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八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその十三 青森から弘前、”事をなした”を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート2]

一つ、青森旅館にて

青森市に到着した一行は将校が青森駅前の鍵屋旅館、下士以下は中島旅館に分れ倒れ込むように休養に入った。福島大尉は旅団長・連隊長・大隊長や壮挙を聞きつけたお祝い客への対応に忙殺され休養どころではなかった。又5連隊の遭難及び捜索状況が分かるにつれ犠牲者を悼み、遺族の心情に思いを寄せると共に迫りくる対露戦への影響を深刻に懸念した。

福島大尉はここでも”次”を考えた。その”次”とは行軍を続けるか5連隊の捜索に協力するため留まるか、であった。旅団長は既に木村少佐から報告を受けおり、福島大尉に行軍続行を優先せよ、と命じた。

更にその”次”に備える。明日の行程である梵珠山越えを行うか、平地道に変更するか、であった。福島大尉は平地道への変更を具申する。理由は探討の任務を付与された中央山脈と八甲田山についてはその務めを十分に果たし、又非常の困難を克服して今回行軍の目的の大部分は達成した。現状況で梵珠山越えで偵察する意義は少ない、寧ろ速やかに行軍を終了し疲労を回復して軍務に復帰し、第5連隊の捜索に協力する等が必要、と考えた。

同時に”次”の手記公表も考え始める。この事は既にブログ「陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うー雪中行軍手記に込めた思い」で述べた通りである。

不眠・疲労の極にある福島大尉は自分の休養もあればこそ”次・次・次”へと気働きを続けた。

二つ、弘前への行軍

30日午前7時、青森を出発、市内は第5連隊を憚り喇叭吹奏は控えて行軍した。国道上の平地行軍で浪岡に泊。浪岡では地震に見舞われ、市中警護の為自主出動した。この事はブログ「もののふの心を受け継ぐ心ーその七 慶長伏見地震と加藤清正」で述べた通り。31日午前7時30分、浪岡発、経路沿いには壮挙を祝う歓迎の人が詰めかけた。大円寺側の日暮れ橋から連隊全員が整列して出迎えた。和徳からの歓迎も検討したが第5連隊遭難を憚って前記橋に落ち着いた由。弘前市内から、先頭の喇叭手の吹奏に合わせ威儀を正し疲れも見せず、2列縦隊で行軍し、午後2時5分、屯営着。

三つ、弘前屯営にて

”自信と余裕”を持って出発した福島大尉は再び営門を通る時、5連隊遭難を悼む気持ちの傍らでやり遂げた満足感、事をなした思いで満たされていた。
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そこで、本シリーズの最後を福島大尉の”なした事と事をなさしめたもの”について、思いを巡らしたい。

四つ、なした事となさしめたもの

一つ目、事をなした本質

前人未到の連続山岳雪中行軍は東北の最も厳しい時と所で行われた探討目的の挑戦であった。福島大尉は迫りくる国難日露戦争に備えての冬季行動標準作りは第8師団の任務であり、隊員を白魔から護る方策の案出は上長の義務である、との固い使命意識を持ち、自分がやらねば誰がやるの気概で、周囲を説き伏せて進めた。

”前人未到”の試みを”前人未到”の厳しさの中に身を置き、行った。非常の困難にもかかわらず1名も失わず成功させ陸軍の実力を世界に誇示すると共に真に必要な行動標準や隊員を護る手だてを明らかにした。その厳しさは大陸の酷寒に相当し、その試みにより得られたものは諸外国軍特に露軍の真似(借り物)ではなく並び勝つ域を示す本物であった。事をなした本質はそこにある。

二つ目、事をなさしめたものは

屯営に無事到着した際、脳裏をよぎったのは田代での露営の場面、『天』に抗する気構えを説いた『抗天』の訓示。福島大尉の頭には常に『天』があった。人事を尽くして天命を待ち、時に委ね、時に抗して『天』と対峙して来た。そして無事帰りついた今は『天』に委ねた思いを振り返る『天地人』(註)ー天の時、地の利、人の和ーによって事をなした、との思いであった。

註 戦国武将越後の上杉輝虎(謙信)公の言がもとの説による。『天の時、地の利に叶い、人の和とも整いたる大将というは、和漢両朝上古にだも聞こえず。』から採られた。

一番目、天の時について

明治31年10月、弘前中隊長に着任し、八甲田山雪中行軍を漠とした形で思い立った。準備を積み上げて挑戦し階段を1段又1段と上がり、八甲田山を手繰り寄せた。自信と余裕を持つのに4年弱かかった。この年を外して1年後に試みる、と仮定しても恐らく中隊長職を解かれていたであろう。中隊長着任4年目、士官学校出の中隊長としては異例の長さである。手元に置きたい、という立見師団長の強い思いがそうさせた。それにしても恐らく最後の機会(冬季)であった。史上最悪の寒波に見舞われ、非常の困難に遭いながらの壮挙、将に天の導きであった。

天の導きとは福島大尉でなければ出来ないと”この時”の福島大尉を待ってくれ、試練を与え成果を引き出した天の意思によるものであった。

二番目、地の利について

大陸の酷寒に相当する厳しい訓練(実験行軍)が出来る所、露軍の冬季山岳通過(註)に負けない厳しい訓練が出来る所、平時にできるだけ予想外を経験出来る所で訓練を行い本物の行動標準を掴みたい、との思いが豪雪地帯の中央山脈や八甲田山へ関心を向けさせた。第8師団管轄地域の中でそのような場所が得られるのは望外の幸せ、である。わざわざ遠くへ出かける必要はないのだから。この地の利を活用しない手はない、と福島大尉は考え、挑んだ。

註 1877年12月~78年1月、露土戦争における露軍のバルカン山脈(標高2500m級)越えの攻撃(最寒気温摂氏氷点下25度(78年1月))

三番目、人の和について

福島大尉は3つの人の和を得た。

その一、理解者立見師団長の存在

明治31年10月第8師団長に着任する立見師団長は予て目をつけていた福島大尉を中隊長に指名した。台湾派遣軍軍務局長の職にあった立見中将は派遣守備隊長福島中尉の特技”地理学”識見と意見具申してくる積極性に注目していた。

茲から八甲田山への歩みが始まる。行動力があり勢いの良い若手に思いっきり活動させて全軍に広める主義の立見師団長にとって福島大尉は格好の推進役であった。福島大尉にとって立見師団長は格好の後ろ盾であった。福島大尉が篤く思う、第8師団として全軍の冬季行動標準を作る、は師団長にとって将に願ったりの事であり、福島大尉の挑戦を後押しし続けた。八甲田山は福島大尉と師団長にとっては集大成の戦いであった。

その二、共動する部下の存在

その(一)、部下の参画を重視

其の一、広く意見を聞く

岩木山雪中強行軍において、参加者の知見を吸い上げると共にその努力を無にしない姿勢を明確にしている。数個の項目について下士候補生全員にアンケートをとり、その集計結果を実施報告に載せている。例えば軍靴と藁沓の何れを適当とするか、を問い、軍靴を可とするもの35人藁沓を可とするもの42人混用を可とするもの15人なり。軍靴を可とするは運動快速なること、藁沓を可とするものは凍傷の災いなしと雪中に浸脚しうるの少なきに在り。混用を可とするは両者の得失あるを認めたるに在り。要するに今回の行軍に在っては雪中露営の如き足部の冷却を感ぜざる為め雪靴の効用を十分に了知し得られざりし者の如し。然れども多くの者は藁沓を可とせり。(岩木山雪中強行軍実施報告第15下士候補生各自の所見による)

其の二、良い意見に耳を傾け、採用する

例えば光藤見習医官の『睡眠、休憩と労働』時間を1日に各3分の1にして行軍する、3分割方式提案を八甲田山雪中行軍の構想実現の鍵として採用した。(岩木山雪中強行軍実施報告第15雪中強行軍衛生報告による)。ここは既に述べたのでブログ「八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその三 ビジョンを具現する構想力を思う」参照。

