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論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に込めた思い その五 これで良し、後は軍刀で貢献 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み②]

これで良し、を思う

始めに

12月下旬、満州三道覇にあった福島大尉は偕行者臨時増刊第1号(明治37年11月号)に掲載された旨の連絡と共に同紙を受け取る。すぐさま父泰七に便りを認めた。(明治37年12月30日付)
この便りの中の2点が当時の福島大尉の心境を良く表している、と心底思うので、暫し思いを巡らしたい。

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一つ、晴れがましさを楽しむ

本戦役に関する意見書が立見師団長から賞詞を賜り、今度偕行社臨時増刊号に掲載され、日本全軍の将校に配布されて聊か自分の身に光彩を添えた事などを喜んで欲しい、と伝えている。天覧に供されたことも本人が確認していれば書いたであろう。

私には3つの思いが伝わってくる。一つ目は第五連隊遭難による沈黙やt旅団長との確執等の浮き沈みを乗り越えて栄誉を掴んだ”得意”であり、二つ目は数ある将校の中かから選ばれて求められ、応えしかも全軍の将校に配布された、国家の危急に役立ったという達成感である。最後に、福島大尉が最も大事にして来た価値観である忠孝両全、忠君報国の誠と父母への最大の孝行、を果たした満足感である。

論文「一慮」に目を通した立見師団長は論文の素晴らしさ特にその”下敷き”、福島大尉の篤い思いや厳しい状況に身をおいたからこそ得られた知見、を即座に見透した。福島大尉を”識る”が故、である。

そして福島大尉は賞詞を賜った立見師団長に対して、賞詞を賜った事は有難いが、それ以上に”下敷き”を見透し、自分の心根を識って頂いている事に大感激した。士である自分をよく識ってくれている人の命とあれば死をも厭わない《士は自分を識る者の為に死す》、と思ったであろう。両者の心の交流の様が眼前に浮かんでくる。

二つ、今後への決意

是までは筆を以て他人に知られたけれども今後は筆を擲ち軍刀にて奇勲を奏し度きものと心願している、との決意の心境も父に伝えている。

是までは筆を以て他人に知られた、との言い回しから一廉の男になるという青年時の素志を軍人としては一廉の軍人になり事を為すと深化させた。即ち一廉の男になるという素志を貫いた感慨深さ様のものが伝わってくる。

そして早や戦の場に立つ自分の姿に思いを寄せ、軍刀にて奇勲を奏したい、という。その奇勲とは一体どのようなものであろうか?と私は答えを探し始めている。

この稿終わり

追記

ブログ『論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に込めた思い その二 虚脱、目標喪失感を思う』追記でふと思った、何か足りないものがある、との思いは論文「一慮」が全軍に配布されるという通知で解消された。その思いとは対露戦勝利の方略提言を目指す、であった。それが果たされた今思い残すことは無い、と思った。不十分に終わった全軍冬季行動標準提言を労い天が恵贈してくれたチャンスを活かしきった満足感でもあった。
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論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に込めた思い その四 訴えたかったもの(続・続) [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み②]

八つ、(第7、8、9章)防護の為個人レベルで役立つものー現状に満足しない思い

福島大尉はより良い隊員防護を本気で追求し続ける、今までを越えるもの、今までで足りないもの等に就いての目線は貪欲である。

一つ目(第7章) 防寒具に就いての卑見

一番目( 其1)寒時の服装

かっての独国駐在の某氏の報告中の一節を紹介している。
独国連隊に於いては寒気の強い時、将校は襟若しくは裏地に毛布を使った外套及び寛かなる毛織の手袋をつけ、メリヤスの脈温めを手首に巻き、毛氈裏の長靴若しくは通常の長靴の上に護謨製半靴を穿っている。独軍の防寒に対する注意は周到である。

二番目(其2) 防寒用護謨靴

福島大尉の冬季に於ける靴へのこだわりは半端ではない。実験行軍の実施報告や論文「影響」で度々、観て来たところである。

つまるところ正規の寛大な軍靴を使用する以外に妙案はなく、在独将校の報告を引いて、冬季防寒用護謨靴を支給する事が至当である、と結論づけている。護謨靴が有益であり、昨冬より之を穿用実験した結果、防寒用として大いに効力有る事が分かった。

昨冬の穿用実験とは団隊長会議資料の中にあった雪靴実験の中に護謨靴が含まれていた事を物語っている。常に追い続ける思い(執念)の篤さがこの行に籠っている。

三番目(其3) 防寒用腹帯

又腹巻にも着目している。防寒用具として腹巻は必要欠くべからざるものなり。此腹巻には蕃椒(とうがらし)を容れるを可とす。蕃椒・胡椒の類は軽便なる防寒材なり。

二つ目(第8章) 寒時の糧食

一番目(其1)予備糧食

寒中は食欲増進し殊に労働後に在りては決して定量の食物をもって足りるものではないので冬季は一般に予備糧食等の準備を充分にしなければならない。適する食べ物として、道明寺糒、麺麭、乾麺麭、餅、凍り餅何れも可也。其の他に盛岡付近において製する焼米を挙げているがこれは製法は確認しているが保存性については未確認と断っている。

二番目(其2)雪中に於いて道明寺糒を用いる場合の注意

雪中に露営し水無き時に煮る方法は先ず其袋の口を開き内部にある糒と同容積の雪をいれて撹拌し、再び其の口を括り浅く地上に掘りて埋め其の上に焚火を為すか露営火の近傍に之を暖むるなり。然る時は約4,50分間にして食することを得。

新たに加わった道明寺糒を含め、焼き米を除いては保存性・製法・食用法などについて調査(実験)ずみである。此処が凄い!と思う。八甲田山雪中行軍において田代台での露営後の空家での2時間の休養が49時間の不眠・不食行軍を支えた経験から厳しい寒気の中でも保存でき、直ぐ調理できて食べやすく、腹持ちの良いものを誰よりも真剣に求め続けた事を理解すべし、である。

そして凄い!について少し触れたい。
此処に到るまでの予備糧食調査の過程を振り返ると継続して篤い思いを持ち続けた事が良く分る。
岩木山雪中行軍実施報告での扱い
第11雪中行軍に於ける糧食で、寒時食料を増加すべし、を強調しているが予備糧食に就いては言及なし。

八甲田山雪中行軍実施報告での扱い
第14行軍実施に依って得たる結果 第41で雪中行軍の際予備糧食として餅を携行するは利あり。之に砂糖を混ぜる時は氷結の害を防ぐ。寒時の予備糧食として焼米或いは氷餅は適当なり。然れども虫害或いは黴気等の患を防ぐ方法は尚研究せざるべからず

論文「影響」では言及なし。

そして今回では上記に到った訳である。ー再度の中隊長勤務の間に調査を継続し、予備糧食の種類を大幅に増やした。福島大尉は一貫して情熱を持って予備糧食を調べ続けている。

三つ目(第9章)寒時の衛生

実験の結果に基づく1,2の所見を述べん、と特に注意喚起を要する事項に絞って記述している。

一番目(其1) 凍傷、感冒、眼病、卒倒

凍傷については寒気に触れる所より始まるを一般とす。たとえば踵の破れた靴下を穿つ時は先ず此の部分の肉紫赤色に変し血流死す。靴よりも藁沓を穿つ者に凍傷多いのは中に水分が侵入するからであり、乾雪の際は湿雪の時と異なり藁沓は普通の靴より暖にして好し。

感冒については露営等の際に燎火を熾盛にする事

眼病は日光の反射よりも露営の際生木を焚き其煤煙に眼目を曝し之が為に多くの患者を発生することあり。八甲田山雪中行軍における田代台での露営時に生木を焚いた時の燻りで目を傷めた経験を想起したであろう。

卒倒は疲労、空腹等に由って生ず。その前兆は人によって異なる。視力の減退するもの、膝関節に異常を感じるもの、胸塞がり嘔吐する者等あり。これらを癒し元気を回復せしめるには焚火にて体を暖め、食物與フルを要す。肉汁・味噌汁等大いに効験あり。
岩木山雪中行軍に於ける卒倒者がその後の民家に於ける給養特に味噌汁によって回復した経験が大きい。

二番目(其2) 寒気と酒の関係

酒は程度問題である。飲酒の後体温を滅するの害は之を疲労、空腹の際に一杯の酒を得て元気を回復するの利と比較し其得失如何を顧みるにある。

畢竟するに、酒精を薬剤の代用となすは可なれども多く飲むは不可なり、飲まざるは上乗なり。

以上から特に一番目は何れも岩木山や八甲田山雪中行軍での深刻な体験に基づくもので、夫々の実施報告中に繰り返し述べている事である。福島大尉の血となり肉となっている見解である。又二番目も福島大尉が研究調査の主要なテーマとしてきたものであり、その集大成の見解があるとも言える。

九つ、(第10章結論)ー何故結論で予想外対処か

結論に於いて、遂に不利の境遇に陥るを免れさりし所以のものは要するに其の発生せし予想外の事変を処置すること能はさりしに基因する者ならすんばあらず蓋し予想外の事変を違算なく処置し得ると否とは素より人々の天賦に由るべしと雖も亦平常に於ける準備の良否と注意の深浅には少なからざる関係を有するものなること疑いなかるべし、と述べている。

何故予想外が結論なのであろうか。

私は論文「影響」を思い出す。福島大尉は冬季の戦いでは陪従する困難があり、その陪従する困難の克捷方略について力を込めて語っている。

冬季行動はそれだけで困難である。山地や平地などの地形特性が降雪積雪、寒気、寒風等により千変万化する。更に冬季なるが故の兵士を守るべき特別の考慮ーその考慮要素は地形等の変化に応じ、複雑怪奇であるーが加わる。そして戦い特に対露の難しさも加わり、陪従する困難となる。この陪従する困難は予想外の困難を齎す。

論文「一慮」は福島大尉の中では論文「影響」とセットである。この理解がないとこの答えには辿りつかない。

終わりに

この稿を書き進むうち、福島大尉が行って来た実験行軍などへの篤い思いや厳しい状況の中で体験したからこその、福島大尉以外の者では持ち得ない、知見がどんどん迫ってきた。そして、途中で書き記したように、その知見は論文の下敷き、に止めている。

言い換えれば経験を表に出して語る事をしていない。自分の体験や研究成果などをベースに論を構成した方が説得力がありそうに思うが、福島大尉はそうしていない。ここが”肝”、と思えてきた・・・。

下敷き、と感じる事で福島大尉の奥深さを本当に識る事になる、と思う。

この稿終わり
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論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に込めた思い その四 訴えたかったもの(続) [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み②]

六つ、露軍に勝つポイント

『第4章 露土戦役に徴して冬季間に於ける露軍の評論』に於いて、露軍に勝つ(付け入る)ポイントを3つ挙げている。

一つ目(其1 露軍の困難と土軍の無能)ー非常の困難に陥り、弱点を呈す

一番目《状況の概要》

1877年12月下旬から78年1月上旬に亘る露軍のバルカン山越えに於いて、将官グールコと将官カルゾッフの指揮する2縦隊は甚だしき困難に陥った。グールコの右迂回縦隊は始め工兵が堅氷を開設した道路以外頗る困難であったが12月28日降路で大雪となり、砲槓は兵卒60人で挽行し、氷結した路面を下す時、輓馬も滑倒し、難渋した。このような状況であったので、堆雪中に数次徹夜の露営をし、砲兵は橇で運搬した。

