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【よろく】高山彦九郎への福島大尉の思いを探る(続き)ー果たそうとしたものとは? [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート1]

前稿から続く

はじめに

まずは高山彦九郎の京都から西遊・自害までの動きを追う。(高山彦九郎先生年表(高山彦九郎 三上卓)(抜粋)より)

二つ、高山彦九郎の京都から西遊・自害までの動き概観

寛政二年11月末、京都に入り、12月10日から岩倉邸に翌年7月18日迄二百有余日間、留泊す。12月25日秘かに光格天皇に、拝謁し、前以て岩倉卿を経て建白せし重大事につき伏奏したるが如し。

寛政三年5月18日赤松海門(註薩摩の藩校造士館助教)と共に岩倉、芝山両卿に面会、6月29日薩摩の赤松海門の話を聞き、芸州の唐崎常陸介来訪。7月18日芝山富小路岩倉等諸卿の邸にて送別の酒宴。同月19日京都を発して西遊の途に上る。これに先立ちて6月幕府諸藩に命じて先生の行動を探索せしむる旨の記述あり。9月小倉に入り、中津、久留米、長崎を経て,10月熊本に入り、熊本滞留百有余日、(略)

寛政四年2月24日熊本を発し、水俣野間の関を経て鹿児島に至る。留まること百有余日。6月上旬鹿児島を出発し、大隅より日向にはいり、延岡より転じて高千穂の神蹟を探り、豊後竹田を経て7月再び熊本を訪れ、留まる事20余日、薩州候の江戸参観の事を聞き、諌止せんとして果たさず。8月下旬から、豊後、筑後、筑前、豊前歴遊。

寛政五年正月豊前を発し、豊後を経て筑後、4月森嘉膳を訪ね、俄かに上京することを告げて去る。然るに幕吏の警戒甚だ厳にして目的を達せず。追及を逃れ九州各地を転々、6月19日久留米森嘉膳宅に投じ、同月27日白昼屠腹、28日朝絶命。

三つ、西遊旅立ちの送詩に見る消息

光格天皇への拝謁・建白と西遊をつなぐものとして送詩がある。三上氏は重要な使命を帯びた薩州行きであるとしてその消息を物語る富小路卿の送詩を紹介している。

高山氏江戸より至り、又将に薩摩に遊ばんとす、賦して以て之を送る  富小路 左衛門佐定直

波濤千里の路。舟棹壮途なる哉。紫気會て斗を干し。黄金為に台を起す。知んぬ衰風の嘆無からんや。行々臥龍の才を訪へ。待つ王門の客と為つて。裾を曳て再び杯を挙げんことを。

題意:君は波濤千里の路を越え、遥かに薩摩に向はんとしているが、蓋し爽快なことである。今や各地に潜む尊王倒幕の義徒は、昔、晋の豊城に埋もれて居た宝剣が夜々紫気を放って斗牛星の間を衝いて居たのにも似て、京都朝廷を中心として蹶起せんとして居るのであるが、朝廷に於いても亦、楚王が黄金台を築いて諸法の英雄を招いた如く、倒幕の義人を御招きになる内意であらせられる。然るに幕府の覇勢尚熾んにして、皇威の衰微せるを如何せんや。どうか君はこれから薩摩へ赴く道中、孔明にも比すべき朝廷の大軍師を探索してくれ。以下略

四つ、言えることは

以上から薩摩の赤松を介して藩主蹶起を促しに赴いたが失敗。幕府の探索急で逃亡・彷徨し、終に自害に至った。何故島津かは、朝廷崇敬、幕府との歴史的対立があり蹶起を呼びかけ易かった。失敗の主原因は隠居重豪派と当主斉宣派の暗闘・路線対立であったろう。

五つ、ここまでの歩みの特徴

一つ目、社会の閉塞打破を志す
 
天災地変に対する無策、民を富ます経済政策なし、外国船往来に対する無策、武士階級の無意味化、社会のゆがみを招く田沼の賄賂政治、父横死(代官?による切捨てられ死)の非道等幕藩体制維持が目的では最早や統治は限界である。又幕府の朝廷軽視が世を乱している元凶である等を誰よりも憤り社会の閉塞打破の為尊王倒幕を志す。

二つ目、学問

林家の朱子学はこの頃御用学問に堕し、諸学派が興り、藩校も次々開設。その中で山崎闇斎が興した闇斎学派が最も力を持つ。18歳から京都で学んだのは闇斎学派。朝廷や改革派諸藩に門弟多し。その数は6000人。

最も注目すべきは闇斎学派が尊王倒幕運動の先駆的役割を演じ、明治維新の思想的原動力であったこと。水戸学派に与えた影響は大きい。大日本史編纂に携わった有力学士が門下生であった。宝暦・明和事件の中心人物である竹内式部、山崎大弐等に鼓吹された思想は朝廷の公卿に深く浸透した。

三つ目、各地周遊

各地を訪れ、草の根活動で尊王倒幕の啓発・人脈作りに励み、情報を収集。特に闇斎学派の人脈ネットワークは強力であちこちにつてがあった。カモフラージュ活動、各界各層の学者・富豪などと交友、で民情を熟知。幕府との緊張が高まるにつれ、記録・書類などを残さぬ処置。

四つ目、朝廷と幕府との緊張

宝暦事件は山崎闇斎学派(朝廷の公卿の多くが信奉)による王政復古の地下運動が告発され、幕府の弾圧で関係者処分、中心人物は竹内式部。爾後朝廷公卿に一層深く浸透。

明和事件も宝暦事件と思想的関連があり、これも亦具体的計画に入る前に発覚。中心人物は山縣大弐、藤井右門、黒幕竹内式部。山縣は改革派諸藩に影響力があり、地方諸藩が連座。

安永事件(禁中賄い方の不正に対する幕府の大量検挙に名を借りた弾圧)。

更に尊号問題(光格天皇の父典仁親王への尊号宣下を幕府(松平定信)の反対で保留)が両者に突き刺さる。

以上真相は藪中であるが闇斎学派や改革派諸藩は尊王倒幕による社会の閉塞打破へとテンションを上げてゆく。幕府は幕藩体制維持を最眼目として従来の内向き政治(武家本位、鎖国、非冨民経済政策)に固執し取締強化へ。両者の緊張はますますエスカレート。

六つ、その後の活動への影響

高山彦九郎亡き後各地の闇斎派学徒は高山彦九郎の人となり、私を捨てて皇国に尽くす精神(赤心)や尊王倒幕活動の活躍ぶり等を伝承し、没後75年目にして王政復古の大号令となった。

一つ目、明治2年に公布された太政官御沙汰書

「草莽一介之身を以て勤王之大義を唱え天下を跋渉し有志之徒を鼓舞す世之罔極に遇い自刃して死す其風を聞て蹶起する者不少其気節深く御追賞被為在依之里門に旌表し子孫に三人扶持下賜賜候事 明治二年巳巳十二月  太政官」。

二つ目、真木和泉守

維新の義士の代表例である真木和泉守(久留米)は高山の後をなぞるように建武未遂の偉業即ち高山の遺志の遂行を期した。島津久光を擁して倒幕の急先鋒たらんとしたが、薩藩の公武合体派に欺かれる等高山の薩摩行きに重なる活動を継続、蛤御門の変の首謀者として敗死。

三つ目、後人の著作

高山彦九郎についての著作(作者)については「高山仲縄祠堂記」(陽明学者川田剛)及び「高山操志」(士官学校生徒時代知遇を得た、島村出身の貴族院議員金井之恭)などがある。