其の三、参画させその労を表に出す

八甲田山雪中行軍では全員に研究調査の任務を付与し、報告を求め、実施報告に盛り込む努力をした。例えば各地点における気温・積雪量・風向風勢・地名称の調査を分担させた。隊員の測定結果を自ら雪中行軍経過路積雪表に纏め実施報告本文に載せた。ブログ「八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその一 馴致」参照。その他全員に任務を付与し、長径・歩数・休止地点・休止回数・食事の有無・食事内容などを測定させ実施報告本文に載せた。

その(二)、納得のプロセスを重んじた意思決定

岩木山雪中強行軍で結論が分かれたものが幾つかあった。その一つ、軍靴が良いか藁沓が良いかは実施報告の中で強いて結論を出さず、八甲田山雪中行軍に持ち越し、2日目を終わり、雪が深くなった所で軍靴から藁沓へ代えさせている。深雪に埋まり軍靴が抜ける困難さや長時間の湿潤、特に長時間の休止の場合に顕著に表れる、で足部凍傷の恐れが増大する危険を納得出来る時が来るまで我慢している。

その(三)、仕向ける指導

中央山脈越えで述べたが難所の危険個所通過に当たっては周到に準備をして見せ或いはお膳立てを講じることで各人が細心に行動するよう仕向けた。最も苦しい山麓越えを自らが率先して陣頭に立ち、隊員相互に”相励まし相援ける”ように仕向け、全員の協力で堪え切った。

その(四)、纏め

福島大尉からの一方通行ではなくリーダーと部下が双方向で任務を達成しようとする姿が浮かんでくる。単なる命令・指揮の上下関係に止まらず、所謂共動して事をなさんとする関係にあった。

その三、通過村落の関係者及び嚮導の真剣な協力

本行軍の成否を握っていた村落露営方式は各村人の心からの真摯な協力を得て成功した。田代台行軍間、嚮導は猛吹雪の中、体を張って、体で風を受け、方向・位置を掴み、案内した。露営間、嚮導は長内文次郎宅を捜索し、空き小屋を見つけ、全隊を休養させじごの難所山麓越えの弾みをつけた。空き小屋での休憩間、案内は田代までの約束であったが、福島大尉以下の行軍隊との連帯感が芽生え、青森へ同行した。此処でも終始先頭に立って難所山麓越えの案内、道筋を探し、外れない、で無事通過に貢献した。

その四、纏め

以上3つの人の和は何れも天の時、地の利を踏まえ、福島大尉の義の心、真心に触発された人々の心の交流によってもたらされたものである。

終わりに

3つの感想を持つ。

一つ目、上杉謙信について詠んだ詩がある。

上杉謙信 福島義山作
兵鋒快哉疾如風【兵鋒快哉(へいほうかいさい)疾(はや)きこと風の如く】幾向中原試我雄【幾(こいねがわく)ば中原に向って我雄を試さん】一世恨深千曲川【一世、恨みは深し千曲川】妻女山下壮図空【妻女山下、壮図空し】
註 兵鋒快哉=進軍する軍勢、中原=天下取り、一世=一生涯中

武田信玄との川中島合戦は5回行われ、その4回目の決戦で両者の戦機は熟し、謙信が信玄の本陣に攻め入り、今一歩の所まで追い詰めたが結局逃した。詩はその無念を詠んでいる。自分のなした事の成因を思う時、上杉謙信の『天地人』になぞった福島大尉はかって読んだこの詩を思い出していたに違いない。勝機をつかみ、怒涛の勢いをもってしても得る事が出来ない『天』のご意思もあれば、絶体絶命の境地に無事成功を賜った天のご加護もある。

二つ目、思いの高見

テーマを思いつくまま、その時のわが想いに忠実に設定した『思い』巡らし旅も間もなく1年8ヶ月になる。もっともっと福島大尉に近づきたい、福島大尉を世に伝えたい、との思いだけで進んできたが、それなりに思いの高見も実感出来るようになった。今、今回のテーマno7から13に至って、ここがブログ旅全体の中で一番見つけたかった”芯”ではないだろうか、と思えるようになった。筆力未だ及ばず・・・、の思いは強いが、本稿を以て、自分の中で大山を越えた安堵感はある。

三つ目、書く難しさと楽しさ

書いてみなければ何を本当に書きたいのか自分にもわからない。書いてみて分かる自分や福島大尉の思い。書くことの難しさと楽しさを学ばせてくれ、ここまで導いてくれた福島大尉に感謝すると共にこれから先の作業の見守りもお願いしたい。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその十二 八甲田山越え、特質の総括ー続き [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート2]

前稿に続く

四つ目、”リーダー福島大尉の実行力”の特質

3つの段階で考察を進めたい。

一番目、第1段階、渦中に入りすぎないリーダー福島大尉

その一、岩木山雪中行軍の教訓

岩木山では昏倒者が発生し、嚮導なしで自ら方向の標定をし、何とか目標に到達させた。指揮官が直接行進方向の標定に携わる事は其の他の事、例えば隊員の管理等に目が届かない、を意味する。りーダーとして一事にとらわれ過ぎない、は八甲田山に活き、出発時の”自信と余裕”は最後まで持続した。

その二、結節その2田代台行軍に見る特質

嚮導に依拠し、余裕を持って今と相反する次の露営についての判断を適切に行った。

その三、結節その3露営間に見る特質

余裕を失わず、見えない次の休憩所の捜索を決断した。

その四、結節その5山麓越え

極限の状況で、疲労・幻覚・夢遊歩行者発生の状況に流されず、最後の砦として冷静に処した。渦中に入り過ぎない事で余裕を持つ。余裕があるから冷静さを保ち、自らの判断が適切にできた。

二番目、第2段階、今を、次に何を、を常に適時・適切に決断するリーダー福島大尉

リーダー福島大尉は構想~準備の間、常に誰よりも先を見て、手を打った。行軍間に於いても常に次(先)への目線を持っていた。『今何を、次に何をなすべきか』を常に問いかけ、己を信じて決断をした。連続状況を適切にこなせたのはこの目線と決断による。そしてこの決断は指揮者の中核的な働きであり、他の指導者・管理者・統御者の働きを綜合して、隊員を意の通り動かすリーダー力として作用した。

生地の厳しい状況で予想外はつきものである。予想を超える事態、考えてなかった事態においても先を見た周到な準備と余裕から生じる沈着・冷静な注意心で乗り越えた。

三番目、第3段階、隊員を意の通り動かすリーダー福島大尉

その一、結節その1田代台行軍

露営準備着手に当たり全員に『抗天』の気概を持てと訓示し、寒さに負けない、を覚悟させた。凍え・疲れ切った隊員を思いの通り動かし、速やかに露営準備を完整させた。

その二、結節その2露営間

絶対に眠ってはいけない・疲れた体で座ればすぐ眠ってしまうので座ってはいけない局面で一人も眠らず・座らなかった。

その三、結節その5山麓越え

行軍し続けるしかない、只管到着まで耐え続けなければならない局面で一人も落伍せず、他の者の荷物になる者もなく行軍を終えた。

その四、纏め

ここでいう意の通りとは自分の手足として動かすだけを意味しない。幾ら指導しても結局は隊員がやるしかない場面では時に細心、時にひたすら耐える等その状況に応じた行動がとれることも意味している。

終わりに

上記3つを纏めたリーダー福島大尉の思いを推察する。

自分(福島大尉)は何事も真正面からぶつかって行くのが生来のやり方である。難所八甲田山に挑むからには全員が困難に正面からぶつかって行かなければ無事の生還、任務遂行は期し難い。一人でも不心得者がいると全体を危殆に陥れる。従ってリーダ力を綜合発揮して行軍隊を自分の意の通り動くよう率いる。要するにリーダーとして全員が困難に真正面からぶつかって行く、福島流実行力、ように仕向ける.それが自分の務めである。

