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福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1総 ブログトップ

福島大尉がなし遂げたかったものと第五連隊遭難ーその六、もっと、もっと・・・ねばならない、の思い [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1総]

六つ、もっと、もっと・・・ねばならない

始めに

福島大尉は遭難死者を悼む気持ちに溢れていたが、訓練どころではない或いは訓練を自粛しようなどという風潮が蔓延することを恐れた。大陸での対露戦勝利のための冬期演習は未だ緒に付いたばかり、待ったなしである。この為2つの事を強調している。①もっと雪を知らなければならない。②もっと冬期演習に挑まなければならない。

一つ目、もっと雪を知らなければならない

福島大尉は八甲田山雪中行軍において12ヶの研究調査項目を参加者に分担させている。その1番目は田原中尉に与えた「戦術上及ひ給養上に於て積雪の軍隊に及ぼす利害」である。1年後、偕行社記事第308号(明治36年2月号)で懸賞課題「降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響」論文が募集された。優等者には賞品を贈与、各10行20字詰罫紙30枚以内とし来たる4月30日締切の応募要領で。福島大尉は勿論之に応じる。

福島大尉の先見性を物語っているが、それは雪を知ることが冬季行動の原点と思っていたからに他ならない。1年後に論文募集をした陸軍も同じである。

二つ目、もっと冬期演習に挑まなければならない、の注意を喚起

実施報告の第15「結論」に3つ、注意を喚起をしている。

一番目、仏国の例をあげ、日本国及び陸軍が冬期演習の取組に誤らないよう、注意を喚起

「1812年仏国ナポレオン皇帝のモスク及びスモレンスク遠征に於ける敗戦はその雄図を寒雪に埋没させ国家の興亡に関するものであった、そのことについて、後世の仏国の軍の冬期戦術を考究すると故あるかな、と思わしめるものがある。何となれば、仏国において冬期行軍の演習を熱心に行ったが、往々意外の傷病者を生じ、公衆はその目的を知らず非難の声をあげ世論は之を不可となすの傾き無きに非ず、(と感じた)(筆者要約)」

要するに公衆や世論に惑わされ真に国家の浮沈にかかわる大事、冬季演習を怠ってはならない、と述べているわけである。

二番目、露国の先行への注意を喚起

「露国は戦闘教練に冬季を利用するの企画に於て殆ど他の邦国を凌駕す吾人の耳に入り眼に映ずる冬期の研究事項は又多く露国より来たるを知る此の如く我が西隣の国が冬季演習を盛んに挙行し天候の峻酷道路の険悪等に慣習して之に耐ゆるの方法を講究するを思えば吾人豈に寒夜灯りを守るのみにして可ならんや」

日本陸軍に先行する露軍が冬季演習を盛んに行っている。第五連隊遭難で頓挫させてはならない、と述べている。

三番目、厳しい訓練・演習を行わなければならない、と注意を喚起

「平時の演習に於て最も困難なる場合を予想し之が研究をなさざるべからず。要するに戦時に際し成るべく困難なる未知の事項に一も遭遇することなきを期すればなり」

我々の行動の準拠はすべて戦時役立つ為である。そうである以上戦時の未知をなくす為、厳しい冬季訓練に挑み続けなければならない。

三つ目、以上の注意喚起と第5連隊遭難との関係

一つ目からは原点を忘れるな。二つ目からは褌の紐を締め直せ、の意が伝わる。第五連隊の遭難がなくても本来あるべき姿であるが、第五連隊遭難の影響の深刻度を思えば声を大に言うべし、流されてはいけないと福島大尉は思ったに違いない。

終わりに

第五連隊遭難を福島大尉はどう捉えたかについて思いを巡らして来たが、今回を以てこのシリーズを終わる。気儘な思い巡らし旅ならではの成果があった。福島大尉が語らない葛藤に行き着いた事である。結局、葛藤とは思いの強さと障害の強さの拮抗である・・・。
このシリーズ終わり
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福島大尉がなし遂げたかったものと第五連隊遭難ーその五、最精兵第八師団の旗を揚げねばならない [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1総]

