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福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③ ブログトップ

熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩み-その十六 黒溝台会戦総括 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③]

始めに

本稿はブログ「ああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?ーその一~九」に対応させている。

前稿の勢いを作った奇勲と奇縁を、事を為す視点で考えると、奇勲は福島大尉が人生で四番目に為した、即ち最後に為した事であり、四つの奇縁はこの事を為した、熟者に繋がる要因である露軍及び露軍との戦い方に関する知見の高さを表すもの、と捉えることが出来る。

一つ、為(成)した事ー勢いを作り、黒溝台奪取につなげた

露軍はこの戦いで、日本軍の第3軍の北上と奉天付近集中を妨害する事。新鋭の増強戦力を投入して、あわよくば日本軍を蹴散らす事。この戦いに勝利し、総指揮官をクロパトキンからグレっぺリング大将に替え、負け、後退続きの戦いに終止符を打つ事などを企図した。

日本軍はこの戦いに勝利し、露軍の企図を粉砕した。この意義は大きい。黒溝台の会戦に敗れたなら、彼我の戦力格差は益々広がり、講和に有利な勝ちを得られない。仮に敗けないにしても黒溝台から沈旦堡を取り戻せなかったら、決戦の為の戦力集中が思うに任せなかった、であろうし、或いはそのまま釘付けとなり極めて不利な体勢で露軍に有利な決戦を強制されたかもしれない。

27日に蘇麻堡をとられたが、状況を固定化することなく俄然攻勢に出た。28日に決戦中隊を投入して、勢いを作り、取戻した。この決死の戦いが露軍の根負けを呼び、黒溝台奪還に繋がった。

福島大尉のなした勢い作りの意義の大きさ即ち奇勲の程が良く理解出来るというもの、である。日本軍が国力目一杯、ぎりぎりの状態で戦っていた実情を考えるとその意義は更に大きく映る。

二つ、事を為した要因ー露軍及び露軍との戦い方に関する知見の高さ、先見の確かさ

奇縁の一つ、一つをよく見てみると、ある事に気づく。

一つ目、大きな志への歩み

28日の決戦、虎の子の予備隊としてその焦点に位置していた事は将に天意ではあるが、志の大きな方向に向かって歩み続けた。その歩みがあったから、天がその場に立たしめた。要するに32連隊10中隊長であったから、につきる。その事は福島大尉が人として、将校として”守るべき”義”を大事にし、国家や周りの人などに”真心”を籠める生き方をして来た結果であった。つまるところ、露軍に学び・並び・越える(勝つ)を追求したその一途さ・深さ・高さに天が感応した、結果と感じる。

二つ目、持論となった知見

冬期は休戦ではない、今冬露軍は攻めてくる、露軍の将官の指揮ぶりに問題ありなどの啓発・提言は論文「影響」や論文「一慮」で明らかにされた。いわば福島大尉の持論となった知見である。その持論となった知見は益々決戦中隊長福島大尉を篤くし、我慢強くした。

三つ目、先見力

その知見はならではの先見力に拠っている。冬期は休戦ではない、今冬軍は攻めてくる、の言は戦史を広く深く研究して将来戦とりわけ対露戦の様相を先見洞察した結果である。又露軍の将官の指揮ぶりに問題ありの言は積み重ねた正攻法の露軍戦史研究から生まれた。本戦役でその見通しの確かさが証明された。
前稿で述べた黒溝台の会戦以外でもその事例を挙げるのに事欠かない。

一番目、遼陽会戦(8月28日から9月3日)、

日本軍右翼第1軍の渡河成功を聞いた31日昼、露将クロパトキンは予て用意の交代命令を発した。理由は日本軍の兵力を過大に評価し左翼正面の戦闘継続不可能と判断したからであった。その渡河成功と豫め用意した敵軍の後退が日本軍左翼の2,4軍のものともしない攻撃前進を呼び、9月3日露軍は遼陽を明け渡した。

二番目、沙河の会戦9月10日から17日)、

本会戦は日本軍の戦力不足や弾薬・糧食の不足に気づいた露軍が始めて攻勢を取り、日本軍が反撃した形で始まった。激戦の余り、会戦2日目から3日目の夜、露軍の東部軍司令官シタケりベルグは自ら始めた攻撃を続けても成功は望めないと勝手に判断し、後退。3日目の12日、今度は露西部軍が後退を始め、両軍の間の空隙が生じた。これを日本軍に突かれる恐怖で更に後退し、17日までに日本軍が沙河に進出して小康状態となった。露軍の連携の悪さとクロパトキンの指揮力に問題があった。

三つ、現地に立って思うー故福島少佐の葬儀が示す、為した事の偉大さ

標記見出しの記事が弘前新聞(明治38年3月29日)に掲載されている。それによると葬儀は明治38年3月28日弘前徒町の成田寅之助宅を出棺、新寺町の報恩寺にて葬儀が執り行われた。喪主は娘の操。郷里からの実弟甚八始め親族・在弘各部・部隊長・その他官及び一般の会葬者500人。

注目すべき点がいくつかある。私は平成25年9月20日同寺境内に立ち、小さなたたずまいに意外な感じを持ちながら葬儀の気分に浸った。
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一番目、準師団葬とでもいうべき葬儀の在り様

出棺の葬列は前駆騎兵3騎、儀仗兵が従い、陸軍歩兵之を曳き、棺の後には儀仗兵・御殿騎兵2騎従う。報恩寺の葬儀に際し、儀仗兵吊れ銃斉発の礼を行う、とある事。

二番目、棺前に呈された弔文・弔詞に仏教3派の座首・貫首が名を連ねている事

天台宗座首大僧正山岡〇澄、大本山永平寺貫首森田悟由並びに総持寺貫主西有程山、真宗本願寺派本山。

後に福島泰蔵碑を天人寺(群馬県世良田村、天台宗)に建立する旨の願書が天台宗座首から県知事に提出され、同知事の許可を得ている。福島泰蔵と報恩寺(後述)と天台宗座主と天人寺を結ぶ縁の線が浮かぶ。

三番目、報恩寺である事

報恩寺は、明暦元年(1655年)江戸で死去した三代藩主信義の菩提を弔うため、翌二年 に四代藩主信政が創立したもので、以後、歴代藩主の菩提寺として重きを為してきた寺。

歴代の津軽の殿様の菩提寺で葬儀が行われた。福島少佐は殿様竝の扱いであった。そして同寺は本来曹洞宗であったが天台宗に改宗された由、それで棺前の座主・貫首の弔文の意味が分かった。殿様の葬儀では座主・貫首のかかわりが大きかった、その例に倣った、のであろう。

四番目、大戒名「真泰院殿忠融義山居士」である事

平成20年7月18日、福島大尉の直孫である倉永幸泰氏の自宅(長崎県諫早市多良見)を始めて訪問し、仏前に手を合わせた時、此の戒名を目にした。同氏から津軽では殿様でないと戴けない有難い戒名です、とお聞きした。この驚きが、福島大尉にもっと近づきたい、と思った大きなきっかけであった。爾来今に至る迄、私は倉永氏の”大戒名”の思いをそのまま大切に温めて来た。

