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八甲田山への道のりーその四扉を開いた下士候補生夏期強行軍(二)立見師団長の批評に曙光を見た福島大尉 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のり]


一つ、批評原文

下士候補生夏期強行軍実施報告には明治三十四年九月十八日点検畢 陸軍中将 立見 尚文とあり、末尾に師団長批評がある。
「小休止毎一時を以てする実験上に於いて其の適当なるを証するに足る冬季に在っては如何研究を要す。此強行軍以て用ゆべきを示すに足る感服々々 明治三十四年九月十八日 陸軍中将 立見 尚文」 
(すべて朱筆)

二つ、気になる点

師団長の批評があるのみで大隊長(統裁官(監督):門司少佐)、連隊長の批評はない。師団長批評はなくても連隊長批評はあるはず。どうして? 何故師団長批評だけ? 遺されている資料では手がかりが無さ過ぎて、想像が働かない。 二人の交流に関する大事なポイントが絡んでいるのではないかと思うと余計知りたくなる。しかし、ここがポイントではない。批評の内容が問題なのだ。

三つ、立見師団長からの二つのメッセージ

一つ目、行軍の休憩について「福島大尉の努力と成果を評価」

福島大尉は下士候補生岩木山雪中強行軍実施報告第10雪中行軍の休憩の項で(要旨抜粋)「尋常地の行軍において仏・露両国は毎1時毎の休憩、独国は毎2時毎の休憩、我が国は独国と同じ、毎2時毎の休憩を採っている。今回の雪中行軍では積雪の行進に及ぼす利害、時間と労力の関係等を考慮し、毎1時半の小休憩を予定したが、体力の消耗でその通りできなかった事が多かった。総合的に考えると毎1時半の休憩は適当と認む、休憩時間は10分間を超えないを可とす。」と述べている。野外要務令219項では暖地を想定し「行程の遠近と天候の善悪とに応じて1回若しくは数回の休憩を為すを要す若し(略)数回なる時は概ね毎2時に於いてするを適当とす(略)」とある。

しかし同報告研究せし事項の要旨21項では「雪中行軍に在っては短時間、少時の休憩を必要とす」と書くにとどめている。雪中行軍の小休憩、全軍の行動標準としては未だ未だ余地あり、と考えたのであろう。

今回の夏期強行軍での休憩に関しては「歩兵の小休止は山路に在っては毎1時を以て適当とす(以下略)」と明快に述べている。細部は前回既述の為省略。

立見師団長はその経緯をよく承知したうえで「小休止毎一時を以てする実験上に於いて其の適当なるを証するに足る」と書いた。

二つ目、冬季行軍の実施について背中を押す。

そして続く、「冬季に在っては如何研究を要す。此強行軍以て用ゆべきを示すに足る感服々々」。本当に良くやってくれた!夏期強行軍を行ったからこその成果だ!昨年岩木山雪中強行軍で貴兄の思いが残った事項(積み残し)を再度(冬季で)試す必要があると思うぞ。(やってみるか?)  きっとやってくれると信じているぞ!

四つ、扉が開き、曙光が見えた!

之を目にした福島大尉には扉が開いて曙光が目に飛び込んできた。その中に岩木山雪中強行軍でやり残したー長途雪中行軍、八甲田山や中央山地強行軍に任ずる部隊の姿が浮かぶ。より厳しい場で一連の実験の仕上げだ!冬季行動標準を確立するぞ! 第八師団の名誉も揚げてやるぞ!

終わりにー師団長室での事

この日(明治34年9月18日)師団長に呼ばれた福島大尉は事前に副官から実施報告を渡され、点検畢に目を通し、師団長室をノックした。師団長からは今回強行軍の労いと対露冬季戦行動の実験に非常に期待している旨の言葉を頂き、福島大尉は一連の実験を仕上げ、行動標準や戦備の度の完全を期す為には長途行軍ー中央山脈や八甲田山麓(山岳)の連続踏破等の厳しい場に挑むことが必要であると力説し、師団長も(内心でそこまで考えているのか 流石は福島大尉と舌を巻き)大変乗り気。構想の具体化(計画)を心待ちにし、後刻仰指に伺うこととなった。

本シリーズ終わり
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八甲田山への道のりーその四 扉を開いた下士候補生夏期強行軍(一)真の狙い [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のり]


始めに

本行軍は一連の研究演習や実験行軍の最後であり、八甲田山雪中行軍の扉を拓いた大きな節目であった。その扉はどのように叩かれ、どのように開かれたのか、を思う。
以下本シリーズは主として、歩兵第三十一連隊下士候補生夏期強行軍実施報告(以下報告夏期強行軍))による。

一つ、行軍の概要

一つ目、目的

当連隊で第三年度教育中の長期伍長をして長途行軍に慣熟せしめ艱苦欠乏に耐え克つ気力を養成せしむる。

二つ目、目的中に懐抱している実施事項

①夏期に於て軍隊に要求し得べき最大限の行軍力を試みる事。②東北地方の兵は厳冬冱寒に於ける諸種の運動に耐え得ると雖も盛夏炎熱の時に於いては如何に在る乎を試みる事。③中央山脈を横断して弘前より五戸に至る捷路の偵察並に曾道路図の調製を成す事。

三つ目、編成

少佐一名(統裁官:門司少佐)、大尉一名(教官福島大尉)、少尉一名(小隊長)、看護長一名、伍長二十三名、上等兵一名(嚮導)、ラッパ手二名。総計三十名。

四つ目、概要

明治34年7月26日午前2時弘前屯営出発、十和田村(26日泊)、五戸町(27日泊)、野辺地町(28日泊)、青森市(29日泊)を経て7月30日午後9時弘前着。4泊5日実働66時間で行程66里余。患者なし。気温最高華氏92度(摂氏33度)前後、最低華氏72度(摂氏22度)前後。昼食のほか間食午後1回、休憩概ね50分で10分。

五つ目、細部行程

第1日(26日)、実働12時45分・山路13里半。第2日(27日)、実働16時30分・山路17里半。第3日(28日)実働13時20分・国道12里余。第4日(29日)、実働10時55分・国道11里半。第5日(30日)、実働12時30分・国道12里。 

二つ、福島大尉が確かめ、声を大にして言いたかった事所見を拾う

①山地と雖も歩兵は10里の行程を数日連続行進することを得。特別の場合は1日に15里以上の行軍をし尚十分の戦闘力を保持できる。②東北地方の兵は盛夏炎熱の時に於いても、亦厳冬冱寒の時に於いても労働に耐え得る強健さを持つ。 

従って、一番確かめたかった事は厳冬冱寒に引き続き、今回の盛夏炎熱の時に於いても立派に耐え、戦闘力を保持した下士を有する第八師団は日本一精強である。これを声を大にして言いたかった。この事で第八師団の士気を鼓舞し、名誉心を高め、更なる一段高く厳しい挑戦(八甲田山?)に挑む足がかりにしたい。精強第八師団にできない事はない。