七つ、生涯をかけてなさんとしたもの

生涯をかけてなさんとしたものは尊王倒幕により、社会の閉塞を打破する新たな国作りである。

周囲に心を許せない環境下の草の根の活動、たった一人で魁となり、いつか山を動かす不退転の気概。自分が斃れても同志が引き継ぎ、誰かががいつかやってくれるという無私。心の底から、尊王倒幕を信じ、行動する真心《赤心》。自分の一身の危害を顧みることのない、名もない草莽の士覚悟の活動等は”心ある”後世の人の心をうつ。

終わりに

特に福島泰蔵は高山彦九郎が言った「人傑の出づるは地霊による」其の儘に故郷新田の歴史・風土から生み出された傑出した人物、高山彦九郎を敬い、学ぶ心が強かった。 

明治38年1月、日露戦争において総軍予備を拝命中に高山彦九郎になぞらえて詠んだ気概の詩。

鉄客馳駆百戦場【鉄客馳駆す百戦場】人間能重在勤王【人間能(よ)く重んずるは勤王に在り】神州男子帯長剣【神州の男子長剣を帯び】気是高山彦九郎【気は是(これ)高山彦九郎】

福島大尉が高山彦九郎に注目する最も顕著なものを挙げるとすれば尊王倒幕で新たな国作りという高い志を掲げ、己を信じ、私を捨てきって未明の中に唯ひとり魁となって断固行動する実行力である、と思う。 

未だ語らなければならない人がいる。南朝の忠臣、郷里の英雄新田次郎義貞だ。しかしもう先に進まなければならない。次の機会に譲りたい。

この稿終わり
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【よろく】高山彦九郎への福島大尉の思いを探る [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート1]


始めに

真に国を思う真心ー赤心について福島大尉が強く影響を受けたであろう人がもう一人いる。・・・高山彦九郎である。士官学校の入学試験の作文で「弔古墳記」を書き、その中で高山彦九郎の事を書いている。

(略)往年余過高山正之之墓下【往年、余、高山正之の墓下を過ぐ】実一小石碑耳、而不及此古墳也【実に一小石の碑のみにして、此の古墳に及ばざるなり】然公者絶世之丈夫、天下之義士【然れども、公は絶世の丈夫にして、天下の義士なり】故感其慷慨忠烈、乃灌酒以弔矣【故に、其の慷慨忠烈に感じて、乃ち、酒を灌ぎて以て弔うなり】(略)

士官学校受験、人生で一番緊張した状態で披瀝した、非常に強い思いである。「絶世之丈夫、天下之義士、故感其慷慨忠烈」は真物だ、と思う。どうしてこの思いに至ったのか?福島大尉は説明してくれないだろう。ここは僕自身が自分の足、目、肌で探ってみたい。福島大尉にもっと近づくために。

一つ、高山彦九郎概観

一つ目、生き様の概要

彦九郎は正之の通称。号を仲縄、上野国新田郡細谷村の生まれ。福島大尉と同郷だ!祖先は、新田義貞の馬廻り16騎の一人であったと言われている。尊王大義の大道を歩んだ人で、純忠無比の正気の士、慷慨忠烈の士。寛政の三奇人の一人と言われる。

18歳にして京に入り書を学び、2年後から広く交を求め四方に周遊、至る所の賢豪長者と交わる。

魯船しばしば蝦夷に往来するを聞き、之を憂い寛政二年北遊の途に上る。南部、津軽を経て蝦夷の境を視察し海路京に帰る。

寛政二年12月光格天皇に拝謁。同三年3月鴨川の淵で、緑毛亀を得て祥瑞として喜び、伏見宣条に謁して之を呈す。宣条之を天覧に入る。「緑毛亀は文治の兆し」は同志の合言葉。

この年再び西遊。彦九郎は、京で中山大納言愛親と睦び尊王倒幕を地方に説き歩いていたとも言われている。

寛政五年6月27日、久留米森嘉膳宅で自殺、齢47歳、同地の遍照院に葬られる。自殺の日、悉く手記する所の書を破棄、人その故を知る無し。自ら言う、狂セルなりと。然も東方帝都及び故国に向かって拍手再拝、厳然端坐。吏の検死を待って没せると言う。

二つ目、現地に立って思う

一番目、久留米

二度訪れた(平成22年4月18日、23年2月24日)。二度目は資料収集(写真撮影)の補備の為。
終焉の地(森嘉膳宅跡、写真下)。何故久留米で、しかも自死か 分っているのは京都から九州への周遊の途中と言う事だけ。

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墓(遍照院、写真下)

墓の覆屋の柱に掲げてある和歌に目が留る。高山先生辞世の句、二首。「松崎の駅(うまや)の長(おさ)に問ひて知れ 心つくしの 旅のあらまし」に旅に重大な意味があるのを感じる。自殺だからはっきりした形では残してないだろうが、是非辿りつきたい!「朽はてし身は土となり 墓なくも 心は国を 守らんものを」に私心のない、志半ばでの柱石としての死の覚悟など真に国を思う真心ー赤心を感じる。更に明治天皇御歌「国のため 心つくしの高山の 勲をなくて 果てしあわれさ」及び昭憲皇太后陛下御歌「ながらへて今世にあらば 高山の 高き勲を 立てましものを」に両陛下が歌を詠れた驚き!その歌に詠まれた国の為果たさんとした高い勲とは何だったのであろうか? 墓が国指定史跡となっているのも驚きだ。

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二番目、京都

平成23年3月25日、高山 彦九郎皇居遥拝坐像(三条大橋畔、写真下)を訪れた。

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福島大尉は漢詩「高山正之」を詠んでいる。

三条橋畔籟天来【三条の橋畔に天来を籟(よ)ぶ】誰識尊王奇傑魁【誰ぞ尊王奇傑の魁かを識(し)らん】国論雄偉前無敵【国論雄偉の前に敵は無く】眼血舌争声圧雷【眼血舌争の声 雷を圧す】

御所を真剣に拝み、気迫の満ちた魁偉な容貌はあたりを圧している。尊王倒幕活動の魁にふさわしい。傍らには忠勤が光格天皇の耳に達し、拝謁した時の感激を詠んだ歌「われをわれとしろしめすかや尊の 玉の御こゑのかかるうれしさ」がある、真心が実を結び始めた喜びの瞬間もここにある。

雄偉=すぐれて大いなり 天来=天界の神  籟ぶ=神を呼ぶ場合又は神に呼ばれる場合に使われる 舌争=口先の争い

京都御所(写真下

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御所は目線の先、真心の向うところ。光格天皇拝謁、緑毛亀献上。そのころ、岩倉邸に二百有余日滞在。この京都で何が・・・?

三番目、細谷村(現太田市)

平成23年7月3日訪れた。何故こんな凄い人物が生まれ育ったのかが知りたい・・・。

太田市立高山彦九郎記念館(写真下)

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掲示物や学芸員の方の説明をお聞きして、当時の乱れた社会情勢、闇斎学派(人脈)なるものその他もろもろについての知識を得ることが出来た。そして疑問解決のヒントになるでしょう、と一読を薦められたのが三上卓著の高山 彦九郎。

高山 彦九郎宅跡及び遺髪塚碑(写真下)

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宅地は広く、裕福な名主。耕作地は旗本や大名の共同管理地という複雑さ。彦九郎(一家)が当主にとっては厄介な存在という立札(説明板)もあり、(取締りの)厳しい中での反幕活動の実相も窺えた。

これより先は①西遊の狙いは?京都で何があったのか?②そこに至る過程は?を考え、③高山彦九郎が生涯をかけ、果たそうとしたものは何か?に迫りたい。

以下次稿に続く


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【よろく】福島大尉と勝海舟の生き様の重なりを思うーその五 勝・西郷会談 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート1]

一つ、勝・西郷会談を思う

一つ目、勝・西郷会談の概観

慶応三年(1867)10月14日将軍慶喜は武力倒幕計画の機先を制し大政奉還を行った。12月9日そうはさせじと王政復古クーデター、天皇親政始まる。明治元年(1868)1月鳥羽・伏見の戦い、幕府軍破れ、官軍東征開始。3月西郷と会談、江戸城無血開城の取り決め。4月江戸開城、5月上野戦争。