以上はこのブログ旅を何故このタイトルとしたかの答えでもある。

八甲田山越えは行軍隊のリーダー福島大尉を大きくし、陸軍に福島大尉在りを高く掲げさせ、雪中強行軍第一人者の名を高からしめた。陸軍オピニオンリーダー福島大尉に大きく成長、脱皮してゆく契機となった。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその十二 八甲田山越え、特質の総括 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート2]

七つ、八甲田山越え結節その1~その5、福島泰蔵大尉の特質を総括

始めに

結節その1~5毎に見てきたリーダー福島大尉の在り様の特質を3つの項目ー実行力、リーダー、リーダー福島大尉の実行力ーについて総括したい。

一つ目、八甲田山越えの状況の特質

八甲田山越えにおけるリーダー福島大尉にとっての状況の特質は『今を戦い、次に備える』の連続状況であった。即ち結節その2田代台行軍では追求が困難な今と万一の相反する次、その3露営間では厳しい今と見えない次、その4休憩では今とどうするか悩ましい次、その5山麓越えでは重すぎる今だけ。この見方を通して見えてくるものを探したい。先ずは実行力。

二つ目、福島大尉の実行力の特質

『今を戦い次に備える』の中で”次へ”の動きにその特徴が良く出ている。

一番目、結節その2に見る特質

当面の行軍に全力で取り組むと共に万一の露営にも本気で備えていた。今の行軍に捉われる余り、露営を疎かにしたり、露営について希望的観測や様子見をした気配はない。

二番目、結節その3に見る特質

真っ暗闇の暴風雪の中、長内文次郎宅が見つかる保証は何もない状況で休憩所確保の為に捜索隊派遣を決断した。失敗を恐れてためらったり躊躇した気配はない。暗中に活路を拓いて、隊員を休ませねば、を最優先に据えている。

三番目、結節その4に見る特質

休憩に引き続き、八甲田山へ向う方を選択した。休憩の余勢をかって本来の行軍続行である。長内家での休憩は魅力的であったが斃れて後已むの気概が勝った。

四番目、結節その5に見る特質

極限の行軍を続けるしかない選択肢の中で只管先頭に立って耐え続けた。逃げる事も斃れる事もなく隊員と全く同じ行動をし、その上でリーダーとしての責務を立派に果たした。

五番目、纏め

以上から、広義の実行力①ー内面を形にし、実行する全過程に注目し、その中での決断の在り様として、『為さねばならぬと信ずる事には、私心を捨て決断し実現を追求』する姿がある。己の信ずる所を私心を捨ててかかる意思働きの強さがある。狭義の実行力②ー実行場面での在り様として、『物事に受け身ではなく、真正面からぶつかる、たじろがない』本気がある。福島大尉の実行力の特質が八甲田山越えの『今を戦い、次に備える』連続状況というフィルターを通す事で、浮かび上がって来た。

三つ目、福島大尉の”リーダー”としての特質

一番目、構想段階

誰よりも時代の先を見てビジョンを抱き、その実現を目指した。挑戦して階段を上がり、その先を見て次に挑戦する。このサイクルで八甲田山雪中行軍を手繰り寄せた。

二番目、計画準備段階

行動場面・様相を先見洞察して危険見積りや逆行的な準備をとことん行った。

三番目、八甲田山越えの厳しい連続状況

今を戦いつつ”次”に備えた。その”次”は一筋縄では行かない複雑さであった。間合いの遠い段階から間合いのない実行段階まで、先を見る習性は変わらなかった。先を見て、まず何を何時決心すべきかを判断する。そして適時適切に決心し、命令して隊員を適切に行動させた。

四番目、纏め

福島大尉が”リーダー”として臨んだ八甲田雪中行軍のすべてを貫く最も顕著な特質は誰よりも先見、次見である。

以下次稿に続く
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八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその十一 八甲田山越え、山麓通過を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート2]

六つ、結節その5、八甲田山麓通過

本稿はブログ「八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその九 #6難所ー八甲田山通過」に対応させている。

一つ目、鳴沢の恐さに気付かず通過ー予想外に対応

一番目、鳴沢通過の様相

空き小屋を午前7時40分出発して、青森までの同行を決めた嚮導7人を先頭に、相も変わらず呼吸もできない西北の暴風・吹雪下、5mの深雪を漕ぎながら進んだ。辛うじて嚮導が見覚えのある鳴沢への入口を発見し、午後1時5分鳴沢につき、6分の休憩・昼食を摂った。この間2里(8km)を5時間25分かかっている。1時間に約1.4km、1里に約2時間45分(1kmに40分)かかっている。前日の田代台行軍(註)に比べればましとはいいうものの難渋行軍である事には変わりない。

註 前日の気象は西北の暴風・吹雪。長吉川出発午後1時20分、8時50分田代露営地着行程1里半、従って1里(4km)を7時間30分かかっている。1時間に約500m、1kmに約1時間20分かかっている。

鳴沢に至れば後は降路ならんと勇み行くが馬立場までの険峻な登路に阻まれ掴むものや足場がなく滑落・転倒者続発。且つ雪に埋もれた道を探し、マブを形成する澤の断崖や河岸の断崖に迷い込む危険との戦いが続く。加えて八甲田颪、西北の暴風・吹雪が続く。

二番目、福島大尉は鳴沢の恐さを認識していない

「鳴沢に達すれば青森までは降路なるを以て行進の困難は更に意とするに足らずとなし前進す」(実施報告第9行軍の状態 第9日(29日))

正しくは鳴沢から馬立場は険しい登路であり、馬立場からが降路である。当時、馬立場に立つと晴れた日には北の青森市や遠く函館、南も田代新湯も望める。良好な頂界点であった。
馬立場に登るにつれ、様相が一変し強風に雪が吹き飛ばされ凍りついた氷山となっていた。福島大尉は鳴沢と馬立場の地名を間違っており、全くの生地、鳴沢についての認識は薄い。鳴沢の恐さを認識しているようには見えない。又嚮導7名は田代迄の約束であった。この事も難所鳴沢の認識の薄さを表している。

三番目、鳴沢の真の恐さ

青森第5連隊210名は1月23日夜平沢で、24日は鳴沢で露営した。25日昼ごろ迄鳴沢・平沢の約1km四方の狭い地区に閉じ込められ、何度も転進を試みたが駒込川や沢の崖で行く手を阻まれ、彷徨・露営の悪循環に陥った。遭難75遺体がこの地区で発見された。

四番目、鳴沢の景況

鳴沢や平沢は雨や雪どけ水で深く抉られ険峻な崖となっている。田代からの道はこの沢沿いの崖を避けるように、2つの沢の上流の山麓を通過し、或いはその崖の間隙を縫うように走っている。5mの積雪、或いはマブで山容は一変し、道は全く埋没していた。この2つの沢を越える道筋を失すると、山に登って行くか、沢を下り或いは崖から転落して駒込川にぶつかる。結局は山塊と崖に閉じ込められてしまう。(『雪の八甲田山で何が起こったか』(川口泰英)の表現を一部引用、『八甲田山雪中行軍における福島大尉の予想外を訪ねて』(修親 平成21年11月号))

五番目、鳴沢の恐さを認識していなかった、にもかかわらず無事通過出来たもの?