三つ、その先への眼差し

一つ目、再度冬季で確かめたい所見を拾う

①夏季は夜間行軍を以て炎熱を避ける最良の手段となす又日の出前の早発は害少なしと認む。然れども連山地の夜行は断崖絶壁等多く特に注意を要す。②夏季に於いても亦冬季の如く強行軍に於いては食欲を増進すること著大なり。山地行軍に於いては4時或いは5時毎に喫食せしめ1日4回を適当とする。③歩兵の小休止は山路に在っては毎1時を以て適当とす。毎1時30分乃至毎2時の小休止は却って疲労の度を増す。

従って、この所見からはこれで完結した、との福島大尉の思いは伝わってこない。寧ろ再度確かめたい、の思いが伝わってくる。連山地の夜行における断崖絶壁通過の危険性。山地強行軍における著大な食欲増進、1日4回喫食。歩兵の小休止は山路、1時毎等の可否・適否について再度冬季で確かめたい。仕上げの冬季行軍が必要だ。

二つ目、冬季行軍を何処で?所見を拾う

①弘前~五戸間の中央山脈は夏期は勿論、冬季積雪の際においても歩兵は行進し得る。十和田湖の周囲は困難で冬季は尚其の困難を増す。②唐竹より戸来に至る別紙10葉の道路図は約20里の連山地、隊伍と共に行進しつつ20余時間に実測せし者なり(略)

眼差しが冬季積雪の際の中央山地に向けられていたことは明らかである。夏季に偵察することでその先の展望が開ける。又「(略)其地区に未だ測図せる地方なる時は師団長は部下の士官、下士官をして測図せしめ而して之を製版することも亦師団に於いて行ふへし(略)」(野外要務令第2部第6編地図及び進呈資料第1章第138項)を準拠に地図作成が行われた。地図作成は”眼差し”がある強さを持っていることを物語っている。強い眼差しは意図・企図の強さの表れである。

三つ、福島大尉の心の奥深く潜む真の狙い

福島大尉は下士の重要性を深く認識し、任官後下士候補生も含めすべてを打ち込んで教育を実践してきた。その資質を伸ばすためには厳しく困難な訓練が必須と考えていた。下士候補生特に3年度の長期伍長となると粒揃い、気力・体力が一番充実している輩である。福島大尉の考える冬季行動標準作りのための冒険的要素を含む、しかも失敗が許されない困難な実験を行うには最適の存在であった。 連隊の教育委員任命は願ってもない機会であった。

夏期強行軍の真の狙いは八甲田山・中央山脈を通過する冬季長途行軍、山岳・連続山地強行軍への扉を叩く事であった。

補足ー何故夏期強行軍に八甲田山麓の山岳踏破行程は入ってないのか?を思う

とは言え夏季強行軍では、八甲田山麓踏偵察は行われていない。冬季踏破を強く思っていたのなら優先して行って然るべきではないか?

鍵は本稿冒頭の福島大尉が掲げた”目的”と目的の中に”懐抱”する実施事項という表現にある。福島大尉は下士候補生教育の目的達成が一番の狙い。その中で実験をし、あるいは先への布石をうつべきと考えた。具体的には長途強行軍の行程の組み立てを優先して中央山脈横断行程を組み入れた。夏季強行軍で八甲田山麓踏破と中央山脈横断の2つ同時行うことは下士候補教育として無理がある。冬季行軍偵察が主となり好ましくない。左回りの中央山脈横断を重視し、偵察・地図作成・調査を周到に行う。岩木山雪中強行軍の実験を踏まえ、特技の地理学的観察力を加えて冬季の可否を判断する。その判断から推測して八甲田山麓の可否も行う。

それだけの手を打って未知の部分が残ったとしても考え得る限りの準備を周到にし尽くして断行ー斃れて後已む覚悟と注意心があれば八甲田山麓踏破は出来る、やるべし。要するに優先度は下げざるを得なかったが八甲田山への思いは強かった。

この稿終わり
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八甲田山への道のりーその三 山場の岩木山雪中強行軍(六)明治33年2月野外要務令改正と福島大尉 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のり]


始めに

福島大尉は岩木山雪中強行軍の実施報告中に二回野外要務令改正について触れている。この改正と明治33年2月に行った雪中露営演習との関係の有無等が気になった。靖国神社偕行文庫の白石 博司氏に急遽用向きを相談(10月16日))し、翌朝伺った。白石氏にはいつもお世話になっているが今回も関係資料を準備して頂いていた。恐縮しつつ、挨拶もそこそこに興味津々、資料閲覧に没入した。

改正内容で注目したのは冬期行動・作戦に関することが初めて二か所設けられたこと。福島大尉が雪中露営演習実施報告の中で炎暑に密で寒について(記述が)一つだにないのは何事かと烈しく批判している状態から初めて寒季について踏み込んだことになる。

一つ、新設の内容

1つ目、第5編行軍209項

行軍する軍隊の大患となすものは炎熱と冱寒なり(略)冱寒の際に在りては乗馬兵は殊に困難を感じ之が為め僅少の時間に於いて多数の列兵を減ずることあり宜しく深く予防法に注意すべし、(略)冱寒に際し最も恐るべきは凍死凍傷なり而して其予防法は野外に長く駐立せしめす常に空腹ならしめさるに在り為し得れば休止の際湯茶を給し又被服湿潤する時は成るべく速やかに之を交換せしむへし但し身体湿潤の時若しくは大いに凍痛を感じる時直接に火熱に触れしむ可らず又屋外の睡眠と火酒及び熱物を飲食するを厳禁すへく且つ常に手足耳鼻就中足尖を凍傷に罹らしめさるに注意するを緊要とす

二つ目、第4章露営通則第262項

(略)若し冱寒の季節に際し露営を為す時は殊に防寒の法に顧慮するを要す之が為め勉めて種々の木材樹枝等を用ひて急造掩蔽を造り或いは土質に依り為し得れば土地を掘開して座床を低ふし其土壌を周囲に積み以て寒気を防ぐを可とす縦ひ天幕を用ゆる時と雖も土石若しくは雪を以て囲壁を築くは防寒の為め特に必要のことなりとす

二つ、改正理由

偕行社記事第237号(明治33年3月第5巻)の「野外要務令改正の理由」によれば
209項について「現行野外要務令に於いては唯炎熱のみを以て行軍兵の大患と為せり然るに27,28年戦役の実験に依り冱寒も亦恐るへきものたるを知る故に其予防法に関する注意を加えたり」

262の第5項について「冱寒の季節に際して露営を為すにあたり顧慮すへき要件を加えたり是れ27,28年戦役の実験に依り極めて緊要の事たるを認めたればなり」 

三つ、立見師団長や福島大尉の思い

改正の性格は日清戦役の教訓を反映したものであるが行軍及び露営の注意事項や要件という大まかなものであった。野外要務令 緒言には「陣中勤務の実施方法について勉めて余地を残しているので濫りに細則等を設けて範囲を縮減せず応用を講究せよ」とある。其の主旨に沿った改正であろう。

