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論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に込めた思い その四 訴えたかったもの [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み②]

論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」(以下論文「一慮」)で訴えたかったものを思う

始めに

一つ、構成

〇第1章冬季の顧慮に関し我野外令と露国野外要務令との比較、〇第2章露国将官「ウォカック」の説話、〇第3章1877、8年戦役冬季に於ける露軍の状態及び其実験、〇第4章 露土戦役に徴して冬季間に於ける露軍の評論、〇第5章 冬季に於ける野営、〇第6章軍用橇に関する卑見、〇第7章防寒具に就いての卑見、〇第8章寒時の糧食、〇第9章寒時の衛生、〇第10章結論

以上であるが、ここで行うべきは福島大尉がどのような考え方というか思いを込めて、この構成と内容にしたのかを明らかにする事である。何処まで出来るかは分からない、いつもの事であるが、やってみたい。

二つ、福島大尉の露軍研究のあらまし

福島大尉の露軍研究は年期が入っている。その蓄積の総仕上げとして、新たに調べたのではなく「兵馬倥惚の際材料の収集に乏しく記憶に存する所を思い出つるに随って、(1~2か月と云う短い期間で慌ただしく)記述したる」ものがこの論文である。従ってその蓄積量は半端ではないし、対露軍如何に戦うか、の思いも深くぎっしり詰まっている。その思いは後に譲るとして、まずはこの域に到った露軍研究のあらましを振り返りたい。

最初に注目すべきは見習い士官として着任後すぐの冬季作業である。明治24年12月に付与された「本邦規制の師団一道を前進するに当たり、山野砲兵の内何れを前衛に区分するを適当とする乎」に於いて、露土戦役の露軍の厳冬期のバルカン山越え攻撃を取り上げ、露軍の攻勢甚だ盛んであるが弱点を露呈し、犠牲も多い。攻撃精神は勿論だが犠牲が少なくて勝ちを得る戦い方を我が軍は会得すべし、と述べている。時は露土戦役(1877~1878)から14,5年後、未だ清との関係も戦争とは程遠い。士官としての歩みを始めて直ぐに学びの宝庫としての露土戦役に注目している。

知的好奇心の対象としての露軍研究は続き、やがて陸地測量部勤務を機に参謀本部への出入り自由となり、露軍研究は次第に深みを帯びる。

弘前歩兵三十一連隊中隊長となり、国難日露戦争が現実味を増すにつれ、大陸での対露戦に備えた冬季行動標準作成のための調査研究を自らの天命と課す。性格が仮想敵国としての露軍の調査研究へと変わって行く。その調査研究の一環として、機密資料であった「露国将官ウォカックの説話」や「露人の一都府的侵略法(東條中佐)」等を入手すると共に一連の実験行軍や演習に合わせ、実験項目・要領などの立案や行動標準検討に露軍戦史特に露土戦役に於けるバルカン山越え等の戦史や露国野外要務令・格言などの資料、例えば「独国佐官『プファイル』の手記」を入手し、活用する。要するに一連の実験行軍や演習に連動して露軍戦史や露軍野外要務令の調査研究を行っている。

以上の蓄積の中から論文「降雪」が生まれる。「影響」が要請の布石となり、論文「一慮」が短期間で一気に吐き出された訳である。

三つ、論文「一慮」の構成上からみる露軍研究の成果―訴えたかったものの全体像

露軍に学び、越え、勝つ視点で、最も意を尽くして調査研究したのは露土戦役の厳冬期バルカン山越えと露国野外要務令である。前者は冬季酷寒に於ける戦いを学び露軍を知る意味で、後者は冬期行動標準作りのお手本として、特にその背景や考え方を知る上で価値が高いと考えていた。従って、構成の土台に前二者を据え、論を構成し、展開している。

以下構成に込められているであろう思いを探って行く。まず緒言冒頭で①今冬必ず露軍は攻めてくる、と述べ、その根拠を第2章で述べ。②露軍の冬季・山岳・酷寒における困難克服法から学ぶべきもの、を第1、3、10章で、 ③露軍に勝つポイントを第4章で述べている。戦史に依りがたいものとして④冬季・厳寒における大陸ならではの困難克服法を第2-其3、5、6章で、⑤防護の為個人レベルで役立つものを第7、8、9章で述べている。最後に⑥予想外対処について述べ結論(第10章)としているが、何故⑥か、等に就いては触れず、余韻を持たせている。此処は意を汲む必要がありそうだ。

以上を纏めると、以下のようになる。構成の順に、思いをどのように表現しているか、を見て行く。
①今冬(37年~38年冬)露軍は必ず攻めてくる。②露軍の冬季・山岳・酷寒における困難克服法から学ぶべきもの③露軍に勝つポイント④冬季・厳寒における大陸ならではの困難克服法⑤防護の為個人レベルで役立つもの⑥何故結論で予想外対処か