鳴沢の恐さを認識していなかったにもかかわらず無事鳴沢を通過できたのは、田代新湯までの約束であった嚮導7名を青森まで延長出来た事につきる(註)。彼らが道筋を外れないように懸命に道案内したお蔭であった。

(註)「されば同地(田代新湯)にて温泉に浴し行軍の労を医し此所より案内者を引返さしむる予定なりしなり」(明治三十五年第三十一連隊雪中行軍路案内実録 昭和6年2月調査 大深内村青年団熊ノ沢支部調)

行軍出発前の準備当初の依頼で、断られ、再度の依頼で漸く応諾を得た。その経緯を裏付ける田代新湯まで(がやっと)の約束である。空き小屋での休憩間に福島大尉が青森まで同行を誘い、彼らが応じる事が無かったなら、自力(小山内福松2等卒の嚮導)だけでの無事通過、道筋を外れ迷い込む一旦迷い込んだら出られない、は期し難かったであろう。期し得たとしても、更なる長時間のより慎重で困難な行軍とならざるを得ず或いは危険に遭遇したであろう。

六番目、小纏め

7人の嚮導の延長は考えてなかった予想外(鳴沢の恐さに気づかなかった)に対応出来た大きな要因である。
又八甲田山麓における八甲田颪の厳しさは全くの予想外であった。予想を超える予想外にも対応できたのは努力指向の方向性が大局観に基づきかつその厳しさに堪えうるレベルを有していた、からであった。その大局観とは①)田代での露営を最悪事態、その後の八甲田山越えを最後の山場と考え、②零下12度で露営出来、10度で行動できるよう備えていた、事を指す。

周到な福島大尉でも抜けがあったし、その抜けや予想を越える事態に対応できた。その理由にこそリーダー福島大尉の真骨頂をがある。その真骨頂とは7人の嚮導に青森までの延長を同意させた事(人間力)と大局観を持った周到な準備、の2つである。

二つ目、山麓通過ー道筋を探せ、外れるな

一番目、行軍の様相ー田茂野の手前で嚮導は漸く雪路を発見

その後鳴沢出発午後1時11分、同11時55分小垰着、行程1里休止5分。気象の激しさは変わらない、積雪量は鳴沢から山麓部は5mと変わらず、大峠に至って漸く4mに下がる。
鳴沢から小垰までの1里(4km)を12時間44分かかっている。1時間に320mの進度、1kmに約3時間かかっている。超難渋行軍が続く。

翌(29日)午前0時小垰発、午前2時14分田茂木野着、行程1里休止2時間6分、間食。空き小屋出発以来の温食。小垰から田茂木野までの1里を2時間10分かかっている。1時間に約1.9kmの進度、1kmに約35分かかっている。田茂木野付近の積雪量は3m、次第に固められた通行路上の行軍となる。

手記1月28日の項で八甲田山脈の上方を通過、「北風樹木を吹きて物凄く大雪行人を圧して事危し之に加ふるに奇寒は骨に徹して避くるに處なく涸陰は面を襲ふて行くに険あり」と記している。日暮れに賽の河原、夜に火打山に達す。事後、道を探して進む。夜間往々道を誤り、疲労は極限に達し、眠りながら歩く者、幻覚を覚える者、夢遊病者のようになる者等が発生する中、森林を見つけ田茂木野では?と思いながら進む。この時漸く嚮導は雪路を発見し午前2時田茂木野に到着す。

田茂木野の民家で暖と温食をとる。福島大尉は第5連隊捜索隊長木村少佐の所へ。この事はブログ「八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその十一  伝えたかったものその一」を参照。
午前4時20分田茂木野発、7時20分青森市内旅館着、行程2里半 舎営。49時間不眠。

二番目、極限の山麓通過におけるリーダー福島大尉の在り様

その一、率先陣頭

道を探し続け、最後の最後に漸く雪路を発見した。この間、道に迷い・誤り・戻りがあった。時間はかかったが大きく外れる事もなく、疲労者を出したが落伍者は出さなかった。疲労・空腹・不眠の極限、遭難一歩前の状態で田茂木野に無事到着した。率先陣頭、唯一つの選択肢、只管青森を目指して前へに耐え切った。リーダー福島大尉の真髄がこの局面にはある。

その二、進みかたの指示

日打山を過ぎて「田茂木野に向かい駒込川の左岸に沿ふる山脈の凸線を降り断崖は之を左方に避けて進む」(手記1月28日)よう指示をしている。この指示はリーダー福島大尉が行軍に直接係る、唯一のものである。培った地理学の素養を基礎にした危険見積りは嚮導を十分指導できる域にあった。しかし、これ以外のほとんどは謙虚に嚮導に依拠し、口を挟まず従った。

その三、励ます指導

八甲田山脈上方の通過に当たり「相顧み相励まし注意を倍従」(手記)して進ませている。厳し過ぎる状況で隊員相互の心からの協力一致を実現させている。又軍歌を歌わせ(八っ甲嶽の思ひ出、泉館伍長)、気力を奮い起こさせている。

その四、行軍に集中させる喝

死体を発見し動揺する隊員に「触るな」、「青森はまだ遠いと叱咤鞭撻」している。疲労の極限で自らの生死も風前の灯と感じていた隊員も多かったであろう。自分一人の任務遂行が精一杯の状況で、死者をこのままには出来ない、かといってどうする事も出来ない。隊員の悩ましい心情に喝をいれた。(八っ甲嶽の思ひ出・泉館伍長)

その五、幻覚を覚醒させる喝

「午前2時と思はしき頃前方より数知れず提灯横隊をなし来り、奇観を呈す。(略)一同奇異の目を瞠る。期せずしてその方向へと進む。大尉如何に思へけん、同方向を進むべからずと。数刻にして縦隊をなし目前に迫り来り避けんすれども一行に直進し来る。不思議なるかな今正に突き当たらんと思ふ頃右に折れ忽然として灯火消えあたりは元の真黒。」(実録)  

その六、木村少佐への報告ー任務意識の在り様

凍死体との遭遇は全くの予想外であった。田茂木野での木村少佐への報告で、見た事実を要領よく纏め、順序立てて語っている。その中で、捜索への協力と任務続行姿勢を明確にしている。2昼夜不眠・疲労の極にあるとは信じられない位、の沈着冷静さである。任務意識の在り様が際立つ。

第5連隊遭難の状況を承知し、捜索に必要な情報、銃2丁と2死体の発見位置と状況等を提供し、今後の協力が必要ならと青森市泊の予定も告げている。行軍の編成、意図、経過、今後の予定等を説明し、任務続行の姿勢を明らかにしている。

その七、小纏め

その(一)、旺盛な任務遂行意識

「嚮導は一の雪路を漸く発見」、田茂木野到着時の感想「温食」、青森到着時の感想「49時間不眠」等の簡明な記述にリーダーとしての職責遂行間に堪え続けた思いの強さや果たした満足感の大きさが強く伝わってくる。

その(二)、極限状況において際立つ沈着冷静さ

自らの疲労がその極にあるにもかかわらず、常に率先して陣頭にいた。だけでなくただ一人抜きん出て、沈着・冷静に周囲を見、状況を判断し指揮・指導している。

終わりに

今回のリーダーの課題は極限の困難に於けるリーダーの在り様、である。行軍し続ける以外にない選択肢の中で率先陣頭に立って只管耐え続け、更にリーダーとして十二分の働きをした。全く隊員と同じ行動をして尚沈着冷静さを保ち、リーダーとして力量を発揮する。究極のリーダー像と言っても過言ではない。

第5連隊遭難によって天皇奏上は吹っ飛び、その成果はその陰に埋もれた。第5連隊遭難は福島大尉が志を深化させて挑んだ人生のクライマックスに於ける予想外であった。八甲田山以降も福島大尉の人生には予想外が付きまとう。八甲田山以後の、人生の予想外に如何に対応したか?も興味深いテーマである。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその十 八甲田山越え、空き小屋での休憩を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート2]

五つ、結節その4、空き小屋での休憩

一つ目、我らのお助け小屋

午前6時3分空き小屋に着いた行軍隊は早速薪を収集した。全員入りきれないので、外で足踏みをしつつ待つ組と中に入り暖を取り餅を炙り食べる組に分ける。

空き小屋での休憩、”暖”をもたらしたものーリーダー福島大尉の”次を見る目”

薪の”暖かさ”は福島大尉の先見の明の暖かさ、手に持つ”餅の暖かさ”は福島大尉の先手の暖かさ、食べて感ずる腹の”暖かさ”は福島大尉の親心の温かさであった。空き小屋は真にわれらのお助け小屋であった、と泉館伍長はその有り難さについて日記「八ッ甲嶽の思ひ出」で述べると共に、心の奥の福島大尉への敬意と信頼を表している。皆の命を預かっているリーダーの責任遂行の最たるものが”お助け”小屋であった。

二つ目、青森まで同行した方が良くは無いか?

