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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその十二 一連の雪中露営演習や実験行軍の総括 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のりⅡ]

一連の演習や実験行軍を総括ー塾者へ繋がったものを拾う

始めに

本稿はブログ「八甲田山への道のりー最初は雪中露営演習」~「八甲田山への道のりー扉を開いた下士候補生夏期強行軍その二立見師団長の批評に曙光を見た福島大尉」に対応させており、詳しくは当該箇所を参照願いたい。一連の演習や実験行軍を総括し熟者に繋がったものを拾うと5つある。

一つ、遥か遠くを目指す心意気

迫りくるロシアの脅威・国難日露戦争が現実視される中で、雪国に駐屯する第8師団、弘前連隊の中隊長として持ち前の使命感が頭を擡げ、冬季行動標準作りを自分が果たすべき天命、新たな目標として掲げるに至った。この全軍をにらんだ目標が、彼の人生でなしたすべての下敷きになった。

二つ、自発的に挑戦し、成功して自信を得、次の展望を拓くサイクルの積み重ね

一連の演習のスタートを雪中露営演習から始めた。吹雪等の荒天下での露営法や施設基準等を明らかにし、雪中強行軍における不安を解消した。この成果は偕行記事に掲載され、天皇陛下に奏上される栄に浴した。その自信は連隊教育委員の立場を活用しての教育中の下士候補生2個部隊での2種類の強行軍(岩木山越え50kmと海岸沿いの平地100kmの強行軍)を同時実施する発意となった。連隊長は渋ったが結局承諾し、大きな犠牲者を出すことなく成功する。そして冬も夏も精強第8師団を示す為、下士候補生の夏季強行軍を炎天下266km、4泊5日の強行軍の発意となり、成功した。その成果の1つである休憩(50分に10分)法を冬場に検証しては?と立見師団長から問い掛けられた事が八甲田山雪中行軍の引き金になった。

そのサイクルを貫いたものは①未明の中で失敗や挫折を恐れず前へ踏み出した積極性と②成功体験を積み重ねて得た自信であった。その積極性を支えたものは①隊員は護らねばならない、全軍の行動標準を作らねばならないを固く持ち続けた”篤い義”の心と周りに流されず自らを信じる強い心であった。

三つ、人間福島泰蔵の成長

福島大尉の中で最初は漠としたものが八甲田山へと具体化した。その道のりは成長・進化の過程である。自分の発意で挑戦する。自分の発意の挑戦であるからには失敗は出来ない。だから本気で周到に準備し実施に臨む。次はもっとハードな挑戦となるが成功して自信を得,成長した自分がさらにベストを尽くして取り組む。一段高いハードルに本気で取組む事で更に自分を成長させた。

その成長の元となったものは①忠君奉国で一廉の、名を知られる将校、天皇陛下からお声をかけて頂けるような立派な将校になりたい、との志に向っての向上心と②自分の流儀、正攻法・持論を平生の修業で大化けさせるぞ、の秘かな決意の2つであった。

四つ、自らの意志で、リーダー力の向上研鑽

中隊長は100人の部下を持ち、権限もあり、且つ指導してくれる上司・先輩もいる。自らの意志でリーダー力を磨くには絶好の機会である。福島大尉は見事にこの機会を活かし器を自ら大きくした。

一つ目、指揮力

常に全ての局面で率先陣頭、下士と苦楽を共にした。雪中露営演習で夜半氷点下になり、予め準備した炭火の使用を許可し、凍傷・凍死を未然に防いだ。最も苦しい局面、岩木山雪中強行軍で、嶽村出発直後の落伍者発生に伴い嚮導を落伍者に着けて引き返えさせ、自らは折角承諾を得た嚮導なしで、教わった方向に地形判断を行いつつ行軍を続行した。最も苦しい局面で逃げず、遅疑逡巡せず、全責任を自ら負う覚悟をもって正しい決心・処置を行なった。

二つ目、管理力

最初に雪中露営演習を行い、悪天候や不慮の事態でやむを得ず露営をしなければならない事態の成案を得てから一連の演習や実験行軍を開始した。その全般研究管理や凍傷予防のための防寒服装・装具の工夫等と隊員管理、雪中行動に係る行軍法や休憩等の部隊・行動管理及び危険見積り等の安全管理等全てに亘って在るべき姿を描き、それに近づける為、問題点等を把握改善した。

三つ目、指導力

将来のリーダー養成の場として、下士候補生教育を最大限活用した。特に厳しい寒気の中での冬季及び炎天下の夏季強行軍において困苦欠乏に堪える資質を鍛えた。又夏季強行軍終了の翌日から全員何事もなかったように本来業務に復帰させ、指導者としての矜持を堅持させた。

岩木山雪中強行軍に於いて、中隊付見習い士官寺田奉五郎を小隊長に指名し、指揮官を経験させ、直上位を行なえる能力を身につけさせた。福島大尉は教官兼指揮官(見習い士官の能力や責任上の限界を補う)として参加。常に信念を実践した。

あるべき姿を描き、それに隊員を近づけさせる指導の実践は隊員の琴線に触れ、自ら参画し、行う姿勢を引き出した。

四つ目、統御力

雪中露営演習に於いて、歩哨哨所を雪塊で作り、その強度を確かめる等常に隊員を護る視点を持っていた。これに加え、常に問題意識をもって前向きに取組み、どんな難事も必ず成功させる姿は周りの将校・下士の信頼を増し、心を寄せさせた。

五つ、立見師団長の存在

立見師団長は連隊教育委員や軍法会議判士などの附加任務も福島大尉に与え、特別に中隊長代理を常時指名する等幅広く活動させ、拡大させた活動をやりやすいように配慮した。福島にはやりたいようにやらせろ、師団全般のレベル向上には欠かせない将校だ、と言わんばかりの篤い信頼を寄せていた。その事が福島大尉の目指すところへの歩みの後押しをした。雪中露営演習では師団長お抱えの写真師を差遣し、記録撮影を行わせた。成果は偕行社記事等の軍事雑誌へ掲載し、天覧に供した。この成功体験で気をよくした福島大尉は次なる”ならでは”の発意をする。夏季強行軍の成果を閲覧し、冬季の休憩法確認の要がある、と福島大尉に伝え、八甲田山雪中行軍へ背中を押した。

終わりに

この”時代”の意義は八甲田山の扉を開いた、第一番目の事を為す準備をした、事にあった。それだけではなくその後の人生で為す3つの事の基盤、文武両道に亘る、を確立した事であった。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその十一 基礎固めの中隊長時代の総括 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のりⅡ]

基礎固めの中隊長時代を総括ー塾者へ繋がったものを拾う

始めに

本稿はブログ「八甲田山への道のりー基礎固めの中隊長勤務」とブログ「熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその六~その十 弘前中隊長基礎固め時代の研鑽」シリーズに対応させている。
基礎固めを総括し、熟者へ繋がったものを大約すると①事を為すリーダーとしての核を作りあげた。②指導者としての篤い実践、の2つになる。

一つ、事を為すリーダーとしての核を作りあげた

一つ目、核となる力とは

基礎固め段階における戦術研鑽の最終課題である「梵珠山防御計画」では戦術力がいろんな面で、高見の域に達した事を確認した。戦術能力は指揮者としての決心処置力に直結し、指揮者としての力は他の管理者・指導者・統御者としての力を併せた軍隊に於けるリーダー力の中で最も中心的な力である。従って戦術能力が高見に達した事は軍隊に於けるリーダー力の核が出来た事を意味する。

その核とは①上級部隊の期待度を考える等の正当な任務意識を身に着け、偏りのない決心処置力と②総合判断力及び直感とでもいうべき戦術眼を身に着けて、多くの要素を考え、瞬時に決心・処置する力、の2つを指す。

二つ目、事を為すリーダーとしての核つくり、戦術を高見に、至らしめたもの

一番目、志を深化させ本気で追い続けた事

本人が志を深化させ、その時々に高い目標を掲げ、本気で追い続けた。身近な軍務特に演習等の実員指揮や普段の教育・週番士官勤務等にならではの問題意識を持ちその改善・向上にエネルギーを投入した事。及び戦術課題等へ真摯に取り組み、失敗からも多くを学んだ。

二番目、正攻法と持論へのこだわり

志を深化させ続けた原動力は福島尉官ならではの流儀、正攻法と持論への拘りであった。こだわり過ぎての失敗は反省し、納得できない上司の厳しい指導はなにくそ精神で対応した。

二つ、指導者としての篤い実践で心を掴む

ブログ「八甲田山への道のりー基礎固めの中隊長勤務」で桂陸軍大臣が弘前屯営を視察に訪れた某日の朝、福島中隊長は”思うところ”があって、隊員に前日夕、翌朝営庭で中隊教練を行なう旨告げた。当日教練を始めると桂大臣は訓練を視察に来る。その面前で必要な報告・敬礼を行った後訓練をした。詳しくはそちらを参照願いたいが、その最後で私は【以上は挑戦したから得られた。挑戦しなければ何も得られなかった。 『将校は常に戦に備える教育訓練に専念すべし、強く温かい部隊・隊員を育てるべし、全軍のことを思うべし 気概を持つべし』をこの挑戦で切に言いたかった と思う。】と述べた。