四つ、今冬(37年~38年冬)露軍は必ず攻めてくる

真っ先にこの答えを何故第1章に持ってこなかったのであろう、との疑問が湧く。その答えは最後にとっておき、話をすすめる。 

第2章「露国将官ウォカック」の説話」其2冬期作戦に関する意見に於いて、北支那地方に於ける作戦は何時を可とするやの問に対し、直隷の平野に於いて戦争するに最好時季は冬季なりとし、その理由として河川の氷結を利用できる事と支那兵の多くは南部出身で寒さに弱いから、と答えている。

この引用に第3章における、露土戦役のバルカン山越えの露軍は攻撃精神旺盛で、他国軍が苦しむ冬季を自軍の味方と思えばこそ苦にはしていない。まして戦いの最中に迎えた冬はその継続でしかない、の見解を加え、今冬必ず攻めてくるの根拠としている。

論文「影響」で冬季休戦は今や誤った考えで、冬季によく戦える軍を錬成すべし、と啓発した。開戦し、焦点が定まった今、始めて迎える冬季、絶対に露軍の勝パターンに乗ってはいけない。露軍の攻撃は必至、さもない場合、今冬は露軍を降伏させる唯一の好機である。そのつもりで準備に本気で取り組むべし、との篤い思いが提言となって迸っている。

「ボドルスキー」連隊が此の地(シプカ峠)での情態を知らず寒気を防ぐの術を解せざりしを以て之か為凡そ6週間に9百名の兵を失った事例【第3章 1877、8年戦役 冬季に於ける状態及び実験 其5 寒気の危害】は他山の石とすべきである。即ち今冬に於ける我が軍の身の上に起こり得る事態である。特に我が軍にとっては、露軍との初めての冬季戦であり、又不慣れな暖国師団も含めた総力戦である。今冬攻めてくる公算が高い今、この備えを怠り、ボドルスキー連隊の二の舞になってはならない。この点をこそ強調したかった、のであろう。

五つ、露軍の冬季・山岳・酷寒における困難克服法から学ぶべきもの

【以下の3項目は《第1章 冬季の顧慮に関し我野外要務令と露国野外要務令との差異》関連】

一つ目、最良の露営は最悪の舎営に如かず 

露国野外要務令は冬季積雪冱寒の際には舎営を本則とする事を明示しているが我が国野外要務令は冬季の顧慮が殆どなく、明確ではない。1870,71戦役の冬季に独軍は舎営を本則とし、仏軍は露営を本則としたため、仏軍の損害が甚だしかったし、戦術大家も舎営本則を説いている。我が軍に於いて充分注意をすべき点である。【其1 宿営法に関する差異】

八甲田山雪中行軍に於いて、11泊12日,250kmの中央山脈及び八甲田山の山岳踏破無事成功の要因は村落露営(舎営原則)であった、と福島大尉は認識していた。

二つ目、露国においては厳冬冱寒の夜に露営せし時、寒気猛烈にして停止に堪えざる場合には直ちに翌日に係る行軍を始むるものとせり

行軍に関しては露国野外要務令もわが国野外要務令も凍死・凍傷を予防する為、空腹にさせない等の休養策を重視する点では同じと思われるが、成るべく運動せしむべし云々は露国野外要務令に在って我が野外要務令にない点である。この点は特に顧慮が必要である。【其2 行軍に関する差異】

八甲田山雪中行軍の田代台での露営に際し、寒風・暴風雪下の暗夜に経験した氷点下11度の寒気の中で12度に降下したら翌日の運動を開始すべしと福島大尉は実感していた。

三つ目、行軍や露営において天候の険悪を顧慮すべし

露国野外要務令は全体の意味に於いて冬季の天候を顧慮して規定をたてたる形跡が歴然であり、我野外要務令は然りではない。天候不良、天候険悪、夜間・雪嵐・濃霧等の場合の行軍・宿営等の際の考慮事項を露国野外要務令を参考にすべし。【其3 彼我野外要務令全体に関する差異】

詳細・具体的には福島大尉が論文『影響』で述べている通り、である。

【以下の四つ目から九つ目までの5項目は《第3章 1877、8年戦役冬季に於ける状態及び実験》ー露軍の従軍独国佐官『プファイル』の手記関連である】

四つ目、厳寒の露営において、凍死を予防するには各種の運動を為し眠らせない

1877年12月7日夕、土軍の「ハインキー」の陣地偵察の際、列氏20度の山中に於いて、濃霧の為、寒風凛冽肌を裂くような寒気の中で露営をした際、最も力めしは兵士の眠りを防ぐにあった。何故ならこのような時は往々睡眠に陥り再び覚めざるものあるは確実なればなり。この時、凍死を予防するには各種の運動を為し眠らせず且つ体温を取るように勉めた。【其1凍死を予防する手段】