勝 海舟は明治元年(1868)年1月11日早朝、軍艦開陽丸で江戸へ逃げ帰ってきた慶喜を浜御殿の海軍所まで出迎え、鳥羽伏見の開戦と幕軍敗北の報を聞く。そこから後始末が始まる。

勝海舟は明治元年(1868)1月17日海軍奉行竝、次いで23日陸軍総裁。この日から徳川家の政治は陸軍・海軍・会計・外国事務等の総裁・副総裁によって運営。終に幕閣の最高幹部となった。

海舟はこの度の大政奉還には関与していない。慶喜の行動には常に幕府の「私」が含まれていた。が王政復古で其の「私」が粉砕され、海舟が抱いてきた真の大政奉還とでも言えるような事態が生まれた。しかし、其れもまた鳥羽伏見の敗戦で吹っ飛んでしまう。しかし、流石は海舟。その中から恭順論(勝算を持ちつつもこちらからは仕掛けないーこれを攻めるはいくら官軍であろうと”私”であり、”正”ではない)を構築し、展開。2月11日夜慶喜腹を固め、群臣に恭順を説明し、12日慶喜上野寛永寺に蟄居。

海舟の勝算とは圧倒的に優勢な海軍を利用する。駿河付近で官軍を誘い込んで待ち伏せした海軍で横様に攻撃、中央突破。しかしその策は英の介入を招き、国家の瓦礫とどまる所を知らずとなり、得策ではない。

此れから海舟は徳川の恭順の「公」は「公議」による国内一致の「公」そのものであり、これを攻める薩長は例え官軍であろうと「私」であると声高く言い、行動する。越前藩を通じての嘆願や西郷との会談を前にしての書簡がそうである。問題は東征軍に海舟の論理をどう伝え、納得させるかであった。

征東軍の大総督府は、3月6日駿府で合議、この月の15日を期して江戸城総攻撃の命令を発した。

山岡鉄舟を3月9日派遣。勝の書簡を託した
「無偏無党、王道堂々たり、今官軍都府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の礼を守るものは、我徳川の士民と雖も皇国の一民たるを以ての所以なり、且、皇国当今の形勢昔時に異なり兄弟臍にせめげども外其の侮を防ぐの時なるを知ればなり、其御処置之如きは、敢えて陳述する所にあらず、正ならば、皇国の大幸、一点不正の御挙あらば皇国瓦解乱民賊子之名千載之下消する所なからん歟」

山岡の使いは一応奏功した。勝の手紙を示し、慶喜の恭順の様子を伝え、西郷の徳川処分案を箇条書きにして持ち帰ったから。特にこちら側の意図が伝わったことを勝は喜んだ。


「三道から攻め上ってくる官軍は、江戸城総攻撃にあたり、市街地を焼きながら一気に城に突入する」と聞いた海舟は自分の嘆願を聞かずあくまでこの策を以て攻め込むのであれば我もまた焼土作戦で迎え撃つと万一の場合の腹を決める。任侠の親方や火消の頭を訪ねたり、房総に船を集め火の手が上がったら江戸川から難民を片っ端から助ける策などの手を打つ。海舟は言う「然りといえども、もし此の如くならざりせば、13,14両日の談、予が精神をして活発ならしめず、又貫徹せざるものあり」と。

二つ目、13日,14日両雄会談 於芝田町の薩摩蔵屋敷 勝・西郷会談跡碑(写真下)

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13日、万一戦争になった場合の和宮の処置が話し合われただけであっさり終わり。海舟が先着、座敷で待っていると庭の方から忠僕を従え、「これは実に遅刻しまして失礼」と挨拶しながら座敷に通った。その様子は少しも一大事を前に控えたものとは思われなかったと語っている。

14日、海舟嘆願書提出。両者の主張に相当の開き。海舟は自分の方に「公」があると信じ、外国人の前で争うのは止めようと補強している。終に西郷が譲歩。自分の一存では決められないから、明日江戸を発って総督府へ協議に行く。そこで結論が出なければ京都迄相談に帰る。結論が出るまで、総攻撃は延期。西郷は直ちに攻撃中止を命令。

西郷は会談前に英公使パークスからの申し入れ「恭順しているものを攻めるのは筋違い、居留外国人保護の手続きが取れないようでは正当な政府と認めない」の報告を受け、衝撃を受けていた。勝の働きかけは?勿論ある。

二つ、両者の重なりを思うー二つの重なり

一つ目、最悪事態に備えた本気の準備について

福島大尉は「予想外に対処できるかどうかは、その人の天賦の資質に依る所が大きいが、準備の周到と注意心によるところも大である」と語っている。特に八甲田山雪中行軍において、田代における吹雪などで目標を失し、やむを得ず露営せざるを得ない場合を最悪事態と考え、本気で準備を周到に行っている。その最悪事態に臨み、「我天に抗するの気無くば、天我を亡ぼさん、諸子夫れ天に勝てよ」と訓示し、本気の準備をそのまま実行に移す気合を込めている。

勝 海舟は万一の場合の焼土作戦を本気で備えている。その本気が(有力)町方衆や英国公使パークスに伝わり、で官軍の非道を浮き彫りにする。一方自分自身には尤も厳しい会談に臨む気合を充実させている。

両者のこれらの点が重なる。

二つ目、能く言い、能く行うについて

前掲写真の勝・西郷会談跡の碑を訪ね、そこで二人の会見図を見ながらふと思ったのは攻められているのは幕府軍、しかし、二人の間で攻めている(主導権を握っている)のは海舟ではなかったかと。

海舟はこの状況(持論が次々と封じられる困難な状況)で唯一説得力のある《恭順論》を案出し堂々と展開した。

後に述べるが福島大尉は論文「降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響」において、自己の雪中行軍等の経験に一切触れず、戦史研究、外国典令の研究、格言等のみで論を構成し、偕行社の募集に応募し優等賞を受賞した。自己(歩兵第三十一連隊雪中行軍隊長)の前人未到ともいえる八甲田山雪中行軍の成果が歩兵第五連隊遭難の鞭となることを恐れたためである。福島大尉は自分の得意を封じられた予想外の事態に、その場に適した所論を展開した。

両者が制約を課された(得意を封じられた)状況でも勝ち目を案出し実行する様が”能く言い、能く行う”に該当し、重なる。

終わりに

このシリーズを書き終えて最も印象深い両者の重なりは①全軍或いは国家全体を見据えた視点と赤心②能く言い、能く行うの2つ、である。②は赤心を突き詰めた持論(所論)があればこそ、と思う。

人生の中での最も輝く部分での両者の重なりを強く感じる。今回で勝海舟の散歩旅を終える。楽しい旅であった。

参考・引用図書:福島泰蔵の人間像(高木 勉、講談社)、勝海舟(松浦 玲、中公新書)、勝海舟(船戸安之、成美堂出版)、【新編】氷川清話(高野 澄、PHP)

このシリーズ終わり
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【よろく】福島大尉と勝海舟の生き様の重なりを思うーその四 長州との宮島会談 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート1]

一つ、長州との宮島会談

一つ目、長州との宮島会談の概観

慶応二年(1866)5月軍艦奉行再勤、上阪。6月京都で薩摩・会津を調停。8月徳川慶喜に第2次長州征伐(6月)の停戦交渉を任され、9月長州との宮島会談、上首尾。しかし慶喜は勅命での停戦を命じる。長州拒否し、立場を無くした海舟は10月辞表提出し帰府、慰留され奉行職にとどまる。

海舟の再勤は長州征伐に薩摩が反対(実は慶応二年1月薩長同盟が出来ていた)し、そのため会津と薩摩の中が険悪になりその調停の為。その間に第2次長州征伐が起こり、幕府軍が各地で敗北、家茂死去(7月21日)も重なり、幕府烈しく動揺。後見役慶喜の密使として、勝つしかいないと慶喜自らに懇願され宮島会談に臨む。

「慶喜は夫から急に己に油をかけやがって『長州に行ってくれ、天朝でも是非、お前の外には無いと仰しゃるから』などと、ひどく油をかけやがった。こっちは将軍の棺を軍艦に乗せて、帰ろうと云う思いだったが,馬鹿馬鹿しい役を言われて、承知すまいかと思ったが、まだ将軍の御葬送は済まず、将軍には恩になっているから(中略)どうせ長州で殺されるかも知れないが行ってみようと云うので行ったのさ。」

会談は9月2日宮島の大願寺(写真下)で行われた。海舟は「(略)談判といっても訳はなく、とっさの間にすんだのだ。」という。何故なのか?また「公平な処置をすると云って約束をしたのさ、」とも言う。ではその中味は? 