『休憩二時間大尉言へて曰く「最早新湯に至るの要なし。君等は此所より引き返さんよりは青森に出づるは便ならずや」と一同同意し午前7時同所出発相変らず先頭仰せ付けられ進む(以下略)」』(明治三十五年第三十一連隊 雪中行軍路案内実録)

リーダー福島大尉の新たな予想外への備え

漸く皆が一息ついた頃、出発直前に間をはかりつつ発した福島大尉の言葉に新たな予想外に備えようとする思いが伝わってくる。嚮導は田代までの約束で、以降は自力でと決めてきた。しかし田代台での八甲田山颪の凄さは予想外であった。この激しさでは自力で、を通すことはきつい。更なる予想外に対応できないかも知れない。この厳しさで引き返すことは嚮導にとってもきつい。ならば行軍隊と嚮導が力を併せこの後を乗り切るしかない。福島大尉の言葉と嚮導の対応に極限状況を共にして来た、立場の異なる両者の心の交流を感じる。

三つ目、どちらへ向かう?

出発に際し、福島大尉は悩んだ。長内文次郎宅を探すか八甲田山へ進むか、を。前者の狙いは長内文次郎宅で完全に休養し、態勢を整えて八甲田山へ向かう、であり、後者の狙いは2時間の休養をばねに八甲田山を越え、本来の任務遂行に立ち返るであった。結論は八甲田山へ向かうであった。

本来の目的に立ち返ったリーダー福島大尉

一軒しかない長内家で全員が休養できる程度は知れており、長内宅が見つからず、体力を消耗して全員田代台に沈む恐れも又高い。休養で得た体力・気力の続く限り青森を目指す。斃れて後止むの心意気で行く。困苦欠乏に堪える将兵を育てる本来の目的に立ち返る。

終わりに

今回のリーダーの課題は休憩後の”次”をどう動くか、であった。福島大尉は2つの事をした。休憩間、気働きを続け、嚮導には青森までの案内延長を取り付け、八甲田山へ向かうを選択した。特に嚮導の延長は結果的に命を拾う事に直結した。以上から2つの思いが伝わって来る。1つは八甲田山を越えるには両者の協力が必要との認識の共有。2つは迷った時は大義に立って前へ、困難な方を採るという福島大尉ならではの決断の流儀。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその九 八甲田山越え、田代露営を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート2]

四つ、結節その3、田代露営

本稿はブログ『八甲田山雪中行軍、非常の困難を思うその八-#5難所田代露営』に対応させている。

一つ目、露営指導の眼目

一番目、一人たりとも眠らせない、座らせない

露営を命じた時点の決意は一人たりとも眠らせない、座らせない、であった。しかし、肝心なのは一人一人の克己心、依って「吾人若し天に抗するの気力なくんば天は必ず吾人を亡さん 諸子夫れ天に勝てよ」と訓示、衆を奮起させた。

露営で寝ることは即凍死を意味する。疲れた体で座って火に当たれば眠くなる、眠れば即凍死に繋がる。火から離れ、座っても同じ姿勢を続けたり体を動かさなければ、湿潤した服から熱が奪われ、体が冷え手足先から凍傷が始まる。

疲れた体で寝ないで過ごす苦痛。冷えを感じたら(凍傷を起こさない為)、手足をこすり続け・足踏みを続ける苦痛に克つのは一人一人の気力以外にない。

雪濠の完成に伴い、3組に分ける。壕の中で火に当たり立ち続ける組、薪を集める組、壕の外で足踏みをする組を順繰りに交代させた。時に押し競饅頭をやらせ、皆で軍歌を歌わせて長い夜を過ごし、夜明けを待つ。
薪の材は生木で火の勢いが弱く燻る。その煙が壕内にこもり目を開けられない、餅を焼き食べる事さえ出来ない。

二番目、率先陣頭しつつ目配りも

福島大尉の強い喝と一瞬も緩まない鋭い眼差しが効き、克己の心を奮い立たせ一人たりとも寝らず、座らず夜を過ごした。隊員と全く同じ行動をし、疲労しきっているはずなのに、尚隊員に注意を注ぐ。強い責任感のなせる所である。隊員は雪濠の中で吹き付ける寒風や下から、横からの地吹雪から守られ、内と外は天国と地獄の差である、を感じた。福島大尉が雪中露営演習で試みた現地の雪だけで施設を作る方法や上からの雪を防ぐより寒風を防ぐが大事などの有難さを苦痛に耐えながら身に染みて認識した。

二つ目、長内文次郎宅を探せ

一番目、次の手は何か

福島大尉は一人たりとも眠らせない、座らせない強い思いを持ち続け、隊員に目を光らせる傍らで強い危機感を抱いていた。行軍では歩き続け、露営では立ち続けた。疲れは極限だ。27日の昼食からは何も口にしていない。餅は火がないと食べられない。その上一睡もしていない。田代台での暴風雪の凄さは想像以上。夜明けを待って出発しても激しい八甲田颪の中では、最大の難所八甲田山を越えるのはきつい。誰か一人でも落伍すれば惨事の幕開けである。何か手を打たねばならない。次をどうするか。

二番目、嚮導による捜索隊派遣

嚮導に捜索させた事を福島大尉は何も語っていない。何故語らないのか?は既に述べた。ブログ『八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその十一 伝えたかったものその3(終わりー何故公表したのか?』を参照して頂きたい。
「明治三十五年第三十一連隊雪中行軍路案内実録」(昭和六年二月調査大深内村青年団熊ノ沢支部調)には嚮導の語った事実が残されている。「八っ甲嶽の思ひ出」(泉舘伍長)、「雪中行軍日記」(間山伍長)にも裏付ける記述がある。これ等を綜合すると以下のようになる。

昨日の目標であった長内文次郎宅を捜索し、そこで休養を取る、と決心。7名の嚮導に嵐の止むのを待って、午前1時頃、捜索を命じた。この捜索は暗夜、暴風雪下に行うので、現地に詳しい嚮導に任せざるを得ない。現地をよく知らない隊員を捜索に使うべきでないし、八甲田山が控えているので温存する。
嚮導は田代までの約束であったので長内文次郎宅が見つかればそこで終了、そこから引き返す(註)。後は自力だ。
(註)雪中行軍路案内実録には道案内田代までの約束とある。「されば同地(田代新湯)にて温泉に浴し行軍の労を癒し此所より案内者を引き返さしむる予定なりしなり」。.

三番目、空小屋への移動

嚮導の捜索隊は長内家を発見できなかった。苦心の末、代わりに空き小屋を見つけ、戻ってくる。その報告を聞いた福島大尉は直ちに、午前4時頃には出発を命じ、嚮導の案内で暗夜・暴風雪下にその空き小屋に向った。
実施報告第9行軍の実施第9日によれば「午前7時田代露営地出発午後1時5分鳴沢着行程2里休止6分昼食」とあるだけで空き小屋の記述はない。しかし休憩の調査を担任した千葉見習い士官の報告には「28日午前4時7分露営地出発午前6時3分小舎着1時37分休憩朝食午後1時5分鳴沢着6分間休憩昼食』とある。

四番目、捜索隊派遣についてのリーダー福島大尉の決心・処置を思う

その一、次を見て暗中に活路を開く

極限の空腹・疲労のままで出発すれば八甲田山越えに難儀する姿、落伍者等に窮する姿が福島大尉には、弱気ではなく客観的に、はっきりと見えたに違いない。現実の田代台での暴風雪の経験は八甲田颪の怖さを十分予測させ、危険見積もりを修正する必要を痛感させた。かと言ってこのまま止まり続ける事も厳しい。

そうならない為には当初の目標である長内家での休養が絶対に必要だ。昨日とうとう見つけられなかった目標がこの暴風雪・暗夜の捜索で見つかる確率は低い。しかし、給養をとる道はそこしかない、何もしなければ危機は確実にやってくる。動くことで活路を開く。失敗など眼中に無い、己を信じる前向きの強い気持ちが偶然の空き小屋発見・休養に繋がった。