五つ、精兵第八師団の旗を揚げねばならない

始めに

福島大尉は非常の困難、危険・困苦欠乏等を克服した第八師団の精強さを声高らかにうたいたかった。しかし、その思いには落とし穴が潜んでいた。何故ならそれは第三十一連隊のみの成果であったから・・・。第三十一連隊は明治31年3月第八師団の新設時に設けられ、同じ第四旅団隷下の2番目の連隊として誕生した。しかし第五連隊は青森市に明治12年1月創設され、陸奥唯一の部隊としての伝統と歴史を持っていた。

自分が属する部隊を愛する心は部隊の一員であることを名誉や誇りに思う心と同じ。敵に向かえばその名誉心が旺盛な敵愾心や己の恐怖に打ち克つ心として発揮されるが、平時には部隊間の競争心として発揮されるきらいがある。特に新参の弟分連隊の兄貴分連隊を押しのけての活躍に、第五連隊(長)は心穏やかでない思いを少なからず抱いたのではないか。以下の3点をどう受け止めたであろうか?に思いを巡らしてみたい。

一つ目、岩木山雪中強行軍に於ける第八師団の精強度

各国の規定を調べると、冬季強行軍の行程の標準は24時間に50km、最大30時間に60kmである。これを超越して行軍力を要求しこれを実験するのが今回(岩木山雪中強行軍)の主眼。

実例と対比
1870年12月16日オルレアン付近の戦闘における普第九師団は33時間に約80kmを行軍した。1895年露歴10月12日オデッサ駐屯の猟兵分遣隊は23時間に76km行軍(平時)した。

上記にくらべて第1部隊の22時間で100km。第2部隊の21時40分で53km。行軍力は遥かに右(下線①)にある。又地形・気象要因等による困苦欠乏に耐える力(耐乏力)も又遥かに右(下線②)にある。

第1部隊は行軍距離において十分雪中強行軍、第2部隊は兵器及び背嚢を携帯する時間の長さに即ち疲労に堪え得た時間の長さ【ゴルツの格言を引用】の点で雪中強行軍と言える。自信を持つべしと断言している。

諸外国軍の例と比べ右(より精兵)と述べている(下線①及び②)。

二つ目、下士候補生夏季強行軍における第八師団の精強度

福島大尉は下士候補生夏季強行軍実施報告において「東北地方の兵(下線③)は盛夏炎熱の時に於いても、亦厳冬冱寒の時に於いても労働に耐え得る強健さを持つ」と述べている。 

将来の下級幹部たるべき地位に就くべき者として当連隊の下士は他に比類のない厳しい訓練特に困苦欠乏に耐え得る資質の持ち主であり全国でも右に位置する強健さ,を有する。東北地方の兵(下線③)即ち第八師団の兵の優秀性を声高らかに謳い、士気を高め、名誉心を高め、戦場での勇敢さを発揮させることを期した、のである。

三つ目、八甲田山雪中行軍出発前に於ける父への書簡にみる第八師団の精強度

書簡には「(略)名誉ある大任を受け充分に成功せば之を天皇陛下に上奏する次第にて当第八師団に於ける前後無比の演習(下線④)(略)」と気分を最大限高揚させている。

この書簡の内容を五連隊(長)が知って、行軍を計画した訳ではない。多分立見師団長は福島大尉の行軍の構想を了承した時に、天皇陛下上奏を語り、励ましたと、思う。立見師団長はその統率の流儀として他の部隊長に紹介し、師団全般の練度を高める刺激材にした、と思う。

刺戟について

自分の企図を真摯に具現してくれる問題意識が旺盛で意欲的な現場指揮官に思いきり活躍させる。それらの現場指揮官の活動を助長し、あるいは刺激を受け、共にさらなる高見を目指す。先駆け活動が第八師団全体に波及し、全軍に広まって、対露戦勝利の大きな力となる。そういう考えで新編第八師団長に着任し、そのキーマンの一人が福島大尉であった。

四つ目、第五連隊(長)の受け止めを思う。

下線①~④の表現は第五連隊(長)にとってはきつかったのではないか、と思う。さんざん第三十一連隊の手により、第八師団精兵を謳われた。五連隊は全く蚊帳の外であり、兄貴分としての面目は丸つぶれである。その上、今回(八甲田山雪中行軍)は自分の庭先に踏み込まれ、最枢要と考える雪中間路ー田代越え(註)の先を越されては立つ瀬がない、との感想を持った,としても不思議はない。

