教育の意義や効果の理解を深められて行った。

行事の進行につれ、皆さんの表情に肩の荷がおりた安堵の気持ちが現れ、本当に良い所との実感が湧いてきた様子であった。『福島大尉が望んでいたに違いない所で、一番喜んでいるでしょう』、『2年後の資料館の本格オープンの時は又訪れたい』との発言も聞かれた。学校長以下の主要スタッフの玄関での見送りを受け、安堵と感謝の思いを胸に学校を後にした。警衛所付近でふと振り返ると未だ学校長以下見送りの揺るがぬ姿勢。篤い”礼”の心に一同感激!

80年前の昭和7年4月10日桜の下で行われた世良田村を挙げての福島泰蔵碑除幕に続く、ビッグなメモリアルデーとなった・・・。

この稿終わり
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