しかし、戦役から5年後の改正、それまで冱寒についての規定はなく、日清戦役で大陸の寒気について深刻な体験をした立見師団長や福島大尉はどのように感じたであろうか?端的に言う、今回の改正を含めても余地がありすぎることに違和感を感じていた。

四つ、福島大尉は冬季行動の標準が必要と考えた

福島大尉は新設第八師団(明治31年10月)自ら及び全軍の錬成に資する為、冬季行動標準が必要だと感じていた。何故なら対露冬季戦に於いて、我の10倍の兵力を有する露軍に対し、我は雪国衛戍師団のみならず暖国の師団も戦う総力戦としない限り勝ち目はない。ところが雪国衛戍師団しか充実した冬季訓練は出来ない。だから第八師団が冬季行動標準を確立しその訓練の要領や標準を暖国師団に広めなければならない、と考えた。

雪中露営や岩木山雪中強行軍での実験・研究項目のほとんどは野外要務令を読み込んで抽出している。炎暑を念頭に置いた項目に寒気ならではの様相を加味して・・・。そして外国典令を比較し何れが是か非かを戦史・格言なども合わせ考究した。野外要務令に忠実・真摯であるからこそ、「余地を保持し応用に勉むべし」は十分理解しながらも行動の標準が必要との見解に至った。

五つ、野外要務令に目を通して分かった雪中露営演習の意義

野外要務令改正と雪中露営演習の関係は改正点を読み込む限り関係はない。しかし福島大尉が遠く弘前の地で陸軍中枢と同じ問題意識を持ち、寧ろ先行して考え、行動を起こし、問題提起したことの意味は大きい。前述のように雪中露営演習の実施報告は天皇陛下に上奏され、軍事雑誌にも掲載された。当該実施報告は全文が偕行社記事第239号(明治33年4月第7巻)に掲載された。

「教育総監は受領せし各演習実施報告及び記事を調査し該年度に於ける軍隊教育の結果を天皇に奏上し且つ之を陸軍大臣及び参謀長に移す」(野外要務令第2部第6編第2章進呈書類第149項)とある。将に雪中露営演習は教育総監が推奨した、時宜に適う極めて価値の高いものであった。

終わりにー福島大尉と立見師団長

福島大尉の見解は立見師団長の見解でもあった。一中隊長に過ぎない福島大尉ではあったが、彼は師団長の向かうべきところを察知し、師団内将校の先駆けとして常に困難を伴う訓練を発意し挑んだ。師団長はその姿勢や行動力に全幅の信頼を寄せ、天皇陛下奏上や広く成果を周知させる事で福島大尉の国家・第8師団への忠誠と未知に挑む行動に応えた。同時に他の将校へ刺激を与え、師団全般の練度向上を諮った。

本シリーズ終わり
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八甲田山への道のりーその三 山場の岩木山雪中強行軍(五)リーダー福島大尉の実行力の特徴を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のり]

始めに

人を動かす力について述べた所で、触れたい点が出てきた。今までの考究から私の中で次第に明らかになったリーダー福島大尉ならではの二つの特徴についてである。 
 
一つ、リーダーとして多様な顔(力)をバランス良く持つ

私は「リーダーには4つの顔(力)ー指揮者(力)、管理者(力)、教育者(力)、統御者(力)があり、それらを総合したものがリーダー(統率者)」である と考える。

簡略化してそのイメージを述べると、指揮者は部隊の運用や行動を決断し命令する。決断者であり強制者。管理者は部隊や行動などをあるべき姿に到達させるためより良い状態に改善する。教育者は隊員や部隊をあるべき姿に到達させるため教え・鍛える。統御者はついて行こう・従おうという気にさせる。以上をバランス良く保持し総合してリーダーは組織・部隊を統べ率いる。 

今回福島大尉は指揮者ではない、小隊長は寺田見習士官であり、その監督者である。従って立場は寺田見習士官の小隊長教育教官であり、下士候補生教育の教官である。行軍中、寺田見習士官には”見習い”であるが故に、無理な判断や命令は教育上の指示として示す。教官であると同時に実質的な指揮者である。実験や雪中行動の管理者でもあるし、心から従わせる統御者でもある。

例えば百澤で根の山部落をでて昏倒者が発生し嚮導をつけて帰還させ、主力は行軍続行の決心を遅滞なく行った。又嶽村に向かう際嚮導から指示された方向を頼りに高低を判断し進路を択んだのは決断する指揮者の顔が強く出たリーダーである。松代村で隊員が疲労困憊した場面で隊員を立ち上がらせたのは、統御者としての顔が強く出たリーダーであり、最終的に強行軍を成功させたのは各顔(力)が総合されたリーダーであったからと言える。

二つ、内面のポテンシャルの高さと強い行動力及び両者をつなぐ気概

迫りくる国難対露戦、陸軍全体の冬季行動の標準確立は雪国衛戍第8師団の義務であると考え、それを果たす為に一身を投げ出す覚悟と天皇陛下・国家・陸軍に捧げる真心《赤心》を持って、苛烈な岩木山雪中強行軍をやりたいと思い、やるべしと決意し、構想を具体化した。その内面のポテンシャルは高い。又自ら発意し、とことんの準備で予想外の困難に挑む、やりきる行動面の強さも著しい。高い内面と強い行動が彼の特徴である。更に、高いレベルの内面を爆発させ強い行動に転化させる起爆剤ともいうべきものが福島大尉にはある。己の信じる処をこの時と断行する、己を信じる力即ち気概である。

終わりに

この二つの特徴は軍人として自己を厳しく律して軍務や修養研鑽に励んだから得られた。特に志を高く持ち、そこに向って思いを練り、頭を練り、腹を練る。その過程を通して、指揮力、管理力、教育力、統御力を磨いてきたから、と言える。

この段階で、最澄の聖句「一偶から千里を照らす」、「能く行い、能く言い」の国宝としての輝きを福島大尉に感じるのは私一人であろうか。

この稿終わり
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八甲田山への道のりーその三 山場の岩木山雪中強行軍(四)福島大尉の人を動かす力 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のり]


始めに

福島大尉が急遽村人に嚮導を頼み、村人は困惑するが再三の懇願でついには応諾する。それが三度も繰り返される。又隊員が疲労困憊、気持ちも殆ど切れかけた状態であるにも関わらず、福島大尉の説得で立ち上がる。ここは私が一番痺れた場面である。何故?を思う。

一つ、嚮導を懇諭した三つの場面

嚮導を求めたのは、最初が岩木山越えにかかってすぐの百澤村を出てほどなく迷い込んだ『根の山』部落、次はやっとの思いでたどり着いた本来の進路上の『嶽村』、三番目は立ち往生寸前の鍋河岸で救助され一息ついた『松代村』。