この例は彼の実践のほんの一例に過ぎない。このような篤い実践は連隊将校や中隊下士の心を掴み、中隊運営に止まらず、踏みだそうとする冬季行動標準研究の基礎固めにもなった。

終わりに

以上は立見師団長が評した”平生における研鑽”に外ならない。軍隊に於ける陸軍大学等の高等教育の機会を与えられたわけではない。自分の熱と努力で築きあげた本物の”平生における研鑽”の重みが今、伝わってくる。その思いとはかって、窮途に悩んだ青年の頃の切なさや士官学校生徒時代の永滞の腹立たしさ及び任官後の角張った”持論”を叩かれる悔しさ等をばねとした篤い篤い向上・進化への思いである。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその十 基礎固めの中隊長時代ー教育計画に見る教育・指導力 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のりⅡ]


始めに

福島中隊長はその個人が本来有している素養を把握し、それとその階級・職責に求められる能力に応じ、そこに到達させる為の教育・指導方針を定め、敢然と実行している。

一つ、各階層別教育計画に見る福島式教育の特徴

福島中隊長は大隊の教育構想に基づいて、中隊に属する新兵、2・3年兵、上等兵、下士官毎の教育計画を策定し年間を通じて教育した。学科・術科毎に課目を選定し、課目毎の教育方針を定め、担当を決める。年間・期別(1期12月~3月、2期4月~5月、3期以降は別途)に展開し、週間予定・実施表で実行を指導監督する。下士候補生、下士教育は大部分大・連隊担当であったが、下士を重視する福島大尉は中隊でも教育を計画した。連隊の教育委員として、下士や見習い士官の教育も担当した。

一つ目、共通して重視した事項

一番目、精神教育を重視し、志操を堅確にする為、中隊長自ら率先躬行による訓導を行った。

二番目、現地現物教育で、実技に合わせ学科の講義を行い、演習の行き帰りに地点指示や目測訓練等を行なった。質問や課題方式で要点を反復し理解させる等どうすれば身に着くか、を考えた実際的教育法を重視した。

三番目、綿密・ハードな計画とやりきる実行

自らは勿論隊付将校や一部の下士の教育上の負担は大きかった。実施状況を見るときちんとやり遂げている。中隊長自らの率先教育がやりきった最大の原動力であった。

二つ目、階層に応じる重視事項

一番目、新兵及び2・3年兵の教育ー無学者を何とかしなければ・・・

明治35年、旅団副官時に作成した第4旅団統計表に拠れば、明治32年12月弘前連隊に入営した新兵615名中無学者が2割・123名であった。尋常3学年以下の者を含めると低教育者の割合は相当高かった、事が分かる。読み書き算数は軍人としての又は社会人としての基礎中の基礎である。無学者に教育を施し、理解力を身に着けないと軍事学科の理解が進まない。現階級での活動は勿論上位階級に昇進した際に下級者の指導も出来ない。下士を希望しても叶わない。除隊後も世の中の底辺で苦労し、可哀そうな限りである。今のうちにしっかり身につけさせなければならない。個人の幸福の為、軍隊の精強の為、自分にはこれ等の者への教育を徹底する義務がある。自分が窮途に悩んだ経験から無学者・低教育者への憐憫の情を人一倍強く持っていた。無学者の為の熟を開き、この解消に努めた。

明治25年入営兵の学術科予定表 第2中隊(高崎歩兵十五連隊、)において「新兵中、文字及び算術の初歩を知らざる者は適宜の時間にこれを教授す」と記述している。士官学校を卒業し、見習い士官として原隊復帰した年に教育を担当し、無学者が多い現実に驚愕して、その教育の為、時間外に多くの時間を割いた事は教育の原点であった。

二番目、直上位を行なえる力を着けさせる

上等兵や下士の教育に当たって、単に自己の任務を確実に遂行し、それぞれの部下を訓導する技能を身につけさせるだけでなく、直上上官に何かある時は之に代わり指揮・訓導出来る力を着けさせ無ければならない、との方針を掲げ、その教育に自ら任じた。

二つ、指導者としての実践の効果

あるべき姿を描いてそこに到達させる為、過重と思われる計画をたて、万難を排してとことんやりきった。その事を通して、中隊の隊員一人一人を大事に思う愛情と中隊を強くしたい情熱が曇りなく伝わる。隊員は力を着けなければ申し訳ない、部隊の役に立たねば申し訳ない、と真剣になり、福島中隊長が目指す部隊が出来上がる。

終わりに

以上から2つの感想を持つ。①部下の心を打ち、掴む教育・指導はリーダーの統御力を増す。②部下が力を着ける事は部隊の底力が増し、新たな任務に応える可能性が拡がる。力を着け、心を寄せる部下は創意あふれるリーダーが目指す、やがて来たるべき”事を為す”時に大きな力を発揮する。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその九 基礎固めの中隊長時代の研鑽ー気になった『梵珠山防御計画』における”側防” [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のりⅡ]

”側防”を思う

始めに

梵珠山防御でもう一つ気になった事がある。それは”側防”を考えている事である。福島大尉は梵珠山前面の錯雑地の突角部に対する短射界火網の構成に、30年式歩兵銃を、その連発性能に注目し、使っている。側防火器の射線は攻撃部隊の側方に固定され、その射線を横切るものは猫の子一匹逃さないように打ち倒すべく構成される。後に、日露戦争、旅順要塞や囲壁で囲まれた村落の攻防で、日本軍は露軍の”側防”機関銃に苦しめられ、多くの犠牲を出し、苦戦した事を思えば、当時の軍で主流の考えだった、とは考え難い。

一つ、この発想の発現上の特徴

一つ目、兵器への関心は並大抵ではない

一番目、素地は士官学校生徒

東京砲兵工廠見学報告(明治23年10月14日)では工廠内に在るすべての兵器砲車等の種類・形状・保管状況などを、観音崎第2砲台見学報告・走水砲台兵器見学報告・富津海保における兵器見学報告(以上明治24年3月3日)では兵器の形状・種類・構造・機能などを、要点を図解し説明している。関心は並大抵ではない。

二番目、課題提出等の度毎に装備への意見を開陳

第1課題「師団前衛が携行すべき砲は山・野砲の何れか」、では山・野砲の用法と効力(射程)を、第3課題「弾薬補充法」では弾薬運搬車の必要性を述べるなど関心は並大抵ではない。後になるが、旅団副官として纏めた統計資料(明治34年12月から明治35年11月まで)中に、連隊射耗弾薬中に不良弾の比較がある。両連隊の実弾射撃弾数及び薬莢破裂、被筒破裂等を一覧表にしている。銃の実弾射撃性能、実弾の良否に対する関心惹起が狙いである。その根底には戦場での任務達成、兵の命を守る、に直結するのだ・・・がある。

二つ目、戸山学校へ射撃学生として入校

雪中露営演習終了後、志願して陸軍戸山学校に射撃学生として入校した。3月~9月までの6ヶ月間、勿論弘前連隊中隊長のままである。動機は2つ。

①野外要務令綱領の体現である。「教練は武技を修習するものなり、武技既に習得すれば心に恃む所あり、気力随って興奮す(以下略)」、「軍人の技術は武器の使用に外ならず、習熟を第1とし、精巧を次と為す。蓋し戦闘の既に開くや危険の光景悲惨の情状心目に照映し忽ち平時の精巧を減殺す。唯々習熟して自然を成し、心手期せずして相応するもの能く其功を奏するなり」。

②30年式歩兵銃の性能把握と用法習熟の為である。
入校間、「村田連発銃と30年式歩兵銃の性能比較」を7月10日、完成させている。銃の口径、銃の重量、銃尾機関、連発機関、射撃上の性能、の5つを比較している。この中で、連発性能について、「村田連発銃は前床弾倉で多く込められるが、射撃連発と共に、重点が変わり精度が落ちる。又弾倉内の弾丸を射儘した場合更に弾倉を充填しなければ射撃できない。30年式歩兵銃は尾槽弾倉で挿弾子に挿容するので、整然として恰も5発込めるのに1発を込めるのと変わらない。充填及び射撃速度に一大進歩を与えただけでなく使用上、保存上についても優れている」と述べている。

二つ、目指したものは兵器と戦術の相関ー兵器を究め戦術を究める

彼の習熟の考えは単なる技術レベルにとどまっていない。兵器の改正は戦術の改良を産み、そうなると兵卒の教育も歩武を進めなければならない(結論)、と使いこなしてどのような戦術が必然となるか又可能となるか、を究める考えであった。入校は彼が新しく考えた”側防”の検証の為、のものであった、ような気がする。

