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福島大尉の実行力を訪ねてー弘前中隊長になるまで ブログトップ

軍人福島泰蔵の歩み [福島大尉の実行力を訪ねてー弘前中隊長になるまで]

始めにー弘前中隊長拝命の意味

軍人になりたての福島大尉の道のりの中で切なく胸を締め付けられることが二つある。
そのおもいを現地で福島泰蔵に重ねてみた。

一つは真間山弘法寺(千葉県市川市、写真下)。平成22年5月18日に訪れた。
明治20年の大晦日、山続きの真間山祖師堂参拝に出かけ、大酒、放歌・高吟したと言う。すでに士官学校に合格はしていたが卒業まではお預け、平民なるが故の永滞。士官になるまでは家には戻らぬと広言した手前、1日でも早く前に進みたいが、それもかなわず。正月、営内にただ一人残る侘しさー共同生活だからなお辛い。しかもこれがあと何年も続く・・・。

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二つは深谷駅、平成23年7月6日に訪れた。
明治25年3月22日福島少尉は深谷駅(埼玉県深谷市、写真下)に降り立ち、父泰七の都合した馬と案内人の出迎えをうけた。昨日任官し約束通り7年ぶりの帰郷である。晴れがましいが悲しみの帰郷でもあった。
母あさが2月7日に亡くなっていた。遺言で知らされたのは2月19日。自分の少尉推薦、弘前将校団全員一致での、を知らせる便りの返信によってであった。少尉任官前の大事な時、絶対に知らせるでないぞと母、この世で最後の言葉が自分への思いやりと期待・・涙涙・・・。母との約束を必死で守った7年間。一番報告したい人に永久に会えない、晴れ姿を見せられない・・・。

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弘前中隊長拝命の意味
彼のなした四つの事を思えば、まず八甲田山である。彼が何故八甲田山に立てたのか?を思うと、弘前中隊長であったから、となる。その拝命の意味は大きい。そこに至ったのは、明確な道はなくても大きな志の方向に懸命に歩んだ彼の意思と努力ー偶然に見えるチャンスを掴む計画性ーがあったから。と、先ず言いたい。

一つ、陸軍教導団生徒

明治19年12月1日陸軍教導団(千葉県 国府台(現市川市))に工兵科生徒として入団。永滞の思いに耐え、地理学を独習し、同21年9月1日卒業、工兵科二等軍曹任官、仙台工兵二大隊付き。

入団後八ヶ月で成績優秀と評価され受験を許されて、11月1日受験、合格。試験科目作文『弔古噴記』を書く。試験後彼は控えを取っている。その残された控えに士官としての修行の原点を感じる。各地の古墳(墓や碑)を訪れその主と語り合い酒を注いできた。その事績・人となりを知り、その心をわが心とする意である。又故郷の英雄高山彦九郎の墓を訪れ、かくなりたし、の心情を吐露している。

士官学校入校は団卒業後までお預け、強い永滞の思いで過ごす。目算測図学(陸軍初期の教程)筆写し地理学への傾斜を強める。 
 
二つ、陸軍士官学校生徒

明治21年12月1日高崎歩兵第十五連隊に編入 士官候補生 陸軍歩兵(工兵からの転科、やり直し)二等卒。明治22年11月1日陸軍士官学校入学 歩兵科。明治24年7月30日卒業。

歩兵転科、真の歩兵、軍の主兵たらんとして研鑽を積む。
知遇・薫陶を得る努力をしている。勝海舟、金井之恭、安川繁成、日高藤吉郎、渡辺鴎州等錚々たる人々に臆せず教えを乞うている。
課題(卒業制作)地図作成、好評価。

三つ、初級士官


明治24年7月31日 高崎歩兵第十五連隊帰任、見習い士官。明治25年3月21日 陸軍少尉任官。
足かけ7年前の約束『士官になるまでは戻らぬ』を果たす直前の母の死、涙、涙の士官任官。
戦術課題論文『本邦規制の師団を前進するに当たり山野砲兵のうち、何れを前衛に区分するを適当とする乎』(明治24年12月1日出題、明治25年3月1日提出)に見習士官として大風呂敷論文、余分な事が多すぎる、大口を叩くな、等の批評を受ける。しかし動じない。

同年9月15日 野外対抗演習で南軍の指揮官。報告書特に地図(要図)作成を旅団長乃木希典少将から賞賛される。事後特技地理学・地図の特異な初級将校として力を発揮。
毎年12月1日課題付与、3月1日提出の戦術論文課題に真摯に取り組む姿勢を一貫、特に幅広く戦術・戦史書を読み、考える正攻法の研鑽を継続し持論主義を貫く福島流儀で力を付けて行く。