この準師団葬で津軽の殿様竝ともいえる盛儀を思っているうち、何故山形ではなく弘前だろう等の疑問が湧いて来た。その答えを探しているうちにある思いに辿り着いた。この葬式を弘前で、しかも盛大にあげたい人がいたのだ。それは立見師団長・・・。単なる名誉の戦死以上に、福島少佐の為(成)した事の偉大さやその強い生き様を讃え、強い心の通い合いの最後をどうしても殿様竝即ち最高の格式をもった武人として送りたい、との思いが籠められていると感じる。

終わりに

従って、福島大尉の研究調査などの研鑽態度やその知見が収斂されて、人生で最後、四番目の事を為(成)すに繋がった。3度目の青森旅で、報恩寺は大きなプレゼントを私に用意してくれていた。

この稿終わり
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ああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?ーその九 奇勲を齎した奇縁を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③]

始めに

成し遂げた奇勲について、愈々、思いを纏める時が来た。奇とは珍しい、思いがけないの意、従って奇勲とは思いがけない勲のこと。棚からぼた餅式の偶然の幸運ではなく、努力・誠を尽した上での天の時・地の利・人の和が合わさった即ち”思いがけない天意”に恵まれる勲の意に福島大尉は用いている、と解釈する。

この時に於ける奇勲については全軍の勢いを作った事につきる。唯、その内容に福島大尉ならではの奇縁がある。ここのところが奥深い、と感じる。それを深堀するのが本稿の狙いである。その奇縁は4つあり、それらについて、思いを巡らす。

一つ、決戦の時と場所の焦点に居る奇縁

戦線崩壊の危機に瀕した時、その窮状を救い、我が全軍の勢いを作って、敵を破り、黒溝台奪取に繋げる中心的働きをしたのが福島大尉指揮する決戦・予備たる第10中隊であった。前稿で将に天の配剤と表現したが、福島中隊はこの会戦の勝敗を分ける焦点にいた訳である。昨年の10月上陸以来、1戦も交えず予備の中の予備であり続け、最後に残った2ヶ中隊というなけなし、虎の子として温存され続けた。乾坤一滴の大戦(おおいくさ)に虎が野に離される如くに立見師団長から解き放たれた。行け!福島大尉!

二つ、かって誰よりも先に声高く、冬期は休戦ではない、と啓発・提言したが最後の最後でその戦線に加わる奇縁

懸賞論文「降雪積雪の戦術上に及ぼす影響」において啓発・提言した最も大きな点は従来冬期休戦が当たり前であったが、装備や戦術の近代化により冬期は休戦ではなくなった。故に冬季に戦えるよう戦術・兵器を開発し、訓練しなければならない、と声を大にした。

福島大尉は弘前中隊長着任以来、その持論を具体化する為、営々と実行に移し、一連の演習や実験行軍並びに研究調査を積み重ねてきた。自発的に発意し、挑戦して成果を出す成功体験の積み重ねである。その自信と余裕が集大成である八甲田山雪中行軍を決断させ、無事の成功へと導いた。

冬季は休戦ではない、冬季に備えるべしを実行してきた第1人者としての自負はこの大戦(おおいくさ)で、露軍を呑み取る程に大きな戦意の迸り、となって中隊を包み込み、当然のように、全軍の先頭に立たしめた。

三つ、露軍は今冬攻めてくる、と提言した、にもかかわらず急襲された。戦線崩壊の危機にその修復そして勝利の大命を奉じて自らの緒戦を戦う奇縁

偕行社記事臨時増刊第1号(明治37年11月号)に掲載された論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」において今冬露軍は攻めてくる、と警告した。満州軍総司令部は年初以来の露軍の動き、秋山支隊の報告にも係らず、に鈍感で油断したまま、1月25日、我左翼に、露軍10万5千の急襲を受けた。対するのは秋山支隊。黒溝台も放棄の止む無きに到る。その状態を救い黒溝台を奪回できるのは総予備の第8師団。強行軍で大台へ急行、26日早朝から攻撃開始。しかし、戦力不足は否めず、側背を包囲され至る所で戦線は進まず崩壊の危機、損害も甚大。27日に第2師団を左、28日には第5師団を右に、他正面から転用し、増加投入して、両側を固めようやく同日(28日)早朝から攻勢発揮できる態勢とした。この間第8師団は持ち駒の3ヶ旅団すべてを展開し3昼夜連続の戦闘、拘置した予備は僅かに第32連隊の第3大隊(2ヶ中隊、在福島中隊)のみ。遂に戦機を看破し、なけなしの予備を投入する局面が訪れる。じりじり待たされて、その大命を奉じた自らの緒戦、敵に対するや否や、今冬攻めてくると言い切ったものならではの俺がやらねばの闘争心を燃え滾らせ、我に続けと突出していった。

四つ、戦いは我慢比べ、先に崩れるのは露軍なぜなら露将の指揮ぶりに問題があるから、を先見・洞察・公言した奇縁

同じく偕行社記事臨時増刊第1号に掲載された論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」において露軍の評論のなかで、将官の指揮に問題あり、そこが我の付け目であり勝目である、と(の大意を)述べている。

この論文自体は前年6月には提出しており、日露戦役での結果は当然承知していない。しかし、各会戦では福島大尉が指摘した通りの事象となり、我が軍の戦勝に繋がっている。何れもぎりぎりの我慢比べ、となり、露軍が先に崩れた。将官の指揮ぶりに問題があり、そのクラックが致命傷となった。

黒溝台会戦(1月25日~30日)、雪辱を期していた露軍は、増強された軍を1~3軍に再編成し右翼2軍(長グリッペンベルグ大将)に日本軍左翼の中心にある沈旦堡を急襲攻撃させ、之に無傷のミシチェンコ騎兵集団も協力させた。2軍の沈旦堡奪取後に1,3軍もそれぞれの方面で攻勢に入る計画であったが、1,3軍は積極的に助けようとせず、いわば傍観者の様に戦況を眺めていた。この連携の悪さが日本側の2,5師団の抽出転用を可能にし、対応の余裕を与えた。黒溝台正面の戦闘は激烈を極め、露軍が27日には蘇麻堡を占領し、同地と沈旦堡の線を確保するかに見えたが、日本軍の猛烈な反撃即ち28日の決戦、虎の子の予備・福島中隊などを投入した、で奪い返した。この夜、クロパトキンは電話で第2軍司令部に電話で撤退を命じ、露軍は攻撃開始地点に下がり、本会戦は終わった。

28日の決戦で、福島中隊が作った勢いが蘇麻堡を奪取し、露軍自らの転び、撤退を呼んだ事は疑いも無い。進栄退辱で頑張り抜く、そうすれば敵は必ず根負けする。それまでの間に中隊が全滅しても構わない、先に露軍が手を挙げれば無駄死にはならないのだ・・・。福島大尉はこれを先読みし、誰よりも強く・固く信じ、実行して見せたのだ・・・。

終わりに

全軍の勢いを作り黒溝台奪取につなげた奇勲には4つの奇縁が絡まっていた。奇縁1~3は闘争心を誰よりも烈しく燃え上がらせ、奇縁4は兎に角頑張り抜く、不屈のこころを切らさない働きがあった。