終わりに

本課題「梵珠山防御計画」を福島大尉は力を込めて解いた。そして策案を満足出来るものに仕上げた事で、中隊長としての基礎固め、は成った、と確信した。この策案で福島大尉の実力を疑う者はもはやいなくなった。以後冬季雪中行動特に冬季行動標準の研究へと踏み出す。

戦術能力は指揮者の中核、指揮者はリーダーの中核力である。その戦術能力が高見に達した所で、熟者への歩みは大きな区切りを迎えた。

この稿終わり

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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその八 基礎固めの中隊長時代の研鑽ー気になった『梵珠山防御計画』における”退却” [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のりⅡ]

”退却”を思う

始めに

福島尉官が過去の課題で”退却”を何度も考えている事が気になった。特に前稿の動的防御・縦深防御・攻勢防御の考えでは自主的な退却が明白である。先にも述べたように歩兵操典では負けた場合に一定の法則はない、としか定めていない。寧ろ退却の事を考える暇があったら目の前の戦闘に全力を注げ、という物言いの中にも関わらず、福島尉官はどういう意図で”退却”を考えたのであろうか。

一つ、日清戦争の体験で得たものー兵を護るのは上長の義務

金州城守備(明治27年11月~12月上旬)・蓋平の戦い(明治27年12月9日)・太平山の戦い(明治28年2月24日)・営口の戦い(明治28年3月5日)・田庄台の攻撃(明治28年3月9日)等酷寒積雪の各地を転戦し、実戦・戦場及び実兵・実戦指揮の実際を体験した。この体験を通じ、以下の二つの強い思いを持った。同時に酷寒、積雪から兵を護る施策と兵を護るための作戦・指揮の適切さを骨身にしみて感した。
①休養・補給・防寒等の不十分は堪えた。戦いの基盤(弾、食糧、衛生等)不十分のしわ寄せを兵に押し付けてはいけない、大陸の酷寒は想像を絶する。不十分な防寒装備、被服・装具で兵を戦わせてはいけない。特に太平山の戦いでは西七里溝南端に突入したが敵は退却するどころか夜に入るも戦闘を継続した。弾薬が欠乏し、積雪上に展開したまま補給を待つ苦戦を強いられた。寒気厳しく、衛生隊の傷者収容は追いつかず、積雪上に傷者は長時間放置したまま、多数の凍傷患者を出した。
②作戦・指揮の拙劣で兵を悲惨な目に遭わせてはいけない。野外要務令体現を誰よりも本気で追求して来たがゆえに誰よりも見えてきたものがあった。野外要務令の不備である。それ故にその不備を早く何とかしなければ、の思いは人一倍強かった。その思いで見ると、不備に異を唱えない体質や難しさに挑もうとしない体質に我慢ならない思いも又人一倍強いものがあった。その思いが噴出したのが”退却”であった。

二つ、福島大尉の”退却”を思う

2つの思いを感じる。

一つ目、硬直を排する

退却を認めない、決まって居る事だからと意を唱えない硬直した体質に対する反発を感じる。敢えて提示した動的防御・縦深防御・攻勢防御という柔軟な防御法には自主的な退却が必須である。硬直しきった戦い方は勝利を得る事も隊員を護ることも出来ない。その訴えが伝わって来る。

二つ目、易きにつくな

難しい退却を敬遠する体質への反発を感じる。動的防御・縦深防御・攻勢防御はいずれも難しく柔軟な発想が必要である。防御戦闘の様相は複雑であり当然退却も難しい。だからと言って敬遠する事は許されない。勝利を得る為にも隊員を護る為に上長が挑むべき務めである。この場を借りて敢えてその難しさに挑戦する、ぞの気概が伝わって来る。

終わりに

福島尉官の”退却”に目線が本当に兵に向いている、を感じた。彼のような逸材が40歳という若さで亡くならず、生きて軍人人生を全うしたならば、違った影響、あの無様、と言われても仕方ない大東亜戦争における負け戦指導の数々、に至らせない、を我が陸軍や日本に残したのでないか、と思う。


参考・引用書籍等:第1師団管内 郷土兵団戦史 第1巻(日清戦争) 第1師団「昭和40年7月5日発行 陸上自衛隊第1師団司令部(郷土戦史作成委員会)」

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその七 基礎固めの中隊長時代の研鑽ー戦術課題「梵珠山防御計画」に戦術能力の高見を見る [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のりⅡ]

戦術課題「梵珠山防御計画」ー目を瞠る策案に思う

始めに

明治32年12月1日、児玉連隊長から、課題「歩兵1連隊、騎兵1中隊、砲兵1中隊、工兵1中隊より成る枝(支)隊を以て青森方向より南進する敵に対し、防御の考案を詳述せよ。但し弘前衛戍地を防御するの目的を以て、防御配備は1万分の1の図上(註、配備図は資料には無し)に詳述すべし」を付与され、翌年3月11日に提出している。戦術眼を開花させ、納得のいく策案を仕上げた事で、中隊長としての基礎固めを締め括った。中隊長としての基礎固めについては既にブログ「八甲田山への道のりー基礎固めの中隊長勤務」シリーズで述べたが、以後冬季雪中戦特に冬季行動標準作りの研究へと踏み出す大きな区切りとなる労作であった。

お断り

本稿はきちんとした策案の評価を試みるものではない。その理由は以下の三点にある。一つには配備図が無い為、細部に亘る具体的な踏み込みが出来なかった。二つには旧地名特に瀧内村や郷澤が現地調査でも判明できなかった。この為連絡拠点としての性格をもつ陣地を確認出来無かった。三つには限られた時間的制約の中で粗い現地調査の域を出なかった。寧ろきらきら輝く策案とその考え方に惹かれ、無性に現地に立ちたかった。現地ならでは、福島大尉ならではの気分を味合い、福島大尉の考えを掘り下げる事に重きを置いた。

一つ、答案の骨子

青森から弘前へ通じる梵珠岳一帯の高地を占領し、敵を撃壤して弘前を援護する。勢力に比し広正面な山地防御である為、山間を通じる2本の道路の内、新道を直接制する梵珠山・大釈迦峠に歩兵1ヶ大隊(1ヶ中隊欠)、旧道を直接制する王余魚沢東南側高地に歩兵1ヶ大隊、両道の配備を連接する郷澤陣地に1ヶ中隊を夫々配置。更に大釈迦を第2線陣地として1ヶ中隊を充て、1ヶ大隊を予備として同陣地に拘置し、旧道又は郷澤陣地への増援を準備。

この際、以下の、6項目を重視。①道路を制する要点の保塁陣地の構築と堅守②新道及び旧道正面の連携③陣前の歩兵火力及び遠距離からの砲兵火力の集中④動的防御⑤縦深防御⑥攻勢防御。

二つ、当時の防御の考え方と福島大尉の二つの視点

以下策案の検討に入る前に当時の防御の考え方を押さえておきたい。
当時の防御の考え方は歩兵操典(明治30年12月制定)、2ヶ条(第304、305条)のみ、から窺うだけである。

第304条に於いて、防御は地形に関係する戦闘法、火器の効用を竭(つく)す為陣地を選定し人工を以て堅固にす、と述べるにとどまっている。又、敵の攻撃方向を知るや散兵線には最初より必要なる兵力を用い、掩堡及びその他遮蔽物を築設し云々と詳しく述べているが、未だ攻撃方向を詳らかにせずして陣地に守兵を全く配置するは戒心す可き事なり、とある。

(視点その1)では敵がどの方向から、どのように攻撃してくるか判然としない場合、之が常態である、にどう準備すれば良いのか?について何も答えがない。此処をなんとかしよう、と福島大尉は考えたに違いない。

第305条に於いて、凡そ失敗の時に際し、退却に関しては一定不変の法則を設ける能はず。敵に撃退されて退却する時は退却方向を撰べず、隊形を変ずる事無く正面と直角に下がり、収容せられざる間は再び敵に抵抗出来ない。従って縦長の梯隊を有する時のみその部署が可能となる。然れども、決戦を為すべき任務を有する部隊に在って全力を戦闘実行に用いずその一部を予備として退却を援護させるが如きは誤謬たるを免れず。

(視点その2)誤謬と言いきられては第一線の戦いに全力を尽すしかない。しかし、戦史研鑽を積めば積むほど全縦深を使った防御を考えるのが自然の姿ではないか、と思える。第1線を破られたら、それは敗戦、そして失敗の退却しかない、という硬直姿勢ではなく、第1線に全力を尽くすのは当然だが、決戦(攻勢)のより良い条件作為の為、第2線陣地までの縦深を考える戦いの幅広さを提示したい、と考えたに違いない。

以上の2点を切り口にして策案の検討に入りたい。

三つ、策案の特性を思う

一つ目、斬新さ

福島大尉の構想には他の者が思いつかないような彼ならではの斬新な問題意識《目の付け所》がある。4つほど挙げる。①山地防御、②動的防御、③縦深防御、④攻勢防御である。