(註)「田代越へは青森より三本木平野に通する唯一の間路にして我が連隊の為めには兵略上最枢要の進出路とす故に夏季に於数回之が通過を試みしも未だ冬期に於て之が難易を試みるの好機を得さるを遺憾とせり」更に「昨年第三大雪中此間路を経て三本木に進出するの計画あり不時の障害の為め遂に果たさず」(遭難始末歩兵第五連隊)

従って、折から計画中の第五連隊の雪中行軍の独自性、第三十一連隊との違いを打ち出し、なんとしても第三十一連隊の八甲田山雪中行軍帰還に先立ち成功させたい、との思いを込めた、としても可笑しくない。偶々五連隊の行軍に合わせて襲来した未曾有の大寒波、人知を超えたー大遭難が落とし穴となったのである。

終わりに

以降、福島大尉は沈黙を続け、黒溝台で戦死し、あの世に一切の思いを持って行った。立見師団長も同様であったろう・・・。福島大尉は第五連隊等他の部隊の事は全くの慮外であった。只管全軍の為冬期行動標準作りに励む精兵第八師団の旗を揚げねばならない、とだけを思っていた。しかし、福島大尉は田茂木野で遭難に係った当初から第五連隊の三十一連隊に対する競争心の激しさ、自らの言動が何らかの作用をしたに感ずる所があった、に違いない。他の部隊に後れを取るな、は中隊長たる者が隊員を叱咤激励する時の慣用語であったから・・・。しかし、行き過ぎた競争心は道を外れる、ことも当然弁えていた。その行き過ぎたのではないかが当初の福島大尉の懸念であった。

道を外れたことは後世の為明らかにしなければならない。それは正義である。しかし、遭難者を冒涜してはならない。これも又対露戦勝利の大目的の前では堪えなければならない軍人の務めである、と思っていたに違いない。

福島大尉の沈黙は重い・・・。

この稿終わり
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福島大尉がなし遂げたかったものと第五連隊遭難ーその四、葛藤の素になった考え方を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1総]

四つ、葛藤の素となった考え方

始めに

福島大尉は特に大陸での冬季対露戦で必ず必要になるであろう事柄も当然研究調査している。その特徴的なものが前回述べた橇・嚮導などである。この必須となるであろう事柄について調べ明らかにするという考えこそが今回テーマの葛藤の”素”である、と思う。今回は私が何故そう感じる、のかを以下の3点について明らかにしたい。

①一貫して述べ続けている事。②思いを大陸に馳せ、様相をイメージしていると窺わせる表現や引用をしている事。③露軍に肩を並べ・越え・勝つ、の観点で述べている事。

一つ目、一貫して述べ続けている事

橇を例にとり述べる。
岩木山雪中強行軍(明治34年2月)でも八甲田山雪中行軍(明治35年1月)でも橇は使用はしなかったが調査は継続し、その結果を実施報告で述べている。その目線の先は論文『露国に対する冬期作戦上の一慮』(明治37年11月偕行社臨時増刊第1号に掲載され戦地にあった将校は勿論、全軍将校に配布された。今冬露軍は必ず攻めてくる。備えるべしの啓発論文)の「第6章軍用橇に関する卑見」上に結ばれている。

その内容「橇を必要とする諸隊は冬季の軍用追走品として豫め之を準備するか又は少なくも其の図案原料等を調査し置くの必要あらん。西比利亞及満州の交通路は冬季は主に橇を用ふと聞く是れ茲に一言せし所以なり。」に注目。大陸では橇が必須であると考えるのでその必要性を提起した訳である。

そしてこの問題意識を持って、実験行軍等の機会を活用した東北地方に於ける調査の結果、「吾人は軍用橇に関し未だ之を研究するの機会に遭遇せす。然れども此事に就いて頃日思ふ所あり東北地方は冬期に於て運搬の為橇を使用する事多く、二種に別れ軽橇は人力を以て牽き重橇は馬力を以て牽く、馬力橇は砲熕(ほうこう、大砲のこと)を運搬し又輜重兵用に適する如く思考す。軽橇(人力橇)は雪中山地行軍の時に小行李運搬用に適する如く思はる。」と二種を軍用橇として使用すべきとの考えを持つに至った、と述べている。