カルゾッフの縦隊は自ら雪を払い道を探り木を伐り石を除いて道路を開通して進んだ。1月4日~6日は寒気烈しく列氏零点下22度で、砲槓は分解し、橇に載せ、駄牛を挑発して1門に48頭で之を牽かせた。

この困難中に土軍は逆襲し得る時機があったのに之を行わなかった、のは遺憾であった。

二番目《評論の要旨》

大雪中の行軍に際し、兵卒60人或いは駄牛48頭を要したり、数夜にわたる露営をする困難に陥り、敵前にその弱点を露呈した。その忍耐や頑張りは讃えなければならないが若し土軍がこの機に乗じて逆襲等行っていたらひとたまりもなかったであろう。

露軍は困難であればあるほど立ち向かう勇敢さがある。しかしそれにとらわれ過ぎる傾向がある。山地で数縦隊の分進に加え砲槓の輸送、露営など重なる弱点を呈示した。この傾向は今冬の戦いでも必ず出現するはずである。そこが付け目である。

二つ目(其2 露軍の危急)ー準備不十分で作戦を決行し、大損害を蒙るの弊あり

一番目《状況の概要》

露土両軍はバルカン山で拮抗し、露軍はシプカ嶺の首なる陣地ニコラウス山に久しく陣地を占領した。此の陣地は悉く積雪に覆われ、気温は列氏零点下20度に低下したので露軍の患者頗る多く、殊に他の部隊より遅れて来た第24師団は甚だしかった。12月25日までに6000人以上の病死者、12月24日の如きは1連隊中に630人の病死者をだすという多さであり、この師団はやむをえず後方に還らしめ代わりに第4軍の第30師団を充てた、という。

二番目《評論の概要》

ヨーロッパに於いて、露軍は頗る冬季戦闘に適する兵であるとの評価が定着し、露軍自らも又降雪は援軍若しくは良友の如くおもうと聞くが事実は之に反している。バルカン山に対する防寒準備不十分なりしにも関わらず之を決行したに相違ないが、その損害の多さより考えると露軍の冬季に於ける動作は恐れるに足らざるなり。
又、論文「影響」で、露軍はその規模が大過ぎて装備のレベルや訓練の練度について全部が揃う事はあり得ない、どこかに弱い部分があるはずである、との主旨の事も述べている。

三つ目(其3 露国将官の戦法)ー不慮の故障による過失を生じる弱点有り

一番目《状況の概要》

1877,78年戦役において、露軍はバルカン山での戦闘で、敵の背後を脅威することに勉めた。その方法は首力を土軍の正面に対せしめ支隊を持って側面より土軍の背後を切断する、にあった。露将ラデッキーはシプカ嶺を越えるこの方法で土軍を捕虜とし、又露将グールコもエトロポールに於いてこの方法を用いた。この時土軍はいち早く遁走したので露軍は大功を奏しなかったが兎に角も勝利を得た。

二番目《評論の要旨》

露軍が分進合撃の法を採用したのは適当かも知れないが積雪深き山中では時間の計算が確実ではない。仮令確実であっても往々不慮の故障が発生すること少なくない。現に露軍はバルカン山において幾回か之が為に過失を招けり。

本項は福島大尉の先見性を示唆している。

七つ、冬季・厳寒における大陸ならではの困難克服法

福島大尉は大陸での対露戦に於いては広大な地域における野営法へ習熟する事及び歩・砲・騎の協同の見地或いは砲の推進や補給品の輸送(追走)などの為の馬と橇の扱いに習熟する事がポイントとみていた。

一つ目、(第5章冬季に於ける野営)ーキピトカと穴居の紹介

福島大尉は野営法習熟の必要性を以下のように述べている。将来松花江並びに黒竜江の河孟に沿いて前進するにあたっては完全なる宿営をなす能わざるは又已むをえざる所である。

一番目(其1) キピトカ

携帯天幕は寒地に於いては限界があり、成し得ればキピトカを組成するのが良い、として独国プファイル少佐の露土戦役従軍記録中のシストワに於ける露軍野営の状況を記せる一節を紹介している。

キルギス人が荒野に於いて使用するものと同じで、木材を以て組みその上に毛氈を敷く。中央に火を焚き煙は覆蓋の穴より出る。運搬に要する材料が必要であるが、麻製の天幕に勝れること数等で展張・撤収が早く、天幕より夏涼しく冬は暖である。

二番目(其2) 寒時に於ける穴居

1877年10月ハインキョイ渓谷に於ける露軍の駐衛法ー施設や日常生活等をこまごま紹介している。

将校及び下士卒は宿泊に堪えるべき廠舎中に1中隊の将校も合して住したり。その構造は人員に応じる広さを有し、深さ4歩の穴を掘り、その穴の上に粘土及び灌木を以て小舎を立てたものである。以下小爐腰掛机などの付属品。食べ物として肉・野菜・乾麺麭を製造者と共に紹介する等している。

三番目(其3) 寒地に於ける携帯天幕の構築法に関する注意

緊要の一事として支柱或いは控え杭を地上若しくは氷雪上に植立すること、であると述べ、凍凝する時は岩石に等しい固さであるので、豫めその一端を尖鋭にせる小鉄槓を携帯する必要がある。

以上1から3番目を通じ、福島大尉が実際的にその生活の質(レベル)を高くすることに如何に意を用いているか、が伝わってくる。

二つ目、(第6章 軍用橇に関する卑見)ー戦場にある現地材料を用いて作る橇の検討

シベリア及び満州の交通路は冬季は主に橇を使うと聞くので、橇を必要とする諸隊は冬季の軍用追走品として豫め之を準備するか又は少なくともその図案原料等を調査して置く必要がある。

その橇は2種類がある。人力橇、馬力橇(仮称)である。前者は雪中山地行軍時に小行李運搬用に、馬力橇は砲槓の運搬又は輜重兵用に適する。是等は何れの木工、いずれの木材でも製作可能なものではないので単簡で現地材料でできるものが望ましく、この調査研究は緊急である。

三つ目(第2章露国将官ウォカックの説話 其3兵卒と馬匹に関する防寒の意見)-馬を労わる

馬匹の防寒は只鞍下部を十分にすれば足りる。その他に1日2回の飼養法を3回とし、極寒時には6回として飽食懈怠せしめず食欲を終日均等に保たせる必要がある。又飼料を減じ草料を多くすると良い。ロシア軍騎兵中隊長は夏時は定額草料の8/10を与え、その2分は貯蓄し冬期増量のように供す。これは10数年来の実験により得るところの慣習であり、露軍将校の良く是認する所である。馬匹が飼桶を噛み、僚馬の鬚尾を喰うするは其冬期乾燥料を欲するの証しと為すべし。

福島大尉の目線は馬にまで届いている。馬にまで細心の注意を払って始めて戦力は充実するとの意が伝わってくる。

四つ目(第8章寒時の糧食 其3屠獣具) 屠獣具

福島大尉は何故屠獣具か、の理由を2つ挙げている。一つは冬季は専ら肉食を為して体温を保持する必要がある事、もう一つは満蒙地方は牛豚が多いので生きた牛豚を携行し之を屠殺して休養に充てる場合が多いと考えられる事。
それを受け、日本陸軍の参考とする為、独国軍隊が携行する屠獣具の規定を紹介している。

次稿に続くؙ
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論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に込めた思い その四 訴えたかったもの [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み②]

論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」(以下論文「一慮」)で訴えたかったものを思う

始めに

一つ、構成

〇第1章冬季の顧慮に関し我野外令と露国野外要務令との比較、〇第2章露国将官「ウォカック」の説話、〇第3章1877、8年戦役冬季に於ける露軍の状態及び其実験、〇第4章 露土戦役に徴して冬季間に於ける露軍の評論、〇第5章 冬季に於ける野営、〇第6章軍用橇に関する卑見、〇第7章防寒具に就いての卑見、〇第8章寒時の糧食、〇第9章寒時の衛生、〇第10章結論

以上であるが、ここで行うべきは福島大尉がどのような考え方というか思いを込めて、この構成と内容にしたのかを明らかにする事である。何処まで出来るかは分からない、いつもの事であるが、やってみたい。

二つ、福島大尉の露軍研究のあらまし

福島大尉の露軍研究は年期が入っている。その蓄積の総仕上げとして、新たに調べたのではなく「兵馬倥惚の際材料の収集に乏しく記憶に存する所を思い出つるに随って、(1~2か月と云う短い期間で慌ただしく)記述したる」ものがこの論文である。従ってその蓄積量は半端ではないし、対露軍如何に戦うか、の思いも深くぎっしり詰まっている。その思いは後に譲るとして、まずはこの域に到った露軍研究のあらましを振り返りたい。

最初に注目すべきは見習い士官として着任後すぐの冬季作業である。明治24年12月に付与された「本邦規制の師団一道を前進するに当たり、山野砲兵の内何れを前衛に区分するを適当とする乎」に於いて、露土戦役の露軍の厳冬期のバルカン山越え攻撃を取り上げ、露軍の攻勢甚だ盛んであるが弱点を露呈し、犠牲も多い。攻撃精神は勿論だが犠牲が少なくて勝ちを得る戦い方を我が軍は会得すべし、と述べている。時は露土戦役(1877~1878)から14,5年後、未だ清との関係も戦争とは程遠い。士官としての歩みを始めて直ぐに学びの宝庫としての露土戦役に注目している。

知的好奇心の対象としての露軍研究は続き、やがて陸地測量部勤務を機に参謀本部への出入り自由となり、露軍研究は次第に深みを帯びる。

弘前歩兵三十一連隊中隊長となり、国難日露戦争が現実味を増すにつれ、大陸での対露戦に備えた冬季行動標準作成のための調査研究を自らの天命と課す。性格が仮想敵国としての露軍の調査研究へと変わって行く。その調査研究の一環として、機密資料であった「露国将官ウォカックの説話」や「露人の一都府的侵略法(東條中佐)」等を入手すると共に一連の実験行軍や演習に合わせ、実験項目・要領などの立案や行動標準検討に露軍戦史特に露土戦役に於けるバルカン山越え等の戦史や露国野外要務令・格言などの資料、例えば「独国佐官『プファイル』の手記」を入手し、活用する。要するに一連の実験行軍や演習に連動して露軍戦史や露軍野外要務令の調査研究を行っている。

以上の蓄積の中から論文「降雪」が生まれる。「影響」が要請の布石となり、論文「一慮」が短期間で一気に吐き出された訳である。

三つ、論文「一慮」の構成上からみる露軍研究の成果―訴えたかったものの全体像

露軍に学び、越え、勝つ視点で、最も意を尽くして調査研究したのは露土戦役の厳冬期バルカン山越えと露国野外要務令である。前者は冬季酷寒に於ける戦いを学び露軍を知る意味で、後者は冬期行動標準作りのお手本として、特にその背景や考え方を知る上で価値が高いと考えていた。従って、構成の土台に前二者を据え、論を構成し、展開している。

以下構成に込められているであろう思いを探って行く。まず緒言冒頭で①今冬必ず露軍は攻めてくる、と述べ、その根拠を第2章で述べ。②露軍の冬季・山岳・酷寒における困難克服法から学ぶべきもの、を第1、3、10章で、 ③露軍に勝つポイントを第4章で述べている。戦史に依りがたいものとして④冬季・厳寒における大陸ならではの困難克服法を第2-其3、5、6章で、⑤防護の為個人レベルで役立つものを第7、8、9章で述べている。最後に⑥予想外対処について述べ結論(第10章)としているが、何故⑥か、等に就いては触れず、余韻を持たせている。此処は意を汲む必要がありそうだ。