一番目、山地防御

日本の国土の特性から山地防御を考えなければならないのに、その試みは少ない。諸外国の戦史には多くの戦例があるにもかかわらず、である。従って、歩兵操典に山地防御の記述がないから敢えて、梵珠山防御を山地防御を考える場としたい、と宣言して試みている。

二番目、動的防御

山地に於いて敵は道路に沿う攻撃に限定される。主要な戦力は容量の大きな新道沿いに、一部を旧道沿いに指向するであろう。この対処を重視した配備とするが、逆に旧道に主力を持ってくるかもしれないし、同時ではなく、どちらか一方から攻撃してくるかもしれない。これに応じることも亦防者の宿命である。梵珠岳の視射界であればどのような攻撃要領か見分ける事は可能であるので、当初の配備に柔軟性を持たせ、敵の出方に応じ配備を変更する。この為予備の陣地や増援隊を準備する。

三番目、縦深防御

第1線防御の陣地線を敗れない工夫をするので、後方の準備をする事は誤謬である、と歩兵操典は決めつけている。しかし(戦史研究などに依れば)縦深での防御を考える必要があり、この為、第2線陣地、収容陣地や退却経路が必要となる。梵珠山~大釈迦峠及び王余魚沢東南側高地高地の第1線陣地を保持して、敵の出方・戦況の進展に応じて決戦を(攻勢)を指向する場合、又は第1線のいずれかが破られ、尚決戦を企図する場合、において、第2線陣地は必須となる。大釈迦の第2線陣地は要件に適合し、どのような経過をたどるにしても必要である。

四番目、攻勢防御

弘前援護の目的は単なる阻止だけでは達成できない。守りだけではじり貧になる。従って必ず堅固な保塁を設け、攻勢に転じ、敵を青森に追い落とす事を期さなければならない。歩兵操典の考えを忠実に当てはめようとする姿勢が窺われる。

五番目、斬新さを思う

以上の事から、歩兵操典に忠実に防御を考える福島大尉と批判の目を持ち、前向き・建設的に防御を考える福島大尉が浮かんでくる。それらは今の問題を全軍の立場から広くとらえ、俺がやらねば誰がやるの気概を持って、自発的にものを考え創り出そうとする姿を伴っている。

この斬新な視点や目の付け所は福島大尉ならではの戦術眼が花開いた結果といえる。又今の時代の防御の考え方からしても頷ける点が多い。この先進性・先見性は凄い。

戦術能力のレベルでは守・破・離(註)の3段階の中で、決まりを忠実に体現する”守”の域を越え、決まりが分かった上でそれを一旦壊す”破”及びその決まりから離れて自由に自分の考えを具現する”離”の域に達っした事を証している。
註:茶道、武道、芸術等における創造的な段階を表す考え方である。まずは師匠に言われたこと、型を「守る」段階があり、次には自分に合った、より良いと思われる型をつくり、既存の型を「破る」段階に至る。最終的には型から「離れ」て自在になる。

六番目、3度目の青森、現地ならではの実感

この”斬新さ”に惹かれ、現地に立って、福島大尉の思いを感じ取りたい、とこの稿を推敲中の9月初旬、急に思い立った。そして平成25年9月19日~20日、青森を訪れた。その現地所見を披瀝したい。

梵珠山から青森方向は眼下、良好な展望下にある。梵珠山を我が持つ限り良好な視射界を得て、遠くから砲兵火力の優越を期し得る。大釈迦峠付近、新道を制する峠、ここを我が抑えている限り容易には近接できない。国道7号線と27号線の交差点付近(写真下、大釈迦峠)の様子。

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王余魚沢東南高地付近、高地と河谷にはさまれた道路を抑える要点。此処を我が抑えている限り容易に近接できない。青森県体協ゴルフ場入口付近(写真下)の様子。

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梵珠山から大釈迦方向も又良好な展望下、敵が有すれば大釈迦以南に対する良好な視射界を得て、吾の抵抗を有効に破砕し得る。

今回の現地調査で、2本の道路をがっちり押さえる梵珠山一帯の価値と配備をこの目で確認し、強い思いが伝わって来た。その思いとは自分が信ずるところ、日本の国土では山地防御を真剣に考えなければならない、その為の動的防御・縦深防御・攻勢防御を呈示する、であった。開発された現地に立って114年前の様相を思い描いた。その作業に触発されて、当時のどのような防御の考え方の中に福島大尉が居たのか、という疑問が湧いた。これを明らかにしなければ次に進めない。思い切って足を運んで良かった。この閃きが今回の青森旅で得た最大の成果であった。

私が斬新と感じたものは実に福島大尉の疑問に基づいた前述の視点その1及びその2の斬新さそのものであった。

10月5日、靖国神社遊就館部靖国偕行文庫を訪れた。そこで当時、作戦要務令は無く、歩兵操典しかないことを知り、前記提示【当時の防御の考え方と福島大尉の視点】、福島大尉の真の狙いというか切り口というか、に辿り着いた。前文庫室長白石氏及び現文庫室長葛原氏のご示唆及びご協力の賜物である。両氏に深く感謝する。

二つ目、身に着いた戦史知識

本策案でも多くの戦史、戦例を引いている。一例を挙げると、山地防御に着目し、山地を背にする防御、山地を前にする防御の不利とする所を戦史を引き、述べた後、山地を直接防御する場合の利のあるところ、理に適っているところを説いている。
この中で、露土戦役等の戦史に於ける舞台となる、地点等間の地理関係を青森・弘前間の地理関係に置き換えて説明している行、戦史を自家薬篭中のものとし処々に使いこなしている、には驚嘆するしかない。

三つ目、独特の地形眼

敵を寄せ付けない堅固な地形が良いのではない。善良な陣地とする事が大切である。敵兵が必ず通過せざるを得ないで良好な視射界を得られる場所に堅固にする物質的作業と無形上の妙術を施す、と述べている。地形と用い方(築城等)が合わさって真に地形の戦力化が図れるという今の防御に通じる、新しさである。

第1線並びに第2線防御陣地及び収容陣地・前進陣地の構築、第1戦各陣地の連絡道・増援部隊の進出経路・後退経路等の整備、通信の確保など膨大な作業を必要とする。この為敵が未だ攻めてくる前の陣地の準備、工兵の活用が大事、と敢えて歩兵操典第304条を意識し強調している

工兵力は限られているので、各部隊は自力で陣地構築などは行い、工兵は技術力のいるものに限定運用する。高い地理学素養や工兵素養、かって陸軍教導団で工兵を志しただけの事はある、があるからこその視点である。

4つ目、深い様相洞察

敵と我が配備及び双方の戦い方を地形にのせ、様相を描く洞察力が凄い。先ほどの地形眼とも関連するがこの様相を描くことで、地形の価値例えば豆坂の前進陣地としての価値や大釈迦の収容陣地としての価値等を鮮明にしている。戦史研鑽による追体験効果が見事に表れている。

又梵珠山前面の陣地での戦い方を描き、地形の屈曲などに対する村田式連発銃の火力指向、全く新しい?側防、を考案している。武器に対する関心を持ち研究した成果の反映である。

五つ目、優れた綜合判断力

広正面と要点防御、主要道路沿いの陣地の独立的戦闘と相互の連携、第1線と第2線(縦深)防御、阻止(保塁陣地)と攻勢、重点正面配備と配備変更等相反する難しい要素を巧みに節調させる判断力に優れたものがある。

六つ目、策案の意義(到達点)

策案は明確な問題意識を持って、地形を我がものとして、対策を具体化している。当時の将校の戦術能力の水準を越えた域にある、と思う。この事は福島大尉が創造性と柔軟性を持ち、分析・洞察・企画力に優れ、綜合的にものを考え判断する力の持ち主となった事を表している。

終わりに

今、この策案で気になる事が2つある。福島大尉は”退却”を大真面目に考えている事。及び”側防”を考えている事である。次回から2回ほどそこを掘り下げたい。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその六 弘前中隊長基礎固め時代の研鑽ー戦術想定課題「旅団作戦に寄与する支隊長」の決心・処置を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山への道のりⅡ]

「旅団作戦に寄与する支隊長」の決心・処置ー新たなステージの大きな失敗を思う

始めに

明治32年1月19日から2月12日にかけて一連の状況下で、支隊長の区処毎の決心処置を求める戦術課題が付与されている。この時、福島大尉は中隊長着任3~4か月、この新たな局面で、見事に大きな失敗をする。

本課題中で、興味深い点を発見した。資料が完全でなく、解読にはかなり想像で補わなければならないところはある。しかしチャレンジしてみたい。

一つ、戦術想定課題と解答の概要

一つ目、周辺事項

支隊長とは連隊長に騎兵中隊や砲兵大隊などが配属された増強連隊を言い、包括的な任務が付与され、某期間独立して行動出来る部隊の指揮官の事である。従って支隊長として、一連の状況下、或る時点に於ける、決心処置を求める課題付与方式は、中堅・若手を問わず、実戦や実兵演習の限られた機会を補い、将校の戦術能力を鍛える場として、重宝されてきた。中隊長ともなれば、一段高いレベルが求められる。要するに任務はより包括的に、状況は複雑で戦機の判断が難しくなる。本想定課題はかなり難しい。特に初陣中隊長には。