その辺の気分を掴みたくて平成24年1月18日宮島を訪れた。まず参拝、その足でこの会談の間に向かった。通りに面し、通りからも神社宝物館からも丸見え。血気に任せた行為は制約され、かなりオープンな空間だ。

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具体的なことを勝は言ってない。勝ちに乗り出てゆくことはないが攻めてくる限りはどこまでも受けて立つ決意の長州である。余程の交換条件がない限り納得するはずがない。海舟は再勤に際し、要人から幕府の最高機密方針「薩摩と長州をつぶしてから郡県制移行する」を聞き、持論である「郡県制移行賛成、但し徳川の私のために他の大名をつぶすことなどとんでもない。真に日本のことを考えるなら大政を奉還し、紀伊や尾張のような普通の大名になって連合政府を作るべし」を慶喜に了承させた。「奉仕心得」を提出、慶喜のサインを貰っている。「此後の御趣旨は天下の公論御採用、且、右に反し候わば、天下の目する所曲直判然」。そしてこれを停戦の交換条件とした。そのことで長州もあっさり矛を収めた。

京都に帰り着くと政局は一変していた。海舟の出発後慶喜は、海舟の応接とは別途に朝廷から休戦命令の勅書を出させた。将軍が死んだからしばらく休戦せよ、長州は侵略の地を引き払え、というはなはだ一方的高圧的なもの。これにより海舟の調停など吹っ飛んでしまった。

「もしも、このときの始末がおれの口から世間へ漏れようものなら、それこそ幕府の威信は全くなくなってしまうと思って、おれは謹んで秘密を守って辞職を願い出た。するとある老中が中へ入って周旋してくれたために、軍艦操練専務の役でもって、とうとう江戸に帰ることになった。」

二つ目、護良親王

宮島会談に際し、海舟は厳島神社に護良親王所持と伝えられる短刀を千両を添えて奉納。

註【新編」氷川清話の記述に基づき千両としたが、神官が見た氷川清話では10両であったという。

一番目、現地(宮島)に立って思う

海舟は何故短刀を奉納したのであろうか?その思いを巡らすのも旅の目的。大願寺の後、神社をぐるっと一回り。社務所前、本堂裏手から海(鳥居)が見える。

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会談の成功を祈ったのは当然。ただそれだけではないであろう。17時55分~18時25分の間、屋形舟にのり、厳島神社周辺の遊覧をした。舟は鳥居をくぐる。その大きさに圧倒され、自重60tで立っているだけとの説明に尚感服。船頭兼ガイドの「宮島自体が御神体だから、神社は海の中」の説明にびびっつとくるものがあった。

宮島は厳島合戦の地。要害山(宮尾城址、毛利元就側守備城)~塔の岡(陶晴方本陣)~厳島神社は僅か1kmもない。要害山から塔の岡は呼べば届く距離。この島を戦場にせんと要害山に城を築き、誘った毛利。乗ってしまった陶軍は2万の兵で要害山を攻めんとした。この側面を衝くべく、あらしの中、包が浦に上陸した毛利主力は博打尾根からの奇襲攻撃。陶軍大混乱、全滅。

要害山上の説明版

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要害山から塔の岡(下)(右手石鳥居の上の台が塔の岡、塔の岡の奥が厳島神宮)

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要害山から博打尾根(下)(左手奥の稜線が博打尾?)

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戦いの様相が浮かんでくる。この狭い地域では昨日歩いた神社及び同地域が戦場となり、凄惨な状況に陥ったはず。毛利が仕掛けた戦いで・・・。会談場を宮島に選んだのは海舟に違いないと思った。長州藩の祖、元就が当時の人々が”御神体とあがめる宮島”をこともあろうに戦場とし、陶軍を全滅させた。その脛の古傷を海舟は叩いた。ひと月たっても戻らない時は死んだと思ってくれと慶喜に言って出てきた。どうせ死ぬなら、毛利の非が浮き彫りになるやり方で・・。会談に臨む迫力、気合が伝わってくる。

8月25日宮島に着いた海舟は待たされる間に護良親王所持と伝えられる短刀を奉納する、その真意は?

18日21時、神社から海に向かって東側の回廊を歩く。灯篭の並んだ明かりが綺麗だ。ライトアップの明かりが目に入らない所では鳥居(写真下)が一段と綺麗に見え、心が澄んでくる。静かに宮島旅の目的を思う。

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「大政奉還後の国作りを徳川も一大名となって長州などと共に力を合わせて行う。天皇親政を助けて、民を富まし、外国の侮りを受けない国作りに励む。明治の中興を報告して足利氏の「私」による建武親政の頓挫や親王が命を絶たれた無念をお慰めしたい。」ではなかったか。

これは長州に護良親王への思いを伝えることで”勝はこんな男だ”と安心させ。待っているから卓についてくれ。一緒に国作りをやろうという海舟のメッセージでもあった。

この時の長州は公武合体派から追われた尊王攘夷派がクーデターを起こして、政権を握り、誰もが予想しなかった勝利を得て、幕府の権威を打ち砕き、新しい世の中への展望を拓いた直後。海舟の戦略は凄い。

福島大尉の漢詩に護良親王を詠んだものが数多くある。明治親政の原型となる建武の中興の立役者でありながら足利尊氏の讒言により土牢に囚われの身となった。最後は非業の死を遂げた護良親王の無念を思い、不義・不忠を許さない思いを強く表現している。そのうちの一編。
  
土牢感有り

南風無力事終非【南風力無く事非(よこしま)に終わり】土窟空留碧血衣【土窟空しく留(とどむ)碧血の衣】茲恨欲忘不忘得【茲(こ)の恨み忘れんと欲するも忘るるを得ず】二階堂谷御魂飛【二階堂谷御魂(ぎょこん)飛ぶ】

南風=夏の風、南朝の勢い 碧血=生血

註 親王は後醍醐天皇の第三皇子。延暦寺の大塔に居りしが故に大塔宮とも言われた。建武中興の時、征夷大将軍であったが、足利尊氏と反目し讒言にあい建武元年10月捕えられ11月鎌倉に護送され足利直義に預けられ、東光寺の一室(土牢)に幽閉さる。ついで2年7月、北条高時の遺子時行蜂起(中先代の乱)し、鎌倉を襲うや直義これを防ぎ切れず西奔。この時22日の夜淵辺義博をして親王を弑せしむ。亡年28歳、後年この地に鎌倉宮を建て之を祀る。 

二番目、護良親王の土牢(鎌倉宮)を訪れて思う

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平成22年9月25日上記「土牢感有り」を手に鎌倉宮を訪れた。土牢ではなく塗籠めの一室とも言わているが、狭い空気の澱んだ湿気ばかりの土牢に1年有余閉じ込められた。その不衛生・不自由さを思い、首が飛んだという最後の地、妖気漂う、に立ち、その無念を偲び、不義・不忠の罪深さに胸が痛んだ。