途中の時間経過(注:平均速度は概略・目安)
弘前屯営午前3時発、百澤村着同7時・距離12km(平均速度3km/時間)。~根の山着9時30分・距離6km(2.4km/時間)。~嶽村着午後1時40分・距離6km(1.5km/時間)。~繁代村着同3時50分・距離4km(2km/時間)。~松代村着午後8時40分・距離5.5km(1.1km/時間)。~桐沢村着午前零時30分・距離5km(1.2km/時間)。~長間瀬村着同2時10分・距離4km(2.6km/時間)。~中村着同3時50分・距離4km(平均1.6km/時間)。~鰺ヶ沢着同5時30分・距離3km(2km/時間)。

土地の人は何れも「本朝弘前を発して岩木山脈を横断する・・の話に唖然。本年中未だ曾って非ざる至悪の天候、山谷は危険で前進不可。百澤に引き返した方が良い(根の山で)、ここ(嶽村又は松代村)に一泊するが良い。』と言う。福島大尉は行軍は重要な使命を帯びたものであり鰺ヶ沢には翌朝までに行き着かなければならない事、協力は地方人民の義務である事等を繰り返し説き画餅に帰さぬよう慇懃に嚮導を求めた。終には舎主が困却し、骨を折ってくれるに至った。

二つ、松代村で疲労困憊した隊員を発奮させる場面

昏倒者2名を救助し松代村到着は午後8時40分。部隊の元気は頓に衰え、夕食を喫し身体を暖めるも体力回復せず。多くは鰺ヶ沢に達し得ざるを述べ、其の儘睡魔に襲われるものあり。

福島大尉は話しかける。これから先は降傾斜で里道の痕跡があるはずだから楽になる。地図によれば半里や一里ゆく間には家や集落が散在するので若し患者が発生しても救助は容易だ。又残りは三里強に過ぎない、ここで強行軍を止めたら人は我らをなんというだろうか。折角ここまで頑張って来たんだ九仞の功を一気に欠くべからず。(疲労者を励まし睡眠しつつあるものを起こし)鰺ヶ沢には皆で行こう、行くも倒れるも一緒だ。

患者と共に残す看護手から薬剤を受け取り、部隊を整列させ、奨励をなし、注意を与え、出発す。

三つ、村人や隊員は何故?動いたのか

とんでもないことと、軍隊の行動に唖然とした村人が何故嚮導を応諾したのか?何故疲労困憊し、命令で律することが及ばないといっても過言ではない隊員が再び立ち上がったのか?

一つ目、真心

強行軍の成功を真心で願い全力を尽くす。嚮導はどうしても必要だと真心から思う。疲労困憊の隊員に対しては 真心込めて連れてゆきたいと思う。これらの基本に自分に対する誠実さがある。即ち自分が知らない事は知らないと言い、「冒険が過ぎたか』と自問する謙虚さがある。その上でその場しのぎではない真心から発した言葉の重みがある。包み込む力があり、応えたいとの気持ちにさせる。

二つ目、率先陣頭

嚮導の懇諭を自ら行った事。根の山を過ぎて隊員が昏倒した時嚮導を付して引き換えさせると共に主力は行軍続行の決断を遅滞なく行った、隊員保護を優先し主力は自ら先導する決心を即行った事。嚮導の指示した方向を予測し、地形の高低を自ら判断しながら先頭に立って嶽村を目指した事。鍋河岸では嚮導一名を休養依頼のため先行せた事。この知らせにより松代村民の救助が進退窮まった部隊の苦境を救った。

常に部隊・隊員と共にあり、苦しい局面にひるむことなく、心・智・身で先頭に立ち続けた。率先陣頭は苦しい時にこそ人の心に伝わり、部下にこの人について行く、ついて行けば間違いないと思わせる。

三つ目、強さ

福島大尉には強さがある。 強行軍を必ずやり遂げるという強い気持ちである。本強行軍を国家・全軍のために役立てんとする使命感、発意者・主務者としての責任感、八師団の名誉を担っている自負心、自分がやらねばという気概等のすべてに強さを感じる。 福島大尉自身が昏瞑に陥り鍋河岸で転落し、寺田見習士官に救助された。将校は弱みを見せてはならないというリーダー像に多分縛られていた当時の陸軍において、自分を隠さず頭を上げない隊員を励まし、連れて行こうとする。本物の強さがある。本物の強さは人に安心を与え、心を動かす。

四つ目、篤さ

下士候補生を全員強く・大きくしたい(成功させたい)という篤さ。根の山で昏倒した隊員に嚮導を付して引き返させた篤さ。折角得た嚮導を手放してまで隊員を思う篤さは自分の事のように隊員の心に深くしみいっていた。強行軍を発意しやり遂げる情熱。冬季研究の先駆けと部隊としての名誉を上げたいという篤さ等。篤さは人を熱くし、力を与える。

終わりに

今回強行軍で、当初福島大尉は候補生に困難に克つことを求めた。天は予想外の厳しい状況を与えより厳しい困難を候補生に強いた。同時に福島大尉にも厳しい困難に克つリーダーであるかを試した。福島大尉は行動力、人を動かす力を発揮して応えた。厳しい試練だったからこその輝きに真骨頂を見る思いだ。

何故?の要因を一つ挙げよ と言われれば真心。二つと言われれば真心と率先陣頭であると思う。四つの要因が絡み合っての事ではあるが、ぎりぎりの局面で人が心を動かす、この場合、ついて(一緒に)行こうと思わせるものは何かを真剣に考えさせられた。福島大尉は後世の我々に格好の材料を遺してくれている。

この稿終わり

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八甲田山への道のりーその三 山場の岩木山雪中強行軍(三)福島大尉のその先への思い [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のり]


始めに

報告書の中で、福島大尉の思いが先へ先へと向いている記述がある。決して今に満足せず、更なる高みを目指している。どのような高見に行き着く(収斂する)のか。思いを巡らしたい。それは四つある。夫々について述べたい。

一つ、長途行軍への思い

福島大尉は鰺ヶ沢から第二部隊も第一部隊と共に青森を目指す構想であったに違いない。福島大尉の気性では第二部隊だけ鰺ヶ澤止まりの計画を主務者として立てるはずがないと考える。ある程度の悪天候は予想しても十分の余裕を以て鰺ヶ沢に着けると判断していた節も伺える。ところが意に反して予想外の悪天候、意外の困難に遭遇し、既知の展開となった。それはそれで十分すぎる成果であるが・・・。

第一、第二部隊の分離、連携不良、短時日訓練等で思いが残った福島大尉は第二部隊に平地強行軍を加味したもの即ち複合した長途行軍を試したいと考えるようになった。

福島大尉は参加候補生に所見を提出させそれを観察している。

餅が良いか飯が良いかの質問に対し、餅を可とするもの48人、飯を可とすもの17名。餅「可」の理由①携帯に便②飯の如く凍凝せず、空腹をきたすことなくすぐ食べられる。これに対し福島大尉は「今回の如き1、2日の行軍に在っては固結せざるも長途行軍等に在っては固結し飯の凍凝よりも悪し」と述べている。