以上から橇を大陸では必須のものと考え、最初から最後まで調査を継続したことが明らかであり、その明白性は成果に対する伝えねばならない思いの強さを表す。従って葛藤の”素”となる、と感じる。

二つ目、思いを大陸に馳せ、様相をイメージしていると窺わせる表現や引用をしている事

例を嚮導にとり述べる。

一番目、戦例引用から感じる事

岩木山雪中行軍実施報告本文「第7雪中行軍に於て嚮導の必要」中に嚮導を必要とし、或いは嚮導を用いたがうまくゆかなかった戦例を3ヶあげている。
①1807年2月8日Eylauの戦いで仏軍が降雪細分痛く面を打ち、予定の方向を誤り敵の中堅に遭遇、之を急襲した露軍のために大損害をうけた。②この戦いでHilairele指揮の師団は誤りて遠く側方にすすみ、ために仏軍の戦闘線に巨大な間隔をあけた。③1814年Laonの夜戦に於てGourgand大佐指揮する部隊は地方住民を以て嚮導となし、露軍の後衛を迂回して友軍との連絡地線に進出することを試みたが、遂に出来なかった。嚮導たる農民はよく地方の道路を知りその任に耐えられる者であった。

3例を通じ、冬季未熟地や夜間の大陸での適用を想像しながらの引用である、と強く感じる。

二番目、VonWiddernの格言を揚げ未熟地の戦場ならではの嚮導の用法上の留意点を述べている。

論文「降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響」(偕行記事懸賞論文優等賞として同記事320/321号に掲載。冬期に休戦なんてとんでもないとの啓発論文。)本論中において「(道路) 偵察者は近傍人民の議を採て判決し且つ其の地については就中地理に明なる嚮導を得て之を我が近傍に置くを要す而して可及的嚮導を多く使用すへし此嚮導は互いに隔離し、置きつつ彼の誠実並びに使用に堪ゆるや否やを試むるを要す」に注目。

特に下線部「此嚮導は互いに隔離し、置きつつ彼の誠実並びに使用に堪ゆるや否やを試むるを要す」に未熟地の大陸の戦場ならではの用法の格言に反応する福島大尉の感性を感じる。

この点は八甲田山雪中行軍に於て福島大尉が謙虚に嚮導に接しつつも一線を引く姿として私の眼前に浮かんで来る。私がそう感じるのは田代での露営間に嚮導を斥候として派遣する場面、2名を残させ、荷物を残置させて嚮導5名で出発させる場面である。此の時福島大尉は胸にしまっておいたこの格言を思いだして処置を命じたに違いない。

以上の2点から、思いを大陸に馳せ、様相をイメージし必要事項を抽出している福島大尉が浮かぶ。これは必須となるであろう事柄について調べ明らかにするという考えを具体化している事と同意義である。思いが具体的であればあるほど伝えたい思いは強くなり、葛藤の素になる、と感じる。

三つ目、露軍に肩を並べ・超え・勝つ、の観点で述べている事

零下12度以下では露営を切り上げ出発する、を例に取り述べる。
対露戦が現実味を増す中で、大陸の酷寒に相当する厳しさをどう経験するかは福島大尉にとって大きな課題であった。すでに述べたように、その課題を八甲田山の雪中行軍、長途山岳通過に求めたことが滅多に出来ない厳しい経験による成果につながった。大陸の酷寒で起こり得る寒気しかも露軍は規定化している(気温摂氏零下12度)に備えることは露軍に肩を並べ・越え・勝つ為、必須との考えが根底にあったから、であった。それだけに得た大きな成果は伝えねばならない、との思いは強かった。思いが強い程、葛藤の”素”となる、と感じる。

終わりに

最も大事なことは、一連の実験行軍開始以前から大陸での戦いの様相に着目し、福島大尉ならではのビジョンを作り上げていたことである。彼の葛藤の強さはビジョンの要件である先見洞察力の深さ・遠さ・広さの反射である。優れた先見性で求め得た成果の意義は大きく、伝えねばならない、の思いも強くなる。伝えたい思いが強ければ強いほど障害が生じその実現が危ぶまれる時の葛藤は強くなる。

この稿終わり

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福島大尉が成し遂げたかったものと第五連隊遭難ーその三、葛藤を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1総]