中隊付き将校として、教育訓練その他の軍務に意欲的に取り組み、旺盛な問題意識を持って、積極的な提案を行う。

四つ、日清戦争従軍


明治27年8月1日対清国宣戦布告。同年8月30日動員下令。明治28年5月29日 高崎市凱旋。
高崎連隊の戦跡;明治37年11月~明治28年3月、金州城攻略戦、徐家山砲台・蓋平・営口・田庄台各攻略戦等。
明治27年11月 中尉昇進。
出征途次、広島大本営で天皇陛下に拝謁、天杯(銘義勇)を賜る、家宝とせよと父泰七に書き送る。
大陸の酷寒は日本とはけた外れ、装備・行動要領の不備痛感。

五つ、台湾守備隊


明治29年3月台湾守備歩兵第一連隊に転任。同年9月高碕歩兵第一連隊に転任

人事上不利だから希望するな等の声に反発するかのように率先して希望・赴任。地理学知識をいかした蛮族統治の意見具申、立見軍務局長の目に留まる。

六つ、陸地測量部

明治30年7月 陸地測量部転任、特技地図が効き、全国の地図作成要員に引き抜かれ、忙中にも研鑽を続けた。全国地図作成に奔走。地の利と群馬県出身将校の人脈を活かし、参謀本部に出入り。列国特に露国軍の研究を促進特に『露人の一都督府的侵略法』筆写は得るところ多し。作戦・戦術・戦史の研鑽継続。

七つ、弘前中隊長

明治31年10月 大尉昇進、新編の弘前歩兵第三十一連隊第一大隊第三大隊第二中隊長拝命。新編第八師団長 立見大将の指名で実現。志が形を作り(成志)始める。

終わりにー『計画された偶然』(プランドハプスタンス:クルンボルト)が相応しい福島大尉の歩み

偶然をつかむ計画性、偶然でつかんだチャンスを活かす計画性などいろいろな意味があるようだ。それらを感じさせる道のりである。

その一つ一つを挙げれば以下の通り。士官学校狙いの教導団受験と歩兵転科。最も興味がある地理学・地図に師範学校以来のめり込み軍人としての特技とした。意見具申等の積極性。戦史や戦術書を幅広く読む正攻法の研鑽と持論主義を一貫。日清戦争での酷寒経験。台湾勤務の率先希望と立見軍務局長との同時期勤務による接点。陸地測量部勤務での調査研究の促進特にロシア研究資料入手。立見師団長の新編八師団長新補時の指名、大尉昇任の時機的合致等。

志の大きな方向に向かい、その時々の課題等に全力投球する。その努力がチャンスとなって次を拓く。その積み重ねで弘前中隊長に至った。

この稿終わり
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 立見 尚文将軍が師団長になるまでの歩み [福島大尉の実行力を訪ねてー弘前中隊長になるまで]

始めに

福島 泰蔵大尉は弘前中隊長着任時から立見師団長(当時、呼称は統一)とは特に強い交流があった。彼が”なしたこと”のすべてに”密接に絡んでいた”。尚大事な事がある。立見師団長は福島泰蔵碑の撰文者である。旅の序章・導入部で立見将軍について思いを巡らすことは、”密接に絡んでいる”ことを理解する上で今後の旅に大きな意味を持つ。
平成20年6月17日~19日 福島大尉の予想外を訪ねる旅をした。平成14年10月に続き二度目の青森の旅。流石の彼でも抜けがあった、手抜かりの予想外。また予想をはるかに超える予想外に遭遇。でも無事成功した。何故か?を訪ねる旅。青森空港に降り立ち、レンタカーで最初に訪れたのが弘前市役所。最初に目にしたのが市役所に移築された師団長官舎(写真下)。偶然であったが今になって考えると、”今”を暗示していたのかと思える。

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一つ、生い立ちから出仕

弘化二年(1845)7月19日 桑名藩士町田 伝太夫の三男として生まれ、嘉永二年(1849)立見家へ養子。藩校立教館(12歳で素読合格)、剣術(柳生新陰流)、馬術、舞いに秀で、将来嘱望さる。文久元年(1861)藩主定敬の小姓となり、江戸在勤時昌平黌留学。

二つ、公用方として京都勤務、鳥羽伏見の戦い

元治元年(1861)藩主の京都所司代に伴い、公用方として京都へ。以後、禁門の変(文久四年(1864)等を経験。徳川慶喜の討薩の表に端を発した鳥羽伏見の戦い(慶応四年(1868)正月)で、幕府軍敗走。朝敵の汚名に耐えきれず慶喜江戸へ逃げ帰る。藩主も同行。桑名藩兵置き去り、となる。