以上を纏めると、以下のようになる。構成の順に、思いをどのように表現しているか、を見て行く。
①今冬(37年~38年冬)露軍は必ず攻めてくる。②露軍の冬季・山岳・酷寒における困難克服法から学ぶべきもの③露軍に勝つポイント④冬季・厳寒における大陸ならではの困難克服法⑤防護の為個人レベルで役立つもの⑥何故結論で予想外対処か

四つ、今冬(37年~38年冬)露軍は必ず攻めてくる

真っ先にこの答えを何故第1章に持ってこなかったのであろう、との疑問が湧く。その答えは最後にとっておき、話をすすめる。 

第2章「露国将官ウォカック」の説話」其2冬期作戦に関する意見に於いて、北支那地方に於ける作戦は何時を可とするやの問に対し、直隷の平野に於いて戦争するに最好時季は冬季なりとし、その理由として河川の氷結を利用できる事と支那兵の多くは南部出身で寒さに弱いから、と答えている。

この引用に第3章における、露土戦役のバルカン山越えの露軍は攻撃精神旺盛で、他国軍が苦しむ冬季を自軍の味方と思えばこそ苦にはしていない。まして戦いの最中に迎えた冬はその継続でしかない、の見解を加え、今冬必ず攻めてくるの根拠としている。

論文「影響」で冬季休戦は今や誤った考えで、冬季によく戦える軍を錬成すべし、と啓発した。開戦し、焦点が定まった今、始めて迎える冬季、絶対に露軍の勝パターンに乗ってはいけない。露軍の攻撃は必至、さもない場合、今冬は露軍を降伏させる唯一の好機である。そのつもりで準備に本気で取り組むべし、との篤い思いが提言となって迸っている。

「ボドルスキー」連隊が此の地(シプカ峠)での情態を知らず寒気を防ぐの術を解せざりしを以て之か為凡そ6週間に9百名の兵を失った事例【第3章 1877、8年戦役 冬季に於ける状態及び実験 其5 寒気の危害】は他山の石とすべきである。即ち今冬に於ける我が軍の身の上に起こり得る事態である。特に我が軍にとっては、露軍との初めての冬季戦であり、又不慣れな暖国師団も含めた総力戦である。今冬攻めてくる公算が高い今、この備えを怠り、ボドルスキー連隊の二の舞になってはならない。この点をこそ強調したかった、のであろう。

五つ、露軍の冬季・山岳・酷寒における困難克服法から学ぶべきもの

【以下の3項目は《第1章 冬季の顧慮に関し我野外要務令と露国野外要務令との差異》関連】

一つ目、最良の露営は最悪の舎営に如かず 

露国野外要務令は冬季積雪冱寒の際には舎営を本則とする事を明示しているが我が国野外要務令は冬季の顧慮が殆どなく、明確ではない。1870,71戦役の冬季に独軍は舎営を本則とし、仏軍は露営を本則としたため、仏軍の損害が甚だしかったし、戦術大家も舎営本則を説いている。我が軍に於いて充分注意をすべき点である。【其1 宿営法に関する差異】

八甲田山雪中行軍に於いて、11泊12日,250kmの中央山脈及び八甲田山の山岳踏破無事成功の要因は村落露営(舎営原則)であった、と福島大尉は認識していた。

二つ目、露国においては厳冬冱寒の夜に露営せし時、寒気猛烈にして停止に堪えざる場合には直ちに翌日に係る行軍を始むるものとせり

行軍に関しては露国野外要務令もわが国野外要務令も凍死・凍傷を予防する為、空腹にさせない等の休養策を重視する点では同じと思われるが、成るべく運動せしむべし云々は露国野外要務令に在って我が野外要務令にない点である。この点は特に顧慮が必要である。【其2 行軍に関する差異】

八甲田山雪中行軍の田代台での露営に際し、寒風・暴風雪下の暗夜に経験した氷点下11度の寒気の中で12度に降下したら翌日の運動を開始すべしと福島大尉は実感していた。

三つ目、行軍や露営において天候の険悪を顧慮すべし

露国野外要務令は全体の意味に於いて冬季の天候を顧慮して規定をたてたる形跡が歴然であり、我野外要務令は然りではない。天候不良、天候険悪、夜間・雪嵐・濃霧等の場合の行軍・宿営等の際の考慮事項を露国野外要務令を参考にすべし。【其3 彼我野外要務令全体に関する差異】

詳細・具体的には福島大尉が論文『影響』で述べている通り、である。

【以下の四つ目から九つ目までの5項目は《第3章 1877、8年戦役冬季に於ける状態及び実験》ー露軍の従軍独国佐官『プファイル』の手記関連である】

四つ目、厳寒の露営において、凍死を予防するには各種の運動を為し眠らせない

1877年12月7日夕、土軍の「ハインキー」の陣地偵察の際、列氏20度の山中に於いて、濃霧の為、寒風凛冽肌を裂くような寒気の中で露営をした際、最も力めしは兵士の眠りを防ぐにあった。何故ならこのような時は往々睡眠に陥り再び覚めざるものあるは確実なればなり。この時、凍死を予防するには各種の運動を為し眠らせず且つ体温を取るように勉めた。【其1凍死を予防する手段】

露軍の将官「ウォカック」はその説話中で、兵卒に就き下級将校下士の注意を要する事項は行進中少時の休憩間に於いて仮眠せしめざる事是なり、若し仮眠せば忽ち風邪を受け終に不測の疾に陥るなり、と述べている。【露国将官「ウォカック」の説話 其3 兵卒と馬匹とに関する防寒の意見】

八甲田山雪中行軍の田代台での露営に際し、福島大尉は寒風・暴風雪下に終夜一人たりとも眠らせなかった。その経験からこの項に強い共感を持っている。

五つ目、身体に油を塗りて寒を防ぐ方法

1877年12月22日、(プファイル本人が)ハインキョイよりチルノワ大本営に到る時、氷雪の為、尋常であれば45分間のところを乗馬で3時間かかった。その際、両足が鐙に凍着し離れなかったので、斧で氷を砕いた。しかし甚だしく凍えなかった。理由は暖衣を着し、殊に顔面及び全体に濃く油を塗布したからである。此の方法は寒を防ぐに於いて全く卓越なる事は夙に世人も知れる所ならん。【其2 体に油を塗りて寒を防ぐ方法及び鐙に布片を巻く必要】

隊員防護に役立つものに目を光らせ、貪欲に収集する福島大尉だからこそ見つけ出したもの、というべきか。過去の実験でも行っていないが防寒はこれで良い、と言う事はない、の思いが溢れている。

六つ目、山中の雪路では踏雪隊が必要、山中雪路の困難
1878年1月5日、(プファイルは)午前6時トラウナを発程し、イエレツキー歩兵連隊と共に行進し、山中の狭路を行進した。この時吾の前面には深雪を除かん為前夜以来1500人のブルガリア人を以て踏雪に任じさせ一歩一歩辛うして前進した。
又殊に大いに戒心を要したのは処々険峭なる深谷積雪のために一見平地の如くなりしこと是なり。若干の兵士は不注意の為に此深谷に墜落せし者ありしも到底之を救うに由なかりしなり。3回目の偵察を行った際兵士の大部分は凍傷にかかり、コザック兵3名は堅氷の為過ちて深谷に陥り之を助けることが出来なかった。
【以上其3 踏雪隊の必要、山中雪路の困難】

踏雪隊について、岩木山雪中行軍の反省を踏まえ、嚮導に就いての事例を研究して、八甲田山雪中行軍に臨んだ。増澤から田茂木野の間、7名の嚮導を使い、道案内と踏雪に任じさせた。無事成功の大きな要因であった。又一見平地の如くなった山地地形から誤って墜落する危険について、八甲田山雪中行軍、特に中央山脈は地形に於いて非常に困難であった、と福島大尉はいづれも強い共感の思いでこの項を綴っている。

七つ目、露軍のバルカン山越山の実相

1878年1月5日、(プファイルは)正午過ぎミルスキー公に遇って共に山中を行軍し、午後6時30分頃には日が暮れ、部隊は露営の準備に入ったがこの時非常に困難な状況に陥った。深雪のなか肌を裂く寒気、烈風氷片を吹き、火を焚く事、野営の準備や炊事も亦為すべからず、であった。しかし、勇敢な兵士の働きで露営をなすことが出来た。【其4 「バルカン」越山の状況】

厳寒・深雪・吹雪の中での行軍では已むを得ず露営せざるを得ない場合が生じる。その場合は非常に困難な状況に陥る。福島大尉は八甲田山雪中行軍に於いて吹雪等で目標が発見出来ず露営をせざるを得ない場合を最悪事態として周到に準備を行なった。自己の体験に照らし、行軍に難渋し露営をせざるを得ない場合は非常に困難な状況に陥ることが明白、万一に本気で備える周到な準備が必要、を強調している。

八つ目、軍靴の欠乏

1878年1月8日ヤニニー、ハスキオイ両村を軽戦の後占領した際、敵(土兵)は全戦地に背嚢・炊事具・被服等を捨てて遁逃していた。この時土兵の死該を(プファイルは)見たが皆跣であった。蓋し露兵が自己の破損せる靴を補なわんが為その靴を奪いしによる。【其6 軍靴の欠乏】之に関連し、ウォカックは以下のように述べている。露国の出師準備不十分の為、極寒に先立ち防寒衣を得たるは最初の3個軍団のみで、後続7個軍団は不十分であった。特に困難なのは靴で将校以下兵卒に至る迄靴底のあるものは殆どなく皆草若しくは布片を纏絡せり。戦死者の過半は敵弾に斃れずして之が為に死しあるなり。【第2章 露国将官ウォカックの説話 其1露土戦役に於ける防寒衣の不十分】

露軍にしてこの状況である。防寒装具を整備して隊員を護る、に本気で取り組まなければならない。敢えて【他山の石】とする啓示であろう。

次稿に続く


 




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論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に込めた思い その三  目標喪失感の払拭を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み②]

払拭に繋がる3つの出来事を思う

始めに

前稿で自己の停滞につながる虚脱感、目標喪失感について述べた。その時期は明治37年12月頃から2月頃にかけての事である。ある意味仕方がない事ではあるが、それを払拭し、新たな意気込みを持つに至る出来事がある。①初めての子、長女操の誕生(明治37年2月23日)。②ロシアに対する開戦決定(明治37年2月4日)とそれに伴う論文提出要請。③山寺に遊び、新境地を拓くの3つである。

一つ、長女操の誕生

福島大尉はもの凄く喜び、最高の愛情を注ぐ。戦場に赴くので、見納めになるかもしれない。兎に角、血を分けた唯一の我が子が順調に育って欲しい、そんな細やかな願いを込め、出産の記を残す。福島大尉らしく予定表を作り実施を記録した。余白の計算は閏による日程(予定)計算であろう。2月24日付で父泰七に便りをだし、母子ともの健康と操と命名した事や七夜祝いを行った事を告げ、出生報告の役場への提出を依頼している。

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出産の記
火性 福島 みさを
明治37年2月17日午後10時30分生
 旧暦 甲(きのえ)辰(たつ)1月2日也
出産地 山形県羽前国山形市七日町496番地 佐久間愛次郎別宅也
産婆 山形市香澄町 大森まつ
補助産婆 山形市七日町496 佐久間愛次郎母
診察医 山形市香澄町 至誠堂病院長 中原貞衛
明治37年2月23日《七夜祝》・3月8日《21日祝》・3月20日《33日祝ー佐久間方氏神稲荷神社山形市湯殿山神社に参詣》・4月23日《七日町薬師如来へ参詣》・4月24日《知人宅訪問》・5月26日《百日祝》・6月5日 《食始め祝》