三つ、福島大尉の葛藤

始めに

福島大尉には、第五連隊遭難により、全軍の冬季行動標準作りを停滞させてはならない思いと沈黙しなければならない思いの2つが対立する葛藤があった。

福島大尉が大陸での冬季対露戦では大事と考えた以下の2点、①嚮導使用、②橇使用を切り口に福島大尉の葛藤について思いを巡らしたい。

一つ目、嚮導使用

岩木山と八甲田山の両行軍の実施報告における要約部分(註1、註2)が殆ど同じトーンで書かれていることに着目する。

岩木山では当初嚮導を予定せず、道に迷い懇諭再三、3か所に及ぶ。その都度終諾を得て、嚮導があればこその教訓を得る。

八甲田山では岩木山の教訓を活かし、当初から計画的に嚮導の確保に努めた。特に増澤~田代(青森)は隊員1名と部外者7名を使用し、非常の困難を克服した。実際に得た研究調査上の成果は顕著なものがあったはず、にもかかわらず、手記では嚮導について多くを語っていない。実施報告でも殆ど岩木山と同文である。

嚮導の重要性・有用性の成果を広く伝えたい。その思いは非常に強かったはずである。この点からは三十一連隊は推奨すべき教訓。第五連隊遭難、嚮導は熟地たるの自信力の故を以て不使用にした、大隊長の判断は警鐘を鳴らすべき教訓、と考えた。一方死者を鞭打ってはならない、死者の弔意は重いとする沈黙の思いも又強かったであろう。この葛藤が殆ど同文とさせた。

註1岩木山雪中強行軍実施報告第20研究せし事項の要旨十一「未熟地に於て飛雪中は道路並びに方向等に迷ひ易く殊に夜間は地形の識別困難なるを以て頗る嚮導の必要を感ぜり」

註2八甲田山雪中行軍実施報告第14行軍実施に依て得たる結果第10「未熟地に於て積雪の時は道路並びに方向等に迷ひ易く殊に夜間は地形の識別困難なるを以て頗る嚮導の必要を感ぜり」

二つ目、橇使用

福島大尉は橇を岩木山でも八甲田山でも使用していないが、大陸での冬季対露戦を考え、地方人の使用状況について注意深く調査している。その調査結果の要約は以下の通り(註3、註4)である。

註3岩木山雪中強行軍では実施報告第20研究せし事項の要旨四に、「東北地方は積雪期に於ては車両の効用を失す道路上と雖も僅かに馬匹又は橇を引き得るのみ輜重の運搬は之に頼るか或いは人力に寄るの外他に術無かるべし」。とあり、道路上と雖も橇を引き得るのみ、まして山岳では言わずもがなの意が伝わる。

註4八甲田山雪中行軍では実施報告第14行軍実施に依て得たる結果第7に、「今回通過せし山脈は冬季積雪の際に於て馬匹又は橇を用ゆることを得ず蓋し三本木青森間は無雪の時に至れば馬匹の通行を為し得ると云う」とあり、明白に橇は無理と断言している。

第五連隊の遭難の事実関係(註5)が明らかになるにつれ、福島大尉は正直耳を疑ったのではないかと思う。何故この最も気象が厳しい時機に敢えて行李輸送(14台の橇に各16貫の器資材を積み、4名で曳航)を試みたのか、而も今までに初の試み。何故土地の人に学ばなかったのだろう?又、第五連隊が生存者や遺体の後送(橇使用も含め)に猛吹雪や悪天候に見舞われ難儀した様子や自らが24日の患者発生時にその処置に窮した体験(註6)も重ねて、調査に調査を重ねてきた身ならばこそ思う本音の感想であったろう、と思う。

