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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩み その十三 八甲田山雪中行軍の総括(続き) [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート3]

二つ、”成しよう”からみえてくるもの

一つ目、目指したものの到達度

一番目、冒険行軍と研究調査、無事故の3つを想像を越える事態の中で3つともに達成した。

二番目、厳しい場を求め、未曾有の状況の中で行動したからこその成果があった。

最大のものは非常の困難の実相を深刻に体得した、事であった。一面の銀世界を猛吹雪下に行軍すれば目標の識別に苦労し、或いは道筋を捜し続ける難渋状態が長時間続く、長時間続けば怪我・疲労・凍傷という3つのリスクがより強くなる。そして一旦人里離れた場所で落伍者が発生すれば、救助に窮する2次リスクが現れる。危機の連鎖の恐さに抗し続けた。そのギリギリのところで、無事故を達成した。膝捻挫の為、大事をとって原隊復帰させた者を除き1名の落伍者も生じさせなかった。安全管理の究極のあるべき姿、と言っても過言ではない。

三番目、冬季行動標準に資する研究・調査の成果も多く得た。全ての隊員に研究・調査の任務を付与した。行軍にあえぎながら隊員は貴重な実資料を収集した。その資料を福島大尉自ら組み込んだ実施報告書は質の高いものであった。又ならではの経験をもとにした成果もあった。露軍の規定である、零点下12度になれば翌日の行軍をする、の本当の理由が猛烈な寒気により足元から凍傷を起こす、からを体得した。

四番目、冬季大陸で戦うビジョン、その戦いに備え大陸の酷寒に相当する山岳通過強行軍という訓練のビジョンを掲げ、実際に中央山脈や八甲田山に立った。猛吹雪・酷寒・深雪の中、強行軍や露営をして、その可能性や問題点を体得した。やれば出来る、を実証した。

五番目、見習い士官や下士中心の編成として、得難い経験を積ませ、来たるべき戦場で役立つ指揮官を数多く育成した。

六番目、未曾有の寒波の襲来は全くの予想外であった。戦場での予想外に対応する為、敢えて厳しい場を求めて来た事は間違いではなかった。全員うろたえたり、たじろいだりせず、務めを果たした。国難日露戦争ではこの経験がきっと役立つ、との確信を得た。

七番目、冒険行軍ではあったが、成功の目途と成算のある冒険であった。

八番目、目指した露軍に学び・並び・越える、は今回の行軍でその可能性が十分にあり、為せば成る、を証明した。この意義は大きい。これをばねにする事でより多くの隊員・部隊が学び・並び・越える、域に達し得る。

九番目、実行動と学理の吻合

実施報告において厳しい実行動で得た成果と正攻法で研鑽した学理をより高いレベルで吻合させた。

十番目、第五連隊遭難の”葛藤”がもたらしたもの

その”葛藤”の中で、成果を広く世に伝える、は諦めざるを得なかった。寧ろ潔く沈黙した。思考の中で大きな比重を占めたのは遭難者に対する追悼の思いと立見師団長の苦悩、第五連隊遭難の責任者としての苦悩への共感であった。私心なくそう思い、立見師団長と苦悩を共有する事で、二人の関係は新たな次元に入って行った。

第五連隊遭難で天皇陛下奏上は吹っ飛び、冬季行動標準提言は幻と化した。しかし、果たした成果は何時か活きる、活かして見せる、との思いを”葛藤”の中で自分に言い聞かせたに違いない。

二つ目、”成した”意義ー私の定義『誰もなし得ない偉大な業績(仮定)』の”偉大”を思う

”成した事”が偉大であるか否か、は①、周囲に与えた影響と惹き起こされた行動の強弱・大小の度合、②、①に伴う影響や行動の持続性、③、成した事から拡がる発展性等に拠り決まるのではないか、と思う。

しかし、第五連隊の遭難は日本中を驚愕のるつぼに放り込んだ。速やかに事態収拾、という国家の方針もあり、弘前行軍隊の偉業は完全に陰に追いやられてしまった。寧ろ、弘前行軍隊そのもののが邪魔な存在とすら言えたかもしれない。そういう訳で、きちんと向き合い評価した資料は無い。従って上記冒険行軍や研究調査行軍及び厳しい訓練と安全管理の両立の内容等について一般人が目にする機会もなかった。

しかし、福島大尉が残し、遺族が守り続けてきた遺品にはその貴重な手がかりがある。本ブログ旅で福島大尉に近づきたい思いで、生資料ならではの福島旅を行って来た。たら・ればも交えた考察ではあるが、私は①~③について、”偉大な業績”であると確信する。