本稿をもってああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?シリーズを終わる。終わりに当たり、純粋に、自らを信じ切り、実行に徹しきった即ち能く言い、能く行う域に到達した者に天が与えたご褒美がこの奇縁であり、奇勲であった・・・、ように私には思える。

このシリーズ終わり
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ああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?ーその八 立見師団長の思いを思う [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③]

始めに

福島大尉の最期を立見師団長はどう見ているのだろうか?同師団長撰文の福島泰蔵碑にその答えがある。

一つ、冒頭は棄命

破堅陣挫頸敵為国家棄命 非忠勇義烈不能也【国家の為に命を棄て、堅陣を破り頸敵を挫く忠勇義烈に非ば能(あたわ)ざる也(以下略)】

黒溝台の戦いにおいて福島中隊は最後の最後まで温存された虎の子の予備。従って投入された時点は戦い3日目、黒溝台に一歩も近づけないまま迎えた3日目である。損害は増え続け、至る所戦線崩壊の危機に瀕していた、我も苦しいが敵も苦しい胸突き八丁の時であった。福島中隊が投入された地点は開闊地にある丘埠であり、敵の砲・機関銃・小銃弾の集中地帯。攻撃前進しては徒に損害を重ね、頓挫を繰り返していた。天の配剤の妙!この戦いの焦点に福島大尉が居る!

決戦・予備中隊の使命は敵を破り、戦勢を動かし、黒溝台を奪取する事。このような大戦を任された以上、損害や頓挫は念頭にない。勝つ事だけを念じる。このような戦いに勝つ事は軍人として最高の名誉である。この名誉を得る機会を与えられたのは我が第10中隊を含め2ヶ中隊のみ。この為、決戦中隊は名をこそ惜しめ、火の玉となって敵陣に突入する、のみ。福島大尉は命を棄てて先頭に立った。

進栄退辱を部下に求め、自らも先頭に立って棄命を実行して見せた。その実行力は将校の率先躬行の鑑(かがみ)である。

敵に真正面から挑み、命を棄て、黒溝台奪取の勢い(後述:勢いを作った功)を作った。その軍人の本懐を遂げた生き様は何物にも代えがたく、尊い。

自分(立見師団長)の檄(27日夜「全滅を期して突入せよ」)を真っ先に体現して棄命を実行した。t旅団長との確執があっても、自分の共感者であり続けた師団長の為に真っ先に命を棄てる。士は己を識る人の為に死す、と言わんばかりに・・・・。

第五連隊遭難に遭遇した予想外、旅団副官就任と旅団長との確執そして第32連隊中隊長へ転属した一連の予想外という紆余曲折があったからこそ、大命を果たす場に立った時、死すら念頭になく使命を果たす心境となった、に違いない。

常に自分の意図を体し、全軍の為、身を挺して、先頭に立ち、冬季行動標準作りに挑んでくれた。特に八甲田山雪中行軍・田代台の露営に於いて「吾人若し天に抗するの気力なくんば天は必ず吾人を亡さん諸子夫れ天に勝てよ」と訓示し、不遜とも思える不退転の決意を強制した。この棄て身が特に忘れがたい。棄て身で国家に尽くす、が福島大尉の福島大尉たる所以だ。

だから棄命を冒頭に書く。

二つ、勢いを作った功

三十七八年役属我麾下戦干満州黒溝台【立見尚文作】
                      三十七八年の役に於いて、我麾下に属し、満州黒溝台に戦う

其将闘也諭部下曰 進栄退辱公等不可期生還 辭気壮烈士気大振 乃乗勢突敵々色乱 君益進會砲丸中其面而死 以下略【進栄退辱、生還を期すな、と部下を諭した。士気大いに振い勢いに乗じて敵を突き大いに乱れる。君益進んで砲丸其面に會し、死す。】

決死の覚悟とその実践は部下の士気を高め、戦いの勢いを作りだし、黒溝台奪取に繋がった。 

この稿終わり
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ああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?ーその七 鬼神!と化した壮絶な生き・死に様を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③]

始めに

先ず、私の心に強く響いたのは最後に見せた、人としての生き様・死に様の凄さである。まずはそこから・・・。

一つ、最後の訓示

福島大尉は従卒の後日談によると、28日午後1時頃、古城子を出発する時、部下に次のように訓示している。

「わが中隊は後詰の中でも最後の後詰で精力を蓄えてきた。今日は師団長閣下から全軍全滅を期して黒溝台に突入せよとの訓示があった。最後の新手はわが第10中隊である。決して他中隊に遅れを取ってはならん。後詰中隊の名誉に責任が掛かっている。黒溝台一番乗りは万難を排し、第10中隊が決行する。今日は全員護国の鬼となって頑張ってくれ。自分が先頭に立つ。自分が斃れたら、指揮官にはこれまで訓練してきたとおり、つぎつぎにかわりののものがなる。小隊長も分隊長も同じことだ。黒溝台に突入したら誰でもよい、山形歩兵第32連隊第10中隊の万歳を唱えてくれ。この大使命を果たすためには、たがいの屍を乗り越えねばならない。負傷者が出ても見捨てて先に薦め。負傷して落伍した場合は、命ある限り、進め、進めと、声をあげてくれ。分かったな」

二つ、柏原中尉の手紙ー福島大尉の最後

福島大尉の部下であった柏原英三郎中尉が未亡人きえに宛てた手紙【弘前新聞第2127号(明治38年2月19日)掲載】に福島大尉の最後の様子が語られている。現場で行動を共にし、中隊長と小隊長の上下という、最も濃密な関係にあったものの言は信ずるに足る。以下要点のみ抽出。

「黒溝台の戦闘は開戦以来の激戦で新鋭数倍の大敵に対し、初陣元気の我が師団も以外の苦戦仕り為に多大の損害を受け、当連隊にては連隊長負傷、三村湯浅両大隊長の戦死を初め将校のみ〇〇名を損失仕り候。

当日我が中隊は第一線なる〇へ増援の命を受け28日午後1時半古城子を発し老橋より散開仕り候。敵は地物に拠りて小銃及び機関砲を発する事、豆を掴んで投ずる如く左前面及び右斜め十数の大砲を以て榴散弾を連射餘り天地朦々耳目共に明らかならざる状況に之有り。

此間に在りて我が福島大尉殿には自ら先頭に立たせられ部下を督励し自若として邁進せられ候處、3時頃砲弾飛び来たりて胸部を貫き遂に壮烈なる名誉の戦死有らせられ候。ご遺族の愁嘆は実に恐察の餘りとは存知候え共父と仰ぎし隊長の復仇とて部下一同勇気百倍遂に目的を達し候条は偏に中隊長殿のご勇壮なる戦死と其の英霊の御庇護による次第。(以下略)」

三つ、鬼神と化した生き・死に様

訓示や柏原中尉の手紙から浮かんでくるのは後詰の後詰として待ちに待った、と勇み立つ心と何としても黒溝台を取り返す決意のもと、”どんな事があっても”進め”、自分が先頭に立つと宣言し、その通りに行動した指揮官の姿。