露軍の将官「ウォカック」はその説話中で、兵卒に就き下級将校下士の注意を要する事項は行進中少時の休憩間に於いて仮眠せしめざる事是なり、若し仮眠せば忽ち風邪を受け終に不測の疾に陥るなり、と述べている。【露国将官「ウォカック」の説話 其3 兵卒と馬匹とに関する防寒の意見】

八甲田山雪中行軍の田代台での露営に際し、福島大尉は寒風・暴風雪下に終夜一人たりとも眠らせなかった。その経験からこの項に強い共感を持っている。

五つ目、身体に油を塗りて寒を防ぐ方法

1877年12月22日、(プファイル本人が)ハインキョイよりチルノワ大本営に到る時、氷雪の為、尋常であれば45分間のところを乗馬で3時間かかった。その際、両足が鐙に凍着し離れなかったので、斧で氷を砕いた。しかし甚だしく凍えなかった。理由は暖衣を着し、殊に顔面及び全体に濃く油を塗布したからである。此の方法は寒を防ぐに於いて全く卓越なる事は夙に世人も知れる所ならん。【其2 体に油を塗りて寒を防ぐ方法及び鐙に布片を巻く必要】

隊員防護に役立つものに目を光らせ、貪欲に収集する福島大尉だからこそ見つけ出したもの、というべきか。過去の実験でも行っていないが防寒はこれで良い、と言う事はない、の思いが溢れている。

六つ目、山中の雪路では踏雪隊が必要、山中雪路の困難
1878年1月5日、(プファイルは)午前6時トラウナを発程し、イエレツキー歩兵連隊と共に行進し、山中の狭路を行進した。この時吾の前面には深雪を除かん為前夜以来1500人のブルガリア人を以て踏雪に任じさせ一歩一歩辛うして前進した。
又殊に大いに戒心を要したのは処々険峭なる深谷積雪のために一見平地の如くなりしこと是なり。若干の兵士は不注意の為に此深谷に墜落せし者ありしも到底之を救うに由なかりしなり。3回目の偵察を行った際兵士の大部分は凍傷にかかり、コザック兵3名は堅氷の為過ちて深谷に陥り之を助けることが出来なかった。
【以上其3 踏雪隊の必要、山中雪路の困難】

踏雪隊について、岩木山雪中行軍の反省を踏まえ、嚮導に就いての事例を研究して、八甲田山雪中行軍に臨んだ。増澤から田茂木野の間、7名の嚮導を使い、道案内と踏雪に任じさせた。無事成功の大きな要因であった。又一見平地の如くなった山地地形から誤って墜落する危険について、八甲田山雪中行軍、特に中央山脈は地形に於いて非常に困難であった、と福島大尉はいづれも強い共感の思いでこの項を綴っている。

七つ目、露軍のバルカン山越山の実相

1878年1月5日、(プファイルは)正午過ぎミルスキー公に遇って共に山中を行軍し、午後6時30分頃には日が暮れ、部隊は露営の準備に入ったがこの時非常に困難な状況に陥った。深雪のなか肌を裂く寒気、烈風氷片を吹き、火を焚く事、野営の準備や炊事も亦為すべからず、であった。しかし、勇敢な兵士の働きで露営をなすことが出来た。【其4 「バルカン」越山の状況】

厳寒・深雪・吹雪の中での行軍では已むを得ず露営せざるを得ない場合が生じる。その場合は非常に困難な状況に陥る。福島大尉は八甲田山雪中行軍に於いて吹雪等で目標が発見出来ず露営をせざるを得ない場合を最悪事態として周到に準備を行なった。自己の体験に照らし、行軍に難渋し露営をせざるを得ない場合は非常に困難な状況に陥ることが明白、万一に本気で備える周到な準備が必要、を強調している。

八つ目、軍靴の欠乏

1878年1月8日ヤニニー、ハスキオイ両村を軽戦の後占領した際、敵(土兵)は全戦地に背嚢・炊事具・被服等を捨てて遁逃していた。この時土兵の死該を(プファイルは)見たが皆跣であった。蓋し露兵が自己の破損せる靴を補なわんが為その靴を奪いしによる。【其6 軍靴の欠乏】之に関連し、ウォカックは以下のように述べている。露国の出師準備不十分の為、極寒に先立ち防寒衣を得たるは最初の3個軍団のみで、後続7個軍団は不十分であった。特に困難なのは靴で将校以下兵卒に至る迄靴底のあるものは殆どなく皆草若しくは布片を纏絡せり。戦死者の過半は敵弾に斃れずして之が為に死しあるなり。【第2章 露国将官ウォカックの説話 其1露土戦役に於ける防寒衣の不十分】

露軍にしてこの状況である。防寒装具を整備して隊員を護る、に本気で取り組まなければならない。敢えて【他山の石】とする啓示であろう。

次稿に続く


 




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