三つ、官軍への徹底抗戦ー幕府軍最精強部隊の指揮官として転戦

官軍の東征進軍のため、藩兵は国には帰れず。徹底抗戦派(約240名)で三隊を編成、殿を追って江戸、宇都宮、越後(柏崎・小千谷・長岡)、会津、米沢と転戦。死に場所と決めた庄内で、庄内藩恭順の大勢を受け三隊の総意で降伏・謹慎、この間約9か月間。
立見鑑三郎は雷神隊(三隊の筆頭部隊)の隊長として終始、勇名を馳せる。数々の戦績のうち代表的なものを挙げると。長岡の戦いで信濃川一帯の通行を制する朝日山に着目、砲兵を据え、立ち込める川霧も計算に入れ引き付け急襲射撃。敵将山県狂介の参謀時山直八を戦死(5月13日払暁)させ、山県は勿論官軍首脳を震え上がらせた。地形・敵など作戦の本質を見抜き、最適の戦術、用兵を創意工夫しうる戦術眼。人間として・指揮官として己の信念に従う行動力。展望が無いなかで長期間、多くの戦死者を出しながらも隊員の心をつかみ従わせた統率力には学ぶべき点が多い。

四つ、司法省出仕

明治6年(1873)年4月出仕。謹慎解除後、立身を模索していた時、かって苦境にあった加太 邦憲を救うため奨学金の援助をと動いたことがあった。その彼がお礼と共に司法省の人材募集の情報を寄せてくれたのがきっかけ。

五つ、明治陸軍入り

明治10年2月12日、西南戦役勃発。当時高知裁判所所長代理で徳島支庁勤務。在来の軍とは別に勅撰旅団を編成することになり、幕府軍最精強部隊指揮官の立見鑑三郎に白羽の矢。山県有朋も同意、請われて大隊長・少佐で明治陸軍入り。最後の局面、城山で正面攻撃担当、戦いの決をつける働き。

六つ、日清戦役従軍

事後明治27年日清戦役を第十旅団長(松山)として迎える。常勝将軍として勇名を馳せる。

代表的な戦績を二つ

その一、明治27年9月16日平攘攻略戦において、第五師団が堅固な堡塁や城壁に拠った敵を攻撃した際、朔寧支隊長として牡丹台、玄武門口を担当。まず火力を集中して牡丹台にとりつき、爾後遮蔽物を利用して城壁に接近。砲兵火力を城壁に集中、よじ登れる足場ができるまで壊し、戦場働きの良い若手将校指揮の一隊を突入させ、内側から玄武門を開いて支隊突入。堅城の一角を崩し、動揺からの全軍崩壊・撤退へと導いた。最前線に逐次進出しての観察、指揮と砲弾を城壁壊しに使用する独創性が光る

その二、明治27年12月10日両側稜線を縦深(2km)に守る敵の攻撃時、底の平地部を疾走させ、隘路出口の村(樊家台)を占領。これも戦場働きの良い今田少佐(大隊長)に脇目もくれずただ前だけ見て突進指揮するよう指導。均衡が崩れ敵陣大崩れ。稜線の上から底地を走る目標に対し敵の練度では命中させられない、走り抜けられるとの判断が見事的中。地形・敵情を冷静に観察、最適の戦術・用兵を工夫する戦術眼。相手が根をあげるまで断固戦い抜く強い意志と度胸。戦場働きの良い、日ごろ目をつけていた若手将校の働きで戦局を動かす采配が光っている。

当時の立見師団長が日清戦争での体験上深刻に学んだ事と将来への課題

大陸の夏の炎暑・冬の酷寒は日本とは桁違い、真面目な準備が必要。戦死者をはるかに上回る凍傷・伝染病・脚気等の戦病死者数であり、衛生の改善が必要。兵力の損耗・補充、冬季被服・装備や行動要領の不備、弾薬・糧食の不足の常態と輸送の改善等外征軍としての改善点多数を深刻に認識。又兵士教育の重要性、例えば敵は指揮官一人を倒されたら烏合の衆、上位職を取れるよう鍛える事が緊要。

七つ、台湾総督府

明治29年3月~明治30年11月1日台湾総督府軍務局長、明治30年11月1日~明治31年10月1日同軍参謀長。福島大尉は明治29年3月~9月台湾守備歩兵第一連隊勤務。蛮族統治特にゲリラ活動に手を焼いた立見軍務局長は地理学的素養を活かした意見具申に注目した。この時に接点ができる。

