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兵を護る危機管理を先駆けた武人福島大尉のならでは(NO-5)ー寒地・寒冷対策の深化等の画期の灯明性


寒地・寒冷対策の深化と戦い方を変える画期の灯明性

 第5連隊遭難直後の児玉陸軍大臣の新たな危機に波及させないという早期収拾方針によって抜本的対策がなされず福島大尉のならでは省みられなかった。抜本的対策とは軍の本質から史上最大の寒波にも対応できる備えであったか、という意味である。又日露戦争での辛勝と膨大な人的損害に対してまた黒溝台会戦で危機に陥ったにもかかわらずこれに対しても真摯な反省がなされず、彼のならでは③は顧みられなかった。奇襲され、判断ミスが重なって第8師団は至る所側背を包囲され戦線崩壊の危機に瀕し、酷寒下に3昼夜連続の交代なしの大苦戦をした。この様相はまさに福島大尉ならでは③の倍加する危険困難、先見性を証する、であった。また第8師団の傷病者の1/3は凍傷であった、と言われる。この先見性は倍加する危険困難を見据えて危機にしない周到な準備の必要性を示している。前稿の特性と意義を踏まえ節目において、寒地・寒冷という条件下での軍の在り方に光を当て警鐘が鳴らされるべきだった、という点に燈明性がある。


ならではの寒地・寒冷対策の画期の光明は福島大尉の資料で福島大尉の真実を語る端緒。

 ①第5連隊遭難以降福島大尉は沈黙したまま黒溝台で戦死し、その後遺した資料は門外不出とされ、福島大尉の資料なしで福島大尉が語られてきた。②また遭難直後はその悲劇性と迫りくる日露戦への準備から本来の軍の在り方等の議論はタブーとされたこと、5連隊と31連隊の対比という枠で福島大尉の表層しか捉えられなかったこと及び嚮導人の手記や新田次郎氏「八甲田山死の彷徨」等から歪んだ先入観と福島大尉像の議論が常にあったこと等から福島大尉の真実探求が足止めされた側面はある。これらの是正策が必要と思って来たので是正の好機が来た、と思っている。


ならではの寒地・寒冷対策の画期の光明は嚮導人や協力者とその子孫の真の誇りを呼び覚ます

 2度目の青森旅で七勇士の碑の近くで出会った嚮導人の子孫の方が暴風雪のなか(田代台の冬は北西の恒風が吹く、を知っているので)高いところにあがり体で風をうけて方向を判断した、と言い伝えられていると語られた。この一言に確かな誇りを感じた。熊野澤の嚮導人7勇士はじめ協力者の真の誇りは第31連隊行軍隊の偉業への貢献・協力にあるはずである。とすれば福島大尉がどのような考えで偉業を為したかという真実が鍵であり、今回見つけた福島大尉のならではがその鍵となり得る。



参照:福島大尉から武人の心探求記念館:http://www17.plala.or.jp/bujinn-kokoro/index.html

    (福島大尉の心コーナー記載)


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