SSブログ

論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に込めた思い その三  目標喪失感の払拭を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み②]

払拭に繋がる3つの出来事を思う

始めに

前稿で自己の停滞につながる虚脱感、目標喪失感について述べた。その時期は明治37年12月頃から2月頃にかけての事である。ある意味仕方がない事ではあるが、それを払拭し、新たな意気込みを持つに至る出来事がある。①初めての子、長女操の誕生(明治37年2月23日)。②ロシアに対する開戦決定(明治37年2月4日)とそれに伴う論文提出要請。③山寺に遊び、新境地を拓くの3つである。

一つ、長女操の誕生

福島大尉はもの凄く喜び、最高の愛情を注ぐ。戦場に赴くので、見納めになるかもしれない。兎に角、血を分けた唯一の我が子が順調に育って欲しい、そんな細やかな願いを込め、出産の記を残す。福島大尉らしく予定表を作り実施を記録した。余白の計算は閏による日程(予定)計算であろう。2月24日付で父泰七に便りをだし、母子ともの健康と操と命名した事や七夜祝いを行った事を告げ、出生報告の役場への提出を依頼している。

img041 (453x640).jpg

出産の記
火性 福島 みさを
明治37年2月17日午後10時30分生
 旧暦 甲(きのえ)辰(たつ)1月2日也
出産地 山形県羽前国山形市七日町496番地 佐久間愛次郎別宅也
産婆 山形市香澄町 大森まつ
補助産婆 山形市七日町496 佐久間愛次郎母
診察医 山形市香澄町 至誠堂病院長 中原貞衛
明治37年2月23日《七夜祝》・3月8日《21日祝》・3月20日《33日祝ー佐久間方氏神稲荷神社山形市湯殿山神社に参詣》・4月23日《七日町薬師如来へ参詣》・4月24日《知人宅訪問》・5月26日《百日祝》・6月5日 《食始め祝》

この”天が与えた”喜びは目標喪失感ー閉塞感を払拭した。

二つ、対露開戦決定に伴う論文提出要請

一つ目、開戦後の全般経過と第8師団出動

開戦は2月4日、宣戦布告は2月10日。日本は直ちに軍事行動を開始した。第1軍は朝鮮鎮南浦に上陸、第2軍は5月に遼東半島に上陸、川村独立兵団(後4軍となる)も5月に大弧山に上陸し、夫々勝利を得て進撃を続け共に遼陽に迫った。8月下旬、遼陽会戦が行われ、激戦の後日本は遼陽を占領したが追撃の余力はなかった。

この間第8師団は予備軍を命ぜられ待機。動員下令は6月7日、歩兵第三十二連隊の山形出発は9月2日であった。待機を命ぜられた第8師団将兵は横目で大陸での戦況を見、切歯扼腕しながら、出動準備の日々を送った。

二つ目、論文要請の経緯

福島大尉に論文提出要請が為された経緯は良く分からない。しかし、開戦後早い段階で、参謀本部が第一線の若手将校に直接目に触れさせる形の教育資料集的なものの作成について、検討を行ない、投稿依頼者について、福島大尉に白羽の矢を立て、師団長に相談し、要請した、のではないかと思う。

三つ目、要請と考える理由(2つ)

一番目、全軍の為とは言いながら、単なる発意に過ぎない提案を個人が行う状況では無かった、と考えられる。

二番目、論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に於いて、「兵馬倥惚の際材料の収集に乏しく唯記憶に存する所を思い出つるに随って記述したるに過ぎず・・・」と記述している。即ち要請に応じた作業であるとの意が感じられる。

四つ目、参謀本部が主導と考える理由(2つ)

一番目、後の偕行社記事臨時増刊第1号(明治37年11月発刊)の編纂の主旨に於いて、若手将校は戦が始まったら教育資料を集め研鑽する等の機会がないのでその利便に資する狙いを強調している。要するに参謀本部が若手将校に教育資料の名目で直接重要情報を目に触れさせる意図があった、と考えられる。

二番目、福島大尉は論文中で、ウオカック少将の説話を「この説話は国際の関係上当時秘密に附せられ、之を新聞紙上に掲載することを禁せられしも今日に在りては之を秘密に附するの必要なく寧ろ之を青年将校に知らしむるの聊か裨益あるべきを思うなり」と述べている。この事は福島大尉のロシア研究に役立つ機密資料を参謀本部がかって、彼に注目して提供した事を示している。その延長線上に論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」提出要請があり、今こそ知らせるべき好機との思いがあった。

五つ目、立見師団長も関与したと考える理由

福島大尉が提出した清書原稿には田部旅団長の押印があり、師団長の賞詞も戴いている事。

より確実と思われるのは、福島大尉の布石を参謀本部は注目し白羽の矢を立てていた。その布石とは「降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響」において示した冬季対露戦並びに同戦備についての深い見識がそれである。その白羽の矢は立見師団長の高い評価と合致するところであった。

この論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」は2月頃に要請を受け、3月~4月の「兵馬倥惚の際材料の収集に乏しく唯記憶に存する所を思い出つるに随って記述したるに過ぎず・・・」に作成し、師団の動員開始前に、間に合うよう完成し提出されたものと思う。

対露宣戦布告は福島大尉の使命感を高揚させた。特に福島大尉にもたらされた”他力”である論文提出要請は一廉の軍人になる思いに火を点け、目標喪失感、閉塞感を払拭させる役目を果した。

三つ、山寺に遊び、新境地を拓く

37年春山寺に遊び漢詩3首を詠じている。

遊山寺口占3首
 
(1首目)
雲上有厳山上松【雲上に厳山、山上に松あり】松間古寺遠聞鐘【松間の古寺の鐘を遠くに聞く】苦辛人向此中歩【苦辛の人、此に向い、歩く】登盡更無認好容【登り盡して更に好容を認る無し】

(2首目) 
危嶂怪峰鬼斧到【危嶂怪峰鬼斧に到り】白雲千古卓松杉【千古の白雲、松杉に卓る】禅宮一径脚先倦【禅宮の一径、脚先倦む】偶有祖師休息厳【偶祖師有り、厳に休息す】。

(3首目) 
山行更上一層棲【更に上へ山行し、一層の棲】縹緲欲窮千里眸【欲は縹緲、眸は千里を窮む】下界栄枯都恍惚【下界の栄枯や都は恍惚】人間回首是蜉蝣【人間首を回せば是蜉蝣】          

註:危嶂;屏風のように連なるそびえる峯、怪峰;この世とも思えない高い山の頂き、鬼斧;この形容が相応しい聳え立つ山容。

大意:(1首目)山寺に登る自分の姿を、我が人生に喩え、苦辛人の人として表現している。軍人として懸命に精進して奉公の道を歩んできたがまだまだ先は見えないとの意。(2首目)今回の目標喪失感、閉塞感は人生の一事の休息であった、との意。(3首目)努力をし尽して、向上し続け、戦場に臨む時、わが身の欲はない。あるのはただ身命を投げ出して国家に尽くすのみ。カゲロウのような儚い人生ならばこその覚悟である、の意。

山寺での遊行は自力が齎した骨休みであり、操の誕生・論文提出依頼を踏まえて、目標喪失感、閉塞感を一掃し新たな心境に到らしめた。

この稿終わり
nice!(0) 

nice! 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。