リーダーがその先(次)を見て手を打つ、暗中に活路を開くは、この儘露営地に沈んでしまうしかない或いは八甲田山越えで危険の淵に沈んだかもしれない危機を回避する極めて限られた、しかし有効な一手であった。

その二、綻びは直ぐ繕う

嚮導の捜索隊派遣では福島大尉は妙な事をしている。7名の嚮導の内2名と荷物を全部置いて出発させた。嚮導の挙動がおかしいのに気付いたので先手を打ったのだ。

空き小屋を発見し小屋に上がり込んだ5名は相談する。このまま熊ノ沢に引き返すか戻って皆を連れてくるか、を・・・。嚮導もわが身が危ない、と感じていたのだ。結局この壮挙を成功させ、伝え、残す為に戻って皆を連れて来る事に一決。自らの意志で、1名を小屋に残し4名が戻った。

綻びを見抜き先手指揮

綻びを見抜く目、兆候に気付く細心さ及び先手の処置は危機にあるリーダーが持つべき必須の要件である。本来誰も教えてくれない、自得すべき感性に近い性質のものである。福島大尉は天性の性質に加え準備を周到にし注意深くある事が必要だ、と予想外対応の秘訣を述べている。綻びを見抜き先手を打った、2名と荷物を残させた事は嚮導が戻らざるを得ない状況を作り、結局全体を救う事になった。

三つ目、気温は何度か?

もう一つ福島大尉が向けていた関心があった。氷点下摂氏12度以下になるか否かであった。露営間の氷点下摂氏12度という寒気を実感して露営を続けるか出発をした方が良いかの判断をする為であった。

冷静な観察眼

露国教令には氷点下摂氏12度になれば露営を切り上げて翌日の為に出発をする規定がある。露営間の危害の方が行進する危害よりも勝っているという考えからである。田代では氷点下摂氏11度を体験した、あと1度下がればどのような影響があるのか、真剣に隊員を観察した、であろう。何とか頑張れたが、限界も感じたに違いない。厳しい苦しい体験と観察が『八甲田山雪中行軍実施報告・第14行軍実施に依って得たる結果』の第46「実験に依るに歩兵は摂氏氷点下12度の気温に於いて露営をなすことを得べし然れども之より気温低落せば翌日の運動を開始し行進するを適当と認む此の如くする時は患者の発生を予防する事を得べし」に結実している。

隊員を一人も眠らせないと目を光らせる傍らで冷静な観察眼を持って、寒気の程度を実感し、行動標準策定に思いを寄せるリーダー福島大尉の思いが伝わってくる。

終わりに

今回のリーダーの課題は露営を露営だけに終わらせない。露営を”次”にどうつなげるか、見えない”次”をどう拓くかである。露営を全うする事は大変難しい、しかしそこだけの視線では八甲田山越えは難しい。福島大尉は2つの”次”を行っている。休養所の捜索と行動標準策定のための観察である。極限状況にあるリーダーとしての余裕に加え、前者からは先見と失敗を恐れぬ断行が後者からは行動標準追求の執念が伝わってくる。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその八(続き) 八甲田山越え、田代台行軍を思う- [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート2]

前稿に続く

四つ目、予想を超える事態に対応出来たもの

田代台行軍は予想を超える向かい風の暴風雪、八甲田颪であった。今までの経験では到底予想できない気象の厳しさであった。深雪による行進の難渋に加え、ただでさえ難しい目標の識別や方向維持に苦労し、更なる非常の困難となった。
福島大尉は岩木山雪中行軍での苦い失敗の教訓を生かし、田代での目標識別の困難を想像し、真剣に嚮導を求めた。しかも7人の多さで・・・。これがこの予想外に活きた。

五つ目、露営移行

一番目、決心

「午後8時50分、白雪の内茅茨何れに在るかを認め得ざるは遺憾なり茲に於て嚮導の意思稍動く依て、枯立せる一大樹を発見し其の下に露営をなすことに決す。此枯れ木は本夜の薪材に充つる為なり」。(雪中行軍手記1月27日の項)

二番目、素早く露営に移行せよ

露営決心・命令時点での福島大尉のリーダーとしての関心は一刻も早く、雪濠を作り、この寒風・地吹雪から疲れ切り、冷え切った隊員を守る事であった。これは今に始まった事ではない。構想の時から抱いていた問題意識であり、本気で露営を準備をする為に、部隊や行動を管理し、隊員を鍛えなければならないポイントであった。

暗夜暴風雪下、背嚢に括り付けた携行器材の結び目が凍りつきしばれた指ではほどけない、口で漸くほどき、作業着手。方匙で雪壕を作る組、斧や鋸を使い薪にする材を収集し裁断する組、火を起こす組の3組に分れ並行作業。約2時間後に半径4m、深さ2mの雪濠を構築し、薪を集積し、採暖を始めた。隊員の練度は高く、福島大尉の意図通りに行動した。

上記行動は事前の携行器具を携帯させる指示や雪濠掘開訓練によって可能となった。更にその元には、現地の雪だけを使った、風よけを主にする露営施設(雪濠)の構築基準、雪中露営演習での研究成果の活用があった。

三番目、福島大尉のリーダー力を思う

素早い移行は福島大尉のリーダー力によるところが大きい。リーダー力とは指揮・指導・管理・統御の4つの総合力をいう。
断定が過ぎるかもしれないがイメージを共有し話を進めやすくする為敢えて以下の定義をする。リーダーとは方向を示し統べ率いる人。指揮者とは決心し実行を命ずる人。指導者とはあるべき姿に到達させる為教え導く人。管理者とはあるべき姿に近づける為問題点を掴みより良く改善する人。統御者とは隊員に心から服従させる人。

管理者として事前に露営施設構築基準を作り。指導者として事前に露営施設、雪壕掘開の練度を向上させ。統御者として隊員の心からの信頼を得て、最悪の厳しい場面で指揮者としての露営決心と処置が適切に出来た。要するに4つの力を有機的に総合するリーダーであった。リーダーの有機的な総合力が素早い移行の大きな原動力であった。

終わりに

困難な行軍を成功に導くための懸命な努力をする傍らで万一目的地に行き着けない場合の露営への切り替え・移行を適切にする、所謂相反する『”今”を戦い”次”に備える』リーダーの在り様が際立つ。 
”今”の行軍には不退転の覚悟を示しつつ道案内は嚮導に謙虚に従い、余裕を持って”次”に備えた。その次の露営決心と移行の場面ではリーダーの総合力が発揮されて、隊員は意の如く動き、素早い移行を成し遂げた。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその八 八甲田山越え、田代台行軍を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート2]

三つ、結節その2、田代台行軍

一つ目、概要

本稿はブログ『八甲田山雪中行軍、非常の困難を思うその七ー#4難所田代台行軍』に対応している。
27日午前6時30分増澤出発、大中台着10時50分、18分の間食、その後田代台上に達し、午後1時10分長吉川着10分間の昼食。ここから気象は激変し、激しい向かい風の暴風雪が吹きつけ、顔もあげられず、呼吸も出来ない、数m先が見えない、一面雪世界の原野が延々と10km続く。気象は西北の暴風・吹雪。午後8時50分田代露営地着、この間の行程1里半。従って1里半(6km)を7時間30分かかっている。1時間に約710mの進度、1kmに1時間15分かかっており、難渋行軍であった。

二つ目、福島大尉の関心と嚮導

田代台行軍での福島大尉の関心は何としても今日中に目的地へ!であった。目標が発見できずやむを得ずに露営せざるをえない場合を想定し本気で備えるが、それは最悪の話、本筋は目標に行き着いての舎営である。何としても行き着く。