八つ、第八師団長拝命

明治31年10月1日、中将に昇進、新編の第八師団長を拝命。

九つ、立見師団長の抱負・課題

幕府軍では最精強部隊指揮官でありながらの明治陸軍入り、戦った相手の中で協力・理解者も得て、”本物の実力”を発揮し、活躍の舞台を拡げて来た。今や、迫りくる大陸での対露戦に備え、一刻も早く第八師団を戦える部隊にしなければならない。加えて日清戦争の体験から”次に備える”が立見将軍の課題であった。その山積みの課題を如何に片づけて行くか?勝てる部隊にするか?について立見師団長は自分の考えを各級指揮官を通じ具現する以外にも途を持ち、本当に自信を持てる強い師団を作りたい、と考えていた。その腹案もあった。自分の企図を真摯に具現してくれる問題意識が旺盛で意欲的な現場指揮官に思いきり活躍させる。それらの現場指揮官の活動を助長し、あるいは刺激を受け、共にさらなる高見を目指す。先駆け活動が第八師団全体に波及し、対露戦勝利の大きな力となる。立見師団長はそういう腹案で新編第八師団長に着任した。福島大尉はそのキーマンの一人であった。

参考・引用図書:柘植 久慶著 立見 尚文(上・下)

この稿終わり
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福島泰蔵大尉の生い立ち [福島大尉の実行力を訪ねてー弘前中隊長になるまで]

始めに

私は三度世良田村を訪れ,その度毎に”この土地、時代、両親”にして”福島泰蔵あり”の思いが強くなった。
一度目は平成20年7月24日(倉永幸泰氏(福島大尉の直孫、長崎県諫早市在住、86才)訪問の一週間後)東武伊勢崎線境町駅からタクシー利用で天人寺訪問。境内にある福島泰蔵碑を無性に訪ねたくなったので、碑の前に立った。彼のなしたこと、生き様、立見師団長との関係などを偲ぶと共に碑から望む利根川河畔(下写真)、彼が遺言?で建てることを望み、彼の詩情を豊かに育んだ土地の気分に浸った。

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二度目は平成22年2月20日 東武伊勢崎線世良田駅から貸自転車で投稿記事掲載の『修親』を持参して福島 国治氏宅(福島家の現当主)訪問。その途次、新田荘跡及び新田氏縁の長楽寺境内(下写真)、東照宮などを発見し、興味津々、立ち寄った。福島家からの帰途満徳寺、生品神社をまわる。新田荘跡、新田義貞、徳川ゆかりの地が自転車で10分足らず(義貞挙兵の生品神社は世良田駅から自転車で片道35分)の地域に集まり、そこで福島泰蔵は生まれ育った。

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三度目は平成23年7月5日jr深谷駅で降りて、遺品確認及び親族話し合いに立ち会いの為、倉永幸泰氏に同行して福島家訪問。帰途斉藤昌男(福島大尉の妹五女とくが嫁した栗原歌三郎の娘(長女)みやが嫁した斉藤勝一氏の長男)氏送迎のご厚意に甘え、八坂神社(環水堂)(下写真)、赤城神社等を訪れ、幼少時英才教育を受けた福島少年の気分に浸った。

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ここで、記した、お世話になった方々とのかかわりや福島家での事は別の機会に譲る。

一つ、出生

慶応2年(1866)5月23日、福島泰七 あさの長男として 群馬県新田郡世良田村字平塚51番地(現在は伊勢崎市境平塚901番地2)に生まる。

世良田村とは
出生地の世良田村は新田源氏発祥の地。元祖義重より8代目の嫡孫新田義貞の居宅もあった。大間々扇状地の湧水井を利用した一大農業地帯の一角。天神山凝灰岩の良質石材や銅(足尾銅山:支流の渡良瀬川を経て)を産出。中世東山道(あずま道)が走り、大船が遡る北限ともいうべき利根川交通の要衝地。世良田新田氏の菩提寺である長楽寺の門前町・宿場町として、市も開かれ賑ってきた。そのような土地柄もあり新田氏の荘園が代々継承され発達。
徳川家康の先祖も新田源氏の出、徳川将軍家の庇護を受けた土地でもある。豊かさを反映し、文化が進み、教養人も集まる土地柄。郷土の英傑、新田義貞、高山 彦九郎に憧れ、かくなりたしと願った少年時代の風景がここにはある。

二つ、幼少期

両親は、これからの世は学問が必要と考え、学ばせることに熱心。明治3年(1870年)、数え年5歳で環水堂入門(八坂神社境内 神官茂呂桑陰)、漢書素読を学ぶ
明治6年、漢学者である赤城神社渋沢神官に師事。四書五経の素読、詩吟を学ぶ
明治7年~9年、下等小学校 6級進級
明治11年、群馬県優等賞受賞(下等小学校4級試験 成績優秀)