この”天が与えた”喜びは目標喪失感ー閉塞感を払拭した。

二つ、対露開戦決定に伴う論文提出要請

一つ目、開戦後の全般経過と第8師団出動

開戦は2月4日、宣戦布告は2月10日。日本は直ちに軍事行動を開始した。第1軍は朝鮮鎮南浦に上陸、第2軍は5月に遼東半島に上陸、川村独立兵団(後4軍となる)も5月に大弧山に上陸し、夫々勝利を得て進撃を続け共に遼陽に迫った。8月下旬、遼陽会戦が行われ、激戦の後日本は遼陽を占領したが追撃の余力はなかった。

この間第8師団は予備軍を命ぜられ待機。動員下令は6月7日、歩兵第三十二連隊の山形出発は9月2日であった。待機を命ぜられた第8師団将兵は横目で大陸での戦況を見、切歯扼腕しながら、出動準備の日々を送った。

二つ目、論文要請の経緯

福島大尉に論文提出要請が為された経緯は良く分からない。しかし、開戦後早い段階で、参謀本部が第一線の若手将校に直接目に触れさせる形の教育資料集的なものの作成について、検討を行ない、投稿依頼者について、福島大尉に白羽の矢を立て、師団長に相談し、要請した、のではないかと思う。

三つ目、要請と考える理由(2つ)

一番目、全軍の為とは言いながら、単なる発意に過ぎない提案を個人が行う状況では無かった、と考えられる。

二番目、論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に於いて、「兵馬倥惚の際材料の収集に乏しく唯記憶に存する所を思い出つるに随って記述したるに過ぎず・・・」と記述している。即ち要請に応じた作業であるとの意が感じられる。

四つ目、参謀本部が主導と考える理由(2つ)

一番目、後の偕行社記事臨時増刊第1号(明治37年11月発刊)の編纂の主旨に於いて、若手将校は戦が始まったら教育資料を集め研鑽する等の機会がないのでその利便に資する狙いを強調している。要するに参謀本部が若手将校に教育資料の名目で直接重要情報を目に触れさせる意図があった、と考えられる。

二番目、福島大尉は論文中で、ウオカック少将の説話を「この説話は国際の関係上当時秘密に附せられ、之を新聞紙上に掲載することを禁せられしも今日に在りては之を秘密に附するの必要なく寧ろ之を青年将校に知らしむるの聊か裨益あるべきを思うなり」と述べている。この事は福島大尉のロシア研究に役立つ機密資料を参謀本部がかって、彼に注目して提供した事を示している。その延長線上に論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」提出要請があり、今こそ知らせるべき好機との思いがあった。

五つ目、立見師団長も関与したと考える理由

福島大尉が提出した清書原稿には田部旅団長の押印があり、師団長の賞詞も戴いている事。

より確実と思われるのは、福島大尉の布石を参謀本部は注目し白羽の矢を立てていた。その布石とは「降雪及び積雪の戦術上に及ぼす影響」において示した冬季対露戦並びに同戦備についての深い見識がそれである。その白羽の矢は立見師団長の高い評価と合致するところであった。

この論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」は2月頃に要請を受け、3月~4月の「兵馬倥惚の際材料の収集に乏しく唯記憶に存する所を思い出つるに随って記述したるに過ぎず・・・」に作成し、師団の動員開始前に、間に合うよう完成し提出されたものと思う。

対露宣戦布告は福島大尉の使命感を高揚させた。特に福島大尉にもたらされた”他力”である論文提出要請は一廉の軍人になる思いに火を点け、目標喪失感、閉塞感を払拭させる役目を果した。

三つ、山寺に遊び、新境地を拓く

37年春山寺に遊び漢詩3首を詠じている。

遊山寺口占3首
 
(1首目)
雲上有厳山上松【雲上に厳山、山上に松あり】松間古寺遠聞鐘【松間の古寺の鐘を遠くに聞く】苦辛人向此中歩【苦辛の人、此に向い、歩く】登盡更無認好容【登り盡して更に好容を認る無し】

(2首目) 
危嶂怪峰鬼斧到【危嶂怪峰鬼斧に到り】白雲千古卓松杉【千古の白雲、松杉に卓る】禅宮一径脚先倦【禅宮の一径、脚先倦む】偶有祖師休息厳【偶祖師有り、厳に休息す】。

(3首目) 
山行更上一層棲【更に上へ山行し、一層の棲】縹緲欲窮千里眸【欲は縹緲、眸は千里を窮む】下界栄枯都恍惚【下界の栄枯や都は恍惚】人間回首是蜉蝣【人間首を回せば是蜉蝣】          

註:危嶂;屏風のように連なるそびえる峯、怪峰;この世とも思えない高い山の頂き、鬼斧;この形容が相応しい聳え立つ山容。

大意:(1首目)山寺に登る自分の姿を、我が人生に喩え、苦辛人の人として表現している。軍人として懸命に精進して奉公の道を歩んできたがまだまだ先は見えないとの意。(2首目)今回の目標喪失感、閉塞感は人生の一事の休息であった、との意。(3首目)努力をし尽して、向上し続け、戦場に臨む時、わが身の欲はない。あるのはただ身命を投げ出して国家に尽くすのみ。カゲロウのような儚い人生ならばこその覚悟である、の意。

山寺での遊行は自力が齎した骨休みであり、操の誕生・論文提出依頼を踏まえて、目標喪失感、閉塞感を一掃し新たな心境に到らしめた。

この稿終わり
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論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に込めた思い その二 虚脱、目標喪失感を思う [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み②]

団隊長会議進達資料に目標喪失感、閉塞感を思う

始めに

前稿の資料中の「大尉の冬季作業を全廃し、併せて中尉の冬季作業中に自撰問題を加ふる事を望む」に於ける大尉の冬季作業全廃意見に目標喪失感ー閉塞感を感じる。先ずはその理由に注目する。

一つ、その理由

軍隊の業務は日々益々頻繁を加え大尉は果たして冬季作業を為し得るや否や、若し為し得るとしても有益に答解を為し得るや否や是一の疑問あり。之を今日までの実例に照らすに問題授与者も作業者も多くの責めを塞ぐ為に三ヶ月の作業を僅かに最後の一二週にして答解し、其の答案は隊長の机上に累積し終わるの弊あり。夫れ以上の判定を不当とし若し仮に各作業者が非常の勉強を以て大作業をなしたりとせんか隊長は一々之を点検すること困難ならん。聞く独国に於いては大尉に冬季作業を課せざると云う。要するにその理由は職務繁劇の大尉に此の作業を課するは負担に堪えずと云うに在るが如し。形式的の将校教方は寧ろ全廃するに如かざるなり。

冬季作業中に自選問題を加ふるの有益なことは其の方法恰も博士の自選問題に於ける如き者にして其の理由は云わずして明なり。是亦独国に於いて行なわれる方法にして我が軍隊に之を採用するを可とす。

大尉の冬季作業全廃を望む、の理由に大尉は職務繁劇で負担に堪えず、を挙げ、問題点として①形式的になっており良い加減な作業に堕している。②隊長も丁寧に指導しない。③誠心誠意作業したものがあるとした場合指導が行き届かない、を挙げている。

心情を表してる冬季作業・答解がある。まずはそれを見る。 「一、甲州街道、日野市付近で対峙する東・西両支隊の一支隊長及び部隊長として遭遇戦が成立するよう適当に指導し、射撃効力及び地形上より両軍の利害を判断をすべし。二、両軍支隊戦闘展開略図(経過を明確に現示すべし)」という問題を明治37年1月10日受領し、同年2月3日提出した。 福島大尉の答案内容の紹介は控え代わりに私の感想を述べる。 作業は付与された状況から東西両軍が当然採り得て、遭遇戦がなりたつ戦術的妥当性のある行動を考察し、それを組み合わせてその戦闘推移を予測しなければならない。更に、その結節ごとに両軍が採り得るべき行動を考察し、それを組み合わせてその戦闘推移を予測すると云うことの繰り返しである。その中で作戦分析の一環として両軍の利害も求められている。 この作業は彼には珍しく控え(提出し点検畢のある)がない。又結論の字は乱れ判読不能である。連隊長の批評もない。提出し点検畢のあるものが返ってくれば彼は必ず控えを取るはず、無いと言う事は連隊長の机上にのったままで終わったから、であろう。冬季作業そのものが満足の行くものではなかった、という意思表示のような気がする。 甚だ難しい作業であり、ここまで難しいと指導者にも卓越した能力が求められる。答案者も本気で徹底的に取り組むか手を抜くかしかない。答案者の能力や作業の特性に見合った中身の濃い指導や深みのある討論などが必要で、形式的或いは付け焼刃では目的達成は覚束無い。 この辺りの実感覚が全廃を望む意見に直接的に繋がった、のであろう。 三つ、目標喪失感感ー閉塞感を思う しかし、今まで見てきたように冬季作業には任官以来各地で真摯に取り組んできた。自己を向上させ、国や天皇に奉公を尽して来た。精進を重ねて、天皇陛下からお声をかけて頂けるような一廉の軍人になりたい。その自己研鑽の故もあって、冬季作業は福島尉官の中で、力を着け熟者への道を歩む大きな牽引車的な役割を果たしてきた。 全廃を強く言わしめたものがもっと他に(間接的に)ある筈、と思う。 この時の福島大尉は論文「降雪・積雪の戦術上の及ぼす影響」を書き上げ、(2番目の)ことを為し(成し)た事で自己研鑽について高見に達した意識があり、且つ新たに事を為す意欲の空白ー新たな目標を見出し得ないー状態にあった、と思える。 同時に、2度目の中隊長勤務や古参大尉というひずみ感とでもいうものが今更、大尉の冬季作業でもあるまい、という意識に繋がった事もあるであろう。 その状態で今回のような冬季作業、問題が与えられ、答案を提出し、満足できる指導がない、は苦痛であった、に違いない。 この稿終わり 追記 自己研鑽という捉え方だけでは不十分かもしれない、とふと思った。八甲田山雪中行軍は全軍の冬季行動標準提言を目指した。しかし第五連隊遭難が覆いかぶさり挫折した。その挫折を乗り越え、論文「影響」を著し、収集論文、全軍の訓練の準拠作りに参画した。その事で目指したものには行き着けた一応の満足感はある。しかし、今何を目指べきなのか?・・・
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論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」に込めた思い その一 二度目の中隊長再始動 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み②]

二度目の中隊長フルパワーで始動

始めに

ブログ「論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その七 立見師団長再び登場」に於いて、”熟者”に事を為す、の響きを感じ、これを契機として熟者『事を為すリーダー』福島大尉への歩みを思う旅を始めた。

この旅も、士官任官に遡り八甲田山雪中行軍までを辿り、そして前号の論文「影響」シリーズ即ち八甲田山以降の歩み①を以て一応時系列的には追いついた。従って今稿から、八甲田山以降の歩み②を始めたい。山形歩兵三十二連隊中隊長として赴任し、論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」の提出に係る思い旅である。

山形歩兵第三十二連隊第十中隊長として転属した福島大尉は二度目の中隊長勤務をフルパワーで再始動した。中隊の掌握、下士等の教育訓練に励みつつ、早速2つの提案を行う。t旅団長への極諌の余波等吹っ切るような勢いであった。自分の信じる処を断行する、指導者及び管理者としての、従前同様の姿を見ることが出来る。まずはここを押さえてから・・・。