該当者(複数)に対し局面毎に同じ想定を与え、回答を提出させては次へと、状況が移る。特定の個人に対し、途中で誤りを指摘したり、答えを教えたりはしない。従って、その個人の最初の決心処置に対し、次の状況付与がなされ決心処置が求められる。その繰り返しである。その間に誤りに気付き修正する場合もあればとんでもない方向に突っ走ってしまう場合もある。勿論原案通りの解答をする場合もある。

指導官として、求めるレベルが低い場合は手取り足取りになり、高ければ黙って観ているだけ、となる。お灸が必要な場合もある。その場合、新たな任務或いは命令等が特別状況として与えられる。

二つ目、全般経過

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一番目、第1日(1月23日:暦日、想定上は1月10日(筆者註)午後9時於青森)の課題【青森における支隊命令】

筆者註:戦術第1答案では枝(支)隊命令の発出時刻は1月11日午後9時となっているが、次の状況との関係上1月10日午後9時と考えた方が適切と判断した。

その一、状況

青森にあった敵歩兵1ヶ連隊は弘前方向へ退却したようで、尚その一部が新城付近にいる模様。本軍(旅団)鰺ヶ澤付近に上陸予定、その後弘前占領を企図。支隊は旅団の作戦を容易にする任務(推測)を有する。

その二、決心

支隊は明日荒川村、王余魚沢を経て浪岡に前進す。前衛、右側衛、本隊、独立騎兵の区分。独立歩兵大隊は明朝6時30分までに瀧内村に在る第1大隊と交代し新城村高地の敵を監視すべし。
処置
・・・・

二番目、第2日(1月23日:暦日、想定上は11日午後3時15分於五本松)の課題【五本松に達せし時支隊長の処置判決】

その一、状況

前衛、右側衛、独立騎兵からの報告なし、よって一つも状況を得ず。本軍は昨夜鰺ヶ沢に上陸した模様。

その二、決心

支隊は行進を継続して浪岡を占領する。(判断は五本松で止まるか、浪岡まで進むか)
処置
・・・

三番目、第3日(2月6日:暦日、想定上は1月11日午後3時於五本松)の課題【第1問、支隊に下す宿営命令】

その一、状況

大釈迦にある敵兵は五所川原方向に退却、支隊の左側黒石には別に敵兵守備す。我が本軍は敵を撃破して本夜十腰内付近に宿営す、本軍は明日弘前に向かう筈。

その二、決心

支隊は本夜浪岡町に警急舎営せんとす。

その三、処置

前衛は前哨に任じ、本隊は女鹿澤に位置し、歩哨線を・・・・に配置し、特に栗石及び弘前の方位を警戒し又松澤村に小哨をだし、大釈迦方位を警戒すべし。諸隊は左の如く宿営すべし。・・・・。

四番目、第3日(2月6日:暦日、想定上は1月11日午後3時15分於五本松)の課題【第2問、青森に在る独立歩兵大隊長に下す命令】

その一、状況

宿営命令に同じ。

その二、処置

支隊は戦わずして浪岡に入るを得たり。支隊は明日黒石の敵を撃破して弘前に前進せんとす。貴官は配属部隊を併せ指揮し、直ちに出発を準備し新街道を急行して明朝迄に浪岡に来るべし。

五番目、第3日(2月6日:暦日、想定上は1月11日午後〇時於五本松)の課題【第2答案、支隊長の決心】

決心

支隊は明日青森に在る諸隊の来着次第黒石の敵を撃破して弘前の東側に迫らんとす。

六番目、第4日(2月13日:暦日、想定上は1月12日午前10時10分於上十川)の課題【支隊命令】

その一、状況

敵は黒石の守備を厳にし又其一部は長坂東南方の高地を占領す。尚二つ矢方向にも敵兵守備す。支隊は只今本軍司令官より木造に向かって背進すべき命令を受く。

その二、決心

依て攻撃を中止し、木造りに背進せんとす。

その三、処置

前衛は後衛に任じ、敵若し進出し来たらば之に抵抗しつつ本道を浪岡に向かって背進せよ。右側衛及び本隊にある砲兵中隊は直ちに背進を始めて浪岡西北方の高地に進み此処に収容陣地を占領せよ。

二つ、連隊長の指導を思う

一つ目、木造に向かって背進すべき命令を受く。依て攻撃を中止し、木造りに背進せんとす、についての指導

本軍(旅団)の作戦を容易にすべき任務を有する支隊長は旅団の鰺ヶ沢上陸とその後の弘前進出、彼我の状況が逐次に明らかになる、に呼応して如何なる決心処置をすべきか、が問題である。言い換えれば、如何にすれば本隊の作戦を容易にできるのか、を真剣に考えなければならない。

その点で、第3日の決心【黒石の敵を撃破して弘前の東側に迫る】は宜しくない。

福島大尉はその理由として、本軍は明日には弘前に向かうはず、という前提で、本軍が未だ弘前を攻撃せざる以前に敵の右側背を脅威することは任務の目的に向かって必要なり、と述べているが、果たしてそうであろうか

この状況で最も本隊の作戦(弘前進出)に寄与し得る行動は、黒石の敵などほっといて本隊と合流する為、に一路十腰内に向かい前進を急ぐ事である。

目の前の黒石の敵の脅威に捉われて、攻撃する事はいたされて、(我が支隊が)遊兵となる危険性がある。又本隊と支隊が兵力分離に陥り、本隊の作戦に寄与できないばかりか最悪の場合は各個に撃破される危険性がある。

まずは本軍と早期に合流し、側背援護などを確実にすべきである。支隊の十腰内への急進に対し、黒石の敵が支隊の側背を攻撃してくる場合は、支隊としては危険な状況であるが、処置は十分可能であり、危険を冒してでも本軍への寄与を優先すべきである。

従って、特別状況(第4日課題((2月13日:暦日、想定上は1月12日午前10時10分於上十川)【支隊命令】をあたえ、木造への前進を命じた。

二つ目、報告「前衛、右側衛、独立騎兵からの報告なし、よって一つも状況を得ず」についての指導

何故二番目、その一の状況に陥ったか、について三つの見逃しがたい点がある。

表記の様に情報が取れなかった事である。

1月10日午後9時の支隊命令において、独立歩兵大隊を第1大隊と交代させ、新城村高地の敵監視に任じさせた。しかし本隊の旧道方向と連携させ、攻撃させるべきであった。この場合敵との接触を切らない事が狙いとなるので限定目標の攻撃となる。一方旧道方向からの戦況が進む等により新城の敵が下がれば圧力を加え続け、新道を打通することも必要である。

大釈迦の敵の五所川原方向への離脱に乗じる追撃の機を逸した事である。

支隊主力で直ちに追撃に移り、一部で黒石の敵に対処するか、独立歩兵大隊を突進させ、支隊主力を続行させるか、の”機”を掴む眼が必要であった。この意識と先手の処置がないと、戦機に気づかずに終わるか、気づいても、行進交差などの混乱で戦機を逃す。

、何故情報が取れなかったか、何故追撃を発動しなかったかに係る点である。

支隊長(福島大尉)の全般状況認識特に任務意識が低調であった事に尽きる。青森から浪岡への前進にあたり、もっとも関心を持つべきは本軍の上陸の時期・場所は?である。これに如何にすれば寄与できるか、即ち早く、進出して敵を引き付け、本軍の上陸を容易にする事に関心を持つべきであった。

又五本松に着く時点では、決戦の時期・場所は?である。之に如何にすれば寄与出来るか、即ち目前の敵を撃破し戦力比を優位にすると共に早く、合流して本軍の側背援護等に任ずる事に関心を持つべきであった。

福島大尉は本軍に先立って敵を弘前南方に牽制し本軍の作戦を容易にする事、が支隊の最も寄与できる方策と捉えていた。この考えからは追撃の発意は産まれない。

明確な任務意識(分析)があって始めて追撃を発動し得るし、その事で”安全に”本軍と近づき、合流する事が可能となる。1石2鳥の方法になる、ではないか。

任務を分析し、本軍に寄与し得る任務達成の方策(期待度)とその優先順位を考察し、それを追求する姿勢が決定的に欠けていた。当初から弘前南方への敵の牽制が任務、と決めつけていた点或いは目の前の状況にだけ対応する「状況戦術」に陥っていた点は猛省すべきである。

士官学校出で、実力派の新任中隊長の門出には良い経験、良い薬、となったであろう。将来の大成の為の課題である決心処置に当たっての任務分析特に上級部隊への寄与法について、その考え方を深刻に身に付けるべし。

三つ、福島大尉の受け止め、任務分析の重要性を思う

特別状況をもらい、思わず、木造へ背進と表現した。自分の中に目の前の黒石の敵へのとらわれがあり、攻撃しなければならない、との思い込みがあり、それを放棄した悔しさから思わず口走ったものだ。

