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福島大尉の実行力を訪ねてー福島大尉のなしたこと ブログトップ

福島大尉のなしたことを思う [福島大尉の実行力を訪ねてー福島大尉のなしたこと]

始めに

jr仙山線北山駅の駅舎のコンクリート壁には『山家学生式』なる、伝教太師(最澄)聖句が掲げられたブロック2ヶがはめ込まれていた。何気なく目をとめた私はその中の一文節『能く行い能く言う者は国の宝なり』に大きな衝撃を受けた。

福島泰蔵軍曹は仙台の工兵大隊時代に林 子平の墓を訪れ、漢詩を詠んでいた。私は同墓に立ち福島大尉の思いを感じよう、と平成22年4月10日午後同駅で降り地図を片手に歩き始めたところだった。
伝教大師の本意は別にして、天が私にくれたプレゼント と直感した。
福島大尉はまさによく行いよく言う人、国の宝と言える程の実行の人であった。
旅は彼が人生でなしたことを考えることから始めたい。四つ挙げ、その人物像も含め大掴みする。

一つ、

大陸での冬季対露戦に備え、仕上げの山岳通過雪中実験行軍(以下八甲田山雪中行軍)を行った。前人未到の厳冬期山岳通過、最も厳しい場で、行動の程度・要領及び戦備等を科学的に明らかにした。 
当時国内ではこのように本格的な山岳通過を行った部隊はなかった。露国は1877~78の露土戦役で厳冬期にバルカン山脈をこえての果敢な攻撃を行った。福島大尉は研究済みであった。

福島大尉は陸軍第八師団 弘前歩兵第三十一連隊 第一大隊 第二中隊長であった。明治35年1月、第31連隊雪中行軍隊37名を率い、全行程約230km、11泊12日。20日に弘前屯営を出て中央山脈(十和田湖岸断崖道を含む連続山地)を越え、三本木へ。同地からは八甲田山脈(青森県中央にでんと構える1500m級の難峰)を越えて青森市へ。青森市から梵珠山脈を越え31日弘前へ帰る。 青森県の主要部を反時計回りに一周する雄大なものであった。当時中央山脈、八甲田山は豪雪地帯で山中の道(といっても樵道程度であったと聞く)は数mの冠雪に覆われ、気象激変、寒風や吹雪が常態で、冬季は行人全く絶えてしまう、土地の人が狂気の沙汰という程人を寄せ付けない厳しさを有していた。それを承知した上で、敢えて行ったすざましい挑戦であった。

行軍を始めると、1月23日~27日の間青森県は勿論のこと日本全土を寒気が襲った。上川の気温氷点下40℃は今でも破られていない。予想を超える気象条件下での行軍を強いられたが、積み上げた知見を基にした周到な準備と断固実行する強いリーダーシップで任務を果たした。

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最初に、仕上げの実験行軍と述べた。実はここに至る過程で以下の演習、実験行軍や戦史等の研究調査を行い、その成果を積み上げてきていた。他人がどう思おうと福島大尉には自信と余裕があった。

明治33年2月;弘前南方原野における雪中露営演習。明治34年2月:岩木山雪中強行軍。明治34年7月;下士候補生夏季強行軍。明治25年7月(士官学校卒業して)から;作戦・戦術、戦史の自学研鑽、列国軍特に露軍研究調査。明治31年10月(第八師団三十一連隊中隊長を拝命して)から;冬季作戦・行動に関する戦史・外国典礼等の研究や地誌等の学術的研究調査。

福島大尉の生家は群馬県伊勢崎市世良田字平塚にあり、今は当主国治氏が福島大尉の遺品を大切に守っておられる。墓は同地天人寺にあり、その横に福島泰蔵碑(下写真)がある。その碑文の撰文者は当時の上司立見第八師団長であった。 

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碑文本文(判読)

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註 轁(とう)略驚鬼の最後の節の「多」は「名」の誤り。

その碑文中で『君在弘前雪中行軍者両次(岩木山と八甲田山、両方の雪中強行軍を指す)』と表現している。続いて『暴風雪険山谷未会傷一人』とあり、無事故(損傷なし)を讃えている。これは特筆に値する。厳しい訓練と安全の両立を見事にやってのけた、究極と言っても過言ではない今に生きる訓練管理であった。言うは易く行うは難し。同時期兄弟部隊である青森第五連隊の210名全員遭難もあった。立見師師団長はどんな気持ちでこれを書いたのであろうか。

二つ、

論文『降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響』を著し、冬季休戦を否定し、露国は冬季休まない、日本は露国に対抗しうる冬季行動能力の練成が必要と啓発した。

偕行社懸賞課題に応募し、優等賞。閑院宮から日本刀一振り賜る。明治36年8~9月号に掲載。前記碑文には『偕行社課題論戦術亦興降雪相関総裁閑院宮賞之賜軍刀一口』とある。但し、八甲田山雪中行軍の経験による知見は一切記述せず、すべて戦史研究等からの引用である。なぜであろうか?

三つ、

論文『露国に対する冬季作戦上の一慮』を表し、今冬露国は攻めてくると啓発した。

偕行社臨時増刊第一号(明治37年11月発行)に掲載され、12月全軍の将校に配布された。遼陽会戦(37年8月)で勝利したが追撃の余力がなく、沙河会戦(同10月)で決着がつかず対峙のまま冬季に入っていた。8月以来の攻撃にも関わらず旅順はおちず、人員の損耗甚だしく、弾薬等の補給もまた追いつかず、戦力の回復を待って来春の奉天での大攻勢を企図している状況ー既定の方針であった。このような時、論文が発表され配布された。

同碑文では『君案一策題日対露国冬期作戦上一慮其言頗可用矣乃領之諸軍』とある。

福島大尉は満州三道覇から明治37年12月30日付けで父泰七へ手紙を書いている。
『本戦役に関する意見書を立見師団長に提出して賞詞を賜り東京偕行社から発刊せられ全軍の将校に分配された』ことの報告と『是れ迄は少しく筆を以て知られ候得共 今後は筆を擲ち軍刀にて奇勲を奏し度きものと日夜心願(以下略)』とその心境を述べている。(青年期からの)彼の志ーとことん国家に尽くし、一廉の人物になるを一貫してきた自負が行間に溢れている。

四つ、

明治38年1月25日~同年1月29日の黒溝台会戦、十万余の露軍の急襲を左翼に受け、日本軍崩壊の危機的状況下、絶対黒溝台を取り返さなければならない局面で、最後まで温存された決戦予備中隊長として棄命を率先躬行、全軍の勢いをつけた。

前記碑文ではその冒頭で『破堅陣挫頸敵為国家棄命非忠勇義烈不能(以下略)』とあり、戦闘場面は勿論、軍務のすべてにおいて自分を顧みず(私を捨て)ひたすら国家のために真心を尽くす。所謂”棄命”が師団長の目には一番印象強く映っていた。またその戦闘の様子を『諭曰進栄退辱公等不可生還辞気壮列士気大振乃乗勢突敵敵色乱益進会砲丸中其面而死(以下略)』と記述し、勢いを作った不退転の指揮ぶりと我に続けと先頭で前向きに倒れた生きざまを事実に即し、抑えた思いで表現をしている。28日16時ごろ、戦死。会戦四日目の緒戦、戦線投入後一時間余の最期、40歳であった。

この稿終わり
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