軍靴が良いか藁沓が良いかの質問に対し、軍靴を可とするもの35名、藁沓を可とするもの42名。結論として
「今回の行軍に在っては雪中露営の如き足部の冷却を感ぜざりし為雪靴の効用を十分に了知し得られざりし者の如し然れども多くの者は藁沓を可とせり」。

研究せし事項の要旨二十八では「冬季雪中行軍において山嶽通過には多量の予備の糧食携帯を要す。」と述べている。

以上から、長途行軍、雪中露営、山嶽通過などより厳しい場面を見据えた福島大尉の思いが伺える。岩木山強行軍を成功させ研究を進捗させた反面で思いが残った。その事で福島大尉の脳中には”次はこれ等を満たすところ例えば八甲田山”の思いが現実味を帯びて来た。

二つ、野外要務令改正提言への思い

研究せし事項要旨九で以下の様に述べ、改正提言の思いを明らかにしている。
野外要務令には炎熱及び冱寒の害を予防するの方法を規定せらるるも積雪の害を排除するの手段は之を応用に帰せらる。行軍に於いては度々縦隊の先頭を交替せしむるか又は旅次行軍に在っては排雪隊を設けるの必要あり。

この事の意味は深い。実際は嚮導の踏雪に任じる者の交代や隊の中の班(中隊毎)の行進順序の交代と休止・休憩や間食等を連動させている。これを踏まえての提言である。頻繁で小刻みな休止・休憩で体を冷やさない工夫やスムーズな踏雪(隊)の交代や間食等の工夫それに嚮導の活用の意も含まれている。福島大尉の創意工夫する心は凄いが、一部隊の”応用”で済まされる域ではない、との思いも伝わってくる。

三つ、たぎる冬季演習・行軍盛んなるべし、の思い

我が国は漸く昨明治33年2月野外要務令を改正し、冱寒に対する諸種の事項を精密にし以て冬季演習の必要を認められたり。要するに一層冬季演習に重きを置き寒気及び風雪に対し兵卒を保護し得べき方法を験知し吾人の責任を果さざるべからず。当弘前歩兵第三十一連隊は本州の東北端に位し冬期作戦研究に就いては実に先天的の義務を有す。
従って我らはその義務を必ず果たす。唯果たすだけではなく、この種(註 今回の強行軍を指す)の特別行軍に挑戦して、必ずや其の嚆矢となる、との”自負”と冬季研究の先頭を走り続ける”気概”を示している。

四つ、冬季演習や行軍は厳しい場を撰び厳しく行え、の思い

研究せし事項の要旨三十五に以下のように述べている。
冬季演習は頻繁に之を行うよりも施行の度を適宜に定め天候を択ぶこと緊要なり。如何となれば温和な日に施行する演習は毫も他の時季に於ける演習と異なる所なければなり。

この考えの背景には意外の困難を与え、予想外の実験をせざるを得ない状況に遭遇することで、本当にやるべき事が掴めるし掴まなければならない、がある。厳しい場を求め、厳しい状況に身を置かなければ、その為に周到に準備して臨まなければ何も得る事が出来ない。何も得ることが無い演習程つまらないものはない。福島大尉はそれを実践して来たし、これからもその覚悟でいる。

終わりに

以上、四つの思いは当然今までに実践してきたものである。その先は今までの延長線上にあって、八甲田山へ繋がる・・・。

この稿終わり
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八甲田山への道のりーその三山場の岩木山雪中強行軍(二)厳しい場だからこそ得られたものは? [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のり]

始めに

福島大尉は実施報告の中で『冬季行軍の至難なることは平時と戦時を問わない。その揆は同一で実に予想外にあり、今回の演習の暴風雪は意外の困難を与え、予想外の実験をすることとなった。しかし、却って希望する所にして暗に強行軍の価値を増大すると喜べり』と述べている。
その言葉通り、厳しい場を求め、挑んだからこそ得られた貴重な成果(教訓)のうち特徴的なものを挙げる。

一つ、嚮導の必要性目標識別の困難性

百澤より嶽村を目指したが一面の荒野と化した雪の高原で目標を失した。嶽村と思しき地点を目指したが根の山であった。そこで嚮導を懇諭する事再三、終諾。出発後6、700mと行かぬ間に2名遅滞、手当をしても一名は回復せず、昏倒。やむなく、遅疑せずに決断し、嚮導に患者を付し帰村させ手当と原隊への後送を依頼。主力は嚮導なしの行軍続行。

嚮導に指示された方向を予想し、高低を推測し進む。やっとの思いで嶽村につき、ここでも嚮導を懇諭する事再三。終に条件付きで2名応諾。河底への転落に細心の注意を要する鍋河岸で、昏瞑者2名発生、殆ど進退に窮したとき、松代村の村民が救援に駆け付けてくれた。休養協力依頼のため、先行させた嚮導一名の機転・知らせが命を救う端緒となった。

知見の纏め(研究せし事項の要旨十一)
未熟地に於いて飛雪中は道路並びに方向等に迷い安く殊に夜間は地形の識別困難であり、頗る嚮導の必要なことを感ぜり。嚮導の有効性は単に道案内にとどまらず、患者の救護、連絡、排雪等多岐であり尚複数がより有効である。

二つ、患者の発生・処置

第二部隊4名。処置に最も窮するのは人家がない、猛吹雪等の埋没、堆雪からの転落等最も危険な時。
第一部隊、五所川原1名、大釈迦3名、青森2名。到着後の患者発生であったため処置容易。帰隊後すぐ回復。

患者の原因は疲労、空腹による体温低下。間食をすべて食べ終わり、何も食べるものがない状態でほとんど発生。昼食・間食を終わった後に元気を回復したと観察している。多量の間食(2回分6合の餅)でも足りない所見もあり。携行糧食(昼食+間食)の重要性を示している。

「全部隊を通じ凍傷・感冒等患者なし」はこの暴風雪・非常の寒気・強行軍の疲労を考えると決して当たり前の成果ではない。弘前で育った下士候補生が身に着けていた防寒力、準備の周到、事前及び実施間の細心の指導・注意等がもたらしたもの、である。
福島大尉は防寒対策が通用する域にある証左、と先ず教育委員の立場を活用して精鋭下士候補生で試した事を秘かに誇らしく思ったであろう。

三つ、防寒外套不携帯

服装は「下士以下絨衣袴にして外套を着用」とし、防寒用外套並びに襦袢袴下は一切携帯していない。
何故か? 福島大尉は「行軍(だけで宿営をしない)の場合、如何なる風雪でも着用せず運動を継続できるが宿営等をなす場合には防寒用被服は実に必要である。」と考え、結局、本行軍は一切不携帯を通した。

