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【よろく】林 子平の墓を訪ねて [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーよろくのはじまり]

始めに

余禄とは余分のもうけ、余録とは本題を離れた記録(広辞林)とある。福島大尉を訪ねる旅を初めてから九年になる。その間、思いがけない出会いや発見などがあり、展開があった。それらの中に、本筋から離れたり、余分の儲けだったり、本筋を大いに盛り立てたがカットせざるを得ない等で捨てるには惜しいものが多くあった。それらを集めたのがよろく編である。散歩旅の気分で書いてみたい。

平成22年4月10日午後 仙山線北山駅に降りた私は林 子平の墓所(龍雲院)をめざし、地図片手に 歩き始めた。この時山家学生式 伝教大師聖句 に衝撃を受けた。この事はあとで触れたい。

一つ、墓前で林子平を思う

二十分ほどで墓所着。林家の墓所は門を入って左手にあった。代々の林家当主の墓が並んでいたが子平の墓(下写真)はその中には無く、別に左手前に覆い小屋があり、その中にあった。

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墓は小さかった。林子平を讃える石碑が三、四基並んでいたが、碑は苔むし判読は難しかった。寺務所で解説書等の有無を聞いたが、無い、東北大学図書館にあるようだ、とそっけなかった。

林 子平はロシアの南進による北方危機の萌芽期、蝦夷への関心が一挙に高まった時代に三国通覧図説【蝦夷地の開発、北方防備献策】・海国兵談【異国からの侵入に対する海防献策】を表す等、対外問題の切迫とその対応策をいち早く公にした。しかし幕府の容れるところとならず、世を惑わすとして幽閉された、失意のうちに寛政五年(1793)56才で病没、罪人の咎で(徳川幕府に)墓を許されず、当院に葬られた。天保十二年(1841)赦免され、翌天保13年甥の珍平によって墓碑が建てられた。
また海国兵談は自費出版、発禁処分を受け版木は没収。この心境を詠んだ句が「親も無し 妻無し 子無し版木無し 金も無けれど死にたくもなし 六無斉」である。

危機の萌芽期にその先を洞察する力、国家の危急時に世をリードする献策及び身を顧みない行動力は後の世に大きな影響を与えた。反面、徳川あって国家なしの幕府からは罪人の扱いを受けた。


福島二等軍曹(当時)は同地を訪れた。次期は明治21年9月28日 陸軍教導団を卒業し、陸軍工兵二等軍曹に任官して工兵二大隊付として仙台に赴任し、明治21年12月1日高崎歩兵第一五連隊第三中隊に編入されるまでの間の晩秋頃である。 

この時、「林 子平 墓を弔う」 と題し、以下の漢詩を詠んだ。

落日秋風枯草挫、寥々廃寺使人哀、六無斉墓碑三尺、空没英雄海国才

優れた海国の才がありながら小さな墓(三尺)に納められている。その空しさを蟄居中の六無斉の虚しい心境に重ねたのであろうか・・・。先人を尊敬し 古墳を弔う気持ちが伝わってくる。

『自己の信じるところをわが身を顧みず突き進んだ』のちの福島大尉の感性であれば当然「林 子平」の時代の先をよむ力、国家の危急を救う献策及びわが身を顧みない先駆的行動力等から何らかの感じるものがあるはずという思いでこの地に立った。その思いの一端は感じられたかな、と思うが、よくわからない。

二つ、北山駅での思いがけぬ出会いと気づき

北山駅舎での山家学生式発見はまさに”余禄”そのものであった。福島大尉が”人生でなしたこと”を考えているときに出会った句であったから。

img005北山 (640x441).jpg

まず山家学生式 伝教大師聖句を見てみよう。伝教大師とは最澄の死後の尊称である。
国宝何物【国宝とは何者ぞ】、宝道心也【宝とは道心なり】、有道心人【道心ある人を】、名為国宝【名づけて国宝となす】、故古人言【故に古人言く】、径寸十枚【径寸十枚】、非是国宝【これ国宝に非ず】、照千一隅【一隅から千里を照らす】、此則国宝【これ則ち国宝なり】と。古哲又云【古哲また云く】、能言不能行【能く言ひて行ふこと能はざるは】、国之師也【国の師なり】。能行不能言【能く行ひて言ふこと能はざるは】、国之用也【国の用なり】。
能行能言【能く行ひ能く言ふは】、国之宝也【国の宝なり】。 以下略
  
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『山家学生式』とは比叡山における大乗戒壇院設立と人材養成の目的を明らかにするために天台宗僧侶の修行規則として最澄が著したもので桓武天皇へ請願された。この請願が許可され、年分度者2名の枠を確保し、天台宗は公認宗派となった。

最澄は仏道を究めようとする心を道心と言い、その心を持っている人を国宝と称した。道心を持ち一偶から千里を照らす人も国宝。更に能く行い能く言う人(学問にも実践にも優れた人・・比叡山に残って12年間修行する)も国宝と称した。

特に公認された天台宗の発展のため、上記三つの国宝たるべき人を明確にし指導者としての限りなき修行や他宗派に優越できる活動能力などを求めた。

これを国難日露戦争やむなしの明治35、6年ごろの陸軍に置き換えてみよう。
道心(日露戦勝利方策を追及する使命感溢れた心)を持った人、必勝方策を企て全軍に及ぼす人、方策を学問的にも行動的にも優れて明らかにできる人 の三つ。
福島大尉のなしたことはまさにこれにぴったり当てはまる と考え、衝撃を受けた次第。

林 子平の墓所を訪ね福島大尉を思う旅の中では筋道から外れるが最澄、山家学生式に出会えたのは幸先が良い。 

この稿終わり
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