不義・不忠について、福島大尉の干戈説中の一節が浮かぶ。「干戈の彼此、顧うに、其の用いる者如何にあるのみ。夫れ、人の智に於けるも亦、相い同じ。」武人が心すべき言葉である。 

二つ、重なりを思うー二つの重なり

一つ目、真に国家を思う真心ー赤心について

福島大尉の冬季行動標準作りは陸軍全体を見据え、第八師団の義務であり、自分の使命と考えて行動した点に特徴がある。勝海舟は徳川幕府の在り方について真に日本のことを考えるなら大政を奉還し、紀伊や尾張のような普通の大名になって連合政府を作るべし、海軍も一大共有の局とすべし、徳川の「私」を捨てるべしが持論であった。その真に国家を思う真心ー赤心即ち今属している組織の「私」にとらわれないで真に国を思う心は両者重なっている。

二つ目、護良親王について

以下の二点に両者の精神の重なりを感じる。①明治国家の原点ー建武親政にならい王政を復活し、民を富ませ、外国に侮られない国作り。大名や軍人が「私」を捨て力をあわせ、忠誠を尽くす国作りを誓う。 ②足利氏の「私」により、護良親王が力を尽くした建武親政の挫折と命を絶たれた親王の無念をお慰めする。

この稿終わり

余談

この宮島旅は当初私としては日帰り、数時間滞在の予定であった。旅のコーデネートと同行の旧友亀さんの意見でゆっくり泊まって宮島を楽しむ旅となった。偶然福島大尉関連の古文書解読の面倒をお掛けしている仰木三知子さんから宮島は夜景がおすすめと聞き、到着後確認すると夕方から夜にかけての屋形舟があるという。乗ってみると船頭さんの説明が実によい。宮島・厳島神社の知識がぐっと深まった。ただ、明りがありすぎて夜景は思った程ではない。終って、ホテにチェックイン、食事時間をずらして貰っていたので、直ぐ食事にかかる。驚いたことにホテルは聚景荘、神社の東のすぐ裏手。部屋からの夜景、鳥居の眺めが素晴らしい。それならばと食事後夜景を求めて散策、数分で海沿いの回廊に出て、絶妙の夜鳥居に感激。翌19日は雨中、ホテルから借用した傘をさし、合戦場(跡)を巡る。亀さんは一眼デジタル望遠カメラ一式装備を抱え雨に濡らさない苦心、それに加え早々に求めた沢山のお土産も大変そう。でも訪宮島の目的に合う答えを見つけた。日帰りでは絶対に辿りつけなかった、厚意と予想外が重なった得難い境地!亀さんと仰木さんに感謝!

この稿終わり
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【よろく】福島大尉と勝海舟の生き様の重なりを思うーその三 幕臣勝海舟の飛躍・活躍時代 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート1]

一つ、飛躍・活躍時代の概観

一つ目、渡米

万延元年(1860)正月13日派遣批准使節、品川出帆。咸臨丸随行、勝海舟は実質的艦長役。途中アメリカ人船員を乗せ浦賀港を経て一路太平洋を東へ。サンフランシスコ到着は日本歴2月26日(陽暦3月17日)、43日間、正使をのせたボーハタン号より12日先着。大歓迎を受ける。

帰路についたのは閏3月18日(陽暦5月8日)。桜田門外の変直後に帰着。

二つ目、海軍操練所建設

平成23年10月25日 海軍操練所跡(写真下、神戸市海岸通り京橋交差点NTTビル前)の碑の前に立った私の胸に響いたのは一大共有の海軍局を作るという海舟の壮大な気宇であった。

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幕臣でありながら日本国家の海軍を、という構想。具体的には人材を幕臣に限らず諸藩にも広く求め、諸藩の軍艦も含めた連合艦隊を作る。その開明性があだとなり、反幕活動に与する生徒も紛れ込み、操練所は閉鎖となる。海舟も睨まれ、禄・私財没収の上蟄居、沙汰を待つうちに幕府は海舟どころではなくなり、命を拾う。不思議な浮き沈みの人生ではある。

次いで海舟自筆の海軍営之碑(写真下、当初の操練所跡から諏訪山公園の高台に移設)を訪れた。神戸港が一望のもとに見下ろせる碑の前でかっての操練所を偲び海舟が見たであろう神戸の海を見て海舟の気分に浸る・・・。

日本海軍と神戸港発展の礎を築いたのは勝海舟なのだ・・・。

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この碑の前で食べたおにぎり4個も格別に美味しかった。エルチョロ店主(京都府八幡市男山)心づくし、鯛めしを竹の皮(いまどき日本では手に入らない大きさとのこと)で包んだ絶品。

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三つ目、さて本題・・・

帰国後海舟は海軍の技術官僚としての地位を固める。万延元年6月蕃書調所頭取助、文久元年(1861)講武所砲術師範役。文久二年(1862)7月軍艦操練所頭取、閏8月軍艦奉行並み、この頃坂本竜馬が門下に入る。

文久三年(1863)将軍家茂の大阪湾視察に従い、神戸の海軍操練所建設の許可を受け、同時期に姉小路公知に海防を説き、朝廷・幕府双方の認知を受け、一大共有の局へ踏み出す。

5月軍艦奉行、諸太夫安房守。11月罷免、寄合。同年末、海軍操練所閉鎖。

四つ目、一大共有の局ー海軍

勝海舟は文久二年閏8月19日城中で、松平慶永の問に「当今乏しきものは人物なり、皇国の人民貴賤をいわず、有志を選抜するにあらざれば、極めて其の人得難からん、唯幕府の士のみを以てこれに応ぜしめんと欲せば、盛大得べからず」と答えている。翌日の御前会議では、沿岸防備計画「わが邦にて軍艦三百数十挺を備え、幕府の士を持ってこれに従事せしめ、海軍の大権、政府にて、維持し、東西南北に軍隊を置かんには今よりして幾年を経て全備せん哉」に対し、海舟は「五百年」かかるだろうと答え会議をぶち壊す。幕府が幕府中心ではなく、幕府の私を捨て、日本国家のための政治をしなければならない。その為に一つは侯伯一致(朝廷・諸侯連合政府)であり他の一つが海軍を、人材を広く求めて盛大にし、開港に見合う国力を持つ、事である。外国の干渉を目前にして争っている場合ではないとの考えが背景にある。

海舟は将軍家茂を自分が指揮する順動丸にのせ、大阪湾一帯の警備状況視察の最初の伴をする。文久三年(1863)4月23日神戸の海軍操練所建設を直談判し、決めさせ、私塾を作ることも認めさせてしまう。

4月25日国事参政右近権少将姉小路公知に海防を説き、午後には船に乗せ説明。つき従う檄派志士等120余、大いに談論、同意。そのためもあってか5月9日、攘夷のためには堅艦巨砲が必要、製鉄所建設すべしと布告。勝は海軍に関し、朝廷と幕双方からの信任を受ける。

元治元年5月 海軍操練所の人員募集布告「今度、海軍術大いに興させられ、その支配の摂州神戸村へ操練所御取建に相成り候に付、京阪奈良境伏見に住居の御旗本・御家人子弟厄介は勿論、略有志のものは罷り出修行いたし、(略)委細の義は、勝安房守に承合せらるべく候」。海舟が目指すところは「一大共有の海局」、幕府は勿論諸藩の人材も悉く集めて、日本の軍備体制を一新」。幕・諸藩連合艦隊を作る。