一つ、下士教育方針に見る情熱

特に下士教育は福島大尉が最も重視したものである。下士は単に自己の職責を果たし、部下を訓導し得るだけではなく、直上官に代わって職責を支障なく果たせなければならない、との信念で、学・術科の教育を自ら担当し、隊付将校に一部を分担させた。着任当初から弘前中隊長同様に情熱を傾けた。

二つ、団隊長会議資料進達

一つ目、全般

明治36年11月11日付で第10中隊長福島大尉は第三十二連隊長森川 武宛てに、進達している。

全12項目、①連隊副官は従前通り大尉を以て充てる、が良い。②屯営外壕の養魚権を連隊に付せられたし。③軍隊に作業用帽子を付せられたし。④休養掛を曹長とせられたし。⑤短期伍長を1年半ずつ引き続き再役せられたし。⑥機動演習の際、兵卒の糧食は屯営出発前日より、とせられたし。⑦雪靴試験の為、今冬特別に当連隊に増額ありたし。⑧名誉射撃(射撃競技会?)は各連隊同一日に行われたし。⑨週番士官の半数は旧規則の如く、日夕点呼後に退営せしめる事を望む。⑩大尉の冬季作業を全廃し、中尉の冬季作業中に自撰問題を加える事を望む。⑪各隊に演習用携帯天幕の支給を望む。⑫第2種帽の顎紐を廃すること。

実現性の当否は別にして問題意識そのものに福島大尉の考え方、取り組み方が良く表れている。全般に実際性、合理性や隊員保護の観点からなされているが、陸軍が抱える大問題、という点で⑤⑦について深堀してみたい。

二つ目、短期伍長を1年半ずつ延長する提案の理由

今日軍隊に於いて下士の欠乏を生ずる所以はこの点にあり、軍の都合と個人の都合の最も良い折り合い点をさがさねばならない。新案と云うよりは復旧の問題である。

この点についてはかって青森県知事弘前屯営視察時に福島大尉が激論を交わした事。第五連隊遭難事故の収拾に際し、下士募集への影響を避ける配慮がすべてに優先した、事などからその重い意識が理解できる。

陸軍全体と兵士個々への配慮が両々相まっている福島大尉を最も端的に表している。

三つ目、雪靴試験の演習費の増額要望の理由

以下極力原文(意)に忠実に引用する。「冬季演習は年々歳々各地に於いて実施せられつつあるも、多くは雪中に於ける行軍のみにして単に教育訓練に力を用い、未だかって雪靴試験等直接軍隊の施設に必要なる研究を行いたることを聞かず。依って茲に着意するところあり。本年冬季に於いて雪中に於ける各種演習を兼ね併せて雪靴試験の実験を行なわんとす。其の工夫を凝らし、其の構造法を研究し、将来の参考に供せんとするに在り。」

論文『降雪』でも露軍ワルシャワ軍管区で30種の雪靴試験を行った事を紹介している、ように露軍や装具等の寒地研究への関心は深い。露軍の研究に比べ我が陸軍の進捗度は遥かに遅れている。学び・並びを過ぎ、越えなければ国難日露戦は勝てない。福島大尉の本気の思いはいや増すばかり。

雪中行軍のみならず露営の訓練を、更に行軍法や装具等の研究調査を幅広くやらねばならない、との福島大尉の篤さは本物である。

三つ、標的演習教法或いは分隊的使用教法提案

一つ目、概要

明治37 年1 月提出、と表書。独軍及び偕行社記事305号(・・・)に触発され自隊で試作運用し其の成果を纏め紹介せんとしたもの。『我が国に在って未だ野外において誘導標的を使用し演習を施行するものあるを知らず』、『戦闘射撃予行演習を進化させたものと謂うも可也或いは兵棋と実設敵演習の折衷と考えるも可也』と端的に述べている。福島大尉の積極進取の気分がよく表れている。

二つ目、問題意識

現行野外要務令では仮設敵は標旗一本で示しており、部隊の規模・占める正面の広狭等は表現されない。又仮設敵に対する射撃照準は標旗の周辺を無意味に行っている。戦闘射撃予行は植立した標旗に対し行わざるを得ない状況であり、敵のなすべき隠顕・起伏等が自由自在にできるものがあれば殆ど実設敵演習と同じ効果を挙げられる。

三つ目、提案内容

一番目、的の概要

現在独軍が使用しているものと同じ分隊的を使用する。構造・用法は長い木槓に人像的を4ヶつけ、兵が一人ついて、計仮設的4・実兵1の計5的となる。実兵は取り付け・運搬・操作、分隊長動作を行う。(5名的の場合)費用は84銭、縮尺は1/20、木工職人2日間で作成。

二番目、演習の方法

その一、実員部隊対分隊的部隊の場合

標的の指揮官は仮設的部隊の司令、兵員の寡少なるため実員対抗演習実施の困難克服が主眼。

その二、彼我共に分隊的を使用する場合

対抗演習として、主として小隊長・分隊長の指揮法を訓練する。

その三、分隊的を使用し、戦闘教練を兵卒各個に行う場合

各個散兵動作から伍の動作、次いで分隊内動作の順。分隊内動作は分隊内標準者になることであり、分隊長の任務を理解するに如かず。従って分隊的操作をその場として活用する。

その四、分隊的を使用し、密集教練の基本の解説や嚮導の行進法を演習する場合

密集隊形は中隊の中にあっての動きであり、本方法を含む各種の工夫が必要。又下士の嚮導は最も困難とするところであり、慣熟させんとすれば分隊的使用も考えなければならない。

その五、分隊的を使用し、距離測量或いは戦闘射撃予行演習を行う場合

分隊的を使用(誘導的に)する事で攻撃にも防御の戦闘射撃予行にも活用できる。

その六、小纏め

福島大尉が平素の訓練に臨む2つのスタンスが窺える。仮設敵(的)部隊にも指揮官を設ける等あらゆる場を訓練に活用する、という真摯な取り組みと人員の制約等を踏まえた実戦的・実際的訓練を追求する姿勢である。

終わりに

中隊長は水を得た魚のようである、t旅団長への極諌の余波を微塵も感じさせない。と云うよりは深い覚悟を秘めた再始動であった。

きっと忠君報国の奇勲をたてて見せる、との篤い思いは勿論だが、その深い処で、立見師団長が極諌問題の最後に示した本心に対し、己を士として識ってくれている師団長の為に死をも厭わない、との思いも渦巻いていたように思える。

在るべき姿に到達させる為の指導者としての情熱。あるべき姿に到達させる為に問題を把握し対策や改善策を講じる管理者としての篤い思いと実行力が強く迫ってくる。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその十四 論文「影響」総括 [福島大尉の実行力を訪ねてー八甲田山以降の歩み①]

事を為すリーダーの視点で論文「影響」を総括ー塾者への歩みに繋がったものを拾う

始めに―為した事の意義

本稿はブログ「「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」に於いてわれ虚名を釣らず その一、予想外の副官就任」~「論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その七 立見師団長再び登場」に対応させている。

”為した”事の意義

懸賞課題に応募し、優等賞を得、続く収集論文にも引用された。
優等賞を得た論文では八甲田山雪中行軍には一切触れず、戦史・諸外国の典礼等及び戦術書のみで論述。内容的には冬季に於ける戦いの原則的事項を抽出し、その応用方略と困難克捷の方略を主に論述した。偕行社記事320号(明治36年8月)及び第321号(明治36年9月号)に掲載され、そのユニークな視点は際立ち、「今や冬季は休戦ではなく、戦い継続が常態」、「冬季戦いの原則的事項とその応用方略」等啓発書としての意義は高かった。

収集論文にも優等賞論文等から多く引用等され、収集論文が持つ陸軍の冬期訓練の参考(準拠)書作りに結果的に参画した。本来福島大尉が目指した冬季行動標準作りー第五連隊遭難で頓挫したーが形を替えたものであった。

以上から、為した事の意義は啓発と冬季訓練の準拠つくり(参画)の二つ。その意義は熟者としての評価に繋がる。それを齎したものは4つ、①今、やるべき、と信じる事に挑む。②潮流に乗り、目指していた処に近づく。③次への展望を拓く布石。④理解者立見師団長の存在。

一つ、今、やるべき、と信じる事に挑む

やるべきと信じる事に挑むスタイルには3つのパターンがある。

一つ目、制約の中で、やるべきを見出す積極性ー最善と創造

第三十一連隊の行軍隊は第5連隊遭難の陰に隠れ、福島大尉は自らの行軍について語ることをせず、沈黙した。偕行社記事308号(明治36年2月号)で本懸賞募集を知った福島大尉は即座に応募を決心した。答解は当然応募者が自らの体験を基にする事を前提としていた。八甲田山雪中行軍について語らない、で書く以上大きな不利はあったが、それなりの成算はあった。冬季行動標準の基になる戦い方の理念が野外要務令では示されていないので、そこを問題意識として降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響を考えて来た。誰よりも先に。

その成案は論文内容の肝ー①冬季戦は夜間と山地の戦いの原則に似たり、その克捷方略はこれこれ、である。②幾重にも重なる困難が特性であり、その克捷方略はこれこれ、である、ーにある。その肝は持論と正攻法の研鑽で積み上げてきたものであり、目の付け所の奇抜さを表している。同時に与えられた条件の中で自分がやるべきと信じる事に敢然と挑み、最善を尽くす。全軍の緊急課題に役立つと信じる事に、私心を捨て、結果を恐れず挑む姿の”体現”であった。

二つ目、前向き、俺がやらねば

この時期、弘前将校団のため、弘前偕行社に図書館設置の発起人として奔走し、設立に動く。

明治36年4月、図書館設置の儀を旅団長名で通報。図書館を弘前偕行社内に設ける事で偕行者幹事長閣下(立見師団長)の御認可を受け、在弘前各部隊将校にご協賛を得たい、との趣旨。

仏国では図書館なるものがあり、非常に有益、との報告にならい、地方衛戍将校の勉学研鑽の一助と為す。この為将校は各自俸給の300分の1を月々拠出し、これを1年半積み立て、明治37年中の完成を目途に、施設及び図書購入に充てる。

施設は偕行社の施設内とするか別に空き地に立てる。施設内なら、施設費が浮き、大部分図書購入に充てられるのでも申し分なし。図書館建設計画は工兵将校に依託、建築は軍隊「大工」自営。

揃える図書は一般軍事書類、戦史及び緊要軍事書、地図、兵器及び所要地図、在弘将校の作業書類、雑書・図画、外国図書・新聞雑誌、撃剣道具、軍以上緊要な器械、書籍棚・机・椅子・黒板等。なるべく出費が嵩まないよう偕行社等に協力依頼し、又将校の拠出を歓迎する。

師団長の認可をとりつけ、非常に高い志で将校は勉学研鑽の場が必要と前向きに発起人として動く。特に、初級将校時代の軍事参考書等の負担は並み大抵ではなかったので、初級将校が共有する形があれば有益、との思いが強かったのだ。

最初に賛同し行き足を着けてくれたのが永沼騎兵中佐。後に日露戦争で放胆な騎兵の敵後方擾乱作戦を敢行し、大きな成果を挙げた、人である。

写真(下、前景)は明治37年に建てられた弘前偕行社、現在は弘前厚生学院記念館内に現存。偶々3度目の青森(h24.9.20)訪問の際、弘前駅前の案内板で偶然目にして訪れた際のものである。


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偕行社内には図書室(写真下)が設けられていた。福島大尉の希望が尊重されていた訳でこれが確認出来たのは何物にも代え難い喜びであり、収穫であった。