又本隊に(最も)寄与するためにはどうすれば良いか、を具体的に考えてなかった。だから本隊の行動を明日弘前に向かうはずと希望的に見込み、本隊進出前に黒石の敵を撃破する事が(本隊が向かうべき)敵の右側背に脅威を与え、任務の目的に適う、とした。黒石の敵を攻撃しなければならない、が出発点であり、本隊作戦への寄与はこじつけに近かった。

これは良くない。与えられた任務を分析し、上級部隊の作戦への寄与方策を真剣に考えなければならない。当初の全般状況認識特に任務分析、本軍への寄与方策を深刻に考え、時機的な優先順位をつけ、ベストを追求する姿勢が決定的に欠けていた。

終わりに

中隊長になり、より高度の戦術課題を与えられ、見事に失敗した。そこで肝に銘じた事は指揮官の最重要な責務は決心処置を適時適切に行う、事である。その為には任務を分析し、上級部隊への寄与方策を真剣に考え、追求する事が大切である。任務は決心の基礎である。戦術を究め、事を為すリーダーとして、熟者になる上で、極めて大切な一歩であった。

任務分析の修練を積む事で選択肢を適切に挙げ、その様相の推移や利点欠点を正確に洞察し、重視要因を見抜く眼力が生まれ、総合判断・決心の力が着く。決心に至る一連の筋道が脳中に出来上がれば、瞬時の綜合判断は直感となる。高い戦術能力を持つものはこの域にある、と言われる。福島大尉の直観力を磨く歩みはこの線上を歩み始めている。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその五 初級士官時代の総括 [福島大尉の実行力を訪ねて-福島大尉のなした事Ⅱ]

初級士官時代の総括ー塾者へ繋がったものを拾う

一つ、目指したもの

忠孝両全を最高の価値としていた福島少尉は任官に当たり、忠君報国の為、一廉の或いは事を為す士官になる、を誓った。高い志とそれに向かう目標として、「陸軍内で名を知られる男になる」、「野外要務令綱領体現の第1人者になる」の二つ、を掲げ努力を続けた。

二つ、研鑽の在り様

福島尉官が指揮者としての力を着けて行く過程で、3つの注目すべき点がある。①自分の考えを持ち、それを貫こうとする頑固さ、である。上官の厳しい指導を受けても妥協しない強さは出世と云う点では相応しくないかもしれないが、事を為す資質と云う点では伸び代を感じさせる。②大言壮語は良くないとちじ困らず逆に強く言い切れるよう、力を着ける、と腹を決めてその為の研鑽を本気で行なう。③その研鑽はすべて、正攻法である。その基本は必要と考える資料(参考書等)はすべて読破し、課題の本質(原則)を明らかにするところからスタートする。どの課題でもその姿勢を貫く、決してその場しのぎはしないし、都合よく資料を拾い読みするなどの要領主義もとらない。度外れた努力振りで、大化けを予感させるものがある。

三つ、理解者との出会いー弘前中隊長への指名で幕が開く

台湾派遣軍勤務ではその意見具申をする積極性が立見軍務局長(後参謀長)の目に留まる。この事が後年の立見第8師団長赴任時に、福島大尉を弘前歩兵第三十一連隊中隊長へ指名する伏線となる。この中隊長になった事で八甲田山雪中行軍を始めとして人生で事を為す舞台に立つ事が出来た。そして立見師団長という理解者(パートナー)を得て、彼が人生で事をなす幕が上がった。

これこそ将にプランドハップンスタンド(計画された偶然)とでもいうべきものではないか、と思う。具体的なものは無くても努力の大きな方向性ははっきり持ち、進んでいる。目の前に全力で向き合う。だからチャンスが偶然であるかのように装って現れる。しかしそれは計画された偶然、意志や意欲があるから現れる必然と解する性格のものである。

弘前中隊長は事をなす大きな前提となる条件である。その条件は立見師団長が作った。そのきっかけは希望者の居ない台湾派遣軍勤務を行くべし、と迷わず真っ先に志願し、現地では積極的に意見具申した彼の性向が齎した。爾後の事を為す展開に占める立見師団長の存在は大きい。

終わりに

高い志を抱き、目指すところに向かって、正攻法の努力を積み重ねて”持論””・直観力”を磨き、弘前中隊長に指名され、人生での事を為す舞台に立った。愈々その幕開けの時・条件を自らの意思で作り出すのだ。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその四 初級士官時代の研鑽ー戦術想定課題「上武野決戦に資する第1段隊長」の決心・処置を思う1 [福島大尉の実行力を訪ねて-福島大尉のなした事Ⅱ]


始めに

明治28年12月2日問題受領、明治29年1月31日作業竣工。陸軍歩兵中尉福島泰蔵、明治29年4月28日点検畢 連隊長 河野 通好、と表書。 日清戦争従軍から凱旋帰国した年、戦勝の余韻などを全く感じさせない課題作業である。

一つ、与えられた問題

当時の気分を伝える為、原文に忠実に記す。原文と言っても陸軍の内部文書であり、理解に苦しむ点が多い。そこで二つの予備知識が必要となる。
①福島中尉に対し、段隊長(増強された連隊長)としての決心・処置を求める課題である。即ち小隊長に対し、中隊・大隊・連隊と3段階上位、当然未経験の部隊長(規模・行動地域の大きさや行動期間の長さ及び責任の重さが段違いに大きい。従って判断の幅・奥行きなどが段違い)を勉強させ、その決心・処置能力を鍛えるものである。
②付与される任務・状況はすべて考えさせる狙いから作られる。任務は主力から離れ、某期間、独立して行動する部隊として、明確に与えられず、わざと、漠とした付与となる事が多い。その任務をもとに、主力の行動に寄与する方策について判断し、決心処置させる。戦術の想定課題における決心処置を求める方式は戦場指揮や普段の実務能力向上に直結する頭の体操即ち指揮官教育・訓練のツールとして重視されていた。

二つ、想定(状況と任務)

一つ目、上武野に決戦を予期する北軍は数縦隊で清水街道(註:新潟県湯沢~群馬県水上)を行進中。第1段隊は2月1日午後2時其の本隊の先頭高崎北端に到達。

二つ目、第1段隊長は後続段隊の為め、高崎付近に於いて広き作戦地を占領し、併せて糧秣を押収する任を負う。

三つ目、第1段隊長は2月1日午後2時までに左の情報を得る。

①我が騎兵の首部は岩鼻に停止し、その斥候は正午頃藤岡、新町、境町に於いて、敵の騎兵斥候に遭遇せり。
②本日正午頃、6000若しくは7000の敵、本庄に在り。
③旅団長の率いる第2段隊は本日5時までに渋川に着して、宿営する予定。
④高崎衛戍兵は数日前、東京方向に退避し其の兵営は過半消失せり。
⑤高崎停車場は処々鉄道破壊せり。

四つ目、第1段隊の編成は左の如し。

歩兵第1連隊、騎兵第1大隊第1中隊(2小隊)、山砲兵第1大隊、工兵第1大隊第1中隊。

三つ、問題

4問あり、その決心の妥当性や可能性と決心に基づく当面の処置(宿営、報告、計画・命令(配備))の適切性や可能性等を験している。

一つ目、第1問題、第1段隊長の2月1日午後2時における決心及び理由
二つ目、第2問題、2月1日の宿営に関する第1段隊長の命令
三つ目、第3問題、渋川に着すべき旅団長に呈する第1段隊長の報告
四つ目、第4問題、本庄に在る敵に対し、防御陣地の選定及び理由、但し1万分の1の略図を製し、予定配布を記入すべし。明治28年12月2日 陸軍歩兵大佐 河野 通好

四つ、答案概要

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一つ目、第1問題の答案

決心「第1段隊は烏川左岸に前進して、ここに陣地を定め、敵を防御して以て後続段隊の到着を待つ」。理由は考えるべき3つの選択肢(新町、岩鼻、倉賀野)のうち、新町は我が旅団進出前に各個に撃破される危険性が大きくてネグレクト、岩鼻は連隊の能力及び敵の企図への適合上最適で、旅団の決戦にも寄与出来る。倉賀野は敵の進出の可能性低いとして、この問題では触れず。

二つ目、第2問題の答案

前衛は右翼を烏川鉄橋に托し、左翼台新田までの先を警戒し、其の本隊は岩鼻町警急舎営を為す。本隊は倉賀野町に警急舎営す。

三つ目、第3問題の答案


四つ目、第4問題の答案

方針「第1段隊は烏川の左岸に前進し本庄にある敵に対し防御陣地を岩鼻町に決定す。」理由は岩鼻のみが地形上防御に適する。敵にとって倉賀野進出は危険であり(我が旅団進出前に)でてこない公算高い。岩鼻が最も利がある。即ち、①敵の機動を観測し得る。②陣前及び陣内の障害及び要点保持に依り敵を拒止出来る。③若し背進の必要が生じた場合でも良好な交通路を使用し、退路を確保できる。