坂本竜馬に海軍と言う技術を手を取って教え、「民豊論ー共和政治論」横井小楠とのつなぎをつけてやったのは海舟。ここで習ったことを竜馬はのちに亀山社中や海援隊へと具体化、それを軸として薩長同盟を結ばせる。そのことによって竜馬は、海舟が描いて描き切れなかった統一国家への道を真っ先に切り拓く。広く人材を集める効果がこういう形で身を結ぶ。

海軍操練所は血気の士を沢山抱え、騒然としており、蛤御門の変以降、海舟は幕閣ににらまれた。徳川の私権強化の方針と一大共有の海局を目指す操練所の方針が根本的に背馳している。しかも蛤御門の変以降追求を受けている激派浪士やその関係者がかなりいる。10月22日、帰府の命、11月10日御役御免、逼塞。神戸海軍操練所も正式に閉鎖。

二つ、重なりを思うー全軍或いは国家全体を見据えた構想

福島大尉は国難対露戦ー冬季・大陸総力戦を想定し、冬季行動標準つくりが急務と考えた。それは雪国衛戍部隊にしかできない。誰かがやらなければならないとしたら、それは第八師団がやる。それは義務であり、自分の使命であるから・・・と考えた。決して誰かがやる、とは考えない。人任せにはしない。

勝海舟は海軍つくりを早くから構想し、建議した。「文久の初め、攘夷の論、はなはだ盛んにして、摂海守備の説、また囂々たり。予、建議していわく、『よろしくその規模を大にし、海軍を拡張し、営所を兵庫、対馬に設け、その一を朝鮮に置き、ついに支那に及ぼし、三国合従連衡して西洋諸国に抗すべし』と。朝廷、予の建議を賞美し、昭徳公(将軍家茂)またこれを嘉納す」。幕府のではなく、日本国ー一大共有の海局としての海軍である。

国家の在り方を見据えて、やるべきと考えることを実行する。属する組織の私を捨て、決して自分の任務・使命を局限してその中に閉じこもることをしない。福島大尉の冬季行動標準作りと勝海舟の一大共有の海局つくりとはその精神が重なる。

参考・引用図書:【新編】氷川清話

この稿終わり


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【よろく】福島大尉と勝海舟の生き様の重なりを思うーその二 誕生・立志から伝習所時代 [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート1]


一つ、生まれてから江戸軍艦操練所教授方頭取拝命までの概観

一つ目、生まれ

文政六年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町ー旗本小普請組の父勝小吉の長男として、父の実家男谷家(写真下:『勝海舟生誕之地』碑,現両国公園)ーに生まれる。幼名麟太郎、長じて海舟。
 
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二つ目、修行

少年時代、剣術は島田虎之助に習い直心影流の免許皆伝。師の勧めで禅も習う。16歳で家督相続。蘭学は永井菁崖に弟子入り、師の専門は地理学。しかし本人は西洋兵学を修めた。古い日本の兵法では西洋に立ち打ちできないという見通しがあったから・・。日蘭辞書『ブーフハルマ』58巻を、1年がかりで2組筆写した話は有名。損料10両を払うためもう一組筆写し、それを売り払って充てたという。その向学心や凄し。

三つ目、小普請から有役幕臣となる

嘉永三年(1850)には田町に私塾(蘭学と西洋兵学)を開いた。海舟28歳。時恰もペリー来航3年前。外国船の来航はますます盛んとなり、通商の要求や嘉永二年(1849)のイギリスの江戸湾内自由航行と測量等を受け、幕府は江戸市中に於ける鉄砲の製造を許可し、諸藩は競って江戸藩邸などでの練兵を行うようになった。藩士留学や鉄砲注文が舞い込み、海舟の名声は次第に高くなっていった。この時海舟が幕府に登用される緒が出来た。某藩の依頼で野戦砲を作ることになった時、雇った鋳物師が神酒料として大金を持って来た。圧銅の量ごまかしに目をつむってくれというわけである。諸先生皆受け取っているからあなたも・・・。海舟は激怒し、その金で圧銅の量を増やし精巧の砲を造れと厳重に申し付けた。この話しが巷間につたわり、大久保忠寛(一翁)の、耳に入った。安政二年(1855)正月1日、大久保から声がかかる。下田取締掛手名目で蘭書翻訳従事。

嘉永六年(1853)6月6日ペリーが軍艦4隻で来航、慌てふためいた幕府は国書をうけとって、お引取り願った。1年後に返事をもらいに来るとの課題を抱えた幕府は諸大名に意見を聞いた。外様大名にも意見を聞くというのは前代未聞。勝麟太郎も7月12日付で意見書を提出した。これも大久保の目に留まった一つであろうか。

四つ目、長崎伝習所

オランダは幕府の新艦2隻注文とは別に蒸気船を寄贈し、航海術を教育する旨通告してきた。これを受け幕府は伝習生の派遣を決定。勝海舟は安政二年(1855)7月、蒸気船運用伝習の命を受け、長崎へ赴くことになった。伝習と西洋兵学の勉強に専念出来る機会に恵まれたことになる。伝習所は奉行別宅の西役所に開設(写真下『伝習所跡』碑、現長崎県庁本館横)。

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勝は伝習生中の幹部として、矢田景蔵と共に任命。この年、幕府派遣の伝習生は45名、諸藩からの伝習生は128名。期間1年。科目は航海術・運用術、造船学・砲術、船具学・測量学、算術、機関学。又安政三年には造船所を造り、コットル船の製造開始。

五つ目、海舟長崎残留、開運

安政四年(1857)3月、目途がついたので、江戸に軍艦教習所を作ることになり、帰還させると共に長崎では引き続き新しい伝習生に教育を継続。幹部では海舟一人自ら残り、円滑な教育や作りかけのコットル船と製鉄所建設に注力。残留は海舟の運を開いた。咸臨丸と出会い、島津斉彬と面談して後の西郷との縁が出来た。長崎に渡来する諸外国の船員や軍人を応接し、外国知識を得、人脈を作った。

一番目、咸臨丸との出会いとコットル船での遭難

安政四年8月5日オランダ新任教師陣、日本に引き渡すヤッパン号(咸臨丸)に乗って到着。9月新伝習生到着。同年秋、新着の教師と共に咸臨丸で遠洋航海、五島・対馬・釜山沖。四年夏完成したコットル船で日本人だけの遠洋航海を試み西へ向かったところ大暴風雨に会い、遭難一歩手前。覚悟を決めた海舟の指揮で生還。

二番目、島津斉彬との出会い

安政五年3月15日、遠洋航海で薩摩訪問。島津斉彬は指宿から山川に駆け付け劇的出会い、後で思えばの話であるが、をした。直ぐ後で斉彬病没。斉彬が西郷に海舟の事を話していたのが後に二人の出会いに大きく影響。
薩摩訪問にも曰くがあった。教習での遠洋航海で下関に立ち寄った時、海舟が艦長兼教官のカッテンダークにこの足で薩摩への出航を提案し、応諾を得て、薩摩へ。前述の斉彬との出会いとなる。海舟が仕掛けた何かがあったと思わせる出来事ではある。でもその仕掛けが後の西郷との出会いとなる。その最初の出会いで、西郷は公武合体派から倒幕、薩長同盟へと薩摩藩の舵を切る。最初の出会が協同作業(権力移行即ちなめらかな新しい日本つくり)の始まりであり、同じ地で眠ることへとつながる。

三番目、同五年日米通商条約締結

批准使節派遣に同行候補者(艦長)として、勝が浮上。西洋兵学と航海術の第一人者としての名声が齎した。長崎残留が結果的に無駄ではなかった。渡米の準備と長崎伝習所縮小(幕府方針)により、安政六年正月5日江戸へ向け朝暘丸、咸臨丸より1年遅れて前年5月オランダから届いた、で出航。暴風雨にあい、遭難一歩前を脱し、正月15日江戸着。江戸は安政の大獄のさなか。大久保忠寛等の開明派が次々に失脚。海舟は江戸(築地)の軍艦操練所の教授方頭取拝命。この時期海舟には未だ粛清の対象となるほどの力はなく、お目こぼしに会う。2月9日長崎伝習所中止。
 