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最後に、突然の訪問にも拘らず快く案内していただいた・・・氏に篤くお礼を申し上げる。又このように立派に保存運営して頂いている弘前市教育委員会と弘前厚生学院記念館に敬意を表したい。

三つ目、あるべきから外れ或いは為すべきを為さない、を悪む

あるべきから外れる、を許さなかったt旅団長への極諌(参照ブログ「論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」においてわれ虚名を釣らず その三、極諌ー分った!立見師団長の本心」)。為すべきを為さない、を許さなかった桂陸軍大臣来弘前時の営庭に於ける中隊教練(参照ブログ「八甲田山への道のりー基礎固めの中隊長勤務その一)。何れの行動も私心のない本気が特質である。前者は免職も覚悟するが、t旅団長は予備役編入、本人は御咎めなしの山形中隊長への転属、という結末。立見師団長は最後の最後で福島大尉への思いを露わにし、二人の関係は新たな次元に入る。本気が立見師団長の本心を引き出した。

後者は大臣視察を敬遠して営庭を避ける他中隊の動きに反発しての営庭訓練ではあったが雪国衛戍部隊に対する訓練不足の懸念を一掃した。私心の無い本気、何時でも即動し得る中隊を錬成している自信が桂大臣の安心と信頼を獲得し、新編直後にもかかわらず精鋭第8師団の旗を掲げる事、となった。

この3つのパターン、積極性・前向き・本気、に共通するものは今、やるべしと信ずるものが常に【・・・・の為に】となっている事。即ち【全軍・弘前将校団・第8師団の為に】なると信じるものを私心なく(一身を顧みず、失敗を恐れず)、人任せにせず追及する姿勢である。

二つ、想定していなかった潮流に乗り、目指していた処に近づいた

論文に応募するところまでは福島大尉の想定内。しかし、本人が気付かない潮流があった。それは応募論文を一本にしての収集論文作成の動き、である。偕行社の計画ではあったが参謀本部の検閲を受け、訓練の準拠としての性格を持つ。第五連隊遭難で頓挫した冬季行動標準作りに形を替えて関わり、目指していた処に近づいた。

やるべき、と信じるものを持ち続け、懸賞課題募集の機会に、第五連隊遭難の沈黙というハンデー(制約)を後ろ向きに捉えず、持論【冬季戦の原則的事項とその応用方略其の他】展開のチャンスとして、応募し、優等賞を受賞した。

全21編の力作は優等賞の表彰だけでは惜しい、と当局に思わしめ、第7師団に依頼して、参謀本部が検閲する収集論文作成の動きとなった。この中に福島所論や今回の福島論文は引用された。

この想定していなかった潮流、他力に乗れたものは①やるべき、と信じるものを持ち続け、②前向きに応募し、③時代にマッチした濃い内容の3つであった。

三つ、次への展望を拓く布石

論文の肝であるー①冬季戦の原則とその克捷方略②幾重にも重なる困難とその克捷方略ー以外にも陸軍参謀本部の目に留まった事がある。①露軍への深い関心と研究・調査②補遺で示した兵を護る視点である。

これが新しいうねり、となって福島大尉を直撃する。福島大尉の力作は本人は意識していなかったが、次への展望を拓く布石となった。この事は次稿からの論文『露国に対する冬期戦術上の一慮』の旅の中で触れたい。

四つ、理解者立見師団長の存在

立見師団長は陸軍参謀本部戦史室への招聘を断り、旅団長副官に補した。旅団長との確執、極諌問題に際しては事が明るみに出、陸軍省人事課が動くに至り、最後の最後で、福島大尉の肩を持ち、本心を表した。

その本心とは福島大尉はどうしても手放せない、の一事。その積極性は師団全般の訓練練度向上に波及し、その戦場働き、義勇は比類なし。

この気持を理解した福島大尉は今まで以上にやるべき、と信じる事に最善を尽くす。それが立見師団等の思いと合致し、二人の関係は新たな境地へと入って行く。

山形歩兵第三十二連隊中隊長への補職には大きな意味があった。

終わりに

本論文は福島大尉が人生で、二番目に為した事である。福島大尉が為(成)した事は冬季戦の原則と応用方略などの啓発提言及び冬季訓練の準拠つくり(参画)の二つであるが、もう一つある。それは参謀本部を動かす布石である。詳しくは次稿からの旅で触れたい。
この論文で、明治陸軍における特異な冬季戦(備)論者としてその名を広く知られるようになった。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩み その十三 八甲田山雪中行軍の総括(続き) [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート3]

二つ、”成しよう”からみえてくるもの

一つ目、目指したものの到達度

一番目、冒険行軍と研究調査、無事故の3つを想像を越える事態の中で3つともに達成した。

二番目、厳しい場を求め、未曾有の状況の中で行動したからこその成果があった。

最大のものは非常の困難の実相を深刻に体得した、事であった。一面の銀世界を猛吹雪下に行軍すれば目標の識別に苦労し、或いは道筋を捜し続ける難渋状態が長時間続く、長時間続けば怪我・疲労・凍傷という3つのリスクがより強くなる。そして一旦人里離れた場所で落伍者が発生すれば、救助に窮する2次リスクが現れる。危機の連鎖の恐さに抗し続けた。そのギリギリのところで、無事故を達成した。膝捻挫の為、大事をとって原隊復帰させた者を除き1名の落伍者も生じさせなかった。安全管理の究極のあるべき姿、と言っても過言ではない。

三番目、冬季行動標準に資する研究・調査の成果も多く得た。全ての隊員に研究・調査の任務を付与した。行軍にあえぎながら隊員は貴重な実資料を収集した。その資料を福島大尉自ら組み込んだ実施報告書は質の高いものであった。又ならではの経験をもとにした成果もあった。露軍の規定である、零点下12度になれば翌日の行軍をする、の本当の理由が猛烈な寒気により足元から凍傷を起こす、からを体得した。

四番目、冬季大陸で戦うビジョン、その戦いに備え大陸の酷寒に相当する山岳通過強行軍という訓練のビジョンを掲げ、実際に中央山脈や八甲田山に立った。猛吹雪・酷寒・深雪の中、強行軍や露営をして、その可能性や問題点を体得した。やれば出来る、を実証した。

五番目、見習い士官や下士中心の編成として、得難い経験を積ませ、来たるべき戦場で役立つ指揮官を数多く育成した。

六番目、未曾有の寒波の襲来は全くの予想外であった。戦場での予想外に対応する為、敢えて厳しい場を求めて来た事は間違いではなかった。全員うろたえたり、たじろいだりせず、務めを果たした。国難日露戦争ではこの経験がきっと役立つ、との確信を得た。

七番目、冒険行軍ではあったが、成功の目途と成算のある冒険であった。

八番目、目指した露軍に学び・並び・越える、は今回の行軍でその可能性が十分にあり、為せば成る、を証明した。この意義は大きい。これをばねにする事でより多くの隊員・部隊が学び・並び・越える、域に達し得る。

九番目、実行動と学理の吻合

実施報告において厳しい実行動で得た成果と正攻法で研鑽した学理をより高いレベルで吻合させた。

十番目、第五連隊遭難の”葛藤”がもたらしたもの

その”葛藤”の中で、成果を広く世に伝える、は諦めざるを得なかった。寧ろ潔く沈黙した。思考の中で大きな比重を占めたのは遭難者に対する追悼の思いと立見師団長の苦悩、第五連隊遭難の責任者としての苦悩への共感であった。私心なくそう思い、立見師団長と苦悩を共有する事で、二人の関係は新たな次元に入って行った。

第五連隊遭難で天皇陛下奏上は吹っ飛び、冬季行動標準提言は幻と化した。しかし、果たした成果は何時か活きる、活かして見せる、との思いを”葛藤”の中で自分に言い聞かせたに違いない。

二つ目、”成した”意義ー私の定義『誰もなし得ない偉大な業績(仮定)』の”偉大”を思う

”成した事”が偉大であるか否か、は①、周囲に与えた影響と惹き起こされた行動の強弱・大小の度合、②、①に伴う影響や行動の持続性、③、成した事から拡がる発展性等に拠り決まるのではないか、と思う。

しかし、第五連隊の遭難は日本中を驚愕のるつぼに放り込んだ。速やかに事態収拾、という国家の方針もあり、弘前行軍隊の偉業は完全に陰に追いやられてしまった。寧ろ、弘前行軍隊そのもののが邪魔な存在とすら言えたかもしれない。そういう訳で、きちんと向き合い評価した資料は無い。従って上記冒険行軍や研究調査行軍及び厳しい訓練と安全管理の両立の内容等について一般人が目にする機会もなかった。

しかし、福島大尉が残し、遺族が守り続けてきた遺品にはその貴重な手がかりがある。本ブログ旅で福島大尉に近づきたい思いで、生資料ならではの福島旅を行って来た。たら・ればも交えた考察ではあるが、私は①~③について、”偉大な業績”であると確信する。

国難日露戦争必至の情勢下、大陸での酷寒を見据えた行動標準作りの仕上げとしての八甲田山雪中行軍は大きなインパクトを与えるはずであった。何故なら当時の日本陸軍には野外要務令を始めとして、冬季の行動標準と呼べるものは無かった。従って福島大尉は戦史や諸外国の典令を調べ、行動標準の内容・要領等の実験項目を定め、これを大陸の酷寒に相当する山岳で実験した。この方式は陸軍でも試みられていない画期的なものであった。其の厳しさ、求める高さから全軍に広める価値と普遍性が認められるものであった。・・ので第五連隊遭難が無ければ、公表されたであろうし、公表されていたら何らかの改定などがされたはず。

厳冬期の八甲田山雪中行軍は未曾有の大寒波の襲来もあり、非常に困難な行軍であった。にも拘わらずそのプロセスや周到な取り組み等からフロックではなく必然の成功であった。これほどの厳しさの中で一人の犠牲者を出さなかった事も今に通じる安全管理の究極の姿であった。戦場での予想外を無くすという信念で敢えて厳しさを求めた姿勢は軍隊が本来持つべき姿そのものであった。これ等の成功は他の部隊が学ぶべき多くの教訓を含んでいた。・・ので第五連隊遭難が無ければ、公表されたであろうし、公表されていたら他部隊の訓練等にとりいれられたはず。

八甲田山雪中行軍の成功は一躍露軍に並び・越えるレベルにある事即ち日本陸軍の実力を証明したに等しい。・・ので第五連隊遭難が無ければ当然公表されたであろうし、公表されていたら露軍に対しては日本侮るべからず、国内に於いてはやればできるの刺激となったはず。

以上から①②③については公表されたらという前提ではあるが、大いに注目され、活用された、であろう。広い範囲でインパクトのある影響を与え行動を惹起して、今に語り継がれ、或いはもっと素晴らしい試みが出現していたかもしれない。

私は福島大尉が残した資料に目を通す度、その魅力に惹かれ、今の時代、とりわけ陸上自衛隊を中心とする社会に活かすべき内容に溢れていると強く思って来た。だからもっと福島大尉に近づきたい。福島大尉のなした事や人となりを知る人がもっと増えて欲しい、と思い続けて旅を続けて来た。

今に活かし、広く知られることは111年余を経て、福島大尉とそのなした事が当たり前に評価される事である。

三つ目、”成しよう”から見えてくるもの

”為しよう”の底流に潜み、一貫しているものは?について、事を為すの根本を”成しよう”からのアプローチで拾いあげたい。以下の五つが主な視点である。①自信と余裕、②志の深化、③福島大尉の自己研さんや軍務遂行の”流儀”、④篤い思いと私心のなさ、⑤理解者立見師団長の存在。