昼食後熊ノ沢部落の嚮導7人は一人が道案内、他の6人は2人一組での3組となり、交代で雪を踏み固めながら先頭を進む。隊員はそのあとに一列縦隊で続く。余りの悪天候に引き返しを嚮導が進言する。これに対し福島大尉は強い口調で進むも引き返すも無事の保証は無い。覚悟を決めて田代を目指せ、と不退転の覚悟で叱りつける。この気合で嚮導も隊員も覚悟を決める。

明確な目標地物がないので嚮導は何か手がかりを見つけようと必死、全身で西北の恒風を受け風向きから方向を判断する、一番確実な進路維持で・・・(註1)。福島大尉は謙虚に嚮導に従う。胸まで浸かり雪を漕ぎながら、しかも強い向かい風の暴風雪の間断を縫うので遅々とした進度。1km進むのに1時間かかる。

註1 道案内は沢目亀三一等卒と熊ノ沢の7人の嚮導がいた。7人の嚮導は先頭に立ち『風の強いところを歩くようにした。高いところに上がり、風を受け、その風向き・強さから現在位置・方向を判断した』。以上は私が平成20年6月18日道東旌表碑(註2 写真下)と旧柏小学校を訪れた際、偶々隣地で農作業をしておられた福沢しげお(仮名ー案内者の福沢 留吉氏の親戚筋に当たる方)氏から言い伝えとしてお聞きした話である。将に土地を知る人ならではの体を張った、体で感じた道案内のお蔭であった。
註2 道東とは道案内を、旌表とは讃える意を表す碑の事で熊ノ沢青年団が昭和7年4月に建立した。

三つ目、難局におけるリーダー福島大尉の在り様

何時目標につけるか分からない状況が続くと、嚮導や隊員に先行きを不安に思う気持ちが次第に大きくなる。福島大尉の何としても目標に行き着く強い思いや言動の励ましが不安を打ち消す。これの繰り返しが続く。

夜になり、福島大尉の中で露営も考えなければの思いが少しづつ大きくなる。その中で露営を行う場合の決心の条件を反芻する。①目標に辿りつける目途があれば夜を徹してでも行進を続ける。②嚮導が自信がない或いはこれ以上は危険だ、と進言した時には露営を決心する。③隊員の疲労や余裕の有無を観察する。④薪材が得られる林の中等の露営適地を探す。

リーダーの不動の心と毅然とした言動が皆の心を行き着かねばと奮い立たせ、行き着けると安心させる。最後まで全員が士気高く、軍紀を守って行動した。決心の条件を冷静に反芻する余裕は已むを得ない露営ではあったが、追い込まれてではなく、ゆとりある露営に導いた。

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<strong>以下次稿に続く</strong></ahref=
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八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその七 八甲田山越え,最終準備を思う  [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート2]

一つ、八甲田山越えの行程

一つ目、行程の特性

今回からは愈々八甲田山越えの場面ー増澤~田代台~田茂木野~青森の2日(当初の計画、実際は3日)行程である。この行程の特性は①最後に控える難所②増澤~田代18km、田代~田茂木野16km、増澤~田茂木野34km。この間の当初の舎営予定は田代の1軒屋、長内文次郎宅、実際は露営。③この経路は冬季、地方人の通行が全く途絶え、行軍隊は夏も冬も全くの生地。

二つ目、八甲田山越えの困難さ

中央山脈を無事越えても後に最大の難所八甲田山が控えている。一面の雪原である田代台行軍に難渋し、民家を発見出来ない場合はやむなく露営となる。その後は、不眠・疲労困憊を引きずって、埋雪した山路の道筋を探しながらの行軍となる。駒込川河岸の崖を避けつつ慎重に道を探す行軍は時間がかかる。時間がかかれば気象の激変、暴風雪に見舞われる危険は倍加する。

三つ目、八甲田山越えの結節

八甲田山越えに於けるリーダー福島大尉の在り様には心に響く点が多々ある。それらを拾いあげたい。この為、以下の5つの結節ー①最終準備②田代台行軍③田代での露営④空き小屋での休憩⑤八甲田山麓通過ーに分け、夫々毎にリーダー福島大尉の思いや決心し、処置した事項或いは関心を持ち行動した事項等について思いを巡らしたい。

二つ、結節その1、最終準備

一つ目、福島大尉の最大関心

最終準備とは26日~27日増澤での準備をいう。
26日午前8時三本木を出発し午後2時40分増澤に到着して3軒の家に分宿した。疲労回復と次の準備を狙いとしてゆっくりした行程であった。寒村であり土間で休み食事は依頼しなかったので夕・朝食は携行の食事をとった。心づくしの風呂を浴び、土間であったが屋根の下で休養・睡眠をとり明日からの英気を養うと共に不具合を直す等準備の仕上げを行った。
以下本稿はブログ『八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその6 八甲田山前日、最終準備』に対応している。

充分な糧食を携行しているか?

この時福島大尉の最大関心は最悪の露営準備の整頓、特に各人に十分な糧食を携行させる、であった。
24日の#3難所犬吠峠越えでは折からの大寒波襲来を受け、よく眠れず午前6時30分出発。氷点下摂氏16度の山岳通過で、8時40分登頂後余りの寒さにすぐ下山した。休憩は午後零時30分枯澤川到着時に11分間、食事は午後3時30分下栃棚澤到着後。食べ物も水筒も凍った。午後3時30分まで昼食抜きの9時間、食べ物がない、食べられない空腹が続いた。空腹が疲労や凍傷の大敵、を体験した。空腹は八甲田山では絶対に避けるべき、多めの携行を、と強く認識したに違いない。

しかし福島大尉は行軍出発前の調整で増澤部落への夕・朝食及び携行昼食の依頼は行わなかった。寒村に迷惑をかけられない、と思ったであろう。出来るだけ田代に近い所に舎営する行程上の配慮を優先した。従って増澤では携行した餅・缶詰を食べなければならない。昼食は残りを食べるにしても間食は無い。

この状態で田代に向かい長内文次郎宅に行き着けない場合は食料の補給なしでその後を続けなければならない。予備の糒があるにして厳しい状況になる。道半ばで食事が尽きれば、行くも、戻るも、留まるも地獄への道。糒はあくまで最後の最後の手段。万一の露営に”本気”で取り組んだ福島大尉は当然そう考えた、であろう。

福島大尉は26日泊の三本木の旅館に依頼していたに違いない。増澤で給食依頼をしないことを見越し、長内文次郎宅に行き着けない場合も考え、余分の握り飯等の手配をしていた。更にどうしても足りないと考える者には寶丹・精心丹の購入等も認めたであろう。

二つ目、出発前の点検

27日の出発前、”ただ一つ、携行糧食の点検をしている。十分に携行している”事を確認してリーダーとしての危惧を取り除いた。

「田代は今回の行軍中に於て宿営に最も困難なるべしと最初より覚悟せしを以て増澤を発するに臨み予備糧食の点検を行ひしに各人十分の用意ありたり(以下略)」(八甲田山雪中行軍実施報告第11雪中露営の状態)

三つ目、出発前のただ一つの点検に見るリーダー福島大尉の親心

”自信と余裕”があったから、増澤での給食依頼をしなかった。その代わりに三本木で増加して携行する食料の手配をした。その最後の命の綱のお蔭で、最悪の露営とその後の予想を越える厳しさの八甲田山を越え田茂木野に無事到着出来た。危険の淵まで沈みかけて、尚一歩踏み留まる事が出来た。地に足をつけて現状を掴み、先を見て手を打つ力、想像力の確かさが伝わってくる。

予備糧食の点検は最終準備の表徴であった。予備糧食携行の実行状況の確認にとどまらず準備万端の仕上げといざ出陣の気勢を挙げる狙いがあった。寧ろ隊員の最終準備について、指示通りの実行を信じて疑わなかったであろうから、予備糧食の十分な準備を確認し、これが出来ていれば他はすべて大丈夫だ自信を持って行こう!の意味合いもあった、と思う。

出発前に行ったただ1項目の点検には2つのの狙いがあった。1つ、予備糧食の重要性を強調・指導する。2つ、『一事が万事』、これが出来ていれば他は押して知るべしを強調・指導する。