五つ、連隊長の批評

全体についての纏まった批評はないが、答案中の書きこみ批評がある。第1答案理由の第1の項中の文章「第1段隊が任務を尽くさんには新町を占領するを以て適当とす。然れども此希望は地形上よりするも敵状よりするも成し得べからざる所なり換言すれば我段隊は後続段隊の到着せざる前に敵の為に破られ其の受けし任務を尽くす能わざるのみならず・・・」の箇所の傍註的に「通好(印)地形敵情為し能わざれしに適当にあらず」(朱書)の批評がある。

六つ、答案に決心の在り様を思う

一つ目、「何を」、「何時」決心するか、が一番難しい

第1問題答案では岩鼻防御を明確に謳っている。しかし、第2問題答案では前衛本隊を岩鼻におき、本隊を倉賀野に於いて警急舎営としている。茲で1つの疑問が湧く。

岩鼻防御の主体は誰なのか。段隊本隊なのか或いは段隊から先遣された前衛の本隊なのか。倉賀野に本隊を置くならそこが防御の陣地の意ではないか、ともとれる。要するに前衛を運用して防御させる、という即ち前衛の運用に関する決心なのか段隊本隊の防御の決心なのか、が良くわからない。

恐らくここが討議の焦点になったであろう。旧軍の実情も良く分からず”感じ”だけの物書きで申し訳ないが、「何を」「何時」決心するかは大変難しい問題である、との問題提起という意味で挙げさせて貰った。

福島中尉は改めて戦術における決心、「何を」、「何時」を誤りなく行なう難しさと重要さを痛感し、今後の修養の大きな課題として銘肝した事であろう。

二つ目、直観力に磨きがかかり始めた

前述の連隊長批評にもあるように、新町を当初から落としている点には合点が行かない気もする。また倉賀野防御についても選択肢として触れていない点も気になる。しかし、地図を見る限り、地形上の陣地適地は岩鼻が一頭抜けている。状況と任務から考えても岩鼻が適当と思う。任務分析も上級部隊長(旅団長)の関心・期待度を反映できるようになった。第1段隊長の任務達成の期待度には幅がある。maxは旅団の攻勢への寄与、この為どこを保持すべきか、miniは旅団の戦力回復への寄与、この為第1段隊が健在して(撃破されないで)旅団と合流。この範囲の中で達成すべき事項を明らかにしその優先度を明らかにする姿勢が窺えれば言う事なし、である。しかしこの時点でそこまでを要求すべきではないだろう。福島大尉の思考は大筋を外していない。

岩鼻着目に今までの課題と同じ、を感じる。課題「師団前衛が携行すべきは山砲のいづれか」におけ野砲主張。課題「弾薬補充法」ににおける弾薬嚢改良不用主張と同じ何かである。これは何だろう、と思ってきたが、今回、直観力ではないか、と思い当たった。

七つ、福島大尉の直観力には見るべきものがある、と思う

一つ目、”正攻法”で、取り組む効用

①全ての課題に対し、広く戦術書を読み、戦術に関する幅広い知識や戦い方の術策及び部隊の運用方策を学ぶ。その事即ち正攻法で幅広い視野や柔軟な思考並びに総合的な判断力を身に着けると共に、必ず原理原則などの基本を押さえる、から物事の本質把握力に長けて行く成長過程が浮かんでくる。

②どの課題でも必ず戦史を紐解く。課題の目的に応じる戦例を探し求める。この姿勢から、前記の戦術学と同じものは当然として、戦史ならではの効果がある。即ち追体験である。追体験により強い意識化が進み、深い洞察力や先見力が身に着く。

前記①②の研鑽の結果、瞬時に幅広い要素を捉え総合的に判断する力や物事の本質を見抜く力等の”直観力”に磨きがかかって来た。福島大尉にとって戦術課題想定の”ならではの意義”はこの点にこそある、と強く感じる。

二つ目、福島中尉の直観力を思う

彼には少年の時から、瞬時にかくあるべし、と物事のあるべき姿や先行きを見抜く力が備わっていた。自分なりの意見、持論を持っていた。しかし我意偏重であったり実行には繋がらない等の正すべき点があった。この点を、陸軍教導団入団の為、故郷を後にする日の朝、母あさからこんこんと説諭された。士官になるまでは帰らない、の発言に対し、「実行あるのみ、さすれば大言ではなくなる」は肝に響いた言葉であった。

士官任官後も厳しい指導を受けた。課題「師団前衛が携行すべきは山・砲のいづれか」に於いて野砲携行を強く主張した事。課題「弾薬補充法」に於いて弾薬嚢改良不用をしつこく主張した事等とそれに対する連隊長や大隊長から強烈な指導を受けた事は記憶に新しい。

しかし、よく言えば信念一徹論者、悪く言えば偏屈我執論者であるが、彼の言動には特徴がある。福島少尉・中尉の主張は必ずどうする事が国家・陸軍・兵卒の為になるか、が根幹にあり、私心は無い。他のものに阿たりはせず、自らこうだ、と信ずるところを断固歩む。西郷隆盛の言(南洲翁遺訓、士官学校福島生徒筆写)「(前略)命もいらぬ名もいらぬ官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり、此始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大事は成し得られるぬなり(後略)」その儘を実践している。

”正攻法”の勉強スタイルをやり抜く間にきらりと光るものが出て来た。それは、妥当な直感力である、岩鼻着目にとげとげしさというか危うさがなくなった気がする、からである。
それは①戦術学全般の素養が向上した事。②想定や実戦・実兵訓練などで、任務意識がしっかりし軸が太く強くなった事。③瞬時にバランスのとれた総合的な判断や本質を見抜けるようになった事。④本気の戦史研鑽による追体験効果で洞察力や先見力がいや増した事などが本来の直感を磨く方向で噛み合い出した、と思う。

三つ目、”戦術眼”も気になりだした

直感力を考えている傍らで、”戦術眼”と云う言葉が浮かんできた。意味するところは本質を見抜く眼力、戦いの術策や用兵及び要務遂行上のセンスや目の付け所等々。他の人と一味違うものがある。この”戦術眼”も福島大尉の直感を構成している重要な要素である。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその三 初級士官時代の研鑽ー戦術課題「戦闘中弾薬補充法の研究」答案を思う [福島大尉の実行力を訪ねて-福島大尉のなした事Ⅱ]


始めに

明治25年12月2日、問題受領、明治26年2月28日作業竣工(提出)。点検畢、大隊長同年3月30日、連隊長同年4月20日。この論文課題には連隊長、大隊長の纏まった批評はない。しかし文中の処々に手厳しい批評が書きこまれている。今回はその手厳しさを表した連・大隊長の思い、この手厳しさを招いた福島少尉の思いとこの批評を受けた福島少尉の思いを探ってみたい。

戦闘中弾薬補給法ノ研究(明治25年12月2日)024 (640x506).jpg

一つ、戦闘中弾薬補充法(歩兵の為め)の研究答解概要

4つの戦闘場面における弾薬補充の特性と補充法を主たる論点としている。4つの場面とは①敵の射撃界内に入る前の敵に近迫、②射撃界内の敵に近迫、③突撃前後、④攻撃奏功後である。補充方法として①では、節用。大隊行李の予備弾薬を豫め兵卒に配分。②では、2名の弾薬補充兵による追走配分は困難と認識すべし。依って、死傷者の弾薬取得等の個人補充と予備員・予備隊投入。③では、予備員は使い果たし、死傷者からの弾薬取得も困難で最困難最緊要。④では、後方駄馬追走を要求等を述べている。

個人が弾薬を携帯する弾薬運搬用の雑嚢、背嚢、弾薬盒、弾薬巣等について、不備を厳しく指摘しているのが目につく。福島少尉の言葉の強さに比例して連大隊長の批評の手厳しさが増している。

二つ、答案作業間に湧きあがった福島少尉の思い

一つ目、福島少尉の思いは①で、はや爆発し決闘を宣した。

予備弾薬を個人配分するとして、それを入れる雑嚢や袴の側嚢は携帯に不便、運動に困難。特に雑濃は重量は一方に偏し身体の中部にありて振動し、袴の側嚢は膝射や山間跋渉障碍飛越等に際し動作の自由を束縛する、之より生じた背嚢改良説に基づく弾薬巣或いは前帯弾薬盒の発明は本質的解決に至ってない。この器械的論峰に対し後文にて決闘を試みんと欲す。(第5 戦闘中弾薬の補給における第一(①)の場合)

二つ目、戦闘酷烈の場合即ち③の場合、背嚢を現地に捨て置け、と強く主張する

③の場合、最も戦況は苛烈であり、弾薬は欠乏し補給は最緊要事であり、最も困難事である。この時背嚢を外して弾薬を取りだし弾薬盒に詰め替える時間はない。兵卒は宜しくその場に伏臥し、背嚢を脱却し、弾薬を取りだし、背嚢は之を捨て置くべし。勝敗の決一挙に在り、一個の背嚢何んか有らん。(第7戦闘中弾薬補給に於ける第三の場合)