一番目、自信と余裕ー2つ同時追求を可能したもの

その一、自信と余裕を持って決断したその後の展開

福島大尉は八甲田山雪中行軍(冬季山岳通過雪中強行軍)実施報告の冒頭で、既往3年内の露営演習、実験行軍や研究調査は本行軍を”自信と余裕”を持って決断せしめた、と述べている。換言すれば一連の演習や実験行軍、研究調査に本気で取り組み、結果を出したので、本行軍を”自信と余裕”を持って決断できた、と言っている訳である。厳冬期に中央及び八甲田山脈を連続通過する、という前人未到の試み、の困難さは想像外。この想像外の困難の克服に”自信と余裕”がどのように発揮されたか、を見て行く。

その二、2つの同時追求

冒険的行軍に挑みつつ研究調査を完遂する事と一人の犠牲者も出さない、の2つを同時に追求した。前者は高いレベルを目指しとことんの準備で、後者は危険見積りをとことん行う事でその必成を期した。”自信と余裕”がここまでの凄味を齎した。

その三、先見と余裕

”自信と余裕は”常に先を見る目線と余裕を齎した。特に最悪事態の露営の場面で、自らは疲労・不眠の極に在りながら、隊員を一人たりとも眠らせないよう目を光らせる余裕があった。又常に先を見て手を打つ余裕もあった。即ち長内文治郎宅の捜索隊派遣の決心がそうであった。お助け小屋発見となり、極限の49時間不眠行軍を支える、窮地を救う貴重な休養を齎した。

『成せるか否か不明のなかで事を為す』決断をする際の”自信と余裕”の大切さを物語る貴重な教訓である。

二番目、志の深化ーチャンスを掴み、次の課題を見つける道しるべ

今やるべきと信じ、出来る事を追求する姿勢が志の深化となって表れている。

士官任官直後の志は野外要務令体現の第一人者になる、であった。その努力の過程で次項とも関連するが台湾勤務で立見参謀長と出会い、意見具申する前向きな将校の印象を与える。それが立見中将の第8師団長着任時、弘前連隊中隊長に指名、に繋がる。後の八甲田山雪中行軍の舞台にたてるチャンスを掴むがここで志を深化させ、冬季行動標準策定という次の課題を見つけ、歩一歩とその実現に向かって進む。深化した志はやるべきと信ずる事を追求する道しるべとなった。そして行軍間に次の課題も見つける。研究調査すべき事項の1番目『降雪及び積雪の戦術上及び休養上に及ぼす影響』がそうである。後の偕行社が募集する懸賞課題論文の先取りであった。

チャンス即ち運を呼び込むのも次の課題をみつけるのも志在ればこそ。志ある所、道は拓ける。深化する志に運もまた深化する。

三番目、福島大尉の自己研さんや軍務遂行の”流儀”-持論と正攻法研鑽へのこだわりが成長・進化の原動力

士官任官以来持論を持ち、その持論を大言と言わせない為に努力し、物事すべてに正攻法の研鑽を拘った。 初めての冬季課題作業(明治25年12月付与、明治26年3月提出)で『大言を吐くな、余計な事を書きすぎる』と批評された。これがなにくその思いと共にそう言わせない人物になる、決意をさせた。爾後の研鑽等の原点となる終生忘れ得ぬものであった。

八甲田山雪中行軍に挑み成功させることで今までの持論や言動が大言ではないと言わせて見せる、との気概があった。任官以来続けて来た戦術・戦史研鑽に加え諸外国典令や格言を調べ、雪中行軍で試すべき項目を抽出し、且つ其の内容(策定すべき行動標準の項目とその基準案)を定め、それを実験した。実行動と学理の吻合の仕上げが今回の行軍であった。

持論と正攻法のこだわりは福島大尉の”流儀”であり、成長・進化の原動力であった。

四番目、篤い思いと私心のなさー人間力の核心であり、共動の核心

隊員との間では福島大尉の為すべき事や赤心などの篤い思いと私心のなさが十分伝わって共動の域に達した。田代までの約束であった嚮導がお助け小屋出発に際し、福島大尉の篤い思いと私心のない説得に応じ、青森迄同行する事に決し、以前同様先頭に立って道案内した。立見師団長は福島大尉に任せて、思いっきり活動させた。福島大尉の篤い思いと私心のなさを熟知していればこその援助であった。人間力や“共動”の核心であった。

五番目、理解者立見師団長の存在ー同志が居て、”事が出来た”

今までにも度々触れて来た。弘前中隊長への補職は立見師団長が指名したものであり、この指名で福島大尉の志は深化し、目指すものが具体化した。雪中露営演習、一連の実験行軍等の皮切り、では師団長は写真師を差遣し、成果を軍事雑誌に掲載する労を厭わず、次々によりハードルを挙げる福島大尉の挑戦を受け止め、愈々八甲田山の局面では背中を押して同地に立たしめた。八甲田山雪中行軍ではうまく成功したら天皇陛下へ奏上と励まし、構想段階からすべてを任せ、思いっきり活動させた。理解者と云うよりは寧ろ同志の仲と云う表現が適切に思える。

終わりに

八甲田山雪中行軍で福島大尉が為し、成した事は立見師団長と云う理解者を得て、冬季大陸で露軍に勝つ冬季行動標準作り、であった。その為全軍の先頭を歩み、八甲田山に立つ途を自分で切り拓いた。そして厳しい場を求めそこに身を置きながら無事故も達成する,という誰もなし得ない偉大な業績を打ち立てた。

残念ながらその事実を正確に知る人は少ない。私の知識は半端であり、見方や考え方も偏りがある。しかし、111年余の時を経て、一人でも多くの人が福島大尉やその業績などに興味や関心を持ち、正当な評価をする。私の旅がこの道筋を拓く事に少しでも役立てば望外の幸せである。

為(成)した事で私が確実に言える事は厳冬期山岳通過雪中行軍の成功で大陸での国難対露戦、酷寒克服はやれば出来、而も無事故で、を行動で示した。そして陸軍内外において、一廉の人物として、雪中行動第一人者と認められた事である。

この稿終わり
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熟者《事を為すリーダー》福島大尉への歩みーその十三 八甲田山雪中行軍の総括 [福島大尉の実行力を訪ねてー愈々八甲田山パート3]

始めにー切り口

八甲田山雪中行軍を事を為す(成す)視点即ち塾者《事を為すリーダー》へ繋がったものを拾う事で、総括したい。

本稿はブログ「八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその一馴致」~「八甲田山雪中行軍ー非常の困難を思うその十一 伝えたかったものその三(終わりー何故公表したのか?)」及び「八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその一先ずは”実行力”の再整理」~「八甲田山雪中行軍におけるリーダー福島大尉の実行力ーその十五”山場”を越えて、意を強くした事(続き)」に対応させている。

切り口ー想像を越える厳しさを克服し無事の帰還をもたらしたものは?

元々厳冬期連続山岳通過は誰も試みた事のない、冒険的要素の強い前人未到のものであった。これに加え、厳冬期の中央山脈に於いては地形が、八甲田山に於いては気象の険しさが想像を越えていた、加えて行軍間に青森県のみならず全国を襲った未曾有の大寒波も又想像を越える険しさであった。それらの複合した想像を越える険しさを克服できたものは何か?を切り口として、その”為しよう”と”成しよう”の両面から、塾者《事を為すリーダー》に繋がるものを見出したい。

一つ、 事の”為しよう”から見えてくるもの

一つ目、高見を目指し、厳しい場を求める確固不動の信念

全軍の冬季行動標準の策定が自らに課せられた義務と捉え、遥かな高見を目指して、高い練度と真の研究成果が得られる厳しい場を求め、階段を一歩又一歩と上がって来た。

厳しい訓練で予想外の厳しさや困難を克服する経験は戦場での予想外を無くす。だから天気の良い日の行軍などはくその役にも立たない。望むは厳しさ、かって経験した事のない厳しさこそ望む処。だからと言って犠牲者はもっての外。厳しさと安全の同時追求が至高の課題。

厳冬期の山岳通過行軍は大陸での酷寒で戦う国難日露戦争に勝つ、真に役立つ部隊とするための名誉ある先陣であり、必ず成功させ、露軍に学び・並び・越えるを果たす。

二つ目、確かな構想

凡てを任された福島大尉は目途(めど)とそれを補強する、が噛み合った構想の確立・具現・準備・実行を一途の方針で貫いた。

一番目、予想される非常の困難に打ち克って任務を達成する目途(めど)

岩木山終了後の早い段階から、八甲田山雪中行軍は「疲労による落伍者を出さない為、睡眠と休養と労働のバランスを取った行程とし、隊員に増加の負担を負わさない村落露営」とすれば(2本の屋台骨)出来る、と目途を持っていた

二番目、目途(めど)を補強する構想

少数精鋭編成、東北の冬を熟知する隊員を選抜、嚮導を全経路使用、疲労させない行軍法の採用等を補強し、目途を成算に変えた。

三番目、福島一任

編成・構想・計画・準備等の凡てを任されて思うように事を進めた。その大元に自らの問いかけで八甲田山の扉を開け、成功すれば天皇陛下に奏上すると励ました立見師団長の有形無形の援助・指導があった。

極致・修羅場では強いリーダーが不可欠である。唯強いだけではない。福島大尉は先を見て深く読み、明確な方針・構想を持って準備し、事に臨んでは良く決心できる強いリーダーであった。立見師団長は唯一の任されるものに本気で凡てを托した。ここまで立見師団長の心を掴んだ福島大尉の研鑽や軍務遂行の”流儀”にも注目したい。

任されて一途の方針のもとに準備し、リーダーが持てる全能力を発揮出来た事もまた想像外の事態を乗り切る要因の一つである。

三つ目、非常の困難に挑む4つの周到な準備

一番目、疲労を持ちこさないで身軽に行動する、を狙い、労働と休養と睡眠の調和された行程と村落露営を構想全般の基盤(屋台骨)とする準備。

二番目、・・・にも拘らず疲労の極で、長丁場の終盤に最大の難所八甲田山越えとなる。ここの乗り切りを最大の課題とした全般構想を具体化する準備。現地に詳しい少数精鋭編成で全経路部外の嚮導(八甲田山は7名、その他の区間は1~2名)を確保する等。

三番目、・・・・その八甲田山越えでは、万一の露営、最悪事態を予測してこれに本気で備えた準備。万一の場合だから、と手抜きせず、露営施設構築法を確立し教育を徹底する事や器材の携行分担を定めるなどの準備を周到にした。寒風・酷寒・吹雪の田代台では行軍に難渋し、終に夜間、露営を決心せざるを得ない状況に陥った。しかし疲労困憊にも拘らず、全員心を合わせ、円滑に露営へ移行し、最悪事態を無事乗り切った。

四番目、全行程を覆う非常の困難は凍傷(死)・疲労・転落等による怪我(死亡)の厳しいリスクを伴った。これを最大漏らさず見積り、対処を全うする準備を行った。

とことん(隙のない質の高い)と大観小察の準備が強く印象に残る。特に大局観(疲労のピークで難所八甲田山越え)に基づいた努力指向を適切にしその準備のレベルの高さ(岩木山を越える困難に対応できる準備)が想像外の事態に堪え得た要因の一つである。

四つ目、非常に困難、予想外であった行軍を成功させたもの

一番目、総論

前人未踏に加え未曾有の大寒波襲来の中での厳冬期山岳通過は非常に困難であった。その非常の困難の本質は中央山脈では地形の険しさが八甲田山では気象の険しさが齎したもの、であった。