狙いの前者には隊員の身を思う親心が、後者には細かい指導をしなくても要点の指導だけで任せられる隊員、非常の困難を共にする仲間への信頼感が感じられる。

この稿終わり
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八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその六 中央山脈越え、リーダーの仕向けを思う [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート2]

始めに

八甲田山雪中行軍実施報告冒頭で福島大尉は今までの研究作業を紹介し、以上述ぶる如く既往3年以前よりの実験及ひ研究調査は予をして命せられたる任務を果たす為めの決断に余裕あらしめたり。依て1月20日より演習を開始することに定む。」と述べている。

一つ、出発時に輝いた福島大尉の”自信と余裕”の根源

その”自信と余裕”の根源には、2度に亘る烈風防雪下に自ら選んだ前人未到で画期的な経験があった。①露営演習では氷点下摂氏12度の吹雪下で火気を使わず現地の雪で寒風から隊員を守る施設を作り露営を行った。②岩木山雪中山強行軍では氷点下摂氏8度の吹雪・深雪下の50km山岳通過(第2部隊)と向かい風や横殴りの強風・吹雪を受けての海岸平地100km積雪地行軍(第1部隊)を行った。この経験で得た自信が今回のビジョンー構想ー計画・見積もりー準備を一貫させた足取りを確かなものとし、これから挑む更なる前人未到の連続山岳通過、新たな未知に対する余裕となった。

二つ、自信と余裕の発現

一つ目、視点

愈々行軍出発である。今回の場面は出発から三本木まで、中央山脈越えの行程である。弘前~小国28km、小国~切明6km、切明~#1難所~十和田16km、十和田~#2難所~宇樽部18km、宇樽部~#3難所~金ケ澤24km、金ヶ澤~三本木28km、三本木~増沢14km。

特性は①最初の山岳通過。②連山地。③村落の点在。④3つの難所、#1(十和田山)・#2(十和田湖断崖道)・#3難所(犬吠峠)。⑤冬季は地方人の通行が全く絶え、軍としては昨夏偵察・調査を行ったが冬は全くの生地である。

本行程に於ける注目点は2つある。1つ、#1~#3の難所、特に#2十和田湖断崖道の無事通過の真相。もう一つ、八甲田山を手繰り寄せた今を勝ち抜き、次に備える福島大尉のリーダー力である。

中央山脈越えでの”自信と余裕”の発現は以下の5つのキーワードで語られる。①馴致②先憂後楽③次に備える④不退転⑤疲労回復。以下実行面でのリーダー福島大尉の在り様を掘り下げたい。以下本稿はブログ「非常の困難を思う」(その1からその5)に対応させている。

二つ目、馴致

”自信と余裕”は先ず、馴致となって表れた。その狙いは10日間に及ぶ連続長期山岳通過と最初の中央山脈越えへの導入を円滑にする為、物と体と心を馴れさせることにあった。この行程は昨年夏に地図作りや偵察・調査を行って予備知識はあったが冬季は全くの生地であった。

馴致期間として、3つの難所通過の里程を夫々前後の村落所在地で区切り、それを基準として、出発から2日間を充てた。楽な行程を組み徐々に山の雪道や寒気・寒風に体を慣らさせると共に危険見積りなどで予想していた行軍要領・防寒要領などを現地の気象条件などに照らし、違いを確認しつつ適合させた。軍靴は3日目から全員藁沓に変え深雪や不測の長時間停止に備えさせた。宿舎では休養と共に服装・装具の不具合・手入れをし、洗濯・乾燥・日々の体の手入れ等を確実に行うよう習性化した。

三つ目、先憂後楽

落伍者を絶対に出さない強い気持で危険見積りを行い、注意事項や心得を徹底した、直接・間接の指導や自発学習等を組み合わせた。準備間の福島大尉の本気が先ず将校・見習い士官、次いで下士官・兵と伝わり、その後の吸収を早く確実にさせた。3つの難所が続く現場で福島大尉始め将校は先頭に立って細心に行動した。負けじと隊員も行動した。 十和田湖崖道を無事通過し終えて「若し一歩を誤れば千仞の淵に沈む然るに此積雪を冒し無事此地点を通過し得たるは演習員各自の注意深かりし為めならん」と手記に記している。十和田山(岩嶽森)や犬吠峠の難所通過も同じ感想であった、ろう。最も心を砕いた難所で隊員に注文通りの行動をさせた。リーダーとして準備間に先憂し実行では後楽した。

四つ目、次に備える

今に一杯一杯であれば多分次に備えるはない。これも”自信と余裕”から生まれた産物。2日目(21日)の琵琶平行進は一面の雪の荒野、目標物のない平坦な台地上の経験であった。後の八甲田山入口の田代台での雪中行軍を想起させた。その内容は目標識別に苦しみ、目的地に行き着かない、やむを得ない露営の最悪事態であった。次への問題意識があるから今の琵琶平で見えたものがあった。田代台は延々18kmに亘って、目標地物がないのでどこに向かっているのか、現在位置もわからない行軍が続く。吹き溜まりや崖があってもわからない、道筋を外れたら転落・陥没だ。行進が渋滞する、長径が伸びる、指揮掌握が困難。八甲田山は厳しい気象で有名だ。格好の予行であり現地教育であったろう。

6日目(25日)、三本木で落伍者1名を原隊復帰させた。脚気の為前後の見込みがないから、であった。様子を見つつ同行する案もあったかもしれない。しかし人家を離れた場所での発生は処置に窮し、全体を危殆に陥れると判断した。後の災いを断つ決断であった。

五つ目、不退転

予想を超える大寒波の中で出発の断を下した。”自信と余裕”が無ければ出来ない対応である。
 
4日目の夜(23日)夜半、十和田湖畔、宇樽部に大寒波・暴風雪が襲来した。隊員は開拓部落の粗末な家の土間で薪で暖を採り蓆を夜具代わりに、先行きに言い知れぬ不安を感じ、まんじりともせず過ごした。この時福島大尉はたとえ土間であっても屋根の下、暖もある。村落露営(舎営)のお蔭で予想外に対応出来た。先行きの手ごたえを感じ、己の先見の明を秘かに讃えたに違いない。

翌日も引き続き大寒波で暴風雪、今日の行軍は中止と誰もが思った。しかし、福島大尉は不退転の覚悟で出発を命じた。貧しい村落に居続けるわけには行かない事情があったにしても、即断である。今までの積み上げを信じて何時もと同じように、午前6時30分に出発し、#3難所犬吠峠に上った。峠上は氷点下摂氏16度、寒すぎて休憩や食事も出来ない、水筒や米飯も凍りついた、ラッパも凍りついて吹奏出来ない等挑んだからこその貴重な体験をした。

六つ目、疲労回復

次の八甲田山を見据え、余裕ある行程を当初から組んだことが功を奏した。

3日目(22日)からは3日連続の難所越え、而も23日夜は宇樽部部落泊、大寒波襲来で眠れない一夜、土間で寝た事もあり睡眠不足のまま、暴風雪の中翌24日、氷点下摂氏16度の#3難所犬吠峠越えての山道24km行軍、24日夜金ヶ澤での舎営は疲労を回復しきれない隊員も多かったであろう。6日目(25日)は三本木までの28km、疲労を感じない行程と大?都市三本木の旅館で休養を十分にとり、全員完全に疲労を回復した。

三つ、リーダー福島大尉の仕向けを思う

”自信と余裕”から産まれた5つのキーワード、馴致・先憂後楽・次に備える・不退転・疲労回復は生地である冬季中央山脈越えに於いて、今《中央山脈越え》を勝ち抜き次《八甲田山越え》に備える”リーダーの仕向け”であった。

3つの難所が連続する中央山脈とそのあとに控える難所八甲田山越えの成否は究極的に隊員の沈着・細心の行動につきる。従って仕向けで期待するのは自ら沈着・細心に行動出来るようにする事であった。

この稿終わりく
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