国難日露戦争必至の情勢下、大陸での酷寒を見据えた行動標準作りの仕上げとしての八甲田山雪中行軍は大きなインパクトを与えるはずであった。何故なら当時の日本陸軍には野外要務令を始めとして、冬季の行動標準と呼べるものは無かった。従って福島大尉は戦史や諸外国の典令を調べ、行動標準の内容・要領等の実験項目を定め、これを大陸の酷寒に相当する山岳で実験した。この方式は陸軍でも試みられていない画期的なものであった。其の厳しさ、求める高さから全軍に広める価値と普遍性が認められるものであった。・・ので第五連隊遭難が無ければ、公表されたであろうし、公表されていたら何らかの改定などがされたはず。

厳冬期の八甲田山雪中行軍は未曾有の大寒波の襲来もあり、非常に困難な行軍であった。にも拘わらずそのプロセスや周到な取り組み等からフロックではなく必然の成功であった。これほどの厳しさの中で一人の犠牲者を出さなかった事も今に通じる安全管理の究極の姿であった。戦場での予想外を無くすという信念で敢えて厳しさを求めた姿勢は軍隊が本来持つべき姿そのものであった。これ等の成功は他の部隊が学ぶべき多くの教訓を含んでいた。・・ので第五連隊遭難が無ければ、公表されたであろうし、公表されていたら他部隊の訓練等にとりいれられたはず。

八甲田山雪中行軍の成功は一躍露軍に並び・越えるレベルにある事即ち日本陸軍の実力を証明したに等しい。・・ので第五連隊遭難が無ければ当然公表されたであろうし、公表されていたら露軍に対しては日本侮るべからず、国内に於いてはやればできるの刺激となったはず。

以上から①②③については公表されたらという前提ではあるが、大いに注目され、活用された、であろう。広い範囲でインパクトのある影響を与え行動を惹起して、今に語り継がれ、或いはもっと素晴らしい試みが出現していたかもしれない。

私は福島大尉が残した資料に目を通す度、その魅力に惹かれ、今の時代、とりわけ陸上自衛隊を中心とする社会に活かすべき内容に溢れていると強く思って来た。だからもっと福島大尉に近づきたい。福島大尉のなした事や人となりを知る人がもっと増えて欲しい、と思い続けて旅を続けて来た。

今に活かし、広く知られることは111年余を経て、福島大尉とそのなした事が当たり前に評価される事である。

三つ目、”成しよう”から見えてくるもの

”為しよう”の底流に潜み、一貫しているものは?について、事を為すの根本を”成しよう”からのアプローチで拾いあげたい。以下の五つが主な視点である。①自信と余裕、②志の深化、③福島大尉の自己研さんや軍務遂行の”流儀”、④篤い思いと私心のなさ、⑤理解者立見師団長の存在。

一番目、自信と余裕ー2つ同時追求を可能したもの

その一、自信と余裕を持って決断したその後の展開

福島大尉は八甲田山雪中行軍(冬季山岳通過雪中強行軍)実施報告の冒頭で、既往3年内の露営演習、実験行軍や研究調査は本行軍を”自信と余裕”を持って決断せしめた、と述べている。換言すれば一連の演習や実験行軍、研究調査に本気で取り組み、結果を出したので、本行軍を”自信と余裕”を持って決断できた、と言っている訳である。厳冬期に中央及び八甲田山脈を連続通過する、という前人未到の試み、の困難さは想像外。この想像外の困難の克服に”自信と余裕”がどのように発揮されたか、を見て行く。

その二、2つの同時追求

冒険的行軍に挑みつつ研究調査を完遂する事と一人の犠牲者も出さない、の2つを同時に追求した。前者は高いレベルを目指しとことんの準備で、後者は危険見積りをとことん行う事でその必成を期した。”自信と余裕”がここまでの凄味を齎した。

その三、先見と余裕

”自信と余裕は”常に先を見る目線と余裕を齎した。特に最悪事態の露営の場面で、自らは疲労・不眠の極に在りながら、隊員を一人たりとも眠らせないよう目を光らせる余裕があった。又常に先を見て手を打つ余裕もあった。即ち長内文治郎宅の捜索隊派遣の決心がそうであった。お助け小屋発見となり、極限の49時間不眠行軍を支える、窮地を救う貴重な休養を齎した。