中央山脈通過では連山地が齎す地形の険しさから、降雪・積雪に方向や道を誤り危点に迷い込み、足もとを誤って、転落する危険と隣り合わせであった。この為の慎重さが特に求められた。

八甲田山の険しい気象は田代台行軍では目的地に行き着かず、隷下11度の最悪の露営の、八甲田山越えでは49時間の不眠行軍、道筋を探し続け、不眠・疲労の極限行軍の、止む無きに至らしめた。

以上の非常の困難、想像外を克服するのに一番預かって余りあったものは嚮導の働きと福島大尉のリーダーとしての力量及び全員の”共動”。リーダー力の発揮に最も特徴的であったのは先見性と4つのリーダー力個々のレベルが高く、それらが有機的に結合していた点である。

二番目、嚮導の働き

全経路地元の嚮導を使用した。特に増澤から田代間は7人の嚮導で行軍。嚮導は高地を敢えて進み、強い北風を身体で受け、身体で方向を感じて、一面の雪世界の原野の道案内をした。露営間、軍人は露営地に残り、嚮導7名中、5名のみで暗夜・吹雪をついて捜索に出発、空き小屋を発見して戻り、全員移動して休養。この休養で隊員は力を得て累計49時間の不眠行軍に堪え、八甲田山を無事越えることが出来た。当初田代までの約束であったが、空き小屋での休養間に青森までの同行に決し、以前と同じように先頭に立った。険しい山岳気象に悩まされながら、雪の下の道筋を求めて、終始嚮導7人は先頭に立った。先頭は2人一組の3交代で、雪踏みを行い、一人は道案内を務めた。一人の故障もなしでローテーションを守り、大きく道筋を外れる事も無かった。危険を避ける為道筋探しは慎重にならざるを得ず、長時間を要した。疲労・不眠・動作緩慢等の進行は避けられない行軍であったが、嚮導7名は成功の立役者であった。

吹雪・深雪の中での先頭に立っての雪踏みは体力を消耗し、3交代制で休養し、疲労を回復するローテーションがなかったら道案内は間違いなく頓挫したであろう。その外、田代台上、吹雪で視界が効かない雪世界の原野で、身体で風を感じ、方向を判断した道案内、空き小屋での休養に繋がった露営間の捜索行動、青森まで延長しての従前同様の道案内など、どれか一つ欠けても行軍の成功はおぼつかなかった。

福島大尉は行軍様相を深読みし、増澤から田代間の嚮導は特別に多数が必要と判断した。増澤から田代間の嚮導は文書郵送の依頼とせず下士官に携行させ、直接手渡しさせ、渋る地元の協力を引き出した。これも又想像外の事態を乗り切る大きな要因であった。

二番目、福島大尉のリーダー力

その一、先見性と実行力

誰よりも時代の先を見て、戦いと訓練のビジョンを持ち、一連の演習や実験行軍を積み重ね、終に八甲田山に立った。非常の困難を予測し、様相を深読みして、地元出身者で編成し、部外の嚮導を全経路(増澤から田代は7名)に配し、十和田湖断崖道通過が最も難所と見ぬき、舟行の準備を行い、万一の最悪事態である田代台での露営を予測し、これに本気で備えた。

行軍間に於いても、目前の事象にのみ捉われず、常に誰よりもその先(次)を見据えていた。露営間には隊員を休ませるため、休憩所を捜索させた。お助け小屋の休憩間、田代までの約束であった嚮導を青森まで同行するよう説得した。

①時代の先をよんで、一人挑み道を切り開く。②事態の推移を深く洞察し、先行的に手を打つ。③極限で次を見据え、手を打ち、全員の心に灯りをともす。以上3つの先見が心を打つ。

3つの先見に深くかかわる実行力も又リーダー福島大尉ならではの際立った資質である。①に対応して思いを形にする。②に対応して先行的にとことん手を打つ。③に対応して迷いなく決断する。以上3つの実行力も又心を打つ。

リーダーの先見性と実行力は想像外の事態乗り切りの大きな要因である。

その二、4つの力の有機的結合

最悪事態の露営決心~構築作業では4つの力の関係を指揮力に他の3つの力が収斂された形で見ることが出来る。田代台の行軍に難渋し、目的地に行き着かず、嚮導も根をあげたので、枯れた大木の周りに露営地を選定し、露営を決心し命じた。隊員は3ヶ組に分かれて作業を分担した。1組目は薪炭に充てる枯れ木を伐採収集し、2組目は半径4m・深さ2mの雪洞を構築し、3組目は火を焚きつけた。各人は出発時から万一の作業分担に応じられるよう所要の器材を携行していた。施設を2時間で概成し、露営に入った。同じ場所に同じ姿勢で居る事は凍傷(死)に直結するので、一人たりとも座らせない・眠らせない為、3つの組に分けた。1つは施設内で露営し、1つは薪炭材を収集し、1つは施設の外で足踏みした。

指揮者としての働きはこの決心・命令に凡て包含されている。

管理者としての働きは露営を最悪事態と考え、要訣は側方からの風雪を防ぐ現地の雪だけで造る施設と見極め、露営施設の規格及び構築手順を明らかにし、予め器材の携行担任を示した露営(準備)管理等に明らかである。

指導者としての働きは命令後2時間で構築を完了し、露営間一人の睡眠者・凍傷患者を出さなかった練度の高さに表れている。八甲田山雪中行軍に先立ち、露営施設構築法を事前に確立徹底し又露営間の心得について事前及び露営間の指導よろしきを得たからである。

統御者としての働きは疲労困憊にも拘らず、全員が心手期せずして、一糸乱れず動く域にあり、露営間も睡眠し或いは援けを要する疲労者に一人もならなかった。緊張の緩む者が皆無であった事を以て明らかである。福島大尉が最悪に本気で取り組み、常に率先陣頭の姿から隊員は指揮官に対する信頼と任務必成の執念及び落伍者にならない慎重さ等良好な感作を受けた。

指揮者の決心処置を他の3つの働きが可能ならしめている。指揮者に他の3つが収斂し、有機的に結合している形をこの露営決心の局面に見ることが出来る。

その三、4つの個々の力の卓越

その(一)、 指揮者
         
福島大尉は豪胆にして冷静・細心な指揮者である。         
①宇樽部では、23日夜半に未曾有の大寒波が襲来し、土間で蓆にくるまりまんじりともしないで過ごした。その翌朝、寒波が続き、全員が今日の行軍は取りやめ、と信じた中で、一人出発を命じた迷いのなさ。

②27日田代台行軍で、大中台を過ぎて、天候急変、嚮導も引き返しを勧めた。しかし「ここまで来たら引き返すも行くも変わらない、覚悟を決めて前進せよ」と続行を命じたたじろぎの無さ。

③28~29日疲労・不眠・空腹の極致で、ひたすら歩き続けるしかない、に堪え、且つ疲労者を励まし、幻覚に多くの者が陥った中で一人冷静に状況を判断し喝を入れ、暗夜吹雪の中で、嚮導が度々道を誤った際にも決して落胆せず、終始地勢判断をして方向を示した、皆の中心に居て不可欠の存在感、毅然さ。

④露営間の長内文治郎宅捜索隊派遣の決心に際し、綻びを未然に防ぐ為、部外の嚮導7名の内、2名と荷物を全部残置させ、残る5名を派遣した事や摂氏零点下12度にまで気温が下降しないかどうかに関心を持ち、若しそうなった場合に惨たる露営よりは行軍開始を選択せんとした細心さ。

⑤29日、田茂木野到着時の木村少佐への報告に見せた沈着・冷静さに驚く。発見した凍死体や2丁の銃について、その事態の意味を理解できなかったとした上で、発見場所や状況などを冷静に報告し、尚爾後の行動予定についても伝え、行軍続行の姿勢を示しながらも指示を受ける(捜索救援に協力する)心配りも見せている。49時間の不眠・疲労困憊の中とは思えない冷静さである。

その(二)、管理者

上記指揮者の豪胆にして冷静・細心な働きを可能にしたのが管理者としての働きである。

管理者としての働きは冬季行軍そのものの管理、行軍部隊の管理、参加する隊員の管理、業務の管理(準備・危機・安全・健康衛生)等々多岐に亘る。何れも現状の問題点等を把握し、その対策や改善・向上策を講じて任務達成上のあるべき姿に限りなく近づける努力をしなければならない。それも限られた時間で・・・。福島大尉はこれらの一つ一つを丁寧に執念を持って行い、自信と余裕を持って、指揮者としての働きをサポートした。

特に3つのリスク(凍傷(死)・疲労・転落等の危害)の具体的危険見積りは指導者としての働きと相まって全員の危険箇所・状況に於ける自覚した注意深い行動に繋がった。

その(三)、指導者

指導者としての働きも又上記指揮者の豪胆にして冷静・細心な働きを可能にした。それも、現地でのと云うよりは管理者と同じような事前の働きによるところが大きい。

指導者は冬季山岳行軍を成功させる為、隊員や部隊としての能力の現状や問題点等を把握し、指導方針を確立して指導し、任務達成上のあるべき姿に限りなく近づける努力をしなければならない。それも限られた時間で・・・。そこに少数精鋭で将来の指揮官候補者である見習い士官や下士を選抜した効果が出てくる。

前述の3つのリスク(凍傷(死)・疲労・転落等の危害)発生について、場面と結果の深刻性などを理解させ、又最悪事態の露営移行ではそれに加え、構築施設の規格や構築手順などを指導徹底し、万一だからそこまでしなくても・・・等という緩んだ(横着な)気分を一掃した。

現場で、指導は殆ど確認程度、常に率先陣頭であった。その変わらぬ姿は自らがやらねばの意欲と福島大尉がそこにいる安心感・手を抜いてはならない緊張感を与え続けた。

この八甲田山でも次のリーダーを養成する、過去の一連の行軍でも行ったように、場として活用した。即ち見習い士官や下士主体の編成とした。彼の持論の教育方針である、直上位を行なえる力を着けさせる、を修羅場でも貫いた事に単なる結果(成功)に拘らないリーダーとしての器の大きさを感じる。
        
その(四)、統御者

全軍の為を私心なく、実践して一歩一歩実績を出してきた。そのバックボーンである旺盛な使命感や責任感と隊員を護る情熱、は隊員の心をうち、福島大尉と共にやりたい、と思わしめるようになっていた。

リーダーの自信と余裕は無謀とも思える行軍であるにもかからず福島大尉が早い段階で成功の”目途”を掴んでいた事と周到な準備特に危険見積りの徹底によって、隊員にも伝搬した。

隊員は疲労の極に於いてリーダー福島大尉にとても叶わないという畏敬の念と安心の思いを持った。

三番目、共動

福島大尉は周到な準備をし、難局では豪胆にして冷静・細心に指揮・行動した。露営間に捜索隊を派遣する等常に誰よりも先を見て手を打った。疲労の極の49時間の不眠行軍の間、常に率先陣頭であった。
隊員はリーダー福島大尉の意の如く動いた。命令指示通りと云う意味に止まらず、慎重に行動すべき時には慎重に、寝てはならない場面では不眠、倒れてはならないならない場面では倒れなかった。現場で福島大尉が口やかましく指導する姿は無かった。

以上から、リーダーと隊員は一方的な上下関係でなく、共に事を為すという意識を持つ”共動”の域にあった。

心を一つにして各々が自分の役割を積極的に果たす。言うは易くして行うは難し。これを実現した福島大尉の人間力に敬服。一人一人の力の和にプラスアルファーを作りだした。そのプラスアルファーが想像外の事態を乗り越えさせた。

以下次稿に続く
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