福島大尉は進栄退辱を命を棄て、率先躬行して見せた。人生の最後に母との約束を守り、有言実行を体現し大言に終わらせなかった。その鬼神と化した壮絶な死に様は彼の生き様そのものであった。

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上記の日の丸の旗は平成23年7月4日福島家に於ける親族の遺品確認の際、でのもの。これからの大戦(おおいくさ)に備えた訓示と対(つい)をなすものであろう。

彼の遺品として戦場から送り返されてきた、と言う事は福島大尉が(従卒に)作らせた事は衆目の認めるところであった、からであろう。

指物を通す袋縫いの無骨な粗さに福島大尉の”進め””進め”の強い思いを感じる。ついている血糊の跡?は福島大尉のものであろう、ここにも彼の気魄が残っている。

参考・引用書籍等:福島大尉の人間像(高木勉)、弘前新聞第…号(明治38年2月20日)

この稿終わり
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ああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?ーその六 戦いの焦点に立ち、先駆けて死す [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③]

一つ、露軍急襲ー第八師団前へ

日本軍は沙河の会戦(10月10日~17日)に勝利したが追撃の余力がなく、沙河を挟んで100kmに亘り対峙し、越冬していた。1月25日未明、突如露国第2軍団10万5千百が日本軍の左翼、秋山支隊に(騎兵旅団主体、黒溝台は種田支隊守備)襲いかかった。

事前の不審な動きを察知した秋山支隊からの報告にも係らず、厳冬期本格的攻勢はあるまい、と油断した満州軍総司令部は対応が遅れ、同日正午、慌てて第8師団に、黒溝台方面の敵攻撃を命じた。

第8師団は10月中旬、沙河に到着後、満州軍の総予備として大藍旗(黒溝台南方20km)に位置していたが、命を受け、気温零下27度の吹雪の中、昼夜連続行軍で26日夜明け迄に、全部隊、一兵も損する事無く、大台付近に進出した。

第8師団は他の師団(2ヶ歩兵旅団主体)と違い、第4旅団(長依田少将、5・31連隊基幹)、第16旅団(長田部少将、17・32連隊基幹)に加え特別に後備歩兵第8旅団(長岡見少将、後備歩兵第5連隊・同第31連隊・同第17連隊の3ヶ連隊基幹)が増強されていた。

二つ、26日攻撃開始~28日奪回態勢確立迄の概要

午前7時戦闘命令下達。右翼、後尾歩兵第8旅団老橋付近地区(に展開)から黒溝台攻撃。左翼、第4旅団、蘇麻堡・頭泡の線(に展開)から黒溝台攻撃。予備、第16旅団(在32連隊3大隊10中隊即ち福島中隊)、古城子付近待機。第1線部隊は降りしきる雪の中、開闊地での展開を余儀なくされ、甚大な損害を出しながら死闘を続けたが、次々に増派される露第2軍に左右両翼隊の側背を逆に包囲され、黒溝台に近付くどころか至る所で戦線崩壊の危機に瀕した。

これより先25日夜、黒溝台守備中の種田支隊を師団命令で退却させたが、黒溝台を占領した露軍は更に強固な陣地を築いて居座ってしまった。事の重大さに気づいた総司令部は他の正面から2個師団を引き抜き、臨時立見軍を編成。27日の朝迄に第5師団(広島)を、28日朝迄に第2師団(仙台)を増強した。

漸く、28日午前11時頃、第8師団の右翼に第5師団、左翼を第2師団として、両翼を固め、黒溝台を奪回する態勢が整った。

三つ、第八師団の戦闘経過と福島中隊ー福島大尉、緒戦で戦死

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《第8師団戦史 黒溝台付近之戦闘一月二十八日 付図第八 蘇麻堡付近抄撮》

第8師団は27日払暁、第16旅団(田部旅団、32連隊3大隊を除く)を中央に投入、右翼後備8旅団(岡見旅団)、左翼第4旅団(依田旅団)と部署変更した。予備は第16旅団32連隊3大隊(長湯浅少佐、12中隊を除く10・11中隊、即ち在福島中隊、在古城子付近)。

田部旅団は左縦隊(32連隊)が蘇麻堡東端に到着後展開し、岡見旅団は老橋西南の現陣地に展開し、黒溝台前面の敵を攻撃した。依田旅団は頭泡正面を攻撃した。

損害多く、戦況進まず。27日真夜中、余りの苦戦に、立見師団長は各部隊に1月28日全滅を期して敵軍に突入せよ、と檄をとばした。

翌28日午後2時35分、岡見旅団長から立見師団長への報告で、最後の予備湯浅大隊は岡見旅団に配属された。

午後3時20分到着と共に、同旅団長隷下の後備歩兵第第17連隊に増加され、直ちに黒溝台前面の老橋西方1000mの小丘阜付近に展開した。同小丘阜は28日午前11時25分、同連隊が占領したが、開闊地の小高い丘で格好の射撃目標となり損害続出していた。福島中隊は湯浅大隊の基幹中隊であった。

湯浅大隊はその保持を確実にする為、前面の陣地攻撃に投入された。同大隊も熾烈な銃砲火を浴び、機関銃等の掃射界を強行通過しての攻撃前進で、多くの死傷者をだした。この中、軍刀国安を振りかざし先頭に立ち、進んでいた福島大尉は胸を撃ち抜かれ壮絶な戦死。午後4時頃であった、という。本戦争での緒戦、しかも開始僅か40分後であった。

四つ、戦いの焦点ー立見師団長の思いと福島大尉

総予備は、戦況の急変に即応するとともに決勝点における勝ちを得る為最後まで温存する兵力である。湯浅大隊がまさに該当する。湯浅大隊を何時どこに投入するか、が立見師団長の28日に於ける最大の関心であった。最右翼、老橋正面の岡見旅団は3日連続の激戦、敵の強圧下で損害も多く、進むどころか守勢鈎形が精一杯であった。蘇麻堡正面の田部旅団、頭泡正面の依田旅団は最も厚い正面で進めない。

師団長は足がかりの出来た老橋正面の小丘阜の重要性に鑑み、ここまで温存した湯浅大隊投入を決断した。もう師団の虎の子の予備は使い尽くす。乾坤一擲、背水の決戦・・・である。その狙いは小丘阜の保持を確実にし、該正面から戦況を打開するか又は蘇麻堡正面の勢いを増すと同時に岡見旅団への強圧を減じる、にある。

この戦いの焦点に、最後まで温存した予備隊の福島中隊が居る。天の配剤の妙!天がこの場を作ってくれた!福島なら、この苦境を打開する乾坤一滴の勢いを必ず着けてくれる。福島大尉を手元に置き続けて来たのはこの日、この時の為、と立見師団長は秘かに思った違いない。

一方福島大尉は大命の為一身を捧げるは将校の本懐である。将に今がその時・・・。しかも前夜の立見師団長の檄を真っ先に体現するのは自分しかいない。”士”である己を知る人(己の理解者立見師団長)の為死す、はこの時、と心中深く期すところがあった、に違いない。