暴風雪に長時間さらされる状況でも、着用しないことによる運動のし易さを重視し、自らの運動で熱を発し続けて防寒策とすることが可能である、を明らかにした。

四つ、藁靴の製作使用

東北地方で数百年昔から慣用された藁沓を当連隊の兵士に製造させ、使用した。使用法は春雪の際、軍靴の上に藁沓を穿ち或いは冱寒の際に軍靴を脱ぎ使用。

知見の纏め(研究せし事項の要旨三十四)
雪中行軍においては軍靴よりも藁沓を可なるものと認む、停止間は殊に宜し。地方人の知恵を吸収し、予め製作させた。使用は一律ではなく許可性、候補生の希望などを入れながらその効用を軍靴と共に検証した。軍靴の代用とまでは言えないが使用の方向性を明らかにした。

五つ、携行糧食

患者の発生・処置の項参照。仏国野外要務令「寒中の行軍に在っては口糧を増加するを要す、口糧は格外に疲労を軍隊に課せしむる場合又は寒気烈しき場合に給すべきものなり」。露国勤務令「寒中行軍の害を避くべき最良法は糧食を増加するにある」を参考にしこれに戦史・格言も引用・検討し強行軍の体験(実験)によって以下を得た。

知見の纏め(研究せし事項の要旨二十八)
冬季積雪の際に於ける山岳通過には予め多量の糧食を携帯するを要す、間々不慮の事変に遭遇し、或いは然らずも空腹を催すこと速やかなればなり。

六つ、先頭交代法

第二部隊の小隊長に任じた寺田見習士官は「先頭は歩々積雪膝を没して進むを以てその疲労頗る甚だし、後尾に至るに従いて漸次道は固まりて行進容易、先頭兵の疲労度は後方の五倍。」と述べその交代の必要を報告している。
福島大尉は仏国野外要務令「雪中行軍に在っては縦隊の先頭にある部隊を度々交替せしむべし」との規定は今回の演習に於いて吾人を益せること多し、積雪上を行進するには最も緊要にして知らざるべからざる規定と述べている。更に加えて昏倒するものは中央と先頭との間にあるものに多く、中央と後方の間にすくないとの観察をしている。仏国野外要務令を詳細に分析し体験(実験)を加味して知見を得ている。,

知見の纏め(研究せし事項の要旨九)
後述

七つ、疲労と休憩と睡眠の関係

光藤見習い医官は第一部隊について以下のように整理している。
一日目 行程10里、労働10時30分、休憩4時間、睡眠5時間、落伍者無し
二日目 行程15里強、労働17時間、休憩3時間、睡眠8時間、落伍者6名。 
二日間労働時間平均1日13時45分。

睡眠と休憩とは疲労の直接の回復者である、故に識者の「労働・休憩・睡眠時間を平等に1日三等分するのが適当」との言に基づき、1日17時間の労働と負担量3貫5百匁(約13kg)でわずか9%の落伍者であれば、十分の食糧と1日7時間以上の睡眠時間及び時々小休憩を与えれば1日12時間以上の労働に耐えうることを信ずる、との知見を明らかにしている。後(八甲田山)につながる知見である。

終わりにー岩木山雪中強行軍の意義

今回の雪中強行軍で問題にした事項は今後に研究を待つ事項もあるが、冬季行軍についてかなりの範囲をカバーし明らかにされた。岩木山雪中強行軍の意義はここにある。他のだれもが経験したことのない天候・気象下に強行軍するという苛烈さに身を置いた。勿論精鋭を撰び、周到な準備をして臨んだからこその、他の追随を許さない内容の濃さである。 この濃さは戦史、外国典令、格言、軍事学及び地方人の習慣等の調査研究と相まって得られた。

立見師団長が福島泰蔵碑碑文の中で岩木山・八甲田山を総して両次行軍と表現している意味がやっと理解できた。岩木山で明らかにした事項をもっと過酷な状況(八甲田山)で験して一連の研究・実験・演習を仕上げる。そういう意味なのだ。予行ー本番ではなく、本番ー拡充本番の関係か。

この稿終わり
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八甲田山への道のりーその三 山場の岩木山雪中強行軍(一)福島大尉一番のねらいは? [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のり]

始めにー八甲田山への道のりとは

最初から八甲田山は福島大尉の中で明確な目標としてあったわけではない。一連の実験演習等を、毎回予想を超える厳しい条件下にやり遂げ、次へ歩を進めた結果最後は八甲田山となった。挑戦・発意を積み上げて切り拓いた道のりである。言葉を換えればどこかで躓けば次はなかった厳しい道のりでもあった。この”岩木山”は道のりの中の大きな山場であった。
以下このシリーズは主として、『明治三十四年二月初旬下士候補生雪中強行軍実施報告』(以下報告岩木山)に依っている。

一つ、岩木山雪中強行軍の概要

明治34年2月弘前歩兵第三十一連隊で教育中の下士候補生を二個部隊に分け、第一部隊は(中隊編成)大隊長門司少佐監督の85名、第二部隊は(小隊編成)福島大尉監督の18名。企画は勿論福島大尉。

一つ目、目的

①弘前~鰺ヶ沢~青森約100Kmの積雪路上を行進するに要する行軍力の実験②軟雪の岩木山を横断し約50Kmの積雪山地を跋渉し得るや否の実験③前記①②に伴って冬期戦術の方法、軍隊保育上の関係などの研究④下士訓練

二つ目、第一部隊の行程全般

第一部隊は8日午前5時弘前発、岩木山東麓沿いの旧道を鰺ヶ沢へ、午後4時30分着。この日の行軍時間8時間、行程38km。翌9日午前2時30分出発、午後7時20分青森着。この日行軍時間14時間、行程62km。通算実働時間22時間で100km。

一番目、行軍の様相

積雪・平坦・道路上を終始悪天候に見舞われた行軍。天候:出発当初から青森到着まで、風勢猛烈やむことなく、降雪間断なく吹雪。

第一日は風雪共に正面にうけ、第二日は海沿いの経路で後方または側面から受ける。村落等の障蔽のない原野における風雪は一層激甚、これに抵抗して進むに非常の労力が必要。寒気もまた厳烈、常に零下4,5度内外を昇降。雪最浅0.9m、最深3m以上。

落伍者:五所川原1名、大釈迦3名、青森2名。原因疲労。

三つ目、第二部隊の行程全般

第二部隊は8日午前3時弘前発、百澤を経て岩木山脈を横断、翌午前5時30分鰺ヶ沢着。行軍時間21時40分、行程53km。当初の予想を大幅に超過。

一番目、行軍の様相

道路全く埋滅せる積雪山地の踏破。岩木山南面は緩傾斜、大雪のため一面の荒野となり目標識別困難。北面は急傾斜、澤・河谷沿いの積雪は底に深く肩部は張り出し、崩落状態。谷底・川への転落・埋没の危険に終始晒される。

天候:午前5時頃から風雪強まり、昨冬以来の大雪。百澤村に達する時、風雪さらに烈しく視界かすかに2、30m。午後1時には視界ゼロの暴雨風雪。緩急を伺って前進。午後5時頃よりは緩急もなく風雪一層獰猛、暗夜。午後11時より翌朝鰺ヶ沢着までの間、風雪寒気尚一層激甚。雪最深3m以上。気温山上零下8度。