註5 以下は遭難始末歩兵第五連隊第二章行軍実施及び遭難の景況第一日(一月二十三日)による。
23日午前6時50分、橇隊を最後尾として屯営を出発した行軍隊は田茂木野を過ぎたあたりから橇隊が遅れ始め予定外の休止を行ってその来着を待つことを繰り返した。11時小垰丘麓では本隊から1ヶ小隊を救援に向かわせ、11時30分小垰丘上では長時間の休止をし、到着を待って昼食とした。20分の休憩後出発、小垰以降は傾斜急峻、積雪より深く、橇隊の行進は益々困難となり本隊より大幅に遅れる事となった。午後4時10分先頭が馬立場(田茂木野田代間の頂界点)に達し、田代の遠景を眺望出来た時、後方橇隊は遥かに遅れ、先頭が馬立場から500m、最後尾は馬立場から1kmの地点にも到達していなかった。再び本隊は休止をして橇隊の到着を待った。この時更に2ヶ小隊を援助に向かわせた。橇隊が漸く同地に到着した頃、黄昏となり、行軍再行。これから先は傾斜急峻、雪は胸までの深さとなり、本隊も難渋し、橇隊は放棄の止む無きに至った。そうこうしているうち気象激変、天地瞑暗となり午後8時15分露営に決す。

註6以下は患者運搬法の報告(担任者未確認)による

「(略)積雪丈餘の雪中に於ては橇の如き其の用を為さず(以下略)第五連隊に於ける患者の運搬法は直接最も必要研究なるべし」

私は福島大尉が明白に無理と敢えて岩木山実施報告と同じトーンで断言している事に強い葛藤を感じる。大陸での冬季戦を思う時、橇が使えるか否かは戦力推進や作戦・戦闘に重大な結果を与える。従ってその研究調査は急務である。だからと言って性急であってはならない。無理をせず地に足を着け着実に成果を積み上げるしかない。
この教訓を全陸軍に伝え、対露冬季戦準備を本格化、遅れている橇研究調査に着手しなければならない。しかし、橇に哭き、橇にひどい仕打ちを受けた多くの犠牲者は鞭打てない。

終わりに

私はこのシリーズを書きながら、妙な違和感を感じていた。葛藤の表面だけを撫でているのではないか?と。それでは福島大尉の本意を伝える事にはならない。次回は何も語らない”福島大尉の葛藤”。その大元はどこにあるのか、を思う。

この稿終わり
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福島大尉が成し遂げたかったものと第五連隊遭難ーその二、隊員を護らねばならない [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1総]

二つ、隊員を護らねばならない

福島大尉は自分の一身に係ることは慮外し、隊員を護る為に思いのすべてを向けてきた。その為、隊員に役立つ演習や実験行軍を行ってきた。隊員保護は上長の責任であり、戦場で敵や白魔から隊員を護る視点と平素の演習などで、白魔や危険から隊員を護る二つの視点で貫かれている。福島大尉の取組から伝わる真剣さ”に目を向け視点貫徹の本気度を感じ取る事としたい。

一つ目、戦場で敵や白魔から隊員を護る視点  

一番目、真の護るとは?

戦場で隊員の命を守る最良の方法は平素厳しい場を求め、厳しく鍛えること、との信念を持っていた。一連の冬季行動研究の最初を露営演習から始めた。雪中行軍間において最も困難な露営に着目し、露営の方法や施設の構築法などの成果を得て、即ち最大の不安をなくしてから、次のステップである岩木山雪中強行軍に歩を進めた。そして最後を八甲田山雪中行軍ー山岳通過、長途強行軍で仕上げた。特に非常の危険・困難な山岳通過を連続して行い、田代での最悪事態(危険)の露営を経験させ、困苦欠乏に堪える真の行軍力(自信力)を身につけさせると共に次のリーダーを育成した。

二番目、隊員の身になり、気持ちになって本当に役立つものを試す

雪中露営に於いて、斜面の向きによって番兵が立つ哨所の温度に違いがある事を験し、哨舎の必要性を訴え、その哨舎を雪で構築する方法、規格並びに構築諸元を明らかにしている。また露営施設構築時の個人携行の銃や器具の保持について現規定の問題点や対策を述べ、これらの規定について提言している。

三番目、実物・実地・実際に即した隊員の動きを明らかにする

例を行進法と糧食の関係に取る。衣服で体を暖めるよりも、衣服の負担を軽くして体をうごかし易くし、動き続けることで熱源とする歩行法を採用。この為、止まれば体が急激に冷えるので短時間少時の休止や小休憩を頻繁にとる。また腹が減ることへの対策として間食を午前または午後に定例化し、凍らさない工夫として体に直接まきつける。それでも凍りついたので、今後の課題として「雪中行軍の際予備糧食として餅を携行する利あり之に砂糖を混ずる時は氷結の害を防ぐ寒地の予備糧食として焼米或は凍餅は適当なり然れども虫害或は黴気等の患を防ぐの方法は尚ほ研究せざるべからず」(八甲田山雪中行軍実施報告第14行軍実施に依て得たる結果第43)、と述べている。