五つ、その後の戦いに観る奇勲

29日朝、師団は露軍の一部退却を察知、烈しい反撃を受けつつも黒溝台を奪回した。福島大尉亡き後の第10中隊は28日、師団夜襲に参加し、29日、渾河を越え土台子に進出し、最前線で敵の黒溝台奪回に備えた。福島大尉の遺志を引き継いで・・・・。

遺志と言えば以下の漢詩を思い出す。

直ちに渾河を越えん
已略遼陽指北辺【已に遼陽を略し、北辺を指す】我軍所向固無前【我軍の向かう所固より前無し】他時破敵又何処【他時敵を破り又何処】直渡渾河是奉天【直ちに渾河を渡れば是奉天】

10月24日、三家子で詠んだ詩ではあるが、前へ、奉天への遺志は中隊員の心に生きつづけている。

日本軍、第8師団は強烈な意志の戦い、先の見えない中での根競べ、に勝った。福島大尉は真っ先に立ち、死して、全軍の戦意を奮い立たせ、露軍を怯ませる勢い、退却に繋がる、を作った。

投入された日本軍の総兵力53800名、損傷9324名、内訳戦死1848名、損傷7249名、俘虜227名。露軍の損傷11743名、内訳戦死641名、戦傷8989名、失踪1113名。

福島泰蔵は少佐に進級し、金鵄勲章受賞。

終わりに

福島大尉の死に方はドラマチックというか、ものを思わせられる所が多い。本稿を書きながら、いくつかの思いが次から次に湧いてきた。次号から3回(と予定するが)程、それらのテーマについて思いを巡らしたい。

この稿終わり
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ああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?ーその五 戦い前の心模様 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③]

始めに

戦に臨み一度も戦わず、総予備として待機する間の心模様の一端を拾ってみたい。

一つ、我没後我が名を記せ

郷友に寄す

此行唯在致丹誠【此行唯丹誠を致すに在り】絶寒風雲不思生【絶寒の風雲生きるを思わず】一別托君身後事【一別君に托す身後の事】新田祠畔記吾名【新田祠畔吾が名を記せ】

10月末偵察行からの帰還後、故郷平塚村赤城神社の渋澤神官の子息嘉津間に送った漢詩。没後も記憶にとどめてくれ、転じて碑等建てて欲しいの意。戦地に入り、死が常に脳裏にある心境を心許せる友に伝えている。

二つ、心身”湯”快

湯浴戯作より
裸体軽投大甕中【裸体軽く投ず大甕の中】偏歓湯沐奏奇行【偏に湯沐を歓び奇行を奏す】火伴争観玆考按【火を伴いて争い観る玆(こ)の考按】却優君実救児童【却って優君、実は児童を救う】

優君=おどけ戯れる人、湯沐=湯をふりかける意、児童=この場合周りで見ている隊員のこと。

12月、中隊長の責任で大甕を調達させ、陣中での入浴と洒落こんだ。福島大尉の入浴への拘りであり、統率スタイルである。お風呂は入っている人を無邪気に明るくしし、見ている周りの人も楽しくさせる。この一時の安らぎが今までの戦塵を払い落とし、明日からの大戦(おおいくさ)への英気を奮い起こさせる。

明日から愈々八甲田山越え、という前日、村落露営を予定した増澤部落では、食事は遠慮したが、入浴は強く依頼し、全員沐浴させた。その事が私の脳裏に強く残っている・・・。

三つ、決意ー今後は軍刀で奇勲を奏す

福島大尉宛てに、12月1日付で東京偕行社編纂部から偕行社臨時増刊第1号に論文一慮が掲載された旨の通知と共に同増刊号が送られてきた。早速これを父泰七に知らせている。

「別紙に申し上げし記事の儀はなかなか立派のものにして表題は偕行社記事臨時発刊第1号としてあり開巻第一に一般陸海軍人に賜はりし勅語を太字にて朱書しあり。又寺内陸軍大臣の旨憲書其の他将官の論文などもあり小生の分は第三番目に記載しあり。少しは一般軍人に利益を与えしことと存知(以下略) 12月30日
欄外に出版記事は元より秘密にして将校でなければみられずとの注釈あり」

「両三日前に甚八へ申し送りし通り当夏中小生の著述せし『露国に対する冬期作戦上の一慮』と申す本戦役に関する意見書は立見師団長に呈して賞詞を賜り又この度東京偕行社に於いて発刊せられ駐内在外の各部隊即ち日本全軍の将校に分配せられ聊か小生の身に光彩を添えたる次第に付御喜びくだされたし。是れ迄は少しく筆を以て他人に知られ候得共今後は筆を擲ち軍刀にて奇勲を奏し度きものと日夜心眼致し居り候。以下略   12月30日 満州三道覇にて」

この掲載を以て目指してきた、八甲田山雪中行軍などの実験や論文などの活動で一廉の軍人になる、は達成した。今後は今までとは決別し、戦場働きで奇勲を奏して見せる、の決意に溢れている。

四つ、意気軒昂

御題新年山

青丹新開剣舞莚【青丹新たに開く剣舞の莚】拳杯睥睨塞雲辺【杯を拳げ睥睨す塞雲の辺】征夷従是幾千里【征夷是より幾千里】何擬班超費十年【何、班超に擬して十年を費さん】

菁丹=元旦の意

旅順も陥落し新た思いで迎える新年。愈々第3軍も集中しての奉天決戦で露軍を一挙に屠る時が来た。内地での長かった待機からやっとの思いの出国・上陸であったが、その後も総予備のまま。うずうずしてきた。矢張り戦いの中こそ我が本懐・・・。

元旦師団司令部には多くの将校が参集、立見師団長の賀詞を戴き、福島論文も激賞を受け、やがて酒宴となった。この席で即席で作ったのがこの詩、この詩を吟じつつ、愛刀堀川の国安を用いて、即興の演武を行った。一世一大の演技を共にした軍刀こそ、奇勲を奏す我が力強い手足。

五つ、進栄退辱

中隊の隊員に徹底したのは戦いに臨む勇猛果敢な心である。これを進栄退辱と称した。進む者は栄光に輝き、退く者は恥辱に塗れる。与えられた任務・使命は必ず果たす。敵は必ず討ち果たす。この為前へ前へと進む。一歩も引いてはならない。怯むな、命を惜しむな。戦場の我慢比べに勝たねばならない。

これは自分に言い聞かせる言葉でもあり、率先陣頭にたってやってみせる決意の表明でもあった。

この稿終わり

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ああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?ーその四 弟甚八への書面にみる”奇勲”観 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③]

始めに

陣中から弟甚八に宛てた明治37年12月30日付けの書面がある。冒頭「此の手紙はコゴトなり」の断りから始まり、先日の其許の手紙に対してはシカト申し送ったが尚不足を左に記して送る、との強烈な内容である。余程腹に据えかねた事があった、のであろう。それは何か?以下順を追って、適宜抽出しながら、見て行きたい。