三つ目、背嚢の改良説に対する非難を声高く論ず

後文で決闘をせんとして、新たに「第13」の項を立て、背嚢の改良説と言い前帯弾薬盒の創意と言い未だ新機軸を角出して万衆の耳目を驚かさざるを悲しむと書き出した。
改良策として、背嚢の下部に弾薬入れを設ける案は携帯工具を付着せる者は重心左下し、更に一層困難になる。是を矯正するため鍵型や背嚢両側に設ける案などあるが構造単簡ならず。吾曹は現用の背嚢を改良するを要せず、と思う。前帯弾薬盒と言い弾薬巣と言い、少しく見るべきところはあるが運動に支障があり、散兵の伏射姿勢に妨害あるので、其の利其の害を償うを得ず。(第13背嚢の改良説と前帯弾薬盒及び弾薬巣とに対する非難)

四つ目、再度、背嚢を捨てるを可とす、を強調す

第15結論の前の「第14戦術単位の長は弾薬補給を如何にするや」項の末尾で火線にある兵卒背嚢より弾薬を出すの点に付き、一言すべき点あり、として再度、背嚢を捨てるを可とする事を強調している。
敵に応射せざるを得ない場合に、敵近くでは、各個に背嚢を脱して弾薬を出し、時機危険なれば背嚢は捨つるも可なり。豈何ぞ予備の七品を顧慮するに暇あらんや。

五つ目、答解に窺える福島少尉の心底

背嚢の改良は不要、がこの答解の肝である。少尉任官1年未満の若輩乍、背嚢改良説に徹底して反対、との立場を臆することなく鮮明にしている。第1線の兵卒に焦点を置き、酣戦における一瞬の無駄も許されない戦闘継続と弾薬補充を焦点として、そこを突き詰めている。そこに福島少尉ならではの考え方の本質がある。

自分の意見を主張すべきはする。さはさりながら駆け出しの新品少尉としては学ぶべき事が山ほどある。本命題で出題者が期待する答解姿勢とはずれがあった。もっと地道で謙虚な研鑽答解が求められていた。連・大隊長からすれば、その期待に収まり切らず、はみだしたり足りない部分或いは正すべき点が目につく福島少尉では無かったか。

三つ、連・大隊長の手厳しい批評

一つ目、足元を見ずして大言を叩くな

仏国が複嚢を採用する如く本邦に於いても麻製の長布嚢を作り云々の記述に対し、本邦而今の制度を知らずして如此談を発す(連隊長)。

背嚢の改良説と言い前帯弾薬盒の創意と言い(略)未だ新機軸を角出して万衆の耳目を驚かさざるを悲しむ云々の記述に対し、前帯弾薬盒は近時の創意に非ず、欧州各国の弾薬携帯法を研究せずしてみだりに大言を吐くべからず。(連隊長、第14戦術単位の長は弾薬補給を如何するや)。

敵に応射せざるを得ない場合に、敵近くでは、各個に背嚢を脱して弾薬を出し、時機危険なれば背嚢は捨つるも可なり。豈何ぞ予備の七品を顧慮するに暇あらんやの記述に対し、背嚢を捨つる論述は二回に及ぶ斯くせざるも他に手段あらん研究を望む蓋し少尉は茲に至るも尚背嚢の改良を望まざる乎。(大隊長、第14戦術単位の長は弾薬補給を如何するや)

二つ目、不用意な言葉を使うな

防御に於いて補給された弾薬を壕内の身辺近き地上に置く云々の記述に対し、地上に置くとは解し難し(大隊長)。

三つ目、良く調べてもの言え

戦闘開始の時弾薬駄馬の位置は戦闘兵の後方800m付近にあり、ここに各中隊から2名の兵卒が弾薬箱を受け取り、2名で1ヶの弾薬箱を搬送し、その隊に還る、との記述に対し、箱の儘2名の兵卒にて搬送するに非ず1箱中の5百発を1名250発宛てに二分して搬送する(要務令第317末項参照)。(大隊長、戦闘中弾薬補給第一の場合)。

駄馬の監視に任ずる下士は長官の命令無きと雖も所属戦列隊に弾薬を補給するの必任義務を有するものなりとの記述に対し、第1の場合に於いても然りか尚一考すべし(連隊長、戦闘中弾薬補給第一の場合)。

仏国歩兵弾薬車は一輪に必ず12個の複嚢を備えこれを弾薬運搬の用に供すとの記述に対し、我が邦には抽出条及び負条なる者を弾薬箱中に備えあり。(大隊長、第6戦闘中弾薬の補給に於ける第二の場合)。

遭遇戦に於いては後隊の開進の時機に合わせてこれに定数外の弾薬補充、との記述に対し、尤も細心研究すべき場合なり。然るにその手段に至って甚だ明瞭ならず(大隊長)。

現用の背嚢を改良するを要せずとの記述に対し、背嚢の改良に就いては深く研究をせざるべからず(大隊長)。

大隊長は好時機に於いて予備隊の全部を散兵戦に増加する場合に在っては状況により予備隊をして多分の弾薬を携行せしめ云々の記述に対し、要務令第318条に規定し在り、然れども其の手段方法に至りては尚詳細に研究すべき所なり。然るに本文の処置とは如何なる手段を用いるか極めて無責任の論なり(大隊長)

四つ目、何故もう1歩突っ込んで調べないのか

①吾曹は又既往の戦争に関する彼我弾薬の費消及び死傷の数を細密に計算せる書に乏しければ戦闘散兵が何れの時機何れの場合に如何なる状況を呈して弾薬の費消を訴ふるに至るかを予言するに由なしの記述に対し何故探究せざるや(連隊長、第14戦術単位の長は弾薬補給を如何するや)
②腕力に富む兵卒は僅々なる戦闘時間中80乃至100発の弾薬を携帯運動するも強いて其の労を覚えずと、との記述に対し、百発の弾薬を如何して携帯する乎その方法を記載すべし。(大隊長、第14戦術単位の長は弾薬補給を如何するや)

五つ目、知ったかぶりをするな

(前項、前言②に続いて)吾曹も多年村田歩兵銃を持て演習し其の然るを知る而して此の二兵卒の言の大隊全部の兵に行い得らるるを信ず、との記述に対し、少尉は兵卒の言を聞きて初めて知りたるにあらざるや。(連隊長、第14戦術単位の長は弾薬補給を如何するや)

六つ目、小纏め

福島少尉の論調のエスカレートに伴い連・大隊長の批評が手厳しくなって行く。知らずして大言を吐くな、調べるべきは調べよ、知ったかぶりをするな等謙虚さを身に、地道に力をつけさせ、一人前の将校に鍛え上げなければならない。今のうちに正さねば、鉄は熱いうちに打てと心を鬼にして、将来の為に敢えて厳しい批評を書く二人の上司の姿が浮かぶ。

四つ、批評に対する福島少尉の思い

一つ目、自分の意見を持つ、自分の信じる途を行く。

誰がどういう取り組みをしようと、それが軍当局の定めであろうと、戦いの重要局面に於いて隊員を護れない、戦えない、勝てないものは意味がない。この場合、酣戦に於いて敵に近く戦う場合、行動の自由が得られない、不便な装備・装具がそれに該当し、背嚢を捨ておく、となる。背嚢改良説は不要である。この考えは厳しい指導ではあっても改める所も、積りも毛頭ない。
自分の今までの僅かな経験と考察によって得られた結論であり、まだ足りない点も多い。しかし全軍の為に、を思う気持ちは誰にも負けない。修養研鑽を積み重ね伸ばすべきは伸ばし、正すべきは正して行きたい。

二つ目、正攻法で力をつける

将校としての修養研鑽は未だ始まったばかり、物事を為すときは常に淵源に遡りて探究し全う(第二 弾薬補給法に於ける戦術上の関係如何)する。戦術・戦史研究や諸外国典令等を究める、正攻法で臨みたい。力をつける事で自分の意見を持つ、自分の信じる途を行く、を貫きたい。

確かに耳に痛い、心がけなければならない事ばかり。指導は謙虚に受け入れる。しかしへこむつもりは毛頭ない。実行が伴えば大言ではない、目指すはスケールの大きい有言実行である。そして”事を為す”リーダーになる。その為越えなければならない試練である。

終わりに

明治26年高崎歩兵十五連隊当時の資料綴りの中に偶然、一枚の訓練想定(明治27年3月17日、福島少尉指導官)を見つけた。午後8時20分この地(高崎衛戍地)を出発し、歩兵1大隊2大隊を以て岩鼻を襲撃し、敵の鳥川に於ける架橋作業を妨害するというものであった。その中に団隊長が1、2大隊長へ伝える注意事項として、「背嚢は高崎に脱し置き、背嚢中の弾薬は弾薬盒及び袴に収容すべし」との項があった。福島少尉のこだわりは本物であった。自分がこうと思ったことは誰が何と言おうとぶれずに貫く、精神の芯の強さを改めて確認した。

この稿終わり
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