落伍者:根の山1名、松代村2名。原因、疲労。

二番目、この強行軍を福島大尉はこう語る

各国の規定を調べると、冬季強行軍の行程の標準は24時間に50km、最大30時間に60kmである。これを超越して行軍力を要求しこれを実験するのが今回の主眼。

二つ、雪中強行軍としての評価ー実例と対比

2つの部隊の行軍成果を次の2例と比較している。1870年12月16日オルレアン付近の戦闘における普第9師団が33時間に約80kmを行軍した例、1895年露歴10月12日オデッサ駐屯の猟兵分遣隊が23時間に76km行軍(平時)した例。

上記にくらべて第一部隊の22時間で100km。第二部隊の21時40分で53km。行軍力は遥かに右にある。又地形・気象要因等による困苦欠乏に耐える力(耐乏力)も又遥かに右にある。

第一部隊は行軍距離において十分雪中強行軍、第二部隊は兵器及び背嚢を携帯する時間の長さ即ち疲労に堪え得た時間の長さ【ゴルツの格言を引用】の点で雪中強行軍と言える。自信を持つべしと断言している。

終わりにー一番確かめたかったところ

この”行軍力””耐乏力”は福島大尉が一番確かめたかったところ。列国に伍して右にある第八師団の行軍力を確認した。真の態勢はなった。次へも進める と確信を持ったに違いない。

この稿終わり
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八甲田山への道のりーその二 最初は雪中露営演習 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のり]


始めに

研究調査を行うなど満を持していた福島大尉は明治33年2月 温めていた考えを実行すべく最初の研究演習を行った。以下本稿は主として『明治三十三年二月六日於弘前市西南方原野雪中露営演習実施報告(以下報告露営)』に依っている。

一つ、雪中露営演習の概要

明治33年2月6日15時~7日5時半、弘前市西南方原野に於いて中隊長以下86名、3ヶ小隊編成で実施。開始時の寒気殊に劇しく、疾風肌を裂き、飛雪面を撲つ大吹雪、最低気温零下12℃。『一戴の中復再びすべからざる好時季を得たり』と訓示。各小隊等は午後19時30分各歩哨(単・複)所・各小隊哨所・中隊掩蔽等の構築を完了し、勤務・露営に移行、諸種の研究を実施。7日撤収帰営。

二つ、研究事項

①雪中露営法②雪中掩蔽物の構築③雪中武器装具の位置並びに携帯法(略)④雪中歩哨交代法並びにその時期(略)⑤雪中斥候の行進法並びにその時間(略)⑥雪中露営において兵卒寒気に耐え得るの程度。

以下紙数等の関係上①雪中露営法②雪中掩蔽物の構築⑥雪中露営において兵卒寒気に耐え得るの程度の三項目について考察する。

一つ目、雪中露営法(要約)

一番目、明らかにした事項

①氷雪で風雪を防ぐに足るべき掩蔽を構築し、その中で朔風列寒の夜を徹す。これが可能である。
②風雪が烈しい斜面にある哨所とそうでない斜面では気温の差異が著しい等隊員の人体及び歩哨などの服務への影響を具体的に明らかにした。
③今回の天候不良で露営設備の構築が日没後の作業となり、掩蔽の構築は容易ではなかった。是非とも昼間に雪塊を以て廠舎または掩蔽を構築し、露営への移行を円滑にすべきである。

二番目、改善の提案をした事項

雪中の露営法は野外要務令の原則を厳守することが困難であり多少の改正が必要である。例えば哨舎の構築法を歩兵工作教範中に加える事及び武器装具は必ず掩蔽内に置き銃器の携帯法は特別に規定をする事等。

二つ目、雪中掩蔽物の構築(要約)

一番目、明らかにした事項

①今回の演習では単に雪塊による作業と補助材料を僅かに用いて行う作業とを実験。哨舎・哨兵坑・下士哨は前者、小隊哨・全哨中隊の廠舎は後者。夫々の規格、所要器材・人数・時間を明らかにした。
②烈風白雪を飛ばすような場合には掩蓋よりも寧ろ側方の障屏が有効である。斜めに降下する雪片と降下し飛舞する蜜雪とを防ぎ、合わせて寒風を避ける効果があった。哨舎及び哨兵坑は唯積雪の掘開のみを以て作った。構築後の氷結で堅牢さを増すので大丈夫である。
③夜中12時からは炭火を許可する組とそうでない組に分けて実験。掩蔽内は外より3、4度寒さを減じ、炭火を使用する場合は6、7度減ず。又融雪の状況と歩行実験による強度確認も行った。炭火を用いるときは摂氏氷点下10度内外の気温でも歩兵は露営に耐えることが出来ると推究。

二番目、特に強調した事項

現地の雪塊等を利用する等平時最も困難な場合を予想しこの研究が必要である。何故なら戦時に際し、成るべく困難なる未知の事項に遭遇する事が無いようにする為である。

三つ目、雪中露営において兵卒寒気に耐え得るの程度(要約)

一番目、明らかにした事項

①標準尺度は零下12℃と定めた。露国では同温度以下では露営をなさじめさる規定がありそれを参考とした。これに照らし、兵卒はいかに疲労・苦痛・幾多の傷病者を生ずるやを験することを狙った。その結果、摂氏氷点下10度の気温において軍隊は尚能く寒気に耐えうることを(今後の訓練における)目標とすべし、と結論。
②露営間に隊員を眠らせないことが大問題である。作業を終わり、掩蔽内に入るや寒気の強きに係らず睡眠するものあり。風雪激甚の中での作業による疲労、被服の防寒不十分、感冒?が原因であると結論づけている。
③予想外に備える、不時の備えが緊要である。鬚髭眉毛皆氷結して白色、手套凝結、外套に付着した雪片は白粉のごとく氷結、上着の袖や袴の下部は氷りて板の如くであった。やむなく夜中12時より各掩蔽内に於いて少量の炭火を特別に許可。木炭は不時の用意として8貫目準備したものを配分した。

以上から二つの感想を持つ。

三つ、感想

一つ目、福島大尉の斬新さ・周到さ

一番目、側方の障屏掩蔽物を構築し、有効性を験した斬新さ

現場にあるものだけで施設を作り、露営出来ないか、という問題意識の斬新さに目を見張る思いである。又厳しい場を求め、周到に準備して臨んだからこそ得られた果実、との思いが強い。以前から構築研究を行い、規格・着手時期などの検討を自発的にしていたので、本演習のように厳しい状況、多分掩蓋用の小樹枝(径3~5cm長さ5m)・蓆などが暴風に吹き飛ばされるなどの状況に遭遇し、側方の障屏掩蔽物の有効性を検証する機会に恵まれた。準備を周到にして厳しさに挑む心に天がくれたプレゼントであった。

立見師団長は画期的と認め、偕行社記事に掲載し天覧の労を惜しまなかった。又友安旅団長は講評で『頗る綿密にして一も間然する処なし、雪国に於ける軍隊宿営上将来大いに参考となり其鴻益尠なからざるを認む』と述べている。