一つ、迷惑な神祭り

有難くはあるが改めて神仏に百度を踏まずとも神仏は能くわが身を守るなり。予の身体は甚八の心願一つによって以如何様になるように書いてあるが、予は汝に心願を頼まず、汝は汝の事を神仏に祈るが良し。他力ではなく自力を信ずる生き様の琴線を違えた物言いに対するコゴト、であろう。

二つ、功名観

功名手柄が出来ねば生きている甲斐がないとか故郷の人に面目がないとかいうがその物言いを聞いた人は何と思うか。若し甚八が信州へ(蚕の:筆者註)種を引きに行くとき汝この度万一損をしたら最早2度と家へ帰るなと父が云ったら好き心持がするか。

兎に角我が一身の功名よりも国の存亡と云う事が常に念頭に在りて、功名の人と歌われることなどは思うておらぬ。なかなか勲功などということは時が来たり運が来らねば思う通りに上手くはゆかぬ。裏の菜畑から菜を一本抜いてくるのとは少しく趣が違う。

勅命で転勤をいきなり命ぜられたり、厳しい戦場環境で何時病気に罹らぬとも受容は出来ない。先ず先ず我々のように無事に働き居るは仕合せの方なり。

功名が出来ねば生きがいがないとか早く昇進が出来ねば村の人に面目ないとか、いらぬお世話なり。

先ずは国家や軍に対する真心を込めた奉公・献身が第1である。其の上で時や運があって始めて勲功を立てることが出来るのだ。人に誇る為でもないし、手柄を立てる事が目的でもない。”勲功”の大元の考え方を教え諭している。甚八の理解のない物言いに対し迸り出た奉公・献身で積み上げてきた赤心の思いであろう。

三つ、無礼の段,言語道断

汝、恩と言う事に心が附かず。恩に心が附かぬゆえ人に無礼の事が多し。汝は予が大阪に在る際何と云うた。金の事等は彼是言はで戦場に早く行きて働けと云う文句がありたり。言語道断にして予は奮然としてこの時汝の書を破りて地に投ぜり。是等は云うて聞かせずとも如何に馬鹿でも分る事なり。今日他人が汝に対して多少の敬意を表するは孰れのお蔭なるか能く記憶せよ。

四つ、不敬の手紙

手紙のことに付て一言す。汝は兄に向い頗る不敬の句調あり。不敬の点が文字に現はるるは実に憎むべきことなり。又早く戦場へ行きて働いたらよかろー、軍人にして功が無ければ生きた甲斐がない、そうすべし、あーすべし、見た、聞いた等何ぞ其の無礼なる。予は此の汝の不遜なる手紙を讀む毎に極めて不快なる感を起こす。上位の人が下位の人に云うが如き注意を受けぬとも普通の考え致し居れる。今後此れの如き不敬の書は有難き無き故送らずとも良し。

五つ、小纏め

弟甚八に対しては、日清戦争前に甚八の為に書き残した小事実録を始めとして、訓育に勉めて来た。16才年下の自分亡き後は跡取りになる弟であり、一家の主柱としての自覚を持たせる思いが強かった。戦場での手紙のやり取りの間に特に功名に関する窘め、注意の思いを契機として、他人の価値観への思いやりのなさや不敬等についてコゴトが噴出した。このコゴトハ無心に赤心を持って使命を果たすのみ、の信念の吐露である。功名・手柄を求める心は邪道に過ぎず、あくまで天のみぞ知る結果に過ぎないという戦場における研ぎ澄まされた心境を述べたもの、と言える。

終わりに

唯この時期、戦場に在りながらなかなか戦線に加われない苛立ちと然しいつ来るかもしれない出番に遅れをとってはならない緊張感の同時進行。そんな気持ちの高ぶりを鎮め、忘れさせてくれるのが父や弟等への手紙。心許せる弟には思わず知らずその心象風景が映し出されたのかもしれない。然しこの口うるささは勿論弟への厚情の深さ・篤さの裏返しであろう。

この稿終わり
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ああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?ーその三 児玉総参謀長との会見を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③]

一つ、上陸頃の全般状況と福島大尉の思い

一つ目、第8師団・山形歩兵第三十二連隊が上陸した頃(10月14日)は沙河の会戦の最中であった。

日本軍が遼陽から敗走する露軍を追撃できず、而も戦闘力回復に手間取っている事を察知した露軍は俄然戦闘意欲を取戻し、10月5日、攻勢に出た。旅順に第3軍が釘付けになっている間に、遼陽の北方に陣を拡げていた日本軍を太子河の左岸に押し戻し、うまく行けば大打撃を与える狙いであった。兵力は19万5千人、対する日本軍は13万1千人で明らかに露軍優勢であった。沙河は太子河にそそぐ小河で、地点としての沙河はこの河が南北に走る鉄道と交差する地点の僅か南に位置していた。

この攻撃を受け、日本軍は10日になって、攻勢に転じ、本格的な戦いが始まった。11日~12日の夜にかけて露軍東部軍司令官は、自ら始めた攻撃の成算なし、と勝手に判断して、後退し、12日には西部軍も後退を始め、全体として日本軍が優勢になったが、一進一退を繰り返した。

17日~20日、に日本軍は沙河左岸迄進出し小康状態に入った。露軍の死傷者・行方不明者は4万769人、日本軍の死傷者は2万497人であった。

二つ目、福島大尉の思い

この戦いでも露呈したのは露軍各軍司令官(将官)の連携の悪さとクロパトキン大将の全軍を仕切る力量不足であった。福島大尉は論文「一慮」において露土戦役に題材を取った自らの露軍評論(将官の統帥・指揮に問題あり、つくべきはこの弱点)の確かさを確認し、同時に早く北進しなければの歯がゆい思いに身を揉んだ事であろう。

二つ、児玉総参謀長との会見

一つ目、児玉総参謀長に謁し、戴いた特命

以下の3首をもとに思いを巡らす。
渾河を渡らん

巳略遼陽指北辺【巳(すで)に遼陽を略し北辺を指す】我軍所向固無前【我軍の向う所固より前無し】他時破敵又何処【他時、敵を破り又何処】直渡渾河是奉天【直ちに渾河を渡れば是奉天】

10月24日 三家子にて、三家子は烟台(師団司令部)の近く。沙河の対陣は北進の様子を見せず寧ろ冬営の感すら漂う。この機を逸しては露軍を屈服させられない。直ちに奉天へ向かうべし、の意。論文「一慮」で強く訴えた露軍の戦力未完に乗ずべき、この冬を外したら露軍が手を挙げる事はない、との歯がゆい思いが伝わってくる。
某大将閣下に謁す

砲響新轟聚噴〓【砲響新たに轟き噴いんを聚め】膚営影暗瀋陽雲【膚営影暗し瀋陽の雲】維時甲辰冬十月【時維甲辰冬十月】新奉使命謁将軍【新たに使命を奉じ将軍に謁す】

噴〓(ふくいん)=雷の轟く音の意。

10月末、児玉総参謀長から直接特命を受けた、それは来たるべき瀋陽(奉天)会戦に備えた満州軍司令部内にも極秘の偵察ー瀋陽付近の地形・敵情偵察であったろう。この時期何故の疑問が湧く。