三つ、青年期

明治14年 弟甚八生まれる。兄弟は長男泰蔵の下に妹4名、16歳離れて弟甚八。この頃家業衰退、農耕と養蚕の種屋業に転業しつつあった。家業は利根川の廻船運送業、屋号は『福甚』。屋敷内には倉庫のほか、三の蔵まであり、荷役衆も常時20名はいたと言う。明治維新となり、廻船業者の増加や鉄道馬車の発達等で衰退していった。
長男として家業に専念すべきか学問で身を立てるか、悩む日々を送る。悩みながら養蚕の工夫をしていた。その工夫のメモを偶然発見した。その発見で悩みの深さを納得した。 悩みに心が揺れながら、時に養蚕も良いか、と思った心境を詠った詩がある。

蚕時偶成
牡丹花笑燕飛来【牡丹の花笑い燕飛び来たり】、数里桑園翠作堆【数里の桑園、翠(みどり)堆作る】、人世雖多生産業【人世、生産の業多しと雖も】、養蚕謀食亦佳哉【養蚕、食を謀(はか)るも亦佳ならん哉(や)】。

明治14年秋、私学啓沃校(武州藩、塾頭は儒者渡邉 鴎州、埼玉県下忍村、旧制の変則中学校)入校。
これからの世は学問が必要との両親の勧め及び親友白石錦之介の誘いがあった。しかし、半年後退学。学費免除の為、親に内緒で学僕になった。これを心無い学友に馬鹿にされ反発した為、であった。

明治15年夏~16年春、迦葉竜華院弥勒寺(利根郡上発知村)に山籠もり。退学を契機として、両親がこのままでは中途半端な人間になる、と命じた。当時寺は伽藍の焼失もあり、老僧一人が法燈を守っていた。日常の起居のすべてを修行としつつ、仏教書等の読書や詩作三昧の日々を送った。

平成22年2月6日 私は敢えて雪で春まで下界と遮断されている迦葉山竜華院(群馬県沼田市)を尋ね、福島泰蔵青年の気分に浸った。麓から山頂迄約一時間、段々酷くなり、深くなる雪(中腹から50cm、山頂1m)に”遭難”もよぎった。この不安を福島大尉の窮途の不安と重ねる一時間。窮途の不安と向き合った人間修養の半年間であった、のだ・・・、と理解した。福島泰蔵はここで次の目指すべき進路を決め、下山した。

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明治17年司法学生試験不合格。
学費免除、生活費も支給される司法省の司法官養成機関、4年に一回募集、修行年限は8年間、志ある若者(士や裕福な子弟)が押し掛け、超狭き門であった。次の再受験まではとても待てない。

明治18年~19年 群馬県師範学校入学・卒業。新教科である地理学にのめり込み、宇田川教官から教程を借用、通学を止め、前橋市内に下宿し3ヶ月で筆写。

新田郡第一小学校赴任。半年後教師退職。
教師の給料は月4円、2円を家への仕送りに当てた。当然足りないので、校長の家に下宿、最も貧窮した生活であった、と後に語っている。この給料の安さや教師の一生を送る覚悟が持てず退職。

四つ、将来の途を軍人と定めた21歳

明治19年 学校教師退職。陸軍教導団受験、合格。
親類筋で陸軍教導団入団中の田部井 冽の勧めで受験。陸軍教導団は下士官養成機関、年限2年間。
陸軍士官学校は華族や士族でないと受験そのものが難しかったので、当初から成績優秀者に特に認められる陸軍士官学校受験推薦狙いの受験であった。

旅立ちの朝、母あさの諭
母『男子が一旦軍人を天職と定めた以上必ずやり遂げよ』
泰蔵『士官になるまでは決して家には戻りません。』
母『大口をたたくな、それが直りませんうちは死んでも死にきれません。何事も実行ですぞ』の言葉を背に11月末日刀水(利根川)を渡る。

終わりにー福島泰蔵は一直線に、最短距離で軍人への途を歩んだのではない。

軍人以上に心ひかれる途があったのだろうか?それとも軍人になにか躊躇するものがあったのであろうか?たぶん両方であろうと思うが、分からない。しかし、三度志を立て、三度挫折して、覚悟が決まった。挫折した、時間をかけたことで世に出て、ことをなす、一廉の人物になる途は軍人しかない。軍人は天職との思いが定まった。 後の彼の揺るぎない強い歩みの出発点はここにある。と思えてならない。

この稿終わり
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