二番目、不時に備えた準備

経験したことのない寒気と猛吹雪に晒された隊員の衣服は凍りつき、疲労・凍傷がその極に達っしようとしていた。更に厳しさを増す寒気に、露営施設内とはいえこのままでは持たないと判断し、夜中12時より各掩蔽内に於いて、かねて準備した、少量の炭火を特別に許可した。この不時に備える指揮官の細心さが最悪事態を招かなかった。この点に関し、友安旅団長は講評で『又此演習に於て一の患者を生ぜざるは大尉の注意周到なる結果に外ならざるを信ず』と述べ、慰労として将校は一日間の休暇を下士は一日の休業を許可している。

二つ目、本演習の福島大尉にとっての意義

行軍で、風雪激しい場合でも最悪の露営が可能な方策を案出した。即ち、風雪烈しい場合に側方の障屏が露営施設として有効である、の結論の意味するところは大きい。行軍での最悪事態、露営、の方策を始めて見出だしたから、である。従来そこが怖くて思い切った行軍を控えていた軍隊の弊を除いたという意味がある。一連の演習、実験行軍を露営演習から始めた福島大尉の慧眼には敬服するばかり。

この稿終わり







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八甲田山への道のりーその一 基礎固めの中隊長勤務(三) [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のり]

始めに

明治三十年代前半、各部隊は競って雪中行軍を行った。言うまでもなく、福島大尉が中隊の基礎固めの教育訓練に専念している間である。福島大尉は他の部隊の雪中行軍をどのような思いで捉えていたのであろうか.

東奥日報社 斉藤武男(雅号碧山)は、明治34年3月『雪中行軍記』を表した。歩兵第三十一連隊が行った二つの雪中行軍の従軍記である。そのうちの一つを題材に斉藤武男の認識を切り口として、福島大尉の想いに繋げたい。

一つ、斉藤武男が従軍した雪中行軍の概要

明治34年2月19日~26日。歩兵第三十一連隊混成中隊総員226名。一日目:弘前屯営~本郷(19日泊)。二日目:~新城(20日泊)へ、零下八度、到着後夜間演習。三日目:~蟹田(21日泊)へ、激しい風浪雪下の海岸線。四日目:二手に別れ一隊は小国峠越え、別隊は海岸線を今別(22日泊)へ、波を被る難路。五日目:~今泉(24日泊)へ、一旦小国峠迄戻り、西行し今泉へ?山路人跡絶え、積雪2~3m、零下9度、郡界山上で岩木山を見る。六日目:~十三湖へ、溢水で氷上行軍の予定変更、岸沿いの進路。越水~十三間は夜行軍、深夜11時出発、翌日午前7時越水、更に西行し舞戸へ、午前11時着。中村経由嶽山道で帰営のところ疲労蓄積のため鯵ヶ沢旧街道経由26日帰営。(医譚第74号別刷1999年3月『明治30年代前半の歩兵連隊雪中行軍』小関 恒雄より抜粋)

二つ、斉藤武男の記述で三つの事が気になる

一つ目、馬渡中隊長の出発前の訓示に続く衛生上の注意を書きとめている事

①酒は8日間の行軍なれば控えよ②最も恐れるは飢えなり、出発前に満腹とせよ③冷えた時は直ぐ火に炙るな、先ず摩擦じご火に接する④毎日出発前、凍傷膏を塗る⑤河川渡渉する時、必ず跣、拭いたる後穿靴⑥投宿直ちに下着交換⑦水筒には沸騰セル湯茶を入れるべし

二つ目、『2月20日山路新城に向ふ』において風雪の激しい日に思いを寄せている事

此の日天寒くして摂氏零下8度に下れり、而かも五本松より山道を通過するに方たり山路人跡なく満眸一白 一路を認むること能はす(略)幾多の艱難を極め午後2時辛うじて新城に達するを得たり 此山路約四里なれとも斯く多くの時間を費やしたるは畢竟深雪路なき山中を行進したればなり若し風雪の激しい日ならは如何、到底通過すること能はす。山中に露営して非常の艱苦と戦はさるへからさるならん以って此日の行進難きを思ふへきなり(註 本郷出発午前6時)

三つ目、『2月22日今別に向ふ』において風雪甚だしき場合に思いを寄せている事

小国村を通過し山中に至れば本年は薄雪なるに拘らず、深雪は五尺少なくも三尺に下らず。仰ぎ登りて 山の半腹を通過する間は雪の為に路を没する処あり。断崖十丈の奇巌を過る際には歩脚を誤れば深渓の下に転落せんとする危険いふべからざる処あり(略)小国より三里の間人家なし。若し風雪甚だしきに遭はゝ 夫れ通過に如何なる困難を来たすへきか想ふに夜にいりても今別に達するを得さるへし(以下略)

以上から
三つ、二つの感想を持つ

一番目、足らざる”を想う

斉藤武男は軍隊の当然の行為と受け止め、衛生上の注意を書きとめたことであろう。しかし福島大尉は此れで十分だろうか?と思ったに違いない。本当に厳しい行軍を目標にすることで、“足らざる”が見えてくるはず。厳しいを体験をしないで此れで良い、通用するはず・・はない。各自の防寒法・雪中行動要領、部隊の行動要領、寒中衛生法など然り・・・

二番目 超える”を想う

斉藤武男は拠るべき人家がない路程で風雪の(が厳しい)場合及びその場合に厳しい状況で行わざるを得ない露営の困難性に思いを寄せていた。もっと厳しい事態への対処方策を持たない漠然とした不安とでも言えるような感じであろうか。福島大尉は他の部隊の例から学びつつも、斉藤武男同様にもっと厳しい状況に想いを寄せていた。唯違うのは実践者の立場での想い。

各部隊のレベルを“超える”行軍をいずれこの手で行わなければならない、その為には先ず最悪の露営方策を確立しなければならない・・・。 

若干の補足ー福島大尉と斉藤武男の交友

福島大尉と斉藤武男とは親友であり漢詩仲間。本従軍記に関し、両者の交流が相互に影響し合った部分もあったのでは・・・という想像、以下の事例から、も自然に湧いてきた。

後の事であるが、八甲田山雪中行軍に際し東奥日報東海記者を同行させた事及び八甲田山雪中行軍成功を祝し、斉藤碧山が漢詩『題福島大尉之一隊雪中行軍』を寄せたのに対し『和斉藤碧山雅兄詩韻以答』で応えた事。

終わりに

本稿は次稿へのつなぎである。即ち次稿に先だって、福島大尉が一連の演習や実験行軍を”何故露営”演習から始めたか、という問題意識を浮き彫りにしておきたかった。

この当時行われた雪中行軍は 長距離強行軍、夜行軍、演習行軍など各種、実験的性格を有するものもあり、活発である。時期的に、厳冬期に行った例は見当たらない(前記小関論文より)。この点も福島大尉の挑戦・冒険心を刺激し、一連の演習や実験行軍を積み上げて行く大きな意欲となった、と思う。

この稿終わり

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