特命を与えられる大将は児玉参謀長以外には考えられない、と高木勉氏は「福島大尉の人間像」の中で述べている。その説に拠った。

敵陣偵察

絶塞奇寒氷満鬚【絶塞の奇寒、氷鬚に満ち】中宵切卜翌朝途【中宵切って卜す翌朝の途】眠不得還燃燭【眠らんと欲すれども得ず還燭を燃す】仔細閲来朔北図【仔細に閲来る朔北の図】 

絶塞=最前線の敵陣、 氷鬚=口髭が凍りつららが下がった状態、中宵=夜半、卜す=占う、朔北=中国北方の塞の外で蛮夷の地。

厳しい寒さの中、奉天付近の敵陣偵察という重大任務を苦心して遂行した。鬚の氷を切って先行きを占う中国の故事占いや新田義貞が稲村ヶ崎で刀を海中に奉じ霊験を賜った故事にも倣った。そして今、偵察結果を要図に纏め報告する、の大意。明治37年11月13日、邵尓台に帰還。

二つ目、福島大尉の忠実旺盛な任務意識

沙河の会戦後、総司令部内で沙河の地形を考え、もう一度攻勢に出るべきとの意見が浮上し、児玉総参謀長を突き上げていた。一方で児玉総参謀長は山形参謀総長からの秘密電(10月16日)、「第2次編成の後尾隊は来年2月頃、新設諸隊は5月以降でなければ出戦出来ない。野山砲弾の補給も又12月以降でなければ意の如くならない」を受け、来春までの我慢を覚悟ー自分一人の胸の中にしまい込み、していた。

児玉総参謀長は前面の敵情偵察を励行させ、我前線部隊将兵の士気、特に防寒の被服・休養・弾薬の集積状況の細部を調査させた上で、《本当に勝つ自信があるのか》について参謀たちに問うたが彼らの余りの熱心さに閉口してしまった。

従って、この偵察は表面は直ちに攻勢発揮に資するように装いながら、今の攻勢を見極め、来春以降の奉天決戦の準備を秘かに進めるものであった。福島大尉は児玉総参謀長の深謀を知る由もなかった。

福島大尉は直ちに北進すべしの意見を児玉参謀長に述べたであろう。己の任務意識に忠実に偵察し、それを略図に纏め報告した。事実を最大漏らさず解明し要点を外さない意見を添えて・・・。その精度は児玉総参謀長をうならせた。彼が地図・要図作成に長けている事は今までも述べて来た。その特技が活かされた。

やがて児玉総参謀長は攻勢中止を決め、司令部内を押さえるが、この報告が役立った、に違いない。表立ってではないが、ある種の奇勲、といっても言い過ぎではない気がする。ただ、どのような内容の報告であったかを知る由もない事が残念である・・・。

三つ目、偵察した事は意外な形であらわされている。

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11月15日付の弟甚八宛て書面に奉天付近の様子を描いた要図が添えられている。偵察したからこそ、を窺わせるものである。

この特命偵察は総軍の総予備である第八師団将校の中から、戦術眼に優れ、指揮能力の高い福島大尉に白羽の矢が立ったのは当然であった。児玉総参謀長自身も会ってみたい、との関心があった事であろう。特にその関心は論文「一慮」、間もなく発刊される偕行社記事臨時増刊号に見る意見の持ち主であり、八甲田山雪中行軍の成功体験者、である事に向けられた。

四つ目、八甲田山雪中行軍第五連隊遭難に関する児玉総参謀長の胸中を思う

第五連隊遭難事変が発生した時、児玉大将は陸軍大臣であった。発生直後の大臣の決断処置は見事であった。29日一報を受けて直ちに参謀本部から2名の参謀を現地に派遣、事故取調員8名を陸軍省内に設け、事態収拾のための措置を矢継ぎ早に打った。

その根底にはこの事態の本質というかこの事態が新たな危機事態へ波及する事を断固、断つ、があった。即ち児玉大臣には下士希望者がなくなったり、青森連隊の徴兵区変更の圧力や徴兵忌避等の混乱が目に見えていた。遭難者・死者を早く発見収容する。死傷者を丁重に扱う。遺族への丁重な配慮等にその心は尽くされた。

成功した歩兵第三十一連隊行軍隊への注目はつゆほども無されなかった。事前に立見師団長から成功したら天皇陛下奏上との報告は受けていたがそれどころではなかった。一顧だにしなかった行軍隊の隊長であった福島大尉が今目の前にいる。なんという不思議な縁であろうか。

論文「一慮」の意見の著者、福島大尉に会って、感じる事があった、に違いない。この論文や偵察報告が”頗る用いるに足る”ものであり、福島大尉は噂に違わない傑物である。

参考・引用書籍等:福島大尉の人間像(高木勉、講談社出版サービス)、戦略・日露戦争(島貫 重節、原書房)、日露戦争史(横手 慎二、中公新書)

この稿終わり
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ああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?ーその二 出国、いざ戦場へ [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③]

出国から戦場進出の時の福島大尉の思いは?

始めに

明治37年9月2日、歩兵第32連隊は山形を出発。10月14日正午大連湾の柳樹屯に上陸、その日のうちに、金州南方約1里の呉家屯に進出した。これより先、第八師団は10月6日から大連に上陸を開始し、上陸次第歩兵部隊は逐次鉄道で遼陽へ向かうよう命ぜられていた。

一つ、現地進出頃の戦況と福島大尉

この頃、遼陽会戦(8月28日~9月3日)は我が軍の勝利に終わるも追撃の余力なし。死傷者23533人。旅順総攻撃は8月(第1回総攻撃)、9月(第2回総攻撃),10月(第3回総攻撃)と失敗し、大きな損害を出した。第1回の死傷者15800人、第2回は4700から4800人、第3回は3830人。この時期2.6ヶ師団が消えたことになる。露軍の10分の1の兵力である我が陸軍にとってより痛手は大きい。更に戦場は遼陽以北の直隷地方に拡がっている。時間の経過に伴い、シベリヤ横断鉄道の完成により、彼我の戦力集中競争は敵に有利となる一方である。従って、敵の戦力集中未完に乗じての決戦の機会を逃してはならない。たとえ冬期と雖も一大決戦を指向し敵を殲滅しなければならない。旅順を早期に陥落させ、第3軍の決戦参加が必須であり、無傷の第7師団.8師団の戦場投入は大きな力になるはず。待機してきたが漸くの出番、腕が鳴る。

二つ、今後どうなる?日露戦

決戦の機会を逃してはならない。この為、今冬をどう戦うかがカギである。論文「影響」では冬季は休戦ではない、と啓発した。論文「一慮」では敵は今冬季攻めてくる。攻めて来ないにしてもこの冬を越してからは(我に勝る兵力を集中し)手を挙げる事はない、と提言した。今の状況で今冬は敵にとっても我が日本陸軍にとっても無為に過ぎしてはならない時となった。まさに自分が卑見を披瀝した通り、冬季戦必至である。