二つ目、平素の演習などで、白魔や危険から隊員を護る視点
 
ここでは危険についての取組から伝わる視点貫徹の本気度を感じ取ることとしたい。

一番目、一人も失わない

八甲田山雪中行軍実施報告第12行軍間の軍紀並びに作業の順序において「(略)各人競ふて困難に耐へ克つの気力を有し辛酸の度益々加はるに従ひ敵愾の気益々強く十有餘日の難路通過に於て一人の患者を生せしのみ要するに演習員自ら其名誉を重んじたると且つは其所属隊長の訓育宜しきを得たる結果なり」と述べている。私には非常の困難に耐えることと無事帰還とを両立させた強い思い、執念が伝わってくる。

「一人も失わない」は立見師団長が福島泰蔵碑碑文で「雪中行軍者両次(註)暴風雪険山谷未会傷一人」と福島大尉を讃えた所である。

註 岩木山雪中強行軍と八甲田山雪中行軍の二つを指す。

二番目、一人たりとも眠らしめず

八甲田山雪中行軍実施報告第12雪中露営の状態に於いて、田代での露営準備作業が終わり、構築した雪穴の中で停立休止、暖を取り、予備の餅を炙りて喫する者。薪材を求める者。外で足踏みをする者等に区分し、「一人たりとも眠らしめず」目を光らせている。福島大尉自身も全く隊員と同じ行動で、疲労困憊しているはずであるが終夜目を光らせ続けた。体力・気力の充実は勿論であるが、その責任感たるや凄し。

三番目、危険の本質を認識した対策の徹底

①十和田山上、十和田湖断崖、犬吠峠、熊澤河岸、大中台駒込河岸は行進危険である。その中でも十和田湖の断崖を以て最となす、②十和田山脈通過は地形に於いて、八甲田山脈は天候に於いて困難を感ずと述べている。天候の厳しさと地形の険が相乗する危険の本質を認識し、慎重行軍で非常な困難を克服した。特に嚮導を重用して道を大きく外れることなく、従って断崖等からの墜落もなく、各人の注意深さや周到な準備によって全員生還できた。

三つ目、第五連隊遭難の影響

本気で隊員を護る、を実践してきた福島大尉にとっては遭難死者への弔意は勿論だが、厳寒に兵卒(だけ)に小倉服を着せたこと及び嚮導の不使用という大隊長指導に目を疑った。これで上長として義務を果たした、といえるのだろうか?未曾有の大寒波に遭遇した、を言い訳にしてはならない。上長はどんな厳しい、予想外局面でも隊員を護り通さなければならない。最善を尽くさねばならない。それには周到な準備と細心さを尽くす、が必要だ。

終わりに

前稿及び本稿で、思いを巡らしているうち、ふと福島大尉の悔しさに代表される激しい感情が伝わってきた。八甲田山雪中行軍が大きな成果を得て終了目前、而も天皇奏上も現実のものとなった時に第五連隊遭難に遭遇したのだ!なんという間の悪さ!であろうか。悔しさ?一身を顧みず国に捧げる福島大尉ならかみ殺してしまうだろう、もっと別の激しい何かではないか、と自問する内、葛藤だと思い当たった。次稿は葛藤を思う。

本稿終わり
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福島大尉が成し遂げたかったものと第五連隊遭難ーその一、冬季行動標準は作らねばならない [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート1総]

始めに

手記公表に影響した第五連隊遭難。その遭難を今少し考えたい。”非常の困難を伝えねば・・・”が”探討”の厳しい体験によって沸き起こった篤い思いとすれば、その思いに到達する道のりとして、3年以内の一連の演習や実験行軍から今回、八甲田山に続く、一貫した篤い思いがある。その篤い思いと第五連隊遭難を引き続き考えたい。思いのつながりを切らさないことで新しい何かに出会うかも知れない、と思うので・・・。