二つ、生き様の重なりを思うー三つの重なり

一つ目、『時代を見通す先見性と特技で地歩を築く』

福島大尉は師範学校在学中、当時国家として導入始めたばかりの地理学へ猛烈な関心を持ち、教程を借りて筆写した。その後も教導団、陸軍士官学校生徒時代を通して独学を続けた。

「万国地理問答序(略)此の学科を教官宇田川準一先生に受く、先生授くるに地学教授本を以てす此の全部合せて六篇悉く暗唱するに難し依って先生に請い篇中の大要三百六十有余題を撮し得たり此処に於て先生の著せし所の地図に依り日夜砕励終に五大州の山川地勢人種風俗宗教政体都邑等の主なる者を記憶する事を得たり嗚呼我の数月間の勉強を以て一室に万国の地理を知り得たるは真に先生の恩賜なり(略)明治十八年梅雨の日群馬県師範校裡に於て記す一介生福島泰蔵」


その後地理学、地図作成を特技とするユニークな陸軍士官となった。国難対露戦に備えた冬季大陸での行動標準確立を自らに課し、雪中露営演習、岩木山雪中強行軍、夏季強行軍を行う際にその特技は大いに役立ち、次の展望を一歩一歩と切り拓いた。

勝海舟の蘭語(西洋兵学)の勉強、時代を見る先見性
平成23年7月6日、生誕の地の碑の前に立った私が感じたのは蘭学を学び、世に出んとする強い志であった。蘭語を習い初め(その後西洋兵学も修め)て10年後、塾を開いて5年後にペリーの黒船来航である。時代の先を見通し、志を立て、途を拓いた。小普請組でありながら蘭学と西洋兵学で身をたてようと考えた志の高さと学問をやりきった実行力が際立つ。

そして西洋兵学&航海術ー特技で地歩を築く
平成23年11月16日長崎県庁横の伝習所跡の碑の前に立った私が一番強く感じたのは残留である。誰かが残らなければならない、とすれば自分が・・。その残留によって運が開けるから不思議だ。 

江戸の軍艦操練所開設の為、殆どの者が帰還する中、希望して海舟は残留し、結果的に西洋兵学と航海術の第1人者への道を歩んだ。やがて次の扉ー江戸軍艦操練所教授方頭取になり日米通商条約批准使節同行者に選ばれる。

両者が時代の先を見通して地理学や蘭語ー西洋兵学に志し、特技を身に着け、その特技で門閥等に頼ることなく自力で地歩を固め、働き場を拡げた生き様は重なる。 

二つ目、『能く行い、能く言う』

福島大尉の書いた各演習実施報告や啓発・提言の論文或いは各種提案書などは彼の見識があふれている。陸軍の片隅にいる単なる一将校のそれではない。国家・陸軍全体と兵卒一人一人を大事にする思いに溢れ、しかも行動を伴う。

勝海舟の能く行い、能く言う
ペリー来航に際し、我が国は如何にすべきかの意見書提出。新進西洋兵学者としての専門的知見を披露。
江戸の守りを固める。この為台場の位置などを工夫し、軍艦を建造。諸国と交易し、その益を以て国防の費用とする等。真に国を思い、行動する。

両者の意見書提出の気概やその内容には国家の在り方とそのために今何をなすべきかの思い、真に国家を思う真心ー赤心があり、行動を伴っている。

三つ目、『冒険する心ー挑戦する心』

福島大尉は雪中露営演習や岩木山雪中強行軍で予想外の寒気、暴風雪に遭遇している。厳しい場を自ら求め、挑んだからに外ならない。その厳しい場であったからこその貴重な経験を得て、次に臨む。八甲田山も厳冬期(1月)に挑む。大失敗はしない、大失敗は次のステップがないから準備を本気で周到にする。「戦場の予想外をなくすため、平素厳しい訓練をして未知を減らさなければ・・・』と福島大尉は言う。

勝海舟の冒険心 
勝海舟談「安政四年秋、伝習所の学年替わり、残ったものでコットル船で遠洋航海をやろうと思って教師に願い出たところが『天気が危ないので先に延ばせ』とのこと。難船しての死は覚悟していたので、強いて出かけた。教師はたいてい15,6里位を限りにして、それより遠方にはでるなと親切に注意してくれたが、深く耳に止めずに、五島あたりまでは何のことなく進航した。その先で暴風がやってきて、帆も舵も利かない。アッツと言う間に流されてしまう。錨も届かない。「おれはそこで、もう駄目だと思って、『自分が愚かで教師の命令を用いなかったために諸君にまでこんな難儀をさせる。実に面目ない次第だ、自分の死ぬるのはまさにこの時だ』と叫んだ。ところが、水兵どもはこの語に励まされ、再び勇気を回復して万事俺の指図に従ってくれて一同全力を尽くして海岸の方へ寄せ付けた。海上で夜を明かし、船体を応急修理し、他人の手を借りずに長崎に戻った。すぐに教師の所に行き、命令に従わなかったのを謝した。教師は『それは良い修行をした。いくら理屈は知っていても、実際に危ない目に遇ってみなければ船のことは分からない。危ない目といっても十度が十度ながら各別なので、それに遭遇するほど航海の術はわかってくる』と教えた。この時に俺は、理屈と実際というものは別だということを、いよいよ明らかに悟ったよ(新編氷川清話要旨抜粋)」

両者が冒険し、挑戦してより厳しい状況下で実地に究めんとした姿勢は重なっている。

この稿終わり
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【よろく】福島大尉と勝海舟の生き様の重なりを思うーその一 勝海舟三回忌に哭く [よろく 福島大尉を訪ねる旅ーもののふの心パート1]


始めにー書き飛ばした思い

「何故八甲田山?その五-強い心の芯」の最後で書き飛ばしたと書いた。本筋は何か?の思いを大事にしてきたが一区切りついたことで書き飛ばした強さ、義の心や真心の在り様についてもっと触れたい思いが強くなった。例えば勝海舟、高山彦九郎は福島大尉にとってどのような存在?郷土や両親に対する思いはどのように発現されたのか?残された遺族・親族の思いは?などについて思いつくまま散歩気分で思いを巡らしたい。まずは真心ー勝海舟から。

一つ、勝海舟三回忌に哭く

勝海舟三回忌は明治34年、ゆかりのあるものが集まり、弘前で行われた。その席で福島義山は上記表題を即吟し、声涙下る詩を捧げた。
其一
涙何遥向九原流【涙何ぞ遥かなる九原に向いて流るる】人絶琴絃各自愁【人は琴絃を絶ちて各(おのおの)自(おのずか)ら愁う】吾亦三秋如一日【吾もまた三秋一日の如し】追思地下韓荊州【追思す地下の韓荊州】

琴絃=音曲、音楽 韓荊州=勝 海舟を韓荊州になぞらえている

其二 
馬鬣封成万戸候【馬鬣(ばりょう)封は万戸の候を成す】忌辰今日是三週【忌辰(きしん)今日(こんにち)是三週】東藩故旧焚香哭【東藩の故旧香を焚きて哭(こく)す】煙鎖寥宵白玉楼【煙は寥宵を鎖(とざ)す白玉の楼】

馬鬣=馬の鬣(たてがみ)の如細く長い形に土を盛った墓 忌辰=忌日 万戸の候=一万戸の住民の住む領地を持つ諸侯 白玉楼=文人の死してゆく楼
 
馬の鬣の如く長く続く墳墓は恰も万戸の大名に似て殷盛である。個人の忌祭の今日は、ああ三回の忌である。曽っての江戸の古き親しき友は香を焚き捧げ声をあげて泣いている。立ち込める香の煙はさびしく消えてゆき文人の死を悼むばかりである。
         