遼陽会戦の勝利は我が最右翼12師団の太子河渡河を脅威に感じ退脚を命じた敵将クロパトキンの優柔不断・神経過敏な指揮ぶりで転がり込んだ側面も大きい。この点こそ論文「一慮」の露軍の評価のなかで将官の指揮に問題あり、とした洞察通りである。露土戦争での考察ではあったが時代は移り人は変わっても弱点の存するところは同じである。

三つ、後顧の憂いはない

みさおの誕生祝も済ました。ほんの少しの間の父親で終わるかも知れないが人生で一番の安らぎを貰った。出征間、自分が戦死した場合も考え、2回父泰七には山形迄出向いてもらい話し合いを行った。きえとみさおは弘前の成田寅之助のところへ付き添えを着けて送り届けるよう、にした。この時代に珍しいが、保険(保険会社パンフレットから推察)にも入った、ようである。彼が集め残した資料から残された妻と娘の為に精一杯の事をしたい、との思いが伝わってくる。甚八始め弟妹の今後についても思う所はすべて伝えた。

四つ、軍刀への拘りは奇勲への思いそのもの

陸地測量部勤務時代、父に無心して、手に入れたのが名刀国安(写真下、白ラベル表示数字19)。侠客幡随院長兵衛が所持していたという曰くつきの名刀である。これを人から見せられ、無性に欲しくなり、父親にせがんだ。父泰七は畑一枚を売り払い、金を工面したという。爾来彼はこれを軍刀にして、愛用。

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軍刀に拘る姿から、自分の思いをとことん移入する篤さを感じる。その思いとは軍人として戦場で、そしてこの軍刀に恥じない働きをし奇勲を奏したい。本物の軍刀に本物の決意を籠める。軍刀よ、国安よ見届けてくれ!に外ならない。出陣以降、常に国安は福島大尉の側にある。

この稿終わり

5月24日、追記

実は、総集編の想を練るため福島大尉戦死後の資料を探していたところ、幹候校から頂いた寄贈品便覧下巻に死亡保険金の支払い通知書(写真下)を発見した。 ここでも西山准尉の手を抜かない丁寧なスキャナー作業がある。感謝!因みに明治38年の400円は平成16年の貨幣価値で換算すると、約160万円である(註)。こんなものではないだろう、という気もするが・・・。

改めて福島大尉の家族を思う篤い気持ちが伝わって来る。

註 値段の風俗史(朝日新聞(昭和56年版から転載)(インターネット検索)によれば明治38年の白米10kgの値段は86銭、平成16年は3536円。4111倍として計算。

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ああ黒溝台会戦!成し遂げた奇勲とは?ーその一 日露開戦と出動準備 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み③]

始めに

今回の旅では黒溝台会戦において、福島大尉が宣した”奇勲”について思いを巡らしたい。福島大尉の人生は愈々大詰めを迎える。本稿では日露開戦に伴う福島大尉の思いを探りたい。先ずは戦いの全般経過とこの間の第8師団の状況を要約する。

一つ、開戦から第八師団の出陣頃までの戦いの全般経過

一つ目、全般

日本は明治37年2月4日午前会議で対露開戦を決定し、10日宣戦を布告、直ちに軍事行動を開始した。第1軍は朝鮮鎮南浦上陸、第2軍は5月遼東半島に、川村独立兵団(後第4軍)は5月に大弧山に上陸し、夫々勝利を収め進撃を続け共に遼陽に迫った。8月下旬、遼陽大会戦が行われ、激戦の中、勝を得たが追撃の余力がなく、態勢整理に移った。10月沙河で再び戦いとなり、勝利するも余力なく対峙する事となった。

制海を害する露国太平洋艦隊を覆滅させる目的で、旅順港を扼する旅順一帯の要地攻略に専念させる為、5月下旬、第3軍(第2軍から割いた第1・第11師団を基幹、司令官乃木大将)を編成、8月総攻撃を行ったが、大損害をだして失敗した。9月、10月と総攻撃を行うも甚大な損害を出して共に失敗。

この間、6月末に大本営は在満諸軍を統率する為、満州軍総司令部を編成(総司令官大山巌元帥、総参謀長児玉源太郎大将)、7月15日両者は大連に上陸。

二つ目、第八師団、第三十二連隊の状況

開戦当初から、第八師団は予備軍を命ぜられ待機が続く。山形第三十二連隊に動員が下令されたのは6月7日。この下令を以て、何時出動が命ぜられても良いように、戦時編成に移行し、出動の準備が始まる。

三つ目、露軍研究の集大成を期す

終に来た開戦。任官以来の露軍研究は日清戦争後の三国干渉以来臥薪嘗胆の思いと共に注目度を高め、弘前中隊長着任で焦点が定まった。彼の正攻法研鑽のなかでは、任官当初は学ぶべき多くの戦史のなかの国の一つであったが、やがて戦うかも知れない対象の国となり、学び・越え・勝つ対象へと変化してきた。

論文「一慮」は冬期に如何に露軍に勝つかをテーマにし、暖国の軍をも念頭に置き、全体のレベルアップを狙いとした。特に今戦っている相手に来たるべき今冬いかに勝つか、という待ったなしの状況で、知見が求められた意義は大きい。内容次第でわが国が勝つか敗けるかの帰趨を大きく左右するかもしれないから・・・、である。福島大尉は積み重ねた研究成果を発揮する観点や日本陸軍の(自分に対する)期待に応える観点などから露軍研究の集大成と思って論文の作成・提出に臨んだ、であろう。

四つ目、出動準備に戸惑いなし

弘前での中隊長勤務を深い問題意識をもって過ごしたその成果は今回の、2度目の中隊長に活きた。それは「明治31年度動員計画細務手続 歩兵第三十一連隊第2中隊」を修正し、「明治32年度動員手簿 歩兵三十一連隊第2中隊」としたものより伺う事が出来る。 明治32年度から動員要領が変更になり、本来廃書とすべき、であるが、赤字で修正して手簿としている。その骨とするところは動員要領の変更にある。即ち第1中隊の人員の3分の1づつを2,3,4中隊に編入し、2,3,4中隊の隊号を1,2,3中隊と繰り下げる要領が第3大隊の人員の4分の1づつを当第1大隊の各中隊に4分の1づつ編入されるようになった。加えて、平時に於ける曹長や給養軍曹の職務、下令後の順日の手続き及び出発に際しての手続きもその骨とする点である。

この動員計画を動員手簿とした行為と共にその手簿を使い、”骨”を理解し、頭に叩き込んで繰り返し演練した事は、山形中隊長着任後日が浅い上に、論文「一慮」作成はじめ繁忙の勤務にも関わらず戸惑いのない出動準備を為す大きな力となった。

五つ目、露軍の戦いぶりに我が意を得る

待機中の身であるが故に戦いの様子は気になった事であろう。中でも、緒戦や進軍間の連戦連勝及び露軍の混乱は我が乗ずべき弱点として、大いに注目した。

露軍の戦力推進未完や露軍将官の指揮拙劣が論文における露軍の評価(参照:論文「一慮」第4章 露軍の評価)そのままに表れている事に大いに意を強くしたに違いない。集大成として心血を注いだ、だけの事はあるとの高い自己評価もした事であろう。

この稿終わり
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