福島大尉を突き動かした思い

わざわざ烈風防雪の夜や時期を選んだ雪中露営演習や雪中強行軍の苛烈さは私の想像以上。その苛烈さに身をおく傍らで冬期戦役の例証や冱寒積雪等についての研究を実施。そこまで彼を突き動かした思いとは何だったのであろうか? 私には、今のところ四つの思いーまだありそうで思いを巡らしているうちに出てくれば追加するーが伝わってくる。

①冬季行動標準を作らねば・・・、②隊員を護らねば・・・、③積雪・降雪を知らねば・・・、④冬季訓練を盛んにしなければ・・・、である。

この四つの思いは今まで雪中露営や岩木山雪中強行軍を通じて、感じた思いである。それが最高に高まったのが八甲田山雪中行軍!!凡て自分の発意、成果の積み重ねで実現に漕ぎつけた。上手く成功すれば、天皇陛下奏上も約束された晴れ舞台であった。しかし、第五連隊の遭難が彼の目指したものに大きな影を落とす。福島大尉は当初からの思いにどう決着をつけるのであろうか?

一つ、冬季行動標準は作らねばならない 

冬季行動標準の提言を目指し研究調査を続けてきたが、仕上げの段階(実施報告書)で福島大尉はその目標を修正する。そのあたりを雪中露営法に関する記述の差異で明らかにしたい。

一つ目、当初からの思いの発現

雪中露営演習実施報告「7その他現地に於て必要と考定したる事項及び意見」中の「雪中露営に於て研究せし事項の要旨」に以下のように、強く(規定)を提言している。「1、雪中露営法は野外要務令の原則を厳守すること困難なり故に多少之が改正を要する事。3,露営の付属として哨舎の構築を歩兵工作教範中に加ふ事。5,雪中露営に在て武器装具は必ず掩蔽内に置き銃器の携帯法は特別に規定するを要する事。」

又実施報告本文「一雪中の露営法」において、2か所、規定の提言を詳述している。一つ、野外要務令の規定で歩兵が露営の設備を構築する時に叉銃線と休宿地を分離して居ること及び装具は昼間集合場に置くことを定則としているが、雪中露営では此の定則を厳守することは不利益(下線①)である(註)。

雪中に於いて敵兵を監視する番兵の哨舎について「歩兵工作教範に哨舎の寸尺だに示さざるは何ぞや是等微細の事に至るまで諸典令教範の類は帝国全土を通じ否何れ邦土に出兵するも之を応用して欠くる所なきを要す 況や野外要務令の如きは其の規定炎暑の事に密にして冱寒に疎なるの感なきを要す(下線②)」。

註 本文「三雪中武器装具の位置並びに携帯法」にその不利益を具体的に詳述している。

下線①,②ともに熱と力が入った、意気軒昂な檄文と言っても過言ではない。岩木山の時点では非常に篤い思いを籠め規定の提言をしている。

二つ目、八甲田山雪中行軍の実施報告での発現

報告「第14行軍実施に依て得たる結果」、第45「雪中に於ける露営の方法は雪穴を掘開するを以て最良とす」、第47「雪中露営に在て武器装具は雪中に埋没して紛失し易し小なる器械は殊に注意すべし」。とあるが、規定化については全然触れていない。雪中露営演習以来の最も厳しい田代での露営経験を踏まえて提言の重みは格別であった、と思うのに・・・。

上記実施報告本文中に「第11雪中露営の状態」の項を設け詳述している。何故土穴か、工作器具の重要性など。更に「(加藤清正が朝鮮の役で土穴によって寒風を防ぎ、又雪中露営演習で材料を用いず露営した経験に触れ)此の如きことは平々凡々の所置なるも雪国の事情を知らざる者の為めには幾分の益あらんか」と述べている。

規定化及びその提言に触れる記述は一か所もない。今までの報告書に比べ明らかにトーンダウンしている。それだけに却って、雪国の事情を知らざる者の為めには幾分の益あらんか、に冬季行動標準は作らねばならないの思いが強く伝わってくる。

終わりに

目指した自らの手による冬季行動標準の提言はなされず、より抑えた冬季行動標準作りへとトーンダウンした。あれだけ篤く追い求めてきたのに・・・。第五連隊遭難は福島大尉の人生にとって予想外の出来事であった。

この稿終わり
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