其三
七尺明旌玉樹沈【七尺の明旌玉樹沈む】生芻一束涙沾襟【生芻一束涙襟を沾(うる)おす】淡交不負張邵意【淡交負(そむ)かず張邵(ちょうしょう)の意】死支応知范式心【死しては応(まさ)に知るべし范式(はんしき)の心を】

明旌=才知優れた人が指揮する旗 張邵意=卓越の貌  

註 威風堂々とした偉丈夫は今はない。一束の刈ってきた枯れたまこもにも遷化して、涙はとどまる所を知らない、生涯翁との交わりは淡くとも張邵の誠におとるものではない。死してはもとより范張の深い心の交わりを知るべし。

其四
逝者音容奈叵停【逝者の音容は奈叵(いずかたにか停まる】聴無声又現無形【聴くに声無く又現(うつつ)に形無し】三回忌祭行香処【三回の忌祭に香を行(すす)むる処】喚起英雄不死霊【喚起す英雄不死の霊】

註 亡き人の姿も声も、いずこにましますやら、もとより今は声なく眼前にお姿さえない。今日三回忌に香を捧げ、英雄の不死のみたまよ永遠に照覧あれと喚び祈るばかりである。 
                     
この詩は私には難しい。さはさりながら勝海舟を思う福島大尉の気持ちは伝わってくる。どのような交流を思い出していたのであろうか?人となりや事績などから受けた心の共鳴や感化についての思いだった気がする・・・。墓の形を知っていることには関心の強さを感じる。葬式直後に埋葬された墳墓に足を運んだのであろうか?そうでないとすればどうして知ったのであろうか?いずれにしても思いの強さに心うたれる。私は平成23年7月6日夕、洗足池畔(大田区南千束)の海舟夫妻の墓(下写真)を訪れた。確かに長方形の土盛りがあり、その前面に墓石が建立されていた。参道も入れると地域は馬鬣の形容が相応しく細長い。

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留魂祠と石碑(下写真)、西郷隆盛の死を悼んで勝海舟が明治16年に建てた、も同地にあった。

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留魂祠は勝海舟が西郷隆盛の遠島・流島の間に読んだ詩「獄中感あり」の一節「願はくは 魂魄を留めて 皇城を護らむ」から命名し建てた祠。

西郷赦免に動いた海舟の動きの証、留魂詞を訪ねて先ず木下川薬師・浄光寺(葛飾区東四つ木)を訪ねた(平成23年7月6日午後)。しかし、海舟の希望で移された、洗足池方面に移ったらしいとのこと。その足でそのまま探し尋ねて現地着。

二人並んで洗足池畔に眠っていた。三つの縁で繋がれて・・。共に己の私を捨て、新しい日本国家を見据えた勝海舟と西郷隆盛が・・・。最初の縁、海舟の幕府を外した雄藩連合構想に触発され、倒幕へと舵を切った西郷。二回目の縁、江戸無血開城談判、西郷の度量と勝の気合。三回目の縁、征韓論に敗れ、西南戦争で賊徒と堕した西郷赦免に動く勝。

徳川将軍ゆかりの浄光寺に留魂祠と石碑を先ずたてたことに勝の大きなこだわりがるような気がしてならない。又自分の死と共に並んで眠る、勝海舟ならではの大きなロマンか・・・。

西郷隆盛に対する畏敬の深さも感じる。国家の大事を託すに足る大人物、幕末ひそかに恐れたのは横井小楠の思想を西郷が行うことだった。又江戸城開城談判やその後の江戸ー謂わば無政府状態にあるーを後は勝さん宜しくとばかり預けて行ってしまった度量の大きさがその因であろうか。

詩に戻る。勝海舟を韓荊州、万戸を治める諸侯(大名)、文人の大家そして英雄とみなしている点及び卓越した誠(真心)を持った交わりであった、と言っている点に福島大尉が勝海舟に共鳴している何かがあると強く感じる。二人の交流の内容については資料がなく、良く分からないが海舟の著作、生き様に福島泰蔵が共鳴した価値観などがあったに違いない。

その何か?を探る散歩ー勝海舟を辿る旅を始めたい。

旅は意外な幕開きで既に始まっていた。

二つ、旅の幕開き

一番目、墨田公園と藤田 東湖

福島少年が筆写・清書した藤田東湖の「正気の歌」について、その発見以来、彼の魂の成長の過程にどのような影響を与えたのであろうか?が私の脳裏から離れなかった。私は平成22年6月19日、小梅町の屋敷跡、墨田公園の一角にある『藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑』を訪れた。

藤田東湖は、父幽谷の後を継ぎ、水戸学・攘夷論を纏め上げ、藩主斉昭の幕政の中枢への抬頭と共に引き立てられ、失脚とともに職を解かれた。正気の歌は幕末の尊王倒幕義士に大きな影響を与え、義士は高らかに歌ったという。

墨田川の土手から道路を隔て40mほどの地点の公園内の碑(下写真)の前に立った時、東湖が小梅町の屋敷に幽閉中に心を千里に躍動させて作った日本賛歌の気分ー天皇中心の日本を思う、その美しい日本には正気が満ち、国難に際してはその正気が日本を救ってきたーが私にも伝わってきた。 8才の福島少年はすでにその気分(真に国を思い、国難に際し役に立つ人になる)を写し取っていたのだ。

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しかし福島泰蔵はその人生の中で多くの詩作や著作を残しているが、その中に藤田東湖の名は出てこない。少年の時にあつく刻印されたのであれば、何かあるはず。何故ないのだろう?と思いながら暫し佇んだ。

佇む私に、碑から東湖の無念が伝わって来た。それは斉昭公の失脚に関わるものであって、何か混じり気があって正気とは違う気がした。そう考えると東湖は能く言う人ではあるが能く行動する人ではない、様な気がして来た。この点が福島泰蔵が東湖の事に触れていない理由かな、と納得。

三つ、愈々海舟旅の始まり

銅像は勝海舟
帰途、来る途中で目に留まっていた銅像(下写真)、主は誰だろうかと近づいて見ると、勝海舟であった。随分立派なつくりで、建てた人達の勝海舟敬愛の心と世に伝えんとする思いの篤さ・強さに感じ入った。

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幕臣勝海舟の事は咸臨丸艦長となり、日本人最初の太平洋横断を行った。日本国海軍の基礎を作った。官軍の東征に際し、西郷隆盛と談判して江戸を惨禍から救い、江戸城明け渡しを行った人という位の認識に過ぎなかったが、ここは良く見てみようと近づいた。

墨田区教育委員会建立の「勝海舟略年表」板(下写真)に、その一生の活動歴が記してあった。西郷隆盛と徳川慶喜の赦免に尽力した記述に目が止まった。西郷隆盛には痺れた。

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今、私の中で、藤田東湖、西郷隆盛、勝海舟を結ぶ線が墨田公園でつながったのだ。単なる偶然ではない縁を感じた。上記三人の関係についてはブログ「何故八甲田山?その五強い心の芯ー真心」で述べた通り。上記三人を言葉で繋ぐのは勝海舟。中心人物(キーマン)である。

終わりに

福島泰蔵大尉の生き様は勝海舟に重なる点が随分あると感じている。多分それは福島大尉が共鳴したり、感化や影響を受けた為であったり、価値観が一致するからなのであろうと思う。それをこれからのよろく旅で確かめたい。

参考・引用図書:福島大尉の人間像(高木勉、講談社出版サービスセンター)、【新編】氷川清話(高野澄、PHP)、勝海舟(松浦玲、中公新書)、勝海舟(船戸安之、成堂出版)、藤田東湖の生涯(但野正弘、錦正社)

この稿終わり
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