『成せるか否か不明のなかで事を為す』決断をする際の”自信と余裕”の大切さを物語る貴重な教訓である。

二番目、志の深化ーチャンスを掴み、次の課題を見つける道しるべ

今やるべきと信じ、出来る事を追求する姿勢が志の深化となって表れている。

士官任官直後の志は野外要務令体現の第一人者になる、であった。その努力の過程で次項とも関連するが台湾勤務で立見参謀長と出会い、意見具申する前向きな将校の印象を与える。それが立見中将の第8師団長着任時、弘前連隊中隊長に指名、に繋がる。後の八甲田山雪中行軍の舞台にたてるチャンスを掴むがここで志を深化させ、冬季行動標準策定という次の課題を見つけ、歩一歩とその実現に向かって進む。深化した志はやるべきと信ずる事を追求する道しるべとなった。そして行軍間に次の課題も見つける。研究調査すべき事項の1番目『降雪及び積雪の戦術上及び休養上に及ぼす影響』がそうである。後の偕行社が募集する懸賞課題論文の先取りであった。

チャンス即ち運を呼び込むのも次の課題をみつけるのも志在ればこそ。志ある所、道は拓ける。深化する志に運もまた深化する。

三番目、福島大尉の自己研さんや軍務遂行の”流儀”-持論と正攻法研鑽へのこだわりが成長・進化の原動力

士官任官以来持論を持ち、その持論を大言と言わせない為に努力し、物事すべてに正攻法の研鑽を拘った。 初めての冬季課題作業(明治25年12月付与、明治26年3月提出)で『大言を吐くな、余計な事を書きすぎる』と批評された。これがなにくその思いと共にそう言わせない人物になる、決意をさせた。爾後の研鑽等の原点となる終生忘れ得ぬものであった。

八甲田山雪中行軍に挑み成功させることで今までの持論や言動が大言ではないと言わせて見せる、との気概があった。任官以来続けて来た戦術・戦史研鑽に加え諸外国典令や格言を調べ、雪中行軍で試すべき項目を抽出し、且つ其の内容(策定すべき行動標準の項目とその基準案)を定め、それを実験した。実行動と学理の吻合の仕上げが今回の行軍であった。

持論と正攻法のこだわりは福島大尉の”流儀”であり、成長・進化の原動力であった。

四番目、篤い思いと私心のなさー人間力の核心であり、共動の核心

隊員との間では福島大尉の為すべき事や赤心などの篤い思いと私心のなさが十分伝わって共動の域に達した。田代までの約束であった嚮導がお助け小屋出発に際し、福島大尉の篤い思いと私心のない説得に応じ、青森迄同行する事に決し、以前同様先頭に立って道案内した。立見師団長は福島大尉に任せて、思いっきり活動させた。福島大尉の篤い思いと私心のなさを熟知していればこその援助であった。人間力や“共動”の核心であった。

五番目、理解者立見師団長の存在ー同志が居て、”事が出来た”

今までにも度々触れて来た。弘前中隊長への補職は立見師団長が指名したものであり、この指名で福島大尉の志は深化し、目指すものが具体化した。雪中露営演習、一連の実験行軍等の皮切り、では師団長は写真師を差遣し、成果を軍事雑誌に掲載する労を厭わず、次々によりハードルを挙げる福島大尉の挑戦を受け止め、愈々八甲田山の局面では背中を押して同地に立たしめた。八甲田山雪中行軍ではうまく成功したら天皇陛下へ奏上と励まし、構想段階からすべてを任せ、思いっきり活動させた。理解者と云うよりは寧ろ同志の仲と云う表現が適切に思える。

終わりに

八甲田山雪中行軍で福島大尉が為し、成した事は立見師団長と云う理解者を得て、冬季大陸で露軍に勝つ冬季行動標準作り、であった。その為全軍の先頭を歩み、八甲田山に立つ途を自分で切り拓いた。そして厳しい場を求めそこに身を置きながら無事故も達成する,という誰もなし得ない偉大な業績を打ち立てた。

残念ながらその事実を正確に知る人は少ない。私の知識は半端であり、見方や考え方も偏りがある。しかし、111年余の時を経て、一人でも多くの人が福島大尉やその業績などに興味や関心を持ち、正当な評価をする。私の旅がこの道筋を拓く事に少しでも役立てば望外の幸せである。

為(成)した事で私が確実に言える事は厳冬期山岳通過雪中行軍の成功で大陸での国難対露戦、酷寒克服はやれば出来、而も無事故で、を行動で示した。そして陸軍内外において、一廉の人物として、雪中行動第一人者と認められた事である。

この稿終わり
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